1A 代替物 1−6
2A 執り成し 7−14
1B 罪の結果 7−10
2B 神の約束 11−14
3A 懲らしめ 15−29
1B 痛み 15−20
2B 責任 21−24
3B さばき 25−29
4A 身代わり 30−35
本文
出エジプト記32章を開いてください。今日のテーマは、「罪を犯すとき」です。さっそく本文に入ってみましょう。
1A 代替物 1−6
32:1 民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」
イスラエルの民が、モーセに代わって他の神をアロンに求めています。それは、「モーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見た」からだとあります。私たちは前回と前々回において、モーセがシナイ山において神から啓示を受けていたところを学びました。実に25章から31章までという長い箇所が、その啓示でした。幕屋のことと、祭司のことについて神から語りかけを受けていました。それが、40日間続いていたと24章18節にはあります。
したがって、イスラエルの民は、簡単に言うとじれったくなってきたのです。モーセがいっしょにいないから、主なる神がともにおられることを意識することができなくなり、彼らは待ち切れなくなったのです。そのときに行動に出たのが、「神を、造ってください。」というものです。偶像を造ることをアロンに迫りました。
私たちは、彼らの行動があまりにも突拍子すぎて理解できないかもしれません。けれども、彼らがずっと長い間、エジプトに地に生きていたことを考えるとすぐに分かります。エジプトにはあらゆるものが神として拝まれていました。それは彼らがふだん見なれたものであり、ある意味で愛着さえ感じていたのかもしれません。主がいっしょにいてくださるという意識が持てないので、その代用物としてほっとできるものを彼らは造りたかったのです。ローマ書には、「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。(1:23)」とあります。私たちが生ける神がともにおられることが分からなくなり、主を待ち望むことができなくなったとき、自分の心に偶像を造ってしまいます。古くから親しんできたもの、慣れているもの、ごく自然に存在していたものに戻っていってしまいます。
32:2 それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」32:3 そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。32:4 彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と言った。
アロンは、イスラエルの民からの強い要請に立ち向かうことができませんでした。神の意見よりも、大多数の意見に押されてしまったのです。ローマ総督ピラトがイエスを十字架につけたのは、あの騒ぎ立てるユダヤ人たちの圧力によるものでした。私たちも、神のみこころよりも大多数の意見や要求を取るという誘惑にさらされます。しかし本当の指導者は、いや指導者だけでなく、キリスト者は、人を恐れることよりも主を恐れることを選びとらなければいけません。箴言には、「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(29:25)」とあります。また、主は弟子たちにこう言われました。「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(ルカ12:4-5)」
32:5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは主への祭りである。」32:6 そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。
これは、単なるお祭りではありません。桜の下でお酒によってカラオケをしているような風景を思い起こしてはいけません。ここの「戯れた」とは、性的な乱れです。彼らは、十戒の第一と第二の戒めを破っただけでなく、「姦淫を犯してはならない。」という戒めを早くも破ってしまいました。
2A 執り成し 7−14
1B 罪の結果 7−10
そして次から、主とモーセのやり取りがあります。32:7 主はモーセに仰せられた。「さあ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまったから。32:8 彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげ、『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。』と言っている。」
モーセは、主のこのことばを聞いてさぞかし驚いたことでしょう。ずっと幕屋についてのことや、祭司についてのことを聞いていて、神聖な話しを聞いてきたのに、とつぜん鋳物の子牛を造って、性的に乱れている、という話しを聞きました。
しかも主は、イスラエルの民のことを、「あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は」と言われて、モーセの民であるかのように話されています。これは、モーセが神と民との仲介者であるから、そのようにも言えるのです。モーセは神の前では、自分を民と同一視させていました。そして、民の前では、神の人として神の栄光を現わすものとしての存在でした。そしてこれは、まことの仲介者である、イエス・キリストを表わしています。主は、私たちのことを「友」と呼ばれ、またご自分を私たちのことを兄弟と呼ぶことを恥となさらないで、私たちをご自分と同一視してくださっています。
32:9 主はまた、モーセに仰せられた。「わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。32:10 今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民としよう。」
主は、イスラエルをすべて滅ぼして、そしてモーセひとりから再び子孫を出して、大きな国民にするとおっしゃっています。これは、主がモーセを試してこうおっしゃっているのですが、でも、嘘をおっしゃっているのではありません。彼らが行なっていることは死に値するものであり、彼らはみな殺されなければならなかったのです。聖書には、「罪の報酬は死です。(ローマ6:23)」とあります。彼らが行ないは死に値することでした。
2B 神の約束 11−14
けれどもモーセはすぐに、神に反論しています。
32:11 しかしモーセは、彼の神、主に嘆願して言った。「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。
モーセは、主がなされたみわざを持ち出してきています。あなたが力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたのでしょう。そして、イスラエルはあなたの民でしょう、と言っています。なんか責任のなすりつけあいみたいです。「あなたがやったんだろう。」「いや私はありません、あなた様です!」と言っているような議論になっています。冗談っぽいですが、でもここが大事なのです。7節から10節までの主のみことばは、人の行ないについてです。11節からは神のみわざについてです。人の行ないに焦点を当てるなら、確かにたちまち滅んでしまいます。けれども、神の行ないに焦点を当てるなら、そこにはあわれみと、恵みと救いがあるのです。だから、モーセは、人の行ないにより頼んだのではなく、主のみわざにより頼んだのです。
32:12 また、どうしてエジプト人が「神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ。」と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。
今度は、主のみわざだけでなく、主の御名とその栄誉に訴えています。今、イスラエルを滅ぼされたら、馬鹿にされるのは彼らではなく、彼らを選ばれたあなたご自身ですよ、とモーセは訴えているのです。
32:13 あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを覚えてください。あなたはご自身にかけて彼らに誓い、そうして、彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のようにふやし、わたしが約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれを相続地とするようになる。』と仰せられたのです。」
主のみわざと主の御名のほかに、主の約束にモーセは訴えています。アブラハムとイサクとイスラエルに与えた約束です。
32:14 すると、主はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された。
思い直されました。ここで注意しなければならないのは、神のみこころがモーセの祈りによって変わったのではない、ということです。祈りによって神のみこころを変えるのではありません。それは無理だし、無理でなかったとしても百害あって一利なしです。神のみこころは完全であり、神は私たちに最善のことを行なってくださいます。それを変えようとする試みは、自分自身が不幸の道へと選ぶことに他なりません。
神は、モーセがこのように祈るのを初めからご存知だったのです。その予知に基づいて、モーセに祈るように促されたのです。神は、ご自分が何かをされたいと願われるとき、まず私たちに祈る心を置いてくださいます。祈りの課題をおいてくださるのです。そして、私たちが祈ると、その祈りによってご自分のみわざを行なわれます。ですから、祈りは、神のみわざのなかに自分が入っていく、と言ったらよいでしょう。あるいは、神のみこころと一つになっていく、と考えれば良いのです。
ですから、神はモーセの執り成しさえ導かれていたのですが、これは、私たちの執り成しの模範であります。また、祈りや願いの模範であります。私たちは神の恵みに拠り頼むときに、主の祝福があります。私たちの行ないや功績ではなく、神の栄誉や御業を前面に出した祈りが必要です。主が私たちにしてくださったこと、つまり、私たちの罪のために十字架につけられ、義と認められるためによみがえってくださったこと。どんなにひどい罪を犯しても、主よ、このことのゆえにお赦しください、と祈ることができます。また主は良い方であり、あわれみに富んだ方です。神のご性質や神の栄光にゆだねる必要があります。また神の約束があります。私たちは、祈りの中で、このような神中心の祈り、みことば中心の祈りで飽和状態にする必要があります。
3A 懲らしめ 15−29
1B 痛み 15−20
32:15 モーセは向き直り、二枚のあかしの板を手にして山から降りた。板は両面から書いてあった。すなわち、表と裏に書いてあった。32:16 板はそれ自体神の作であった。その字は神の字であって、その板に刻まれていた。
この板は十戒が書かれています。そして、なんと神ご自身がお書きになりました。
32:17 ヨシュアは民の叫ぶ大声を聞いて、モーセに言った。「宿営の中にいくさの声がします。」
24章を見ますと、ヨシュアは、山の途中までいっしょに来たことが分かります。彼はずっと、40日間そこにいました。そしてヨシュアは、このようなかばん持ち、従者として生きていたので、モーセに次ぐ指導者となります。
32:18 するとモーセは言った。「それは勝利を叫ぶ声ではなく、敗北を嘆く声でもない。私の聞くのは、歌を歌う声である。」32:19 宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして手からあの板を投げ捨て、それを山のふもとで砕いてしまった。32:20 それから、彼らが造った子牛を取り、これを火で焼き、さらにそれを粉々に砕き、それを水の上にまき散らし、イスラエル人に飲ませた。
モーセは怒り狂いました。しかし、罪を犯しているのではなく、むしろ逆に神の怒りを表わしています。義憤ですね。あかしの板を砕いてしまいましたが、これは、彼らが十戒を破ったことを象徴しています。そして、子牛を焼いて、砕いて、水にまき散らし、イスラエル人たちの飲ませました。
神が思い直して下さったのに、こんなひどいことはすることないだろう、と思われるかもしれません。けれども、聖書が語っているあわれみは、私たちが日本で耳にする「慈悲」とは全く性質を別にするものです。神のあわれみは、その懲らしめや訓練の中にも現われます。私たちが罪を犯さないように、私たちを滅ぼす罪から離れることができるように、ときどきこのようなむちを与えるのです。熱いストーブに手を出そうとして言うことをきかない息子を、お尻を叩いて叱る父親のように、です。父親もこれは辛いことなのですが、息子の手が焼きただれることのほうが、もっと辛いのです。だから、モーセの怒りの中には、こうした神の懲らしめが現われています。
2B 責任 21−24
32:21 モーセはアロンに言った。「この民はあなたに何をしたのですか。あなたが彼らにこんな大きな罪を犯させたのは。」32:22 アロンは言った。「わが主よ。どうか怒りを燃やさないでください。あなた自身、民の悪いのを知っているでしょう。」
アロンは言い逃れをしました。自分の責任にしませんでした。その結果、何をしているでしょうか、他の人々を責めています。「民の悪いのを知っているでしょう。」と言っています。これ、ずっと前のこと思い出しませんか?アダムが神さまから問い詰められたとき、エバのせいにしましたよね。私たちは、自分の責任を認めないと、すぐに他の人や物を非難します。
32:23 彼らは私に言いました。「私たちに先立って行く神を、造ってくれ。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」32:24 それで、私は彼らに、「だれでも、金を持っている者は私のために、それを取りはずせ。」と言いました。彼らはそれを私に渡したので、私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。
アロンは嘘をついてしまっています。かなり混乱していたのでしょう。けれども、自分の責任を認めず自分の罪を認めないと、続けて他の罪を犯してしまいます。
3B さばき 25−29
32:25 モーセは、民が乱れており、アロンが彼らをほうっておいたので、敵の物笑いとなっているのを見た。
金の子牛の前で破廉恥な行為をしているとき、近くに住んでいた異邦人たちが駆けつけて、彼らを眺めていたのでしょう。
32:26 そこでモーセは宿営の入口に立って「だれでも、主につく者は、私のところに。」と言った。するとレビ族がみな、彼のところに集まった。
モーセもレビ族ですが、彼らは主につく者となりました。
32:27 そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」32:28 レビ族は、モーセのことばどおりに行なった。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。
これを残虐と考えたら、読み間違っています。イスラエルの民は200万、300万人いました。その中で、モーセがやって来てもこの悪い行ないを止めない、公然と反抗する者たちだけを殺したのです。主の懲らしめは、私たちを神のもとに引き寄せる効果を持っていますが、それでも聞き入れない者には、主の恐ろしいさばきが待っています。主は愛でありますが、同時に聖なる方です。悪を許容したり、助長されたりすることはなさいません。
32:29 そこで、モーセは言った。「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。」
私たちも時に、家族よりもさらに優先させて、主につかなければいけない時があります。イエスさまが同じことを話されました。「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイ10:34-38)」
4A 身代わり 30−35
32:30 翌日になって、モーセは民に言った。「あなたがたは大きな罪を犯した。それで今、私は主のところに上って行く。たぶんあなたがたの罪のために贖うことができるでしょう。」
できるだろう、という感じだったと思います。かなり威厳をもって話しています。でも次をご覧ください。
32:31 そこでモーセは主のところに戻って、申し上げた。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。」
態度ががらっと変わっていますね。ああ、ごめんなさい。主よ、すみません!という感じです。モーセの仲介者としての役割をしっかりと表わしています。人に対しては神の代表者として、神に対しては人の代表として、執り成しをしました。彼は民に代わって、罪を認め、言い表わしました。
32:32 今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら・・。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」
お赦しくださるなら、― と、長い沈黙が続いていることがわかります。モーセはどうすればよいか、どう執り成しをすればよいか分からなかったのでしょう。もう滅ぼされて当然なのです。でも、彼らを何とかして救いたい。そこで、自分が滅ぼされて、地獄に行ってもいいです、とここでは言っているのです。自分の愛する者たちのために、地獄に行くことを願ってしまう、これほどモーセは民を愛していました。新約聖書では、パウロがそうでしたね。ローマ書9章を読みますと、こう書いてあります。「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。(1−3節)」
ここまでの愛を、私は正直行って持っていません。自分の家族のため、友人たちが天国に行くのを引き換えに、自分が地獄に行くことを願うほど、私は愛を持っていません。けれども、次に神はモーセがそんなことをしなくてもよいことを話されます。そうです、私たち人間が代わりに犠牲の供え物になることはできないのです。ただひとり、私たちが天国に行けるようにするために、地獄の苦しみを味わった方がおられます。イエスさまです。イエスさまは、あの十字架の上で、神から見捨てられるという暗黒、苦しみ、地獄を経験されました。私たちのために、そこまで真剣になって十字架におつきになったのです。
32:33 すると主はモーセに仰せられた。「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。」
神には書物があります。神のものになっているかどうかの書物です。そして黙示録では、その書物に名前が書き記されていない者は、火と硫黄の池に投げ込まれると書かれています。ですからイエスさまは、「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。(ルカ10:20)」と言われました。
32:34 「しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に、民を導け。見よ。わたしの使いが、あなたの前を行く。わたしのさばきの日にわたしが彼らの罪をさばく。」32:35 こうして、主は民を打たれた。アロンが造った子牛を彼らが礼拝したからである。
主は、さらにこの民を導きなさいという指導をモーセに与えられて、次の仕事を任せようとされました。さらにモーセに語られますが、それは33章にあり、次回学びます。
この章から私たちは、罪を犯すときについて、また罪を犯したときにどう対処すればよいのかを学べます。主のご臨在を意識できていないときに、肉の欲望によって、古い行ないを行なってしまいます。そして、人を恐れるときに罪を許します。そのようなとき、モーセのように執り成しの祈りを、罪を犯している人に代わって祈ることができます。また、自分についての祈りもそうです。自分の行ないは罪として認めますが、願うときは、主のご性質、みわざ、約束に訴えます。そして、罪を犯すときは、主の懲らしめがあり、それでも言うことを聞かない者にはさばきがあります。そしてモーセは最後に、究極の執り成しの祈り、自分が代わりに地獄に行ってもよいという祈りをしました。
罪を犯さない者は一人もいない、とかつてソロモンが言いましたが、私たちも犯してしまいます。けれども、立ち直りの道を主が与えておられます。
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