出エジプト記6章6−8節 「わたしが贖う」
アウトライン
1A 「わたしが主である」
1B 必要になる方
2B モーセではない
2A 「わたしがする」
1B エジプトの苦役
2B 労役からの救出
3B 贖い
4B わたしの民、神
5B 誓った地
本文
出エジプト記6章を開いてください。第二礼拝では6章から8章までを学んでみたいと思っていますが、今晩は6章6節から8節までに注目してみたいと思います。
6:6 それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。6:7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。6:8 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは主である。」
私たちは前回、モーセが兄アロンと一緒にエジプトに戻って、イスラエルの民に会ったところを読みました。主が、「わたしがあなたをパロのところに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。(3:10)」を仰ったからです。モーセはその招請に初め拒みましたが、ついに応答してエジプトに戻っていったのです。
ところが、結果は散々でした。パロの所に行って、「イスラエルの神、主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ。』(5:1)」と言ったのですが、パロは、「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。(2節)」と答えました。そしてなんと、パロはさらにイスラエルを苦しめたのです。これまでの煉瓦作りのノルマは変えずに、けれども藁は自分たちで調達せよと命じたのです。
それでイスラエルの民は怒りました。「あなたたちがパロのところに行ったから、私たちはもっと苦しんでいるのではないですか。主があなたを裁かれますように。」と非難したのです。それでモーセは落胆してこう祈りました。5章22-23節です。「「主よ。なぜあなたはこの民に害をお与えになるのですか。何のために、私を遣わされたのですか。私がパロのところに行って、あなたの御名によって語ってからこのかた、彼はこの民に害を与えています。それなのにあなたは、あなたの民を少しも救い出そうとはなさいません。」
1A 「わたしが主である」
1B 必要になる方
モーセのこの落胆に対して、励ましと慰めを与えているのが、私たちが今読んだ部分です。それが「わたしは主である」という始まりです。覚えていますか、モーセが、「イスラエルの民が、私が話している神の名前は誰なのか、と聞いてきたらどう答えたらよろしいですか。」と尋ねた時に、お答えになった名前です。「ヤハウェ」あるいは「エホバ」であります。
この方は、かつてアブラハム、イサク、ヤコブに現れた時のように、「全能の神」だけではなく、約束を必ず守ってくださる方、私たちの苦しみや嘆きにもすべて関わってくださる方であります。私たちの必要のすべてを満たしてくださる方です。
2B モーセではない
神は何度も、「わたしはヤハウェである」と繰り返しておられます。2節、「わたしは主である」、そして今読んだ6節、さらに7節にも、「わたしがあなたがたの神、主であり」とあり、8節の最後に「わたしは主である」とあります。つまり、主は、「大事なのは、あなたではないのだよ。わたしが主役なのだよ。」ということです。
私たちががっかりしている時は、必ず自分自身や周りの状況しか見ていません。モーセは、パロが全然、自分が語った神の言葉を聞かなかったこと、そしてそれによってイスラエルの民がさらに苦しんだこと、そして彼らが自分を非難したことに注目していました。自分自身には負いきれない重荷に感じたことでしょう。また、「こう自分が言っていれば、大丈夫だったかもしれないのに。」という後悔もあったかもしれません。それらに対して、主はただ一言、「わたしが主である」と答えられたのです。
主がすべてを支配しておられます。すべてのことは主によるものです。そして、モーセ、そして私たちがしなければいけないことは、ただ主が命じられることに聞き従うだけです。その他のことはすべて主が責任を取ってくださいます。
2A 「わたしがする」
その証拠に、今読んだ6節から8節には、一度たりともモーセがしなければいけないことは出てきません。むしろ、「わたしがする」という神ご自身の行動のみが書かれています。英語ですと、”I will”です。七回も出てきます。
私たちはどれだけ、「自分たちでしなければいけない」と思っているでしょうか?「自分たちが動かなければ神は困ってしまう。」と思っていないでしょうか?神は私たちが全然いなくても、ご自分で事を行うことのできる方です。心配なさらないように!神はむしろ、ご自分がなされることに私たちを関わらせようとされているだけです。私たちが神の力強い業を見ることができるように、恵みの業を見ることができるように、私たちを招き導いておられるだけなのです。
1B エジプトの苦役
それでは具体的な約束を見てみましょう。一つ目は、「わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す」というものです。新約聖書、コリント人への手紙第一10章に、イスラエルがエジプトから出てきた話が載っています。それらが、特に紅海を渡ったことはバプテスマにあずかったということが書かれています。つまり、この物語そのものが、神の救いそのものを表しています。
エジプトは「この世」を表しています。そしてエジプトにおけるイスラエル人の生活は、私たちの古い生活を表しています。それは過酷な奴隷の生活です。「私は奴隷ではありませんよ。」と言う人がいるかもしれませんが、「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。(ヨハネ8:34)」とイエス様は言われました。世が与える罪に対して、ただそれに調子を合わせる奴隷にしか過ぎなかったのです。
そしてエジプトから出て荒野の旅が始まります。それは、云わば「主に拠り頼む」ことを学ぶことでありました。水のないときに主が岩から水を与え、パンがないときに主が天からマナを降らせてくださり、そのようにして日々の生活が主にかかっていることを主は教えられました。そして約束の地に入る時は、「豊かな命ある生活」を表しています。神が約束されたものを十分に楽しむ、御霊に導かれた生活です。
奴隷というのは、恐ろしいものです。どんなに働いても賃金がありません。賃金のない労働ほど人の生きがいを奪うものはありません。「実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。 (5:19)」と伝道者の書にあります。けれども、この世での努力というのも、このように空しいものなのです。自分が行ったことが、まるで穴の開いた皮袋に水を入れるように、流れ出てしまいます。残るものがないのです。
2B 労役からの救出
そして主は、「(わたしはあなたがたを)労役から救い出す」と言われました。英語ですと、ここは「束縛」や「奴隷の身分」を意味する”bondage”が使われています。私たちは、肉の欲に引かれて一度それを満たすと、その欲望の奴隷となります。ペテロが第二の手紙でこう言いました。「彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。(2ペテロ2:18-19)」
人間は、自分の思いや欲望を押し殺すのはおかしい、それを自由に発散させたほうがいいと考えます。しかし、それを行った人はみな知っていますが、自分がその欲望を制御できると思って始めたことが、ついにその欲望にがんじがらめになっているのを発見するのです。
私たちは、ある時は、「ちょっとやってみようかな」という好奇心から行うこともあるでしょうし、「むしゃくしゃする!」と落胆やいらだちからすることもあるでしょうし、単に誘惑されることもありますが、いずれにしてもその瞬間は楽しいのですが、その楽しみが過ぎ去り、苦々しさや空しさだけが残り、だから「さあ止めよう」と思っても、もう戻れないのです。それはさながら、イスラエル人がエジプト人の監督たちに鞭で打たれて、せきたてられて、引きずり回される姿にそっくりです。肉は私たちをそのように奴隷状態にします。
そして、肉は滅びをもたらします。「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。(ガラテヤ6:8)」自分の体が滅ぼされるのを分かっているのに、ある人々は一瞬の快楽のために忌まわしい行為をやめることはありません。また、自分の評判や長年のこと培った栄誉が、その一時的な快楽のためにすべて滅ぼすこともあります。そして、もっとも深刻なのは自分の魂そのものを悪魔に明け渡し、悪魔のために造られた地獄に投げ込まれることです。
3B 贖い
しかし神はそのようながんじがらめの奴隷状態の人たちを贖いだすことがおできになります。「伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。」「贖う」という言葉をおさらいしますと、「買い戻す」であります。商業の取引用語です。もともと自分の所有物だったものを売って手放したけれども、それを代価を支払って買戻し、自分のものとする、という意味があります。
そこで、奴隷市場で売られている人々を主人が商人に金を払って買い戻すことに使われました。事実、今スーダン等では奴隷制度が生きていて、クリスチャンの宣教団体は奴隷商人に多額の金額を支払い、人々を奴隷状態から救い出す働きをしている人たちがいます。その商人に、「私たちはクリスチャンで、まさにキリストが私たちのためにこのことをしてくださったのだ。」と説明して福音を伝えているそうです。
私たちは罪に売られた者たちです。それを神が、ご自分の御子の命という高い代償を支払うことによって買い戻し、ご自分の所有とされた、というのがここで言っている「贖い」です。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(1ペテロ1:18-19)」
主はここで、「伸ばした腕と大いなるさばきとによって」とあります。私たちは私たちの力で、自分を贖うことはできません。どんなに頑張っても、その束縛から免れることはできません。アメリカで始まった「アルコホーリクス・アノニマス」という団体がありますが、アル中の人たちの回復のために存在しています。彼らの信条の中に、「自分自身では克服できない、自分を超えた存在に救い出されることを信じる」という段階があります。まさに、それは神の救いと一致しています。
出エジプトの出来事の時は、神は権力を持っていたパロに対して、さらに強い力をもって災いを下されました。そしてエジプト軍の精鋭がイスラエルの民を追跡したのに、彼らを紅海の中に溺死させるという大いなる裁きを行われました。パロの蹂躙は強力でありますが、さらに強い力を神が持っておられて、パロを懲らしめ裁かれることによってイスラエルの民を救われます。
私たちも同じようにして、罪からの贖いを得ることができます。神は、キリストの十字架によって、罪と死に力を持つ悪魔の仕業を滅ぼされました。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。(ヘブル2:14-15)」
そして神は、御子イエス・キリストをよみがえらせました。死者を生き返らせる力をもって、私たちを救ってくださいました。「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。(コロサイ2:12-13)」したがって、キリストの十字架と復活によって、私たちは悪魔の力に高らかに勝利しているのです!
4B わたしの民、神
そして主は、「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし」と約束してくださっています。つまり神の所有の民となったということです。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(1ペテロ2:9)」したがって私たちは既に、自分のものではなくなりました。神の所有となったのです。自分の体だから、自分のしたいようにする権利があるではないかと言いますが、いいえ、神が御子の血によって買い取ったのですから、この体で神の栄光を表すようにしなければいけません。
私たちはどちらかの主人に仕えています。罪という主人か、あるいは神という主人に仕えています。「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。(ローマ6:16)」私たちは二人の主人に仕えることはできません。主人が二人いることはありません。どちらかに仕えているのです。神の所有の民とされている者は、罪に対しては自由でいることができるのです。
さらに主は、「わたしはあなたがたの神となる。」と言われました。「神」というのは、名前ではなく呼称です。自分にとって最も大事なもの、自分の魂を明け渡してもよいほど傾注しているものであれば何でも「神」です。
人々は、主なる神を信じないことについて言い訳をしています。「神のことを考える時間も暇もないから。」と言いますが、その人は当時であれば「マモン」を拝んでいたことでしょう。マモンは金の神です。自分の仕事や用事のために、神のことを考えることができないのです。そして、「私は神を信じられない。」という人がいます。その人は当時であればバアルを拝んでいたことでしょう。知性の神です。さらに、「今は楽しいことをしているんだから、神様のことは後でね。」というのは、もレクを拝んでいます。モレクは快楽の神です。
マモンを拝めば、私たちは奴隷状態になります。仕事や他の事柄だけしか考えられず、人間性を失います。そしてバアルを拝んでいる人は、かえって知性が空しくなります。見えるものが見えず、聖書によると「愚か」になります。「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。(詩篇14:1)」そしてモレクを拝めば堕落します。唯一、主なる神を拝むことのみが私たち人間が人間として、まっとうに生きることができるのです。
5B 誓った地
そして主は最後に、アブラハム、イサク、ヤコブに約束した地に彼らを導きいれることを確認しておられます。そこは「乳と蜜の流れる地」と呼ばれます。シナイの荒野とは対照的に、そこは酪農品や農産物が豊かに取れる所だからです。
まことの神に仕えることによって、私たちに与えられているのも、その豊かさです。神は、私たちを罪の奴隷状態から救い出してくださいます。そして、肉による奴隷状態から救い出してくださいます。そして私たちをご自分のものとし、私たちが豊かな命を持つようにしてくださっているのです。
その贖いの力は私たちが絶対にだめだ、無力だと思っている時にこそ発揮されます。主が成し遂げてくださいます。私たちではなく、「わたしが主だ」と神は言われました。