出エジプト記36章1−2節 「知恵が与えられた者」
アウトライン
1A 御霊の賜物
1B 神の恵み (ローマ12:3-8)
2B 御霊の主権 (1コリント12:1-11)
3B 他者の益 (1ペテロ1:10)
4B 言葉と奉仕の賜物 (1ペテロ4:11)
2A 主からの知恵
1B 神の知恵 (箴言)
2B 奮い立つ霊 (2テモテ1:6-7)
3A イスラエル人たちの応答
1B 服従する心
2B 不足を補う働き
本文
出エジプト記36章を開いてください。私たちは第二礼拝で、36章から最後の章まで学んでみたいと思います。今晩は、36章1-2節に注目したいと思います。
36:1 ベツァルエルとオホリアブ、および、聖所の奉仕のすべての仕事をすることのできる知恵と英知を主に与えられた、心に知恵のある者はみな、主が命じられたすべてのことを成し遂げなければならない。」36:2 モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、および、主が知恵を授けられた、心に知恵のある者すべて、すなわち感動して、進み出てその仕事をしたいと思う者すべてを、呼び寄せた。
主がシナイ山で、モーセに対して造りないと命じられた幕屋そして祭司の装束を、ようやくここで実行に移すところです。ベツァルエルは、ユダ族の人で、主に幕屋の中の用具を造ります。そして、オホリアブはダン族の人で他にも知恵のある人々に指導して、幕や板などを造らせます。
そして36章から実に40章まで、延々と、すでに主が語られた幕屋と祭司の装束が繰り返されています。反復して話しているのはなぜだろうと思いますが、主は、それだけ人々の奉仕を喜んでおられる、その働きをすべて目に留められていることを教えているのだと思います。
私たちは、常に心に抱いているのは、「自分のしていることへの報い」です。「今、自分が行っていることが、果たして価値のあることなのか?」「これを行っている生きがいはどこにあるのか?」自分のしていることを推し量る存在を求めています。人から認められることを私たちは求めますが、それ以上に、信仰者にとっては主ご自身から認められることを求めるでしょう。ベツァルエルとオホリアブという奉仕者を通して、主に対する奉仕を知っていきたいと思います。
1A 御霊の賜物
まず彼らの働きについて、すでに前回読んだ、35章の最後の部分を読みます。30-31節です。「モーセはイスラエル人に言った。「見よ。主はユダ部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルを名ざして召し出し、彼に、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた。」彼らは、もともと能力のあった人々ではありましたが、神の霊に満たされたことによって神の仕事を行うことができました。
私たちには、生来の能力を持った人々がたくさんいます。理系に得意の人もいますし、また芸術肌の人もいます。歌手や音楽家で、なぜこのような美しい音楽を奏でることができるのだろうと、本当にすごいと思います。こうした能力は、もちろん神から来ています。主が、すべての人に対して、その人がご自分を信じていようがいまいが、与えておられる恵みがあります。
そして私たちが教会の奉仕、また賜物という言葉を聞くときに、果たしてこれらの能力が発揮されることなのかどうか、ということを考えてしまいます。これまで歌の上手な人がそのまま賛美の奉仕をすることなのか?また会計のできる人が、会計の奉仕をすることなのか?そういう場合が多くあります。けれども、信仰の世界では明らかに「神の御霊」が介入されて、これまで自分が行ってきた働き以上の、大きな事を成し遂げることになります。
ダニエルという人はユダの国の王族にいました。そして彼の他に三人の友人がいましたが、バビロンが一部の王族と貴族の一部を自分の国に捕え移しました。ダニエルも三人の友人も、初めから容姿にも優れ、また知性にも優れており、将来、役人になるための訓練として、バビロン人の教育の洗礼を受けました。
ところが彼らは、王の食べる肉を食べることを拒み、試みを受けました。神は彼らを助け、野菜だけ食べても、健康体を保たせてくださいました。そしてこう書いてあります。「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解くことができた。(1:17)」神が、彼らに文学を悟る力と知恵を与えられました。つまり学問や知性の領域で能力を与えられました。それだけではなく、幻と夢という霊の領域においても能力を与えてくださいました。それで、「王が彼らに尋ねてみると、知恵と悟りのあらゆる面で、彼らは国中のどんな呪法師、呪文師よりも十倍もまさっているということがわかった。(20節)」とあります。
そしてこれからのダニエルの働きを見ていると、他の呪法師には決して解き明かすことのできない夢を解き明かし、それが神から来たものであることを証言しました。それでネブカデネザルは、自分の上に確かに天の神がおられることを最後に認めたのです。
したがって、もともと備わっている能力を教会で発揮するのではなくて、主の証しを立てるためには御霊に満たされる必要があるのだ、ということです。主から与えられた知恵と知識があります。
1B 神の恵み (ローマ12:3-8)
まずローマ人への手紙12章を開いてみましょう、3節から読みます。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。(ローマ12:3-8)」
主が恵みによって、私たちを救ってくださいました。そして私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって救われました。パウロはこれを、「おのおのに分け与えてくださった信仰の量り」と呼んでいます。私たちが信じていること自体さえも、主が恵みによって与えてくださったものであり、それは一人ひとり、それぞれの信仰があるということです。もちろん信仰の内容は、イエス・キリストということには変わりませんが、その度合いは変わってきます。
そしてパウロは、「与えられた恵みに従って」と言っています。神が、イエス・キリストによって恵んでくださった救い、またあらゆる霊的祝福について知らなければなりません。私たちがこれまで行ってきたことを、その能力をもって披露することではなく、主との愛の関係の中で、その育まれている信仰の中で奉仕をするのです。
どのようにすれば、私たちは恵みによることであると判別することができるでしょうか?一つは、「自分が行っていることではない」という確信を持てるかどうかです。もちろん自分の手を動かしています。けれども、自分を通して行われていることが、どう考えても主が与えてくださったものでしかない、という感覚です。例えば、私が皆さんにお会いできていること自体が、私には信じられません。私たちが海外から帰国してきて、初めて会う人々ばかりだからです。私たちが何か強く働きかけて、それで獲得した人々なのでしょうか?いいえ、そうではないです。まったく誇ることができません。これが神の恵みによって与えられた賜物であります。
それでは、私がこう言ったらどうでしょうか?「なんで、この人たちはもっと人を連れて来ないのだ。教会が小さいのはこの人たちのせいである。」などと思ったらいかがでしょうか?これをローマ12章3節にある「思い上がり」と言います。信仰の量りによって、恵みによって与えられたこと以上に、自分が何様であるかのように考えるとそうなるのです。
そしてもう一つ、恵みによって、信仰によって与えられる賜物は、「自分を誇らない」ことです。誇らないというよりも、誇れないといったほうが正解でしょう。私たちの誇りは、信仰の原理によって取り除かれたとパウロは言っています(ローマ3:27)。自分が行ったことではないと自覚しているので、「私は、言いつけられたことだけを行っただけです。」という告白をします。ルカによる福音書17章で、イエス様はこう言われました。「しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」(ルカ17:9-10)」
2B 御霊の主権 (1コリント12:1-11)
そして御霊の賜物は、御霊が主権を持って与えているということが特徴です。コリント人への手紙第一12章を開いてください。8節から読みます。「ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。(1コリント12:8-11)」
ここの最後の、「みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物」と書いてあるところが鍵です。御霊は神であられることを思い出してください。エネルギーでも「気」でもありません。この方は、ご自分の思われるままに賜物を分け与える主権を持っておられます。私たちはそれに、とやかく言うことはできません。
そのため私たちは、ある賜物が与えられるかもしれないし、与えられないかもしれないし、分からないということを知る必要があります。もちろんすべての御霊の賜物を求めるべきです。すべてが良い賜物です。けれども、すべての人がすべての賜物を受け取るのではありません。それぞれが、互いに異なる賜物が与えられています。またたとえ同じ賜物でも、その働き方が異なる場合もあります。キリストの体はこのように、多様な賜物を一人にではなく、異なる人々に与えられることによって、互いにいたわり合い、互いに尊ぶように作られているのです。
これが、私たちの考える自然に身についている能力とは、まったく異なるのです。まず、劣等感を持っては決していけません。自分は足であり手ではないから、からだに属しない、ということは決してできないのです。すべての人が手ばかりだったらどうするでしょうか?また、他の人を見下げることも決してしてはいけません。「あなたは手であり、私のように目ではないから、からだに属さない。」とも言えません。御霊がご自分の望まれるままに、私たちにそれぞれの賜物を与えておられるのです。
3B 他者の益 (1ペテロ4:10)
そして御霊の賜物は、あくまでも他者に対して用いるものです。今読んだ第一コリント12章の7節にこうあります。「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。」みなの益となるため、です。それからペテロ第一4章10節には、「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」とあります。「互いに仕え合う」とありますね。
つまり、私たちに御霊が与えられる賜物は、あくまでの教会のためであり、他の人々のためなのです。私たちが単に自己啓発のように、能力を発揮することを考えるのなら、教会においてはことごとく失敗します。あくまでも、他者をいたわる助ける行為として奉仕は成り立っています。ですから、私たちが「私の賜物は何であろう。」と悩んでいるときに、まず、「私の心に、教会の人々への憐れみはあるだろうか?」と尋ねてください。主が与えておられる重荷や強い思いであれば、必ずやそれに対して神が何らかの賜物を与えてくださいます。
世の中には、無教会主義というものがあります。この言葉は内村鑑三が作ったものですが、当時からある西洋から伝わった教派主義に対抗して、命ある有機体としての教会を重んじたかったので名づけたものです。ですから、「無教派主義」あるいは「無教団主義」と読んだほうが良いかもしれません。けれども、今日、あまりにも多くの人が教会に通っていません。今の教会は堕落している、世に妥協している、クリスチャンは偽善者である、牧師や他のクリスチャンにつまずいたなど、いろいろな理由から通うのを止めています。
私がそのような人々にお尋ねしたいのは、「それでは、御霊の大きな働きの一つである、賜物を用いて互いに仕えることは、どのようにして行うのですか?」ということです。自分の内に聖霊が住まわれることを信じながら、御霊の現れである賜物を用いることがなかったら、御霊の奥義の半分も体験できないことになります。
そして私たちがただ礼拝に参加するだけで止まっていたとしたら、それはちょうど映画館で鑑賞しているのと変わりません。映画館の鑑賞ではなく、演劇の役者なのです。自分自身が礼拝の中に関わっているのです。そのためには、具体的に他の人々に仕える奉仕を見つける必要があります。賜物を用いるのです。
4B 言葉と奉仕の賜物 (1ペテロ4:11)
そして御霊の賜物は主に二つの種類に分かれます。「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。(1ペテロ4:11)」語る賜物と、奉仕する賜物です。預言の言葉をもって慰めと励ましを与える賜物もあれば、具体的に体を動かして奉仕する賜物があります。語る賜物は、牧者また教師が与えられていなければいけない賜物です。知識のことば、知恵のことば、信仰のことば、預言、また教える賜物などがそれに当たります。そして、これはもちろん、私たち信者それぞれが互いに用いていき、互いの徳を高めるのです。
そして、奉仕をする務めを受けている人は聖書では「執事」と呼ばれています。教会における具体的な必要を満たします。それだけでなく賜物として与えられています。その他、管理する賜物、分け与える賜物、憐れみを示す賜物など、具体的な行動によって人々に仕えます。
2A 主からの知恵
1B 神の知恵 (箴言)
このように、ベツツァルエルとオホリアブは主の御霊に満たされて奉仕をしました。そして36章1-2節には、この二人、また他の知恵ある人たちは、主から知恵と英知が与えられたとあります。知恵が主に属している、というものです。
聖書が語る知恵は、いわゆる私たちが考える知恵ではありません。それよりまず、知恵と知識の違いを考えてみましょう。知識は、細長く、地を這って、しゅるしゅると音を立てながら動いている動物を、「蛇」であると教えます。知恵は、「毒をもっているかもしれないから、逃げなさい。」と教えます。知恵のない知識は非常に危険です。それはあたかも、テロリストの手に核兵器が渡るようなものです。
そして、知恵は聖書では、神との関係そのものに関わっています。箴言を読むとそれがよく分かります。箴言9章10節には、「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」とあります。主を恐れるという、人格的な関係そのものに知恵が宿っているのです。
いつか時間のあるときにぜひ箴言を読んでください。知恵をとことんまで愛しなさい、自分の姉妹のように愛しなさい、ネックレスのように首の周りに結びつけよ、という言葉もあります。そして、あたかも人格を持った存在であるかのように擬人化されています。8章を開いてみましょう。
知恵は呼ばわらないだろうか。英知はその声をあげないだろうか。これは丘の頂、道のかたわら、通り道の四つ角に立ち、門のかたわら、町の入口、正門の入口で大声で呼ばわって言う。「人々よ。わたしはあなたがたに呼ばわり、人の子らに声をかける。わきまえのない者よ。分別をわきまえよ。愚かな者よ。思慮をわきまえよ。聞け。わたしは高貴なことについて語り、わたしのくちびるは正しいことを述べよう。わたしの口は真実を告げ、わたしのくちびるは悪を忌みきらうからだ。わたしの言うことはみな正しい。そのうちには曲がったことやよこしまはない。これはみな、識別する者には、正直、知識を見いだす者には、正しい。銀を受けるよりも、わたしの懲らしめを受けよ。えり抜きの黄金よりも知識を。知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これには比べられないからだ。(1-11節)
いかがですか、知恵が私たちに語りかけています。これは、まさに知恵の源であられる神ご自身が語られているのと同じです。コロサイ書2章3節に、「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」とあります。したがって、私たちはキリストご自身を知ることそのものが知恵であることが分かります。
そして箴言8章14節にはこうあります。「摂理とすぐれた知性とはわたしのもの。わたしは分別であって、わたしには力がある。」この「摂理」は英語ではcounselであり、「助言」とも訳すことのできる言葉です。カウンセリングのことです。主にこそカウンセリングがあります。私たちがしばしば使っているカウンセリングは、心理学的なことを指していますが、聖書ではそうではありません。また私たちはカウンセリングを人の言葉を受けるように考えますが、聖書では、神ご自身の言葉を受け取ることです。みなさんが精神的な必要、心の必要を覚えておられるのであれば、それは、神ご自身に答えがあります。そして神の御言葉に答えがあります。
2B 奮い立つ霊 (2テモテ1:6-7)
そして36章2節には、「感動して、進み出てその仕事をしたいと思う者」とあります。御霊の賜物には、感動があります。自ら奮い立って行いたいという願いがあります。ローマ12章11節には、「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」とあります。
そしてテモテ第ニ1章6-7節には、賜物を燃え立たせなさいという命令があります。「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」テモテは内向的な人でした。エペソにある教会で反対者がいました。それでびくびくしていたのだと思います。
私たちも同じようなことがないでしょうか?主に仕え、霊が燃えていたのに、反対にあったことで、批判を受けたことで、あるいは全然結果が見えないことで、以前のように主に仕えていないことがあるでしょうか?私はあります。自分の不足なのかどうか分かりませんが、伝道をすることで周囲の人々に嫌がられ、また聖書を教えることで人々から批判を受けたことが数多くあります。そのときに、「自分は単純細胞なのかな?もっと常識をわきまえたり、人間らしく考える必要があるのかな?熱狂的になっているのかな?」と悩んだりします。けれども、その落ち込んだ霊は自分をどんどん萎縮していきます。そしてついに主にあって奮い立つのです。やはり、幼子のように、乳を飲むようにそのまま御言葉を信じる信仰こそが、自分を生かします。愛と喜びの実を結ばせます。これが御霊にあって奮い立つことです。
3A イスラエル人たちの応答
そして最後に3節から7節までを読んでみたいと思います。
3 彼らは、聖所の奉仕の仕事をするためにイスラエル人が持って来たすべての奉納物をモーセから受け取った。しかしイスラエル人は、なおも朝ごとに、進んでささげるささげ物を彼のところに持って来た。4 そこで、聖所のすべての仕事をしていた、知恵のある者はみな、それぞれ自分たちがしていた仕事から離れてやって来て、5 モーセに告げて言った。「民は幾たびも、持って来ています。主がせよと命じられた仕事のために、あり余る奉仕です。」6 それでモーセは命じて、宿営中にふれさせて言った。「男も女も、もはや聖所の奉納物のための仕事をしないように。」こうして、民は持って来ることをやめた。7 手持ちの材料は、すべての仕事をするのに十分であり、あり余るほどであった。
1B 服従する心
彼らのために奉納物を携えてきたイスラエルの人々がたくさんいました。彼らが奉仕をすることができるように、モーセを通して神が与えられた命令に従順に従い、しかも喜んで従いました。それによって彼らが、あり余るほどの材料を受け取ったのです。
このように御霊の働くところには、従順な心があります。進んでささげる人々の心があります。いやいやながらではなく、主の命令を喜んで従いたいと願っています。
2B 不足を補う働き
そして十分に余りある奉仕となりました。「今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。(2コリント8:14)」キリストの体の中で欠けているのを見たならば、それを補おうとする御霊の働きです。もし教会の中で、奉仕が欠乏している、誰かが見過ごされている、そのようなことがあれば、そこには御霊はおられません。御霊は私たちの心に働きかけます。賜物が与えられた人の不足分を助けたいと願います。そして互いに欠乏を補うことによって、キリストのからだがいたわりを受けるのです。