出エジプト記9−11章 「今までにない災い」
アウトライン
1A 主の御力 9
1B 家畜の疫病 1−7
2B 腫物 8−12
3B 雹 13−35
1C 国難 13−26
2C 欺きの悔恨 27−35
2A 荒廃 10
1B 蝗 1−20
1C 警告 1−11
2C 災害 12−20
2B 暗闇 21−29
3A 最後の災い 11
本文
出エジプト記を開いてください、今日は9章から学びます。また、盛りだくさんの内容です。
前回の学びで、私たちはいくつかの災いを読みました。ナイル川の血、かえる、ぶよの災いが初めに三つありました。そして、第二周期の災いが始まります。あぶです。ここからイスラエルとエジプトとの区別が始まりました。エジプト人はあぶの被害を受けましたが、イスラエルは受けませんでした。
そしてパロは、ついに「イスラエルの民はいけにえを捧げて。」と言いました。けれども、「国内で行いなさい」と言いました。さらに「国外に出てもいいが、遠くへ行くな。」と言いました。妥協です。妥協は私たちの霊的な力を失わせる大きな原因の一つです。気を付けたいと思います。
1A 主の御力 9
そして次の災いに入ります。
1B 家畜の疫病 1−7
9:1 主はモーセに仰せられた。「パロのところに行って、彼に言え。ヘブル人の神、主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせて、彼らをわたしに仕えさせよ。9:2 もしあなたが、行かせることを拒み、なおも彼らをとどめておくなら、9:3 見よ、主の手は、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に下り、非常に激しい疫病が起こる。
「主とは誰だ。」と言ったパロの言葉を思い出してください、主はご自分が誰なのかをパロに、見せつけておられます。エジプトの富と力となっているものを主なる神は滅ぼされていきます。そしてそれらはみな神々としてあがめられていたものです。家畜はエジプトにおいて、神聖なものとして崇められていました。
メンフィスには、プタハという神がアピスという牛として現れたとされていました。エジプトで世界遺産に指定されているメンフィスの墓地遺跡群には、地下に巨大な棺桶がいくつも見つかっています。それがアピスの牛を葬ったものです。そしてアピスはミイラにもされていました。
そして羊また牛によって表されていたハトホルという女神がいます。愛と幸運の神です。カナン人が拝んでいたアシュタロテに匹敵します。これらの神々が今、疫病によって打たれたのです。
そして、もちろん家畜はエジプト人の経済活動に極めて重要な役割を果たしていました。農業の時に、運搬の時に家畜を用いました。ですから宗教的にだけでなく、経済的にも大きな打撃を受けたのです。
9:4 しかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別する。それでイスラエル人の家畜は一頭も死なない。』
虻の災いの時から神のこの働きは始まりました。覚えていますか、イスラエル人は羊や牛を飼う者としてヤコブの家族は働き始めました。イスラエルのところにはたくさんの家畜がいたのです。ところがその疫病に一切かからないという約束を神は与えられました。
災いが下るのですが、イスラエルには与えられません。イスラエルも同じように災いを受けてもおかしくないのですが、神があえて守ってくださいます。同じように、私たちは神の怒りを受けて当然の存在ですが、神があえてご自分の災いを私たちに下さないのです。
9:5 また、主は時を定めて、仰せられた。「あす、主はこの国でこのことを行なう。」9:6 主は翌日このことをされたので、エジプトの家畜はことごとく死に、イスラエル人の家畜は一頭も死ななかった。
時を定めることによって、はっきりとこれが主によるものであることを明らかにされました。
そしてエジプトの家畜というのは、基本的にパロの所有している家畜です。なぜなら、かつて飢饉の時にヨセフが、エジプト人たちに穀物を与えるにあたって、彼らに金銭がなくなったので家畜で交換しました。それ以来、家畜がエジプトのものとなったのです。
9:7 パロは使いをやった。すると、イスラエル人の家畜は一頭も死んでいなかった。それでも、パロの心は強情で、民を行かせなかった。
パロは気になっていました。確かにイスラエルは家畜が死んでいないのかどうかをわざわざ確かめさせています。それにも関わらず、彼は民を行かせませんでした!私たちの心というのは不思議ですね、エレミヤ書で「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。(17:9)」とあります。ただ、神の恵みの御霊によってのみ私たちは主のほうに目を向けることのができるのだ、ということが分かります。
2B 腫物 8−12
9:8 主はモーセとアロンに仰せられた。「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱいに取れ。モーセはパロの前で、それを天に向けてまき散らせ。9:9 それがエジプト全土にわたって、細かいほこりとなると、エジプト全土の人と獣につき、うみの出る腫物となる。」
三つ目の災いである蚋の時もそうでしたが、警告の言葉がなく災いを下されます。この六つ目の災いは、興味深いことに「かまどのすす」から出たものです。イスラエルの民は奴隷として、このかまどを使って煉瓦を作っていました。主は、今、エジプト人に対して、イスラエル人を虐げたものから虐げを受けたのです。神の裁きは、このように報復という形で現れます。「つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、・・・(2テサロニケ1:6)」
9:10 それで彼らはかまどのすすを取ってパロの前に立ち、モーセはそれを天に向けてまき散らした。すると、それは人と獣につき、うみの出る腫物となった。9:11 呪法師たちは、腫物のためにモーセの前に立つことができなかった。腫物が呪法師たちとすべてのエジプト人にできたからである。
三つ目の災いにおいて、すでに呪法師らは奇蹟を真似することができなくなっていました。彼らはそれを「神の指です」と言いました。ここでは、彼らは神からの裁きを受けています。彼らは、モーセに逆らった「ヤンネ」と「ヤンブレ」です(2テモテ3:8)。使徒の働きでも、パウロとバルナバの福音宣教の働きを妨げる魔術師エルマが、目が見えなくされているのを見ます(使徒13:8-12)。神は、このようにご自分の働きを阻止しようとする者たちに対して、裁きを行われる時があります。
蚋の災いの時に説明しましたが、エジプトの魔術師は全身体毛を剃り、何度も風呂に入り、皮膚の美容と健康を儀式の一つとしていました。それに対して神が裁きを加えられたのです。
そして癒しについてもエジプトでは神々がいました。「イムホテプ」というエジプトの神官は、死後に「薬と医術の神」として崇められました。
9:12 しかし、主はパロの心をかたくなにされ、彼はふたりの言うことを聞き入れなかった。主がモーセに言われたとおりである。
先ほどは「パロの心は強情になり」とありましたが、ここでは「主はパロの心を頑なにされた」とあります。つまり、パロの強情な心をそのままにしておかれた、と言い換えることができるのです。これが恐ろしいことです。私たちが神の明らかな証しを繰り返し拒むことによって、その心が悔い改めることのできないほど硬くなってしまう、ということです。
ヨハネによる福音書12章にて、当時のユダヤ人指導者がイエス様が行われる徴を見ているのにそれでも信じなかったことについて興味深いことを言っています。12章37節には、「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。」とあります。けれども39節には、「彼らが信じることができなくなった」とあるのです。信じないことを続けているうちに、ついに信じることができなくなるほど硬くなってしまったのです。恐ろしいことです、イザヤ書の言葉を思い出します。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。(55:6)」
3B 雹 13−35
これで第二周期が終わりました。次から第三周期の三つの災いです。ここから、災いの度合いが一気に大きくなります。究極の災いを下されます。
1C 国難 13−26
9:13 主はモーセに仰せられた。「あしたの朝早く、パロの前に立ち、彼らに言え。ヘブル人の神、主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。
おそらくパロは再び、日常の儀式を行なおうとしていたのでしょう。朝早く、初めはナイル川の前に彼は出てきていました。次にあぶの災いの時は、「水のところに」出てきました(8:20)。そして、ここではその水さえありません。モーセのほうが、彼が出て行く前にやってきたのかもしれません。
9:14 今度は、わたしは、あなたとあなたの家臣とあなたの民とに、わたしのすべての災害を送る。わたしのような者は地のどこにもいないことを、あなたに知らせるためである。
主は「すべての災害」と強調しておられます。つまり、ご自分の怒りを余すところなく現す、究極に現すということです。
そして、主こそが生ける神であり、この世界中の神々と呼ばれるものよりもはるかに優れていることをこれから示されます。この世の人々は、神とキリストを他の宗教、例えば仏教やイスラム教と並列で語ります。主はそれを一切させないために、大きな力をもってご自分こそが神であることを示されるのです。
9:15 わたしが今、手を伸ばして、あなたとあなたの民を疫病で打つなら、あなたは地から消し去られる。9:16 それにもかかわらず、わたしは、わたしの力をあなたに示すためにあなたを立てておく。また、わたしの名を全地に告げ知らせるためである。9:17 あなたはまだわたしの民に対して高ぶっており、彼らを行かせようとしない。
ここに、神の寛容さが表れています。神は、彼らを今、滅ぼすものならいとも簡単にできたと言われます。そしてパロが民を出て行かせないことを神はよくご存知でした。それにも関わらず、彼らに猶予を与える形で災いを下しておられるのは、第一に彼らに忍耐しておられるからです。神はたとえ、その人が最後まで悔い改めないことを知っておられながらも、最後までその機会を与えてくださる、公平な方です。「ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。(ローマ9:22)」
そして、この寛容な取り扱いと共に、主が意図されているのは、「わたしの力をあなたに、そして全地に示すため」とあります。主は、かたくなに民を行かせないパロをも用いて、ご自分がどのような神なのかを世界に知らしめる目的を持っておられるのです。後に、ヨシュア記、またサムエル記において、カナン人やペリシテ人の間にこのことが広まっていることが記録されています。エジプトの文献にはありませんが、隠蔽していたけれども漏洩していたのです!
9:18 さあ、今度は、あすの今ごろ、エジプトにおいて建国の日以来、今までになかったきわめて激しい雹をわたしは降らせる。
エジプトの国が統一されて以来の激しい雹です。日本でさえ、今回の地震が千年に一度と呼ばれるように、建国の後にも存在していたものです。エジプトではそれ以上の恐ろしい災難であります。
9:19 それゆえ、今すぐ使いをやり、あなたの家畜、あなたが持っている野にあるすべてのものを避難させよ。野にいて家へ連れ戻すことのできない人や獣はみな雹が落ちて来ると死んでしまう。』」9:20 パロの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。9:21 しかし、主のことばを心に留めなかった者は、しもべたちや家畜をそのまま野に残した。
興味深いですね、主は選択を与えられています。そして、見事にそれに二つの反応が出ました。ある人は真剣に主のことばを受け取り、その通りに動きました。別の家臣は無視しました。いつでも、私たちには、主の御言葉に対して二つの反応があります。それを行動を持って反応するか、それとも何の行動も取らないかの二つです。
ところで、先にエジプトの家畜が疫病で倒れたのに、なぜここでパロの家臣たちが家畜を有しているのか、という疑問を抱く人がいるかもしれません。まず知らなければいけないのは、災いと次の災いの間には時差があるということです。その期間におそらくエジプトの役人たちは、外国から家畜を取り寄せたのでしょう。実際、外国から家畜を取り寄せる文献が見つかっているそうです。
9:22 そこで主はモーセに仰せられた。「あなたの手を天に向けて差し伸ばせ。そうすれば、エジプト全土にわたって、人、獣、またエジプトの地のすべての野の草の上に雹が降る。」9:23 モーセが杖を天に向けて差し伸ばすと、主は雷と雹を送り、火が地に向かって走った。主はエジプトの国に雹を降らせた。9:24 雹が降り、雹のただ中を火がひらめき渡った。建国以来エジプトの国中どこにもそのようなことのなかった、きわめて激しいものであった。
雹のみならず、火も含まれていました。雷も含まれていました。出エジプト記の災いは、将来起こる、終わりの日における神の怒りの型になっています。黙示録8章にラッパの災いがありますが、第一のラッパが吹き鳴らされた時に、「血の混じった雹と火が現われ」とあります(7節)。
そしてエジプトでは、「ヌト」という天空の神がいますが、このことによってヤハウェなる神がその神を打たれたわけです。
9:25 雹はエジプト全土にわたって、人をはじめ獣に至るまで、野にいるすべてのものを打ち、また野の草をみな打った。野の木もことごとく打ち砕いた。9:26 ただ、イスラエル人が住むゴシェンの地には、雹は降らなかった。
イスラエルは再び守られ、救われました。私たちにも避難して安心することのできる場所があります。イエス・キリストです。この方の中にいれば安心です。
2C 欺きの悔恨 27−35
9:27 そこでパロは使いをやって、モーセとアロンを呼び寄せ、彼らに言った。「今度は、私は罪を犯した。主は正しいお方だ。私と私の民は悪者だ。9:28 主に祈ってくれ。神の雷と雹は、もうたくさんだ。私はおまえたちを行かせよう。おまえたちはもう、とどまってはならない。」
パロはさらに突っ込んだ、悔い改めに聞こえるような発言をしています。はっきりと「罪を犯した」と言っています。そして、「主」を正しいとし、「自分は悪者だ」としています。これが、はっきりとした悔い改めの定義です。主が正しく、自分が悪く、そして自分が主に対して罪を犯したという加害を受け入れることです。
ただ、これは読み進めればすぐに分かりますが、偽りの悔い改めです。彼は、モーセとアロンの願っていることをよく知っていました。また、自分自身が神がどのような方をもうすでに知っていました。したがって、その神の願いに沿うように言っておこう、というだけなのです。心から「主」と言うのと、ただ口合わせで「主」というのでは雲泥の差があります。
9:29 モーセは彼に言った。「私が町を出たら、すぐに主に向かって手を伸べ広げましょう。そうすれば雷はやみ、雹はもう降らなくなりましょう。この地が主のものであることをあなたが知るためです。9:30 しかし、あなたとあなたの家臣が、まだ、神である主を恐れていないことを、私は知っています。」
私たちは悪い状況にいる時は悔い改めている祈りをすることはできるのですが、状況が良くなるとまた同じことを繰り返すのは、根本からその罪を見つめなおす必要があります。今、自分が惨めだから悲しむのではなく、主に対して罪を犯した悔恨がはたしてあるのかどうかを吟味しなければいけません。
9:31 ・・亜麻と大麦は打ち倒された。大麦は穂を出し、亜麻はつぼみをつけていたからである。9:32 しかし小麦とスペルト小麦は打ち倒されなかった。これらは実るのがおそいからである。・・
おそらくこの時期は二月頃でしょう。亜麻も大麦も三月に収穫が行われます。けれども小麦は四月頃の収穫です。
9:33 モーセはパロのところを去り、町を出て、主に向かって両手を伸べ広げた。すると、雷と雹はやみ、雨はもう地に降らなくなった。9:34 パロは雨と雹と雷がやんだのを見たとき、またも罪を犯し、彼とその家臣たちは強情になった。9:35 パロの心はかたくなになり、彼はイスラエル人を行かせなかった。主がモーセを通して言われたとおりである。
彼らは、難を逃れた小麦を見たのでかたくなになりました。「なんだ、まだ希望があるじゃないか。」とエジプトに対する誇りと自慢を捨てることがなかったのです。私たちはわずかな希望を自分自身のうちに見出すと、それがいかに頼りないかは見ずして、「まだ自分はやっていける」と思ってしまうのです。
このように、「出て行かせる」と言いながらやはり出て行かせないパロの偽りがあります。心がかたくなになるということは、表面的には後悔しますが、心が変わっていないので前言を翻すのです。心が常に御霊の声に開かれていて、正直になり、告白できるようにしていくことはとても大切です。ヘブル人への手紙3章13節にもこのことが警告されています。「『きょう。』と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。」
2A 荒廃 10
1B 蝗 1−20
1C 警告 1−11
10:1 主はモーセに仰せられた。「パロのところに行け。わたしは彼とその家臣たちを強情にした。それは、わたしがわたしのこれらのしるしを彼らの中に、行なうためであり、10:2 わたしがエジプトに対して力を働かせたあのことを、また、わたしが彼らの中で行なったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためであり、わたしが主であることを、あなたがたが知るためである。」
主はモーセに対して、次の目的を明らかにされました。それは、ご自分の力をパロとエジプト、そして世界に知らしめるだけでなく、イスラエルの民自身が主を知るためであると言われます。それを子孫に言い伝えるためであると教えられます。このことを過越しの祭りとして神は、定められます。また旧約聖書の至るところに、出エジプトにおける神の偉大な御業が書き記されています。
10:3 モーセとアロンはパロのところに行って、彼に言った。「ヘブル人の神、主はこう仰せられます。『いつまでわたしの前に身を低くすることを拒むのか。わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。
そうですね、罪というのは、ただ、しがみついている事から手を放すことです。
10:4 もし、あなたが、わたしの民を行かせることを拒むなら、見よ、わたしはあす、いなごをあなたの領土に送る。10:5 いなごが地の面をおおい、地は見えなくなる。また、雹の害を免れて、あなたがたに残されているものを食い尽くし、野に生えているあなたがたの木をみな食い尽くす。10:6 またあなたの家とすべての家臣の家、および全エジプトの家に満ちる。このようなことは、あなたの先祖たちも、そのまた先祖たちも、彼らが地上にあった日からきょうに至るまで、かつて見たことのないものであろう。』」こうして彼は身を返してパロのもとを去った。
蝗の災いです。これは雹の災いよりもさらに酷いものであるかは、二つのことで分かります。一つは、雹はあくまでも地表にある作物を倒しただけですが、いなごは地中にある芽までも根こそぎ食べつくしてしまいます。もう一つは、その規模がエジプトの建国以来のものではなく、人間の歴史が始まって以来のものであると強調しています。
蝗の襲撃は、とてつもなく恐ろしいものです。2011年5月末のニュースでは中国新疆で蝗が大量発生で被害を受けたそうです。一平方当たり2500匹という密度であったそうです。つまり一平方キロ当たりにすると2500万匹になります。襲来後の土地は何年も耕作ができなくなってしまうそうで、単なる旱魃よりも被害は酷いです。
聖書ではヨエル書というところに、ユダに蝗が襲う預言があり、それが一糸乱れず大量に押し寄せてくる軍隊の予兆となっています。そして黙示録9章では、なんと悪霊が蝗のような形をして大量に現れ、尾にはサソリのような棘があり、五か月の間、苦しみ悶えますが死ぬことさえできないというホーラー映画よりも恐ろしいことが起こります。
10:7 家臣たちはパロに言った。「いつまでこの者は私たちを陥れるのですか。この男たちを行かせ、彼らの神、主に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだおわかりにならないのですか。」
先ほどは家畜を屋根の下に動かさなかった家臣もいましたが、今はこの言葉に恐れを抱いています。パロに説得しています。彼には王としてのプライドが依然としてあったのです。
10:8 モーセとアロンはパロのところに連れ戻された。パロは彼らに言った。「行け。おまえたちの神、主に仕えよ。だが、いったいだれが行くのか。」10:9 モーセは答えた。「私たちは若い者や年寄りも連れて行きます。息子や娘も、羊の群れも牛の群れも連れて行きます。私たちは主の祭りをするのですから。」10:10 パロは彼らに言った。「私がおまえたちとおまえたちの幼子たちとを行かせるくらいなら、主がおまえたちとともにあるように、とでも言おう。見ろ。悪意はおまえたちの顔に表われている。10:11 そうはいかない。さあ、壮年の男だけ行って、主に仕えよ。それがおまえたちの求めていることだ。」こうして彼らをパロの前から追い出した。
第一礼拝でお話ししたように、これは幼子までヘブル人が造り出した宗教に関わらせてはいけない、という言い分です。これが世の考えであり、「子供には権利がある、選択ができる。宗教は大人になってから選ぶものだ。」というものです。とんでもないことです、子供は父と母に聞き従い、父と母に守られる存在です。
2C 災害 12−20
10:12 主はモーセに仰せられた。「あなたの手をエジプトの地の上に差し伸ばせ。いなごの大群がエジプトの地を襲い、その国のあらゆる草木、雹の残したすべてのものを食い尽くすようにせよ。」10:13 モーセはエジプトの地の上に杖を差し伸ばした。主は終日終夜その地の上に東風を吹かせた。朝になると東風がいなごの大群を運んで来た。
東風ですから、アラビア半島から吹いてきたのでしょうか?聖書には東風が、作物を干からびさせる乾燥した熱風としてしばしば現れます。
そして蝗はその飛来の速度と距離がとてつもないです。一度羽を広げたら時速20キロで、ノンストップで20時間飛ぶことができるそうです。このいなごの大群を神は東風をもってエジプトに送り込まれました。
10:14 いなごの大群はエジプト全土を襲い、エジプト全域にとどまった。実におびただしく、こんないなごの大群は、前にもなかったし、このあとにもないであろう。
前代未聞であるだけでなく、将来もないという最大級のものです。
10:15 それらは全地の面をおおったので、地は暗くなった。それらは、地の草木も、雹を免れた木の実も、ことごとく食い尽くした。エジプト全土にわたって、緑色は木にも野の草にも少しも残らなかった。
これで、最後の望みも断たれました。雹の害を逃れた作物を見て強情になったのですが、今はもうありません。
10:16 パロは急いでモーセとアロンを呼び出して言った。「私は、おまえたちの神、主とおまえたちに対して罪を犯した。10:17 どうか今、もう一度だけ、私の罪を赦してくれ。おまえたちの神、主に願って、主が私から、ただこの死を取り除くようにしてくれ。」
パロの罪の告白はさらにはっきりとしています。神なる主だけでなく、モーセとアロンにも罪を犯したと言っています。なぜなら、それが深刻だからです。「ただこの死を取り除くようにしてくれ」と言っています。
10:18 彼はパロのところから出て、主に祈った。
モーセの忍耐はすごいです。これほど欺かれているのに、彼はパロの言うとおりに祈りを捧げています。彼は主の御心の中で、その魂が砕かれ、柔らかくなっているから忍耐ができるのでしょう。主がパロの心をかたくなにされている、ということを受け入れているからです。
10:19 すると、主はきわめて強い西の風に変えられた。風はいなごを吹き上げ、葦の海に追いやった。エジプト全域に、一匹のいなごも残らなかった。10:20 しかし主がパロの心をかたくなにされたので、彼はイスラエル人を行かせなかった。
西の風は地中海から来ているものです。こちらは温暖な、湿気を含んだ風であります。いなごの襲来もすごいですが、一匹もいなくなる風もすごいです。
2B 暗闇 21−29
10:21 主はモーセに仰せられた。「あなたの手を天に向けて差し伸べ、やみがエジプトの地の上に来て、やみにさわれるほどにせよ。」10:22 モーセが天に向けて手を差し伸ばしたとき、エジプト全土は三日間真っ暗やみとなった。10:23 三日間、だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともできなかった。しかしイスラエル人の住む所には光があった。
九つ目の災いは「暗闇」です。闇が触れる程にせよ、というのは単に暗いだけでなく、洞窟の中にいるような暗さであります。目が暗さになれてもなお何も見えない状態、目の一センチ先で指を動かしても見えない状態です。それが三日続きました、エジプト人は半狂乱状態に陥ったことでしょう。
そしてここでもイスラエルには光がありました。イエス様は、「わたしは世の光です。(ヨハネ9:5)」と言われましたが、神の与える暗闇の中でも、希望も何もない罪に満ちた世にあっても、キリストにあって私たちは光を持つことができます。
ところでエジプト人にとっては、太陽にまつわる神々はたくさんいました。ちょうど日本の神道の代表的な神が天照大神であるのと同じです。ラーという太陽神がいます。そしてその他のいろいろな代表的な神々も、何らかの形で太陽を宿しています。
彼らが太陽を神としてしまったのも同情できます。私たちは原発問題で電気のことを気にしなければならず、電気がなくなった生活など考えられません。しかし、太陽が暗くなったらどうでしょうか?これが究極の天災です。太陽のおかげで生命体のほとんどは生きられるわけです。
ですから、出エジプト記と同じように終わりの日には太陽が暗くなります。出エジプト記では三日間暗くなると言う災いですが、初めにラッパの裁きにて、太陽、月、星の光の三分の一をなくしてしまわれます。神は初めから反抗する人々を滅ぼすことはなされないのです。けれども、七つの鉢をぶちまけるときは、残りの明るさもなくしてしまわれるのです(黙示15:10)。
10:24 パロはモーセを呼び寄せて言った。「行け。主に仕えよ。ただおまえたちの羊と牛は、とどめておけ。幼子はおまえたちといっしょに行ってもよい。」10:25 モーセは言った。「あなた自身が私たちの手にいけにえと全焼のいけにえを与えて、私たちの神、主にささげさせなければなりません。10:26 私たちは家畜もいっしょに連れて行きます。ひづめ一つも残すことはできません。私たちは、私たちの神、主に仕えるためにその中から選ばなければなりません。しかも私たちは、あちらに行くまでは、どれをもって主に仕えなければならないかわからないのです。」10:27 しかし、主はパロの心をかたくなにされた。パロは彼らを行かせようとはしなかった。
パロは、最後の最後まで、自分が支配できるものを残したいと願っています。幼子の件については折れた。けれども家畜は残していきなさい、というものです。彼はいつまでも「パロ」で居続けたかったのです。パロ自身が神でありますが、ついに次の災いはその後継者である長子を打つ、という災いです。
10:28 パロは彼に言った。「私のところから出て行け。私の顔を二度と見ないように気をつけろ。おまえが私の顔を見たら、その日に、おまえは死ななければならない。」10:29 モーセは言った。「結構です。私はもう二度とあなたの顔を見ません。」
興味深いことに11章にて、再びモーセとパロは対峙しています。交渉決裂だったけれども、言い残していることがあるので再会した、という感じでしょう。
3A 最後の災い 11
11:1 主はモーセに仰せられた。「わたしはパロとエジプトの上になお一つのわざわいを下す。そのあとで彼は、あなたがたをここから行かせる。彼があなたがたを行かせるときは、ほんとうにひとり残らずあなたがたをここから追い出してしまおう。
これで災いは終わりだとモーセは感じていたのでしょうか、「もう二度とあなたの顔を見ません。」と彼は言ったので、主は、「なお一つのわざわいを下す」と言われました。そして次の災いで、主が初めから語られていた、「パロはあなたがたを追い出す」が実現するのだよ、と語っておられます。
11:2 さあ、民に語って聞かせよ。男は隣の男から、女は隣の女から銀の飾りや金の飾りを求めるように。」11:3 主はエジプトが民に好意を持つようにされた。モーセその人も、エジプトの国でパロの家臣と民とに非常に尊敬されていた。
覚えていますか、イスラエル人がエジプトから出る時に、エジプト人から金や銀の飾りを奪い取りなさい、と命じておられました。それは後に幕屋において金銀を用いるからです。また、彼らは奴隷の身ですから、何も持っていません。これまでの労働の対価でもありました。
そして主がエジプト人に、イスラエルの民に好意を持つようにされた、とあります。これは興味深いです。以前も話しましたが「好意」というのは、どうして得られるのか不思議です。私たちがいくら喜ばせようとしても、相手の心が動かされることが一切ない場合もあるのに、大したことをしていないのに喜ばれることもあります。それは神が主権をもって行っておられることなのです。
そしてモーセは非常に尊敬されました。これらの恐ろしい災いが下っている中で、それでもモーセを尊敬したのは、エジプトのパロやエジプトの国になかった、真に人間に関わってくださる生ける神を彼らも目撃したからでしょう。クリスチャンがクリスチャンではない人たちに関わる時に、このまことの神への畏敬を知っていただけたらと願います。
11:4 モーセは言った。「主はこう仰せられます。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く。11:5 エジプトの国の初子は、王座に着くパロの初子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の初子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。11:6 そしてエジプト全土にわたって、大きな叫びが起こる。このようなことはかつてなく、また二度とないであろう。』
初子とは、人間であっても動物であっても、初めに生まれてくる男の子のことです。人間であれば「長子」とも呼ばれます。これは単に後継者という意味だけでなく、まさに自分と一体の存在であり、自分の命そのものです。ですから、「神がその独り子を与えられた」というのはそのような重みがあります。
したがって、パロの宮殿でも彼自身の初子が殺されることになります。これは自分パロが死ぬことと等しいです。パロはまさにエジプトの神々の第一の存在であり、太陽神ラーの化身であると信じられていました。初子が死ぬことはパロに対する最大の裁きです。
11:7 しかしイスラエル人に対しては、人から家畜に至るまで、犬も、うなりはしないでしょう。これは、主がエジプト人とイスラエル人を区別されるのを、あなたがたが知るためです。
あぶの災いから始まった神の区別は、ここでも起こります。「犬も、うなりはしないでしょう。」と言うのは、平穏そのものの姿です。漫画やアニメで、平和そうにあくびをしている犬がいますね、その光景です。
11:8 あなたのこの家臣たちは、みな、私のところに来て伏し拝み、『あなたとあなたに従う民はみな出て行ってください。』と言うでしょう。私はそのあとで出て行きます。」こうしてモーセは怒りに燃えてパロのところから出て行った。
モーセにはいらだたしさがありました。こんな悲惨なことが起ころうとしているのに、なぜあなたはかたくななのですか?そういう悲しみに満ちた怒りに満たされました。ところが、厳しい現実を主はモーセに伝えられます。
11:9 主はモーセに仰せられた。「パロはあなたがたの言うことを聞き入れないであろう。それはわたしの不思議がエジプトの地で多くなるためである。」
出て行ったその後で、「言うことは聞き入れないであろう。」と言われました。
11:10 モーセとアロンは、パロの前でこれらの不思議をみな行なった。しかし主はパロの心をかたくなにされ、パロはイスラエル人を自分の国から出て行かせなかった。
これがまとめです。7章からの合計九つの災いのまとめです。モーセとアロンはものすごい不思議を行いました。けれども、もっとすごいのはパロが民を出て行かせなかったことです。なぜか?「主がパロの心をかたくなにされた」からです。パロが強情になったのですが、すべてのことを主が掌握しておられる、ということです。そのおかげで、九つの災い、そして最後の災いを見ることができます。私たちにもこのように語り継がれ、神が、いかに力があり、偉大なのかを見ることができます。
私たちも日本に住んでいて、たくさんの偶像に囲まれて生きています。それは習俗的な木や石で造られた神々に限らず、プライドの源泉になっている力や源が私たちの周りにあります。生活基盤、この温暖な日本の気候、安定した社会、数多くの便益をもたらしている文明があります。そして、何よりも自分自身が築き上げてきた生活スタイルがあります。その生活そのものが私たちにとって「暮らし向きの自慢」として魂の奥底に横たわっているのです。
パロと同じように、「それを出て行かせなさい」「自分から去らせなさい」と主は言われます。「わたしが主である」「わたしがあなたのすべての領域において支配するのだ。」と言われます。