エゼキエル12−14章 「惑わしの預言」
アウトライン
1A 預言の確かさ 12
1B 逃げる君主 1−16
1C エゼキエルの実演 1−6
2C ゼデキヤの逃亡 7−16
2B こわごわ飲み食いする住民 17−20
3B 人々の幻想 21−28
2A 偽預言者 13
1B イスラエルの預言者 1−16
1C 自分の心のままの預言 1−9
2C 上塗りの漆喰 10−16
2B 呪術する女 17−23
3A 預言者のところに来る長老 14
1B 心の中の偶像 1−11
1C 悔い改め 1−8
2C 惑わされる預言者 9−11
2B 四つの刑罰 12−23
1C 自分自身だけを救う三人 12−20
2C 逃れる残りの民 21−23
本文
エゼキエル書12章を開いてください、今日は12章から14章までを学びます。ここでのテーマは、「惑わしの預言」です。
これまで私たちは、神がエルサレムを裁かれる預言を見てきました。4章から7章までには、エゼキエルが横になってエルサレムを包囲する姿を演じて、その実演による預言を行ないました。8章から11章までには、彼を主が霊においてエルサレムの神殿にまで連れて行き、そこでケルビムの上にある主の栄光が徐々にエルサレムから離れる姿を読みました。
そして12章から、再びエルサレムの破壊の預言を読みます。ここまで神の預言を聞いたにも関わらず、イスラエルの民は聞く耳を持たなかったので、新たに別の行動をもって預言を行ないます。
1A 預言の確かさ 12
1B 逃げる君主 1−16
1C エゼキエルの実演 1−6
12:1 ついで、私に次のような主のことばがあった。12:2 「人の子よ。あなたは反逆の家の中に住んでいる。彼らは反逆の家だから、見る目があるのに見ず、聞く耳があるのに聞こうとしない。12:3 人の子よ。あなたは捕囚のための荷物を整え、彼らの見ている前で、昼のうちに移れ。彼らの見ている前で、今いる所から他の所へ移れ。もしかしたら、彼らに自分たちが反逆の家であることがわかるかもしれない。12:4 あなたは、自分の荷物を昼のうちに彼らの見ている前で、捕囚のための荷物のようにして持ち出し、捕囚に行く人々のように、彼らの見ている前で、夕方、出て行け。12:5 彼らの見ている前で、あなたは壁に穴をあけ、そこから出て行け。12:6 彼らの見ている前で、あなたは荷物を肩に負い、暗いうちに出て行き、顔をおおって地を見るな。わたしがあなたをイスラエルの家のためにしるしとしたからだ。」
時は、エホヤキン王がバビロンに捕え移されて、ゼデキヤが治めていた頃です。エルサレムがバビロンに包囲されました。エゼキエルは、これを粘土板にエルサレムの町を描いて、塁を築いて、鉄のなべを立てて、自分自身が横になることによって預言しました。ところが、バビロンが包囲している時に、エルサレムが助けをエジプトに求めていたので、エジプトから軍が戦うために北上しました。そのため、バビロンは包囲を一時解除して、エジプトと戦うために南下しました。
この時に、エルサレムは解放されるという期待が湧き上がりました。これでバビロンは倒れて、エルサレムは自由になり、既に捕え移された民は帰還することができる雰囲気が広がりました。その中で、預言活動も活発になったのです。もう間もなくして主はバビロンを砕かれて、捕囚の民は解放される、という預言です。
そのため、せっかくエゼキエルの預言を聞いていた民と長老たちは、エゼキエルの一連の実演と預言の言葉に多少耳を傾けていたのも関わらず、心が動き出したのです。もしや自分たちは間もなくエルサレムに帰れるかもしれないと思い、神の預言を聞かなくなってきたのです。そこで主は、再びエゼキエルに対して、ちょっとしたパントマイムを、つまり身振りによる一人芝居を行なって、注意を引き寄せなさいと主が命じられました。
2節の、「見る目があるのに見ず、聞く耳があるのに聞こうとしない」のは、私たち人間にある弱さです。真理に対して絶えず、それを見ず、聞こうとしない傾向を私たちは持っています。だからイエス様は、「目を覚ましなさい。」と何度となく言われました。そしてコリント第二3章に、主の御霊によって、私たちの心に掛けられている覆いが取り除かれることが書かれています(16−17節)。だから、御霊を求めることも大切です。
エゼキエルが行なった演技は、捕囚のために家を整えて出て行く様子を描くものでした。しかも、壁に穴を開けて、こっそりと夜に出て行くものでした。人々に見られないために、顔も隠しています。この意味するところを次に主が説明しておられます。
2C ゼデキヤの逃亡 7−16
12:7 そこで、私は命じられたとおりに、私の荷物を捕囚のための荷物のようにして昼のうちに持ち出し、夕方、自分の手で壁に穴をあけ、彼らの見ている前で、暗いうちに荷物を背負って出て行った。12:8 翌朝、私に次のような主のことばがあった。12:9 「人の子よ。反逆の家、イスラエルの家は、あなたに、『何をしているのか。』と尋ねなかったか。12:10 彼らに言え。『神である主はこう仰せられる。この宣告は、エルサレムの君主、およびそこにいるイスラエルの全家にかかわるものである。』
エルサレムの君主です。つまり、当時の王ゼデキヤのことです。
12:11 また言え。『私はあなたがたへのしるしである。私がしたようなことが彼らにもなされる。彼らはとりことなって引いて行かれる。12:12 彼らのうちにいる君主は、暗いうちに荷物を背負って出て行く。出て行けるように壁に穴があけられる。彼は顔をおおうであろう。彼は自分の目でその地をもう見ないからである。』12:13 わたしはまた、彼の上にわたしの網をかけ、彼はわたしのわなにかかる。わたしは彼をカルデヤ人の地のバビロンへ連れて行く。しかし、彼はその地を見ないで、そこで死のう。12:14 わたしはまた、彼の回りにいて彼を助ける者たちや、彼の軍隊をみな、四方に追い散らし、剣を抜いて彼らのあとを追う。
エルサレムがバビロンによって破壊された時のことを思い出してください。王であるゼデキヤがこっそりと町から逃亡したのがそのきっかけです。ここで主がお語りになっている通りのことが起こりました。列王記第二25章を開きましょう。1節から読みます。
ゼデキヤの治世の第九年、第十の月の十日に、バビロンの王ネブカデネザルは、その全軍勢を率いてエルサレムを攻めに来て、これに対して陣を敷き、周囲に塁を築いた。こうして町はゼデキヤ王の第十一年まで包囲されていたが、第四の月の九日、町の中では、ききんがひどくなり、民衆に食物がなくなった。そのとき、町が破られ、戦士たちはみな夜のうちに、王の園のほとりにある二重の城壁の間の門の道から町を出た。カルデヤ人が町を包囲していたので、王はアラバへの道を行った。カルデヤの軍勢が王のあとを追い、エリコの草原で彼に追いついたとき、王の軍隊はみな王から離れて散ってしまった。そこでカルデヤ人は王を捕え、リブラにいるバビロンの王のところへ彼を連れ上り、彼に宣告を下した。彼らはゼデキヤの子らを彼の目の前で虐殺した。王はゼデキヤの両目をえぐり出し、彼を青銅の足かせにつないで、バビロンへ連れて行った。(1-7節)
ゼデキヤは、エゼキエルが演じたように逃げました。アラバへの道、つまりヨルダン川沿いのエリコの辺りです。ところが途中でバビロン軍が追いつきました。そしてイスラエルのはるか北にある、ほとんどユーフラテス上流に届く町、リブラに連れて行かれました。前回学びましたが、そこが神の約束してくださったイスラエルの土地の国境です。リブラにネブカデネザルがいました。そして、彼の息子を虐殺し、本人の目を抉り出し、青銅の足かせにつないでバビロンに連れて行ったのです。
エゼキエル書12章13節にゼデキヤがバビロンに連れて行かれるのに、その地を見ないで死ぬであろう、とあります。これは、預言の成就を知るまでは理解が非常に難しいところです。バビロンに行くのに、その地を見ないで死ぬ?バビロンに行く途中で死ぬのか?矛盾した言葉だ、と思うわけです。事実、ヨセフスは著書「ユダヤ古代誌」に、ゼデキヤはエゼキエルのこの預言を見て、矛盾であるとして拒んだことを書いています。
どうでしょうか?彼は目が抉り取られて、盲目のままバビロンに連れて行かれたのです。ですから、バビロンまで連れて行かれるのですが、その地を目で見ることができず死ぬのです。
私たちは預言に対して、また神の御言葉に対して、自分の頭で理解できないからと言って、それを受け入れないことが愚かな行為であることを知らなければいけません。その時に理解できなくても、いつかどこかの時点で理解できるのです。自分が生きている時には理解が与えられないものがあるかもしれません。あるいは天国に行かなければ分からないものがあるかもしれません。けれども、今行なわなければいけないことは、そのまま受け入れることです。主は語られたとおりに、御言葉を成就されます。
12:15 わたしが彼らを諸国の民の中に散らし、国々に追い散らすとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。12:16 彼らが行く先の諸国の民の中で、自分たちの、忌みきらうべきわざをことごとく知らせるために、わたしが彼らのうちのわずかな者を、剣やききんや疫病から免れさせるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」
主は、エルサレムを破壊すると決めておられました。けれどもユダヤ人を完全に滅ぼすことはお考えになっていませんでした。むしろ、離散の民の中に残っている者たちの中から、ご自分を知るものを造りだそうとされています。
2B こわごわ飲み食いする住民 17−20
エゼキエルは、再び別のパントマイムを命じられます。
12:17 ついで、私に次のような主のことばがあった。12:18 「人の子よ。震えながらあなたのパンを食べ、おののきながら、こわごわあなたの水を飲め。12:19 この地の人々に言え。『神である主は、イスラエルの地のエルサレムの住民について、こう仰せられる。彼らは自分たちのパンをこわごわ食べ、自分たちの水をおびえながら飲むようになる。その地が、そこに住むすべての者の暴虐のために、やせ衰えるからである。12:20 人の住んでいた町々が廃墟となり、その地が荒れ果てるそのとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。』」
比較的に水も食料もあったバビロンの地において、欠乏の中でわずかなパンと水を飲もうとする様子は、さぞかしけったいに見えたことでしょう。けれども、これがエルサレムの陥る姿であることを教えていました。エルサレムが解放されるのとは裏腹に、彼らは続けて包囲されて、中には飢饉が続くのです。
3B 人々の幻想 21−28
12:21 さらに、私に次のような主のことばがあった。12:22 「人の子よ。あなたがたがイスラエルの地について、『日は延ばされ、すべての幻は消えうせる。』と言っているあのことわざは、どういうことなのか。12:23 それゆえ、神である主はこう仰せられると言え。『わたしは、あのことわざをやめさせる。それで、彼らはイスラエルでは、もうくり返してそれを言わなくなる。かえって、その日は近づき、すべての幻は実現する。』と彼らに告げよ。12:24 もう、むなしい幻も、へつらいの占いもことごとく、イスラエルの家からなくなるからだ。12:25 それは、主であるわたしが語り、わたしが語ったことを実現し、決して延ばさないからだ。反逆の家よ。あなたがたが生きているうちに、わたしは言ったことを成就する。・・神である主の御告げ。・・」12:26 さらに、私に次のような主のことばがあった。12:27 「人の子よ。今、イスラエルの家は言っている。『彼が見ている幻はずっと後のことについてであり、はるか遠い将来について預言しているのだ。』12:28 それゆえ、彼らに言え。『神である主はこう仰せられる。わたしが言ったことはすべてもう延びることはなく、必ず成就する。』・・神である主の御告げ。・・」
バビロンの包囲が一時解除されたことについて、イスラエルの人々の預言に対する反応は二つありました。一つは、「包囲され、エルサレムが滅びるという預言は意味のないものになる。消えていく。」というものです。神の預言、神の言葉そのものに対する信頼をなくしました。もう一つは、そのように御言葉そのものを否定していません。けれども、「ずっと後のことについてであり、はるか遠い将来について預言している」ということを話していました。分かりますか、預言を理論上は否定していないのですが、自分の生活とは関わりがないと言って、実際上否定しているのです。
いかがでしょうか?聖書の言葉、特に預言についてこのような態度を取っている人があまりにも多いです。たった今、自分の目にはその預言はそうなっていないように感じる。だから、それは文字通りそのまま受け入れるに値しない、という態度がないでしょうか?
あるいは理論上はあるが、それは今の時代のことではない、と考えます。「再臨はあります。けれども、それはいつか分かりません。千年後かもしれません。」と説明を私は何十回となく教会の中で聞きました。ちょっと待ってください、使徒パウロは、「時は縮まっています。(1コリント7:29)」と言いました。ヤコブは、「主の来られるのが近いからです。(5:8)」と言いました。ペテロは、「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。(1ペテロ4:7)」と聞きました。使徒ヨハネも、「今は終わりの時です。(1ヨハネ2:18)」と言いました。教会の権威である使徒たちは一句同音に、今が終わりの時だ、主の来臨は近いと言っているのです。そして主ご自身が、「しかり、わたしはすぐに来る。(黙示22:20)」と言われたのです。
癒しや奇蹟についての言葉も同じように今の教会は取り扱います。一方で実際は起こらなかったとする説明があり、他方で、理論上は信じているが今の時代には起こらないとします。このような御言葉に対する態度には、力がありません。頭でっかちにはなりますが、いま自分たちに差し迫っている問題には力を持ちません。けれども福音の本質は私たちの知識ではなく、力なのです。「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。(1コリント2:4)」
2A 偽預言者 13
まことの預言、神の預言をこのように受け入れないと、人々は何を信じるようになるでしょうか?今、社会が不安になっており、自分も生活も安定せず何か拠り所が欲しいと願っている時に、それでも預言はない、あるいは、預言は遠い先のことであると言って退けたら、彼らは何を信じるでしょうか?他の何かに頼るようになるのです。本物ではなく偽物を信じるようになるのです。
1B イスラエルの預言者 1−16
1C 自分の心のままの預言 1−9
13:1 次のような主のことばが私にあった。13:2 「人の子よ。預言をしているイスラエルの預言者どもに対して預言せよ。自分の心のままに預言する者どもに向かって、主のことばを聞けと言え。13:3 神である主はこう仰せられる。自分で何も見ないのに、自分の霊に従う愚かな預言者どもにわざわいが来る。
「イスラエルの預言者」と主は呼ばれていますが、もちろん彼らは偽預言者です。けれども、主がそのように呼ばれたのは、人々の間で「イスラエルの預言者」と認められていたからです。イスラエルの預言者と言ったら、「バビロンは倒れて、エルサレムは解放される」と預言していた人を指していたのです。その中で、エレミヤやエゼキエルのような預言者の存在はむしろ異端児でした。何か大切なことを話しているかもしれないが、基本的に極端である。まともに受け入れてはいけない、と考えていたのです。
私たちは正統的なキリスト教会であれば大丈夫と思ってはいけません。教会の中において偽預言者、偽教師が出てくることをペテロは警告しています(2ペテロ1:1)。そしてパウロは、大勢の教師が真理を教えず、空想話をしている時代が来ると教えています(2テモテ3:3‐4)。
彼ら偽預言者の特徴を見てみましょう。「自分の心のまま」を語っていること、また「自分の霊に従」っていることです。自分ではなく神の御霊によって語るのが真の預言です。聖書自体が神の御霊による書物であることを聖書が教えています。「聖書はすべて、神の霊感によるもの(2テモテ3:16)」だとパウロは言いました。つまり神の息が吹き込まれている、ということです。ペテロはこう言いました。「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。(1:20-21)」人間の意志によるものではなく神の聖霊に動かされた、とあります。
ですから祈りつつ、聖霊の助けを得て、聖書を聖書のまま教えていくことこそが、真の預言を語ることになります。聖書だけでは不十分だ、さらに啓示が必要である、さらに知識が必要であるという傾向になったとき危険です。自称、預言者だと言われる人たちもいますし、また聖書だけではなく、社会学、心理学など他の人間の学問も必要だと教える人もいます。
13:4 イスラエルよ。あなたの預言者どもは、廃墟にいる狐のようだ。
主は、エルサレムにしろ、またバビロンにしろ、その町が廃墟になることを語られるときに、そこにジャッカルなど単独で行動する獣が棲みつく話をされます。ここの狐もその一例です。
13:5 あなたがたは、主の日に、戦いに耐えるために、破れ口を修理もせず、イスラエルの家の石垣も築かなかった
「主の日」と言えば、ほとんどが終わりの日、大患難のことを指しますが、ここでは差し迫ったバビロンによる破壊のことです。つまり、バビロンは倒れると預言していたので、人々がエルサレムの町を防御することがなかった、ということです。
13:6 彼らはむなしい幻を見、まやかしの占いをして、『主の御告げ。』と言っている。主が彼らを遣わされないのに。しかも、彼らはそのことが成就するのを待ち望んでいる。13:7 あなたがたはむなしい幻を見、まやかしの占いをしていたではないか。わたしが語りもしないのに『主の御告げ。』と言っている。
偽預言者がやっかいなのが、自分が語っていることを「主の御告げ」と言って権威付けすることです。そのために、人々の心を操作する力を持っています。
13:8 それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたがたは、むなしいことを語り、まやかしの幻を見ている。それゆえ今、わたしはあなたがたに立ち向かう。・・神である主の御告げ。・・13:9 わたしは、むなしい幻を見、まやかしの占いをしている預言者どもに手を下す。彼らはわたしの民の交わりに加えられず、イスラエルの家の籍にも入れられない。イスラエルの地にもはいることができない。このとき、あなたがたは、わたしが神、主であることを知ろう。
これは非常に厳しい言葉です。イスラエルの交わりに入れないというのは、神の契約から外されることを意味します。今の教会時代であれば地獄に行くことを意味します。
2C 上塗りの漆喰 10−16
13:10 実に、彼らは、平安がないのに『平安。』と言って、わたしの民を惑わし、壁を建てると、すぐ、それをしっくいで上塗りしてしまう。13:11 しっくいで上塗りする者どもに言え。『それは、すぐはげ落ちる。』大雨が降り注ぎ、わたしが雹を降らせ、激しい風を吹きつける。13:12 すると、壁が倒れ落ちる。人々はあなたがたに向かって、『上塗りしたしっくいはどこにあるのか。』と言わないだろうか。
かつてエレミヤも同じことを預言しました。「彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。(エレミヤ6:14)」バビロンが倒れると言って平安が来ることを約束したけれども、実際に平安はないと言っています。
エレミヤは、手術が必要であるぐらいの深い傷を、オロナイン軟膏を塗ったら大丈夫だというような例えを話していますが、エゼキエルは「しっくいの上塗り」として例えています。当時、石や煉瓦などで家を建てたとき、石の形が合わず凸凹の所があっても、しっくりで平らにして見た目を良くしていました。
13:13 それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは、憤って激しい風を吹きつけ、怒って大雨を降り注がせ、憤って雹を降らせて、こわしてしまう。13:14 あなたがたがしっくいで上塗りした壁を、わたしが打ちこわし、地に倒してしまうので、その土台までもあばかれてしまう。それが倒れ落ちて、あなたがたがその中で滅びるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。13:15 わたしは、その壁と、それをしっくいで上塗りした者どもへのわたしの憤りを全うして、あなたがたに言う。壁もなくなり、それにしっくいを塗った者どもも、いなくなった。13:16 エルサレムについて預言し、平安がないのに平安の幻を見ていたイスラエルの預言者どもよ。・・神である主の御告げ。・・
しっくいは簡単に剥げ落ちて、剥げ落ちるだけでなくその壁そのものが、激しい雨風によって倒れてしまう、という預言です。
平和ではないのに平和、と思いたいのが私たち人間です。世界の中で「平和」を連呼している人々が大勢います。戦争を起こしている人々を非難する声はありますが、状況はそう簡単なものではありません。中東和平もタカ派のネタニヤフ政権によってこれから後退するであろう、というあまりにも浅はかな分析をマスコミは行ないます。
人々は問題の根っこを見たくないのです。人間の心がいかに邪悪なのかを認めたくありません。平和の君であられるイエス・キリストを受け入れることのみしか、この心を変える希望は一切ないのです。自分が神の前で罪人であることを認めなければ、どんな問題も解決できないのです。
2B 呪術する女 17−23
13:17 人の子よ。自分の心のままに預言するあなたの民の娘たちに、あなたの顔を向け、彼らに預言して、13:18 言え。神である主はこう仰せられる。みなの手首に呪法のひもを縫い合わせ、あらゆる高さの頭に合うようにベールを作って、人々をわなにかける女たちにわざわいが来る。あなたがたは、わたしの民である人々をわなにかけて、自分たちのために人々を生かしているのだ。
女で預言する者に対して主が語られています。「預言」と言っていますが、実際は占いや魔術です。人々は危機の時に、何か将来を保証するものを求めます。その不安に教会は預言を示すことによって応じることができるのです。ペテロがこう言いました。「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。(2ペテロ1:19)」
ところが教会は預言を避けています。先ほど話したように、本物を教えなければ偽物を受け入れます。だからクリスチャンであると言いながら、占いをやってしまう人々も出てくるのです。
もし私たちが占いをするとどうなるかを神はエゼキエルを通して教えてくださっています。18節には、「わなにかけて、自分たちのために人々を生かしている」とあります。自分の生活のために、人々の心をつかんで金儲けするのです。つまり、占いは私たちを占い師たちの奴隷にします。
13:19 あなたがたは、ひとつかみの大麦のため、少しばかりのパンのために、まやかしに聞き従うわたしの民にまやかしを行ない、死んではならない者たちを死なせ、生きてはならない者たちを生かして、わたしの民のうちでわたしを汚した。
「死んではならない者たち」とは主にあって正しい者たちです。「生きてはならない者たち」とは、罪の中に生きているので死ななければいけない人々です。占いは罪の問題を取り扱うことは決してないからです。占いは、人々に呪いがあると教えます。けれども福音の真理は、人々には罪があると教えます。占いは、呪いを取り除くためにあれこれしなければいけないと教えます。福音は、罪を取り除くために、キリストの十字架の御業を受け入れなさいと教えます。
13:20 それゆえ、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、あなたがたが、人々を鳥を取るようにわなをかけたのろいのひもに立ち向かう。それらをあなたがたの腕からもぎ取り、あなたがたが鳥を取るようにわなにかけた人々を、わたしが放す。13:21 わたしは、あなたがたのベールをはがし、わたしの民をあなたがたの手から救い出す。わなにかかった者たちは、もうあなたがたの手のうちにいなくなる。このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。
主がイスラエルの民を占い師から救い出してくださいます。
13:22 あなたがたは、わたしが悲しませなかったのに、正しい人の心を偽りで悲しませ、悪者を力づけ、彼が悪の道から立ち返って生きるようにしなかった。13:23 それゆえ、あなたがたは、もう、むなしい幻も見ることができず、占いもできなくなる。わたしは、わたしの民をあなたがたの手から救い出す。このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。」
正しい人ヨブのことを思い出してください、彼があれだけの苦難を味わったのは、こうした呪いがあるからだと占いなら教えるでしょう。「正しい人の心を偽りで悲しませる」のです。私たちにどんな災難が降りかかっても、ご自分を愛する者、「すなわち、神のご計画にしたがって召された人々にためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる(ローマ8:28)」のです
3A 預言者のところに来る長老 14
1B 心の中の偶像 1−11
1C 悔い改め 1−8
14:1 イスラエルの長老たちの幾人かが来て、私の前にすわった。14:2 そのとき、私に次のような主のことばがあった。14:3 「人の子よ。これらの者たちは、自分たちの偶像を心の中に秘め、自分たちを不義に引き込むものを、顔の前に置いている。わたしは、どうして彼らの願いを聞いてやれようか。14:4 それゆえ、彼らに告げよ。神である主はこう仰せられると言え。心の中に偶像を秘め、不義に引き込むものを自分の顔の前に置きながら、預言者のところに来るすべてのイスラエルの家の者には、主であるわたしが、その多くの偶像に応じて答えよう。14:5 偶像のために、みなわたしから離されてしまったイスラエルの家の心をわたしがとらえるためである。
今度は、預言者のところにくる長老たちにある問題です。なぜ偽預言者がはびこり、人気が出るのか、ここを読むと良く分かります。主の御心を求めて預言者の所に来るとき、実は心の中で神よりも大事にしているもの、偶像を秘めているという問題があるからです。だから、「自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め」ることを行なうのです(2テモテ3:3)。
エゼキエルは旧約時代の預言者であるにも関わらず、心の中の偶像の問題を取り上げています。木や石で造られた偶像を拝むのも偶像礼拝ですが、その偶像が表している肉の欲望を心で抱いているならば、それがそのまま偶像なのです。コロサイ書3章5節にこうあります。「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。(コロサイ3:5)」
14:6 それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。悔い改めよ。偶像を捨て去り、すべての忌みきらうべきものをあなたがたの前から遠ざけよ。
とても重要です。全ては「悔い改め」から始まります。周りの人や環境を変えるのではなく、自分自身を変えるのです。
14:7 イスラエルの家の者でも、イスラエルにいる在留異国人でも、だれでもわたしから離れ、心の中に偶像を秘め、不義に引き込むものを顔の前に置きながら、わたしに尋ね求めようと、預言者のところに来る者には、主であるわたしが答えよう。14:8 わたしがそのような者から顔をそむけ、彼をしるしとし、語りぐさとして、わたしの民のうちから彼を断ち滅ぼすとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。
厳粛な警告です。私たちがただ御言葉を聞くだけで、それを実行しない者であるなら、また、二心のままで罪を悔い改め、悲しみ、それを捨てることがなければ、平気で説教を聴きながら、罪の生活をしているなら、主が顔を背けてしまう、断ち滅ぼされてしまうという結果になります。
2C 惑わされる預言者 9−11
14:9 もし預言者が惑わされて、ことばを語るなら、・・主であるわたしがその預言者を惑わしたのである。・・わたしは彼に手を伸ばして、わたしの民イスラエルのうちから彼を根絶やしにする。14:10 こういう者たちは、自分たちの咎を負う。この預言者の咎は、尋ね求めた者の咎と同じである。14:11 それは、イスラエルの家が、二度とわたしから迷い出ず、重ねて自分たちのそむきの罪によって自分自身を汚さないためであり、彼らがわたしの民となり、わたしも彼らの神となるためである。・・神である主の御告げ。・・」
先ほどと同じ偽預言者の問題ですが、ここでは預言者のところに行く長老たちの話の中で取り上げています。なぜなら、長老たちが聞きたい言葉を知り、それが神の言葉とは違うことを知りながらも、圧力が感じてそれをそのまま神の言葉のように語るからです。
神の言葉を語る者は常にこの圧力を感じます。説教をしているとき、人々に癇癪を起こす言葉を話しているかもしれないという恐れを感じるからです。人々が自分たちの前に置いている偶像、神よりも大事にしているものを知っているので、それをあえて避けて話す誘惑があります。けれども、その圧力に屈してはならないことも知っています
パウロがこのことについて話しました。テサロニケ第一2章にこうあります。「私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。(3‐4節)」
2B 四つの刑罰 12−23
1C 自分自身だけを救う三人 12−20
14:12 次のような主のことばが私にあった。14:13 「人の子よ。国が、不信に不信を重ねてわたしに罪を犯し、そのためわたしがその国に手を伸ばし、そこのパンのたくわえをなくし、その国にききんを送り、人間や獣をそこから断ち滅ぼすなら、14:14 たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブの、これら三人の者がいても、彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。・・神である主の御告げ。・・
ここから興味深い預言が始まります。正しい人の代表的な人物として、「ノア」と「ダニエル」と「ヨブ」という具体名が出ています。注目すべきは、「ダニエル」はエゼキエルと同じ時代に生きていた人であるということです。彼はエゼキエルよりも数年前に、第一バビロン捕囚で捕え移された人ですが、彼がいかに霊的な人であったか、そしてその評判がかなり広まっていたことを、ここから伺い知ることができます。エゼキエル書の次はダニエル書なので、その時に彼の霊性についてじっくり学びたいと思います。
14:15 もし、その地にわたしが悪い獣を行き巡らせ、その地を不毛にし、荒れ果てさせ、獣のために通り過ぎる者もなくなるとき、14:16 たとい、その地にこれら三人の者がいても、・・わたしは生きている。神である主の御告げ。・・彼らは決して自分の息子も娘も救い出すことができない。ただ彼ら自身だけが救い出され、その地は荒れ果てる。
先ほどの裁きは飢饉でしたが、ここでは獣です。そして次は剣です。
14:17 あるいは、わたしがその地に剣を送り、『剣よ。この地を行き巡れ。』と言って、人間や獣をそこから断ち滅ぼすとき、14:18 たとい、その地にこれら三人の者がいても、・・わたしは生きている。神である主の御告げ。・・彼らは決して自分の息子も娘も救い出すことができない。ただ彼ら自身だけが救い出される。
そして四つ目が「疫病」です。
14:19 あるいは、わたしがその地に疫病を送って、人間や獣をそこから断ち滅ぼすために、血を流してわたしの憤りをその地に注ぐとき、14:20 たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブがいても、・・わたしは生きている。神である主の御告げ。・・彼らは決して息子も娘も救い出すことができない。彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。
主は繰り返し、三人の義によって他の人たちが救われることはないことを強調しておられます。ここで思い出すのが、ロトです。アブラハムはソドムを神が滅ぼされることを知って、執り成しを行ないました。「もしかしたら50人の正しい人がその町にいるかもしれません。」と言いました。主は、「もし50人いれば、町全体を赦そう。」と言われました。アブラハムは人数を少しずつ減らして、ついに10人の正しい人がいても、滅ぼされるのですかと尋ねました。主は、10人いても町全体を赦すと言われました。
しかし結局、ロトと未婚の娘の三人のみしか、ソドムの町から救い出されることはありませんでした。町は全部滅び、振り向いたロトの妻は塩の柱になってしまったのです。
主はエルサレムに対して、同じことをお考えになっていました。残りの正しい者たちがいるから、町全体を赦そうという恵みを神は持っておりました。ユダの王の中にヒゼキヤがおりヨシヤがいました。彼らの宗教改革によって、ユダの国を延命してくださったのです。けれどもこの恵みの期間は過ぎてしまいました。不信に不信を重ねた今、そのような恵みによる取り計らいを終られたのです。
パウロはコリントの人たちに、「神の恵みをむだに受けないようにしてください。(2コリント6:1)」と言いました。罪を犯しても何ら裁かれることはない、と思っていたら大間違いです。神は恵みによって忍耐してくださっていますが、それを終了させる期間を定められています。
そして私たちは、「近くに正しい人がいるから、私も助かるだろう。」という期待をかけてはいけません。尊敬するクリスチャンが近くにいる。尊敬する牧師がいて彼は霊的だ。霊的な保護を感じて、主が来られる時に自分も救いにあずかることができるのだ、と考えたら間違いなのです。救いはあくまでも個人的なものであり、神は一人ひとりを見て、信仰があるかどうかを調べられます。「人の子が来るのをも、そのとおりです。そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。(マタイ24:39‐41)」
2C 逃れる残りの民 21−23
14:21 まことに、神である主はこう仰せられる。人間や獣を断ち滅ぼすために、わたしが剣とききんと悪い獣と疫病との四つのひどい刑罰をエルサレムに送るとき、14:22 見よ、そこに、のがれた者が残っていて、息子や娘たちを連れ出し、あなたがたのところにやって来よう。あなたがたは彼らの行ないとわざとを見るとき、わたしがエルサレムにもたらしたわざわいと、わたしがそこにもたらしたすべての事について、慰められよう。14:23 あなたがたは、彼らの行ないとわざとを見て慰められる。このとき、あなたがたは、わたしがそこでしたすべての事はゆえもなくしたのではないことを知ろう。・・神である主の御告げ。・・」
エゼキエルは、おそらくエルサレムの町が滅ぼされることをひどく恐れていました。そこにいる人々が滅ぼされればイスラエルはもう終わってしまう、と思っていたのです。自分たち捕囚の民はもう終わっており、大事なのはエルサレムの住民だと考えていたのです。
この考えを正すために、主は、ノア、ダニエル、ヨブについての預言をお語りになったと考えられます。エルサレムは正しい人がたとえいたとしても、その町は滅ぼされます。これが神の意思です。けれどもエゼキエルが考えるように、それでイスラエルを神が見捨てられるのではありません。エルサレムではなく、捕え移された民たちの中から悔い改める者たちが出てくるようにされたのです
そして彼らが悔い改めるには、エルサレムが破壊される必要があったのです。力はエルサレムの町そのものにあるのではありません。主ご自身であり、主がそこにご自分の名を置かれているからこそ力があるのです。このことを民が知るために、主はあえてエルサレムを一度滅ぼされることを定められたのです。
神は時に、私たちが大切にしているものを失わせることによって、本当に大事なものを育てようとされます。私たちはそれで終わりだと思ってしまいますが、実はわずかに残っているものから再出発をさせてくださるのです。懲らしめは一時的に悲しいものですが、後にいつまでも残る、平和と義の実を結ばせます。
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