出エジプト記32章1-6節 「なぜ偶像崇拝をするのか?」
アウトライン
1A 神の意識の低下
1B 遅く見える約束
2B 自分たちで造る神
3B 指導者につく信仰
2A 会衆の要求に応じる指導者
1B 神の代替物
1C 金の捧げ物
2C 鋳物の子牛
3C 主への祭壇
4C 主への祭り
5C 全焼と和解のいけにえ
6C 飲み食い
2B 肉の行ない
本文
出エジプト記32章を開いてください。私たちの学びは、先週、29章まで来ました。明日、30章から学びますが、今晩は32章1-6節に注目してみたいと思います。
32:1 民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」32:2 それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」32:3 そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。32:4 彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と言った。32:5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは主への祭りである。」32:6 そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。
これは、モーセがシナイ山において、幕屋の作り方、祭司の務めなどの戒めを受けているうちに、山のふもとでイスラエルの民が行ったことです。出エジプト記の通読の学びをされている方は、「あれ?彼らは、『主の仰せられたことはみな行ない、聞き従います。(24:7)』と言わなかったっけ?」と驚かれると思います。
まさしくその通りで、なぜこうも速やかに、偶像崇拝の罪に彼らが陥ったのか不思議です。彼らは、エジプトにおいて、イスラエルの神がエジプトで神々と呼ばれていた物にことごとく災いを下されたのを知っています。彼らはここで子牛を造っていますが、家畜が疫病にかかって死んだのも彼らは知っています。それにも関わらず、彼らが偶像崇拝に陥ったのはなぜでしょうか?
1A 神の意識の低下
もう一度、1節を見てみましょう。「民はモーセが山から下りてくるのに手間取っているのを見て」とあります。モーセは四十日間、シナイ山の上にいました。つまり、かなり時間が経っています。彼らが見ている光景は、「山の頂が燃え上がる火のように見えていた(24:17)」というものです。けれども、驚くべき光景もずっと見ていれば慣れてしまいます。そしてアロンはモーセによって、民をさばくように命じられていましたが、それを行なっていた形跡がありません。
したがって、彼らは「神がおられる」という意識が薄くなっていたと考えられます。以前、イスラエルの民がレフィディムで、飲む水がないので「神がここにおられるのか、どうか」と言って、神を試したことがありましたね。それと同じことがここで起こっています。
「神への意識が薄くなっている」というのが、彼らの偶像崇拝の始まりだったのです。私たちはたえず、目に見える神々を拝んでいる世に生きているため、この誘惑を受けています。詩篇115篇に、こう書いてあります。「なぜ、国々は言うのか。『彼らの神は、いったいどこにいるのか。』と。(2節)」とあります。目に見えない神なので、「なぜ目に見えない神など信じているのか?」と挑戦を与え、刺激を与えています。けれども、彼らの神々が目に見えます。ですから、短絡的に神がいると意識することができます。
そう考えると、私たちは仏像や神棚に限らずとも、偶像が自分の回りに数多くあることに気づくかと思います。目に見えない神を意識できなくなっている時に、見えてくるのは、肉眼で見えてくる物や人です。目で見えるものこそが自分にとって現実であり、そして行き着くところ真実なのだと錯覚するのです。
私たちが偶像崇拝やその他の罪を犯すのは、偏に神が自分にはおられないと感じる時です。私たちは自分が行っている行為にばかり目が向き、クリスチャンとしてやってはいけないと分かっているのに行ってしまうことで、後悔し、自分が嫌になります。けれども、やってはいけないことをやってしまうのは、目に見えない神が意識できなくなり、目に見える物が自分の体に刺激を与えるからであって、根本の問題は「主がおられることを意識できていなかった。」ということであります。
使徒パウロは、「絶えず祈りなさい。(1テサロニケ5:17)」と勧めましたね。祈り始めることは、主がおられることを意識する時です。そしてダビデは詩篇の中でこう歌いました。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。(詩篇16:8-9)」主を自分の前に置く、ゆえに主が自分の右におられて、いつも力となってくださる。それゆえ心が喜び、魂が楽しんでいます。また自分の身も重苦しくなく、安らかになっています。
エレミヤは哀歌の中でこう歌いました。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。』と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。(哀歌3:22-24)」朝ごとに、主の憐れみが新しくされているので、それを目覚める毎に思いめぐらし、主から力を受けます。イエス・キリストを信じ、心の中に聖霊を宿しておられる方であれば、必ず主が心に語ってくださいます。その中に私たちは安らぎ、また力を得ることができるのです。
1B 遅く見える約束
イスラエルの民が、神のご臨在を感じることができなくなったのは、時間が経っていたからです。ほぼ四十日経っていても、生活に変わりはなく、変化の兆しもないからです。主はイスラエルの民に、モーセが神の戒めが刻まれている石の板を携えて、山から戻ってくるという約束をされていたのに、イスラエルの民はその約束を待つことができなくなり、その約束を待ち望むのをあきらめてしまいました。
けれども、どんなに遅いと感じるようであっても、神は約束を故意に遅らせておられる方ではありません。ペテロは、イエス様の再臨の約束について、「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。(2ペテロ3:9前半)」と言いました。神は預言者ハバククに対し、ユダの国の状況が悪化の一途を辿っていた時にこう言われました。「この幻は、なお、定めの時のためである。それは終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。(2:3)」そして、主はイスラエルの民にイザヤを通してこう言われました。「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところには帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。(イザヤ55:11)」
遅れているように見える約束は、待ち望む人々にとっては忍耐が養われ、さらに成熟するのに役立ちます。アブラハムはイサクが生まれることを神に告げられて、およそ百歳になっているのに、さらに神に栄光を帰して、神に約束を成就する力があることを信じました。預言者ハバククも、主から幻を受け取った後は、ユダに飢饉が訪れても、「主にあって喜び勇む」といって、ますます主を喜びました。忍耐をする者たちの上に、主はご自分の御霊を置いてくださるのです。
けれども、約束を待てない時に、私たちはイスラエル人と同じ間違いを犯します。約束を待てなかった人たちとして思い出すのは、例えばサラです。アブラハムが神から、子孫が空の星の数のようになるという約束を受けましたが、妻は一向に自分が妊娠しないのに我慢できなくなって、女奴隷のハガルを通して子を与えるようにアブラハムに要求しました(創世記16:1-2)。そして、イスラエルの初めの王サウルは、預言者サムエルが七日待ってもギルガルに戻ってこなかったので、祭司のみが行うことができる全焼のいけにえと和解のいけにえをささげることを、自分自身で行なってしまいました(1サムエル13:8-9)。
2B 自分たちで造る神
そしてイスラエルの民は、アロンのもとに集まり、こう言いました。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。」私たちが神によって造られたのに、かえって自分たちが神を造る、という過ちを犯しました。これから先に出て行くのに、もはや生ける神ではなく、自分たちで出て行くという間違いを犯したのです。
彼らは、主が自分たちをエジプトから連れ出した、ということを聞いていました。「わたしは、あなたをエジプトから連れ出した、あなたの神、主である。(20:2)」主がシナイ山まで連れてきてくださったことを彼らは知っているのですから、シナイ山から約束の地までも主が導いてくださるという確信に至らなければいけませんでした。過去に救いを与えられた神は、今も自分を支え、そして将来も自分を救ってくださることを信じなければいけません。主は真実な方だからです。
パウロは宣教の働きをしている時に、自分が死にかける思いをしたことがあります。その時に、確かに死を覚悟した、と言っています。けれども、主は救い出してくださいました。そしてこう言っています。「ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。(2コリント1:10)」過去も救ってくださったのだから、将来も救ってくださるのだという確信と信頼です。ですからこうも言っています。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。(ピリピ1:6)」
けれどももし私たちが、過去に行なってくださった恵みを、今と将来に適用させるのを怠るなら、「これまでは神が救ってくださったのだが、これからは自分たちで救いを完成させなければならない。」と思うのです。それがイスラエルの犯した過ちであり、シナイ山まで神は導かれたが、これからは自分たちで導かなければいけないと思ったのでした。それで、自分たちを導く神を自分たちで造らなければいけないと思ったのです。
この過ちを犯した人々が教会の中にいました。ガラテヤにある教会です。パウロはこう言いました。「ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。(3:2-3)」御霊ではなく、肉の頑張りによって完成させようとしています。
そして、過去の出来事を思い出す象徴を彼らは置きました。牛は、エジプトにおいてアピス神と呼ばれる神でした。エジプトで世界遺産に指定されているメンフィスの墓地遺跡群には、地下に巨大な棺桶がいくつも見つかっています。それがアピスの牛を葬ったものです。そしてアピスはミイラにもされていました。彼らは、この過去をなつかしく思い出して、アロンにこの神を造らせたのです。
私たちは、過去をずっと引きずっていたいと願います。そして、その遺物を残しておきたいと願います。クリスチャンの場合、過去の神が強く働いてくださったその良い思い出にしがみつきたいと思って、それが偶像になってしまう場合もあります。今日、主が生きて働いてくださり、将来に向かって働いてくださるのに、過去の良い出来事を思い出し、その事物に、あるいは人に、あるいは、方法にしがみつきたいと願うのです。もうすでに主は、新しい働きを行ない始めているにも関わらず、です。
しかし、それは使徒パウロの姿勢ではありませんでした。ピリピ人への手紙で彼はこう言います。「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:13-14)」しがみついている過去を手放しましょう。そして今、主イエス・キリストを新しく体験しましょう。
3B 指導者につく信仰
そしてイスラエルの民は、「私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」と言いました。彼らは「モーセという者」と言って、自分の指導者がいなくなったことによって、神ご自身を捨てたという過ちを犯しました。モーセを通して神につくのではなく、モーセについていたのです。自分自身が神についているという、神との直接の関係が希薄だったことを示しています。
イスラエルのその後の歴史の中で、士師の時代があります。約束の地に入って、ヨシュアが死んだ後に、イスラエルの民は周囲の民の拝んでいる神々に自分たちも仕えるようになりました。それで主が、敵が彼らを苦しめることを許されたことによって、彼らは主に叫び求めます。すると主は、敵に対して戦ってイスラエルを救い出す士師をイスラエルに遣わされます。それでイスラエルは救われるのですが、その士師が生きている間は、イスラエルは神に仕えていました。けれども士師が死ぬと、彼らは再び偶像崇拝に陥るのです。つまり彼らは、生ける神との、生ける関係を、士師らに丸投げしていたのです。士師が神に対して祈ってくれるだろう、神に代わって私たちを治めてくれるだろう、と、士師に依頼していたのです。
教会の中にも同じ問題がありました。コリントにある教会の中で、「私はパウロにつく」「私はアポロにつく」「私はペテロに」というように、分派を作っていたのです。けれどもパウロはこう言いました。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。(1コリント3:6-7)」本人が、自分を成長してくださった神に目を向けなけばいけないのに、その関係を確立させるのことを怠っていたのです。
神の指導者は、模範として非常に大切な役目を担っています。パウロは、「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。(1コリント11:1)」と言いました。人々は、模範を見なければ、教えだけ聞いてもなかなか従えるものではありません。見ることによって、初めてその教えをどのように適用させればよいか分かってきます。けれども、その模範にならうのはあくまでも、「私がキリストを見ならっているように」とあるように、自分自身がキリストに見倣うことが目的です。皆さんは、指導者の背後で働いておられるキリストにつながっているでしょうか?
2A 会衆の要求に応じる指導者
そして次の問題はアロンでした。アロンはモーセによって、民をさばくように命じられていました。けれども、実際は民がアロンに要求を突き付けていたのです。日本語で読むと、ちょっとお願いしているように聞こえますが、そうではありません、アロンに詰め寄って強く要求しているのです。それで、アロンは彼らを神の支配で治めるのではなく、彼らの要求に応じる形で金の子牛を造ることから、彼らが祭りをするところまで導いてしまったのです。4節を見てください、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と言っているのは誰ですか、アロンではありません、民です。民が主導権を握り、アロンがそれに仕えているという状態です。
神の支配の中で、民主主義は存在しません。私たちが感じていること、思っていることを優先させたら、必ずや偶像崇拝の罪を私たちは犯します。教会においては、民主制ではなく神権政治です。キリストをかしらとする体が教会です。この方が命じられることが絶対であり、それに従うのであり、私たちの意見を実現するところではありません。だから、私たちはまず祈らなければいけません。そして御言葉がすべての決定の基準になっていなければいけません。
1B 神の代替物
そして驚くべきことに、アロンが民の要求に応じて行ったことは、イスラエルの神、ヤハウェを完全に捨てたのではないことです。むしろ、かしらをヤハウェから子牛に替えただけで、その他はすべて同じでありました。代替物です。
1C 金の捧げ物
初めに、「金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」と言っています。覚えていますか、主はモーセに、金銀や撚糸など、心から進んでささげる人から奉納物を受け取らなければならない、と言われました(25:1)。確かに、民は進んで金の耳輪を取り外して、アロンのところに持ってきたのです。「捧げている」という事実は同じですが、対象がまったく違うのです!
2C 鋳物の子牛
そしてアロンは、「のみで型を造り、鋳物の子牛にした」とあります。神は、契約の箱の贖いの蓋にあるケルビムを彫りなさい、燭台を彫りなさいと命じられ、知恵の霊で神が満たされた者がそれらを行なうと言われましたが、同じように型を造りました。
3C 主への祭壇
さらに見てください「祭壇」を造っています。主は、土の祭壇、また石の祭壇を造りなさい、と命じられたし、また青銅の祭壇を幕屋の中に置くことを命じられました。確かに祭壇は同じなのですが、だれに捧げているかが全く違うのです。
4C 主への祭り
そして恐ろしいのが、アロンの呼びかけです。「あすは主への祭りである。」アロンは、牛を拝みなさいと言っていません。主を、ヤハウェを拝みなさい、と言っているのです。ただ、イスラエル人がエジプトにいた時に慣れ親しんでいた牛の形をしているだけで、対象が主であればそれでよいと考えました。
けれども、それはとんでもない間違いです!アロンは、彼らの偶像崇拝の行為に、単にヤハウェという名前を取ってくっ付けただけです。中身はまったく違っているものが入っているのに、表のシールには「ヤハウェ」と虚偽表示しているだけです。
5C 全焼と和解のいけにえ
そしてイスラエルの民は、「翌日、朝早く」起きて、「全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた」とあります。実にすばらしい献身です。朝早くから起きて、いけにえを捧げているのです!なんと信心深いでしょう!とほめることができます。全焼のいけにえや和解のいけにえも、主がモーセに捧げなさいと命じたことです。ところが、対象が金の子牛なのです!
6C 飲み食い
そして彼らは「飲み食い」しています。これも長老たちがモーセに引き連れられて、主の足元で飲み食いしたので、とても似ています。
ですから、「似て非なる」ものなのです。私たちは、表面的な行為だけを見て、「なんてすばらしいのだろう。なんて献身的なのだろう。これこそ、イエス・キリストへの礼拝だ。」と思うかもしれません。けれども、それは対象がまったく異なる偶像崇拝にしかすぎず、単に「イエス」という名前を使っているだけにしか過ぎないことがあるのです。ですから、私たちはイエス・キリストではなく、代替物を拝むという危険があるのです。
どのようにして、イエス・キリストを拝んでいるのか、それとも名前だけ使って、他のものを拝んでいるのか区別することができるのでしょうか?それは、もう一度言いますが、対象を確かめることです。「イエス・キリスト」という方のご性質や働きを、御言葉を通して知ることです。そして、御霊によってこの方に触れられることです。表面的な信心深さではなく、真の知識に基づいた信仰を持つ必要があります。
そしてもう一つは、自分に仕えているのではないことを確認することです。たとえ宗教的に見えても、信心深く見えても、自分がしていることが自分の心理的欲求を満たしたいから、自分のことを認めてもらいたいから、人々が自分に気に留めてもらいたいからと、自分の欲求を満たしている時です。イエス・キリストに従いたいなら、「自分を捨て、日々自分の十字架を負う」ことが必要になります。
2B 肉の行ない
そして、偶像崇拝なのか、ヤハウェなる神なのかがはっきりしているのは、その実です。6節を見てください、彼らが飲み食いしたあと、「立っては、戯れた」とあります。この戯れたは、性的な乱れを意味する言葉です。つまり、お祭り騒ぎをして、性的に、道徳的に乱れている、ということです。肉の行ないが、彼らの神を如実に表しています。
イエス様は、「実によって、偽預言者を見分けることができる。」と言われました。そして、使徒パウロも、肉の行ないと聖霊の実を比べています。「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」興味深いですね、性的不品行と偶像礼拝、そして魔術をパウロは並べて述べています。さらに、敵意や争い、中傷、党派心なども並べて述べています。そして酩酊、遊興と続きます。これらのことを行なっていたら、キリストの名を使っていても決して神の国を相続できない、と言っています。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。(ガラテヤ5:19-23)」まことの神に仕えている実は、ここに書いてあるとおりです。
最後に興味深い証しをご紹介したいと思います。皆さんは1987年に起こった大韓航空機爆破事件を覚えておられるでしょうか?それは、ソウルオリンピックが行われる直前に、北朝鮮が工作員によって中東の国から韓国に向かう大韓機を爆破させた事件です。その工作員の一人が金賢姫と言う人でした。彼女は自殺未遂によって生き残り、韓国で取り調べを受けました。その捜査官の一人がクリスチャンでした。それで彼女はクリスチャンになりました。ソウルにいた日本人教会の牧師が、彼女に質問しました。「あなたが信奉する共産主義を捨てて信仰をもつのは非常に大変と思いますが、どうして信じる決心ができたのですか。」金賢姫の答えは明快だったそうです。「それは簡単です。頭では金日成を捨て、イエス・キリストを受け入れたのです。首から下は同じです。」
分かりますか、金日成という頭を捨ててイエス・キリストという頭に替えたのであり、その下は同じでした。ちょうどイスラエルの民と行ったことは逆であり、彼らはヤハウェなる神という頭を捨てて、子牛を頭にしただけです。けれども金賢姫の生活からはただ頭を変えただけで、御霊の愛が流れました。金日成が頭となっている時は、思いは純粋でしたが、多数の人々を殺戮するという悪事を行ないました。ですから大事なのは、どの頭につながっているかどうかなのです。皆さんの生活でキリストが頭となっているでしょうか?
それとも、この方につながらないで、他のことを求めていないでしょうか?パウロはこう言いました。「あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。(コロサイ2:18-19)」