出エジプト211-6節 「主の奴隷」

アウトライン

1A 奴隷
   1B 状況
   2B 二種類
2A 主イエス・キリストご自身
   1B 父なる神のしもべ イザヤ50:4-6 詩篇40:6 ピリピ2:3-9
   2B 弟子の友 ヨハネ
3A 罪の奴隷
   1B 支配 エペソ2:1-2
   2B 盲目 2コリント4:4
   3B 空しさ 伝道者1:2
   4B 死という対価 ローマ6:23
4A 神の奴隷
   1B 買い取られた者 1ペテロ1:18-19
   2B 聖霊の宮 1コリント6:19
   3B イエス・キリストの僕 ローマ1:1
5A 愛の奉仕
   1B 主人への愛
   2B 報いのある労苦 1コリント15:58

本文

 出エジプト記21章をお開きください、211-6節まで読みます。今日のメッセージの題は「主の奴隷」です。それでは本文をお読みします。

21:1 あなたが彼らの前に立てる定めは次のとおりである。21:2 あなたがヘブル人の奴隷を買う場合、彼は六年間、仕え、七年目には自由の身として無償で去ることができる。21:3 もし彼が独身で来たのなら、独身で去り、もし彼に妻があれば、その妻は彼とともに去ることができる。21:4 もし彼の主人が彼に妻を与えて、妻が彼に男の子、または女の子を産んだのなら、この妻とその子どもたちは、その主人のものとなり、彼は独身で去らなければならない。21:5 しかし、もし、その奴隷が、『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。』と、はっきり言うなら、21:6 その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。

 「奴隷」というと、私たちは想像のつかない立場ですね。今でも存在はしますが、世界の多くのところからなくなってしまいました。けれども、この聖書時代には奴隷は経済活動をするのに必ず必要な存在でした。けれども主は、ここでモーセを通して教えられているように、奴隷の権利が守られるよう神が制限を設けられました。

 それが7年目には解放されるのですが、5節に「しかし、もし、その奴隷が、『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。』と、はっきり言うなら」とあります。主人を愛しているから、自発的に一生涯の奴隷になるのです。そして、その印として、「戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない」とあります。いわばイヤリングです。その耳の穴を見るときに、この人は自発的に、主人を愛する愛のゆえに生涯奴隷であることを表しました。

1A 奴隷
1B 状況
 奴隷になる経緯はいろいろありますが、聖書では征服した国がその被征服民を奴隷にすること、または貧しくて売られることもあります。あるいは誘拐されて売られることもあります。ヨセフが兄によって売られたのは、これですね。そして生まれながらの奴隷もいます。エジプトにいるイスラエル人がそうでした。

 そして奴隷の特徴は、「主人の所有物」であることです。自分の食べる物、衣服、住む所はすべて主人が提供します。自分が所有できるものは何一つありません。権利も持っていません。

2B 二種類
 けれどもその奴隷の中にも、二種類がいます。とてつもなく過酷な状態がその一つですが、イスラエル人がそうでしたね。けれども、必ずしも過酷であるわけではありません。もう一つは、裕福な主人から全ての物があてがわれるので、実際は豊かに過ごすことができます。そしてここの個所で、主人を愛している奴隷はとても良くしてもらっているから、その愛が芽生えたのだろうと思われます。

2A 主イエス・キリストご自身
1B 父なる神のしもべ イザヤ50:4-6 詩篇40:6 ピリピ2:3-9
 そして、私たちは、イエス・キリストご自身が父なる神の僕になられたことを覚えなければいけません。詩篇406-7節には、こう書いてあります。「あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。(詩篇40:6-7

 これは、イエス様が父なる神の御心によって、ご自分の体を罪のいけにえとして捧げる時の預言です。聖書に書かれているいけにえは、まさに自分のことであり、そのために父の御心を果たしますというイエス様の告白です。そしてそこに、「あなたは私の耳を開いてください。」と言われました。これが、今私たちが見た、「耳をきりで刺し通す」ことです。イエス様は、父なる御心に従順になる、神の僕となられたのです。

 それをさらに詳しくイザヤが預言しています。504-6節です。「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。

 イエス様は、徹底的に弟子のようになられました。ご自分が語られるのは、自分自身のものではなく父の言葉でした。その言葉をもって疲れた者を励まされました。そして朝は、父なる神によって目覚め、そして弟子のようにその御声を聞いていかれました。そして、ついにその御声を聞いているうちに、自分自身の背がむち打たれ、ひげも抜かれ、侮辱されて、つばきをかけられましたが、それを父の語りかけがあったので拒むことはなさいませんでした。

 そしてここで二度、「私の耳を開かれた」とあります。イエス様は父なる神の愛の中で、父の御心に完全に従う奴隷となられたのです。

 今度はピリピ2章を開いてください。3節から読みますが、ピリピにある教会では意見の不一致でちょっとした確執があったようです。それでパウロが勧めを行なっています。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2:3-8

 使徒パウロは、私たちの間に起こる不一致の問題が、自己中心や虚栄から行っていることを指摘しています。そして、へりくだって相手をすぐれた者とみなすこと、他者のことを顧みることを教えていますが、その模範がイエス・キリストです。神の身分であられたのに、人の姿を取り、自分を無にして、十字架の死にまで従われました。私たちが当然持っていると思っている権利を、主に倣って横におき、そして他者のことを気にかける、ということです。

2B 弟子の友 ヨハネ15:14-15
 そして、このように神の僕となってくださったイエス様は、なんと私たちと同じレベルに立ってくださり、私たちのことを「友」と呼んでくださいます。「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ15:14-15

 すばらしいですね、へりくだった方はこのようにして、私たちを友として接することがおできになり、私たちが通るすべてのところにいてくださいます。

3A 罪の奴隷
 そこで私たちは、私たち自身が罪の奴隷から神の奴隷に移った存在であることを思い出さなければいけません。ローマ6章です。「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。(17-18節)

1B 支配 エペソ2:1-2
 まず以前の罪の奴隷であった時のことを考えてみましょう。奴隷が主人に完全に服従しなければいけなかったように、私たちは罪の中に生きていました。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ2:1-3

2B 盲目 2コリント4:4
 そして、罪の奴隷は盲目にされています。自分自身が罪の奴隷になっていると気づいていません。自分自身がこの罪を行なっていても天国に行ける、あるいはいつか克服するさと思って、いつまでもその問題に対処しないことなど、その状態を続けています。「そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。(2コリント4:4

3B 空しさ 伝道者1:2
 そして罪の奴隷は、空しいです。「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。(伝道者の書1:2」自分が成し遂げたことが、自分の死とともにすべて過ぎ去ってしまうこと。自分が価値あるものと思っているものが、実は他の人々にむなしく利用されてしまうこと、があります。

4B 死という対価 ローマ6:23
 そして罪の奴隷が受ける対価は「死」です。「罪から来る報酬は死です。(ローマ6:23」自分が行ってきたその行き先が死であり、そして死後の地獄です。

4A 神の奴隷
 このような奴隷状態から、私たちは主イエス・キリストによって解放されました。そして今は、神の奴隷となっています。

1B 買い取られた者 1ペテロ1:18-19
 ちょうど奴隷が主人に買い取られます。その主人がとても良い主人で、自分を愛し、自分に祝福を与えてくださる主人であります。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(1ペテロ1:18-19」イエス・キリストの血という高価な贖いによって、神のものとされました。

2B 聖霊の宮 1コリント6:19
 そして、私たちの体はもはや自分のものではありません。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。(1コリント6:19」神の所有になっているのですから、自分のしたいように、感じているように、思うようにすることはできないのです。ただ神が願われていることを行う、その器になっています。

3B イエス・キリストの僕 ローマ1:1
 そして主のために働く僕として、パウロは、「イエス・キリストのしもべ」と言っています。「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、(ローマ1:1」キリストのしもべ(doulos)というのは、ローマのガレー船という船の底で、オールを漕いでいた奴隷のことを言います。ローマ社会には大ぜいの奴隷がおり、この種類の奴隷はもっとも低い位の奴隷でした。パウロは、キリストにすべてを明け渡した最下級奴隷であると告白してやまなかったのです。

5A 愛の奉仕
1B 主人への愛
 みなさんはいかがでしょうか?私たちがパウロのように、すべての権利を捨ててイエス・キリストの所有の奴隷となっているでしょうか?「それは難しい」と感じられるのであれば、ここの個所の奴隷の言葉を思い出してください。「私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。」愛しているから、完全に自由意志で自発的に権利を放棄しているのです。

 この方がまず私たちにすべてをささげてくださったから、私たちもこの方にすべてを捧げることができます。そしてイエス様の負わせるくびきは軽いです。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:29-30

2B 報いのある労苦 1コリント15:58
 そしてこの方にお仕えするのは、罪の奴隷の時とは異なり、報いがあります。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(1コリント15:58

 そして主は、ご自分のしもべに対して、このように言って迎え入れてくださいます。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。(マタイ25:21

 したがって、私たちは喜んで、自らを捨てて主にお従いすることができるのです。みなさんは、どちらの主人に従っていますか?「自分」という主人でしょうか、それともイエス・キリストでしょうか?まだ決められていない方がおられたら、どうか今、永遠の報いを与えてくださる主人に自分をゆだねてみてください。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
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