出エジプト記3−5章 「行動に移された神」

アウトライン

1A モーセの召し 3
   1B 聖なる主の現れ 1−6
   2B モーセの弁解と神の解答 7−14
   3B これからの予定 15−22
2A 召しへの応答 4
   1B 杖にある徴 1−9
   2B 神の叱責 10−17
   3B ミデヤンからの出発 18−31
3A 初動の失敗 5
   1B 「なまけ者」という非難 1−9
   2B 深刻な状況を悟るイスラエル人 10−19
   3B モーセと主への訴え 20−6:1

本文

 出エジプト記3章から学びます。

1A モーセの召し 3
1B 聖なる主の現れ 1−6
3:1 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。

 私たちは前回、モーセがパロから逃れて、ミデヤン人の地に行ったところを読みました。ミデヤン人はアラビア半島の北部に住んでいた人々です。そして彼は今80歳になっています。エジプトの宮廷にいた時は40歳でした。

 「群れを荒野の西側に追って行き」とあります。アラビア半島の西にはシナイ半島があります。エジプトとサウジアラビアの間にある半島です。

 そこに、「神の山ホレブ」がありました。後にイスラエルの民がここに宿営し、そこに神が降りてこられ、十戒を与え、その他の律法を与えられます。

3:2 すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。3:3 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」

 覚えておられるでしょうか、「主の使い」がアブラハム、イサク、ヤコブに現れました。この方は主ご自身であられ、受肉前のイエス・キリストです。

3:4 主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ。」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります。」と答えた。

 そして主の使いは、かつてヤコブを二度呼んだのと同じようにモーセを二度呼んでいます。そしてモーセは、神のしもべの態度を示しています。「はい、ここにおります。」と言っています。主がなされることを、何でも行いますという姿勢です。

3:5 神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」3:6 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。

 創世記において、アブラハム、イサク、ヤコブに現れてくださった神が今、このような形でモーセに現れてくださいました。ヤコブが死んでから約4百年経って後のことです。神は、彼らに与えた約束を忘れることはなさいませんでした。

 そして「神の山」とあるとおり、そこに主がおられ、そこにモーセを始め、イスラエルの民を引き入れようとされています。ヘブル人への手紙の著者は、この山と比べて私たちは「シオンの山」に近づいていることを話しています。「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。(12:22」ちょうど天の中に教会が導かれ、集うようになるように、シナイの山のところにイスラエルの民が集うようになるのです。

 その時に現れる神のご性質は「聖さ」です。燃える柴の木の炎、そして、「足のくつを脱げ」という神の命令、これらはみな聖なる神を反映しています。「聖」とはもともと「分け隔てられている」という意味があります。神は私たちとは隔絶された存在であられ、欠点も欠陥も何一つない方であるということです。

 私たちは、神の聖さが分からなければ、自分たちの汚れが分かりません。自分たちの汚れが分からなければ、なぜ清められなければいけないのかも分かりません。キリストの十字架の意味を伝えても、どうしても自分のこととして受け入れられない人たちが多いですが、それは初めに神が聖なる方であることを信じ、受け入れていないからです。ですから、私たちがこれから学ぶ出エジプト記を通して、どうか、この聖なる方に出会ってください。

2B モーセの弁解と神の解答 7−14
3:7 主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。3:8 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。3:9 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。3:10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」

 主がかつてアブラハムにお語りになった約束、またヤコブにお語りになった約束を実行しようとされています。覚えておられますか、アブラハムに対して神は、動物を真っ二つに切ってそれを向い合せにしなさいと命じられました。そして夜になり、「ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った」とあります。そしてこう言われました。「あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。(15:13-14

 そしてエジプトに下るべきか思い悩んでいたヤコブに対して、主はこう仰せになりました。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。(46:3-4」この約束を神はしっかり覚えておられたのです。

 そしてその約束を実行するきっかけになった出来事は、イスラエル人の苦しみです。7節を見ると、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。」とあります。しっかり、このことを覚えてください。私たちはとかく、神を遠い存在にしてしまいます。宇宙全体を造られた神であるから、私たちの生活の細部に至ることについては無関心に違いない、と思うわけです。大きな権威を持っていれば持っているほど、私たちはその距離を感じます。

 けれども、私たちの信じる神は、天地万象を支配されている方だけではなく、日々の生活の細部に至るまで、私たちと同じように感じ、痛み、共に泣き、共に喜んでくださる方なのです。私がイエス様を信じて間もないとき、大学のクリスチャンの先輩たちにたくさん教わりました。彼らの祈り会では、「誰々さんの口内炎を癒してくださいますように。」という祈りも捧げられていました。「そんな小さな事まで!」と私は驚きましたが、けれどもここにあるように主は、イスラエル人が奴隷で苦しんでいる、その痛みをすべて感じ取っておられるのです。

 そのことを具体的に表してくださったのが、肉体を持って現れてくださったイエス・キリストです。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。(ヘブル4:15」次に肉体の弱さを覚えた時、職場でのストレス、家庭内でのいざこざ、また風邪やその他の病、そして罪の誘惑を受けた時に、それらに同じ肉体を持たれたキリストが同情しておられることを覚えてください。

3:11 モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」

 モーセにとっては、主の呼びかけはあまりにも衝撃的な事でした。「エジプトに戻れ」という命令は、彼にとって自尊心が滅茶苦茶にされた所に戻りなさい、ということです。彼は、エジプトの君子であったからこそ、エジプト内のイスラエル人を救い出せると思っていました。ところが、一人のエジプト人を殺したら、それが同胞にイスラエル人に告発されて、逃げなければならなくなったのです。自分には、それだけの地位と権力が与えられても、何一つイスラエル人のためにすることができなかったという挫折を味わったのでありました。

 かつ彼は四十年の間、市井の羊飼いとして生きました。かつて能力はもう廃れてしまったと思っています。ことごとく自尊心は砕かれているのです。けれども、この四十年間は、実はモーセにとって本当の意味でイスラエルを救う指導者として必要な期間だったのです。

 第一にモーセは、自分に与えられた力や権勢によるのではなく、神の御霊によって動かなければいけないことを知らなければいけませんでした。「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。(ゼカリヤ4:6」自分の能力や才能ではなく、もっぱら主の御霊による働きによって、イスラエルは事実、神の民になることができるのです。

 第二に、羊飼いという仕事は、良い指導者になるための訓練でありました。後にダビデという、神に愛された王がイスラエルに立てられました。彼も少年のとき、羊飼いをしていたのです。神はダビデについてこう言われます。「主はまた、しもべダビデを選び、羊のおりから彼を召し、乳を飲ませる雌羊の番から彼を連れて来て、御民ヤコブとご自分のものであるイスラエルを牧するようにされた。彼は、正しい心で彼らを牧し、英知の手で彼らを導いた。(詩篇78:70-72

 羊を飼うことは、ちょうど二・三歳の子を世話するようなものです。ちょっとでも目を離すと、何をしでかすかわからない存在です。イザヤ書536節にも、「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」とあります。モーセはこれから、イスラエルの羊のような迷いに付き合わなければいけません。絶えず文句を言い、モーセにたてつきました。けれども、彼は本当に謙虚な人でした。柔和であったからこそ、人々はそれを彼の弱さだと思い、不平を鳴らしたのだと思います。そして彼はそのように問い詰められた時は、神の前にひれ伏しました。権力によってではなく、人の弱さをになう柔和さによって人々を導いた指導者になったのです。

3:12 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」

 モーセが、「私はいったい何者なのでしょう。」と言ったことに対して、主は、「わたしはあなたとともにいる。」と返答されました。これは「わたしがあなたと共にいる。」と言い換えた方がいいかもしれません。「あなたではなく、わたしなのだよ。」と神は強調されているのです。

 私たちはキリストに捕えられた者となった瞬間に、宣教者となります。キリストを証しする使者として立てられます。それで主は弟子たちに大宣教命令を出されました。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。(マタイ28:20

 いかがですか、私たちの周りの人々がキリストの弟子となるように私たちは召されています。自分自身でさえ弟子にふさわしいのか定かではないのに、ましてやあらゆる国の人々を弟子にするなんてとんでもないことだ、と思われるでしょう。まさにこれが、「私はいったい何者でしょう。」とモーセが言った驚きなのです。

 しかしイエス様は続けてこう約束されました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:20後半)」主がともにいてくださいます。自分ではなく、主が自分を通して行ってくださるのです。

3:13 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」

 モーセが、自分が遣わされたくない(?)二つ目の質問をしました。「あなたの神の名は何か?」という質問です。これは第一礼拝で詳しく学びましたので、参加されなかった方はぜひ音声ファイルでお聞きください。「神」と言ってもどの神なのか、どんな性質の神なのか?ということです。

 それに対する神の答えは、「わたしは、『わたしはある。』」という方です。神はすべてのすべてになってくださる方です。私たちは、何かの必要を求めて捜し回りますが、神は「わたしこそが、その必要なのだ。」と言われます。主がおられれば、それですべてが満たされるのです。パウロが教会についてこう説明しました。「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ1:23

3B これからの予定 15−22
3:15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

 「」が新改訳聖書では太字になっていますね。普通の「主」はヘブル語で「アドナイ」と言い、単に主人を表す言葉です。太字にしているのは、YHWHあるいはYHVHという子音だけの文字です。これを日本語表記では「エホバ」と呼んだり、「ヤハウェ」と呼んだりします。英語ではすべて大文字でLORDと表記しています。

 この方の名前が出てきた時には、先ほどの「私たちの必要になってくださる、すべてにおいてすべてとなってくださる方」という意味を持っていることを覚えてください。多くの人がすべてを支配されている神を信じていますが、私たちの信じている方はさらに個人的な、親密な、そして契約に基づいた関係を持つことのできる方です。

 そして、神は、ご自分のことを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ばれました。いかがですか、ご自分を代表する人物が、必ずしも完全とは言えない人々です。けれども、そのことを恥とはなさいませんでした。その理由がヘブル書11章に書かれていますが、彼らは天の故郷にあこがれていたからだ、とあります(16節)。神の約束を信じて死んでいった者たちこそ、神の代表者なのです。

3:16 行って、イスラエルの長老たちを集めて、彼らに言え。あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が、私に現われて仰せられた。『わたしはあなたがたのこと、またエジプトであなたがたがどういうしうちを受けているかを確かに心に留めた。3:17 それで、わたしはあなたがたをエジプトでの悩みから救い出し、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の地、乳と蜜の流れる地へ上らせると言ったのである。』

 先ほどモーセに話したことを、民にも話しなさいと命じておられます。ここの「乳と蜜の流れる地」というのは、家畜の出す乳が豊富であること、また蜜がしたたるほど野の草木が生い茂っていることを表しています。荒涼としたシナイ砂漠から、イスラエルの地に入る時に、農地に適しているそれらの土地を見て、このような感情を抱くのです。

3:18 彼らはあなたの声に聞き従おう。あなたはイスラエルの長老たちといっしょにエジプトの王のところに行き、彼に『ヘブル人の神、主が私たちとお会いになりました。どうか今、私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、主にいけにえをささげさせてください。』と言え。3:19 しかし、エジプトの王は強いられなければ、あなたがたを行かせないのを、わたしはよく知っている。3:20 わたしはこの手を伸ばし、エジプトのただ中で行なうあらゆる不思議で、エジプトを打とう。こうしたあとで、彼はあなたがたを去らせよう。

 主は、モーセがパロにイスラエルの民を出ていかせるように頼んでも、決して行かせないことを予め知っておられました。神はすべての知識を前もって持っておられる方です。したがって、パロの自発的な意志ではなく、強制的にイスラエルを出て行かせることしかできないことをご存知でした。そのために、エジプトに対してあらゆる災いを下されます。イスラエルがエジプトにいては、自分たちが滅ぼされるという恐れを通して出て行かせることをお決めになっていました。

 そして今後見ていきますが、これらの不思議がイスラエルの民にとっても、自分たちの神がいかに偉大な方であるかを知る教材になります。

3:21 わたしは、エジプトがこの民に好意を持つようにする。あなたがたは出て行くとき、何も持たずに出て行ってはならない。3:22 女はみな、隣の女、自分の家に宿っている女に銀の飾り、金の飾り、それに着物を求め、あなたがたはそれを自分の息子や娘の身に着けなければならない。あなたがたは、エジプトからはぎ取らなければならない。」

 「好意」というのは不思議なものです。私たちも救援旅行で、ある特定の避難所では特別な「好意」を受け、そこで活動できていますが、特別なことをしているわけではないのに、なぜなのかが不思議です。それは神から来ていることがここから分かります。あえて理由を上げますと、イスラエルの民には、この偉大な神がおられる、という畏怖心からでしょう。自分たちは彼らを虐げたが、確かに彼らは守られ、救われている、と認めるに至ったからでしょう。

 そして、金銀の飾りや着物をはぎ取らなければいけない、とありますが、二つの意味があります。後にイスラエルの民は荒野で幕屋を造ります。そこに金銀が用いられますので、そのために必要です。奴隷であった彼らは、金銀はもちろんのこと、服でさえまともなものがなかったのです。そしてもう一つの意味は「賃金」です。彼らは奴隷でしたから、その労働に対する報酬はゼロでした。相応の報いを受け取ることによって彼らは自由人としての生活を出発する意味を持っていました。

2A 召しへの応答 4
 このように主が忍耐強く、モーセの疑問に対してお答えになり、そしてエジプトに遣わそうとされるのですが、またもや彼は疑問を差し挟みます。

1B 杖にある徴 1−9
4:1 モーセは答えて申し上げた。「ですが、彼らは私を信ぜず、また私の声に耳を傾けないでしょう。『主はあなたに現われなかった。』と言うでしょうから。」

 イスラエルの神であり、ヤハウェなる方であることは分かった。正しい神であることは分かった。けれども、本当にあなたはその預言者なのか?という疑問です。正しいことを言っていても、実際はそうではないことがあります。その質問が出てきた時にどうすればよいのかを問うています。

4:2 主は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」4:3 すると仰せられた。「それを地に投げよ。」彼がそれを地に投げると、杖は蛇になった。モーセはそれから身を引いた。4:4 主はまた、モーセに仰せられた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」彼が手を伸ばしてそれを握ったとき、それは手の中で杖になった。4:5 「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現われたことを、彼らが信じるためである。」

 「羊飼いの杖」を神は用いられて、奇蹟を行われます。これからこの何の変哲もない杖は「神の杖」となり、大いなる神の御業が行われるときの道具となります。私たちは、自分は普通の人だから何もできないと思います。いいえ、神に大いに用いられている人はみな、普通の人です。自分が普段から手にしているもの、自分に備えられているものを神に捧げることによって、大きなことを行っています。

 ところで、蛇になったその杖を尾から掴みなさいと言われる神のユニークさは面白いです。蛇をつかむ時に頭を掴みます。尾を掴むのがもっとも危険です。モーセの信仰を試されたのです。

4:6 主はなおまた、彼に仰せられた。「手をふところに入れよ。」彼は手をふところに入れた。そして、出した。なんと、彼の手は、らいに冒されて雪のようであった。4:7 また、主は仰せられた。「あなたの手をもう一度ふところに入れよ。」そこで彼はもう一度手をふところに入れた。そして、ふところから出した。なんと、それは再び彼の肉のようになっていた。

 もう一つの徴です。人をらい病にするという業だけでなく、らい病を元に戻す働きを行われています。魔術や呪術などでは、人に害を与えたり、物を破壊したりすることはできますが、壊れたものを元に戻すという回復の業、創造の業は神のみが持っておられる働きです。

4:8 「たとい彼らがあなたを信ぜず、また初めのしるしの声に聞き従わなくても、後のしるしの声は信じるであろう。4:9 もしも彼らがこの二つのしるしをも信ぜず、あなたの声にも聞き従わないなら、ナイルから水を汲んで、それをかわいた土に注がなければならない。あなたがナイルから汲んだその水は、かわいた土の上で血となる。」

 神は実に配慮に富んだ方ですね。二つの予備を与えられただけでなく、ナイル川を血にするという、後に神がエジプトに対して行われることを、少し前もってイスラエルの民にも見せることも許されます。

2B 神の叱責 10−17
 ここまで、いろいろな配慮で神は答えてくださったのですが、それでモーセはもう言い訳ができなくなりました。追い詰められてしまいました。

4:10 モーセは主に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」

 これは嘘です、使徒の働き722節には「モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました。」とあります。けれども、40歳の時に受けた挫折感によって自分の能力に対する自信を完全に失ってしまっていたのです。

4:11 主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。4:12 さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」

 耳を開ける、目を開けることだけでなく、耳を聞こえなくし、盲目にすることも主が行われるとあります。ここに神の主権があります。ローマ9章に出てくる話題です。主が特定の時に、裁きによって人の耳を聞こえなくするとか、盲目にすることはあるでしょう。けれども、それは初めの人アダムが罪を犯したことによって、生まれ出てきたものであり、その人の罪ではありません。

 けれども、障害を持っていることが神の支配の範囲外にあるかというと違います。むしろ、神の支配の中で起こった出来事であり、主はそのことをも積極的に用いられるという意味で、「耳しいにしたり、盲目にする」と仰っているのです。ここで神が強調されているのは、「わたしには力がある。あなたは語ることができる。」ということです。

4:13 すると申し上げた。「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」

 ついに出ました。モーセの問題は、「できない」ではなく「したくない」なのです。これは私たちがいつもする言い訳です。「主の命令に従うことはできません。」と言いますが、主は命令に従う者には、それに従うことのできるための力を与えられます。問題は、「従いたくない」という自分の意志なのです。

4:14 すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう仰せられた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼がよく話すことを知っている。今、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぼう。4:15 あなたが彼に語り、その口にことばを置くなら、わたしはあなたの口とともにあり、彼の口とともにあって、あなたがたのなすべきことを教えよう。4:16 彼があなたに代わって民に語るなら、彼はあなたの口の代わりとなり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。4:17 あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行なわなければならない。」

 非常に奇妙な状況になります。兄アロンとモーセ二人が、パロの前に出ます。そしてモーセは、目の前にパロがいるのにアロンに神の言葉を伝えます。それからアロンがパロの前で代弁者として話します。パロが目の前にいるのだから、直接パロに話せばよいものを!と私たちは思いますが、これがモーセが素直に神の命じられることに従わなかった結果なのです。

 どうか自分の不従順によって、物事を複雑にしないでください。自分が神の単純な命令に従わなければ、それだけ物事が複雑になり、周りの人にも自分自身にも不要な重荷を作り出すことになります。けれどもすばらしいのは、たとえ私たちがそのような失敗をしても、神はそれでもご自分の御業を見せようとされることです。

3B ミデヤンからの出発 18−31
4:18 それで、モーセはしゅうとのイテロのもとに帰り、彼に言った。「どうか私をエジプトにいる親類のもとに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているかどうか見させてください。」イテロはモーセに「安心して行きなさい。」と答えた。

 自分のしゅうとに家を出る許可をもらいました。イテロは、後に出エジプト記18章に出てきます。今度はモーセが二百万、三百万人のイスラエル人を連れてきて、ホレブの山の近くまで来た時に彼がやってきて再会します。

4:19 主はミデヤンでモーセに仰せられた。「エジプトに帰って行け。あなたのいのちを求めていた者は、みな死んだ。」

 四十歳の時に自分の命をねらったパロは死にました。

4:20 そこで、モーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せてエジプトの地へ帰った。モーセは手に神の杖を持っていた。

 出エジプト記2章には、一人の息子のことしか書いてありませんでしたが、その後もう一人の息子が生まれました。18章に、エリエゼルという子の名が出てきます。

 そして先ほど話したように、モーセが持っていた羊飼いの杖は「神の杖」になりました。

4:21 主はモーセに仰せられた。「エジプトに帰って行ったら、わたしがあなたの手に授けた不思議を、ことごとく心に留め、それをパロの前で行なえ。しかし、わたしは彼の心をかたくなにする。彼は民を去らせないであろう。

 ここから、出エジプト記には、「わたしはパロの心をかたくなにする。」という表現が何度となく出てきます。これが多くの人の思いを悩ませます。心を柔らかくする神であれば理解できるが、心をかたくなにする神とは、一体なんなんだ?と思うわけです。

 けれども、先ほど読んだ319節をもう一度ご覧ください。「しかし、エジプトの王は強いられなければ、あなたがたを行かせないのを、わたしはよく知っている。」神は、イスラエルの民を行かせたいと願っていたパロの心を無理やりかたくされたのではありません。強情を貫いていたパロの決断を積極的に用いられた、ということなのです。

 私たちの神は、否定的なことをさえ積極的に用いられる方です。ヨセフの生涯で私たちは既に見ました、兄が弟を奴隷に売ったことを、実はヤコブの家族を飢饉から救うために、ヨセフをまず遣わすご計画の中に入れておられました。ユダヤ人たちがイエス様をねたんで、殺してしまったことを、全人類の罪の贖いとして、この方を死に渡したのは神ご自身だったのです。

 こうした不思議な神のご計画と主権の中にある「かたくなにする」という表現であります。けれども、このことが分かると実は思い悩むのではなく、安心するのです。どんな否定的なことが自分の身に降りかかっても、「これは主の支配下にあるのだ。だから私は守られているのだ。」と安心できるのです。混乱ではなく、神が掌握されていることを知ります。

4:22 そのとき、あなたはパロに言わなければならない。主はこう仰せられる。『イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。4:23 そこでわたしはあなたに言う。わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ。もし、あなたが拒んで彼を行かせないなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの初子を殺す。』」

 「初子」というのは、家畜にしろ人にしろ、初めに生まれた男の子のことです。動物なら初めの雄です。もっとも大切な存在、相続者としての第一の存在です。主はイスラエルをそのような存在だと言われました。異邦人でもキリストに結ばれた者であれば、神の子としての身分が与えられています。

 そして、イスラエルを行かせないことによって、神はエジプトの初子を殺されます。つまり、自分のしたことの対価を支払うことになります。最後の十番目の災いでそのことを行われます。

4:24 さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。主はモーセに会われ、彼を殺そうとされた。

 なんと、主がエジプトの初子を殺される前に、なんとモーセ自身を殺そうとされています。なんでそんなことを起こったのでしょうか?

4:25 そのとき、チッポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り、それをモーセの両足につけ、そして言った。「まことにあなたは私にとって血の花婿です。」4:26 そこで、主はモーセを放された。彼女はそのとき割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。

 モーセの息子が割礼を受けていなかったためです。アブラハムに神が命じられた、子孫への契約の印として割礼を受けなければならないというものですが、それを母チッポラはよしとしていなかったようです。「血の花婿」と言っているところに、彼女が血を流して自分の息子の包皮の一部を切り裂くことに強い抵抗を覚えていたのだと思います。

 けれども、モーセは神の民と一つになるためにエジプトに戻ります。チッポラもそれに従わなければいけません。ところが彼女はそれができませんでした。18章で、モーセとイスラエルの民がホレブの山の近くまで来た時に、舅のイテロが迎えに来ましたが、妻と息子たちもそこにいます。つまり、この時点でチッポラと息子たちは故郷に戻ったのです。

 ここに、契約を結んでいる者とそうでない者が一つの道を進むことができないことをよく表しています。御霊によって新しく生まれた者と、そうではない者が、ともに神の国に入ることはできません。たとえ同じ活動をしていても、そうなのです。イエス様は言われました。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。(ヨハネ3:5

 そして、この違いは何か主の命令にしたがって具体的な行動を起こすときに、しばしば現れます。モーセがミデヤン人の地で過ごしていた時には、イスラエルの神についてチッポラは同調していても、実際にエジプトに戻るという時点で、本当はイスラエルの民と一つになることを彼女が拒んでいたことが明らかになったのです。

 人は行いによって救われるのではありません。けれども、行いによって信仰を持っていることが明らかにされます。ヤコブがこう言いました。「信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。(2:17

4:27 それから、主はアロンに仰せられた。「荒野に行って、モーセに会え。」彼は行って、神の山でモーセに会い、口づけした。4:28 モーセは自分を遣わすときに主が語られたことばのすべてと、命じられたしるしのすべてを、アロンに告げた。

 久しぶりに彼らは会うことができました。ちなみにアロンはモーセより三歳年上の兄で、当時で83歳になっていました。

4:29 それからモーセとアロンは行って、イスラエル人の長老たちをみな集めた。4:30 アロンは、主がモーセに告げられたことばをみな告げ、民の目の前でしるしを行なったので、4:31 民は信じた。彼らは、主がイスラエル人を顧み、その苦しみをご覧になったことを聞いて、ひざまずいて礼拝した。

 すばらしいですね、涙が出てきます!イスラエル人は、自分たちが見捨てられていなかったことを実感しました。主が自分たちの苦しみをご覧になっていたことを知りました。ぜひ、皆さんも希望を捨てないでください。今、見えなくても、神はしっかりと今の試練をご覧になっておられます。

3A 初動の失敗 5
 ところが5章では、モーセとアロンが初動段階でことごとく失敗したかのように見える出来事が起こります。

1B 「なまけ者」という非難 1−9
5:1 その後、モーセとアロンはパロのところに行き、そして言った。「イスラエルの神、主がこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ。』」5:2 パロは答えた。「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。」

 神の預言者として、神の言葉を預かっている者として、モーセとアロンは権威をもって語りました。ところがパロはその権威などまったく度外視です。「ヤハウェとは何者か?私はヤハウェなど知らない。なぜ私がそやつの声を聞いて、従わなければいけないのか?」

 当時、エジプトはあらゆる物が神々とされていましたが、特にパロはまさに神そのものとして崇められていました。それは文化的なものだけでなく、政治的な絶対的な権威でもあり、彼はイスラエルの民は自分の所有物だと思っていたのです。

 けれども、これは人間すべてが与えられている神からの呼びかけなのです。すなわち、「イエス・キリストという名に対してあなたはどうしますか?」という問いかけです。「イエス?そんなの知らない。なぜ、そんなことに私が気を使わなければいけないのか?」という反応をしていれば、その人はまさにパロと同じ高慢の罪を宿しているのです。

 そのような高慢な態度を取ることができるのは、自分が持っているものがあるからです。自分が支配したいものがあるからです。それまでも神の支配に移さなければいけないなどと、決して許されないからです。自分の生活に入ってくる神など受け付けられないのです。

5:3 すると彼らは言った。「ヘブル人の神が私たちにお会いくださったのです。どうか今、私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、主にいけにえをささげさせてください。でないと、主は疫病か剣で、私たちを打たれるからです。」

 神からの代言者としてではなく、ヘブル人の代表者として陳情している口調に変わってしまいました。

5:4 エジプトの王は彼らに言った。「モーセとアロン。おまえたちは、なぜ民に仕事をやめさせようとするのか。おまえたちの苦役に戻れ。」5:5 パロはまた言った。「見よ。今や彼らはこの地の人々よりも多くなっている。そしておまえたちは彼らの苦役を休ませようとしているのだ。」

 パロは怒りました。それを感情の発散としてだけではなく、実際の行動に移します。

5:6 その日、パロはこの民を使う監督と人夫がしらに命じて言った。5:7 「おまえたちはれんがを作るわらを、これまでのようにこの民に与えてはならない。自分でわらを集めに行かせよ。5:8 そしてこれまで作っていた量のれんがを作らせるのだ。それを減らしてはならない。彼らはなまけ者だ。だから、『私たちの神に、いけにえをささげに行かせてください。』と言って叫んでいるのだ。5:9 あの者たちの労役を重くし、その仕事をさせなければならない。偽りのことばにかかわりを持たせてはいけない。」

 なんと礼拝行為を「怠けている」とパロはみなしました。私はここの箇所を読むたびに、「仕事の奴隷」となっている日本人の姿がだぶってしまいます。仕事が忙しすぎて神のことを考えられない、礼拝に出ることができない。仕事がなければ、今度は用事を作ってしまう。けれども、礼拝というのは安息の行為そのものであり、神がなされたキリストの救いの業に休むことに他ならないのです。これがなければ、つまり神の奴隷となっていなければ、私たちは他のもので奴隷になっています。真の意味で自由人になっていないのです。私たちの魂はからからに乾き切り、死んでしまっているのです。

 何を行うにも、自分が行わなければいけないと思っている態度、そこに神が介入されることを顧みない態度、これは実は呪いです。パロのように、神が行われようとされていることを人間的な見方だけで見ているから、結果的に神の民を圧迫する行為に走り、自ら呪いを招いているのです。

2B 深刻な状況を悟るイスラエル人 10−19
5:10 そこで、この民を使う監督と人夫がしらたちは出て行って、民に告げて言った。「パロはこう言われる。『私はおまえたちにわらを与えない。5:11 おまえたちは自分でどこへでも行ってわらを見つけて、取って来い。おまえたちの労役は少しも減らさないから。』」5:12 そこで、民はエジプト全土に散って、わらの代わりに刈り株を集めた。

 当時の古代エジプトの遺跡を見ますと、確かに藁ではなく刈り株で作られたものが発掘されています。イスラエル人が行ったものがその中にはあるでしょう。

5:13 監督たちは彼らをせきたてて言った。「わらがあったときと同じように、おまえたちの仕事、おまえたちのその日その日の仕事を仕上げよ。」5:14 パロの監督たちがこの民の上に立てたイスラエル人の人夫がしらたちは、打ちたたかれ、「なぜおまえたちは定められたれんがの分を、きのうもきょうも、これまでのように仕上げないのか。」と言われた。5:15 そこで、イスラエル人の人夫がしらたちは、パロのところに行き、叫んで言った。「なぜあなたのしもべどもを、このように扱うのですか。5:16 あなたのしもべどもには、わらが与えられていません。それでも、彼らは私たちに、『れんがを作れ。』と言っています。見てください。あなたのしもべどもは打たれています。しかし、いけないのはあなたの民なのです。」

 ヘブル人の人夫がしらたちは、エジプト人がパロの名を使って勝手に行っていることだと思っていました。

5:17 パロは言った。「おまえたちはなまけ者だ。なまけ者なのだ。だから『私たちの主にいけにえをささげに行かせてください。』と言っているのだ。5:18 さあ、すぐに行って働け。わらは与えないが、おまえたちは割り当てどおりれんがを納めるのだ。」5:19 イスラエル人の人夫がしらたちは、「おまえたちのれんがのその日その日の数を減らしてはならない。」と聞かされたとき、これは、悪いことになったと思った。

 実際にパロ自身の命令であることを知って、彼らの顔は青ざめました。そして、なぜパロが変わってしまったのか、その理由が分かりました。モーセとアロンが「私たちの主にいけにえをささげに行かせてください。」と言ったからです。

3B モーセと主への訴え 20−6:1
5:20 彼らはパロのところから出て来たとき、彼らを迎えに来ているモーセとアロンに出会った。5:21 彼らはふたりに言った。「主があなたがたを見て、さばかれますように。あなたがたはパロやその家臣たちに私たちを憎ませ、私たちを殺すために彼らの手に剣を渡したのです。」

 かなり辛辣ですね。あなたがたが私たちを殺している、と訴えています。

5:22 それでモーセは主のもとに戻り、そして申し上げた。「主よ。なぜあなたはこの民に害をお与えになるのですか。何のために、私を遣わされたのですか。5:23 私がパロのところに行って、あなたの御名によって語ってからこのかた、彼はこの民に害を与えています。それなのにあなたは、あなたの民を少しも救い出そうとはなさいません。」

 事実、まったくそのように見えました。モーセが神の御名によって語らないほうが、状況はましだったのです。ここに、激しい霊の戦いを見ます。神の御業が始まると、反対者も活動を開始します。すると、かえって状況が一時的に悪くなることもあります。

 前回私たちは、私たち個人の信仰生活に当てはめて出エジプト記を読むと、エジプトはこの世を表し、パロは悪魔を表していることを学びました。イスラエル人が神の民として、神を礼拝するために出て行こうとしたら、かえって状況が悪くなったというのは、私たちがイエス・キリストを自分の主として受け入れ、従おうとするや否や、あらゆる不都合なことや自分に不利なことが起こることが起こります。そして神に対する信頼そのものも揺らぎかねません。それがサタンとその手下である悪霊どもがキリスト者に対して行っていることです。

 もし私たちの周りにそのようなことが起こったら、それは敵が反対の攻撃をしているのだということを知ってください。それは私たちにとって敗北の徴ではなく、むしろ前進し、勝利へと向かっている徴だと思ってください。さらに前進したら、すぐに道は開かれます。自分が後退しないようにしてください。

 次の6章の1節だけ読んでみたいと思います。

6:1 それで主はモーセに仰せられた。「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。すなわち強い手で、彼は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう。」

 「今にあなたにわかる」これが大事な言葉です。今は分からない、けれども今に分かるのです。パロは、「はい、分かりました。神様のいう事を受け入れたいと思います。」と歓迎することは決してないということです。イスラエルは出て行けるようになるのだが、それは彼が無理やり追い出すことによって実現する、ということです。

 イエス様の教えはとてつもなくすばらしいものですが、イエス様の教えを聞いた時にみなが歓迎するでしょうか?もし歓迎するなら、この世はとっくの昔にキリスト教の世界になっています。そうなっていないのは、確かに反対勢力がいるからです。そして人の心がかたくなであるからであり、悪魔は神の言葉を人の心から摘み取ってしまうからです。

 けれども、余裕を持ってください。神が「今にわかる」と言われたように、いま受けている反対は、神の大きなご計画の序幕にしか過ぎないのです。私たちは、どんなところにいても圧倒的な勝利者であります。

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