出エジプト記20章 「贖われた民として」
アウトライン
1A 十戒 1−17
1B 神との関係 1−11
2B 人との関係 12−17
2A 幼い神意識 18−26
1B 恐れ 18−21
2B 主への祭壇 22−26
本文
出エジプト記20章を開いてください。ここでのテーマは、「贖われた民として」です。今日読む箇所から、いわゆる「律法」を見ていくことになります。神の律法です。そして今日は、律法の中でも他の律法の支柱となる、十戒を見ます。
1A 十戒 1−17
1B 神との関係 1−11
20:1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
今、イスラエルの民はシナイ山のふもとに集められています。そして主なる神が、黒雲や、雷、稲妻、角笛の音などを通して現われておられます。そしてイスラエルの民に音声で、直接お語りになっています。
20:2 わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
神はまず、イスラエルの民に彼らが神によって贖われた者たちであることを思い出させておられます。エジプトから連れ出したのが、このわたしである、と言われています。ですから、主がこれから命じられることは、彼らが救われるためにとか、義と認められるために与えられたものではなく、すでに救い出された者に対して語られているところです。
ですからちょうど、私たちキリスト者にも当てはめていくことができる箇所です。使徒ペテロがこう言いました。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(1ペテロ1:18-19)」キリストの血の代価によって、私たちは罪の奴隷市場から買い取られました。またパウロはこう言いました。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。(1コリント6:19-20)」買い取られたのだから、自分は自分のものではなく、神の所有物です。
20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
第一の戒めです。イスラエルの民は、エジプトから出てきたばかりであることを思い出してください。彼らは、他のエジプト人たちがそうであったように、神々と言われるものに慣れ親しんでいました。ナイル川、かえる、牛など、あらゆるものが礼拝を受ける対象とされていました。けれども、あなたがたはこれらのものからも贖い出されて、まことの生ける神、ヤハウェのところに導かれたのです、ですからほかに神々があってはならない、と主は言われます。
当時は、自分たちの欲望を満たすものをみな神としていました。有名なものでは、「バアル」がいますが、彼は力や知性を表す神でした。また対になって出てくる女神が、「アシュタロテ」です。彼女は豊穣の神であり、たくさんの乳房が体にあり、性欲を満たすところの神でした。自分の欲望を満たすとき、彼らがそれを神としていたのです。その中で、ヤハウェなる神は特異です。この方は聖なる方です。汚れから完全に離れた方です。したがって、わたしのみを神としなさい、と主は命じられています。
ですから現代に生きる私たちにとっても、神々は実に身近な存在です。自分の人生や生活をひっぱっていくもの、自分を駆り立てている情熱が神と呼ばれます。もし自分の支えが、家や財産であり、それ以上のものがなければ、マモンという富の神にしたがっています。自分がポルノや不倫関係などで、情欲に燃えているのであれば、アシュタロテを拝んでいます。自分が知的になることに精進して、知性以上の価値を認めないのであればバアルを拝んでいることになります。けれども、キリストの血によって贖われた人は、ただイエス・キリストのみが自分のすべてになっていなければいけない、ということです。
20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
第二の戒めです。ほかの神々を持ってはいけないだけでなく、被造物をかたどってはいけない、と命じられています。像の禁止です。もちろんこれは、彫刻などの美術を禁じたものではありません。けれども、これらの像を神として拝むのであれば、それが偶像になります。
主はサマリヤの女に、「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネ4:24)」と言われました。霊ですから、神は目に見えない方です。けれども、私たちは目に見えない神と、自分の霊において、真理のみことばをとおして交わることができます。祈りによって神に語り、みことばを通して神から聞くことができます。けれども人間は、目に見えないものよりも、目に見えるものに頼りたくなります。神のご臨在を強く意識できていないときに、神ご自身ではなく、自分の身の回りのものにより頼みたくなります。それも偶像です。
「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。(1テモテ2:5)」と聖書にはあり、私たちが唯一頼るべきお方は、仲介者としてのキリスト・イエスのみです。けれどもそうではなく、例えば教会の牧師に頼ったり、自分の家族に依存したり、または自分の名声や立場にしがみつくのであれば、それは神を神とせず、他のものを偶像にしてしまっているのです。偶像はものを語ることはありませんから、そこにいのちがなくなります。けれども主イエス・キリストを自分の拠り頼む方とするとき、心の奥底から湧き出る水があります。いのちの御霊があふれ出ます。
むろん、偶像は文字通りの偶像でもあります。イスラエルがエジプトの偶像から離れなければならなかったように、キリスト者も偶像礼拝から離れることを命じられています。パウロは手紙の中で、肉の働きとして、偶像礼拝を初めのほうに列挙していました(1コリント6:9など)。私たちが慣れ親しんできた初詣、盆踊り、墓参りなど、偶像に関わるものから離れなければいけません。
20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
他の神々とヤハウェなる神との違いは、ヤハウェは一対一の、人格的関係、契約関係を持つことを望んでおられる神だということです。自分の都合の良い時に、例えば新年にお賽銭をいれて、その年の願い事をするだけで十分な神ではありません。毎日拠り頼んで、毎日親しく交わって、ちょうど妻が夫を慕うように、この方だけを慕うことによって、初めてヤハウェ信仰が生きたものとなります。私たちが他の神々に仕えるとき、神は泣き叫ぶうめきを持って、そのことを悲しまれるのです。神はねたむ方です。
20:7 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
第三の戒めです。名前が尊ばれる理由は、名前に神のご性質や神の働きが反映されているからです。したがって、神の名をいつも口にしながら、神が言われるとおりに生きていなければ、それはみだりに唱えることになります。私たちが自分がクリスチャン、つまりキリストに属する者といいながら、キリストとは程遠いことを行なっているなら、キリストの御名が汚れます。みだりに唱えていることになります。
20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
安息日は、その名のごとく、安息を得る日、休む日のことです。そして聖なる日とは、神だけの日、ということです。聖別とは、一つの用途のために他のものから別たれることですが、あらゆる日からこの日だけは神のものとなる、ということです。
20:10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。・・あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。・・
安息日にあずかれる人には、差別がありません。どのような人も安息の特権にあずかれます。イスラエルがかつてエジプトにいたときは、労役の連続であり、休みなどありませんでした。けれども主は、安息を設けられました。同じように、罪の中に生きることによって安らぎを得ることのなかった私たちの魂は、イエス・キリストによって救われて、この方にあって休みを得ることができます。主は言われました。「だれでも、疲れている者、重荷を負っている者はわたしのところに来なさい。休ませてあげよう。」
新約聖書を読みますと、安息日論争が繰り広げられています。一つは福音書の中で、主イエスご自身が律法学者やパリサイ人と論争されている箇所が出てきます。主は、安息日は人のためにあるのであり、人が安息日のためにあるのではない、と論じられました。当時、いや現在のユダヤ教においても、安息日についての規則を細部に至るまで定めています。私がイスラエル旅行をしたとき、ホテルでは各階に止まるように設定されていたエレベーター、シャバット(安息日)エレベーターがありました。それは、自分が降りたい階のボタンを押すと、それは働くこととして数えられるからです。こうして、安息をもたらすはずの日が、自分でも負いきれないほどの重荷となっていることが問題となっていました。
そして新約聖書では、もう一つ安息日についての論争がありました。教会が誕生し、ユダヤ人だけでなく異邦人もキリストにある救いを得始めたとき、異邦人クリスチャンが安息日を守るべきなのか、その必要はないのかの論争が起こりました。それに対する使徒たちの答えは、明白です。「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。(コロサイ2:16-17)」安息日は、次に来るものの影であり、その本体はキリストにある、とパウロは論じています。出エジプト記31章17節には、安息日が神とイスラエル人との間の契約のしるしであることが書かれています。したがって、安息日の実体であられるキリストが来られるまで、彼らに与えられていた戒めであり、今の時代は守る必要のないものであります。今は、救いの働きをすべて成し遂げられたキリストにあって、私たちは安息を得ることができるのです。
だからといって、キリスト者が礼拝に集わなくてよいとか、休みを得る必要はない、ということでは決してありません。旧約の神は新約の神でもあります。使徒の働きや手紙の中には、初代教会の信者たちが週の初め、つまり日曜日に集まっていることが記録されています。それはキリストが復活された曜日が日曜日であり、また聖霊が臨まれて、教会が誕生した日も日曜日だったからでしょう。日々の働きを止めて、礼拝に集い、主をともにあがめることはとても大切なことです。
20:11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
休みを神が取られた理由は、天地創造の働きを完成されたからです。完成したのですから、それ以上何かしなければいけないことはないわけです。同じように、キリストが救いを完成された今、私たちは救いのために何か自分で行なわなければいけないことは何一つなく、ただこの方を信じて、心に受け入れるだけでよいのです。また私たちは、この肉体を脱ぎ捨て、天に入れられるとき、永遠の安息を得ることができます。
2B 人との関係 12−17
ここまでが神と人との関係についての戒めでした。十戒は石の板二枚に書き記されますが、おそらく一枚は、初めの四つの戒めが書かれたものと考えられます。次からは人と人との関係、対人関係についての戒めです。この順番が大切ですね、人との関係が正されるのは、初めに神との関係を正さなければいけない、とも言えます。
20:12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
第五の戒めは、先の四つの戒めと残りの五つの戒めをつなぐような働きをしています。つまり、父と母は、子にとって神の代理人のような存在だ、ということです。神を私たちは父と呼びます。なぜなら、そのような存在だからです。そして地上にて私たちが父母を敬うとき、実は神をどのように信じ、従えばよいかを教えられるのです。
例えば先ほどの、「ほかの神々があってはならない」の戒めを考えてみましょう。自分が親だと考えてください。子が自分に罪を犯しても、その子を愛しているがゆえに、彼を赦してあげるでしょう。けれどもどんな大きな罪でも、自分のことを父親とみなさない、他の人を親とみなすようなことをしたらどうでしょうか?これほどショックなことはありませんね。それは親子関係そのものを破壊することです。したがって、ほかの神々があってはならない、わたしだけを神とせよ、と主は仰せになっておられるのです。
後の戒めで、親に反抗する子に対する罰が書かれています。親をののしったことによって、子は石打ちの刑に処せられることが書かれています。それだけ父母を敬うことは真剣なことであり、今日、親の権威を認めない風潮、これは子だけでなく親自身にもありますが、非常に危険です。新約聖書において、パウロはここの戒めの箇所を引用して、主にあって両親に従いなさい、と命じています(エペソ6:1)。
20:13 殺してはならない。
主は、カインがアベルを殺してから、人を殺す者は殺されなければいけない、という命令を出しておられました。なぜなら、人は神のかたちに造られているからであり、人を殺すことは、神を痛めることになります。いのちを与えるのも取るのも、神がなさることです。それを人が奪い取ることはできません。
ここで最近、警察が銃を使って人を殺すこと、また戦争において武力行使をすることは、ここの「殺してはいけない」に違反することではないか、という意見を聞きました。けれども、もしそう解釈するなら、この戒めの前後に出てくる、神が「殺しなさい」と命じておられる箇所と矛盾することになります。出エジプト記19章12節には、「山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。」とあり、21章12節には、「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければいけない。」とあります。一方で殺してはいけないと言い、もう一方で殺しなさいと神がいわれていることになります。その他、聖書には数多く、神ご自身が殺しなさいと命じている箇所があります。
普通に読めば、ここは殺意を持って、不法に殺すこと、つまり殺人を禁じている箇所です。警察が、他の人や自分を殺そうとしている凶悪犯に、最後の手段として銃を使い、殺すこと、また攻めてくる外国の敵に対して、自国の軍隊が反撃することによって出てくる死者はこれに含まれません。原語のヘブル語では別の単語が使われています。「ムウト」というヘブル語は、死ぬこと、死罪に定めることを意味します。けれども13節で使われているのは、「ラツァック」で故意に不法に殺すこと、殺人を意味する言葉が使われています。
新約聖書においても、ローマ13章4節に、「しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。」とあります。犯人に銃を向けたり、外国の敵に武力を行使することは、もちろん理想の状態ではありません。こんなこと、本当はやらなければ一番良いことです。しかし、神は、ご自分の子キリストが再び戻ってきて、完全な正義と平和をこの地上に確立される前には、国やその他の権威を置いてくださって、悪が繁殖するのを抑制する働きを行なっておられます。
そして、イエスさまは「殺してはならない」の戒めの真意を、山上の垂訓でさらにお語りになっています。もし兄弟に向かって、馬鹿、と言ったら、あなたがたは最高法院に引き出される、と言われました。つまり物理的に殺さなくとも、殺意を抱けばそれでこの戒めを破ったことになる、と言われたのです。「こいつさえいなければ、幸せなのに」と思ったとき、私たちは実は殺人の罪を犯しているのです。
20:14 姦淫してはならない。
神は天地を創造されたとき、「生めよ、ふえよ」と被造物に命じられて、祝福されました。生殖行為は神から与えられた賜物です。そしてその行為を、神は人に結婚において行なうように定められました。けれども、神が与えられた生理的欲求を、その定めたところ以外で用いることを、聖書では情欲と呼びます。結婚関係以外で行なう性行為は、姦淫です。もう一度、イスラエルの民が異教のエジプトから連れ出されたことを思い出してください。異教においては、不品行が礼拝行為の一部とさえなっていました。けれども、そのような汚れから彼らは贖い出されたのです。
そして姦淫についても、主は山上の垂訓にて、その真意をお語りになっています。情欲をもって女を見るならば、姦淫の罪を犯したことになる、というものです。当時の律法学者たちは、外側の行ないが良ければ律法を守ったことになる、としていました。けれども律法は霊的なものであり、私たちの心の内面を取り扱っているものです。そのため、パウロは以前は律法においては非の打ちどころがない者であったと、ピリピ書3章で言っていますが、ローマ7章では、律法によって私は極度に罪深い者となりました、と告白しています。外側においては非の打ちどころがなかったのですが、内側ではことごとく罪を犯していたのです。
20:15 盗んではならない。
神は、人間の所有権を大切にしておられます。それを犯すのが盗みです。泥棒、詐欺、万引きはむろん盗みですが、たとえば借りたものを返さないのはどうでしょうか。あるいは、仕事でなまけるのはどうでしょうか。それは、あなたの時間を買った雇用主に対して盗みを犯していることになります。学生のカンニングも、他の人の知識を盗むことであり、キセルも料金を盗む罪です。脱税は政府に対する罪です。クリスチャンに対して、パウロがこう言っています。「盗みをする者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。(エペソ4:28)」
20:16 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
嘘をつくことによる、口による罪です。これは物を盗むことよりも被害が大きくなることがあります。人の噂話によって広がっていき、ある人の信用を傷つければ、その人は一時的に物を失うよりももっと長い、いや死ぬまで続くほどの害を被ることさえあります。ヤコブは、「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。(3:6)」と言いました。
20:17 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。
最後の戒めは、心に関することです。他の戒めは行為に関することですが、これは心の泉から出るもの、むさぼりを取り扱っています。欲しがること、あるいはむさぼりは、他の戒めを破ることにつながる、最初の欲望です。盗むのはもちろん、他人のものをむさぼっているからです。姦淫するのも、他人の妻をむさぼっているからです。嘘をつくのは、自分がむさぼっていることを隠したいからです。父母をののしるようなことをするのは、父母に与えられた神の権威を欲しがっているからです。今あるもので満足すること、神の恵みが自分に十分にあることを知ることが、むさぼりから守られる秘訣です。ヘブル書13章5節にはこう書いてあります。「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』(ヘブル13:5)」
こうして十戒を見てきましたが、ここに、古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身につけるように命じられている、クリスチャンの歩みに当てはめることができます。これまでは異教の神々の中で生きていたところから贖い出されて、これまでの習慣を捨てて、キリストにかたどり造られた新しい習慣を身につけます。
パウロはこう言いました。「そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。しかし、あなたがたはキリストのことを、このようには学びませんでした。ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。(エペソ4:17-24)」
けれども、律法を読むと一つの作用が起こります。律法を聞いただけで起こる現象です。続けて読んでみましょう。
2A 幼い神意識 18−26
1B 恐れ 18−21
20:18 民はみな、雷と、いなずま、角笛の音と、煙る山を目撃した。民は見て、たじろぎ、遠く離れて立った。
民は十戒を聞いて、神が恐くなり、たじろぎ、遠く離れました。律法によって神に近づけられたのではなく、神から遠ざかろうとしました。これは単に、彼らが雷やいなずまなど、物理的な現象に驚いているだけが理由ではありません。神の聖さに気づいたからです。神が完全で聖い方であり、自分たちがそうではない、汚れた者であることがわかったからです。
律法を読むと、私たちのうちでも同じような現象が起こります。律法は聖なるものであり、正しいものです。そこには神のご性質が表れています。したがって、律法の鏡に写し出されて、自分がいかに罪深い者であるかを知ることになります。律法によって、それを守ることによって、神によって正しいと認められるなど無理な話であり、むしろいかに自分が汚れ、罪人であり、死罪に値するかに気づくのです。私たちは普通の頭では、地獄があるなんて恐ろしい、神がそこに人を入れるなんてひどい、と思うかもしれませんが、律法が与えられたとき、自分が地獄に行ってしまう存在なんだ、罪を犯したから、罰を受けて、永遠のさばきを受けなければいけない存在なのだ、と気づくのです。
そこで私たちは、神のあわれみのところに避難しにいきます。「ああ主よ、どうかあなたのあわれみによって、私の罪を赦してください。」と神にすがりに来るのです。神はキリストによって、罪を赦す備えを与えてくださっています。キリストが十字架でご自分の肉体に、私たちが受けるはずの罪の刑罰をお受けになりました。だから、キリストを信じる者が義と認められるのです。このように、律法は私たちを正しくする力はないのですが、私たちを救い主キリストへと導きます。そこでパウロは、ガラテヤ書で律法はキリストへ導く養育係であると言っているのです。イスラエル人と違い、私たちは神に大胆に近づくことができます。それは、キリストの血によって、神の御座がさばきの座ではなく、恵みの座になったからです。おりにかなった助けを受けるために、神の御座に大胆に近づくことができるのです。
20:19 彼らはモーセに言った。「どうか、私たちに話してください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから。」
彼らはモーセに仲介を求めていました。自分たちと神とは直接につながることはできない、自分たちが死んでしまう、と思ったからです。今はなしましたように、キリストのうちにある者にとって、キリストが父なる神と人間との仲介者になってくださっています。ですから、私たちはよく、キリストが行なわれたことを理解する必要があります。この方が私たちの罪のために死なれ、葬られ、よみがえられたによってのみ、私たちが父なる神のみもとに行けます。
20:20 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけません。神が来られたのはあなたがたを試みるためなのです。また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためです。」
モーセは、「恐れてはいけません」と言いながら、「神への恐れが生じて」と話しています。一見矛盾していますが、前者はいわゆる「怖がる」ことです。けれども使徒ヨハネは、愛には恐れがない、まったき愛は恐れを締め出す、と言いました。私たちは神を怖がる必要はありません。そして後者の恐れは、畏れかしこむことです。神への畏敬です。神の言われることを真剣に受け止めて、罪と悪から離れることです。
20:21 そこで、民は遠く離れて立ち、モーセは神のおられる暗やみに近づいて行った。
やはり民は遠く離れて立ちました。これがイスラエルの民と神との関係を表しています。神が近づいてくださいましたが、神と交わり、結ばれることはなかったのです。そのため、後に、神がしてはいけないと言われたそのことを行なうようになります。うなじのこわい、かなくなな民と呼ばれるようになります。それはすべて、神に結ばれていなかったからです。自分の肉の働きによって、律法の要求を全うしようとしたからです。
2B 主への祭壇 22−26
けれども主はイスラエル人をさらに指導を与え、教えられます。20:22 主はモーセに仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう言わなければならない。あなたがた自身、わたしが天からあなたがたと話したのを見た。20:23 あなたがたはわたしと並べて、銀の神々を造ってはならない。また、あなたがた自身のために金の神々も造ってはならない。
神は礼拝するときの注意を述べておられます。イスラエルの民は、銀の神々、金の神々に慣れ親しんでいました。したがって、彼らが思いつく礼拝は金銀の神々への礼拝でした。自然に生きていれば、彼らはそのようなことを行なうのです。そこで主はモーセに、そのようなことを行なわないようにと注意を促しておられます。私たちも、意識して新しい人を身に着けなければ、古い人に流されてしまうことになります。
20:24 わたしのために土の祭壇を造り、その上で、羊と牛をあなたの全焼のいけにえとし、和解のいけにえとしてささげなければならない。わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福しよう。
あでやかな祭壇ではなく、素朴な土の祭壇にしなさいと命じておられます。神は、ご自分以外に人々の注意がそれることを望まれていませんでした。神を礼拝するとき、それを妨げる要素をなるべくなくされました。それで土の祭壇なのです。私たちの礼拝はどうなっているでしょうか?教会の装飾はどうでしょうか?賛美をリードする人が、自分の音楽技術を披露するようなことになっていたいでしょうか?牧師が神のみことばではなく、自分の体験談を話したりして、神の栄光に陰りが出ていないでしょうか?素朴な礼拝こそ、神が望まれていることです。
20:25 あなたが石の祭壇をわたしのために造るなら、切り石でそれを築いてはならない。あなたが石に、のみを当てるなら、それを汚すことになる。20:26 あなたは階段で、わたしの祭壇に上ってはならない。あなたの裸が、その上にあらわれてはならないからである。
これも、異教における礼拝ではよく行なわれていたことでした。石を切って、それを階段に使うとき、その階段を上がるときに、その人の下の姿が見えてしまいます。神はそれを望まれませんでした。人が神以外のもので注意をそらしてほしいと願われていなかったのです。パウロは、兄弟につまずきになるものを置かないように注意しなさい、と言いましたが、自分は自由だからと思って行なっていることも、実は他の兄弟姉妹が主に仕えるときに、妨げになっていることがあります。
これで十戒と神への礼拝の教えの部分が終わりました。主はつづけて、ご自分のおきてを語られます。
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