出エジプト記21−22章前半 「神の公正な物差し パートU」


アウトライン

1A 個人に対する定め 21:1−23:9
  1B 奴隷 21:1−11
    1C 権利 1−6
    2C 保護 7−11
  2B 殺傷 21:12−36
    1C 殺人 12−17
    2C 傷害 18−27
    3C 動物 28−36
  3B 財産 22:1−15
    1C 損害 1−6
    2C 貸借 7−15
  4B 道徳 22:16−31
    1C 性 16−20
    2C 弱者 21−27
    3C 神 28−31
  5B 裁判 23:1−8
2A 国民に対する定め 23:9−33
  1B 安息と祭り 9−20
    1C 安息 9−13
    2C 祭り 14−20
  2B 敵国 21−33
    1C 主の使い 20−26
    2C 主への恐れ 27−33

本文

 出エジプト記22章を開いてください。私たちは前回から、主がイスラエルに与えられた神の定めのところを学んでいます。定めとは、裁判のための規定、法律のことです。出エジプト記21章から23章までに書かれています。前回は22章の15節まで学びました。奴隷解放について、殺傷事件について、そして盗難事件についての事項が書かれていました。今日は、道徳法から見ていきます。今日のメッセージ題は前回と同じく、「神の公正な物差し」です。

4B 道徳 22:16−31
1C 性 16−20
22:16
まだ婚約していない処女をいざない、彼女と寝た場合は、その人は必ず花嫁料を払って、彼女を自分の妻としなければならない。22:17 もし、その父が彼女をその人に与えることを堅く拒むなら、その人は処女のために定められた花嫁料に相当する銀を支払わなければならない。

 これは婚前交渉についての定めです。婚前交渉をしたときには、必ずその人と結婚しなければいけない、というものです。「花嫁料」とありますが、当時は女性が離縁されたら、現在のように独身女性への就職の間口や、母子家庭への福利厚生がありませんから、独りで暮らすことは非常に難しくなります。したがって、彼女の父が彼女を養うことになりますが、そのときの生活費、つまり現在の慰謝料を保証金として与えます。

 十戒の中に「姦淫をしてはならない」とありますが、姦淫とは婚外交渉、不倫のことです。では、婚前交渉は良いのか、というと、決してそうではありません。旧約聖書、また新約聖書もそうですが、結婚が書かれている箇所を注意深く読んでいくと、男女の性的結びつきがそのまま結婚として定義されていることに気づきます。有名な、初めの結婚であるアダムとエバの結婚について説明する箇所でも、「ふたりは一体となる」とあります。肉体関係を持つことは、男と女が一生涯、霊的に、精神的に、また社会的に一組の夫婦として生きていくことの証しとなっているのです。ですから、肉体関係を持つことと結婚を引き離すことは決してできず、ここで婚前交渉をしたのなら必ずすぐに結婚して、一生涯その人を自分の妻にしなさい、という命令になっています。

 ですから結婚を考えている男女は、結婚式の後までその関係を待ちます。そして、この待つという行為が、非常に霊的に重要なことになります。というのは、婚姻関係は、エペソ書5章によるとキリストと教会を表す関係になっており、花嫁が花婿を待ち、婚姻まで自分の貞潔を守ることは、ちょうど教会が、主イエス・キリストが教会のために戻ってきてくださるのを待っているのと同じだからです。

 英語では、結婚はconsummationとも呼ばれます。完成とか成就とかいう意味です。当時のユダヤ人の結婚は、いくつかの段階がありました。幼い男の子と女の子が、それぞれの両親の申し合わせによって、将来結婚することを決められます。そして婚礼期になったら、婚約をします。一年ぐらいの期間です。その間、男女はほとんど夫婦の関係と等しいぐらいの法的拘束力を持っていますが、その間にそれぞれに貞潔が求められます。もし他の男、あるいは女と寝たならば、死刑になるという律法もあります。(ですから、マリヤの夫ヨセフは、婚約していたマリヤがみごもった話を聞いて、内々に離縁しようと決めたのです。彼女を死刑に定められることがないようにするためです。)したがって、非常に長いテストの期間、待つ期間があり、それでついに結婚式、祝宴を終えて、その後すぐに夫婦の営みを行なって、完成、成就します。ですから、この待つ期間を通して、その後の夫婦生活が、霊的にも、精神的にも豊かにされるのです。だから、「彼女とちょっと寝よう」という考えは、神が与えてくださった贈り物である、性の営みを台無しにしてしまうものであり、そこで多額の花嫁料を支払うという抑制が、定めの中にあります。

22:18 呪術を行なう女は生かしておいてはならない。

 オカルトや占いを行なう者に対する定めです。そのようなことをする者は死罪です。ここで「女」とありますが、それは聖書を見ても、また実際を見ても、女が霊媒師であることが多いからです。男性への雑誌に占いの記事はあまり見ませんが、女性向け雑誌には多いですね。

 なぜいけないのかと言うと、お遊びに見える占いやチャネリングは、多くの場合、何らかの霊と交流することによって、それらの知識を得ます。神は霊です。神は、霊において人と交わりをすることを願っておられ、もし人が異なる霊と交わりをするなら、霊的姦淫の罪を神に対して犯すことになります。そして、悪霊は悪しき霊です。神は人の最善を考えておられますが、悪霊どもは人を破壊することを考えています。人を恐れや不安を駆り立てさせ、または他のあらゆる汚れた行ないへと誘い込み、そのとりこにさせようとします。それゆえ、呪術者は死罪に定められます。

22:19 獣と寝る者はすべて、必ず殺されなければならない。

 獣姦とも呼ばれる行為ですが、これも死罪です。当時の世界で異教の世界では頻繁に起こっていたことでしょう。現代においても、この問題は蔓延しています。その結果、性病はもちろんのこと、ある調査では、エイズの発祥が獣姦を犯した人からのものである、という報告があります。神は、律法を通して、ご自分が聖であることを示しておられるだけでなく、人間が幸福に生きるために、私たちを守ろうとされていることがここから分かります。

22:20 ただ主ひとりのほかに、ほかの神々にいけにえをささげる者は、聖絶しなければならない。

 十戒の中にある、「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」の戒めの適用です。偶像礼拝の行為は、聖絶です。これら偶像礼拝行為には、しばしば、先に書かれている性的倒錯が含まれていることです。宗教儀式の中で、淫らな行為をします。神が、聖絶しなさいと命じられている大きな理由は、そこにもあります。

2C 弱者 21−27
 そして次から、社会的弱者保護のための定めが書かれています。

22:21 在留異国人を苦しめてはならない。しいたげてはならない。あなたがたも、かつてはエジプトの国で、在留異国人であったからである。

 在留異国人への保護です。あなたがたもエジプトにいたのだから、どのような苦しみであるかを一番知っているのはあなたである、ということです。外国に住んでみないとわからない苦しみがあります。私たちも、日本に住む外国人に対して、特別な配慮が必要でしょう。

 また教会の中で、受け入れ態勢が出来ているかを考える必要があるでしょう。外国人に限らず、新しく来た人、不慣れな人が、教会の交わりにそのまま入っていくことができるのか、それとも私たち自身の中で仲間意識を作り、目に見えない壁をつくって、入り込めない雰囲気を作ってはいないか、考える必要があります。

22:22 すべてのやもめ、またはみなしごを悩ませてはならない。

 未亡人や孤児に対する配慮です。今のように、女性が働ける職場や、また孤児院などの制度が整っているわけではありませんから、乞食に近い生活を強いられます。

22:23 もしあなたが彼らをひどく悩ませ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶなら、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。22:24 わたしの怒りは燃え上がり、わたしは剣をもってあなたがたを殺す。あなたがたの妻はやもめとなり、あなたがたの子どもはみなしごとなる。

 ここから神は、弱い者、小さい者をご自分のひとみのように守られようとしていることが分かります。主も、これら小さな者をつまずかせる者は、ひき臼を首にゆわえつけられて、海の底に投げ込まれたほうがましである、と言われました。

22:25 わたしの民のひとりで、あなたのところにいる貧しい者に金を貸すのなら、彼に対して金貸しのようであってはならない。彼から利息を取ってはならない。

 貧しい人への利息は免除しなければいけません。

22:26 もし、隣人の着る物を質に取るようなことをするのなら、日没までにそれを返さなければならない。22:27 なぜなら、それは彼のただ一つのおおい、彼の身に着ける着物であるから。彼はほかに何を着て寝ることができよう。彼がわたしに向かって叫ぶとき、わたしはそれを聞き入れる。わたしは情け深いから。

 主は着る物がなく、寝ることさえもできなくなっているような人の叫びを、聞いておられます。ヤコブの手紙にも、「取り入れをした人々の叫び声は、万軍の主の耳に届いています。(5:4)」と書いてあります。

3C 神 28−31
22:28 神をのろってはならない。また、民の上に立つ者をのろってはならない。

 「主の御名をみだりにとなえてはならない」に関係する定めです。口を慎むことへの戒めです。新約聖書にも、上の権威はすべて神から来たものであり、人間の制度に従い、王や支配者たちのために祈り、感謝をささげなさい、と書いてあります。小泉首相やその他の指導者に対する批評や非難はクリスチャンの間でも聞こえますが、その中でどれだけの人が彼らのために祈っているでしょうか?

22:29 あなたの豊かな産物と、あふれる酒とのささげ物を、遅らせてはならない。あなたの息子のうち初子は、わたしにささげなければならない。22:30 あなたの牛と羊についても同様にしなければならない。七日間、その母親のそばに置き、八日目にわたしに、ささげなければならない。

 初物あるいは初子を主にささげる定めです。初子は、動物の場合は祭壇でいけにえとしてささげますが、人間の場合はもちろん、そのようなことは行ないません。けれども、息子を贖うための贖い金を支払います。初物また初子は、もはや自分のものではなく、主のものです。

 これはとても大切な原則です。私たちが神を信じ、キリストを信じるということは、自分の余暇として信じるのでもなく、趣味や興味対象として信じるのでもありません。自分にとって、かけがえのない存在、自分のすべてなる方として、信じ、受け入れます。ですから、自分の一番大切なものを主にささげることによって、自分が自分のすべてのものを主にささげていることを示すことができます。優先順位が主になるのです。ですから、献金も自分に収入があったとき、そこからすぐに自分で決めた割合の額を主にささげます。残り物をささげるのではありません。

22:31 あなたがたは、わたしの聖なる民でなければならない。野で獣に裂き殺されたものの肉を食べてはならない。それは、犬に投げ与えなければならない。

 死体は汚れたものとみなされます。そして、「犬」に投げ与えなければならないとありますが、聖書では、「」が、侮辱に値する者の形容としてよく使われています。

5B 裁判 23:1−8
 次に、実際の法廷における定めです。23:1 偽りのうわさを言いふらしてはならない。悪者と組んで、悪意ある証人となってはならない。

 偽りの証言をしてはいけない、という十戒の戒めの適用です。

23:2 悪を行なう権力者の側に立ってはならない。訴訟にあたっては、権力者にかたよって、不当な証言をしてはならない。23:3 また、その訴訟において、貧しい人を特に重んじてもいけない。

 裁判においては、公正さが求められます。人をかたより見ることは許されません。証言者は、両極の誘惑がありますが、それは権力がある者に取り入ることと、その逆に貧しいのだから助けなければと思って、かたより見ることの過ちです。

 神は人を分け隔てするような方ではない、と聖書に書いてあります。神の前に人が立ったら、その人は、「私は億万長者で、また国の指導者でもありました」と言っても、神にはまったく無意味です。あるいは、「私は貧しかったので、このようなことをしたのです。」と環境のせいにすることもできません。神の前に立ったら、すべての人がまったく同じところに立ちます。

23:4 あなたの敵の牛とか、ろばで、迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない。23:5 あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。

 これはやってしまいそうですね。自分が嫌だなあと思っている人が困っているときに、「いいや、そのままにしておけ。」と思ってしまいます。けれども、親切にしなければいけません。

23:6 あなたの貧しい兄弟が訴えられた場合、裁判を曲げてはならない。23:7 偽りの告訴から遠ざからなければならない。罪のない者、正しい者を殺してはならない。わたしは悪者を正しいと宣告することはしないからである。

 主は、悪が善になること、善が悪になることをひどく嫌がられます。イザヤ書に、「ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている。(イザヤ5:20)」と書いてあります。

23:8 わいろを取ってはならない。わいろは聡明な人を、盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからである。

 これは、そのままですね。わいろは人の判断力をゆがめます。

2A 国民に対する定め 23:9−33
 そして次から、イスラエルの民が約束の地に入ってからの定めになります。

1B 安息と祭り 9−20
1C 安息 9−13
23:9
あなたは在留異国人をしいたげてはならない。あなたがたは、かつてエジプトの国で在留異国人であったので、在留異国人の心をあなたがた自身がよく知っているからである。23:10 六年間は、地に種を蒔き、収穫をしなければならない。23:11 七年目には、その土地をそのままにしておき、休ませなければならない。民の貧しい人々に、食べさせ、その残りを野の獣に食べさせなければならない。ぶどう畑も、オリーブ畑も、同様にしなければならない。

 安息日を守り、それを聖なる日とせよ、というのが十戒の戒めでしたが、安息日だけでなく安息年も設けられています。六年間、耕作してもよいが七年目は土地を休ませます。実は、イスラエルのバビロンへの捕囚は、イスラエルが安息年についての命令を守らなかったために、神が強制的にイスラエルの地から彼らを引き抜いた、という理由もあります。神によって休むことの大切さが教えられています。

 それだけではありません、土地を休めるのは、貧しい人たち、在留異国人ややもめなどに、その残りを食べさせるためです。主は、けちであってはいけないと考えておられます。気前を良くし、土地の収穫を貧しい人たちにも分け与える必要があることを教えています。

23:12 六日間は自分の仕事をし、七日目は休まなければならない。あなたの牛やろばが休み、あなたの女奴隷の子や在留異国人に息をつかせるためである。

 安息日は、自分たちが休むためだけでなく、働いている家畜や奴隷、在留異国人が休むことができるようにするためです。

23:13 わたしがあなたがたに言ったすべてのことに心を留めなければならない。ほかの神々の名を口にしてはならない。これがあなたの口から聞こえてはならない。

 カナン人の地に入ってから、彼らの神々の名を口にしてはならない、という定めです。カナン人の神々、また宗教は、先に話したとおりとてつもない不品行と殺人に満ちています。だから、口にしてもいけません。クリスチャンにも同じような勧めが行なわれています。あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、ぶだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。(エペソ4:3)

2C 祭り 14−20
 次に例年行なわれる祭りについての定めです。23:14 年に三度、わたしのために祭りを行なわなければならない。23:15 種を入れないパンの祭りを守らなければならない。わたしが命じたとおり、アビブの月の定められた時に、七日間、種を入れないパンを食べなければならない。それは、その月にあなたがエジプトから出たからである。だれも、何も持たずにわたしの前に出てはならない。23:16 また、あなたが畑に種を蒔いて得た勤労の初穂の刈り入れの祭りと、年の終わりにはあなたの勤労の実を畑から取り入れる収穫祭を行なわなければならない。23:17 年に三度、男子はみな、あなたの主、主の前に出なければならない。

 イスラエル人の成年男子が年に三度、出なければいけなかった三つの祭りがあります。一つは、種を入れないパンの祭りです。これは子羊をほふって、その血を戸の柱と鴨居につける過越の祭りと連続して祝われます。ですから、過越の祭りと言ってもいいです。それから、初穂の刈り入れの祭りです。これは七週の祭りとも、また五旬節とも呼ばれているものです。ペンテコステです。この二つは、4月の初めと5月の半ばに行なわれる春の祭りですが、もう一つは、収穫祭です。秋、十月に行なわれます。この時は、ラッパを吹き鳴らす日から始まり、贖いの日(ヨム・キプール)において、自分の罪の悔い改めを行ない、それから仮庵の祭りという収穫祭を祝います。過越の祭りと五旬節と仮庵の祭りが、三つ出なければいけない三大祭りです。

 このことを知ると、なぜイエスさまが十字架につけられたとき、大ぜいのユダヤ人がいて、イエスさまが十字架につけられたのを見たのかを理解することができます。またペンテコステの時に、世界中からのユダヤ人が来ていて、弟子たちが他国の言葉で語っているのを理解できたのかを説明できます。どちらも、世界中からユダヤ人がやってきて、十字架の時は過越の祭りを、弟子たちに異言が与えられたときはペンテコステを祝うために、エルサレムにやって来ていたからです。

23:18 わたしのいけにえの血を、種を入れたパンに添えてささげてはならない。また、わたしの祭りの脂肪を、朝まで残しておいてはならない。

 祭りについては、レビ記23章に詳しく説明がされていますが、とても大事な意味があります。ここで、種ありのパン、イースト菌がはいったパンを、血のいけにえとともにささげてはならない、とありますが、パン種は罪や悪を表しています。キリストの流された血によって、私たちから罪が完全に取り除かれ、きよめられることを、種なしパンが表しているので、種ありパンをささげたら、その象徴が壊れてしまうことになります。

 また脂肪は、主のものである、との命令がレビ記にあります。脂肪を朝まで残していけないというのは、主の働きがすべて完成して、他には残されているものはない、という意味が含まれているからです。神がキリストにあって、私たちが救われるためにすべてのことをしてくださいました。もう一度、キリストが十字架につけられる必要はなく、私たちがこれ以上救われるためにしなければいけないことは何一つありません。完成したからです。したがって、脂肪も、完成するみわざを思って、その日のうちに焼き尽くさないといけません。

23:19 あなたの土地の初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない。子やぎを、その母親の乳で煮てはならない。

 この定めは少し唐突のように聞こえますが、当時、カナン人たちのならわしで、子やぎをその母親の乳で煮るという行為がありました。異教のならわしを真似てはいけない、ということと、また母の乳で子を煮るという残酷なことをしてはいけない、という両方の意味が含まれています。

 この定めから、ユダヤ人は厳しい食物規定を設けました。それは、肉製品と乳製品を同時に食事の中で取ってはいけない、というものです。ですから、ステーキを食べて、食後にコーヒーを読むときに、クリームを入れてはいけない、ということになり、実際に多くのユダヤ人がその掟にしがたっています。また、チーズバーガーは食べません。乳製品と肉製品の組み合わせだからです。けれども、これは私の友人のユダヤ人クリスチャンが言っていましたが、「こんなばかげたことはありません。」創世記にて、アブラハムとサラが三人の旅人を招いたとき、凝乳と子牛をほふったものをもってもてなしている場面が出てきますが、凝乳とはヨーグルトのことす。初めのユダヤ人であるアブラハムが、主の使いに肉製品と乳製品の食事を同時に出しているのだ、とユダヤ人クリスチャンが力説していました。

2B 敵国 21−33
 そして次から、主が約束の地におけるイスラエルへの約束を与えられます。

1C 主の使い 20−26
23:20
見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。23:21 あなたは、その者に心を留め、御声に聞き従いなさい。決して、その者にそむいてはならない。わたしの名がその者のうちにあるので、その者はあなたがたのそむきの罪を赦さないからである。23:22 しかし、もし御声に確かに聞き従い、わたしが告げることをことごとく行なうなら、わたしはあなたの敵には敵となり、あなたの仇には仇となろう。

 イスラエルが約束の地に入るとき、主からの使いが先頭に立つということですが、これは誰のことでしょうか?大天使には、ミカエルやガブリエルがいます。特にミカエルは、ダニエル書にて、イスラエルのために戦う君として登場しますから、ミカエルのようにも見えます。けれども、ミカエルには主の名前があるわけではありませんし、御使いには罪を赦す権威が与えられていません。

 ヨシュア記を読むと、エリコの城壁のところまで行ったヨシュアに対して現われた、主の使いがいます。この方は、モーセに燃える柴の中で現われた主ご自身であり、神です。つまり、神であられるけれども地上に遣わされた方、イエス・キリストご自身です。イエスさまは、「人の子に罪を赦す権威が与えられている」と言われて、天井から引き下ろしてこられた足なえの男をおいやしになりました。罪を赦す権威をお持ちです。また「イエス」という名前は、「ヤハウェは救いである」という意味であり、神の名前もその中にあります。ベツレヘムで赤ん坊として現われる前の、イエス・キリストです。

23:23 わたしの使いがあなたの前を行き、あなたをエモリ人、ヘテ人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人、エブス人のところに導き行くとき、わたしは彼らを消し去ろう。23:24 あなたは彼らの神々を拝んではならない。仕えてはならない。また、彼らの風習にならってはならない。これらを徹底的に打ちこわし、その石の柱を粉々に打ち砕かなければならない。

 約束の地に入ったとき、彼らの異教の宗教やならわしを徹底的に打ち壊さなければいけません。それは、カナン人たちはあまりにも堕落していたためであり、イスラエル人が彼らをさばく器として用いられるためです。また、イスラエル人たちが、神の怒りを招くそれらの忌まわしい行ないに真似することがないようにするためです。肉にしたがって死ぬか、あるいは御霊にしたがって肉の行いを殺し、いのちを得るかの二者選択です。これはクリスチャンでも同じです。

23:25 あなたがたの神、主に仕えなさい。主はあなたのパンと水を祝福してくださる。わたしはあなたの間から病気を除き去ろう。23:26 あなたの国のうちには流産する者も、不妊の者もいなくなり、わたしはあなたの日数を満たそう。

 これは、副次的にもたらされる神の祝福です。イエスさまが、神の国とその義を第一に求めなさい、そうすればこれらのものは加えて与えられると言われましたが、私たちが気にしなければいけないのは、神の国と義であり、それを第一にしていれば、他の必要や祝福はついてくる、ということです。

2C 主への恐れ 27−33
23:27 わたしは、わたしへの恐れをあなたの先に遣わし、あなたがそこにはいって行く民のすべてをかき乱し、あなたのすべての敵があなたに背を見せるようにしよう。23:28 わたしは、また、くまばちをあなたの先に遣わそう。これが、ヒビ人、カナン人、ヘテ人を、あなたの前から追い払おう。

 イスラエル人たちを恐れさせるために、その恐れをカナン人たちに送る、と約束されています。ヨシュア記に、エリコの住民が恐れおののいていることが、遊女ラハブによって報告されました。ギブオン人らも、イスラエル人を恐れて、変装して彼らと盟約を結ぶことを選びました。

23:29 しかし、わたしは彼らを一年のうちに、あなたの前から追い払うのではない。土地が荒れ果て、野の獣が増して、あなたを害することのないためである。23:30 あなたがふえ広がって、この地を相続地とするようになるまで、わたしは徐々に彼らをあなたの前から追い払おう。

 約束の地にはいったら、主が一挙にそこの住民を追い出してくれれば、さぞかし楽なのに、とイスラエル人は思ったかもしれませんし、私たちも思います。けれども、主は徐々に追い払おう、と言われています。

 これはクリスチャンたちの歩みと同じです。私たちの目標はキリストのようになることですが、御霊がその似姿に変えていってくださいます。だったら、一度に変えてくれればよいのに、と思ってしまいますが、もし肉の領域を一気に見させられたら、たぶん私は気絶してしまうでしょう。クリスチャンになったばかりのときに平気だったことは、今考えると、かなりやばいことだったのですが、その時に主はその肉の領域を見せないで、今になって見せてくださっています。徐々に、なのです。

23:31 わたしは、あなたの領土を、葦の海からペリシテ人の海に至るまで、また、荒野からユーフラテス川に至るまでとする。それはその地に住んでいる者たちをわたしがあなたの手に渡し、あなたが彼らをあなたの前から追い払うからである。

 約束の地の領土を知っておくことは大事です。アブラハムにも約束されていましたが、南北にはエジプトにある川からユーフラテス川まで、地中海に面するところからヨルダン川まで、というのが領域です。ヨシュアの時代、またダビデやソロモンの時代に、この領域に近づきましたが、イスラエルの不従順のため、外国の敵に占領されて、完全に所有することはできていません。今でもそうですが、主が戻って来られるとき、恵みによってイスラエル人たちを救われるとき、約束の土地は完全にユダヤ人たちの所有として回復します。

23:32 あなたは、彼らや、彼らの神々と契約を結んではならない。23:33 彼らは、あなたの国に住んではならない。彼らがあなたに、わたしに対する罪を犯させることのないためである。それがあなたにとってわなとなるので、あなたが彼らの神々に仕えるかもしれないからである。

 彼らとの契約を結んではならない・・・これは、彼らの価値観を共有してはならない、と言い換えられるでしょう。パウロがローマ人たちに、「この世と調子を合わせてはいけません」また、コリント人たちに、「信者と不信者とのどのような交わりがあるのですか?」と言っていることと同じです。

 こうして、「定め」について見てきました。神は、周りの異教徒の中で生きていくなかで、自分たちは聖なる民でいなければいけないことを教えました。私たちが聖なる者として生きる指針を与えてくれます。


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