アウトライン
1A パロとの対決 7
1B 主のみわざ 1−13
1C 計画 1−7
2C 証明 8−13
2B エジプト全土へのしるし 14−25
2A パロへのさばき 8−9:12
1B 家の中へのわざわい 8:1−19
1C 苦しいの中での許可 1−15
2C 悪い者より力ある方 16−19
2B 区別される神 8:20−32
1C 救い 20−24
2C 国内でのささげ物 25−32
3B 神々へのさばき 9:1−12
1C 家畜 1−7
2C 呪術者 8−12
本文
出エジプト記7章を開いてください。今日は9章前半までを学びます。メッセージ題は、「主のしるしと不思議」です。
前回の学びを思い出してください。モーセとアロンはパロのところに行きましたが、「主とはだれだ。」と言われ、パロはイスラエル人にさらに苦役を課しました。そこでモーセは、もう一度パロのところに行けと命令する主に対して、「ご覧ください。私は口べたです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。(6:30)」と答えました。
1A パロとの対決 7
そこで7章に入ります。主はもう一度、モーセとアロンに、ご自分がなされることをお語りになります。そして、モーセとアロンから、数々のしるしと不思議が行なわれていくようになります。
1B 主のみわざ 1−13
1C 計画 1−7
主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたをパロに対して神とし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。あなたはわたしの命じることを、みな、告げなければならない。あなたの兄アロンはパロに、イスラエル人をその国から出て行かせるようにと告げなければならない。
主は今、パロにとってモーセとアロンがどのような存在になるかをお語りになっています。モーセが神の代理人になります。そしてアロンは、モーセの言ったことを伝えるモーセの代弁者、スポークスマンになります。
わたしはパロの心をかたくなにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で多く行なおう。
モーセは初めてパロのところに行ったときに、パロはモーセの言うことをまったく受け入れませんでした。そこでモーセは自分が無力であることを強く感じたのですが、それは彼のせいではなく、主がもともとご計画されていたことでした。パロがいつまでも心をかたくなにすることは、主ご自身が前もって知っておられたことであり、むしろ主がパロの心のかたくなさを用いて、ご自分のしるしと不思議を行なうことをお定めになっていたのです。
私たちはこれから、さまざまなしるしによってもパロの心が開かれず、むしろいつまでも強情をはっていく姿を見ていきます。その時に、パロの心がかたくなになった、パロが強情になった、という表現がありますが、それだけでなく、主がパロの心をかたくなにされたという表現も出てきます。ここで、クリスチャンであれば、いや神やキリストのことを知りたいと求めている人ならだれもが抱いたことがある疑問、つまり神の主権と、人間の自由意志との問題があります。主がパロの心をかたくなにするなら、どうしてパロはさばかれなければいけないのか、不公平ではないか、という問題です。
このことについては、ローマ人への手紙9章にてパウロが明確な回答を与えています。9章17節から読んでみましょう。「聖書はパロに、『わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。』と言っています。こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。すると、あなたはこう言うでしょう。『それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。』しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。』と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。」つまり、神が何をなさろうが、それは私たちをお造りになった神の主権であるから、何も文句は言えない、ということです。
すると私たちは、「そんなのありですか?それでは神が化け物のように見えてしまいます。」と思ってしまいます。けれども大事なのは、神は愛であるということです。神が、ご自分を愛している者に用意しておられる計画は、私たちにとって最善のものです。ですから陶器師である神に、自分の人生と生活を明け渡すことができます。
けれども、神が主権をお持ちだからといって、神がパロの心をかたくなにされているからと言って、不公平なことをされているわけではありません。ローマ9章の続きを読みましょう、22節です。「ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。」神は、パロにどのように説得し、イスラエルの民を出て行かせるように命令しても、最後まで言うことを聞かないことを、前もってご存知でした。パロが心を開きそうになっているのに、神がかたくされているということではなく、パロがもともといつまでも強情になっているところを、主がお用いになられているのです。パロの心のかたくなさを用いて、エジプトの地に主のしるしと不思議が増えて、エジプトや世界に、ご自分が主であることを知らせることができるのです。
このように、神がすでに悔い改めることはしないと分かっているのに、いつまでも悔い改めの機会を与え続けられる他の例としては、イエスさまを裏切ったイスカリオテのユダがいます。ユダについては、詩篇でダビデが、ゼカリヤ書でゼカリヤが預言しましたが、彼が最後に自分の師匠を裏切り、イエスを捕らえる者たちに売り渡すことを、神はご存知でした。けれども神は、このユダの裏切りを知っていながら、三年半イエスさまと生活を共に送らせるようにさせ、なんと裏切る最後の夜まで、過越の祭の食卓でさえ、ユダに悔い改める機会を与えられました。
ですから、悔い改めの機会はすべての人に平等に与えられています。けれども主は、最後まで信じない人たちをも用いて、ご自分の栄光を現わそうとされるのです。ですから、私たちの周りで行なわれている悪がなぜ行なわれているのか、と疑問に思うときは、「神はほっといておかれていない。神は必ずその悪をさばかれる」ことを確信することができるのです。
パロがあなたがたの言うことを聞き入れないなら、わたしは、手をエジプトの上に置き、大きなさばきによって、わたしの集団、わたしの民イスラエル人をエジプトの地から連れ出す。大きなさばきとは、十番目の災いである、エジプトの初子の死です。わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真中から連れ出すとき、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。
パロは初めに、「主とはだれか。私は、主という者は知らない。」と言いましたが、十の災いにとって、主とはだれであるかを知ることになります。
そこでモーセとアロンはそうした。主が彼らに命じられたとおりにした。
モーセは、この時点で主の召命に確信を持てたと思います。これまで自分には自信がない、イスラエルの民も、パロも自分が言っていることを聞いてくれない、また、主がお考えになっていることがなんだかわからない、という不安を持っていました。けれども今はっきりと、主のしるしと不思議が行なわれる、その方法を知ったのです。それは、主が命じられたとおり、そのとおりに行なっていくことです。御霊による働きと、肉の行ないには大きな違いがあります。御霊による働きは、神を信頼して、神が言われたことを聞き従うのに対して、肉の行ないは神のわざを自分たちで行なおうとすることです。モーセが主に言われたことにただ従っていくだけで、残りは主がすべてのわざを行なわれます。
彼らがパロに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。
これからのしるしと不思議は、80歳と83歳のおじいさん二人によって行なわれるのですから、これは人間の努力ではなく、神の力と真実の現われであることがわかります。
2C 証明 8−13
また主はモーセとアロンに仰せられた。「パロがあなたがたに、『おまえたちの不思議を行なえ。』と言うとき、あなたはアロンに、『その杖を取って、パロの前に投げよ。』と言わなければならない。それは蛇になる。」モーセとアロンはパロのところに行き、主が命じられたとおりに行なった。アロンが自分の杖をパロとその家臣たちの前に投げたとき、それは蛇になった。そこで、パロも知恵のある者と呪術者を呼び寄せた。これらのエジプトの呪法師たちもまた彼らの秘術を使って、同じことをした。
モーセが以前、主に命じられて杖を投げたときに蛇になりましたが、同じことをパロの前で見せることを命じられました。けれどもパロもまた、エジプトの知者と呪術者を呼び寄せて、同じことをさせます。
これは悪霊の仕業です。聖書には、悪魔と悪霊が、神と同じようなわざを行なってみせることが書かれています。「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。(2テサロニケ2:9-10)」ですから、私たちが耳に聞いたり、目で見たりする、いわゆる超自然現象、怪奇現象などは、その中には本当のものがあります。悪魔や悪霊が、これらのことを行なっているのです。
そして、このエジプト人呪法師らは、テモテへの手紙第二にヤンネとヤンブレという名前で紹介されています。「また、こういう人々は、ちょうどヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、真理に逆らうのです。彼らは知性の腐った、信仰の失格者です。(3:9)」モーセに逆らって、自分たちに与えられた知恵と力を用いました。
彼らがめいめい自分の杖を投げると、それが蛇になった。しかしアロンの杖は彼らの杖をのみこんだ。
ここに神さまのユーモアがあります。同じようなことができても、神の力が勝っていることを、アロンの杖が彼らの杖をのみこむことによって、示されました。
それでもパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が仰せられたとおりである。
パロが心をかたくなにするのは、理由あっての、証拠があっても拒否ではありません。むしろ、証拠があるのに拒絶しています。生理的拒否、いや、自分のプライドによる拒否です。本当なら、へりくだって、神の前に悔い改めるなら楽になれるのに、強情をはって、災いを自分の身に被ります。
2B エジプト全土へのしるし 14−25
主はモーセに仰せられた。「パロの心は強情で、民を行かせることを拒んでいる。あなたは朝、パロのところへ行け。見よ。彼は水のところに出て来る。あなたはナイルの岸に立って彼を迎えよ。そして、蛇に変わったあの杖を手に取って、彼に言わなければならない。ヘブル人の神、主が私をあなたに遣わして仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らに、荒野でわたしに仕えさせよ。』ああ、しかし、あなたは今までお聞きになりませんでした。主はこう仰せられます。『あなたは、次のことによって、わたしが主であることを知るようになる。』ご覧ください。私は手に持っている杖でナイルの水を打ちます。水は血に変わり、ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水をもう飲むことを忌みきらうようになります。」
今読んだように、これからエジプトに災いが下ります。12章にてパロがイスラエルをエジプトから出て行かせますが、それまでに十の災いが下ります。最後の災いは、エジプト人の初子の死です。残りの九つの災いは、三つに区別することができます。一番目、二番目、三番目の災いが一つ、四番目、五番目、六番目の災いが二つ目、そして七、八、九の災いが三つ目です。その災いの区分けは、「パロがナイル川の岸に立っている」という表現によってできます。四番目の災いは、「朝早く、パロの前に出よ。見よ。彼は水のところに出て来る。(8:20)」とあります。そして七番目の災いも、「あしたの朝早く、パロの前に立ちなさい(9:13参照)」とあります。
ナイル川にパロが出てきているのは、礼拝タイムです。創造主ではなく、ナイル川を拝みに来ています。エジプトでは、肥沃な土地をもたらしこの国に潤いをもたらしているナイル川を、神として拝んでいました。その他、かえる、ぶよ、あぶ、家畜、人体、太陽など、あらゆる神々がおり、主がエジプトに下す災いは、これらエジプト人が神々としてあがめていたものに対するさばきだったのです。民数記33章4節には、「主は彼らの神々にさばきを下された。」とあります。偶像によって、神ではないものを神とすることによって、神の栄光を見えなくさせているその働きを、ご自分が主であることを力強く表すことによって、エジプトに、そして世界にイスラエルの神を知らしめます。
主はまたモーセに仰せられた。「あなたはアロンに言え。あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、その川、流れ、池、その他すべて水の集まっている所の上に差し伸ばしなさい。そうすれば、それは血となる。また、エジプト全土にわたって、木の器や石の器にも、血があるようになる。」
ナイル川だけでなく、エジプト中の水という水が血になるように主はされました。そのことによって、エジプト全体が主を知るようになるためです。
モーセとアロンは主が命じられたとおりに行なった。彼はパロとその家臣の目の前で杖を上げ、ナイルの水を打った。すると、ナイルの水はことごとく血に変わった。ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水を飲むことができなくなった。エジプト全土にわたって血があった。
ちょうど赤潮によって魚が死ぬように、水が血になることによって魚が死にました。飲み水も飲めません。
しかしエジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをした。それで、パロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞こうとはしなかった。主の言われたとおりである。
エジプトの神も同じことができる、なにをたわけたことを・・・とパロは思ったことでしょう。それでパロの心はかたくなになりました。
パロは身を返して自分の家にはいり、これに心を留めなかった。全エジプトは飲み水を求めて、ナイルのあたりを掘った。彼らはナイルの水を飲むことができなかったからである。主がナイルを打たれてから七日が満ちた。
パロはひどい人です。自分の人民が水がなくて苦しんでいるのに、自分に害がないから平気でした。そこで主は、パロの家の中にも災いを下されます。
2A パロへのさばき 8−9:12
1B 家の中へのわざわい 8:1−19
1C 苦しいの中での許可 1−15
主はモーセに仰せられた。「パロのもとに行って言え。主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らにわたしに仕えさせるようにせよ。もし、あなたが行かせることを拒むなら、見よ、わたしは、あなたの全領土を、かえるをもって、打つ。かえるがナイルに群がり、上って来て、あなたの家にはいる。あなたの寝室に、あなたの寝台に、あなたの家臣の家に、あなたの民の中に、あなたのかまどに、あなたのこね鉢に、はいる。こうしてかえるは、あなたとあなたの民とあなたのすべての家臣の上に、はい上がる。』」
かえるによる災いですが、ナイル川にはたくさんのかえるがいます。ヘクトという女神は、かえるの頭をしていました。豊穣をもたらす神として拝まれていましたが、今は災いになっています。
ナイル川が血になる災いと異なるのは、パロの家の中にまで災いが入り込んだことです。ベッドの中に入るのですから、寝るときもぐちゃ、こね鉢にはいるのですから、料理をするときに、ぐちょぐちょとかえるもすりつぶしてしまうことになります。
主はモーセに仰せられた。「アロンに言え。あなたの手に杖を持ち、川の上、流れの上、池の上に差し伸ばし、かえるをエジプトの地に、はい上がらせなさい。」アロンが手をエジプトの水の上に差し伸ばすと、かえるがはい上がって、エジプトの地をおおった。呪法師たちも彼らの秘術を使って、同じようにかえるをエジプトの地の上に、はい上がらせた。パロはモーセとアロンを呼び寄せて言った。「かえるを私と私の民のところから除くように、主に祈れ。そうすれば、私はこの民を行かせる。彼らは主にいけにえをささげることができる。」
かえるの災いには、パロもまいったようです。呪法師らによって同じ秘術が行なわれても、彼はモーセとアロンを呼び寄せて、かえるを取り除くように祈ってくれ、と頼んでいます。けれども、これもまた、「苦しいときの神頼み」のレベルでしかありません。苦しみが過ぎ去れば、もうイスラエルの神には用なしなのです。
モーセはパロに言った。「かえるがあなたとあなたの家から断ち切られ、ナイルにだけ残るように、あなたと、あなたの家臣と、あなたの民のために、私がいつ祈ったらよいのか、どうぞ言いつけてください。」パロが「あす。」と言ったので、モーセは言った。「あなたのことばどおりになりますように。私たちの神、主のような方はほかにいないことを、あなたが知るためです。かえるは、あなたとあなたの家とあなたの家臣と、あなたの民から離れて、ナイルにだけ残りましょう。」
モーセはあえて、パロに期限を定めてもらうことによって、彼が主を知ることができるように整えました。
こうしてモーセとアロンはパロのところから出て来た。モーセは、自分がパロに約束したかえるのことについて、主に叫んだ。
モーセは平然とパロの前で語りましたが、もし本当にそうならなかったら一大事です。モーセは必死になって、叫んで祈りました。
主はモーセのことばどおりにされたので、かえるは家と庭と畑から死に絶えた。人々はそれらを山また山と積み上げたので、地は臭くなった。ところが、パロは息つく暇のできたのを見て、強情になり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主の言われたとおりである。
かえるの死骸の異臭は相当なものだったようです。息がまもとにできないほどでした。けれども、主が言われたように、息ができるようになったらパロは強情になりました。
2C 悪い者より力ある方 16−19
主はモーセに仰せられた。「アロンに言え。あなたの杖を差し伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、それはエジプトの全土で、ぶよとなろう。」
三つ目は、ぶよによるさばきです。ここでは、パロに対する警告がありません。一つ目、二つ目の災いで拒んだために、主が続けてさばきを行なわれます。
そこで彼らはそのように行なった。アロンは手を差し伸ばして、杖で地のちりを打った。すると、ぶよは人や獣についた。地のちりはみな、エジプト全土で、ぶよとなった。
ものすごいです、土地のちりそのものがぶよになりました。
呪法師たちもぶよを出そうと、彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。ぶよは人や獣についた。そこで、呪法師たちはパロに、「これは神の指です。」と言った。
ついに神が、ご自分の力を見せ付けられました。これまで真似することができたのですが、ここでは無理です。ついに、ヤンエとヤンブレは、これが神の指のわざであることを認めます。
しかしパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主の言われたとおりである。
呪術者たちが神の指のわざであると認めても、彼は言うことを聞きませんでした。
2B 区別される神 8:20−32
そこで、第二シリーズの災い三つが始まります。ここでは、主がイスラエルとエジプト人を区別して、ご自分のわざを示されます。
1C 救い 20−24
主はモーセに仰せられた。「あしたの朝早く、パロの前に出よ。見よ。彼は水のところに出て来る。彼にこう言え。主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。』」
パロはいつものように、ナイル川のところで礼拝しにきています。そこにモーセとアロンが行きました。
もしもあなたがわたしの民を行かせないなら、さあ、わたしは、あぶの群れを、あなたとあなたの家臣とあなたの民の中に、またあなたの家の中に放つ。エジプトの家々も、彼らがいる土地も、あぶの群れで満ちる。わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこには、あぶの群れがいないようにする。それは主であるわたしが、その地の真中にいることを、あなたが知るためである。わたしは、わたしの民とあなたの民との間を区別して、救いを置く。あす、このしるしが起こる。」
四つ目の災いは、あぶです。これは、「サシバエ」という蝿の一種と言われていますが、家畜や人体を刺して痛いそうです。このあぶもまた、「ウチヒト」と呼ばれるエジプトの神でした。
ここで驚くべきことは、イスラエルが住むゴシェンの地域に、あぶの群れがいないようにすることです。ゴシェンの地域は、羊や牛を飼う肥沃な地域なので、あぶが多いとすればこの地域なのです。なにも、ここだけはあぶが全然来ない。それは、「わたしの民とあなたの民との間を区別して、救いを置く」からだ、と主は言われています。
神は、このように、ご自分の民とそうではない民を区別して、ご自分の民に救いを与えられます。神にとって、ご自分のものになっているか、そうでないかの二つしかなく、中間的な人は存在しません。イエス・キリストを救い主として仰いで、この方につく者か、そうでなければ敵対している者であります。
そして、神はすべての人が罪を犯したので、この地全体をさばくご計画を持っておられます。終わりの時に地上に災いを下されます。しかし神は、イスラエル人のように、ご自分に信頼するものを区別して、救いを与えられます。これらの災いを経験しなくても良いようにされます。
主がそのようにされたので、おびただしいあぶの群れが、パロの家とその家臣の家とにはいって来た。エジプトの全土にわたり、地はあぶの群れによって荒れ果てた。
今度は、土地が荒廃してしまいました。
2C 国内でのささげ物 25−32
そこでパロはついに、折れるかにみえる姿勢に出ます。パロはモーセとアロンを呼び寄せて言った。「さあ、この国内でおまえたちの神にいけにえをささげよ。」モーセは答えた。「そうすることは、とてもできません。なぜなら私たちは、私たちの神、主に、エジプト人の忌みきらうものを、いけにえとしてささげるからです。もし私たちがエジプト人の目の前で、その忌みきらうものを、いけにえとしてささげるなら、彼らは私たちを石で打ち殺しはしないでしょうか。それで私たちは荒野に三日の道のりの旅をして、私たちの神、主にいけにえをささげなければなりません。これは、主が私たちにお命じになることです。」
パロは国内で、イスラエル人たちがいけにえをささげることを許可しました。けれどもそれは無理な話です。エジプト人は牛を神聖なものと考えていたので、ほふったりすれば一大事になります。だから、エジプトから出て、いけにえをささげなければいけない、とモーセは言います。
パロは許したかに見えますが、実は違います。エジプトという国から出て行くことによって、イスラエルは初めて主にお仕えすることができるのに、国内で仕えよ、というのは、ちょうどこの世においてイエスさまを信じなさい、と言っているのと同じようなものです。イエス・キリストを自分の救い主として認め、信じます。けれども生活は以前と変わりなく、そのままにしなさい。教会に行っても、洗礼を受けても良い、けれども、今の生活は変えるな、という圧力を感じたことはないでしょうか?パロがモーセに突きつけた条件と、この世が出す条件は同じです。主の命令にしたがっているようなそぶりをして、実は従っていないように仕向けるのが、悪魔です。
パロは言った。「私は、おまえたちを行かせよう。おまえたちは荒野でおまえたちの神、主にいけにえをささげるがよい。ただ、決して遠くへ行ってはならない。私のために祈ってくれ。」
今度は、「遠くへ行ってはならない」と言っています。イエスさまを信じても、罪からそんなに離れなくて良い、という誘いです。例えば、不倫関係を断ち切ってもちょっと愛人と電話するぐらいなら良いでしょう、というようなものです。そうではありません、近くもいけないのです。
モーセは言った。「それでは、私はあなたのところから出て行きます。私は主に祈ります。あす、あぶが、パロとその家臣とその民から離れます。ただ、パロは、重ねて欺かないようにしてください。民が主にいけにえをささげに行けないようにしないでください。」
モーセは欺かないでくださいとお願いしますが、パロは欺きます。
モーセはパロのところから出て行って主に祈った。主はモーセの願ったとおりにされたので、あぶはパロとその家臣およびその民から離れた。一匹も残らなかった。しかし、パロはこのときも強情になり、民を行かせなかった。
再び強情になりました。
3B 神々へのさばき 9:1−12
1C 家畜 1−7
主はモーセに仰せられた。「パロのところに行って、彼に言え。ヘブル人の神、主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせて、彼らをわたしに仕えさせよ。もしあなたが、行かせることを拒み、なおも彼らをとどめておくなら、見よ、主の手は、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に下り、非常に激しい疫病が起こる。しかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別する。それでイスラエル人の家畜は一頭も死なない。』」
五つ目の災いは、家畜が疫病にかかることです。エジプト人は、家畜を神々として拝んでいました。黒牛はアピスとして拝まれていました。メンピスには、エジプトで二番目に大きい神殿があり、最近の考古学で、何百という牛の死骸が棺おけに納められ、ミイラにされているのを発見しました。愛の神「ハサー」は、雌牛でした。牛の頭をもった女です。「ムネビス」も牛で、太陽神「レイ」と関わりを持っていました。ですから、これもエジプトの宗教に対して災いが下っています。また、これは経済的な災害です。エジプトでは、パロ所有の家畜がいました。
そして、家畜の疫病においても、主はイスラエルの家畜と、エジプトの家畜を区別されます。
また、主は時を定めて、仰せられた。「あす、主はこの国でこのことを行なう。」主は翌日このことをされたので、エジプトの家畜はことごとく死に、イスラエル人の家畜は一頭も死ななかった。パロは使いをやった。すると、イスラエル人の家畜は一頭も死んでいなかった。それでも、パロの心は強情で、民を行かせなかった。
パロは、主が言われたことが気にかかっていたようです。イスラエルの地に使いを送って、主が言われたことが本当なのかどうか、確かめさせています。けれども、その通りであってもやはり、心を変えませんでした。
2C 呪術者 8−12
主はモーセとアロンに仰せられた。「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱいに取れ。モーセはパロの前で、それを天に向けてまき散らせ。それがエジプト全土にわたって、細かいほこりとなると、エジプト全土の人と獣につき、うみの出る腫物となる。」
第三の災いと同じく、これも警告のない災いです。うみの出る種物の災いですが、エジプトでは、清潔が一つの宗教になっていました。セラピスという薬の神がおり、彼らは世界中で一番美しい体を持っていると信じていました。外見の美を求めるようにさせる現在の兆候は、エジプトの宗教とさほど変わりませんね。
そして、かまどのすすがうみの出る種物となりますが、同じかまどでは、れんがが焼かれます。主は、かまどをもってイスラエル人を苦しめたエジプト人を、今度は同じかまどで、エジプト人を苦しめさせているのです。
それで彼らはかまどのすすを取ってパロの前に立ち、モーセはそれを天に向けてまき散らした。すると、それは人と獣につき、うみの出る腫物となった。呪法師たちは、腫物のためにモーセの前に立つことができなかった。腫物が呪法師たちとすべてのエジプト人にできたからである。
呪法師たちに対するさばきが下りました。彼らもまた、肉体の美容には最新の注意を払っていました。体毛という体毛をすべて、そっていました。頭だけでなく、わき、すね、むね、あらゆる体毛です。その彼らが今、うみの出る種物を出しています。そしてモーセの前に立てなくなっています。真理に逆らう者たちの姿がこうです。
しかし、主はパロの心をかたくなにされ、彼はふたりの言うことを聞き入れなかった。主がモーセに言われたとおりである。
これまでパロが心をかたくなにしていましたが、ここでは主が彼の心をかたくなにされています。つまり、彼がすでに決断していたことを用いて、さらにご自分の不思議としるしを現わそうとされています。
こうしてパロの心のかたくなさと、この世の誘いかけ、また神々に対する、まことの神のさばきなどを見てきました。次回は、三つ目の三つの災いを見ていきます。
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