出エジプト記33−35章 「会見の天幕」

アウトライン

1A モーセの執り成し 33
   1B 御臨在なしの約束の地 1−6
   2B 顔と顔の語らい 7−23
      1C 宿営外の天幕 7−11
      2C 名ざしで選び出された者 12−17
      3C 神の栄光を見る願い 18−23
2A 恵みの回復 34
   1B 御名の宣言 1−9
   2B 主の再契約 10−27
      1C 現地住民との契約 10−17
      2C 三度の祭り 18−28
   3B 顔の輝き 29−35
3A 幕屋の準備 35
   1B 安息日の戒め 1−3
   2B 神からの指示 4−19
   3B 喜んで捧げる奉納物 20−29
   4B 知恵による仕事 30−35

本文

 出エジプト記33章を開いてください。前回の学びで私たちは、モーセがシナイ山で幕屋についての言葉を受けていたときに、ふもとではイスラエルの民が金の子牛を拝み、乱れていたところを読みました。その乱れはモーセが戻ってきても一向に収まる気配がないため、宿営に聖さを保つため殺さざるを得ませんでした。その死者は三千人です。そして、モーセは主に罪の赦しを請いましたが、神の答えは、「わたしは彼らを裁く」と明言されました。

 今日はその続きです。主が続けてモーセに語られます。

1A モーセの執り成し 33
1B 御臨在なしの約束の地 1−6
33:1 主はモーセに仰せられた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える。』と言った地にここから上って行け。33:2 わたしはあなたがたの前にひとりの使いを遣わし、わたしが、カナン人、エモリ人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、33:3 乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせよう。わたしは、あなたがたのうちにあっては上らないからである。あなたがたはうなじのこわい民であるから、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼすようなことがあるといけないから。」33:4 民はこの悪い知らせを聞いて悲しみ痛み、だれひとり、その飾り物を身に着ける者はいなかった。

 ここで何がイスラエルの民を悲しませたのでしょうか?何が悪い知らせだったのでしょうか?彼らは確かに、アブラハム、イサク、ヤコブに約束された地に入ることができます。そこにいる住民たちを追い出すことができます。乳と蜜の流れる地に行くことができます。けれども、主ご自身が彼らといっしょに行くことはない、とおっしゃっているのです。主が共におられない、ということがもっとも大きな打撃でした。

 神の側としては、それは必要なことでした。主が共におられるということは、その聖さも伴います。そうすれば、彼らが再び同じ過ちを繰り返すのであれば、彼らを本当に絶ち滅ぼさなければいけません。そうしないためにも、ご自分が共にいないほうがよいと判断されたのです。

 しかし、神の臨在なしの約束の地は、愛する人がいないデートのようなものです。そのデートの場所がどんなに美しく、ロマンチックなところであっても、相手がいなければ全く意味がありません。主が共におられるというのは、美しい、豊かな土地以上の、もっとも優れた財産であったのです。

 神の臨在というと、私たちは何を想像するでしょうか?何か、ほわほわした感じをイメージするでしょうか?少なくてもイスラエルにとってはそうではありませんでした。彼らはエジプトにいた時から、主がおられたから、あの十の災いが下ったことを知っていました。自分たちの家畜が守られ、エジプトの家畜のみが疫病に打たれ、そして自分たちの長男が生かされ、エジプト人の長男がみな殺されました。そして、イスラエルは主がおられたから、飲む水がないときに水を飲むことができたのを知っていました。食べる物がないときに食物を与えられたのも知っていました。敵が自分たちを殺し始めたとき、その戦いに勝利を与えられたのを知りました。

 そして何よりも、シナイ山に降りてきてくださり、その黒雲や稲妻、角笛の音と共に、モーセに契約と律法を与えられたのを知っていました。神の御言葉の中にあるご臨在です。神がおられるからこそ、これらの祝福と救いがあるのであり、祝福と救いだけあるということは考えられなかったのです。

 新約聖書において、弟子たちもそうでした。イエス様が、十字架につけられ復活し、それから天に昇られることを告げられた時に、弟子たちは非常に悲しくなりました。彼らが何を求めていたかと言うと、イエス様ご自身だったからです。この方がともにいることが、他の何にも取り替えることができないことでした。それでイエス様は慰め数多くを与えられました。例えば、ヨハネ1417-18節を読みます。「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。(ヨハネ14:17-18」聖霊が来られる約束、そしてご自身が戻ってこられる約束をされました。

 ところでもちろん、主はどこにでもおられます。神学用語でそれを「偏在」と言います。主の臨在から離れることなど、地球の奥に入っても決してできません。けれどもここで話しているのは、主との人格の交わりです。私たちが罪を犯すときに、私たちは救いを失うことはありませんが、交わりは失います。ダビデが罪を犯した後に、次のような祈りを捧げています。詩篇5110節からです。「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。(10-12節)」救いの喜び、聖霊から来る神の愛、平和が失われてしまいます。これを取り戻してください、とダビデは祈っています。

 イスラエルは悲しんでいます。これは、すばらしいことです。罪に対する悲しみのしるしです。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。(マタイ5:4」とイエス様は言われました。

33:5 主はモーセに、仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたは、うなじのこわい民だ。一時でもあなたがたのうちにあって、上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、あなたがたの飾り物を身から取りはずしなさい。そうすれば、わたしはあなたがたをどうするかを考えよう。」33:6 それで、イスラエル人はホレブの山以来、その飾り物を取りはずしていた。

 この飾り物は、異教に関わるものであり、彼らはそれを身に付けながらこれまで旅をしていたものと思われます。それで、実際にモーセがいなくなって四十日近く経っていたとき、彼らは我慢できなくなり、かつてのエジプトの異教の中に陥ってしまったのです。けれども、主の言葉が書かれている石の板が壊され、金の子牛の砕いた粉を水と共に呑み、そして三千人が死んだ今、自分が身に付けているこの飾り物が、いかに忌まわしいものかを悟ったのでしょう。嫌悪感も抱いていたと思います。それで、身に付けるのを止めました。

 これが、神が私たちを懲らしめられる理由です。罪から来る悲しみによって、その罪を自分自身が憎み、自分自身がそれから離れたいと願うようにさせるのです。

2B 顔と顔の語らい 7−23
1C 宿営外の天幕 7−11
33:7 モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れた所に張り、そしてこれを会見の天幕と呼んでいた。だれでも主に伺いを立てる者は、宿営の外にある会見の天幕に行くのであった。33:8 モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、おのおの自分の天幕の入口に立って、モーセが天幕にはいるまで、彼を見守った。33:9 モーセが天幕にはいると、雲の柱が降りて来て、天幕の入口に立った。主はモーセと語られた。33:10 民は、みな、天幕の入口に雲の柱が立つのを見た。民はみな立って、おのおの自分の天幕の入口で伏し拝んだ。33:11 主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。モーセが宿営に帰ると、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が幕屋を離れないでいた。

 モーセは、主にお会いする天幕を張りました。(これは幕屋ではありません。幕屋はこれから造り、そして宿営の真ん中に張ります。)続けて主にお会いして、民のために執り成しをする機会を欲していたのです。使徒の働き3章にもありましたが、ペテロとヨハネは祈るために宮に行っていました。主に用いられる人は祈る人です。

 そして、それは宿営の外にありました。主が真ん中に現れたら、彼らが滅ぼされてしまうかもしれません。また、モーセが独りで主にお会いしたいということもあったでしょう。けれども、民の心は主に対して奮い立っていました。会見の天幕に主の臨在を表す雲の柱が立つと、彼らもそれぞれの天幕の入口で、その方向に向かってひれ伏しています。

 それから、この会見で優れているのは「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」ということです。これは実際の御顔をモーセが見ることができた、ということではありません。後ですぐに神の御顔をそのまま見ることはできない、と神がモーセに言われます。そうではなく、罪という隔たりのない、何一つ隠し立てのない、一対一の交わりを表しています。

 モーセは羨ましいなと私たちは思ってしまいますが、いいえ、大いなる恵みによって、主はご自分の弟子たちに同じ約束を与えてくださったのです。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ15:13-15」私たちが主の戒めを守る弟子となっているのであれば、イエス様は私たちの友となってくださるのです。それを知るには第一に、ここで主が言われているように、友のために命を捨ててくださった、つまり、あなたのためにいのちを捨ててくださったことを知ることです。

 そして私たちは、モーセのように主との親しい語り合いをする場所を持っているでしょうか?日々の生活において、どうしても主に申し上げたいという魂の叫びを言い述べることのできる場所を持っているでしょうか?ある人にとっては、自分の寝台かもしれません。ある人にとっては、公園かもしれません。そしてある人にとっては、トイレの中かもしれません。主がともにおられて、自分は自由に語り、主が理解を超えたところの平安を与えてくださる場所と時間です。

2C 名ざしで選び出された者 12−17
33:12 さて、モーセは主に申し上げた。「ご覧ください。あなたは私に、『この民を連れて上れ。』と仰せになります。しかし、だれを私といっしょに遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身で、『わたしは、あなたを名ざして選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている。』と仰せになりました。33:13 今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。この国民があなたの民であることをお心に留めてください。」33:14 すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」

 モーセの願いは、初めは「あなたの道を教えてください」というものです。けれども本音は、次に言い始めますが「あなたご自身がおいでになる」ことです。これからの旅において、主が道しるべを与えてくださらなければ、自分がどこに行けば分からなくなります。けれども、もっとも手っ取り早いのは主ご自身がおられることです。私たちも、自分で地図を見るよりも、その目的地にいる人が自分を迎えに来てくれて、ずっといっしょにいけば何の問題もありませんね。

 このように、主のご臨在はこれからの道しるべよりも優れているのです。皆さんのほとんどが、これからどうすればよいのか、将来の選択について悩まれたと思います。私も海外宣教地から日本に戻ってくるのが神の御心なのかどうか迷いました。主のお答えはずっと同じでした。「どっちでも良いよ。ただ、どちらにいても、わたしの福音を伝えなさい。わたしは、あなたと共にいる。」でありました。

 すばらしいのが、主がモーセに対して、子供を甘やかすかのようにその願いにすぐ答えられていることです。14節だけでなく、17節も、そして19節もそうです。その根拠は、第一に、神が名ざしでモーセを選び出されたこと、第二に、モーセが神のお心にかなっていることです。この二つにはそれぞれ他の翻訳があります。第一のほうは、「選び出された」ではなく「知っている」であり、「わたしは、あなたを名で呼ぶほど知っている。」ということです。例えば、オバマ大統領が私のファーストネームで私を呼んだ、というような親しい知り合いの関係です。第二のほうは、「あなたの恵みにかなっている」です。「お心」が「恵み」になっています。

 したがってモーセは、主が自分を親しみをもって引き寄せてくださったこと、そして神の恵みの中にいることを知っていました。モーセの神は、キリストにあって私たちの神でもあります。「イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。(ヨハネ14:23

 そして主は、「あなたを休ませよう」と言われます。主が共におられること、臨在されることの最大の祝福は休みです。私たちが肉体を休ませるのに避暑地などに行きますが、魂の奥底に安息が与えられるのは、どんな試練の中にいても主がおられるという事実です。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28

33:15 それでモーセは申し上げた。「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。33:16 私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。」

 強く、主ご自身がともに行かれることを願っています。そしてモーセは、そのご臨在によって初めて、「地上のすべての民と区別される」と言っています。イスラエルが他の国より強大になるから、区別されるのではありません。これが私たちの生活であれば、私たちの生活が豊かになり、安定するから、私たちがキリスト者であると世が認めるのではありません。むしろ、世の人と同じように苦しみの中に入れられても、「この人には確かに、この人が信じているキリストがいる。」と認めざるを得ないほど、神の平安と愛、喜びに支えられた強靭な精神力を見るからです。

3C 神の栄光を見る願い 18−23
33:18 すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」33:19 主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」33:20 また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」33:21 また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。33:22 わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。33:23 わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」

 モーセは、民のための執り成しではなく、ここでは神の栄光をお見せください、という彼自身の願いです。ここまで親しく主と交わっているモーセが、今、この方の御顔を見たいと願っています。それに対する神の答えは、「はい」であり「いいえ」です。まず「いいえ」から話しますと、主の御顔を私たちが直視することは決してできません。それはちょうど太陽を裸眼で直視する以上のことであり、神の栄光の輝きは人を即、死に至らせます。テモテ第一6章にこう書いてあります。「神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。(15-16節)」イエス様のみが、父なる神のすべてを見たことがあります。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネ1:18 

 それで主は、御顔ではなく、その後ろ姿を見せるとおっしゃってくださいました。通り過ぎられる時は、彼を岩の裂け目に入れて、ご自分を見ることがないようにされます。

 そして「はい」については、主がご自分の名を通り過ぎられるときに宣言してくださることです。それは、「わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ」ることであります。この善については、34章にすぐ出てきますが、神が善である、神は良い方であるという根本的真理を私たちはしっかりと受け入れるべきでしょう。

 そして神は、「わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」と言われます。ここにモーセが決して、彼の行いがよかったから選ばれたのではないことが分かります。主が一方的に彼に恵みを与えられ、それゆえにモーセの願いをこのように聞いてくださっている、ということです。私たちが選ばれたのは、神の一方的な憐れみのゆえです。ゆえに、モーセに対するように祈りを聞いてくださいます。

2A 恵みの回復 34
1B 御名の宣言 1−9
34:1 主はモーセに仰せられた。「前のと同じような二枚の石の板を、切り取れ。わたしは、あなたが砕いたこの前の石の板にあったあのことばを、その石の板の上に書きしるそう。34:2 朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。34:3 だれも、あなたといっしょに登ってはならない。また、だれも、山のどこにも姿を見せてはならない。また、羊や牛であっても、その山のふもとで草を食べていてはならない。」

 分かりますか、主は再び同じことをしてくださいます。石の板に神はご自分の指で戒めを書いてくださいましたが、モーセが金の子牛を見て打ち砕きました。主が契約を結ばれたのは台無しになったのです。けれども、主はやり直しを与えてくださっています。19章で、山に近づかないようにを主が戒められたように、ここでも戒めを与えておられます。

34:4 そこで、モーセは前のと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、主が命じられたとおりに、二枚の石の板を手に持って、シナイ山に登った。34:5 主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。34:6 主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、34:7 恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」

 この宣言については、ぜひ第一礼拝の説教を聞いてください。主の本質は、憐れみと恵み、忍耐と罪の赦しです。皆さんの神に対するイメージに、このような神の姿はあるでしょうか?

34:8 モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んで、34:9 お願いした。「ああ、主よ。もし私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか主が私たちの中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民は、うなじのこわい民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自身のものとしてくださいますように。」

 モーセは、神の寛容に対して圧倒されました。それで、地にひざまずき伏し拝んでいます。そして、民が確かにうなじのこわい民であると告白しています。主の慈愛に触れるときに、人は初めて自分の罪を認め、悔い改めに導かれます。

2B 主の再契約 10−27
 そして主は本格的に、ご自分の契約を再度結んでくださいます。

1C 現地住民との契約 10−17
34:10 主は仰せられた。「今ここで、わたしは契約を結ぼう。わたしは、あなたの民すべての前で、地のどこにおいても、また、どの国々のうちにおいても、かつてなされたことのない奇しいことを行なおう。あなたとともにいるこの民はみな、主のわざを見るであろう。わたしがあなたとともに行なうことは恐るべきものである。

 再び、すばらしい約束から始まります。

34:11 わたしがきょう、あなたに命じることを、守れ。見よ。わたしはエモリ人、カナン人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を、あなたの前から追い払う。34:12 あなたは、注意して、あなたがはいって行くその地の住民と契約を結ばないようにせよ。それがあなたの間で、わなとならないように。34:13 いや、あなたがたは彼らの祭壇を取りこわし、彼らの石柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒さなければならない。34:14 あなたはほかの神を拝んではならないからである。その名がねたみである主は、ねたむ神であるから。

 主は今、イスラエルと契約を結ばれますが、彼らが約束の地に入ったときに、現地人と契約を結んではならない、と命じておられます。釣り合わぬくびきを負うことはできません。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。(2コリント6:14

34:15 あなたはその地の住民と契約を結んではならない。彼らは神々を慕って、みだらなことをし、自分たちの神々にいけにえをささげ、あなたを招くと、あなたはそのいけにえを食べるようになる。34:16 あなたがその娘たちをあなたの息子たちにめとるなら、その娘たちが自分たちの神々を慕ってみだらなことをし、あなたの息子たちに、彼らの神々を慕わせてみだらなことをさせるようになる。34:17 あなたは、自分のために鋳物の神々を造ってはならない。

 13節に「アシェラ像」とありますが、カナン人の豊穣の女神です。簡単に言えばポルノです。ですから、淫らなことをするのと偶像礼拝が密接に結びついていました。今は私たちは偶像を造ることはありませんが、けれどもまったく同じ貪りという形で、欲望の奴隷になっています。「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。(コロサイ3:5

2C 三度の祭り 18−28
 次に主は三つの祭りについての掟を与えられます。

34:18 あなたは、種を入れないパンの祭りを守らなければならない。わたしが命じたように、アビブの月の定められた時に、七日間、種を入れないパンを食べなければならない。あなたがアビブの月にエジプトを出たからである。

 過越の祭りと、それに続く種なしパンの祝いの説明です。

34:19 最初に生まれるものは、すべて、わたしのものである。あなたの家畜はみな、初子の雄は、牛も羊もそうである。34:20 ただし、ろばの初子は羊で贖わなければならない。もし、贖わないなら、その首を折らなければならない。あなたの息子のうち、初子はみな、贖わなければならない。だれも、何も持たずに、わたしの前に出てはならない。

 初子の贖いの教えです。覚えていますか、主がイスラエルの初子を贖われたので、初めに生まれてくる子はみな主のものとなります。

34:21 あなたは六日間は働き、七日目には休まなければならない。耕作の時も、刈り入れの時にも、休まなければならない。

 祭りは、農作物の収穫に関わることですが、その間の仕事は安息日に休まなければいけないという掟です。

34:22 小麦の刈り入れの初穂のために七週の祭りを、年の変わり目に収穫祭を、行なわなければならない。

 初めが五旬節のことで、五月頃に祝うものです。そして「年の変わり目」というのは、「ラッパを吹き鳴らす日」のことで、そこで新年が始まります。九月です。その月の十五日に仮庵の祭りを祝います。

34:23 年に三度、男子はみな、イスラエルの神、主、主の前に出なければならない。34:24 わたしがあなたの前から、異邦の民を追い出し、あなたの国境を広げるので、あなたが年に三度、あなたの神、主の前に出るために上る間にあなたの地を欲しがる者はだれもいないであろう。

 安息日と同じように、祭りに参加することはリスクを伴います。その間に敵によって、作物を荒らされたらどうするのか?と心配ですが、主が心配してくださることを教えています。私たちも、主の命令を行うにあたって、いつも、「神の国とその義を第一に求めなさい。」と心に留めておかなければいけません。

34:25 わたしのいけにえの血を、種を入れたパンに添えて、ささげてはならない。また、過越の祭りのいけにえを朝まで残しておいてはならない。34:26 あなたの土地から取れる初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない。子やぎをその母の乳で煮てはならない。」

 いけにえについての教えです。血とパンを混ぜではいけない、いけにえを朝まで残してはいけない、最上のものをささげよ、そして最後は、母の乳で子やぎを煮てはならない、です。最後は、カナン人の宗教の中で行っていたことがあり、そうした戒めになっています。

34:27 主はモーセに仰せられた。「これらのことばを書きしるせ。わたしはこれらのことばによって、あなたと、またイスラエルと契約を結んだのである。」34:28 モーセはそこに、四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、彼は石の板に契約のことば、十のことばを書きしるした。

 モーセは再び四十日間シナイ山にいました。今度は、イスラエル人は学び取りました。モーセがいないからと言って、偶像を造らなければいけないとは思いませんでした。彼らは教訓を学んだのです。

3B 顔の輝き 29−35
34:29 それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。34:30 アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。34:31 モーセが彼らを呼び寄せたとき、アロンと会衆の上に立つ者がみな彼のところに戻って来た。それでモーセは彼らに話しかけた。34:32 それから後、イスラエル人全部が近寄って来たので、彼は主がシナイ山で彼に告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。

 なんと、モーセの顔が輝いていました。四十日の間、彼は主の栄光を、その一部でありながら見続けていたからです。彼は主の栄光を反映していました。これが、神との交わりを持つことの意義です。私たちが神の栄光を反映することができる、ということです。

 そして、他の人々がその輝きを直視することができませんでした。モーセは神を直視することができませんでしたが、神の一部の栄光に触れた者の、その反映さえ直視することができなかったのです。これは霊的にも同じです。主の栄光に触れられた人を、肉の中にいる人々は煙たがります。直視することができません。

34:33 モーセは彼らと語り終えたとき、顔におおいを掛けた。34:34 モーセが主の前にはいって行って主と話すときには、いつも、外に出るときまで、おおいをはずしていた。そして出て来ると、命じられたことをイスラエル人に告げた。34:35 イスラエル人はモーセの顔を見た。まことに、モーセの顔のはだは光を放った。モーセは、主と話すためにはいって行くまで、自分の顔におおいを掛けていた。

 ここに、再び「隔て」という限界が旧約の時代には存在することを教えています。幕屋が多くの覆いによって、神の栄光と人との間に隔てを作ったのと同じように、モーセの顔にある神の栄光にも隔てを造らねばならなかったのです。

 この話を使徒パウロはじっくりと、コリント第二3章において行っています。彼は、旧約時代における奉仕と、新約の奉仕を比べて、後者がはるかに優れていることを述べました。モーセが伝えたのは、石の板に書かれた文字であるのに対して、私たちは御霊の言葉を伝えています。モーセが伝えていたのは、律法に違反する者は死であると宣言していたのに対して、私たちは復活の命を伝えます。

 そして、モーセの顔の覆いについても教えます。そこに物理的な隔てがありましたが、実は、心の中にも覆いがかぶさっていると教えました。キリストが既に来られたにも関わらず、当時のユダヤ人は会堂において、そのキリストの預言を聞いても悟ることがありませんでした。その思いに覆いがかけられているのです。

 また、実は覆いにはもう一つの目的がありました。モーセの顔の輝きはしばらくすれば消えていたのです。けれども、消えていくことを見せないために、覆いを付け続けたとのことです。同じように、古い契約は消え去り、新しい契約に取って代わったのに、それをいつまでも持ち続けているのはユダヤ人たちだ、ということです。

 けれども、新しい契約には希望があります。主の御霊が、その覆いを取り除けてくれるのです。316節から読みます。「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(2コリント3:16-18」新約におけるすばらしい御霊の働きです。私たちが必要なのは主に向くことだけです。そうすれば、主が私たちの心にある覆いを取り除けてくださいます。それだけでなく、モーセの栄光は消えていきましたが、私たちに与えられているキリストの栄光は、輝きを増すだけです。

3A 幕屋の準備 35
 ついに、出エジプト記の最後の部分に入りました。主が再び契約を結ばれましたが、今度は、モーセがイスラエルのために、主から受けた幕屋の教えを伝えているところです。その多くがすでに学んだことの反復になっています。なので、ざっと読み進めたいと思います。

1B 安息日の戒め 1−3
35:1 モーセはイスラエル人の全会衆を集めて彼らに言った。「これは、主が行なえと命じられたことばである。35:2 六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目には、主の聖なる全き休みの安息を守らなければならない。この日に仕事をする者は、だれでも殺されなければならない。35:3 安息の日には、あなたがたのどの住まいのどこででも、火をたいてはならない。」

 初めは、安息日の戒めです。これから幕屋を造る教えを神は伝えられますが、その奉仕において安息日を決して忘れはいけないということです。

 そして、ここでは「住まいでは火をたいてはならない」という戒めもあります。料理を作ることもできません。

2B 神からの指示 4−19
35:4 モーセはイスラエル人の全会衆に告げて言った。「これは、主が命じて仰せられたことである。35:5 あなたがたの中から主への奉納物を受け取りなさい。すべて、心から進んでささげる者に、主への奉納物を持って来させなさい。すなわち、金、銀、青銅、35:6 青色、紫色、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、35:7 赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、35:8 燈油、そそぎの油とかおりの高い香のための香料、35:9 エポデや胸当てにはめ込むしまめのうや宝石である。

 奉納物に対する指示です。その特徴は、「心から進んでささげる」ということです。

35:10 あなたがたのうちの心に知恵のある者は、みな来て、主が命じられたものをすべて造らなければならない。35:11 幕屋、その天幕と、そのおおい、その留め金とその板、その横木、その柱と、その台座、35:12 箱と、その棒、『贖いのふた』とおおいの垂れ幕、35:13 机と、その棒とそのすべての用具と供えのパン、35:14 燈火のための燭台と、その用器とともしび皿と、燈火用の油、35:15 香の壇と、その棒とそそぎの油とかおりの高い香と幕屋の入口につける入口の垂れ幕、35:16 全焼のいけにえの祭壇とそれに付属する青銅の格子、その棒とそのすべての用具、洗盤と、その台、35:17 庭の掛け幕、その柱とその台座と庭の門の垂れ幕、35:18 幕屋の釘と庭の釘と、そのひも、35:19 聖所で仕えるための式服、すなわち、祭司アロンの聖なる装束と、祭司として仕える彼の子らの装束である。」

 次に、奉納物によって集められた材料を使って、幕屋の用具、幕、祭司の装束などを作成しなければいけません。このときの特徴は「知恵」であります。

3B 喜んで捧げる奉納物 20−29
35:20 イスラエル人の全会衆は、モーセの前から立ち去った。35:21 感動した者と、心から進んでする者とはみな、会見の天幕の仕事のため、また、そのすべての作業のため、また、聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。35:22 すべて心から進んでささげる男女は、飾り輪、耳輪、指輪、首飾り、すべての金の飾り物を持って来た。金の奉献物を主にささげた者はみな、そうした。

 モーセの言葉に応答して、イスラエルが動き出しています。奉納物については、「感動した者」「心から進んでする者」とあります。「いやいやながら」とは一切書かれていません!

35:23 また、青色、紫色、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮を持っている者はみな、それを持って来た。35:24 銀や青銅の奉納物をささげる者はみな、それを主への奉納物として持って来た。アカシヤ材を持っている者はみな、奉仕のすべての仕事のため、それを持って来た。35:25 また、心に知恵のある女もみな、自分の手で紡ぎ、その紡いだ青色、紫色、緋色の撚り糸、それに亜麻布を持って来た。35:26 感動して、知恵を用いたいと思った女たちはみな、やぎの毛を紡いだ。

 女たちで知恵が与えられた人たちが、撚り糸を織って、幕にして持ってきました。

35:27 上に立つ者たちはエポデと胸当てにはめるしまめのうや宝石を持って来た。

 宝石を持っていたのは、上の立つ人々でした。それぞれの力に応じて、みなが捧げています。

35:28 また、燈火、そそぎの油、かおりの高い香のためのバルサム油とオリーブ油とを持って来た。35:29 イスラエル人は、男も女もみな、主がモーセを通して、こうせよと命じられたすべての仕事のために、心から進んでささげたのであって、彼らはそれを進んでささげるささげ物として主に持って来た。

 わかりますか、何度も何度も「進んでささげる物」とありますね。捧げ物は、あくまでも自発的なものです。そして感動して行うものです。自分が神の恵みに驚いた、そしてその応答として主に礼拝を捧げます。その礼拝の一部が献金なのです。

 私たちは人に何かを与えるときに、自発的に与えることに慣れていません。たいてい義理によって、または義務的に与えるものです。ゆえに、自発的に与えなさいというと、「これで捧げなくてよいのだ」という誤った安堵感が来るのです。ささげるのは義務ではなく、むしろ特権です。捧げることによって神が与えておられる約束があります。マラキ書には十一の捧げ物が書かれていますが、自ら進んで捧げる人は十一にとらわれず、十一以上をささげます。神は、喜んで捧げる人を愛してくださいます。

4B 知恵による仕事 30−35
35:30 モーセはイスラエル人に言った。「見よ。主はユダ部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルを名ざして召し出し、35:31 彼に、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた。35:32 それは彼が金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、35:33 はめ込みの宝石を彫刻し、木を彫刻し、あらゆる設計的な仕事をさせるためである。35:34 また、彼の心に人を教える力を授けられた。彼とダン部族のアヒサマクの子オホリアブとに、そうされた。35:35 主は彼らをすぐれた知恵で満たされた。それは彼らが、あらゆる仕事と巧みな設計をなす者として、彫刻する者、設計する者、および、青色、紫色、緋色の撚り糸や亜麻布で刺繍する者、また機織りする者の仕事を成し遂げるためである。

 次に、作成をしなさいという呼びかけに対して答えています。以前も、この二人の名前が出てきました。ベツァルエルとオホリアブです。そして御霊で彼らを満たし、知恵の賜物によって仕事をし始めます。

 次回は、残りの五章分を学びたいと思います。

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