出エジプト記5−6章 「わたしは主(ヤハウェ)」

アウトライン

1A 敵の反対 5
   1B 世の反応 1−9
      1C 高慢 1−4
      2C 告発 5−9
   2B 神の民の対応 10−23
      1C 動揺 10−19
      2C 不平 20−23
2A 主の励まし 6
   1B 主ご自身の啓示 1−13
      1C 計画 1−9
      2C 命令 10−13
   2B これからの働き 14−30
      1C モーセとアロンの系図 14−27
      2C 預言者 28−30

本文

 出エジプト記5章を開いてください。今日は5章と6章を学びます。ここでのテーマは、「わたしは主」です。主が落胆しているモーセを、ご自分が主、ヤハウェと言って励まされます。

 前回学んだことを思い出してください。モーセは、ホレブの山のところでアロンに会い、それからエジプトにいるイスラエル人のところにやって来ました。そして、主がモーセに告げられたしるしを彼らの前で行なって、それによってイスラエル人は、自分の先祖の神が自分たちを決して見捨てる方ではないことを知り、主を礼拝しました。そこで、モーセとアロンが、主に命じられたとおり、パロのところに行き、パロにイスラエルをエジプトから出て行かせるように申し出に行きます。

1A 敵の反対 5
1B 世の反応 1−9
1C 高慢 1−4
 その後、モーセとアロンはパロのところに行き、そして言った。「イスラエルの神、主がこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ。』」パロは答えた。「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。」

 モーセは主が言われたとおりのことをパロに話しました。イスラエルの神、主が、わたしの民を出て行かせなさい。そしてわたしのために祭りをさせなさい、と言いました。その時のパロの反応が、「私は主を知らない」です。モーセが新改訳の太字の主、すなわちヤハウェという神の名前を使ったので、パロは、「私はヤハウェなどというのは、知らない。そんな何がなんだかわからない事のことを、なぜ私が聞かなければいけないのか。」と言いました。

 私たちもイエスさまのことを伝えると、「イエス・キリスト?なんだか、わけのわからないことを言っているな、お前は!」などという反応を、受けることはないでしょうか?このような態度を一言でいえば「高慢」です。神の存在を受け入れず、そしていたとしても、そんなものに従う必要はまったくない、という態度です。詩篇10:4にこう書いてあります。「悪者は高慢を顔に表わして、神を尋ね求めない。その思いは『神はいない。』の一言に尽きる。」また12篇3−4節にはこう書いてあります。「主が、へつらいのくちびると傲慢の舌とを、ことごとく断ち切ってくださいますように。彼らはこう言うのです。『われらはこの舌で勝つことができる。われらのくちびるはわれらのものだ。だれが、われらの支配者なのか。』」神の存在と、その権威を認めない心、これが聖書は「高慢」と呼んでいます。

 すると彼らは言った。「ヘブル人の神が私たちにお会いくださったのです。どうか今、私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、主にいけにえをささげさせてください。でないと、主は疫病か剣で、私たちを打たれるからです。」

 モーセはさらに説明して、パロに理解してもらおうとしました。三日の荒野への旅をすること、主への祭りについて、またこれが非常に重要な祭りであって、行なわないと疫病か剣で打たれるであろう事を説明しています。つまり永久的にエジプトを離れるのではなく、非常に短期的な休暇をパロに願い出ています。

 エジプトの王は彼らに言った。「モーセとアロン。おまえたちは、なぜ民に仕事をやめさせようとするのか。おまえたちの苦役に戻れ。」

 
パロは全く意に介しませんでした。

2C 告発 5−9
 パロはまた言った。「見よ。今や彼らはこの地の人々よりも多くなっている。そしておまえたちは彼らの苦役を休ませようとしているのだ。」

 モーセが生まれる前、苦役の中のイスラエル人はますますふえて行った、とありましたが、80年以上経った今、エジプト人よりもイスラエル人のほうが多くなっていました。

 その日、パロはこの民を使う監督と人夫がしらに命じて言った。「おまえたちはれんがを作るわらを、これまでのようにこの民に与えてはならない。自分でわらを集めに行かせよ。そしてこれまで作っていた量のれんがを作らせるのだ。それを減らしてはならない。彼らはなまけ者だ。だから、『私たちの神に、いけにえをささげに行かせてください。』と言って叫んでいるのだ。あの者たちの労役を重くし、その仕事をさせなければならない。偽りのことばにかかわりを持たせてはいけない。」

 れんがを作るとき、材料となる粘土と砂にわらを混ぜていました。そうすることによって、れんがの耐久性が上がります。イスラエル人は、れんが作りに専念していましたが、材料の藁はエジプト人が用意していました。けれどもパロは今、そのわらもイスラエル人に用意させなさい、と言っています。けれども、レンガの作る量のノルマは変えてはいけない、と言っています。

 つまり、モーセが主から命じられたことを行なったら、イスラエル人がさらに苦しめられたことになります。主の働きが始まるとき、その働きとは反対の動きが起こります。霊の戦いが始まりました。神の行なわれることに反対する敵の存在です。エジプトのパロが、さらにイスラエル人を苦しめましたが、その背後には、この世を支配する悪魔が猛烈に反対して、神の働きを阻もうとしているのです。

 前々回の学びにて、エジプトでのイスラエル人の奴隷状態には、人が罪の奴隷になっていることに触れました。人が、イエス・キリストの御名によって、罪から解放され、自由になり、神の所有の民になる、すなわち救いの御業を受けるとき、悪魔は猛烈にそれを阻もうとします。悪魔は、罪の支配の中に人がいるかぎり、反対する必要はありません。なぜなら、罪の中で死んでいる人は、悪魔が願うとおりのことをしている、完全に受動的な生き方をしているからです。けれども、神の働きが人のうちで始まれば、反対を始めます。

 神に反対するこの世の制度は、その制度として秩序を持っています。人を奴隷状態にしているところで秩序を持っています。けれども、人がキリストの御国に入れられることによって、その秩序が脅かされます。神の国が、悪魔の国に激しく攻め入っているのです。そこで、摩擦が起こり、対立が起こり、今見るような、霊の戦いが起こります。イエスさまはこのことを次のように言われました。「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはいけません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。(マタイ10:34)」ですから、今パロが、躍起になってイスラエル人を自分の支配下の置こうと動き始めたのです。

 ここでパロが、「こいつらは、まなけものなのだ」と繰り返していますが、主が人に自由を与える働きを、このようにして中傷しています。悪魔が人に対して、いろいろな策略や戦術を持っていますが、その一つが中傷、あるいは告発です。悪魔は、キリスト者を責め、なんとかして罪に定めようとします。そして、神さまのいつくしみと恵みを分からせないようにするのです。

2B 神の民の対応 10−23
1C 動揺 10−19
 そこで、この民を使う監督と人夫がしらたちは出て行って、民に告げて言った。「パロはこう言われる。『私はおまえたちにわらを与えない。おまえたちは自分でどこへでも行ってわらを見つけて、取って来い。おまえたちの労役は少しも減らさないから。』」そこで、民はエジプト全土に散って、わらの代わりに刈り株を集めた。

 エジプトで、考古学者たちがれんがを発掘しました。それは、下層によく刻まれたわらなのに、中層にはわらは少ししか入っておらず、根から引き抜かれた刈り株入りのれんがになっており、上層は、まったくわらが入っておらず、粘土だけだったものでした。イスラエル人たちがこの時期に作ったれんがです。

 監督たちは彼らをせきたてて言った。「わらがあったときと同じように、おまえたちの仕事、おまえたちのその日その日の仕事を仕上げよ。」パロの監督たちがこの民の上に立てたイスラエル人の人夫がしらたちは、打ちたたかれ、「なぜおまえたちは定められたれんがの分を、きのうもきょうも、これまでのように仕上げないのか。」と言われた。そこで、イスラエル人の人夫がしらたちは、パロのところに行き、叫んで言った。「なぜあなたのしもべどもを、このように扱うのですか。あなたのしもべどもには、わらが与えられていません。それでも、彼らは私たちに、『れんがを作れ。』と言っています。見てください。あなたのしもべどもは打たれています。しかし、いけないのはあなたの民なのです。」

 イスラエルの人夫がしらたちは、パロに訴えました。「私たちは、あなたがたのしもべなのに、なぜこのような仕打ちをなさるのですか。きちんとれんがを作ることができないのは、あなたがたの民、エジプト人がわらを集めて来ないからです。」と訴えています。

 パロは言った。「おまえたちはなまけ者だ。なまけ者なのだ。だから『私たちの主にいけにえをささげに行かせてください。』と言っているのだ。さあ、すぐに行って働け。わらは与えないが、おまえたちは割り当てどおりれんがを納めるのだ。」イスラエル人の人夫がしらたちは、「おまえたちのれんがのその日その日の数を減らしてはならない。」と聞かされたとき、これは、悪いことになったと思った。

 人夫がしらたちは、このような命令を出しているのは、エジプト人の監督が勝手に行なっているのではなく、パロ自身の命令であることを知り、これは大変なことになったと思いました。イスラエル人たち自身が動揺しています。

2C 不平 20−23
 そこでイスラエル人がモーセとアロンをひどく責めます。彼らはパロのところから出て来たとき、彼らを迎えに来ているモーセとアロンに出会った。彼らはふたりに言った。「主があなたがたを見て、さばかれますように。あなたがたはパロやその家臣たちに私たちを憎ませ、私たちを殺すために彼らの手に剣を渡したのです。」

 悪魔の策略は、神の民の間で行なわれています。彼らは、エジプトの中で苦しいけれども、パロのしもべであり続けたら、何とか生きていくことができる、と思っていました。けれども事実は、パロは、イスラエル人を人と思っていない非常な男でした。けれども、そのようなパロの本当の姿は見ようとせず、パロに憎まれるようなことをしましたね、とかえってモーセとアロンを責めているのです。

 アメリカでの話ですが、イエスさまを信じて麻薬中毒から解放された女の人がいました。けれども、父親はそのことを喜ぶのではなく、ひどく悲しみ、怒っていたそうです。なぜなら、「麻薬中毒の中にいる彼女はいかれていたけれども、それでも彼女を理解できた。けれども今の彼女を理解することができない。」と父親は言ったそうです。イスラエル人がここでモーセを責めているのも、似たような根拠によってです。ひどい奴隷状態にさせているのはパロなのに、そこから解放させようとしているモーセとアロンのせいにしています。

 それでモーセは主のもとに戻り、そして申し上げた。「主よ。なぜあなたはこの民に害をお与えになるのですか。何のために、私を遣わされたのですか。私がパロのところに行って、あなたの御名によって語ってからこのかた、彼はこの民に害を与えています。それなのにあなたは、あなたの民を少しも救い出そうとはなさいません。」

 モーセもイスラエル人と同じく、動揺し、信仰が揺り動かされています。モーセは、「パロはわたしの言うことを聞きません。だから行きたくありません。」と言ったとき、主はお怒りになられて、「わたしが、あなたの口になるのではないか。」と言われました。それでモーセは従ったのです。「ところが、見てください、やっぱりパロは言うことを聞かないではないですか。おまけに、あなたの民はますます苦しめられています。」とモーセは言っています。

 こうして神の民の中で、動揺と落胆が走りました。これも悪魔の策略です。霊の戦いでは、キリスト教会の中が攻撃されます。互いに責め、互いに落胆し、神に信仰を持てなくなってきます。稲井田さんが前回、「悪魔は教会の屋根の上に住んでいる」というようなことを言われましたが、まったくその通りなのです。

2A 主の励まし 6
 そこで主は、モーセを慰め、励ましを与えられます。私たちが落胆と失望という、悪魔の策略に対抗するためには、聖霊による慰めと励ましが、対抗するための武器です。コリント第一14章に、預言は、慰め、勧め、健徳のために人に向かって語られる、とありますが、その働きを主がモーセに行なわれます。

1B 主ご自身の啓示 1−13
1C 計画 1−9
 それで主はモーセに仰せられた。「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。すなわち強い手で、彼は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう。」

 モーセよ、待ちなさい。あなたには、今にわたしがしようとしていることがわかるようになる、と答えてくださています。

 神はモーセに告げて仰せられた。「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現われたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。またわたしは、カナンの地、すなわち彼らがとどまった在住の地を彼らに与えるという契約を彼らに立てた。今わたしは、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。」

 主はモーセを励ますときに、「わたしは主である」という言葉を使っておられます。これは、この章の中に何度も登場します。モーセの訴えに対して、「ええと、すまんな。まだ、わたしがすることの手順を話していなかったな。悪かった。」とは主は言われませんでした。ただ、「わたしは、主である」とご自分のことを明かされました。

 私たちが自分たちが通っているところが、どのような状況の中にいるのか分からないとき、私たちは、「主よ、なぜ私たちにこのようなことをなさるのですか?」という、「なぜ?」という問いかけをします。けれども私たちに必要な問いかけは、「なぜ?」ではなく、「だれ?」なのです。起こっていることは理解できないが、けれども、私の神は正しい方である。公平な方である。すべてのことを掌握されている主権者であられる。そして良い方であり、決してご自分の民に悪いことをなさらない。主はあわれみ深く、恵みに富んだ方である。主は真実な方である、などなど、主がどのような方かを思い出すことであります。

 今、主は、「わたしはヤハウェである」と言われました。以前、アブラハム、イサク、ヤコブには、エル・シャダイ、全能者としてのご自分を現わしておられましたが、今はヤハウェとして現われているのだよ、と主は言われています。前回も説明しましたが、ヤハウェというのは、「〜になる」という意味があります。人に必要があるのなら、何でもその必要になり、一つになる、という意味です。全能者であれば、自分を支え、力を与えてくださる方でありますが、ヤハウェはもっともっと、私たちに個人的に関わってくださり、細かいことに至るまで相談に乗り、力になり、導きを与え、教え、慰めるなど、非常に近しい方なのです。

 ヤハウェは、約束を守られる方です。アブラハム、イサク、ヤコブに与えた約束を、今、あなたがたの時代で行なうのだよ、と主は言われます。ですから、主は、「わたしはヤハウェである」と言われました。

 それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは主である。」

 主は、これからご自分が行なわれることを、「わたしは〜する」と言われて約束してくださっています。英語で読むと、もっと鮮明です。”I will〜”という言葉が繰り返し出てきます。一つ目は、苦役の中から救い出す、という約束です。これはイスラエル人がエジプトから出て行くときに実現します。二つ目は、大いなるさばきによって贖う、という約束です。彼らを苦しめるエジプト人が、十の災いによってさばかれます。三つ目は、わたしはあなたがたの神になる、という約束です。イスラエル人は、シナイ山のふもとで、主と契約を交わし、主の民になりました。そして、約束の地に連れて行く、という約束です。これはモーセ五書では実現を見ませんが、ヨシュア記にて実現しています。

 
モーセはこのようにイスラエル人に話したが、彼らは落胆と激しい労役のためモーセに聞こうとはしなかった。

 ここの箇所を読むと、私は日本社会を思わされます。忙しすぎて、神のことについて考える暇もない、という状態です。物理的に疲れていて、聞けなくなっている状態です。

2C 命令 10−13
 主はモーセに告げて仰せられた。「エジプトの王パロのところへ行って、彼がイスラエル人をその国から去らせるように告げよ。」しかしモーセは主の前に訴えて言った。「ご覧ください。イスラエル人でさえ、私の言うことを聞こうとはしないのです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。私は口べたなのです。」

 モーセは、自信を喪失しています。彼は主の命令に聞き従いますが、実際に事が進まないので、本当に自分なんかがあなたに用いられるのですか、という疑いを持っています。彼が神の召命を100パーセント受け取るのは、7章に入ってからです。後ろを振り向くことなく、神が言われていることに従っていくとき、神の召命を全うすることができます。

 そこで主はモーセとアロンに語り、イスラエル人をエジプトから連れ出すため、イスラエル人とエジプトの王パロについて彼らに命令された。

 この命令は、7章に出てきます。ですからそのまま7章に進めば良いのですが、その前に、モーセとアロンの系図が書かれています。なぜ、モーセとアロンの系図が必要なのかと言いますと、彼らがこれから、主の大きなみわざがなされるその器になるからです。イスラエル人の指導者としての、いわば履歴書であります。7章以降に、主の大いなるわざが書かれていますので、その前のここでその履歴書を記す必要があるのです。

2B これからの働き 14−30
1C モーセとアロンの系図 14−27
 彼らの父祖の家のかしらたちは次のとおりである。イスラエルの長子ルベンの子はエノク、パル、ヘツロン、カルミで、これらがルベン族である。シメオンの子はエムエル、ヤミン、オハデ、ヤキン、ツォハル、およびカナン人の女の子サウルで、これらがシメオン族である。レビの子の家系の名は、次のとおりである。ゲルション、ケハテ、メラリ。レビの一生は百三十七年であった。

 ヤコブの子、ルベンとシメオンの子どもたちの名が列挙されていますが、それは、アロンとモーセの父祖であるレビが、ヤコブから三番目に生まれた子だからです。レビからは三人の子、ゲルション、ケハテ、メラリが生まれました。民数記を読みますと、この三人にしたがって三つの氏族のレビ人が、幕屋の奉仕の分担を任されています。

 ゲルションの子の諸氏族はリブニとシムイである。ケハテの子はアムラム、イツハル、ヘブロン、ウジエルである。ケハテの一生は百三十三年であった。メラリの子はマフリとムシである。これらはレビ人の諸氏族の家系である。アムラムは父の妹ヨケベデを妻にめとり、彼女はアロンとモーセを産んだ。アムラムの一生は百三十七年であった。

 ここから、アロンとモーセはケハテ族から来ていることが分かります。そしてアムラムが父、ヨケベテが母です。

 イツハルの子はコラ、ネフェグ、ジクリである。ウジエルの子はミシャエル、エルツァファン、シテリである。アロンは、アミナダブの娘でナフションの妹であるエリシェバを妻にめとり、彼女はナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを産んだ。

 アロンから祭司になる子孫が出てきます。モーセもアロンもレビ人であり、レビ人はみな幕屋の奉仕に任命されますが、アロンの子孫だけが幕屋の中で礼拝をする祭司となります。

 コラの子はアシル、エルカナ、アビアサフで、これらはコラ族である。

 コラは、民数記にて、モーセとアロンに対して反逆の罪を犯す者として登場します。

 アロンの子エルアザルは、プティエルの娘のひとりを妻にめとり、彼女はピネハスを産んだ。これらはレビ人の諸氏族の一族のかしらたちである。

 ピネハスは、イスラエルの中にモアブ人の娘が入ってきて、神罰が下ってきたときに、その広がりを食い止めた人物です。

 主が「イスラエル人を集団ごとにエジプトの地から連れ出せ。」と仰せられたのは、このアロンとモーセにである。エジプトの王パロに向かって、イスラエル人をエジプトから連れ出すようにと言ったのは、このモーセとアロンであった。

 こうしてモーセとアロンが、神から遣わされた二人であることが紹介されました。

2C 預言者 28−30
 主がエジプトの地でモーセに告げられたときに、主はモーセに告げて仰せられた。「わたしは主である。わたしがあなたに話すことを、みな、エジプトの王パロに告げよ。」しかしモーセは主の前に申し上げた。「ご覧ください。私は口べたです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。」

 先ほどの話の繰り返しですが、ここでは主は、「わたしがあなたに話すことを、みな告げよ」と、主のすべてのことばを語るように命令されています。これは、預言者の務めです。聖書の最後に、黙示録のことばから差し引くもの、あるいは付け足すものはのろわれることが書かれていますが、預言者は主が言われることを、差し引いても、付け足してもいけません。神のみことばをゆだねられた人々は、みなそうです。人々を怒らせるような言葉であっても、愛によって告げなければいけません。

 そして7章は、主がモーセにこれから行なうことを、さらに告げられる場面から始まります。それによってモーセは、主が言われることをことごとく行なっていく決断をします。この決断をするまでに、大きな葛藤があります。私たちが、何が起こっても主がともにおられて、主がご自分がお考えになっていることをことごとく行なわれるという確信があるときに、主が私たちを用いることができます。反対者の反対が必ずあります。けれども、主がともにおられます。主からの励ましと慰めを知りましょう。


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