アウトライン
1A 神から受け取る 28−29
1B キリストの栄光 28
1C 祭司の奉仕 1−4
2C 祭司の装束 5−43
1D エポデ 5−14
1E エポデ 5−8
2E 肩当て 9−14
2D 胸当て 15−30
1E 宝石 15−21
2E 金の鎖と環 22−29
3E ウリムとトンミム 30
3D その他 31−43
1E 青服 31−35
2E 金の札 36−38
3E 長服とかぶり物 39−40
3C 祭司の任命 41−43
2B キリストによる聖別 29
1C 用意 1−9
1D ささげ物 1−3
2D 洗い 4−9
2C 任命 10−37
1D 罪のいけにえ 10−14
2D 全焼のいけにえ 15−18
3D 任職 19−34
1E 奉献・奉納物 19−28
2E 継承 29−30
3E 和解 31−34
4D 祭壇の聖別 35−37
3C 日ごとのささげ物 38−46
1D なだめの香り 38−41
2D 神の会見 42−46
2A 神にささげる 30−31
1B 霊的な奉仕 ― 礼拝 30
1C 香壇 1−10
1D 用意 1−6
2D 用途 7−10
2C 贖い金 11−16
3C 洗盤 17−21
4C 注ぎの油 22−33
1D 調合 22−25
2D 用途 26−33
5C 香 34−38
2B 物質的な奉仕 ― 知恵 31
1C 幕屋のための仕事 1−11
1D 細工 1−5
2D 大工 6−11
2C 安息日 12−17
3C 十戒の授与 18
参照文献 祭司の装束については、以下のサイトの図が役立ちます。 High Priest Page |
本文
出エジプト記28章を開いてください。今日は、28章から31章までを学びます。ここでのテーマは、「神との会見」です。私たちは前回、主の栄光について学びました。いかに神が栄光に富んでおられるかを、幕屋をとおして見ることができました。今日は、この幕屋に実際に入っていく個所を学びます。つまり、神の栄光の中に入っていくのです。私たち自身が神さまのすばらしさの中にどのようにして入っていくことができるか、28章から31章までに書かれています。
1A 神から受け取る 28−29
1B キリストの栄光 28
1C 祭司の奉仕 1−4
あなたは、イスラエル人の中から、あなたの兄弟アロンとその子、すなわち、アロンとその子のナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを、あなたのそばに近づけ、祭司としてわたしに仕えさせよ。
聖所の中に入る人は祭司と呼ばれます。とくに至聖所に入る人は大祭司と呼ばれて、アロンの子孫から選ばれました。ですから、イスラエルの民は、直々に神と出会うことはできず、つねに仲介者を必要としていたのです。けれども、新約聖書において、キリストを信じる者はだれでも祭司と呼ばれています。ペテロは、「あなたがたは、王である祭司」であると言いました(Tペテロ2:9)。したがって、私たちは神のおられる中にそのまま入っていくことができます。
けれども、祭司になるために必要なことがあります。それはまず、装束を着ることでした。また、あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表わす聖なる装束を作れ。
大祭司は、栄光と美を表す聖なる装束を着なければいけません。普通の服装では決して聖所に入ることはできず、主が設けられた衣服を着なければいけませんでした。
あなたは、わたしが知恵の霊を満たした、心に知恵のある者たちに告げて、彼らにアロンの装束を作らせなければならない。彼を聖別し、わたしのために祭司の務めをさせるためである。
その装束を作るときは、御霊に満された人がそれを行なわなければいけません。この人たちについては、31章で詳しく述べられています。そして、この装束を身につけるのは、アロンを聖別するためであると書いてあります。聖別するとは、他のものから区別されて、神だけのものになるという意味です。このことは、29章で詳しく述べられています。
彼らが作らなければならない装束は次のとおりである。胸当て、エポデ、青服、市松模様の長服、かぶり物、飾り帯。彼らは、あなたの兄弟アロンとその子らに、わたしのために祭司の務めをさせるため、この聖なる装束を作らなければならない。
そして、次から装束の各部分についての説明があります。したがって、祭司が聖所で神に仕えるために、最初に命じられたことは装束を作ることでした。どんな事よりも初めに、この栄光と美の聖なる装束を身につけなければなりませんでした。それは、この装束が、イエス・キリストご自身を指し示しているからです。私たちは、ありのままの姿で、神のみもとに行くことはできません。また、自分を良くすることによって、神に近づくことはできません。イザヤは、「私たちの義はみな、不潔な着物のようです。(64:6)」と言いました。けれども、イエス・キリストの義を身に着けることによって、神の幕屋の中に入ることができます。パウロは、「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。(ガラテヤ3:27)」と言いました。ですから、イエス・キリストが、私たちにとって聖なる栄光と美の装束です。私たちは、自分の正しさではなく、キリストの完全な義を身にまとって出て行きます。
2C 祭司の装束 5−43
次から装束の各部分の説明に入りますが、その際に、大祭司の図を見ながら聞いてください。
1D エポデ 5−14
1E エポデ 5−8
それで彼らは、金色や、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに亜麻布を受け取らなければならない。彼らに金色や、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用い、巧みなわざでエポデを作らせる。
最初は、エポデについての説明です。これはエプロンのような形をしており、大祭司の胸と腹の部分を覆っています。その材質は、金、青、紫、緋色の撚り糸と、亜麻布です。覚えていますか、これらは、金を除いて幕屋と同じ材質で出来ています。そして、これらはみな、キリストのご性質と御業を表していました。金はキリストの神性です。キリストが神であることを意味しています。青は、イエスが天から来られたことを示しています。紫はイエスが王であること、緋色はイエスが流された血です。そして亜麻布は、キリストの正しい行ないを示しています。
これにつける二つの肩当てがあって、その両端に、それぞれつけられなければならない。
エポデは、正面だけでなく後ろもありました。けれども、二つはバラバラになっており、肩当てによって結びつけられました。
エポデの上に結ぶあや織りの帯は、エポデと同じように、同じ材料、すなわち金色や、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で作る。
エポデを締める飾り帯もエポデと同じ材質です。このエポデが、胸と腹を覆っていなければならず、私たちは心の奥底でキリストの義を受け入れる必要があることが分かります。
2E 肩当て 9−14
そして次に、肩当てについての説明があります。二つのしまめのうを取ったなら、その上にイスラエルの子らの名を刻む。その六つの名を一つの石に、残りの六つの名をもう一つの石に、生まれた順に刻む。印を彫る宝石細工師の細工で、イスラエルの子らの名を、その二つの石に彫り、それぞれを金のわくにはめ込まなければならない。
肩当ては、しまめのうという宝石の一種で作られます。そこに、イスラエル12部族の名前が彫られます。片方に6つ、もう片方に6つです。それを金のわくにはめ込みます。
その二つの石をイスラエルの子らの記念の石としてエポデの肩当てにつける。アロンは主の前で、彼らの名を両肩に負い、記念とする。
このような肩当てが作られる目的は、主の前でイスラエルの子らを記念とすることです。彼らの名前を、神が思い出すためです。肩の上で思い出されることについては、私たちはイエスのたとえを思い出します。こう語られました。「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。(ルカ15:4−6)」イエスは、失われた羊をご自分の肩にかついで、彼らを神のみもとに引き連れて来られました。したがって、大祭司の肩入れにイスラエルの名が記されていることは、彼らが失われても、イエスが捜し、見つけ出してくださることを示しています。むろん、これは異邦人にも当てはまります。私たちは失われていましたが、見出されました。イエスの肩に乗せられて、神のみもとに連れて来られたのです。
あなたは金のわくを作り、また、二つの純金の鎖を作り、これを編んで、撚ったひもとし、この撚った鎖を、先のわくに、取りつけなければならない。
金のわくの中に肩入れがあります。つまり、神の御手の中にイスラエルが、また、私たちクリスチャンがすっぽり埋まっています。そして、純金の鎖ですが、これは、次に出て来る胸当てを支えるためのものです。
2D 胸当て 15−30
1E 宝石 15−21
あなたはさばきの胸当てを、巧みな細工で作る。それをエポデの細工と同じように作らなければならない。すなわち、金色や、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で作らなければならない。それは、四角形で、二重にし、長さは一あたり、幅は一あたりとしなければならない。
次は胸当てです。これもエポデと同じ細工になっています。大きさは、約22センチの正方形です。これはまた、さばきの胸当てとありますが、イスラエルの民が祭司にうかがいを立てるときに、用いられたようです。ヨシュアの時代に、イスラエルの民がカナンの地を攻め取るとき、どこに行けば良いのか、いつ攻めれば良いのかを、ヨシュアは大祭司に聞きました(民数27:21参照)。これは二重にしなければならない、と書いてありますね。この中に、後で出て来るウリムとトンミムが入っており、それで主のみこころをうかがったようです。
そして、胸当てには宝石がはめ込まれていました。その中に、宝石をはめ込み、宝石を四列にする。すなわち、第一列は赤めのう、トパ一ズ、エメラルド。第二列はトルコ玉、サファイヤ、ダイヤモンド。第三列はヒヤシンス石、めのう、紫水晶、第四列は緑柱石、しまめのう、碧玉。これらを金のわくにはめ込まなければならない。
宝石の詳しい方は、この12の宝石のうちどれだけ分かるでしょうか。聖書には、いくつかの個所で宝石が登場しています。だいたい天国における情景が描かれているときに登場しています。天国が、神の美と栄光を反映しているからです。
この宝石はイスラエルの子らの名によるもので、彼らの名にしたがい十二個でなければならない。十二部族のために、その印の彫り物が一つの名につき一つずつ、なければならない。
名前が一つずつ彫られています。宝石の中に彼らの名前があり、しかも大祭司の胸の上にあります。これは天においてイスラエルの名が書き記されており、それをキリストが胸の中で抱いていてくださっている、と言えるでしょう。ヨハネは、過越の祭の食事において、自分のことをこう言っています。「弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの御胸のそばで、からだを横にしていた。(ヨハネ13:23直訳)」つまり私たちは、神に愛された者、キリストのふところにいる者です。イエスの御胸に私たちの名前があり、神に深く愛されているのです。
2E 金の鎖と環 22−29
そして、次から、胸当てを体に留めるための鎖と環について述べられています。また編んで撚った純金の鎖を胸当てにつける。胸当てに、金の環二個をつけ、その二個の環を胸当ての両端につける。
胸当ての両側に、純金の鎖がつけられます。そのために、胸当てに金の環が2つ付けられます。
この二筋の金のひもを胸当ての両端の二個の環につける。その二筋のひもの他の端を、先の二つのわくにつけ、エポデの肩当てに外側に向くようにつけなければならない。
先ほどの肩当ての環にこの鎖を付けます。これで胸当ては、からだにぶら下がるようになりましたが、これだけだと動いたら、ぶらぶら動いてしまいます。そこで下の部分も固定させなければいけません。その説明が、次にあります。
ほかに二個の金の環を作り、これを胸当ての両端、すなわち、エポデの前に来る胸当ての内側の縁につける。
二重にある胸当ての内側に金の環を作ります。
ほかに二個の金の環を作り、これをエポデの二つの肩当ての下端の外側に、すなわち、エポデのあや織りの帯の上部の継ぎ目に接した面の上につける。
ちょうど脇に当たるエポデのところに、金の環を作ります。
胸当ては、青ひもで、その環のところをエポデの環に結びつけ、エポデのあや織りの帯の上にあるようにする。胸当てがエポデからずり落ちないようにしなければならない。
胸当ての内側にある環と、脇の下にある環を青ひもで結びつけ、図のように胸当てがからだにくっつきます。
アロンが聖所にはいるときには、さばきの胸当てにあるイスラエルの子らの名をその胸の上に載せ、絶えず主の前で記念としなければならない。
先ほどは、肩の上で記念とされていましたが、ここでは胸の上で記念とされています。そして、「絶えず」記念とされていますね。私たちは、絶えず、キリストによって神の御前に記念とされているのです。キリストは絶えず執り成しをしてくださり、神の御前に私たちのことが思い出されているのです。
3E ウリムとトンミム 30
さばきの胸当てには、ウリムとトンミムを入れ、アロンが主の前に出るときに、それがアロンの胸の上にあるようにする。アロンは絶えず主の前に、イスラエルの子らのさばきを、その胸の上に載せる。
このウリムとトンミムは、胸当ての中にはいっています。ウリムは「光」、トンミムは「完全」という意味です。この2つは、主のみこころを求めるときこれらを用いたようです。
3D その他 31−43
そして、その他の衣服に部分について述べられます。
1E 青服 31−35
エポデの下に着る青服を、青色の撚り糸だけで作る。
図を見てください。エポデの下に青い服を着ていますね。青色は天を現わしています。
その真中に頭を通す口を作る。その口の周囲には、織物の縁をつけ、よろいのえりのようにし、ほころびないようにしなければならない。
普通の衣服でもやっていることですね。ほころびないように、えりを作ります。
そのすそに、青色、紫色、緋色の撚り糸で、ざくろを作り、そのすその回りにこれをつけ、その回りのざくろの間に金の鈴をつける。すなわち、青服のすその回りに金の鈴、ざくろ、金の鈴、ざくろ、となるようにする。
ざくろとありますが、糸でかたまりを作ったのでしょう。それと金の鈴が青服のすそに交互についています。
アロンはこれを務めを行なうために着る。彼が聖所にはいり、主の前に出るとき、またそこを去るとき、その音が聞こえるようにする。彼が死なないためである。
音が聞こえることと、死なないようにすることは関係があります。大祭司は、他のイスラエル人や他の祭司には入ることができないところに入ります。そのときに、彼が誤ったことを行ない主に打たれて死んだとき、そこにだれも入っていくことができません。また、死んだかどうかも分かりません。ですから、人々は鈴の音を聞いて、大祭司がその務めを行なっているかどうか知ることができました。
2E 金の札 36−38
次は金の札です。また、純金の札を作り、その上に印を彫るように、『主への聖なるもの』と彫り、これを青ひもにつけ、それをかぶり物につける。それはかぶり物の前面に来るようにしなければならない。これがアロンの額の上にあるなら、アロンは、イスラエル人の聖別する聖なる物、すなわち、彼らのすべての聖なるささげ物に関しての咎を負う。これは、それらの物が主の前に受け入れられるために、絶えずアロンの額の上になければならない。
純金の札が、かぶり物に付けられます。そこには「主への聖なるもの」と彫られています。これは、アロンがイスラエルのささげものの咎を負うためである、とあります。イスラエル人が持ってきた物は、いろいろな清めと洗いがなされていますが、完全に聖い神の御前には汚れています。そこで民を代表するアロンは、それを額の上に置き、その汚れたささげ物がすべて聖められ、「主への聖なるもの」となるようにするのです。これでイスラエル人のささげ物が、絶えず神の御前に受け入れられるようになります。キリストは同じ働きをしてくださっています。エペソ書1章において、神が、その愛する方キリストによって、私たちが受け入れられた者とされたとあります。私たちは、キリストにあって、御前に聖い者とされたのです。しかも絶えず聖い者とされています。
3E 長服とかぶり物 39−40
次は長服とかぶり物です。亜麻布で市松模様の長服を作り、亜麻布でかぶり物を作る。飾り帯は刺繍して作らなければならない。あなたはアロンの子らのために長服を作り、また彼らのために飾り帯を作り、彼らのために、栄光と美を表わすターバンを作らなければならない。
青服の下に着ているものが長服です。亜麻布で作られ、これはキリストの完全な義を示しています。そして、かぶり物も白であります。飾り帯がふたたび言及され、最後に「栄光と美を表わす」と、繰り返されています。この装束は、ただ栄光と美を表わすものです。キリストの栄光と美を表わします。
3C 祭司の任命 41−43
これらをあなたの兄弟アロン、および彼とともにいるその子らに着せ、彼らに油をそそぎ、彼らを祭司職に任命し、彼らを聖別して祭司としてわたしに仕えさせよ。
聖別という言葉が再び登場していますが、聖別されるために油がそそがれます。
彼らのために、裸をおおう亜麻布のももひきを作れ。腰からももにまで届くようにしなければならない。
聖所にはいることは礼拝ですから、主に心を合わせることから妨げになることは、極力、取り除かなければいけません。そのため、裸が見えないようにしなければならず、ももひきを作ります。
アロンとその子らは、会見の天幕にはいるとき、あるいは聖所で務めを行なうために祭壇に近づくとき、これを着る。彼らが咎を負って、死ぬことのないためである。これは、彼と彼の後の子孫とのための永遠のおきてである。
彼らが装束を着なければいけない理由が、ここに明確に記されています。「咎を負って、死なないため」です。彼らが選ばれて、彼らがいかにすばらしいかを示すために、この装束を身に着けたのではありません。逆に、彼らがいかに汚れているかが聖所に入るときに知られてしまうため、装束を身に着けたのです。つまり、彼ら自身が守られるために身に着けたのであり、救いのため、贖いのために身に着けたのです。ですから、キリストが私たちの救いです。
2B キリストによる聖別 29
こうして装束の説明が終わりましたが、次は祭司の任命式について書かれています。彼らが実際に幕屋で奉仕するまえに、聖別の儀式を通ります。今や祭司とされている私たちも同じです。装束を身に着けるとは、キリストの義を身にまとうことでしたが、私たちが義と認められて、そして次に聖化されます。キリストによって聖められるとは、どういうことかを見ていきます。
1C 用意 1−9
1D ささげ物 1−3
あなたは、彼らを祭司としてわたしに仕えるように聖別するため、次のことを彼らにしなければならない。すなわち、若い雄牛一頭、傷のない雄羊二頭を取れ。種を入れないパンと、油を混ぜた種を入れない輪型のパンと、油を塗った種を入れないせんべいとを取れ。これらは最良の小麦粉で作らなければならない。これらを一つのかごに入れ、そのかごといっしょに、あの一頭の雄牛と二頭の雄羊とをささげよ。
神は、聖別のために、牛と羊、そしてパンをささげるように命じておられますが、それは、自分自身をきよめることは人間にできないからです。箴言には、「だれが、『私は自分の心をきよめた。私は罪からきよめられた。』と言うことができよう。(20:9)」と書かれています。私たちはどんなに良い行ないをしたり、宗教的な行為をしたとしても、神に受け入れられることはないのです。それで神は、代わりに受け入れられるものを用意させることによって、私たちを聖めてくださいます。そして、その代わりのなるものはみな、イエス・キリストご自身を指し示しています。例えば、雄羊は傷があってはなりません。ペテロはこう言いました。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(ペテロ第一1:18-19)」イエスは傷のない、完璧な方でした。そして、パンは種がないものでなければいけません。聖書ではパン種は、いつも悪い意味で使われます。しかし、イエスは罪のない方でした。またパンは、油が混ぜられています。油は、聖霊の象徴として使われています。イエスは、聖霊に満ちた方でした。
2D 洗い 4−9
アロンとその子らを会見の天幕の入口に近づかせ、水で彼らを洗わなければならない。あなたは、装束を取り、アロンに長服とエポデの下に着る青服と、エポデと胸当てとを着せ、エポデのあや織りの帯を締めさせる。再び、装束を身に着けるところから話を始めています。彼らは装束を身につける前に、水で身体を洗わなければいけません。これは衛生上のことではなく、心の汚れが清められる象徴でした。イエスが、ペテロに対して、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。(ヨハネ13:10)」と言われたことを思い出せるでしょうか。イエスは、この祭司の儀式のことを考えておられたかもしれません。弟子たちはすでに、イエスによってきよめられ、全身現われていました。そのあと、洗う必要があるのは足だけです。私たちクリスチャンも同じです。キリストによって聖なる者とされました。すでに神の御前できよいのです。けれども、毎日、生活しているうちに心に汚れが付きます。日々、主に清めていただく必要があり、足を洗うのはそういうことなのです。このことについて、後で洗盤の話が出て来るのでそのとき取り扱いましょう。
彼の頭にかぶり物をかぶらせ、そのかぶり物の上に、聖別の記章を掛ける。そそぎの油を取って、彼の頭にそそぎ、彼に油そそぎをする。彼の子らを近づけ、彼らに長服を着せなければならない。アロンとその子らに飾り帯を締めさせ、ターバンを巻きつけさせる。永遠のおきてによって、祭司の職は彼らのものとなる。あなたは、アロンとその子らを祭司職に任命せよ。
装束を身に付けた後に、油そそぎがありました。油は聖霊のことを示していますから、私たちがイエスを受け入れたときに、聖霊の注ぎを受けます。イエスは、「人は水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。(ヨハネ3:5)」とおっしゃられました。ですから、御霊によって新たに生まれることが、神の栄光の中に入るためには必要不可欠なことであります。
2C 任命 10−37
そして、三頭の動物のささげ方の説明があります。一頭目は、罪のためのささげものです。二頭目は、全焼のいけにえです。そして三頭目は、和解のささげものです。この順番はとても大切です。なぜなら、これは、私たちが神に受け入れられ、神と交わりをするため順番を踏んでいるからです。最初に、私たちの罪が赦されなければいけません。罪が私たちと神を引き離すので、この罪が処理されなければいけません。次に、私たちは自分自身を主にささげる必要があります。イエス・キリストを主として、イエスを中心にして生きる決断をしなければなりません。全焼のいけにえは、そのためにあります。そして、私たちは主に感謝をささげます。賛美をし、主に喜び歌います。和解のいけにえはそのためであり、主に感謝をささげることを意味していました。
1D 罪のいけにえ 10−14
それでは、罪のいけにえから見ていきたいと思います。あなたが、雄牛を会見の天幕の前に近づけたなら、アロンとその子らがその雄牛の頭に手を置く。
手を置いていますが、これは、その動物といっしょになることを意味します。使徒行伝の中で人々は手を置いていますが、それは宣教地に遣わされる人たちと自分がいっしょになることを意味しているのです。ここでは、雄牛が祭司の罪といっしょになることを表わしています。祭司の罪が牛に転嫁するのです。私たちは、主イエス・キリストが、この働きをしてくださったことを知っています。私たちの罪がキリストに転嫁して、キリストの義が私たちに転嫁しました。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(コリント第二5:21)」とパウロが言いました。あなたは、会見の天幕の入口で、主の前に、その雄牛をほふり、その雄牛の血を取り、あなたの指でこれを祭壇の角につける。その血はみな祭壇の土台に注がなければならない。祭司の罪を負った雄牛は、神のさばきを受けなければいけません。そのため、雄牛はほふられて血を流されます。その血は祭壇の角につけられますが、角は救いとか権威を象徴しています。ですから、この血によって祭司がさばきから救われたことを意味します。
その内臓をおおうすべての脂肪、肝臓の小葉、二つの腎臓と、その上の脂肪を取り、これらを祭壇の上で焼いて煙にする。
内臓はみな祭壇の上で焼かれました。これは、罪が地獄の火で焼かれていることを意味します。その火を見ながら、祭司は、自分の代わりにこの雄牛が神のさばきを受けていることを知るのです。
ただし、その雄牛の肉と皮と汚物とは、宿営の外で火で焼かなければならない。これは罪のためのいけにえである。
肉と皮と汚物は、祭壇の上では焼いていけません。宿営の外まで持って行き、そこで焼かなければいけません。新約聖書では、これがイエスの十字架の場所を示していると伝えています。ヘブル書13章11節をご覧ください。「動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。(13:11-13)」動物のからだが宿営の外で焼かれたように、イエスはエルサレムの町の門の外で十字架につけられました。イエスが殺された場所はゴルゴダという場所であり、エルサレムの城壁の外に位置します。
2D 全焼のいけにえ 15−18
こうして、祭司は、自分の罪が赦されたことを知りました。もう神に近づけることを知りました。そこで、彼は、自分を神におささげしたいと思うようになります。パウロもこう言いました。「(あなたがたは、)罪から解放されて、義の奴隷となったのです。…今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔にすすみなさい。(ローマ6:18、19)」罪が赦された後に、献身へと導かれるのです。
あなたは雄羊一頭を取り、アロンとその子らはその雄羊の頭に手を置かなければならない。
再び手を置いていますが、今度は自分の生涯をこの羊に転嫁します。
あなたはその雄羊をほふり、その血を取り、これを祭壇の回りに注ぎかける。また、その雄羊を部分に切り分け、その内臓とその足を洗い、これらをほかの部分や頭といっしょにしなければならない。
雄羊のからだの器官が洗われていますね。これは私たち自身が神によって洗われていることを示しています。
その雄羊を全部祭壇の上で焼いて煙にする。これは、主への全焼のいけにえで、なだめのかおりであり、主への火によるささげ物である。
全部、というのが大切な言葉です。一部ではなく全部です。みなさんのすべては、ささげられているでしょうか。そして、ここに、「なだめのかおり」とありますね。とっても良い香りがする、という意味です。ささげられた魂は、神にとって香ばしい供え物です。
3D 和解のいけにえ 19−34
こうして罪の赦しが与えられ、献身の決意ができました。次に、祭司は神に受け入れられたことを喜び、感謝します。そこで、祭司は、残りの一頭の雄羊をもって、その感謝と喜びを表現するのです。
1E 奉献・奉納物 19−28
あなたはもう一頭の雄羊を取り、アロンとその子らはその雄羊の頭に手を置く。
ふたたび手を置きます。この羊が自分といっしょになるためです。
あなたはその雄羊をほふり、その血を取って、アロンの右の耳たぶと、その子らの右の耳たぶ、また、彼らの右手の親指と、右足の親指につけ、その血を祭壇の回りに注ぎかける。
血は、右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指につけられます。右は権威を示しますが、祭司が神の声を自分の耳で聞き、神の御用を自分の手で果たし、神の使命を自分の足で運びます。そのときに、耳も手も足も聖められていなければならず、聖めのために血がつけられるのです。私たちが日々の雑音の中で、神の声を聞き分けられるように、清められる必要があります。また、この手が、悪いこと、間違っていることから離れて、神さまのために用いられていなければいけません。また、足も、神の悲しまれるところへは行かず、神が喜ばれる所に足を運ぶ必要があります。こうして、私たちは、神との交わりを保つことができるのです。
あなたが、祭壇の上にある血とそそぎの油を取って、アロンとその装束、および、彼とともにいる彼の子らとその装束とに振りかけると、彼とその装束、および、彼とともにいる彼の子らとその装束とは聖なるものとなる。
再び、そそぎの油が注がれます。これは、新たに生まれるための油注ぎではなく、奉仕のための油注ぎです。神のご用にあずかるとき、私たちは必ず聖霊の油注ぎが必要となります。
あなたはその雄羊の脂肪、あぶら尾、内臓をおおう脂肪、肝臓の小葉、二つの腎臓、その上の脂肪、および、右のももを取る。これは、任職の雄羊である。主の前にある種を入れなパンのかごの丸型のパン一個と、油を入れた輪型のパン一個と、せんべい一個、これらをみなアロンの手のひらと、その子らの手のひらに載せ、これらを奉献物として主に向かって揺り動かす。これらを、彼らの手から取り、全焼のいけにえといっしょに祭壇の上で焼いて煙とし、主の前になだめのかおりとする。これは、主への火によるささげ物である。
いけにえとパンは焼かれる前に、祭司によって主の前で揺り動かされました。左・右に揺り動かすのではなく、前後に揺り動かします。これは、神がこれからしてくださることをお祝いするジェスチャーです。
ところで、雄牛と一頭の雄羊はすべて焼かれましたが、もう一頭の雄羊は、その一部を祭司が食べることになります。読んでみましょう。あなたはアロンの任職用の雄羊の胸を取り、これを奉献物として主に向かって揺り動かす。これは、あなたの受け取る分となる。あなたがアロンとその子らの任職用の雄羊の、奉献物として揺り動かされた胸と、奉納物として、ささげられたももとを聖別するなら、それは、アロンとその子らがイスラエル人から受け取る永遠の分け前となる。それは奉納物であり、それはイスラエル人からの和解のいけにえの奉納物、すなわち、主への奉納物であるから。
この羊の胸とももの部分は、祭壇の上で焼かれずに祭司が食べることになります。なぜなら、これは和解にいけにえだからです。和解したあとには交わりがあります。羊の一部を主がお食べになり、祭壇で焼かれました。胸とももは祭司が食べました。こうして、神と祭司が、一つのいけにえを分かち合うことによって、お互いに一つになることを示しています。ちなみに、奉納物という言葉がここにありますが、これは、上に差し伸べるささげ物を意味しています。つまり、神さまに差し伸べているのです。私たちも賛美をするときに、手を上げてすることもありますが、それは、この奉納物から来ているのです。
2E 継承 29−30
アロンの聖なる装束は、彼の跡を継ぐ子らのものとなり、彼らはこれを着けて、油そそがれ、祭司職に任命されなければならない。彼の子らのうち、彼に代わって祭司となる者は、聖所で務めを行なうために会見の天幕にはいるとき、七日間、これを着なければならない。
この任命式は、アロンだけでなく、その子孫も行なうようです。
3E 食事 31−34
そして、和解のいけにえに戻りますが、祭司が受け取った胸とももを、どのように食べるかが記されています。あなたは任職用の雄羊を取り、聖なる場所で、その肉を煮なければならない。
肉は煮なければいけません。祭壇の上では焼かれましたが、ここでは煮る必要があります。なぜなら、交わりには私たち人間が関わっているからです。火で焼かれるのは、聖くされて神のものになることですが、焼かれないと罪が残るという象徴があります。ですから、神は、煮た肉を受け入れませんが、今ここでは祭司たちが関わっています。祭司たちにはまだ罪があります。罪が赦され、罪が清められたのですが、罪がなくなったわけではありません。私たちもそうですね。神と交わりをするときに、私たちの罪がなくなっているのではありません。使徒ヨハネは、「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。 (ヨハネ第一1:8)」と言いました。
アロンとその子らは、会見の天幕の入口で、その雄羊の肉と、かごの中のパンとを食べる。彼らは、彼らを祭司職に任命し、聖別するための贖いに用いられたものを、食べる。ほかの者は食べてはならない。これらは聖なる物である。もし、任職用の肉またはパンが、朝まで残ったなら、その残りは火で焼く。食べてはならない。これは聖なる物である。
これは聖なる物である、という言い回しが繰り返されています。そのため、他の人は決して食べてはならず、朝まで残ったら、火で焼かなければいけません。これは、聖別された者にしか、神を交わることはできないことを意味します。祭司でもないのに、祭司のようなふりをして交わることは決してできないのです。例えば、キリストを本当には受け入れていないのに、クリスチャンのふりをしたり、牧師のふりをしたりする人がいますが、これは神には決して受け入れられないものです。ですから、祭司以外の人が食べてはいけません。
4D 祭壇の聖別 35−37
そして次に面白い規定があります。人だけはなく祭壇が聖別されています。あなたが、わたしの命じたすべてのことをそのとおりに、アロンとその子らに行なったなら、七日間、任職式を行なわなければならない。
任職式は7日続きました。1日だけではありません。
毎日、贖罪のために、罪のためのいけにえとして雄牛一頭をささげなければならない。祭壇のための贖いをするときには、その上に罪のためのいけにえをささげ、これを聖別するために油をそそぐ。
祭壇のために、雄牛一頭が毎日ささげられます。
七日間にわたって祭壇のための贖いをしなければならない。あなたがそれを聖別すれば、祭壇は最も聖なるものとなる。祭壇に触れるものもすべて聖なるものとなる。
物が聖別されるのは不思議ですが、これを「神だけのためのものになる」と言い換えたら理解できるのではないでしょうか。神は、ご自分のためだけにしてほしい物を持っておられます。例えば、教会にささげられたお金は、神の栄光のためだけに、また福音宣教のためだけに用いられることを望んでおられます。ですから、祭壇も聖別されました。
3C 日ごとのささげ物 38−46
こうして、彼らは無事、祭司として神に仕えることができるようになりましたが、すぐにしなければならない務めは、日ごとにいけにえをささげることです。次を読んでみましょう。
1D なだめの香り 38−41
祭壇の上にささげるべき物は次のとおりである。毎日絶やすことなく一歳の若い雄羊二頭。一頭の若い雄羊は朝ささげ、他の一頭の若い雄羊は夕暮れにささげなければならない。一頭の若い雄羊には、上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた最良の小麦粉十分の一エパと、また注ぎのささげ物として、ぶどう酒四分の一ヒンが添えられる。もう一頭の若い雄羊は夕暮れにささげなければならない。これには朝の穀物のささげ物や、注ぎのささげ物を同じく添えてささげなければならない。それは、なだめのかおりのためであり、主への火によるささげ物である。
朝と夕暮れにささげものが行なわれます。「毎日絶やすことなく」という風に強調されていますね。これは、祭司たちは絶えず、神にお仕えしなければならないことを意味します。一度祭司になれば、毎日、いつも祭司なのです。私たちクリスチャンもそうです。イエス・キリストを心に受け入れ、罪赦され、心がきよめられたら、私たちはそれからずっと神にお仕えするのです。1ヶ月後に、神さまにお会いするよ、ということではありませんね。日々、神に会わなければいけません。
ささげものを詳しく見ますと、羊がありますね。いのちがささげられています。これは、もちろん、キリストのいのちを意味していますから、私たちはいつもキリストの犠牲を感謝するのです。さらに、上質のオリーブ油で、最良の小麦粉がささげられていますが、これは、私たちが神を一番にしていることを意味します。困ったときの神頼みではなく、さまざまな決断をして行く上で、神を優先し、神をもっとも大切にします。そして、注ぎのささげ物とありますが、これは、私たちのいのちそのものです。パウロは、「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。」と言いました(Uテモテ4:6)。そして、夕暮れには、朝の穀物のささげ物とありますが、一日の収穫をささげます。私たちは、日々、仕事によって得た収入がありますが、そうした財産はまず神にささげられるべきなのです。
2D 神の会見 42−46
このような日々の務めをしていって、祭司は神と出会うのです。次を見てください。これは、主の前、会見の天幕の入口で、あなたがたが代々にわたって、絶やすことのない全焼のいけにえである。その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る。
神が直接、祭司と会ってくださり、語られます。私たちは、この出会いが日々必要です。実は、これがクリスチャンの唯一の務めでしょう。私たちの務めは、ただ、神がどのようなすばらしい方なのかを心に留め、思いを潜めることであります。その過程に、奉仕があるかもしれません。伝道があるかもしれません。けれども、それらはあくまでも、神をさらに深く知って、神に出会うための道程にしかすぎないのです。そして、神は、個人的に、私たちに語ってくださるのです。
その所でわたしはイスラエル人に会う。そこはわたしの栄光によって聖とされる。わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する。またアロンとその子らを聖別して、彼らを祭司としてわたしに仕えさせよう。わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。
ここもすばらしい聖句です。主がイスラエルの中に住んでくださいます。そして、単なる神ではなく、彼らの個人的な神となってくださいます。この「住む」という言葉は、ヨハネの福音書に出て来る、「ことばは肉となって、私たちの間に住まわれた。」という言葉と同じです。父なる神とイエスが、私たちとともに住んでくださいます。私たちは、どれほど神を個人的に知っているでしょうか。聖書に書かれている約束を、自分の約束にしているでしょうか。人々に示された神の愛を、自分に示された神の愛としているでしょうか。どれだけ、神の戒めを自分の戒めにしているでしょうか。神は、私たちの神になりたいと願っておられます。
彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。
こうして、神は、ご自分のことをイスラエル人に現わされました。
2A 神にささげる 30−31
こうして、祭司の装束と祭司の任命について学びましたが、次からは実際の奉仕について学びます。30章では、霊的な奉仕について述べられています。31章では、物質的な奉仕について述べられています。どちらも大切な奉仕です。
1B 霊的な奉仕 ― 礼拝 30
最初に、香壇における奉仕が説明されています。
1C 香壇 (祈り) 1−10
1D 用意 1−6
あなたは、香をたくために壇を作る。それは、アカシヤ材で作らなければならない。長さ一キュビト、幅一キュビトの四角形で、その高さは二キュビトでなければならない。その一部として角をつける。それに、上面と回りの側面と角を純金でかぶせる。その回りに、金の飾り縁を作る。また、その壇のために、その飾り縁の下に、二つの金環を作らなければならない。相対する両側に作らなければならない。これらは、壇をかつぐ棒を通す所となる。その棒はアカシヤ材で作り、それに金をかぶせる。それをあかしの箱をおおう垂れ幕の手前、わたしがあなたとそこで会うあかしの箱の上の『贖いのふた』の手前に置く。
ここでは、香壇そのものの作り方と配置が記されています。図を見てください。壇ですが、祭壇よりもかなり小さく、縦横44センチで高さが88センチです。材質はアカシヤ材です。これはキリストが人として来られたことを表わすものであると、前回学びました。そして、純金がかぶされています。金はキリストが神であることを示します。祭壇と同じように、棒が差し込まれて運ぶことができるようになっています。そして香壇が置かれる場所は、至聖所と聖所を区切る垂れ幕の手前です。神は、「わたしが会う手前に置く」と強調されています。香壇は、神に出会うことと直接的なつながりがあるようです。
2D 用途 7−10
次に、香壇がどのように用いられるか見てみましょう。アロンはその上でかおりの高い香をたく。朝ごとにともしびをととのえるときに、煙を立ち上らせなければならない。アロンは夕暮れにも、ともしびをともすときに、煙を立ち上らせなければならない。これは、あなたがたの代々にわたる、主の前の常供の香のささげ物である。
壇の上で香がたかれます。朝ごとに、夕ごとに煙を立ち上らせないといけません。常供とは、「日ごとの」という意味です。「ともしびをともすときに」とありますが、これは聖所にある燭台のともしびのことを言っています。
あなたがたは、その上で異なった香や全焼のいけにえや穀物のささげ物をささげてはならない。また、その上に、注ぎのぶどう酒を注いではならない。
どのような香をたくかは、厳密に決められていました。また、全焼のいけにえやその他のささげ物もここで行なってはいけません。
アロンは年に一度、贖罪のための、罪のためのいけにえの血によって、その角の上で贖いをする。すなわち、あなたがたは代々、年に一度このために、贖いをしなければならない。これは、主に対して最も聖なるものである。
年に一度、贖いの日があります。それはレビ記16章に詳しく説明されています。この日には、天幕の用具が血によって聖められたようです。
それでは、この香壇は何のためにあるのでしょうか。詩篇には、「私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。(141:2)」とあります。これは祈りだったのです。ルカによる福音書1章を思い出せますか。祭司ゼカリヤが香をたいている間に、御使いガブリエルが香壇の右に立ち、こう言いました。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。(1:13)」ガブリエルは、香壇のところでザカリヤの祈りが神に届いたことを告げました。確かに黙示録にも、「この香は聖徒たちの祈りである。(5:9)」とあります。ですから、神さまがなぜ、ご自分を現わす贖いのふたの手前に、香壇を置くのを命じられたのかを理解できると思います。私たちが神に出会うためには、祈りが必要なのです。祈りによって、神と出会うことができます。朝に夕に、この香をたいていなければいけませんが、祈りは朝に夕に行なうものです。つまり、一日が始まるときに主に祈り、一日が終わるときに主に祈ります。私たちが昼に労働をする前後に祈りが必要なのです。
2C 贖い金 (献金) 11−16
そして次に、イスラエル人がこの礼拝に参加するために支払うべき贖い金について述べられています。主はモーセに告げて仰せられた。「あなたがイスラエル人の登録のため、人口調査をするとき、その登録にあたり、各人は自分自身の贖い金を主に納めなければならない。これは、彼らの登録によって、彼らにわざわいが起こらないためである。」
この贖い金については、律法の中で、自分の家畜が人を殺した場合、死刑になる代わりに支払われる罰金として言及されています(出エジプト21:30参照)。そして、人口調査は、成年男子20歳以上の者を対象にしており、彼らは軍役に就いているものです。したがって、この贖い金は、戦争において人の命を奪ったことに対するものであると推測できます。たとえ神が命じられた戦争であっても、人のいのちは尊ばれているわけです。ですから、ここでの「わざわい」とは、もしかしたら虐殺ということかもしれません。けれども、新約においては、この贖い金はキリストのことを指しています。イエスは言われました。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(マルコ10:45)」イエスを自分の贖い金とする者のみが神に出会うことができ、わざわいから免れることができます。「各人は自分自身の贖い金を納めなければならない。」とありますが、私たちは各人が、自分自身でイエスを贖い主として受け入れなければいけません。
登録される者はみな、聖所のシェケルで半シェケルを払わなければならない。一シェケルは二十ゲラであって、おのおの半シェケルを主への奉納物とする。
シュケルは、聖所のみで用いられる貨幣です。
二十歳、またそれ以上の者で登録される者はみな、主にこの奉納物を納めなければならない。あなたがた自身を贖うために、主に奉納物を納めるとき、富んだ者も半シェケルより多く払ってはならず、貧しい者もそれより少なく払ってはならない。
富んだ者も貧しい者も、差別なく半シュケル支払わなければなりません。なぜなら、神の御前ではみな平等に尊い存在だからです。キリストの十字架によって、すべての隔ての壁がこわれさました。
イスラエル人から、贖いの銀を受け取ったなら、それは会見の天幕の用に当てる。これは、あなたがた自身の贖いのために、主の前で、イスラエル人のための記念となる。
この贖い金は、主の御前で思い出されます。そして、贖い金の具体的な用途ですが、会見の天幕の用に当てることです。お気づきでしょうか、ささげられる物はみな上等なもの、最良のものです。多くの費用がかかります。ですから、そのためにこれら贖い金が用いられます。また、このことは信者が教会をとおして神に献金することとも通じるでしょう。教会における奉仕は、そこに参加する人々の献金によって支えられ、献金をする人々が教会の礼拝者として数えられます。
3C 洗盤 (みことば) 17−21
次に、洗盤という用具についての説明です。主はまたモーセに告げて仰せられた。「洗いのための青銅の洗盤と青銅の台を作ったなら、それを会見の天幕と祭壇の間に置き、その中に水を入れよ。アロンとその子らは、そこで手と足を洗う。彼らが会見の天幕にはいるときには、水を浴びなければならない。彼らが死なないためである。また、彼らが、主への火によるささげ物を焼いて煙にする務めのために祭壇に近づくときにも、その手、その足を洗う。彼らが死なないためである。これは、彼とその子孫の代々にわたる永遠のおきてである。」
洗盤は青銅で出来ています。聖所と祭壇の間に置かれます。そこで天幕に入るときと、祭壇でいけにえをささげるとき、手足を洗います。この目的は、「死なないためである」とありますが、つまり、神に受け入れられるために清めの役割を果たしています。先ほど説明しましたように、私たちは祭司になったとき、つまりクリスチャンになるとき、全身が洗われました。キリストによって、すべての罪が取り除かれたのです。けれども、日々を歩んでいく中で、私たちは下品な話を聞いたり、良くないものを見たりして、心が汚れてしまいます。ですから、事あるごとに、私たちは洗われる必要があるのです。そのためには、まず罪の告白が必要です。使徒ヨハネは、「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 (ヨハネ第一1:9)」と言いました。もう一つは、御言葉があります。使徒パウロは、「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとする(エペソ5:26)」と言いました。ですから、私たちは、罪を言い表し、また、神のみことばを聞いて、心が洗われます。
4C 注ぎの油 (聖霊) 22−33
そして次に、注ぎの油についての説明です。
1D 調合 22−25
ついで主はモーセに告げて仰せられた。「あなたは、最上の香料を取れ。液体の没薬五百シェケル、かおりの強い肉桂をその半分・・二百五十シェケル・・、におい菖蒲二百五十シェケル、桂枝を聖所のシェケルで五百シェケル、オリーブ油一ヒン。あなたはこれらをもって聖なるそそぎの油を、調合法にしたがって、混ぜ合わせの香油を作る。これが聖なるそそぎの油となる。
そそぎの油は香油でした。しかも、最上のいろいろな種類の香料を用いて、調合して作られます。
2D 用途 26−33
この油を次のものにそそぐ。会見の天幕、あかしの箱、机とそのいろいろな器具、燭台とそのいろいろな器具、香の壇、全焼のいけにえのための祭壇とそのいろいろな器具、洗盤とその台。あなたがこれらを聖別するなら、それは、最も聖なるものとなる。これらに触れるものもすべて聖なるものとなる。
この香油は、すべての祭具に注がれます。幕屋は、たちまち良い香りに包まれたに違いありません。
あなたは、アロンとその子らに油をそそぎ、彼らを聖別して祭司としてわたしに仕えさせなければならない。
幕屋で奉仕をす祭司にも、この油が注がれました。
あなたはイスラエル人に告げて言わなければならない。これはあなたがたの代々にわたって、わたしのための聖なるそそぎの油となる。
神は、この油を「最も聖なるもの」と呼び、「聖なるそそぎの油」と呼んでおられます。なぜなら、これは聖霊の象徴だからです。聖霊の油注ぎが、幕屋のすべての用具に、さらに祭司たちに存在していなければなりません。つまり、私たちは、すべての奉仕において、聖霊の油注ぎが必要であるということです。何一つ、肉の働きは認められないということです。したがって、私たちは、聖霊に導かれ、聖霊に満たされることがいかに大切であるかが分かります。つねに、神を意識し、神とともに歩む訓練を受けなければいけません。
これをだれのからだにもそそいではならない。また、この割合で、これと似たものを作ってはならない。これは聖なるものであり、あなたがたにとっても聖なるものとしなければならない。すべて、これと似たものを調合する者、または、これをほかの人につける者は、だれでもその民から断ち切られなければならない。
神が定められた割合で調合されたもの以外を作ったら、民から断ち切られます。これは、むろん、幕屋で行なわれていること、祭司が行なっていることを真似ようとしているからです。私たちの周りで、聖霊の働きと言われて実はそうではないものが多く見受けられます。心理的に催眠状態にされているのを聖霊に満たされたと言ってみたり、人間の肉で行っているものを「聖霊がしてくださっている」と言います。そのように、人間が作り出したものを聖霊として受け入れるのですが、とても危険なことです。
5C 香 (キリスト) 34−38
そして最後に、香壇でたかれる香についての説明があります。主はモーセに仰せられた。「あなたは香料、すなわち、ナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香、これらの香料と純粋な乳香を取れ。れはおのおの同じ量でなければならない。これをもって香を、調合法にしたがって、香ばしい聖なる純粋な香油を作る。また、そのいくぶんかを細かに砕き、その一部をわたしがあなたとそこで会う会見の天幕の中のあかしの箱の前に供える。これは、あなたがたにとって最も聖なるものでなければならない。あなたが作る香は、それと同じ割合で自分自身のために作ってはならない。あなたは、それを主に対して聖なるものとしなければならない。これと似たものを作って、これをかぐ者はだれでも、その民から断ち切られる。」
レビ記10章を読みますと、アロンの息子ナダブとアビブは、このことをしてしまったので、主の前で死んでしまったことが分かります。異なった香をたいてしまったのです。なぜ神が、香についてここまで厳しくされたのか不思議に思います。おそらく神は、幕屋にご自分の栄光を表わす香りを充満させることを意図されていたのかもしれません。この香りですが、私はキリストの香りと考えます。パウロがこう言ったからです。「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。(コリント第二2:14-15)」したがって、私たちからキリストの香りが放たれていることを、神は願われているのです。
こうして、香壇、贖い金、洗盤、注ぎの油、香について見てきましたが、それらはぞれぞれ、祈り、献金、御言葉、聖霊、そしてキリストを表わしていました。
2B 物質的な奉仕 ― 知恵 31
ですから30章は主に目に見えないところの、霊的な奉仕でした。次は、目に見える物質的な奉仕であります。だからと言って、霊的な奉仕より劣っていると言うことは決してありません。具体的な物理的な奉仕も、霊的な奉仕と全く同じように大切なものです。
1C 幕屋のための仕事 1−11
1D 細工 1−5
主はモーセに告げて仰せられた。「見よ。わたしは、ユダ部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルを名ざして召し、彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。それは、彼が、金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、はめ込みの宝石を彫り、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。」
主がモーセに示された幕屋と祭司の装束には、細工が必要なものがありました。神は、それを作るのにご自分ひとりで行なわれるのではなく、人を用いられます。神はその人を名ざして召し、ご自分の霊で満たされました。人間には、そなわった才能や能力があります。けれども、それだけでは神のご用にあずかることはできません。神の召しと御霊の満たしが必ず必要なのです。使徒行伝では食卓のことに仕える人として、ステパノがいました。彼は、信仰と聖霊に満ちていた人であると書かれています。
2D 大工 6−11
見よ。わたしは、ダン部族のアヒサマクの子オホリアブを、彼のもとに任命した。わたしはすべて心に知恵のある者に知恵を授けた。彼らはわたしがあなたに命じたものを、ことごとく作る。すなわち、会見の天幕、あかしの箱、その上の『贖いのふた』、天幕のあらゆる設備品、机とその付属品、純金の燭台と、そのいろいろな器具、香の壇、全焼のいけにえの祭壇と、そのあらゆる道具、洗盤とその台、式服、すなわち、祭司として仕える祭司アロンの聖なる装束と、その子らの装束、そそぎの油、聖所のためのかおりの高い香である。彼らは、すべて、わたしがあなたに命じたとおりに作らなければならない。
細工をする人に続いて、神は大工をする人を任命されました。オホリアブという人です。この人もまた、神から知恵をさずけられています。
2C 安息日 12−17
そして次に、不思議なことに安息日についての戒めが載っています。主はモーセに告げて仰せられた。「あなたはイスラエル人に告げて言え。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、あなたがたが知るためのものなのである。」
なぜ、急に安息日の掟が繰り返されているのでしょうか。理由は2つ考えられます。一つは、直前に神が仰せられた幕屋の建築の仕事に関連するからです。神は、たとえご自分の幕屋を作る仕事であっても、安息日には彼らが休むことを命じられました。私たちにも同じことが言えないでしょうか。神の御前でたましいを休め、神を礼拝することは、神に対する奉仕よりもさらに大切なことです。私たちは、仕事や教会の奉仕を優先させて、主の御前で静まることを怠りがちです。しかし、それでは本末転倒であります。主を礼拝するために私たちは生きているのに、主のためにその礼拝を怠っているからです。そして、もう一つの理由は、主はモーセに語り終えられようとしているからです。もうこれで、シナイ山で語られることは終えられるはずでした。そのため、戒めの中でも大切な安息日の教えでもって、モーセへの語りかけを終えようとお考えになっていたかもしれません。
これは、あなたがたにとって聖なるものであるから、あなたがたはこの安息を守らなければならない。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、主の聖なる全き休みの安息日である。安息の日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。
安息日を破ることに対する罰はたいへん厳しいものでした。それは、新約聖書を読むと分かります。コロサイ書2章にこう書かれています。「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。(コロサイ2:16-17)」安息日の本体はキリストにありました。つまり、イエス・キリストが私たちのために行なってくださったことを信じることを、安息日は示しているのです。安息日に働くことは、イエスのみわざに自分の行ないを加えることでした。それはガラテヤ書にあるように、アナテマ、のろわれなければいけないことです。
イスラエル人はこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。これは、永遠に、わたしとイスラエル人との間のしるしである。それは主が六日間に天と地とを造り、七日目に休み、いこわれたからである。
ここに明確に、安息日はイスラエル人に対するものと書かれています。教会のものではありません。ほとんどの教会は、日曜日を安息日と考えています。イエスが日曜の朝によみがえられてから、安息日の掟は土曜日から日曜日に移ったと言います。しかし、この個所から明らかに、その解釈は間違っているとしか言えません。信者が集まって、主を礼拝することは新約聖書で命令されていますが、日曜日は安息ではないのです。ここに「しるし」とありますが、契約にはしるしがありました。ノアとの契約では、虹がしるしでした。アブラハムとの契約では割礼がしるしでした。そしてモーセとの契約は、この安息日です。さらに、新しい契約はキリストの血がしるしです。イエスは、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。(ルカ22:20)」と言われました。
3C 十戒の授与 18
そして最後の節を読みます。こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。
モーセは神が直接書かれた石の板をもって山を降りていくことになります。しかし、すぐその後に、自分でその板を割ってしまうとは思いもよらなかったでしょう。イスラエルは、その第一の戒めを早々と破っていたからです。
こうして、私たちはモーセが幕屋についての事柄と祭司についての事柄について学びました。この二つはそれぞれ、神の栄光と私たち自身のことであることが分かりました。祭司は幕屋に入るとは、この栄光にあずかることです。
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