1A 森の中のぶどうの木 15
1B 役に立たない枝 1−5
2B 焼き尽くされるエルサレム 6−8
2A 姦淫の女 16
1B 若かった時 1−14
1C 捨てられた赤子 1−5
2C 美しい女王 6−14
2B 身を売る女 15−43
1C 高き所 15−22
2C 国々との姦通 23−34
3C 露にされる女 35−43
3B サマリヤとソドム 44−63
1C 姉妹より酷い堕落 44−52
2C 姉妹も含めた帰還 53−63
本文
エゼキエル書15章を開いてください、今日は15章と16章を学びます。ここでのメッセージ題は、「世に調子を合わせる者」です。
15章から19章まで「例え」による預言があります。エルサレムがバビロンによって滅ぼされることを、その神の裁きがあることを、いろいろな例示によって伝えます。15章では森の中のぶどうの木、16章では姦淫の女です。
イエス様が宣教の働きの途中で、神の御言葉を例えによって語り始められたことを思い出してください。イエス様は、四つの種類の土に落ちる種の例えを語られてから、弟子たちがなぜ群集に例えで話されるのか尋ねられた時、「彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。(マタイ13:13)」と言われました。これはちょうど、私たちが前回学んだ、主がエゼキエルに語られた言葉そのものです。
人々がもはや、単なる言葉によっては聞くことが出来なくなっている時、神は、注意を引き寄せるために例えによって語られることがあります。それで主はエゼキエルに、数々の例えを与えられました。
1A 森の中のぶどうの木 15
1B 役に立たない枝 1−5
15:1 次のような主のことばが私にあった。15:2 人の子よ。ぶどうの木は、森の木立ちの間にあって、その枝が、ほかの木よりどれだけすぐれているのか。15:3 その木を使って何かを作るためにその木は切り出されるだろうか。それとも、あらゆる器具を掛けるためにこれを使って木かぎを作るだろうか。15:4 見よ。それは、たきぎとして火に投げ入れられ、火がその両端を焼き尽くす。その中ほども焦げてしまえば、それは何の役に立つだろうか。15:5 見よ。それが完全なときでも、何も作れないのに、まして、火がそれを燃やして、焦がせば、もう、それで何が作れよう。
ぶどうの木が森の中にある例えです。ぶどうの木はぶどうの実を結ぶからこそ、その価値があるのであり、実を結ばなければ火を起こすための燃料にしかならないということです。
ここで大切なのは「森の中にある」ということです。ぶどうの木が畑の中にあれば、その存在に意味があります。けれども森の木として生えていれば、どうでしょうか?木は倒してその材木を何かの用途に使えますが、ぶどうの木はそれが出来ません。
2B 焼き尽くされるエルサレム 6−8
15:6 それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしはエルサレムの住民を、わたしがたきぎとして火に投げ入れた、森の木立の間のぶどうの木のように、火に投げ入れてしまう。15:7 わたしは彼らから顔をそむける。彼らが火からのがれても、火は彼らを焼き尽くしてしまう。わたしが彼らから顔をそむけるそのとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。15:8 彼らがわたしに不信に不信を重ねたので、わたしはこの地を荒れ果てさせる。・・神である主の御告げ。・・
エルサレムの住民がバビロンの放つ火の中で焼き尽くされることを、ぶどうの木は表しています。
「森の木立」は周りの国々のことを表しています。ユダの民は、周りの諸国と同じように存続したい、つまりこの世の国として存続したいと願いました。彼らは、自分たちが神の所有の民、契約の民であることを忘れて、他の国々が行なっていることと同じことを行なおうとしていたのです。
けれども、彼らはこの世の基準からは、取るに足りない存在であることを知りませんでした。森の中の木のようになりたいと思っても、所詮無理であり、背の伸ばし過ぎです。むしろ、彼ら選びの民だからこそできること、彼らにしかできないことがあります。それは神の証しすることです。これが彼らの存在意義であり、神に対して実を結ぶことがその目的になっていなければいけませんでした。
イエス様は、ご自分が十字架につけられる前夜、弟子たちに対して同じぶどうの木の例えを話されました。「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。(ヨハネ15:6)」この言葉を弟子たちが聞いた時、おそらくエゼキエル書15章の例えを思い出したことでしょう。けれどもイエス様は、「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。(5節)」とも言われました。主に、そして御言葉にとどまっていれば実をたくさん結ばせることができるのです。
私たちが救われたのは目的があります。単に天国への切符を入手するためでなく、実を結ぶために救われました。キリストの似姿に変えられることがその実でありますが、キリストの似姿に変えられることなくして信仰生活を送ることはできないのです。そして、実を結ばせるのは、イエス様とその御言葉にとどまることです。この「とどまる」関係のみが、私たちが生きている意義を見出す存在価値です。
ところが、私たちがこの世に調子を合わせたらどうなるでしょうか?自分も周りの人々と同じように生きたいという誘惑はいつも存在します。教会の中でさえ存在します。なかなか新しい人が来ないからと言って、世で使われているような手法を教会の中に取り入れます。けれども、私たちが持っているもの、唯一、存在意義を見出せるのは、イエス・キリストの福音なのです。福音の中に生きることこそ、私たちが生きていてこの世に役立ちます。
このことを主は、塩の例えによって話されたこともあります。「もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。(マタイ5:13)」私たちが塩気を持っていること、つまり、イエス・キリストのうちにとどまり、その御言葉にとどまっていること、あるいは福音の中に生きること、それが私たちをこの世において生かすのです。
2A 姦淫の女 16
では次に、姦淫の女の例えです。とても長い例えですが、理由は、イスラエルが誕生する時から今に至るまでの長い歴史を、その神とイスラエルとの関係、特にエルサレムとの関係を、男女の関係になぞらえているからです。
1B 若かった時 1−14
1C 捨てられた赤子 1−5
16:1 ついで、私に次のような主のことばがあった。16:2 「人の子よ。エルサレムにその忌みきらうべきわざをよく知らせて、16:3 言え。神である主はエルサレムについてこう仰せられる。あなたの起こりと、あなたの生まれはカナン人の地である。あなたの父はエモリ人、あなたの母はヘテ人であった。16:4 あなたの生まれは、あなたが生まれた日に、へその緒を切る者もなく、水で洗ってきよめる者もなく、塩でこする者もなく、布で包んでくれる者もいなかった。16:5 だれもあなたを惜しまず、これらの事の一つでもあなたにしてやって、あなたにあわれみをかけようともしなかった。あなたの生まれた日に、あなたはきらわれて、野原に捨てられた。
これは、アブラハムがカナン人の地に移り住み、その後、イサクとヤコブがこの地で生きた頃の話です。彼らの親が「エモリ人」であり「ヘテ人」であると言います。もちろんアブラハムは、血縁上、彼らを親としていません。アブラハムの系図は創世記11章にありますが、セムの子孫テラを父としています。
ここで主は、血縁関係ではなく周囲の環境の話をしています。エゼキエルが預言している時には、イスラエルという国と民族は一つの単位を成していますが、当時は何でもなかった旅人であったことを示しています。カナン人の中、カナン人でも勢力を持っていたエモリ人とヘテ人の中に取り囲まれながら生きていました。
そして、その旅人、寄留者としての生活を見捨てられた赤子に例えています。当時、赤ちゃんが母親から産まれた時は、へその緒を切って、水で体を洗うだけでなく、塩で肌をこすって菌を殺す、または抗菌の処置を取りました。そのような処置さえしてもらえなかった、と主は言われています。
事実、アブラハムは、とてつもない大きな神の祝福の約束を神から受け取りながら、生きているうちは、所有の土地と言ったら、ヘブロンに購入したマムレにある洞穴だけだったのです(創世23章)。自分の妻サラを葬り、また後に自分自身も葬られ、また息子、孫のヤコブも葬られるところとなりました。
大きな国民となる、またカナン人の地が自分のものとなる、そして、自分から国々が出てくる、これらの約束が与えられているなら、それなり動きや取り計らいがあってよさそうなものですが、周囲の人々は何も気にかけていませんでした。これが産まれた赤子が捨てられたような状況です。当時は、女の子が生まれたら、このようにする悪い習慣があったそうですが、ユダヤ人の始まりがそうであったと主は言われます。
2C 美しい女王 6−14
16:6 わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、血に染まっているあなたに、『生きよ。』と言い、血に染まっているあなたに、くり返して、『生きよ。』と言った。16:7 わたしはあなたを野原の新芽のように育て上げた。あなたは成長して、大きくなり、十分に円熟して、乳房はふくらみ、髪も伸びた。しかし、あなたはまる裸であった。16:8 わたしがあなたのそばを通りかかってあなたを見ると、ちょうど、あなたの年ごろは恋をする時期になっていた。わたしは衣のすそをあなたの上に広げ、あなたの裸をおおい、わたしはあなたに誓って、あなたと契りを結んだ。・・神である主の御告げ。・・そして、あなたはわたしのものとなった。
主は、彼らがいかに哀れな状態にいたのかを、自分の血の中で、へその緒を付けながらもがいている赤子に例えて強調しておられます。神がいかに彼らを愛し、恋い慕っておられるかを、赤子が成長して若い女性になるまで待ち、彼女と自ら結婚したことを描くことによって描いています。
これは、ヤコブの家族がエジプに下り、そこで羊飼いとして生きているうちに、430年後、大きな民族になっていった様子を描いています。ヤコブが下った時には、70人しかいませんでした。けれども、モーセに率いられてエジプトを出て行く時には、成年男子だけで約60万いました。出エジプト記1章には、イスラエル人がおびただしく増え、すこぶる強くなり、その地に満ちたとあります。そしてエジプト人が苦しめれば苦しめるほど、ますます増え広がったとあります。
それは主が、「生きよ」「生きよ」という言葉を語られたからです。主の言葉には力があります。天と地を作る力がありますが、そのためにイスラエルは強くなったのです。そして、その民を荒野へと導き、シナイ山のふもとで宿営させ、モーセを通して契約を結ばれました。石の板二枚に神の戒めをご自身の指で書き、ご自分が住まわれる幕屋も指示し、彼らが社会生活、また礼拝生活が出来るように、数々の定めも与えられました。
これを、ご自分の衣の裾を彼女に広げて、裸を覆い、契りを結んだと言い表しておられるのです。ルツがボアズに結婚を申し出る時に、彼の足のところで寝て、そして「あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。(ルツ3:9)」と言いましたが、これは結婚をして男女が結ばれることを示す行為でした。
16:9 それでわたしはあなたを水で洗い、あなたの血を洗い落とし、あなたに油を塗った。16:10 わたしはまた、あや織りの着物をあなたに着せ、じゅごんの皮のはきものをはかせ、亜麻布をかぶらせ、絹の着物を着せた。16:11 それから、わたしは飾り物であなたを飾り、腕には腕輪をはめ、首には首飾りをかけ、16:12 鼻には鼻輪、両耳には耳輪をつけ、頭には輝かしい冠をかぶせた。16:13 こうして、あなたは金や銀で飾られ、あなたは亜麻布や絹やあや織り物を着て、上等の小麦粉や蜜や油を食べた。こうして、あなたは非常に美しくなり、栄えて、女王の位についた。
主がモーセを通して、民をご自分のものとしてから、その国が大きくなる様子を神は描いておられます。ヨシュアが約束の地に入り、士師の時代を経て、サウルそしてダビデによる王国時代に入りました。それまで周囲の敵に悩まされていたところが、ダビデの手によって、ペリシテ、モアブ、アモン、エドム等、イスラエルに服するようになってきました。そしてその子ソロモンが王になっていたときは、その地域でもっとも大きな国、栄光と富に輝く国になっていたのです。
興味深いのは、主は、8節で契りを結んでから9節で、彼女を水で洗い、血を洗い落とし、油を塗っていることです。普通はその逆ですね。彼女は花嫁として、自ら水で洗い、血を洗い落とし、油を塗って、その準備をしてから花婿に迎え入れられます。いわゆる「花嫁修業」をしてからでないと、花婿に迎え入れられることはできません。けれども、まだ汚いうちに契りを結んでくださった・・・神の愛と恵みがあります。
主がここの例えで強調されていることは、初めの頃がいかに惨めなものであったかを知らせることが一つです。そしてもう一つは、主が一方的にすべてのことを行なってくださり、ダビデ・ソロモン王朝の栄華にまで至らせた、ということです。主が、「生きよ、生きよ」と呼ばれたから生きるようになり、主が目を留められたから契りを結ぶことができ、そして主がすべて着物や飾り物を用意しておられることです。
「恵み」のギリシヤ語「カリス」の元々の意味は「美」です。完全に堕落してしまった状態から救い出し、主のあらゆる良いもので満たしてくださるその業を「恵み」と呼んでいます。エペソ書には、この麗しさについてはっきりと言い表しています。2章1節からです。6節まで読みます。
あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
これが、見捨てられた赤子の状態です。全く望みのない状態でした。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
神が一方的に憐れんでくださっています。そして神が生かしてくださっています。そして、キリストと共によみがえらせたのも、神ご自身の一方的な業です。そして何と天の所にまで座るという栄光にまで、私たちの尊厳を引き上げてくださいました。ですから、私たちはキリストにあって、あらゆる神の美しさと栄光で自分の身を飾っているのです。エペソ書1章3節には、「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」とあります。
16:14 その美しさのために、あなたの名は諸国の民の間に広まった。それは、わたしがあなたにまとわせたわたしの飾り物が完全であったからだ。・・神である主の御告げ。
ソロモンが王であった時のエルサレムの姿です。覚えていますか、はるばるシェバから、今のサウジアラビアから女王がやって来て、様々な難問をもってソロモンを試しました。彼の名声を聞いていたからです。ソロモンは知恵をもって答えましたが、シェバの女王はソロモンの建てた宮殿と、食卓の料理、給仕をしている者たちの態度、その栄華に息も止まるばかりでした(1列王10章)。王座も飲み物の器もみな純金であり、銀のものはありませんでした。銀は石ころのように見なされていたからです。
エルサレムの名を諸国の民の間に広める・・・これが、主がイスラエルを選び、エルサレムを選ばれた目的です。モーセはイスラエルの民に、「地上のすべての国々の民は、あなたに主の名がつけられているのを見て、あなたを恐れよう。(申命28:10)」と言いました。主はイザヤを通して、「あなたがたはわたしの証人。(イザヤ44:8)」と言われました。人々に神の名を知らせるために、選ばれたのです。
私たちキリスト者も同じです。聖霊の実を結ばせ、それから周りの人々にキリスト・イエスがおられるということを証しするために選ばれました(使徒1:8)。自分だけでこの恵みを溜めておくのではありません、自分からあふれ出て、外にまで押し流すのです。
2B 身を売る女 15−43
ここまではすばらしい、神とエルサレムとの麗しいラブ・ストーリーでした。ここで終わればハッピー・エンドです。ところが、ここから悲劇が始まります。この麗しさ使って他の男たちに身売りしていくのです。
1C 高き所 15−22
16:15 ところが、あなたは、自分の美しさに拠り頼み、自分の名声を利用して姦淫を行ない、通りかかる人があれば、だれにでも身を任せて姦淫をした。16:16 あなたはまた、自分の衣服のいくらかを取り出して、自分のために、まだらに色どった高き所を造り、その上で姦淫を行なった。こんな事はあったことがなく、あってはならないことだ。
ソロモンは数々の女を愛し、その中には他の神々を信じる女たちもいました。そのため、彼はモアブ人の忌むべきケモシュと、アモン人の忌むべきモレクのために、オリーブ山に高き所を築いたとあります。そして王国は分裂し、北イスラエルと南ユダの時代に入りますが、歴代の王たちの多くはソロモンと同じように偶像礼拝を行ないました。
16:17 あなたは、わたしが与えた金や銀の美しい品々を取って、自分のために男の像を造り、それと姦淫を行なった。16:18 あなたはまた、あや織りの着物を取って、それをおおい、わたしの油と、わたしの香とをその前にささげた。16:19 あなたは、わたしが与えたわたしのパンや、あなたに食べさせた上等の小麦粉や、油や、蜜までも、その前にささげてなだめのかおりとした。そうしたのだ。・・神である主の御告げ。・・
先ほど主が自分の妻のために与えられたあらゆる美しい飾り物、また着物を、彼女は切り売りすることにより男の像と姦淫しました。
16:20 あなたはまた、わたしのために産んだ自分の息子や娘たちを取り、その像にいけにえとしてささげて食べさせた。あなたの姦淫はささいなことだろうか。16:21 あなたは、わたしの子どもたちを殺し、これを焼いて、ささげ物とした。
主が偶像礼拝に対して強い憤りと悲しみを覚えられましたが、その中でも我慢がならなかったのがこの幼児犠牲でした。これが、神がエルサレムを敵に手に渡されることを決められた第一原因です。ヒゼキヤの子マナセがこれをエルサレムの中で行ないました(2列王21章)。その後、ヨシヤの宗教改革がありましたが、それは裁きの時を引き伸ばしただけであり(同22:20)、神がエルサレムを裁くことを変えることにはなりませんでした。
カナン人また周囲の異邦人らが行なっていた偶像礼拝には、霊的な不品行のみならず実際の不品行も含んでいました。宗教儀式の中に淫らな行ないがあったのです。アシュタロテの像は乳房が極端に大きく、たくさん乳房があります。これは性的な欲情を駆り立てるためです。今のまさにポルノです。
そのために起こるべくして起こることは、望まない妊娠です。今ならどうしますか?堕胎ですね。これを行なうために当時のモレク崇拝があり、両手の手の平を上に向けて、ちょうど赤ん坊をそこに置くことができるような形になっていて、その像を火で熱くした後に、産まれてきた赤子をそこに置いてモレクに捧げるのです。ポルノと中絶には深い関係があり、またポルノと他の犯罪にも直接的な関連があります。
16:22 あなたは、あらゆる忌みきらうべきことや姦淫をしているとき、かつて自分がまる裸のまま、血の中でもがいていた若かった時のことを思い出さなかった。
主がこの例えを語っておられるその強い動機が、ここにあります。なぜあのような、血の中にもがいている赤子を描かれたのでしょうか?それは、エルサレムがこれを忘れていたからです。自分たちが持っている良き物ものは全て神から来ているのであり、自分たちが神に拾われることがなければ、いかに悲惨な状態にいたかを忘れていたのです。
神の恵みの中にとどまるには、恵みを受ける前の頃を思い出さなければいけません。これは、意識的に、強く努めて行なわなければいけない作業です。私たちがこのことを詳しく述べているペテロ第二1章を読んでみましょう。1章2節から9節までです。
神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。
主がお与えになった栄光と徳があります。そしてそれがあるから、この世にある欲のもたらす滅びから免れていることができます。
こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。
ここです、以前の罪が清められたことを忘れてしまった、どこから来たかを忘れてしまっているのです。だから今の状態がまったく後戻りしていることが分からなくなっているのです。だからペテロが言っているように、あらゆる努力をして、恵みを思い出す必要があります。
2C 国々との姦通 23−34
16:23 あなたはこのすべての悪行の後・・ああ。わざわいがあなたに来る。神である主の御告げ。・・16:24 あなたは自分のために小高い家を建て、どこの広場にも高台を造り、16:25 どこの辻にも高台を築き、通りかかるすべての人に身を任せ、姦淫を重ねて自分の美しさを忌みきらうべきものとした。
単に私的な空間で姦淫を犯すだけではなく、小高い家、広場の高台、辻に身を任せたとあります。つまり公に売春婦として自分の身をさらしているということです。
16:26 あなたは、良いからだをした隣のエジプト人と姦通し、ますます姦淫を重ねてわたしの怒りを引き起こした。
ここから、エルサレムが偶像礼拝だけでなく、外国に拠り頼んでいく話に移ります。主は、ユダが偶像礼拝をすることによって、その国の力を落とされました。そして敵が攻めてくるようにされました。その時にユダは悔い改めて、主の名を呼び求めるのではなくむしろ外国に拠り頼んだ、ということです。その代表格がエジプトです。北からの脅威があれば必ず、南にあるエジプトに外交的、軍事的な援助を求めました。
16:27 見よ。わたしは、あなたに手を伸ばして、あなたの食糧を減らした。そして、あなたを憎む者、あなたのみだらな行ないによってはずかしめを受けたペリシテ人の娘たちの思いのままに、あなたを任せた。
ユダの国に飢饉がもたらされました。また、ペリシテ人がユダの町々を攻め取りました(2歴代28:18)。エジプトなどの大国に頼っても状況は良くなるどころか、悪化したのです。
16:28 あなたはそれでもまだ飽き足らず、アッシリヤ人と姦通した。彼らと姦通しても、まだあなたは飽き足らず、16:29 商業の地カルデヤとますます姦淫を重ねたが、それでも、あなたは飽き足らなかった。
エジプトが駄目ならアッシリヤ、そしてバビロンと、大国から大国へと渡り歩きました。宮殿や神殿にある金銀を貢物にして助けを求めたのです。
16:30 なんとあなたの心は、あえいでいることよ。・・神である主の御告げ。・・あつかましい遊女のするようなこれらのことをことごとく行なって。
肉の欲は私たちを満足させることはできません。刺激から次の刺激へとさらに過激なものを求めます。ユダに、そしてエルサレムに数多くの預言者が、悪い行ないを改めよと何度となく語ったのですが、止めることができなかったのは、ユダの王たちが自分の肉を満足させることができなかったからです。
肉に対しては、それに餌を与えるのを止めるしか方法はありません。バイ菌がいても食べる物がなければ死に絶えるように、餌を与えずに痩せこけさせるのです。暴れて、もがくからと言ってその肉に栄養を与えれば、「もっと欲しい、もっと欲しい。」と喘ぐのみなのです。肉を満たすようなものを与えないことが唯一の道なのです。
16:31 あなたは、どこの辻にも自分の小高い家を建て、どこの広場にも高台を造った。しかし、あなたは報酬をあざけったので、遊女のようではなかった。16:32 姦婦は、自分の夫の代わりに、ほかの男と通じるものだ。16:33 遊女には、すべて代価が支払われるのに、あなたは、自分のほうから持参金をすべての愛人たちに与え、彼らに贈り物をして、四方からあなたのところに来させて姦淫をした。16:34 だから、あなたの姦淫は、ほかの女の場合と反対だ。だれもあなたを求めて姦淫をする者はいなかった。あなたが報酬を支払い、だれもあなたに報酬を支払わなかった。だからあなたは反対のことをしたのだ。
エルサレムが、自分たちの金銀を使って国々の助けを得ようとしている姿は、売春ではなく買春(かいしゅん)によって、姦淫を行なっているということです。自分には男を引き付ける魅力がありません。だから普通はあり得ないのですが、道端で、人目に付くところで、「私は、あなたに一万円あげますから、今日、夜を共にさせてください。」という看板を肩にかけているようなものだ、ということです。
15章の森の木立にあるぶどうの木と同じように、信仰者がこの世に同調すると、不信者が行なっているよりも悲惨な状態になります。この世的な魅力はないのに、その魅力を自分のものにしようと努力するからです。初めから無いものを得ようと頑張るからです。これほど惨めなことはありません。
そしてペテロ第二2章20節に、「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。(2ペテロ2:20)」とあります。この世の人が罪を楽しむように、信仰者は罪を楽しむことができません。けれども信仰者が楽しむことができる霊的な喜び、平安、愛は失われてしまいます。どちらでもないので、もっと悪い状態になるのです。
3C 露にされる女 35−43
16:35 それゆえ、遊女よ、主のことばを聞け。16:36 神である主はこう仰せられる。あなたは、愛人たちや、忌みきらうべき偶像と姦淫をして、自分の恥ずかしい所を見せ、自分の裸をあらわにし、それらに自分の子をささげて血を流したため、16:37 それゆえ、見よ、わたしは今、あなたが戯れたすべての愛人たちや、あなたが恋した者や、憎んだ者をすべて寄せ集め、彼らを四方から集めて、あなたの裸を彼らにさらけ出し、彼らにあなたの裸をすっかり見せよう。
ここで裸を見せるのは、姦淫をするためではなくて、辱め、貶めるためです。私の好きな映画で「バンド・オブ・ブラザーズ」というのがありますが、連合軍がナチス・ドイツと戦うためにヨーロッパに侵攻した時の空挺部隊の話です。あるオランダの町を解放した時、住民が彼らを喜び迎え入れました。若い女性たちが米軍の兵士たちをキスによって歓迎するのですが、その何人かが引っ張り出されて、服をはぎ落とされ、下着姿にさせられ、そして髪の毛をバリカンで丸刈りにされて、住民たちに罵られる場面が出てきます。理由は、その町にナチスが侵略してきたときにナチスの兵士と寝たからだ、ということです。ちょうどここのような場面です。その体はもはや男を誘惑するためのものではなく、侮蔑の対象です。
これはエルサレムがバビロンに包囲され、滅ぼされることを表しています。バビロンだけではなく、実はバビロンに対抗すべく協力していたはずの周辺諸国もこれに加担しています。エゼキエル書25章に、アモンやモアブがエルサレムの滅亡をあざ笑い、エドムやペリシテはこの時に及んでこれまでの怨念を晴らしたことが書かれています。
16:38 わたしは、姦通した女と殺人をした女に下す罰であなたをさばき、ねたみと憤りの血をあなたに注ぐ。16:39 わたしは、あなたを彼らの手にゆだねる。彼らはあなたの小高い家をくつがえし、高台をこわし、あなたの着物をはぎ取り、あなたの美しい品々を奪い取り、あなたをまる裸にしておこう。16:40 彼らは、集団をあおってあなたを襲わせ、石であなたを打ち殺し、剣であなたを切り倒そう。
私たちは、この世に身を任せると、最後はこの世から嫌われることを知らなければいけません。自分が慕い求めているものが、今度はかえって自分を嫌い、貶めることを知らなければいけません。自分は自由だと思っているけれども、滅びの奴隷となっているのです(2ペテロ2:19)
16:41 そのうえ、あなたの家々を火で焼き、多くの女たちの見ている前であなたにさばきを下そう。わたしはあなたの淫行をやめさせる。あなたはもう、報酬を支払わなくなろう。
そうですね、自分が支払うことができなければ、もう自分を相手にする男もいなくなるわけです。エルサレムの町にすべてのものがなくなれば、それ以上、偶像礼拝を行うことも、外国と関係を持つこともできなくなります。
16:42 わたしは、あなたに対するわたしの憤りを静め、わたしのねたみをあなたから遠のける。わたしは心を休め、二度と怒るまい。16:43 あなたが、自分の若かった時のことを思い出さず、かえって、これらすべてのことでわたしを怒らせたので、見よ、わたしもまた、あなたの頭上にあなたの行ないを返す。・・神である主の御告げ。・・あなたはすべての忌みきらうべきわざに、みだらな行ないを加えることは、もうすまい。
ここに安息の、休みの約束があります。神の側と、人の側の両方に安息があります。一つは、神の怒りがこれで満たされたことです。エルサレムを一度、滅ぼされることによって、神はご自分の裁きを完成させるというものです。
私たちは、神の怒りを人間の怒りや憤りといっしょにしてはいけません。人の怒りには怨念があります。憎しみがあり、復讐心があります。けれども神が怒るというのは、あくまでも正義によるものであり、正義を行使することです。公正な裁判の判決を下すのと同じように、感情の爆発や発散ではないのです。
そして神は、ご自分の御子にとってその怒りを全うされたことを知るのは絶対です。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。(ローマ3:25)」すべての怒りをご自分の御子の上に置かれた今、神はもはや私たちにさらに怒りを発せられることはなくなったのです。だから、それ以上、神の怒りを招くとして恐れる必要はないのです。
そして人間の側にも安息が与えられました。「みだらな行ないを加えることは、もうすまい」と主は言われています。自分が肉の欲情に駆られていたのですが、その肉が滅ぼされてしまったので、もはや淫らな行ないをすることができなくなったのです。
パウロが、コリントの教会で近親相姦の罪を犯している者を教会から取り除きなさいと命じましたが、こう書きました。「このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。(1コリント5:5)」サタンに引き渡すとは、具体的には性病にかかったのでしょうか、とにかく肉体的に障害を持ったことには間違いありません。「肉が滅ぼされる」と言っているからです。
けれども、それには目的があって、「それによって彼の霊が主の日に救われるためです」ということです。彼はもはや、肉の働きによる罪を犯すことができなくなったために、主が戻ってこられる日、主が裁かれる日には彼の霊は救われる、ということです。
主は時に、このような懲らしめを与えられることがあります。私たちが元気であれば犯すかもしれない罪を、元気でなくすることによって犯さないようにさせます。ある大きな悲しい出来事かもしれません。自分の名誉が失われることもかもしれません。でも、それによって最も大事なこと、主との霊における関係を維持できます。
3B サマリヤとソドム 44−63
44節から同じく、エルサレムを姦淫の女に例えているのですが、今度は同じ姦淫を行なっている姉妹を紹介しています。姉はサマリヤであり、妹がソドムです。
1C 姉妹より酷い堕落 44−52
16:44 見よ。ことわざを用いる者は、あなたについてこういうことわざを用いよう。『あの母だから、この娘。』と。16:45 あなたは、自分の夫と子どもをきらった母の娘。自分たちの夫や子どもをきらった姉妹があなたの姉妹。あなたがたの母はヘテ人、あなたがたの父はエモリ人であった。
つまり、カナン人らが持っていた悪い性質をエルサレムが引き継いでいる、ということです。カナン人たちが平気で夫を捨てるような者たちであったように、あなたがたも平気で姦淫の罪を犯した、ということです。
16:46 あなたの姉は、その娘たちといっしょに、あなたの左に住んでいるサマリヤであり、あなたの妹は、その娘たちといっしょにあなたの右に住んでいるソドムである。
同じように偶像礼拝また姦淫の罪を犯した者にサマリヤがおり、ソドムがいるということです。サマリヤが左でソドムが右に住んでいるとありますが、西からイスラエルを見ている角度になります。西から見ればサマリヤはエルサレムの左になります。ソドムは死海にある町ですからエルサレムの南であり、右に見えます。
サマリヤは北イスラエルの首都です。だから姉と呼ばれても理解できますが、ソドムはカナン人が住んでおり(創世10:19)、異邦人でした。けれどもここで、偶像礼拝など罪の中に陥ったということで、あなたはソドムの姉妹であってもおかしくないと、主は関連付けておられるのです。
この言葉を聞いていた、捕囚のユダヤ人は相当驚いたに違いありません。ソドムの町は罪の町としての代表格です。そしてサマリヤは初めから金の子牛を拝む罪を犯した背信の代表です。自分たちはこれまでそれらの町々を罪とし、自分を正しいとしていたのです。
16:47 あなたは、ほんのしばらくの間だけ、彼らの道に歩まず、彼らの、忌みきらうべきわざをまねなかったが、ついにあなたのすべての道において、彼らよりも堕落してしまった。
南ユダには、何人かの善い王が起こされました。ダビデの道に歩んだと呼ばれる王たちです。けれども、それによって主はエルサレムを正しいとはしておらず、「ほんのしばらくの間だけ」と言われます。他の多くは堕落しました。
16:48 わたしは誓って言うが、・・神である主の御告げ。・・あなたの妹ソドムとその娘たちは決して、あなたと、あなたの娘たちがしたほどのことはしなかった。16:49 だが、あなたの妹ソドムの不義はこうだった。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き、安逸をむさぼり、乏しい者や、貧しい者の世話をしなかった。16:50 彼女たちは高ぶって、わたしの前で忌みきらうべきことをしたので、わたしはこれを見たとき、彼らを取り除いた。
ソドムの罪は、同性愛の罪として有名であり、ユダの手紙にも「好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めた(7節)」とあります。ロトのところに御使いである男性が二人家に入ると、町中の男たちが、老人から子供まで集まり、「こいつらを知りたい」と言って押し寄せてきました。
けれどもここでは、その忌み嫌うべきことの背景となっていた罪を主は取り上げています。「高慢」です。そして次に、「食物に飽き、安逸をむさぼり、乏しい者や、貧しい者の世話をしなかった。」とあります。ロトがソドムを見たときに、「主の園のように、また、エジプトの地のように、どこもよく潤っていた。(創世13:10)」とありましたが、農業によって豊かな町だったのです。
私たちは仕事で毎日が大変です。けれどももし、働く必要のないほど収入が自動的に与えられたらどうでしょうか?仕事をせず、ただ安逸を貪るだけです。私たち人間は、神の命令によって、自分の財産を神にそして人々に分け与えるようになっています。自分だけのために使う時に、人間が人間として生きることができなくなります。
自分のためだけに余分の財産を残していくと、その後に来るのが余計な考えです。忙しければ考えないことを考えるようになります。それが不自然な性欲だったのです。
16:51 サマリヤもまた、あなたの罪の半分ほども罪を犯さなかった。あなたが彼女たち以上に多くの忌みきらうべきことをしたので、あなたのしたすべての忌みきらうべきことが、あなたの姉妹たちを正しいとした。16:52 あなたも、あなたの姉妹たちをかばった恥を負え。あなたが彼女たちよりももっと忌みきらうべきことをして罪を犯したため、彼女たちがあなたよりも正しいとされたからだ。あなたもはずかしめを受けよ。あなたの姉妹たちを正しいとしたあなたの恥を負え
そんなにユダが悪かったのでしょうか?ユダも悪かったかもしれませんが、人間の尺度から見ればソドムやサマリヤより良かったかもしれません。けれども、主はソドムとサマリヤを正しくしなければいけないほど、エルサレムは悪くなってしまったと責めておられます。
主はいつも、「与えられているもの、任されているものに対する責任」を考えておられます。ご自分が人々に与えておられる知識、啓示、また財産もそうですが、それらが与えられているのは祝福であると同時に責任なのです。「多く任された者は多く要求されます。(ルカ12:48)」と言われました。
そのため、イエス様は同じことを、宣教の本拠地のカペナウムと周辺の町々に対して宣告されたのです。「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。(マタイ11:21-24)」
私たちは、他の人々と自分を比べることを止めなければいけません。自分は世の人たちよりはましな生活をしていると思っていたら、イエス様から同じことを言われてしまいます。主の言葉を多く聞いています。主の御業を経験しています。その啓示と知識に対して私たちは責任があるのです。
2C 姉妹も含めた帰還 53−63
16:53 わたしは彼女たちの捕われ人を帰らせる。ソドムとその娘たちの捕われ人、サマリヤとその娘たちの捕われ人、また彼女たちの中にいるあなたの捕われ人を帰らせる。16:54 それは、あなたが、あなた自身の恥を負い、あなたが彼女たちを慰めたときにしたすべての事によって、あなたが恥じるためである。16:55 あなたの姉妹たち、ソドムとその娘たちは、もとの所に帰り、サマリヤとその娘たちも、もとの所に帰り、あなたとあなたの娘たちも、もとの所に帰って来る。
ここから、主がエルサレムを回復される約束が始まります。けれども、主はそれをエルサレムが恥をかかせるような形で行なわれると言われます。エルサレムが回復する前に、ソドムとサマリヤを立ち直らせると仰られているのです。ユダヤ人にとって、地獄に行くしかないだろうと見下していた人々がまず救いの中に入るのを見て、へりくだらされるのです。
この預言はまず霊的に実現します。ソドムは異邦人の代表格と言ってよいでしょう。神は、キリストにある救いを異邦人にまで及ばせ、それからユダヤ人を救う計画を立てられました。ローマ11章を読むと、イスラエルが倒れたのは異邦人の富のためであり、それからイスラエルが完成するとパウロは預言しています。
そしてサマリヤは、サマリヤ人が救われることによって実現しました。主が地上で宣教の働きをしている時から、サマリヤの女を通してサマリヤ人がイエス様を信じ、そして使徒行伝ではピリポの宣教でサマリヤ人がどんどん救われました。
そして預言は物理的にも実現します。ソドムの地域は再び緑が回復します。エゼキエル書の最後の部分に神殿が回復する約束がありますが、そこから湧き水が流れ、西は地中海に、東は死海に流れるとあります。そして死海の水に魚が棲むようになるとの預言があります。サマリヤもエフライムが回復する預言が数多くあります。
16:56 あなたは、高ぶっていたときには、あなたの妹ソドムを悪いうわさの種にしていたではないか。16:57 しかしそれは、あなたの悪があばかれる前のことであって、今はアラムの娘たちや、その回りのすべての者、およびあなたを回りから侮るペリシテ人の娘たちのそしりとなっている。16:58 あなたは、自分のみだらな行ないと忌みきらうべきわざの報いを受けている。・・主の御告げ。・・
悲しいことですが、これはキリスト教会でも起こっています。教会が世の中の人々の常識からしても、してはならないことをしている時、人々は嘲るのです。
16:59 まことに、神である主はこう仰せられる。わたしはあなたがしたとおりの事をあなたに返す。あなたは誓いをさげすんで、契約を破った。16:60 だが、わたしは、あなたの若かった時にあなたと結んだわたしの契約を覚え、あなたととこしえの契約を立てる。16:61 わたしが、あなたの姉と妹とを選び取り、あなたとの契約には含まれていないが、わたしが彼女たちをあなたの娘としてあなたに与えるとき、あなたは自分の行ないを思い出し、恥じることになろう。
契約の中に入れていない人々が加えられるという、大きな恵みの約束、神の大らかさの約束がここにあります。私たち異邦人のクリスチャンはこの約束の中に入れられているのです。
16:62 わたしがあなたとの契約を新たにするとき、あなたは、わたしが主であることを知ろう。
エレミヤを通して与えられた新しい契約の約束です(31:33)。
16:63 それは、わたしが、あなたの行なったすべての事について、あなたを赦すとき、あなたがこれを思い出して、恥を見、自分の恥のためにもう口出ししないためである。・・神である主の御告げ。・・」
主は、エルサレムがその高ぶり、その誇りを砕き、彼らも神の一方的な憐れみと恵みによって救われることを知ってほしいと願われています。それが初めに出てくる「恥を見る」の「恥」です。そして次の「恥のためにもう口出ししない」の「恥」は、これまで犯した罪をもはや思い出すことはない、ということです。主ご自身がこれまで犯した罪を忘れる、もうないものとした、ということです。何と素晴らしいことでしょうか!
罪を犯したという記憶は残ります。パウロも自分を罪人のかしら(1テモテ1:15)と呼びました。けれども、それがもはや自分を責め立てることは決してしないのです。主イエス・キリストの流された血によって、完全に清められ、洗い流されたことを知っているからです。
だから恵みを覚えましょう。自分は一方的に神によって救われ、キリストの義をいただいたことを知りましょう。そして、ぶどうの木の枝であることを知りましょう。自分を森の木々と背比べする必要はありません。また遊女のように、自分をこの世に訴える必要はないのです。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:2)」
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