出エジプト記19章 「神の山の前で」


アウトライン

1A 神の民となる契約 1−6
2A 主の顕現 7−25
   1B 三日間の準備 7−15
   2B 震え上がる光景 16−25

本文

 出エジプト記19章を開いてください。ここでのテーマは、「神の山の前で」です。イスラエルの民が、神の山ホレブに到着したところを学びます。

1A 神の民となる契約 1−6
19:1 エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の月の新月のその日に、シナイの荒野にはいった。

 時は第三月です。イスラエルがエジプトを出たときのことを思い出してください、その時は第一月の十四日、過越の祭りでした。その日の次の日から五十日数えると、五旬節の祭りがあります。そこでユダヤ人の人たちは、五旬節の祭りを律法が神から与えられた日としてお祝いします。私たちキリスト者は、聖霊が五旬節の日に降って来られたので、そのことをお祝いします。

19:2 彼らはレフィディムを旅立って、シナイの荒野にはいり、その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山のすぐ前に宿営した。

 五十日後に、シナイの山のふもとに到着しました。覚えているでしょうか、モーセはこの山で燃えている柴を見つけ、そこに主が彼に臨まれました。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。(3:6)」と言われました。アブラハム、イサク、ヤコブに約束を与えてくださった神が、今、モーセに近づいてくださったのです。また、「ここに近づいてはならない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。(3:5)」と言われました。神が近づいてくださったので、神の聖さが明らかにされたのです。神は聖なる方で、人は罪があり汚れています。ですから神が近づかれるとき、距離を置かなければいけませんでした。

 
モーセは主から、「あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。(3:12)」と命じられましたが、今こうして戻ってきたのです。そして、モーセがこの山で仕えるのは、だいたい一年間です。実にここ出エジプト記19章から、レビ記全部、そして民数記10章まで、シナイ山のところでモーセが神から授かった戒めについて書かれています。

19:3 モーセは神のみもとに上って行った。主は山から彼を呼んで仰せられた。「あなたは、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。モーセが神から聞くために、山に上りました。19:4 あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。

 主がイスラエルについて、お語りになっています。イスラエルが、わしの翼に載せられたようにして、ここシナイ山のところまで主が彼らを連れてきてくださいました。わしがひなを巣立ちさせるとき、母親は面白いことをします。母親のわしは巣を揺さぶって、ひなを巣から追い出します。ひなは、その翼を一生懸命羽ばたかせますが、もちろん最初は上手くいきません、それで地面に落ちていきます。そのとき、母親のわしは落ちていくところまで飛んでゆき、自分の翼の上にひなが落ちてくるようにさせ、ひなを翼に載せるのです。このように飛ぶ訓練を子どものときに受けて、わしはようやく独りで飛べるようになります。

 イスラエルも同じです。彼らは、ヤハウェなる方が自分たちの神であることを知るために、自分たちの力が尽き果てるようなことを、ヤハウェは許されました。エジプト軍が彼らを追い詰めるようなことをされました。また、飲み水、食べ物も、この方が主であることを知るために、すぐには与えられませんでした。彼らが自分で主にあって立つことができるためです。

19:5 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。19:6 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。

 主が彼らが約束の地にそのまま行かせるのではなく、わざわざ遠回りをしてシナイ山のところまで来させたのは、彼らがここに書かれていることを知るためでした。それは、イスラエルが神の所有の民となるためでした。もしエジプトから救われるだけであったなら、あと自由に自分で生活をすれば良いのです。けれども神がイスラエルを贖われたのは、自分のために生きていくようにさせるためではありません、神のものとなるためです。そのために、主はイスラエルに、自分たちが聖なる者として生きるように教えられます。「聖なる」の意味は、もともとは、「分離されて、区別される」という意味です。ある用途のためだけに、別けられるという意味です。聖書は、あらゆる書物のから、神に属することばとして区別されています、だから聖なる書物、聖書です。同じように、イスラエルが、神の所有の民となるのです。

 むろんこれは、キリスト者が罪から救われて、歩むところの道です。私たちが救われたのは、天国行きの切符をもらって、天国に行くまでの間、自分の好きなことをするためではありません。今までは肉の欲望や罪に仕えていたけれども、これからは神に仕え、神の奴隷として生きるために救われました。パウロがこう言いました。「あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。(ローマ6:16-18

 神はイスラエルと契約を結ぼうとされています。「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら」とあります。これが、今私たちが手にしている「旧約聖書」の旧約、古い契約と呼ばれているものです。もちろん、新しい契約が与えられたから古い契約と呼ばれているのであって、当初は彼らにとって新しい契約でした。

 ここで大事なのは、「まことにわたしの声に聞き従い」とあることです。神が以前、アブラハムに契約を結ばれたとき、アブラハムは神が言われることを聞き、それを信じて、また従いました。彼の信仰が、従順によって現われていました。ここの契約もその延長線上にあります。大事なのは、神を信じることです。子が親を信頼しているように、神に人格的な信頼を寄せて、その言われることをその通りであると受け入れ、従順になることです。その結果として、行ないの実が結ばれます。

 アブラハム、イサク、ヤコブだけでなく、モーセも同じようにして、信仰によって神に近づいています。主と人格的な、個人的な会話をしています。そして主が命じられたことを、人格的に受けいれ、そしてそれを行なっています。紙面に書かれた規則にしたがうようにして、神の戒めを守っていたのではありません。ですからヘブル人への手紙11章には、モーセが信仰によって生きたことが書かれているのです。けれどもイスラエルの民は、神を人格的に知ることがなかった、つまり神を信じていなかったので、その語られることばが、単なる規則のようにしか聞こえなかったのです。

 そして聞き従う結果として、「すべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる」と神は約束されました。この約束もまた、アブラハムへの契約の延長です。「すべての民族は、あなたによって祝福される」と主が約束されたことの延長です。イスラエルが祝福されることは、彼らの自己満足のためではなく、すべての国々の中で光となるためであり、他の民族がこの方が主であると認めるためでした。けれども後にイスラエルにとって、神が、自分を求めるためだけの手段としての存在となってしまい、宣教の使命を失ってしまいました。クリスチャンも、宣教の使命を忘れたらそのようになってしまいます。

 そして、イスラエルが「祭司の王国」であると書かれていますが、祭司は前回話しましたように、神と人を仲介する人のことです。イスラエルを見て、神がどのような方かを人々が知るようになるため、また人々のためにイスラエルが神に執り成しをするためです。これはもちろん、キリスト者にも与えられている約束であります(黙示1:6)。私たちが常日頃から、神を知っていただくように人々に仕えている、ミニストリーを行なっているのです。

2A 主の顕現 7−25
1B 三日間の準備 7−15
19:7 モーセは行って、民の長老たちを呼び寄せ、主が命じられたこれらのことばをみな、彼らの前に述べた。19:8 すると民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。」それでモーセは民のことばを主に持って帰った。

 先ほど話しましたように、イスラエルが神との契約に同意しているのは、イスラエルが本当に神を知っているからではありません。「主が仰せられたことを、みな行ないます」と言っていますが、イエスさまは、誓ってはならないと言われました。「はい」は「はい」であり、「いいえ」は「いいえ」です。信仰を持っていたら、「行ないます」と言わなくても、自ずと従っています。

19:9 すると、主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしは濃い雲の中で、あなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞き、いつまでもあなたを信じるためである。」それからモーセは民のことばを主に告げた。

 主がイスラエルに現われます。黒雲の中に現われますが、それは彼らが主の声を聞いて、主を信じるようにさせるためです。今いったとおりです、彼らは主をまだ個人的に知らなかったのです。モーセは、先ほどから仲裁的役割を果たしています。民の言葉を主に告げ、主のみことばを民に告げます。モーセが神のところに行けるわけは、彼が信仰を持っているからです。信仰によって神に近づいています。彼らも神を知らなければいけなかったのです。

19:10 主はモーセに仰せられた。「あなたは民のところに行き、きょうとあす、彼らを聖別し、自分たちの着物を洗わせよ。19:11 彼らは三日目のために用意をせよ。三日目には、主が民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られるからである。

 主が近づいてくださいます。そのときに彼らは自分の着物を洗って、きよめなければいけませんでした。彼らは目に見えるかたちで、聖別されるとはどういうことかを学びました。神が聖なる方であるから、自分たちも汚れを取らなければいけません。これはもちろん、内側からの聖別を意味しています。イエスさまは、外側からのものはトイレに流れるだけだ、人を汚すのは心から出てくる、嘘、好色、殺人などだ、と言われました。ただキリストの血によって、また神のみことばによって私たちの心はきよめられます。

19:12 あなたは民のために、周囲に境を設けて言え。山に登ったり、その境界に触れたりしないように注意しなさい。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。19:13 それに手を触れてはならない。触れる者は必ず石で打ち殺されるか、刺し殺される。獣でも、人でも、生かしておいてはならない。しかし雄羊の角が長く鳴り響くとき、彼らは山に登って来なければならない。

 民と神の間に、境が設けられました。彼らが境を越えたら、ちょうど高電圧の電線を触ってしまうように、すぐに殺されてしまいます。それは、主は聖なる方であり、人は罪ある汚れた者だからです。

 私たちは、時々、神を軽々しく考えてしまいます。イエスさまは確かに近しい方ですが、自分が行なっている罪をも見逃してくださる方のように考えてしまいます。けれども、そうではないことを律法は教えてくれます。「ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。(ローマ7:12」とパウロは言いました。律法によって、何が聖なることで、何が正しいことで、何が罪であるかを知ることができ、律法の知識によって、神との交わりの回復を、もちろんキリストの血潮によって行なうことができるのです。

 ですから神は聖なる方です。天に入るには、神のように完全でなければいけないと、主は言われました。その方が今、シナイ山に降りて来られます。ですから、境を設けなければいけませんでした。

19:14 それでモーセは山から民のところに降りて来た。そして、民を聖別し、彼らに自分たちの着物を洗わせた。19:15 モーセは民に言った。「三日目のために用意をしなさい。女に近づいてはならない。」

 「女に近づいてはならない」とは、必ずしも不品行のことではありません。自分の妻との性的な営みを控えなさい、という意味です。夫婦の肉体関係が罪であるとか汚れていることではありませんが、着物を洗濯するように、外側の行ないによって、内側の聖さを示すためです。

2B 震え上がる光景 16−25
19:16 三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。19:17 モーセは民を、神を迎えるために、宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。19:18 シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。

 ものすごい光景ですね、角笛の音が鳴り響いていますが、私はこれは御使いによるものだと思います。黙示録の中に、御使いがラッパの音を吹き鳴らしていること、また使徒行伝のステパノの説教の中に、律法が御使いを通して与えられたことなどが書かれています。天におられる主がこのように現われたとき、御使いをともなったと考えられます。

19:19 角笛の音が、いよいよ高くなった。モーセは語り、神は声を出して、彼に答えられた。

 山の上でしていた神とモーセの会話が、今、イスラエル全員が聞き取れるようになっていました。

19:20 主がシナイ山の頂に降りて来られ、主がモーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。19:21 主はモーセに仰せられた。「下って行って、民を戒めよ。主を見ようと、彼らが押し破って来て、多くの者が滅びるといけない。19:22 主に近づく祭司たちもまた、その身をきよめなければならない。主が彼らに怒りを発しないために。」

 モーセが山の上にいるあいだに、イスラエルの民は自分たちも上っていこうとしていたようでした。

19:23 モーセは主に申し上げた。「民はシナイ山に登ることはできません。あなたが私たちを戒められて、『山の回りに境を設け、それを聖なる地とせよ。』と仰せられたからです。」19:24 主は彼に仰せられた。「降りて行け。そしてあなたはアロンといっしょに登れ。祭司たちと民とは、主のところに登ろうとして押し破ってはならない。主が彼らに怒りを発せられないために。」19:25 そこでモーセは民のところに降りて行き、彼らに告げた。

 主は、注意して彼らが上ってこないように、モーセに指導を与えておられます。そしてこれから、主はイスラエルの民に聞こえるように、十戒を授けられます。十戒の内容は次回お話したいと思います。

 こうして主がイスラエルに近づいてくださいました。イスラエルは近づこうとしましたが、とにかく、ものすごい光景ですね。黒雲、稲妻、雷、角笛の音、地震などです。主が聖なる方であることがここによく現われていますが、新約聖書にて、律法が授けられたところのシナイ山と、もう一つの山、シオンの山について対比がなされているところがあります。

 ヘブル人への手紙12章を開いてください。ヘブル人への手紙はもちろんユダヤ人に宛てられた手紙です。イエスさまを信じたのだけれども、迫害のためにユダヤ教に戻ろうと考えている人たちがいるところで、出された手紙です。そこで著者は、古い契約が与えられたシナイ山と、新しい契約によって約束されているシオンの山を比べています。18節からです。「あなたがたは、手でさわれる山、燃える火、黒雲、暗やみ、あらし、ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。彼らは、『たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない。』というその命令に耐えることができなかったのです。また、その光景があまり恐ろしかったので、モーセは、『私は恐れて、震える。』と言いました。(18−21節)」今まさに読んだところを説明しています。シナイ山は恐れて、震え上がる山でした。

 けれども22節以降を読んでみましょう。「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。(22−24節)」シオンの山とは、聖書の最後、黙示録20章、21章のところに出てくる山です。天から降りてくる、新しいエルサレムのことです。あの栄光、あの輝きを思い出してください。そして、すべての苦しみ、死、叫び、恐れがもはやなくなっている、という宣言を思い出してください。そして、そこは恐れ震えるのではなく、御使いといっしょに大パーティーを持っているところです。神ご自身がそこにおられます。これらのことを可能にするのは、すべて、新しい契約の仲介者であるイエスが、ご自身の血を御座にお注ぎになったからです。

 私たちは、旧約時代のイスラエルのように神に近づいているでしょうか?自分が何か悪いことをしたら、神さまが怒られているのではないかと思って、びくびくしながら近づいているでしょうか?そう考えるのは、神と、キリストが行なってくださったことに対する信頼がうすいからです。私たちが近づいているのは、黒雲と煙が立ち上がっているシナイ山ではなく、シオン山です。主が、私たちが神に近づくことができるためのすべてのことを、ご自分の血とその肉体によって成し遂げてくださったのです。だから、良心をきよめられて、大胆に神に近づくことができます。

 神が聖なる方であることを知ることはとても大事です。しかし聖なる方に近づくための血が流されたことを忘れないでください。そして聖なる方にまだ近づいたことがない方は、どうかキリストが流してくださった血を信じてください。この方により、神を知ることができます。


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