出エジプト記34章6−7節 「主の名の宣言」

アウトライン

1A 神の臨在への祈り
   1B 天幕において
      1C 神の道
      2C 神の栄光
   2B 顔の輝き
2A 通り過ぎる主
   1B 宣言
      1C 旧約
      2C イエス・キリスト
   2B 歪められた神の姿
      1C 悪魔の惑わし
      2C かたくなな心
      3C 自分の神概念
3A 御名にある本質
   1B ヤハウェ
   2B 憐れみ
   3B 情け深い
   4B 怒るのに遅い
   5B 恵みとまこと
   6B 永遠の罪の赦し
   7B 一時的な懲らしめ

本文

 出エジプト記34章を開いてください。第二礼拝では33-35章を学びたいと思いますが、今晩は345-7節に注目したいと思います。

34:5 主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。34:6 主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、34:7 恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」

 皆さんの名前は何ですか?姓と名前がありますが、それが自分の生活や人生をどれだけ特徴付けているでしょうか?聖書では人の名前は、その人の人生を極めてよく表しています。例えば、モーセは「引き出す」という意味のヘブル語が派生したものです。苦境や圧迫の中にいる人々をそこから引き出すということですが、彼はイスラエルの民をエジプトから導き出しました。

 そして、今読んだところでは神がご自分の名を宣言しておられます。とても長い名前ですが、これが神の性質と特徴の中心のなっているところを表しているのです。

1A 神の臨在への祈り
 イスラエルが金の子牛を拝むという罪を犯しました。その後の話が33章以降にあります。主は、イスラエルが荒野の旅をして、約束の地に入るときに、「わたしの使いを遣わすが、わたし自身がいっしょに行かない。わたしがいたら、彼らが再び罪を犯したときに、彼らを滅ぼしてしまうといけないから。」と言われました。

1B 天幕において
1C 神の道
 それでモーセは、主に嘆願しました。どんな悪いことであっても、主ご自身が共におられないというのはもっとも悪いことです。主がおられたからこそ、エジプトにいたときも、そして荒野の旅においても、イスラエルは守られ、養われたのです。私たちがどんなに良い環境にいたとしても、自分たちが愛する方がおられなかったら、どの良い環境が何の意味を表すでしょうか?

 そのような思いでモーセは嘆願しました。彼はいつも、主とお会いする天幕を持っていました。イスラエルの宿営の外に張られており、彼がその中に入るとき雲の柱がそこに立ちます。そしてイスラエルの民はそれぞれの天幕からひれ伏します。モーセが主にお会いしている時に、自分たちも主を敬う行為をしていたのです。

 それで主は、モーセの祈りを聞かれます。3313節、「今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。この国民があなたの民であることをお心に留めてください。」これからどう生きていかなければわからない、あなたが私たちの道です、どうかあなたの道を教えてください、という方向性をお願いしました。

2C 神の栄光
 主は、このモーセの祈りを聞いてくださいました。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。(14節)」神がおられるところ、神の臨在があるところには休みがあります。

 そしてモーセは、この親しい神の語りかけで力を得て、自分の心の内にある強い願いを主に申し上げます。18節です。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」モーセは、主を愛していました。目には見えないけれども、この方がいかに偉大ですばらしい方なのかを知っていました。ですから、この方の栄光の中にあずかりたい、この方を知りたいという強い欲求がありました。私たちも同じ欲求を持っていますか?主イエス・キリストの御顔にあずかりたいと願いませんか。使徒ペテロは、「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。(1ペテロ1:8」と言いました。

 主は、この願いに対しては完全にお答えになりませんでした。20節、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」私たちは、いかに神に親しくなっても、神の栄光のすべてを見ることはできません。神はそれだけ優れた方、偉大な方だからです。テモテ第一6章にこう書いてあります。「神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。(15-16節)」イエス様のみが、父なる神のすべてを見たことがあります。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネ1:18

 けれども神は、「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。(19節)」と約束されました。神の御顔を見ることはできませんが、神が通り過ぎて、ご自身のあらゆる善を通らせて、ご自分の名を宣言すると約束されました。モーセは主の通り過ぎられた後姿を見ることはできますが、真正面から見ることはできないと言われました。

 それでモーセが翌朝早く山に登って、主が現れてくださったのが初めに読んだ箇所です。「「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。(6-7節)」いかがでしょうか?これが、神の本質であります。私たちが抱いている神のイメージと合致しているでしょうか?

2B 顔の輝き
 モーセはこの後も神と語らいの時間を持ち、そしてシナイ山から降りてくる時は、自分自身の顔が輝いていました!それでアロンやイスラエル人はみな、輝いた彼の顔を直視することができなかったので、モーセは自分の顔に覆いをかけて民に語りました。モーセは、この主の交わりで、自分自身から神の栄光を輝きだしていたのです。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(2コリント3:18

2A 通り過ぎる主
 私たちが主の御名を知れば、私たちがこの方の本質を知れば、モーセと同じように輝くことができます。聖書で神は、御名の宣言を基盤として、ご自分の行動を明らかにしておられます。

1B 宣言
1C 旧約

 皆さんは、旧約聖書の神が恐ろしい神で、人々をすぐに滅ぼす厳しい存在であるとお考えになるでしょうか?そして新約聖書が愛と平和の神を表していると。とんでもないことです、そう考えていれば聖書を実に表面的にしか読んでいないと言わざるを得ません。

 ユダの国にヒゼキヤという王がいました。彼は、アッシリヤによって滅ぼされた北イスラエルに行き、そこに残っている民に対してこう言いました。「あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたの兄弟や子たちは、彼らをとりこにした人々のあわれみを受け、この地に帰って来るでしょう。あなたがたの神、主は、情け深く、あわれみ深い方であり、もし、あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたから御顔をそむけるようなことは決してなさいません。(2歴代誌30:9」彼らが主に立ち上がりさえすれば、いつでも彼らはイスラエルの地に帰還できたのです。

 預言者ヨナは、そのアッシリヤのニネベに行って預言しました。「もう四十日すると、ニネベは滅びる。」と宣言したのです。ところが王を始めとして、民全体が必死になって祈り、悔い改め、神の憐れみを請いました。すると、神は滅ぼすのを思い直されたのです。それでヨナは怒りました。こう言っています。「「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。(ヨナ4:2」ヨナは初め、主の命令に聞き従わないでニネベではなく、タルシシュに向かおうとしたのですが、それは、主がニネベを赦されるに違いないと思っていたからです!

 預言者ヨエルは、いなごの大群のような軍隊が終わりの日に襲ってくるという警告をしましたが、こう慰めています。「あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。(2:13」そして詩篇には、数多くの祈りと讃美の中で、主の憐れみに富んだ姿を述べています。例えば86篇には、「あなたのしもべのたましいを喜ばせてください。主よ。私のたましいはあなたを仰いでいますから。主よ。まことにあなたはいつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求めるすべての者に、恵み豊かであられます。(4-5節)」とあります。

2C イエス・キリスト
 そして新約聖書において、旧約時代に律法や預言者によって示されていた神のご性質が、イエス・キリストによって実現したことを宣言しています。ヨハネ117節です。「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

2B 歪められた神の姿
 ところが、私たち人間はどういうわけか、「神」という言葉を聞くとそのような良いイメージとして受け止めません。私たちが肉眼で見ているものから、目で見えない神を判断しているのですが、その判断力が歪められているのです。私たちは自分の判断は絶対だと思います。例えば、水が半分入っているコップを見るときに、「なんだ、水が半分しかコップに入っていないじゃないか!」と言います。けれども、もし皆さんが恒常的に水不足の国に生きていたとして、同じコップを見たら、「わあ、このコップには水が半分も入っている!」と判断するでしょう。

1C 悪魔の惑わし
 同じように神という存在を、歪められた判断によって見ているのです。それを行ったのは、実に人間の原初、アダムとエバが神によって造られ間もない時に起こりました。エデンの園はメソポタミヤの全域からアフリカの中部に至る広範囲であり、そこに無数の木が生えており、実を結ばせていました。それらを思いのまま食べてよい、と神は言われました。ただ、その中の一本だけ、善悪の知識の木の実から取って食べてはならないという制限だったのです。

 考えてもみてください、木の数は数千万本あったかもしれません。実の数は億単位、兆単位だったかもしれません。ところが蛇の姿を取って現れた悪魔はエバに対して、こう言ったのです。「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。(創世記3:5」分かりますか、「神があなたに意地悪しているのだよ。あなたが神のように賢くなったら神が自分の優位性を保てなくなるから、それでわざと食べてはいけない、と言ったのだ。」ということです。いわゆる、「イメージ作戦」で神に対して否定的なイメージをエバに植え付けるのに成功したのです。

 つまり、使徒パウロが言ったように、「この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。(2コリント4:4」私たちが見ている神は、実は本当の神ではなく、悪魔によって歪められたイメージ、悪魔によって削がれた判断力によるものであるかもしれません。

2C かたくなな心
 そして数多くの人は、歪んだ神のイメージによって神のもとに来ようともしません。イエス様は、財産の一部を預ける主人の例えを話されました。あるしもべには五タラントを、あるしもべには二タラント、そして他のしもべには一タラントを与え、そして自分は旅に出かけました。しもべは、その財産を活用してその財を増やすことが求められます。五タラントを受け取ったしもべも、二タラント受け取ったしもべも、それぞれが儲けを出しました。主人はそれを喜び、彼らをほめました。

 ところが、一タラント受け取ったしもべは、財産を土の中に隠しておいて、なんら儲けを出すことはありませんでした。主人に対して、こう言い訳しています。「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。(マタイ25:24-25」こう答えた彼は、外の暗やみに追い出されます。つまり地獄に堕ちたのです。

 彼は、神について事柄、キリストについての事柄になんら関わりを持ちたくなかった人の姿です。神はキリストによって、各人にご自分の救いことを教えておられます。それはちょうどここでは、タラントのように財産として例えられています。主から与えられた賜物、贈り物を受け取って、それが自分の生活の中において目で見える形で現れてくる、つまり多くの実が結ばれていくことを神は願っておられます。そのような生活を彼は一切拒んだ、と言えます。

 彼がそれを行わなかった根拠は、「あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。」であります。神が「ひどい方」であるから、神が与えられた贈り物についてもなんら関わりたいと思わなかったのです。「蒔かない所から刈り取る」「散らさない所から集める」というのは、「一方的に要求する」という意味です。自分にはできないことなのに、あなたは、これこれをしなさいと命じる、クリスチャンになったら自分が命をすり減らして、最後はすべてを奪い取るのだろう、とか、専制君主にように虐げるのだろう、と思っています。

 私たちがキリストの福音に触れる時に、二つの選択があります。一つは、恐れて退くことです。もう一つは信じて命を持つことです。「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(ヘブル10:39」悪魔が植えつけている神の姿を見て恐れるか、それとも、自分は神の慈しみを信じて、悔い改めて、罪の赦しを得るのだと決めるのかの、二つの選択です。

3C 自分の神概念
 ですから、私たちは自分が抱いている、聖書の神ではない神と格闘します。神に対する疑念というのは、実は自分との戦いなのです。「神が愛であるならば、なぜこのような災いが起こるのを許されるのですか。」という疑問は、裏を返すとこう言っているのに等しいです。「私が神であれば、このような災いが起こることはしないのに。」つまり、自分の方が知恵を持ち、賢いと宣言しているのです。

 聖書には、神は人をご自分のかたちに造られた、とあります。この「かたち」は英語では、「イメージ」と訳すことができますが、私たちが神のイメージに形造られていくのではなく、神を自分のイメージの型に押し込もうとします。

 興味深いのは、新興宗教やキリスト教の異端は、私たちのこうした疑問にきわめて明快に答えていることです。例えば、ある手かざし系の新興宗教がありますが、こう教えています。「教団の教義によればこの世の人間のあらゆる不幸現象のうち、80 %が「悪い霊魂によるもの」としており、初級研修を終えた信徒が行なう真光の業(まひかりのわざ)、つまり手かざしでその霊魂が取り除かれる、としている。」いかがですか、不幸なことは80パーセントを神の計画から外しているのです。そして有名なキリスト教異端では、95パーセントは神の責任分担であるが、5パーセントは人間の責任であるとします。こうした「80パーセント」、「95パーセント」という数値はどうやって出てくるのでしょうか?すべて、自分の思いや考えに合わせて、神の働きを把握しようとしているからです。

 悪さえも神の支配の中にあるという聖書の真理を否定すると、ついに人間の努力で100パーセント救いを達成しなければならないことになり、その教団の規則の中でがんじがらめの奴隷状態に入るのです。自分のイメージの中に神を収めれば、その神は自分よりもさらに小さい存在になり、その小さな存在の中で自分は縛られていくのです。自分の理解できないところをはるかに超えて支配されている神を信じれば、私たちには自分のこれまでの考えでも思いもつかなかった驚くべきことを期待することができるのです。

3A 御名にある本質
 私たちが思い描くべき神は、唯一、神ご自身がご自分の言葉の中で言い表しているものに拠るべきです。

1B ヤハウェ
 初めに「主、主は、」でありますが、「ヤハウェ」です。この方は、「わたしは、『わたしはある』というものである。」と言われました。たとえこの天地がなくなろうとも、なお存在している永遠の方です。かつ、ヤハウェには「何々になる」という意味があります。つまり、私たち神の民に必要があれば、その必要になってくださる、ということです。

 私たちが悲しめば、主がその悲しみをもって共に悲しんでくださり、慰めとなってくださいます。私たちが不安になれば、主はその不安をすべて引き取って、平安を与えてくださいます。この中に悪と不正を見て絶望してしまいそうになるときには、主が正義となってくださって希望を与えてくださいます。「私たちの苦しみを、神はそのままほったらかしているのか!神が神なら早く救え!」という叫びに対して、実は神は、キリストにあってその苦しみを負っていてくださっているのです。

2B 憐れみ
 次は、「あわれみ深い」です。このヘブル語の元々は母親の胎を表しています。母が子の痛みを感じて、自分の痛みとして受け取るように、神はご自分の子が刑罰によって痛むことを何にもまして苦しみます。できるものなら、何とかして取り除きたいと願います。したがって、民が主に立ち返りさえするならば、主はその怒りの手をすぐさま引いてくださるのです。

 憐れみは、私たちが当然受けるべき処罰を受けなくてもよいようにしてくださる神の感情です。詩篇の中にはダビデが、絶えず「あわれんでください」と神に祈り求めています。たとえ、特定の罪を犯していないとしても、自分が悩んでいるとき、病の時、敵に囲まれている時、彼はそう祈り求めました。私たちの存在そのものが、神の憐れみに拠り頼んでいるからです。

3B 情け深い
 次に、「情け深い神」とあります。このヘブル語の元々の意味は、「身の低い人にかがむ」という意味合いがあります。つまり、単に同情するのではなく、実際に助けの手を差し伸べるのです。英語では、そのためgraceという言葉で訳しています。単に処罰を控えるだけではなく、助けによって、救いによって、その恵みを受ける、ということです。

 私たちは、かろうじて地獄から救われた存在だけではありません。地獄から救われただけではなく、天の御国に入るように救われました。天にあるあらゆる霊的祝福を、神がキリストにあって与えてくださいました。

4B 怒るのに遅い
 そして、「怒るのにおそ」い方です。英語では”longsuffering”であり、「長いこと耐え忍ぶ」という意味があります。忍耐して、ご自分の怒りを下らせるのをとどまらせておられる方です。人がたとえ何年もイエス様を信じなくても、それでもキリストにその人が来るように待って、耐え忍んでいてくださいます。私たちが罪の問題を克服できなくても、克服できる時まで待ってくださるのが神です。そして、たとえ悪がはびこっていても、それに対する怒りを遅らせるのが神です。このことから、「神は悪を是認しているのだ。神は悪に対して無力だ。」と勘違いする人たちがいます。けれども、神は裁きを行わないでいるのではなく、必ず裁かれます。けれども、待っておられるのです。

5B 恵みとまこと
 そして「恵みとまことに富み、」と言われました。これは、そのまま「神の一方的な好意」である恵みと、そして真実という意味です。神は、私たちをいつまでも良く見てくださっています。それは真実で変わることはありません。ヨハネ1章にある、イエス様の説明はまさにこれが実現した方であり、「恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」とあります。

6B 永遠の罪の赦し
 そして、「恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、」とあります。考えてもみてください、恵みが、罪の赦しが千代にまで続きます。これは無限に続く、ということです。赦しが永遠なのです。自分が犯した罪が、数年後に掘り起こされるということではないのです。天に入ったら、地上で行った罪が映画館の画面にように、鮮やかに映し出されると言った人がいるようですが、とんでもないことです!イザヤ書には、雪のように、羊毛のように白くなると宣言されています。

7B 一時的な懲らしめ
 そして最後に、「罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」とあります。再び人間というのは不思議なもので、このことばかりに集中して、「やはり神は不公平だ。息子、孫にまで、親の罪に対して連帯責任を取らせるのか。」と言います。他の膨大な聖書箇所で、それを真っ向から否定しています。これは千代の恵みと比較しているのです。つまり、三代、四代、というのはごく一時的だ、ということです。主が懲らしめとして罰を与えられるかもしれないが、その後に出てくる義と平和は永続するものだ、ということです。私たちが罪から離れるように、むしろ一時期、罪からくる悲しみを知ってもらうのです。

 いかがでしょうか?イエス様は、「わたしを見た者は、父を見たのです。」と言われました。姦淫の現場で捕えられた女に憐れみをかけられた方は、父なる神ご本人だったのです。主が語られていることをいつまでも悟ることなく、イエス様が捕えられたときに逃げてしまった弟子たちに忍耐されたのは、まさに父なる神ご自身だったのです。人々にののしられ、肉体に激痛を受けられたのは、まさに父なる神だったのです。病の人を癒し、悪霊につかれている人から悪霊を追い出し、らい病の人に触れ、遊女が悔い改めるのを受け入れ、貧しいやもめの献金をほめられ、みなに嫌がられていた取税人ザアカイの家に喜んで入られたのは、すべて父なる神ご自身だったのです。すべての善に満ち満ちている方は、イエス・キリストにおいてその恵みとまことを実現されたのです。

 いかがですか?これでも、神を受け入れたくないですか?この神の慈しみの中に入ることを選びませんか?それとも、それでも自分の今のあり方を改めることを拒まれますか?どうか、信じて、この方のところに来てください。ここで宣言されている御名がみなさんの上に置かれることとなります。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
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