エゼキエル書10−11章 「離れる主の栄光」

アウトライン

1A ケルビムの動き 10
   1B 至聖所から敷居へ 1−8
   2B 敷居から東門へ 9−22
2A 悪い企み 11
   1B 役に立たない鍋 1−12
   2B 離散の地での聖所 13−21
   3B オリーブ山へ 22−25

本文

 エゼキエル書10章を開いてください、今日は10章と11章を学びます。ここでのメッセージ題は「離れる主の栄光」です。

 私たちは今、エゼキエルが受けた預言の二つ目を読んでいます。一つ目は、あの、彼が横たわって、エルサレムに向かって神が裁きを行なう預言でした。そして二つ目は、エゼキエルが御霊によって引き上げられて、幻の中でエルサレムに連れて行かれる幻です。

 そこでエゼキエルは、神殿の敷地の中で、偶像礼拝を行なう人々を見ました。祭壇に向かう北の入口にはねたみの偶像が、壁の向こうには長老たちが隠れたところで忌まわしい動物を拝み、女たちは不品行を伴うタンムズ崇拝を行なっており、そして祭司らは、聖所から背を向けて日の昇る東を向いて、太陽を拝んでいました。

 そこで神は、七人の御使いを遣わし、エルサレムの住民を打ち殺します。六人が殺し、一人は亜麻布を着て、筆入れを身につけた書記でした。エルサレムで行なわれている罪を悲しんでいる者には額に印をつけ、それから打ち殺しました。

 このように、神殿の中における罪と不義に対して神の怒りが下りますが、ここ8章から11章までの一連の預言において注目すべきは、ケルビムとその上にある主の栄光です。8章4節において、聖所の中から神の栄光が輝いているのをエゼキエルは見ました。聖所の中のさらに聖所、つまり至聖所には、契約の箱とその上に、ケルビムが礼拝している贖いの蓋があります。そこに主がおられ、そこから主がイスラエルの民に語られます。そこから、栄光が放たれているのです。

 ところが私たちはこれから、そのケルビムが神殿の敷居に移動するのを見ます。それから町の東の門に動きます。そして東の門を出て、今度は東の山、オリーブ山に動きます。そしてそこからも去られます。このように徐々に、主の栄光が離れていく様子を私たちは見ていくのです。

 覚えているでしょうか、かつてイスラエルに自分の息子に「イ・カボテ」という名をつけた女がいました。「イ・カボテ」は「栄光がない」という意味です。サムエル記第一4章に書かれていますが、祭司エリの息子ホフニとピネハスは、主の捧げ物によって罪を犯していました。そして、イスラエルの民がペリシテ人と対峙したとき、神の箱を戦場に運び、そこで箱がペリシテ人に奪われ、ペリシテ人にも負けました。祭司エリはその知らせを聞くや死に、息子二人も死にました。ピネハスの妻が身ごもっていて、彼女も産後死にました。死に間際に、この名前を付けたのです。

 ここでも同じでした。神の幕屋において、主の栄光が宿るところで罪を犯していたのです。そして主の栄光が去ったのです。ここから私たちは、重要な教訓を学ぶことができます。キリストに贖われた者たちは、自分の体が聖霊の宮になっているということです(1コリント6:19)。私たちが自分がキリストに属する者であると言いながら、そして礼拝生活、信仰生活を歩みながら、なおかつ、体と思いにおいて罪を犯し、汚れを行なっていたら、主の栄光を見ることができなくなる、という厳粛な事実です。

 イエス様は、山上の垂訓において、「心のきよいものは幸いです。その人は神を見るからです。(マタイ5:8」と言われました。そして、ヘブル書の著者も「聖くなければ、だれも主を見ることはできません。(12:14」と言っています。エゼキエル書は、主の栄光がそのテーマです。ケルビムの上におられる主の栄光からこの預言書は始まり、そして主の栄光に満ちる神殿とエルサレムの町で終わっています。これから私が読むところは、神の裁きである、主の栄光が去るところであります。

1A ケルビムの動き 10
1B 至聖所から敷居へ 1−8
10:1 私が見ていると、ケルビムの頭の上の大空に、サファイヤのような何か王座に似たものがあって、それが、ケルビムの上に現われた。

 覚えていますか、エゼキエル1章にも出てきた神の御座の幻です。ケルビムそのものは火で燃えているようであり、青銅の輝きがありますが、その上は真っ青です。ちょうど、雷雨によって地上は厳しい天候に見舞われていても、雲の上を飛ぶ飛行機は真っ青の空を飛んでいるように、地の近くには神の裁きの火と聖さがありますが、その上は青いのです。

10:2 主は亜麻布の衣を着た者に命じて言われた。「ケルブの下にある車輪の間にはいり、ケルビムの間の炭火をあなたの両手に満たし、それを町の上にまき散らせ。」すると、この人は私の目の前でそこにはいって行った。

 神殿の敷地にいる者を打ち殺した六人の者と共にいた、筆入れを持っている天使長のような存在が、今度はケルビムの間にある炭火を撒き散らすように命じられています。火による神の裁きです。

10:3 その人がはいって行ったとき、ケルビムは神殿の右側に立っていて、雲がその内庭を満たしていた。10:4 主の栄光がケルブの上から上り、神殿の敷居に向かうと、神殿は雲で満たされ、また、庭は主の栄光の輝きで満たされた。

 雲は、しばしば神の栄光を示しています。モーセが幕屋を建てた時に雲がそこを満たしました。同じようにソロモンが神殿を建てた後に、栄光の雲が満ちて、祭司さえその中に入ることができませんでした。主イエスは、天の雲に乗って地上に戻って来られます(マタイ24:30)。

10:5 そのとき、ケルビムの翼の音が、全能の神の語る声のように、外庭にまで聞こえた。

 この「全能の神の語る声」とはどのようなものか、考えてしまいます。黙示録にも、このような大きな声が天で鳴り響いているのを読むことができますが、想像するに、雷のような、地鳴りのような、神の全能を典型的に表す声でしょう。

10:6 主が亜麻布の衣を着た者に命じて、「車輪の間、すなわちケルビムの間から火を取れ。」と仰せられたとき、この人ははいって行って、一つの輪のそばに立った。10:7 すると、一つのケルブはケルビムの間から、ケルビムの間にある火のほうに手を伸ばして、その火を取り、亜麻布の衣を着た者の両手にそれを盛った。この人はそれを受け取ると、出て行った。10:8 さらに、ケルビムの翼の下から人の手の形のものが現われた。

 ケルビムのそばには輪がありました。その輪がここで「車輪」と呼ばれています。ケルビムは、神の栄光を乗せる戦車のような働きをしていたしていたのだと思われます。

 1章にはケルビムは四人いますが、その一人が他のケルビムの間にある火から炭火を、手を伸ばして取ったのでしょう。それを亜麻布の天使の両手に手渡しました。

2B 敷居から東門へ 9−22
10:9 私が見ると、ケルビムのそばに四つの輪があり、一つの輪は一つのケルブのそばに、他の輪は他のケルブのそばにそれぞれあった。その輪は緑柱石の輝きのように見えた。10:10 それらの形は、四つともよく似ていて、ちょうど一つの輪が他の輪の中にあるようであった。10:11 それらが行くとき、それらは四方に向かって行き、行くときには、それらは向きを変えなかった。なぜなら、頭の向かう所に、他の輪も従い、それらが行くときには向きを変えなかったからである。10:12 それらのからだ全体と、その背、その手、その翼、さらに輪、すなわちその四つの輪には、その回りに目がいっぱいついていた。10:13 私はそれらの輪が「車輪」と呼ばれているのを聞いた。

 1章にも出てきたケルビムの姿です。ここでの新しい情報は、車輪だけでなく、ケルビムの体全体にも目がいっぱいに付いていることです。つまり、全てについて知識がある存在、全てを見通している存在であるということです。「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。(ヘブル4:13

10:14 そのおのおのには四つの顔があり、第一の顔はケルブの顔、第二の顔は人間の顔、第三の顔は獅子の顔、第四の顔は鷲の顔であった。

 1章のところにあるケルビムの顔と違うところがあります。「牛の顔」ではなくて「ケルブ」の顔とあります。これは、初め見たときは牛のように見えた顔が、今は、契約の箱の上にある贖いの蓋のケルビムのそれであることに気づいたからです。

10:15 そのとき、ケルビムが飛び立ったが、それは、私がかつてケバル川のほとりで見た生きものであった。

 エゼキエルはこの四つの顔を見たときに、実はここでようやく、自分が初めに見た生きものがケルビムであることを知りました。

10:16 ケルビムが行くと、輪もそのそばを行き、ケルビムが翼を広げて地上から上るとき、輪もそのそばを離れず向きを変えなかった。10:17 ケルビムが立ち止まると、輪も立ち止まり、ケルビムが上ると、輪もいっしょに上った。それは、生きものの霊が輪の中にあったからである。

 ヘブル書1章14節に「御使いはみな、仕える霊であって」とあります。ケルビムの霊は、この輪の中に存在しました。

10:18 主の栄光が神殿の敷居から出て行って、ケルビムの上にとどまった。10:19 すると、ケルビムが翼を広げて、私の前で、地上から上って行った。彼らが出て行くと、輪もそのそばについて行った。彼らが主の宮の東の門の入口で立ち止まると、イスラエルの神の栄光がその上をおおった。

 ここでついに、神殿の敷居から主の栄光が東の門に移りました。神殿は、東から西へ一直線に、至聖所に向けて造られています。祭壇から洗盤、そして聖所の中に入り、供えのパンの机と燭台を左右に見ながら、正面には聖所と至聖所を仕切る垂れ幕があり、垂れ幕の手前に香壇があります。そして、そこをくぐると契約の箱と贖いの蓋です。ですから、今、その反対方向を主の栄光が動いているのです。

 主の栄光が離れるのは、このように徐々に、少しずつなのです。なぜ、すぐ離れていかなかったのでしょうか?それは、主ご自身が離れるのを厭っておられるからです。ためらっておられるのです。神は、ご自分の聖なる性質のゆえ、その義のゆえに、かたくなに拒む心から離れなければいけません。けれども、ご自分の民を愛してやまない、そのねたみから、離れることを自ら嫌っておられるのです。

 ヤコブ書に、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。(4:5」とあります。私たちが主にあって愛している人々から拒絶された、という経験をした方はおられるでしょうか?相手が、「もうあなたの働きや奉仕は必要ありません。こちらにいらっしゃらなくて結構です。」という態度を、口では言いませんが示していたとします。「そうですか、はい、分かりました。もう二度と、来ることはありません。」と、足のちりを払い落として出て行くでしょうか?結果としてそうしなければいけませんが、大いに躊躇います。もしその人たちのことを愛しているなら、離れることを惜しんで、少しでも助けになることをしたいと願います。この感情ですね、妬むほどに慕っておられるという意味は。神は、この感情をもって神殿とエルサレムを見ておられるのです。

10:20 彼らは、かつて私がケバル川のほとりで、イスラエルの神の下に見た生きものであった。私は彼らがケルビムであることを知った。10:21 彼らはおのおの四つずつ顔を持ち、おのおの四つの翼を持っていた。その翼の下には、人間の手のようなものがあった。10:22 彼らの顔かたちは、私がかつてケバル川のほとりでその容貌としるしを見たとおりの顔であった。彼らはみな、前のほうへまっすぐ進んで行った。

 エゼキエルは何度も確認しています。自分が捕囚の民が住んでいたケバル川のほとりで見た生きものが、実はケルビムであったことを確認しています。こうして、エゼキエルの預言は「ケルビムの上に座す主」が全体のテーマになっています。その罪と不義によって完全にエルサレムから離れて主の栄光が、イスラエルが回復した後にまた戻ってくる、というテーマです。

2A 悪い企み 11
 東の門にまで主の栄光が移りましたが、なんとそこでも民の不義をご覧になることになります。

1B 役に立たない鍋 1−12
11:1 そのとき、霊が私を引き上げて、主の宮の東に面した東の門に連れて行った。ちょうど、その門の入口には二十五人の者がいて、その中に、私は、民の長であるアズルの子ヤアザヌヤと、ベナヤの子ペラテヤがいるのを見た。

 この25人の人々は、祭司たちではありません。8章で神殿の本堂と祭壇の間で、25人の者たちが東に向かって、太陽を拝んでいたとありましたが彼らは祭司です。けれども、ここは東の門であり、門では町の行政的なことを行なう場となっています。霊的な指導者ではなく、政治や行政の指導者たちです。

 「ヤアザヌヤ」と「ベラテヤ」という具体名が出ていますね。70人の長老が神殿の中で偶像に香を炊いてその中にヤアザヌヤがいましたが、彼とここのヤアザヌヤは違う人です。父親の名前が違います。

 けれども、この実名が出てくるというのは大切です。神の裁きは、抽象的なもの、脅しているだけであって実体のないものではない、ということです。実際のその人々が死ぬことによって、神が実際に裁きを行なわれるのだ、神は生きておられることを、他の人々に知らしめるためです。例えば使徒パウロも、若き牧者テモテに対して、「ヒメナオ」や「アレキサンデル」など個人名を出して、信仰の破船に会ったことを伝えています(1テモテ1:20)。

11:2 主は私に仰せられた。「人の子よ。この者たちは、この町で、邪悪な計画を立て、悪いはかりごとをめぐらし、11:3 『家を建てるにはまだ間がある。この町はなべであり、私たちはその肉だ。』と言っている。11:4 だから、彼らに向かって預言せよ。人の子よ。預言せよ。」

 町が鍋でその住民が肉だ、というのはどうことでしょうか?「家を建てるにはまだ間がある」というのが理解への鍵です。エルサレムは間もなく破壊されます。けれども、その預言を拒んで、町の中にいてもまだ生きることができる、と信じていることです。エルサレムの町そのものが鍋であり、それによって守られていて安全だ。そして私たちは生きることができるのだ、だから家を建てる余裕がある、ということです。

 でも、なぜこれが邪悪な計画で、悪いはかりごとなのでしょうか?それは、主は何度もエルサレムの住民に、ご自分の命令を聞かなければ、必ずエルサレムは破壊されるという預言を聞いていたからです。けれども主ご自身の臨在を求めるよりも、エルサレムの町そのものに安全を求めたからです。

 私たちはこのことを神からの警告として受け止めなければいけません。表向きのものに頼ってはならない、ということです。私は、人々が見て、クリスチャンと認めている。外側では、祈りをし聖書も読む。賛美もし、奉仕さえする。だから私は大丈夫なのだ、という安心感をいだくのなら、まさに「町は鍋であり、私はその肉だ」という考えを抱いているのです。

11:5 ついで主の霊が私に下り、私に仰せられた。「主はこう仰せられる、と言え。イスラエルの家よ。あなたがたはあのように言ったが、わたしは、あなたがたの心に浮かぶことどもをよく知っている。

 「心に浮かぶこと」です。前回の学びでもそうでしたね、長老たちが自分だけの隠れた部屋で、忌まわしい動物などの偶像を拝んでいた時、「主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てた。(8:12」と言っていました。これも心に浮かぶことです。ここでは、「町はなべであり、私たちはその肉だ」という心の思いです。神は、これからの心に思い浮かぶことを問題にしておられます。

 エゼキエル書は、旧約時代の預言でありながら、その内容は新約時代に明らかにされる霊的な真理で満ちています。例えば、後に、父の罪が子に受け継がれるのではなく、それぞれがその罪を負うという真理が語られます。そしてここでは、神殿礼拝という表向きの、物理的な礼拝ではなく、霊とまことの礼拝、御霊による新しい命にある礼拝を取り上げておられます。

 私たちは心を見張らなければいけません。箴言に、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。(4:23」とあります。イエス様はパリサイ派や律法学者の義よりもまさらなければいけないと教え、実際に殺人を犯していなくても、心で兄弟を馬鹿と言うならば、最高法院に連れていかれる。実際に姦淫をしていなくても、情欲をもって女を見るなら、ゲヘナに投げ込まれる、と教えられました。そしてパウロは、「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。(ローマ2:16」と言いました。

11:6 あなたがたはこの町に刺し殺された者をふやし、死体でその道ばたを満たした。11:7 それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたがたが町の中に置いた死体は肉であり、この町はなべである。しかしわたしは、あなたがたをその中から取り出そう。

 主は、彼らの言葉を皮肉り、あてこすっておられます。確かにこの町は鍋であり、そこには肉がある。けれども、それらは鍋に守られた生きた肉ではなく、鍋の中で殺された死んだ肉である、ということです。長老らは、自分たちの家のことは考えていても、人々に正しい裁きを行なわず、むしろ血を流すようなことさえ行なっていました。

 そして次に、「エルサレムによって守られると言っているが、わたしはそこからあなたがたを取り出す」と言われます。

11:8 あなたがたは剣を恐れるが、わたしはあなたがたの上に剣をもたらす。・・神である主の御告げ。・・11:9 わたしはあなたがたを町から連れ出して、他国人の手に渡し、あなたがたにさばきを下す。11:10 あなたがたが剣に倒れ、わたしがイスラエルの国境であなたがたをさばくとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。

 ユダの指導者らは、バビロンに包囲されて、その住民を置いて自分たちだけで逃げました。覚えていますか、王ゼデキヤはヨルダン川の方面、アラバのほうに向かって逃げました。けれども、途中で捕えられて、そしてリブラに連れて行かれます。シリヤのダマスコよりもさらに北にある町です。そこにネブカデネザルがいて、ゼデキヤの目の前で息子たちを虐殺し、そして彼の目を抉り出し、青銅の足かせにかけて、バビロンに捕え移しました。

11:11 この町はあなたがたにとってなべとはならず、あなたがたはその中の肉とはならない。わたしは、イスラエルの国境であなたがたをさばこう。

 リブラの町は、かつてモーセを通して主が約束してくださったイスラエルの地の境界線の町です。民数記3411節に書いてあります。

11:12 あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。あなたがたが、わたしのおきてに従って歩まず、わたしの定めを守らず、あなたがたの回りにいる諸国の民のならわしに従ったからである。」

 エゼキエル書で何度も出てくる、「わたしが主であることを知ろう」がここにも出ています。かつて、モーセに対して、イスラエルをエジプトから贖い出すときに、わたしが主であることを知ろうと言われました(出エジプト6:7)。ここでは、ユダの指導者らに対する裁きにおいて、ご自分がヤハウェであること、ご自分が生きておられることを示す、と言っておられるのです。

2B 離散の地での聖所 13−21
11:13 こうして、私が預言しているとき、ベナヤの子ペラテヤが死んだ。そこで、私はひれ伏し、大声で叫んで言った。「ああ、神、主よ。あなたはイスラエルの残りの者たちを、ことごとく滅ぼされるのでしょうか。」

 エゼキエルの預言が確かに主から来たものであることを他の人々に示すために、先ほど主が言及された者の一人であるペラテヤを殺しました。主は、時にこのようなことを行なわれます。教会の中で偽善の罪を犯したアナニヤとサッピラが倒れて死にました。使徒ヤコブを殺し、神に栄光を帰さないで演説したヘロデ・アグリッパ一世は、その場で倒れて死にました。

 けれどもそれを見て、エゼキエルは衝撃を受けました。すでに二回の捕囚によってユダとエルサレムの人々は激減していたのに、さらに主が滅ぼしてしまわれればもう残されている民までいなくなってしまう、と叫んでいます。

11:14 そのとき、私に次のような主のことばがあった。11:15 「人の子よ。あなたの兄弟、あなたの同胞、あなたの身近な親類の者たち、またイスラエルの全家のすべての者に対して、エルサレムの住民は、『主から遠く離れよ。この地は私たちの所有として与えられているのだ。』と言った。

 酷いですね、彼らは既に捕囚によって連れて行かれた同胞の土地を我が物にして、それは自分たちの土地であると主張しています。彼らの心は本当に悪いです。8章から見てみますと、「主は私たちを見ておられない。私たちを見捨てられたのだから。」10章は、「この町は鍋で、私たちは肉だ。」そして、ここは「主から遠く離れよ」です。

 神に敵対する私たちの肉を如実に表しています。私たちの肉は、神の存在を嫌がります。自分から離れてほしいと願います。そして自分は好き放題、干渉されることもなく、何でもやりたいのです。

 なぜ私たちは祈りの時間が短くなるのでしょうか?肉が嫌がるからです。肉は、自分でやっていきたい、自分の力で物事を掌握したい。隠れたことを自分だけでやっていきたいと願います。祈れば、自分ではなく神に任せなければいけなくなります。祈れば、隠すことはできなくなります。祈れば、鍋すなわち目に見えるものではなく、目に見えない神に拠り頼まなければいけなくなります。だから祈りたくなくなるのです。これが、先に出てきた「邪悪な計画、悪いはかりごと(2節)」です。

11:16 それゆえ言え。『神である主はこう仰せられる。わたしは彼らを遠く異邦の民の中へ移し、国々の中に散らした。しかし、わたしは彼らが行ったその国々で、しばらくの間、彼らの聖所となっていた。』

 エゼキエルは、エルサレムの町の中に残された民がいると思っていました。それで、これでは誰一人いなくなってしまうと叫びました。けれども主は、「あなたがた、捕え移された者たちの中にこそ、わたしが残した民がいる。」と言っておられます。

 そしてエルサレムの長老らは、この町が鍋であると過信していましたが、主は、異邦人の国々で、わたし自身が聖所となると約束してくださっているのです。これは驚くべきことです。ユダヤ人にとって、神殿こそが神が臨在される場であると考えていました。けれども、ここで主ご自身が遠く離れたところで聖所となってくださる、と約束してくださっているのです。

 この約束から、バビロンに捕え移されたユダヤ人によって「シナゴーグ礼拝」が始まりました。神殿がなくなった今、シナゴーグが小さな聖所になるのだという考えです。けれども、それはここに神の意図を取り違えています。主は、「わたしが聖所となる」と言われたのであり、建物を作ることではありません。

 私たちは、主ご自身こそ聖所であるという希望を置かなければいけません。私たちが自分の命の拠り所としなければいけないのは、主ご自身です。経済的な必要、将来への不安、他のあらゆる面において、主こそ自分の命、自分の力、自分の知恵、自分の救いにならなければいけないのです。

11:17 それゆえ言え。『神である主はこう仰せられる。わたしはあなたがたを、国々の民のうちから集め、あなたがたが散らされていた国々からあなたがたを連れ戻し、イスラエルの地をあなたがたに与える。』

 すばらしいですね、主はイスラエルを連れ戻してくださる約束をしてくださっています。これはエゼキエル書36章以降に詳しく預言されています。終わりの日に戻してくださるのです。けれども、これだけでは片手落ちです。主が最も念頭に置かれているのは、物理的に約束の地に戻ること以上に、霊的に約束の方に戻ることです。

11:18 彼らがそこに来るとき、すべての忌むべきもの、すべての忌みきらうべきものをそこから取り除こう。11:19 わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。11:20 それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行なうためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。

 エルサレムから引き抜かれたのは、彼らの心が忌み嫌うべきことに引き寄せられていたからです。けれども、主はそれを変える、新しい霊を与えると約束してくださいました。これが、エレミヤも預言した新しい契約であり、律法を石の板ではなく、心に板に書き記すと言ったものです。御霊によって、心そのものが変えられるということです。

 イエス様がユダヤ人指導者でパリサイ人のニコデモに、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。(ヨハネ3:10」と言われた所以です。ニコデモに対して、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはできません。(5節)」と言われて、ニコデモが、「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。(9節)」と反応したことへの応答です。でも、確かにエゼキエルの預言の中に、新しい霊、御霊による新生があるのです。

 私たちはこのことをしっかりと覚えなければいけません。私たちが変えられるのは霊においてであり、御霊によって新たにされることによってのみである。自分の肉の欲求や、人の意思によるものではない。ただ神によるのだ、ということを肝に銘じておかなければいけません。だから、心が大事なのです。これこそが、神がご自分の聖霊を宿す宮なのですから。

11:21 しかし、彼らの忌むべきものや、忌みきらうべきものの心を、自分の心として歩む者には、彼らの頭上に彼らの行ないを返そう。・・神である主の御告げ。・・」

 終わりの日に、生きているユダヤ人全員が、帰還して、新たに生まれるのではありません。その中でも、やはり反逆する者たちが現れます。彼らに対しては、確かに神の裁きが下ります。

3B オリーブ山へ 22−25
11:22 ケルビムが翼を広げると、輪もそれといっしょに動き出し、イスラエルの神の栄光がその上のほうにあった。11:23 主の栄光はその町の真中から上って、町の東にある山の上にとどまった。

 ついに、町そのものから主の栄光が去りました。今は、東の山、つまりオリーブ山にとどまっています。そしてそのオリーブ山からも去ります。

 ここに栄光が戻ってくることが、エゼキエル書の最後の部分に書いてあります。主がイスラエルを約束の地に連れ戻し、国を再建し、町々を立て、荒野に花を咲かせ、ゴグとマゴグの戦いの後に神殿を新たに建ててくださいます。そして、43章を読んでみます。1節から5節です。「彼は私を東向きの門に連れて行った。すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現われた。その音は大水のとどろきのようであって、地はその栄光で輝いた。私が見た幻の様子は、私がかつてこの町を滅ぼすために来たときに見た幻のようであり、またその幻は、かつて私がケバル川のほとりで見た幻のようでもあった。それで、私はひれ伏した。主の栄光が東向きの門を通って宮にはいって来た。霊は私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。なんと、主の栄光は神殿に満ちていた。」東から戻ってこられて、東の門から入られて、そして内庭を通られて、神殿の中、至聖所に戻ってきたのです。

 ゼカリヤ書14章4節によると、来臨の主はオリーブ山の上に立つと預言されています。主は、オリーブ山のところに再臨されて、そしてそこから東の門を通り、ご自分が造られた神殿の中、聖所の中に入られるのです。

 興味深いことに、主が初めに来られた時、ここで私たちが読んだことと同じことが起こりました。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14」とヨハネ伝にあります。主が肉体を取られたことによって、人々は神の栄光を見ることができました。ところがユダヤ人指導者はその悪い心のために拒みました。それゆえ、主は最後、よみがえられた後、オリーブ山から昇天されました。栄光が去ったのです。

 私たちは、今、主の栄光がどこにあるかを知る必要があります。私たちが、自分の心の中で主をあがめているでしょうか?この方が私たちの主になっておられるでしょうか?どこか横に退けてしまっていることはないでしょうか?そのために、主は離れるのをためらっておられるけれども、その働きかけを継続的に拒んでいやしないでしょうか?真の礼拝者は、霊とまことによって礼拝します。物理的に教会に行くのではなく、実際に心の中で主をあがめているかどうかなのです。

11:24 また、霊が私を引き上げ、神の霊によって幻のうちに私をカルデヤの捕囚の民のところへ連れて行った。そして、私が見たその幻は、私から去って上って行った。11:25 そこで私は、主が私に示されたことをことごとく捕囚の民に告げた。

 この知らせは捕囚の民にとって厳しいことであったと同時に、慰めであったでしょう。自分たちこそが、主ご自身をあがめるときに、そこに聖所となってくださるという約束があるのですから。私たちは、どこにいるかは関係ありません。どこにいても、そこで主のみを自分の頼るべき方にしているかが大事です。