出エジプト記313-15節 「神の名前」

アウトライン

1A 神の名
2A 「わたしはある」
   1B 永遠性
   2B 自存性
   3B 必要になる方
   4B イエス・キリスト
3A 安全な塔

本文

 出エジプト記3章を開いてください。第二礼拝では3章から5章までを学んでみたいと思います。今晩は313節から15節までを学びます。

3:13 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」3:15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

 今日は、私たちは神との関係において、極めて本質的なところを学びます。それは、「神の名前を知る」ということです。言い換えれば、神ご自身を知るということです。私たちは、普段、自分を知ることに多くの時間を費やします。神のこと、キリストのことを話しているのに、なぜか話題は自分自身ができていない、自分は神の基準に到達できない、私にはこういう悩みがある、と、自分が誰であるかについての話に移ります。

 けれども、イエス様は、「神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネ14:1」と言われました。また、「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。(同17:3」と言われました。キリスト教は、自分自身が中心なのではなく、神とキリスト中心なのです。この方を知ってこそ、初めて自分自身を知ることができます。

 私たちは人のことを知るとき、その人の名前を知ることはとても大事です。神が天地を創造されたときに、造られた物に名前をつけ、アダムに動物に名前をつけるように命じられました。名前がその人の本質に接することができるからです。私たち東洋人は、肩書きや人間関係の名称で呼び合っても付き合いができますが、例えば、だれだれちゃんのママ」とか、「どこどこ病院の先生」とか、その人固有の名前を呼びません。けれども、その人個人の名前を呼ぶときに初めて、個人的に付き合うことができます。

 それと同じように、神の名前を知ることは大切です。「神」というのはあくまでも名称であり、名前ではありません。「自分の命を明け渡してもよい、自分の強い情熱を傾ける相手」とでも言いましょうか、その自分の情熱と命を明け渡しても良い対象がすなわち神なのです。けれども、名前ではありません。

1A 神の名
 そこで本文に入ります。時はすでにモーセがエジプトを出てから40年経ちました。彼はエジプトの王子の地位から、市井の羊飼いになりました。けれども、神はイスラエルを見捨てておられませんでした。モーセを再びエジプトに戻して、モーセを通してイスラエルをエジプトから解放しようとされていました。

 けれども、モーセはもう自尊心がずたずたになっていました。何でこの私がそのような大事業をすることができるのでしょうか?と神に尋ねます。けれども神は、「わたしが共にいる。」と約束されました。けれどもモーセは次に尋ねます。「私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」神が共にいる、父祖の神が共にいるというのは分かるが、ではどんな神なのか?という質問を受けたらどうするのですか?と聞いています。「その名は何ですか。」というのは、「『神』と言っているけれども、どんな神なんだい?」という質問です。

 私たちは、「神」という言葉だけを使って、それでもまことの生ける神を信じているのかどうかを知ることはできません。あまりにも多くの人が、神の名によっていろいろなことを話し、いろいろなことを行うのですが、はたして、まことの神がその背後におられるのかどうかは疑わしいです。

 私は、ある時に神道関係の人と話したことがあります。その人は、「神道では死んだから神様になる。」と話していました。その時に私は思い出しました、神道こそ「神様」という名称の元祖なのです。日本に来た宣教師が翻訳をするときに、神道で使われている名称を採用したので、私たちキリスト者も「神」を使っています。

 けれども聖書の神と、神道の神では天と地が離れているように全く違います。もし私たちが、神がどのような方であるかをまず話すことがなければ、聞いている相手は違ったことを思っているかもしれません。

 そして、私たちはもう一つ知るべきことがあります。知識だけで神のことを知っても、それで神を知ったことにはならないのです。自分が実際にその神に自分の身を寄せている、従順になっている、または献身していることがないかぎり、その神を聞きこそすれ知ってはいないのです。

 イエス様は、ご自分を信じたとされるユダヤ人たちに、「わたしのことばにとどまっていれば、本当の弟子になり、あなたは自由になれます。」といったところ、「私は奴隷になったことはありません。」と彼らは答えました。彼らは、「私たちにはひとりの父、神がいます。」と言いました。そこでイエス様は、こう言われました。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。(ヨハネ8:42-44」いかがでしょうか?神は知識の対象ではありません。私たちの心と行い、そして生活の対象です。

2A 「わたしはある」
 それで神はモーセに対して、こう答えておられます。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」実に変な名前ですね!けれども、これは実に神ご自身の本質を表している名前です。もし、「わたしは何々である。」という具体的なものを出したのであれば、その性質に神は限定されてしまいます。「わたしは学問の神である」と言ったら、学問の領域だけで生きて働いている神ということになってしまいます。

 私たちは、目に見えるもの、確かなもの、自分が触れることのできるものに拠り頼みたいと願います。けれども、一度、目に見えるようになったら、自分がすべて理解できるようになったら、その時点でその神は自分よりも程度の低い存在になるのです。自分が理解できる神って、どんな神でしょうか?自分の知能よりも低いからこそ、理解できるのです。目に見えてしまえば、その時点でその神は死んでいます。口があっても話せない、耳があっても聞こえない、目があっても私たちを見ることができません。

 それで神は、「わたしはある」という名前を使われました。

1B 永遠性
 具体的には、神は永遠なる方です。「ある」という言葉を使うことによって、どんな時にも存在することを表しています。過去、現在、未来を超越して存在する永遠の方を表しています。天において、天使ケルビムが神を礼拝したときにこう叫びました。「昔いまし、常にいまし、後に来られる方(黙示4:8」神は同時に、昔、今、未来に存在することのできる方です。

2B 自存性
 そして「わたしはある」というのは、神だけで存在できることを表しています。たとえこの天地が滅んでも神ご自身は一ミリとも動くことはありません。黙示録20章で、天と地がすべてなくなった後で、白い大きな御座があったことを教えています。

 パウロは、ギリシヤの人たちに対して説教をしたことがあります。ギリシヤ神話にあるように、当時のギリシヤは道の角には必ず偶像がありました。それで彼がこう言いました。「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。(使徒17:24-25

 もし私たちが、「私が一生懸命、神に仕えなければ、神は倒れてしまう。」などと考えていたら、まことの神を拝んでいないことになります。また、「私が適当に神を信じていれば、それでいい。」と考えたところで、神が年に一回、手を叩いて、お賽銭を投げ入れればよい方になるのでもありません。自分がイエス様を信じないからと言って、イエス様がいなくなるわけでもないのです。神は自分で存在することのできる方です。

3B 必要になる方
 そして、ヘブル語の訳によっては、「なる方」と訳すこともできます。何かの必要があれば、その必要になる方、という意味を持っています。まことの神は、何か一つの必要に限定されることはありません。けれども、すべてのすべてであられる神を自分の主とした者には、神を神として、無条件で礼拝している者に対しては、その人の必要そのものになってくださる方であります。

 ヘブル語では、新改訳で、太字で「主」となっているのは、YHVHという子音だけになっており、「エホバ」とも発音できるし「ヤハウェ」とも発音できます。これが神の名前です。

 かつてアブラハムはイサクを捧げなさいという命令を受けて、モリヤ山に上ってイサクをささげようとしました。すると神の使いがそれを止めて、代わりに雄羊を備えていてくださいました。そこでそこが「ヤハウェ・イルエ」と呼ばれるようになりました。「ヤハウェが備えである」あるいは「ヤハウェがご覧になっている」という意味です。アブラハムが代用の羊の犠牲が必要であった、あるいは、主がアブラハムの信仰を見ていてくださっている、という意味があります。私たちが備えに事欠いているとき、神が備えになってくださるのです。

 後にモーセは、イスラエル人を荒野に導いて、そこでアマレク人がイスラエル人を襲ってきました。モーセが手を上げ続けるとイスラエルは優勢になり、ついに勝つことができました。それで、「ヤハウェ・ニシ」とモーセは呼びました。「ヤハウェはわが旗」という意味です。つまり主が私たちの戦いになってくださった、主が私たちの勝利になってくださった、ということです。

 後に、イスラエルからギデオンという、イスラエルを苦境から救出する指導者が現れました。ミデヤン人によって苦しめられていたのですが、神がギデオンをイスラエル軍の指揮官に選ばれたのです。彼はとても不安でした。それで神が現れてくださいました。ギデオンはその祭壇を、「ヤハウェ・シャロム」と名づけました。「ヤハウェは平和」という意味です。私たちも生活で戦いがありますね、また不安になることがありますね、けれども主を礼拝している者には、主が戦いの旗になってくださり、平和になってくださるのです。

 そして、ずっと後にイスラエルが分裂して、北イスラエルと南ユダの国に分かれた時代に入りました。北イスラエルはアッシリヤに滅ぼされて、南ユダもバビロンに滅ぼされそうになっていました。ユダヤ人たちは神に背いて不正を行っていたからです。エレミヤは、その国に正義がなくなったことでひどく嘆いていました。そこで神がエレミヤに語ってくださいました。「主は私たちの正義」と呼ばれよう。ヤハウェ・ツィドュケヌです。分かりますか、私たちは主ご自身以外に他に拠り所を求める必要がないのです。この方を神としている限り、すべてのすべてになってくださいます。

 そして、「イエス」という名前があります。それのヘブル語は「イェホシュア」であり、「ヤハウェは救い」という意味なのです。神が私たちの救いとなられたのです。

4B イエス・キリスト
 イエス様は、「わたしはある」という名前を頻繁に使われました。ギリシヤ語では「エゴ・エイミー」です。「わたしは世の光である」「わたしは命のパンである」「わたしは羊の門である」「わたしは良い羊飼いだ」「わたしが命であり、よみがえりだ」など、「わたしが・・・である」と言われたのは、実はすべて、モーセに現れた主ご自身なのです。

 そして、イエス様は、ユダヤ人に「あなたはまだ五十歳にもなっていないのに、アブラハムを見たというのか。」と問い詰められた時にこう答えられました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが存在するようになる前から、わたしはあるのです。(ヨハネ8:58参照)」イエス様は、「アブラハムがいる前からわたしはいた。」と言われませんでした。「わたしはある」と言われました。永遠なる「わたしはある」という名前です。

 私たちは、主ご自身ではなく、主以外の他のもので必要を満たそうとします。イエス様が「わたしは行く」と言われた時に、弟子トマスが「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。(ヨハネ14:5」と尋ねました。するとイエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(同6節)」と言われました。道がわからない、と尋ねたときに、「わたしが道なのだ」と言われました。主こそがすべてであられ、そして私たちに必要があらば、その必要になってくださる方であり、私たちは絶えず主に自分自身を明け渡す必要があります。

3A 安全な塔
 最後に、箴言1810節を見てみたいと思います。「主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。

 私たちがこれまで見てきたように、主の名そのものが、頑丈なやぐらなのだ、ということです。私たちは自分の安全をどこに置いているでしょうか?主ご自身に自分の安全を置いているでしょうか?自分で上手に生活を使い分けて、あるときには神様、またあるときには他のものと、主ご自身ではないものに拠り頼んではないでしょうか?その時には私たちは、「わたしはある」と言われた主ご自身を見上げていないことになるからです。神はすべてにおいてすべてになりたいと願われているからです。

 ヘブル書1038節にはこう書いてあります。「わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」まことの神にすべてを明け渡すことを恐れているのならば、それが命取りとなります。自分が退けば、そこは危険な所なのです。主の名こそが堅固なやぐらなのです。

 そして「正しい者はその中に走って行って安全だ」とあります。私たちの正しい者の定義がここで分かります。私たちが何か良いことをしたから正しいのではなく、主の名の中に走る人が正しいのです。主が自分のすべてになっている人、主に取り囲まれていることを願う人、自分の生活のすべてに主がいてほしいと、自分の安心感を主に求めている人、これが正しい人、つまり神に受け入れられる人なのです。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
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