1A 神の報復 22
1B 諸々の流血 1−16
2B 金滓 17−22
3B 全ての者の罪 23−31
2A 淫行の娘 23
1B オホラ 1−10
2B オホリバ 11−35
3B 遠くから来る使者 36−49
3A 攻城の日 24
1B 鍋の錆 1−14
2B エゼキエルの妻の死 15−27
本文
エゼキエル書22章を開いてください、今日は24章までを学びます。私たちはついに、エゼキエル書の中にある、エルサレムに対する神の裁きの部分を今日で読み終わります。1章から3章までに、神がエゼキエルを預言者として召された部分があり、4章以降に、エルサレムに対する神の裁きの預言がありました。そして今日は、その最後の部分です。それ以降、25章からは、エルサレムとユダを取り巻く諸国への裁きが、そして33章からイスラエルが復興する預言が始まります。
そして最後の3章のテーマは、「流血の町」です。主がエルサレムに対して語り続け、最後の最後に残された言葉は、これが流血の町だということです。
1A 神の報復 22
1B 諸々の流血 1−16
22:1 次のような主のことばが私にあった。22:2 「人の子よ。あなたはさばくのか。この流血の町をさばくのか。それなら、これにその忌みきらうべきわざを残らず知らせ、22:3 神である主はこう仰せられる、と言え。自分の中で血を流して、自分の刑罰の時を招き、自分の町に偶像を造って自分を汚す町よ。22:4 おまえは自分の流した血で罪に定められ、自分の造った偶像で身を汚し、自分の刑罰の日を近づかせ、自分の刑罰の年を来させた。だから、わたしはおまえを諸国の民のそしりとし、すべての国の笑いぐさとする。
血を流した罪と、それと共に偶像崇拝の罪を神は責めておられます。他の血を流すことは、いろいろな形で行なわれていましたが、神がその中でも最も忌み嫌われたのは、生まれてきた子を偶像に捧げるために火で焼く罪であります。これをマナセの時代は、強制的にユダとエルサレムの住民に行なわせました。列王記第二21章に記されていますが、16節には「マナセは、ユダに罪を犯させ、主の目の前に悪を行なわせて、罪を犯したばかりでなく、罪のない者の血まで多量に流し、それがエルサレムの隅々に満ちるほどであった。」とあります。
22:5 おまえの近くにいる者も、遠くにいる者も、名の汚れた、ひどくかき乱されたおまえをあざ笑う。
エルサレム、かつて神の御名が置かれたその町が、ひどく汚されたことを周囲の諸国が知るようになり、あざ笑うようになるということです。
ちょうどこれは、神の教会において社会一般でも問題になるようなことが起き、それが雑誌やテレビで流れ、一般の人々に知られるようになるのと似ています。自分たちの中で、世と変わらない、いやそれ以上の悪を行なっているという現実です。ペテロが「さばきが神の家から始まる時が来ている(1ペテロ4:17)」と言いました。この問題を主は今エゼキエル書22章で取り扱われています。
22:6 見よ。イスラエルの君主たちはみな、おまえの中で暴力をふるって血を流している。22:7 おまえの中では、父や母は軽んじられ、おまえのところにいる在留異国人は虐待され、おまえの中にいるみなしごや、やもめはしいたげられている。22:8 おまえはわたしの聖なるものをさげすみ、わたしの安息日を汚した。22:9 おまえのうちのある者たちは、血を流そうと他人を中傷し、ある者は丘の上で食事をし、おまえの中でみだらなことをした。22:10 おまえの中では父が裸をあらわされ、おまえの中では、さわりのある女が犯された。22:11 ある者は隣人の妻と忌みきらうべきことをし、またある者は嫁とみだらなことをして身を汚し、ある者はおまえの中で、自分の父の娘である自分の姉妹をはずかしめた。22:12 おまえの中では、血を流すためにわいろが使われ、おまえは利息と高利を取り、隣人を虐待して利得をむさぼった。おまえはわたしを忘れた。・・神である主の御告げ。・・
これだけの具体的な悪が、エルサレムの中で行なわれていました。以前、18章で、ユダヤ人たちが「父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。(2節)」と言った諺を、主が間違っていると言われましたが、まさに彼ら自身が罪悪を行なっていたのです。前の世代の者たちが犯していただけでなく、自分たちも行なっていました。
そしてここで主が取り上げておられる具体的な事は、モーセの律法の中で定められていることばかりです。両親を敬うことは、もちろん十戒にありますね。在留異国人については、あなたがたがエジプトから出てきたのだから、決して虐げてはならないことを主は何度となく命令されました。やもめに対する助けもそうだし、安息日を守ることもそうです。そして性的な乱れについては、レビ記18章で具体的に近親相姦についての戒めがあります。
ですから、主によって既に明らかにされた基準に照らして、彼らがことごとく間違っていることを明らかにされました。私たちはどうでしょうか?コリント第一11章31節で、「もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。」とあります。すでに明らかにされた御言葉の知識によって、自分自身を試すのです。
22:13 見よ。おまえが得た不正な利得と、おまえの中に流された血のために、わたしは手を打ち鳴らす。22:14 わたしがおまえを罰する日に、おまえの心は耐えられようか。おまえの手は強くありえようか。主であるわたしがこれを語り、これをする。22:15 わたしはおまえを諸国の民の中に散らし、国々に追い散らし、おまえの汚れを全く取り除き、22:16 諸国の民が見ている前でおまえにゆずりの地を与える。このとき、おまえは、わたしが主であることを知ろう。」
16節は「ゆずりの地を与える」という訳は、この新改訳だけです。例えば新共同訳、「お前は諸国民の前で自分の罪によって汚される。」とあります、これがもっと本文に近いでしょう。自分たちの間で行なっている罪が、バビロン捕囚によって、周囲の民に知られることになるということです。
2B 金滓 17−22
22:17 次のような主のことばが私にあった。22:18 「人の子よ。イスラエルの家はわたしにとってかなかすとなった。彼らはみな、炉の中の青銅、すず、鉄、鉛であって、銀のかなかすとなった。22:19 それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたがたはみな、かなかすとなったから、今、わたしはあなたがたをエルサレムの中に集める。22:20 銀、青銅、鉄、鉛、すずが炉の中に集められるのは、火を吹きつけて溶かすためだ。そのように、わたしは怒りと憤りをもってあなたがたを集め、そこに入れて溶かす。22:21 わたしはあなたがたをかり集め、あなたがたに向かって激しい怒りの火を吹きつけ、あなたがたを町の中で溶かす。22:22 銀が炉の中で溶かされるように、あなたがたも町の中で溶かされる。このとき、あなたがたは、主であるわたしがあなたがたの上に憤りを注いだことを知ろう。」
神はエゼキエルによって、例えをたくさん語られました。時には実演によっても語られましたが、ここでは火の炉の中から出てきた金滓です。彼らは青銅、錫、鉄、鉛、銀であって、神が試練の火を与えられたということです。本来、これら金属は火の中を通ることによって金滓が出、それで精錬されるのですが、ここでの例えは、なんとすべてが金滓になってしまった、ということです。つまり、何も無くなってしまったということです。エルサレムの住民は、文字通り、バビロンによる火の中で死に絶えてしまいました。
私たちキリスト者は、天に引き上げられて、御国に入るときに、火の中を通ることが預言されています。「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。(1コリント3:12-15)」私たちは、この「各人の働きの真価」を持っているかどうか、吟味する必要があります。
3B 全ての者の罪 23−31
22:23 次のような主のことばが私にあった。22:24 「人の子よ。この町に言え。おまえは憤りの日にきよめられず、雨も降らない地である。
雨が降らないことは、神がその地を裁いておられる、一つの徴です(レビ26:19等)。
22:25 そこには預言者たちの陰謀がある。彼らは、獲物を引き裂きながらほえたける雄獅子のように人々を食い、富と宝を奪い取り、その町にやもめの数をふやした。
「預言者」とありますが、もしかしたら七十人訳の「君主」のことを指し示しているかもしれません。統治者がしている悪だからです。19章では、エホアハズとエホヤキンが人を食べる若獅子に例えられています。そして「陰謀」とありますが、権力を持っている者たちはあからさまに人々を虐げません。隠れて、分からないようにして行なうものです。
22:26 その祭司たちは、わたしの律法を犯し、わたしの聖なるものを汚し、聖なるものと俗なるものとを区別せず、汚れたものときよいものとの違いを教えなかった。また、彼らはわたしの安息日をないがしろにした。こうして、わたしは彼らの間で汚されている。22:27 その町の首長たちは、獲物を引き裂いている狼のように血を流し、人々を殺して自分の利得をむさぼっている。22:28 その町の預言者たちは、むなしい幻を見、まやかしの占いをして、しっくいで上塗りをし、主が語られないのに『神である主がこう仰せられる。』と言っている。22:29 一般の人々も、しいたげを行ない、物をかすめ、乏しい者や貧しい者を苦しめ、不法にも在留異国人をしいたげた。
君主は君主の領域で悪を行なっていましたが、それぞれの部類の人々もみな、その領域で悪を行なっていました。祭司は祭司で聖と俗なるものの違いを明らかにせず、首長らは賄賂によって正しい人を罪に定め、預言者はこれらを悪とせず、上塗りをしました。そして一般の人々も、身近にいる弱者に働きかけませんでした。
上の位にいる人々から一般まで、あらゆる部類の人々が罪を犯していた、ということです。私たちは、自分たち以外の周りを見るのは簡単です。政治家の腐敗、その他、会社の上司、教会の指導者、学校の教師など、他の人々の不足を見るのは簡単ですが、自分自身が負っている重荷はきちんと果たしているでしょうか?
22:30 わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。
これは霊的な意味で神は話しておられます。霊的に、この国を建て直すために働きかける人々はいるのか?と主は尋ねておられます。誰もいなかったわけです。
霊的に破れ口を修理するのは骨の折れることです。ネヘミヤ記のことを思い出してください、エルサレムの城壁の再建において、外部からの反対だけでなく、内部での問題も山積していました。一度、主にあって霊的なことを建て直そうとすると、本当に大変なことなのです。けれども、誰かがやらなければいけません。これがミニストリー、奉仕の働きなのです。キリスト者であれば、一人ひとりに務めが神から任されます。「どうせ壊れているのだから」と思って何もしないことは、神に対する罪なのです。
22:31 それで、わたしは彼らの上に憤りを注ぎ、激しい怒りの火で彼らを絶滅し、彼らの頭上に彼らの行ないを返した。・・神である主の御告げ。・・」
流血に対しては、主は火で報いられました。今でも、ダビデの町の地層の一つで、当時、火で焼かれた家々の灰が積もっているのを見ることができます。
2A 淫行の娘 23
次に神は、非常に長い例えを語られます。二人の娘、女の話です。以前、神が拾ってくださった女が、女王の座から遊女に成り下がった例えを読みましたね(エゼキエル16章です)。同じように、23章には淫行に淫行を重ねる女の話を主は行なわれます。
聖書は、神とイスラエルの関係、またキリストと教会の関係を、結婚関係に例えています。それは、神と私たちとの関係は、一対一の、契約に基づいた、人格的な交わり、真摯な愛の交わりだからです。
多くの日本人は、唯一神と聞くと、排他的であり、時には好戦的であると感じます。けれども、神がご自分以外に他に神々があってはならない、と命じられるのは、一対一でしか得ることのできない愛があるからです。神々と、私たちはそのような関係を持つことができるでしょうか?多くの日本人は、年に一度だけ神社参りをしますが、そこの神とどれだけ親しい関わりを持っているでしょうか?だから、私たち日本人が信じる神々と、聖書の神とは次元が違うし、まったく内容が異なるのです。
これらの神々は、自分の願うことをかなえる手段にしか過ぎません。自分の生活を支配し、導く存在ではありません。もっと突き詰めれば、偶像は自分の欲望を満たす時の手段であります。したがって、偶像礼拝には忌まわしい行ないも付きまといます。このことを主は23章で取り扱われます。
1B オホラ 1−10
23:1 次のような主のことばが私にあった。23:2 「人の子よ。同じ母の娘である、ふたりの女がいた。23:3
彼女たちはエジプトで淫行をし、若いときから淫行をし、その地で彼女たちの胸は抱きしめられ、その処女の乳房はもてあそばれた。23:4 その名は、姉はオホラ、妹はオホリバで、ふたりはわたしのものとなり、息子や娘たちを産んだ。その名のオホラはサマリヤのこと、オホリバはエルサレムのことである。
主は既に、イスラエルの民がエジプトにおいて、その偶像礼拝と忌まわしいことを知ったことを教えられました(20:8参照)。それを離れることができず、荒野においても、また約束の地に入った後でもいつまでも慕い求めているので、主は、約束の地に戻す前に、これら反逆者をえり分けると宣言されました。この例えも、イスラエルの始めであるエジプトから始めています。
そして二人の娘ですが、これは分裂した北イスラエルと南ユダを表しています。北イスラエルの首都はサマリヤであり、ユダの首都はエルサレムです。
名前がそれぞれ「オホラ」「オホリバ」ですが、「オホラ」は「彼女の天幕」という意味です。対して「オホリバ」は、「わたしの天幕は彼女にある」という意味です。主は、ご自分の住まいがエルサレムにあるということを仰られています。主が、サマリヤの女に対して、「救いはユダヤ人から出るのですが、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。(ヨハネ4:22)」と言われましたね。北イスラエルの初代王であるヤロブアムは、その国の南と北に、つまりベテルとダンに金の子牛をもうけ、そこで民が礼拝するようにさせました。そこには神はおられません。けれども、エルサレムにご自分の名を置くと決められました。
23:5 オホラは、わたしのものであったのに、姦通し、その恋人、隣のアッシリヤ人を恋い慕った。23:6 彼らは、青色の衣を着た総督や長官で、すべて麗しい若い男たちであり、馬に乗る騎兵であった。23:7 彼女は彼らと姦通した。彼らはみなアッシリヤのえり抜きの者であった。彼女は恋い慕った者のすべての偶像で自分の身を汚した。23:8 彼女はエジプト以来の淫行をやめようとしなかった。それは、彼女の若いとき、エジプト人が彼女と寝てその処女の乳房をもてあそび、彼女に情欲を注いだからである。23:9 それでわたしは、彼女が恋い慕う恋人たちの手、アッシリヤ人の手に彼女を渡した。23:10 彼らは彼女の裸をさらけ出し、その息子や娘たちを奪い取り、彼女を剣で殺してしまった。こうして、彼女にさばきが下され、彼女は女たちの語りぐさとなった。
北イスラエルが紀元前722年にアッシリヤによって滅ぼされたことを、主はここで述べておられます。その代々の王は、一度も、偶像礼拝をやめることはありませんでしたが、その間にアッシリヤが強くなりました。その強さにあこがれて、アッシリヤに貢物をしました。列王記第二を見ても、イスラエルの王メナヘムが、アッシリヤの王プルに銀一千タラントを与えたとあります(15:19)。
しかしそれによって、アッシリヤと良い関係になることができたかと言うと、その反対で、ペカがイスラエルの王であった時、イスラエルの多くの人々がアッシリヤ王ディグラテ・ピレセルによって捕らえ移されました(2列王15:29)。
さらに、ホセアが王の時に、彼はアッシリヤの王シャマヌエセルに貢物をしていましたが、エジプトの王ソに使者を遣わしてアッシリヤに反逆しました(2列王17:4)。そのためアッシリヤの王はサマリヤを攻略し、イスラエル人を全面的にアッシリヤに捕らえ移したのです。これが紀元前722年のことです。
ですから初めはアッシリヤと淫行を行ない、それからエジプトをも恋い慕い、そのためにアッシリヤが彼女を裸にして、辱めたということです。
2B オホリバ 11−35
23:11 妹のオホリバはこれを見たが、姉よりいっそう恋情を腐らせ、その淫行は姉の淫行よりひどかった。23:12 彼女は隣のアッシリヤ人の総督や長官を恋い慕った。彼らはみな盛装をし、馬に乗る騎兵たちで、麗しい若い男であった。23:13 わたしは彼女が身を汚すのを見たが、ふたりとも同じやり方であった。
北イスラエルがアッシリヤによって滅んだ後、ユダは残っていました。これまでイスラエルが通ってきたことをユダは見ました。にも関わらず、ユダはまったく同じ道を通りました。
ユダの王アハズのことを思い出してください。シリヤと北イスラエルが連合してユダを倒そうと思っていた時のことです。アハズは、預言者イザヤから、何もしなくてもよい、主がこの企みを台無しにしてくださると聞いたのに(イザヤ7章)、彼はアッシリヤの援軍を頼みました。それでシリヤは倒れ、イスラエルも先ほど見たように多くの者が捕え移されました。
そして列王記第二16章を読むと、アッシリヤが滅ぼしたシリヤのダマスコで、ある祭壇を見ました。その見取り図をエルサレムにいる祭司に送り、それと同じものを作って神殿の祭壇の横に据えさせた、とあります。アッシリヤにより頼み、しかもその外国の神を欲したのです。
23:14 彼女は淫行を増し加え、壁に彫られた人々、朱で描かれているカルデヤ人の肖像を見た。23:15 それらは腰に帯を締め、頭には垂れるほどのターバンをつけ、みな侍従のように見え、彼らの出生地カルデヤのバビロン人の姿をしていた。23:16 彼女はそれを一目見ると、彼らを恋い慕い、使者たちをカルデヤの彼らのもとに遣わした。23:17 バビロン人は、彼女のもとに来て、恋の床につき、彼女を情欲で汚した。彼女が彼らによって汚れたものとなったときに、彼女の心は彼らから離れ去った。
ユダはアッシリヤを慕っただけでなく、当時、世界の舞台に台頭しつつあったバビロンも恋い慕いました。
ヒゼキヤ王が、アッシリヤから奇跡的に救われた後のことを思い出してください。彼は、イザヤを通してすぐに死ぬとの宣告を受けましたが、まだ死にたくないと主にお願いすると、主はその祈りをかなえてくださいました。ところが彼のところに、バビロンの王メロダク・バルアダンから使者が来ました。その使者に、ヒゼキヤは宝庫、武器庫の中にある全てのものを見せたのです。そしてイザヤは、「この蓄えられたものが、すべてバビロンに運び去られる日が来る。」と宣言したのです(以上イザヤ39章)。
けれどもバビロンがアッシリヤを倒して、さらに強くなった後、ユダはバビロンに仕えるのではなく、反抗することを願いました。それが17節の、「彼女の心は彼らから離れ去った」とある所以です。
23:18 それでも、彼女は自分の淫行をさらけ出し、自分の裸をあらわした。それで、わたしの心は、かつて彼女の姉から離れ去ったように、彼女からも離れ去ってしまった。
これは深刻な言葉です。主の心が離れ去った、ということです。私たちが執拗に罪を犯し続けると、私たちの思いからついに主が離れて去ってしまう時があります。罪を犯した時に感じていた葛藤、惨めさを感じることはもはやなく、主によって救われた喜びもなくなり、キリストがおられるかどうかさえ、その臨在も意識できなくなります。
23:19 しかし、彼女は、かつてエジプトの地で淫行をしたあの若かった日々を思い出して、淫行を重ね、23:20 ろばのからだのようなからだを持ち、馬の精力のような精力を持つ彼らのそばめになりたいとあこがれた。23:21 このように、あなたはエジプト人があなたの若い胸を抱きしめ、あなたの乳房をもてあそんだあの若い時のみだらな行ないをしきりに望んだ。
バビロンに反逆してからは、エルサレムはエジプトに助けを求めました。バビロンがエルサレムを包囲したときは、途中で、エジプトのパロ・ホフニが軍を出し、バビロンは対抗すべく一時的に包囲を解除しました。このエジプトに頼る姿を、今ここでエジプトの側めになることを望んでいると形容しています。
23:22 それゆえ、オホリバよ、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、あなたの心がすでに離れ去ったあなたの恋人たちを駆り立ててあなたを攻めさせ、四方からあなたを攻めによこす。23:23 彼らはバビロン人、すべてのカルデヤ人、ペコデや、ショアや、コアの人々、それに加えてアッシリヤのすべての人々である。またすべての麗しい若い男、総督、長官、侍従、議官、馬に乗る者たちである。23:24 彼らは、軍馬、戦車、車両、および民の大集団を率いてあなたを攻めに来、大盾、盾、かぶとを着けて四方からあなたを攻める。わたしが彼らにさばきをゆだねるので、彼らは自分たちのさばきに従ってあなたをさばく。
バビロンがエルサレムを攻め取る時、バビロンは既に帝国となっていました。諸国、諸民族を征服した後です。ですから、バビロン軍の中には、いろいろな民族と地域の人々がいたのです。もちろん当時のアッシリヤ人もそこに含まれています。
23:25 わたしはあなたをわたしのねたみとする。彼らは怒って、あなたを罰し、あなたの鼻と耳とを切り取り、残りの者を剣で切り倒す。彼らはあなたの息子や娘たちを連れ去り、残りの者は火で焼き尽くされる。23:26 彼らはあなたの着物をはぎ取り、あなたの美しい品々を奪い取る。23:27 わたしはあなたのみだらな行ないと、エジプトの地以来の淫行をやめさせ、あなたが彼らを仰ぎ見ず、もうエジプトを思い出さないようにする。
以前にも話しましたが、彼女の淫行を止めさせる残された方法は、その肉体も、また着物、装飾品もすべて奪い去ってしまうことです。物理的に淫行を行なわせない方法しか残されていません。エルサレムを主が滅ぼされたのは、そのためです。もうその肉欲さえ抱かなくなさせるためです。
これは辛いことですが、後に魂の救いを得るためには必要なことです。コリントにある教会で近親相姦の罪を行なっていた者について、使徒パウロは、「このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。(1コリント5:5)」と言いました。おそらく性病にかかったとか、肉体に病を負ったのでしょう。けれども、それで彼が自分のしたことを振り返り、罪を悲しみ、悔い改めるなら、必要なことです。
23:28 神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、あなたが憎む者の手、あなたの心が離れ去った者の手に、あなたを渡す。23:29 彼らは憎しみをもってあなたを罰し、あなたの勤労の実をことごとく奪い取り、あなたをまる裸にして捨て去ろう。あなたの淫行と淫乱と売淫の恥はあばかれる。23:30 これらのことがなされるのは、あなたが異邦の民を慕って姦淫をし、彼らの偶像であなたの身を汚したからである。
オホラとアッシリヤとの関係でもそうでしたが、始めは恋い慕う関係であったのに、少し時間が経てば自分の恥をあらわにする憎しみを抱く相手になっていた、ということです。淫行の中に愛はありません。愛は相手を思うことですが、淫行は自分を思い、自分を愛する行為だからです。
ダビデの長男アムノンのことを思い出してください。彼は半兄弟アブシャロムの姉妹タマルを恋い慕って、何もできなくなるほどでした。それで彼はタマルをだまして、自分の部屋に連れて入り、彼女を陵辱したのです。その直後、「ところがアムノンは、ひどい憎しみにかられて、彼がいだいた恋よりもひどかった。(2サムエル13:15)」とあります。
自分が恋い慕うものが、かえって自分を痛めつける、というのが罪です。私たちに罪を魅力的に感じますが、一度それと関係を持つと、ついに同じ罪は私たちを虐げ、滅ぼすようになります。
23:31 あなたが姉の道を歩んだので、わたしは彼女の杯をあなたの手にも渡す。23:32 神である主はこう仰せられる。あなたは姉の杯、深くて大きい杯を飲み、物笑いとなり、あざけりとなる。この杯はあふれるほどに満ちている。23:33 あなたは酔いと悲しみに満たされる。恐怖と荒廃の杯、これがあなたの姉サマリヤの杯。23:34 あなたはこれを飲み、飲み干して、杯のかけらまでかみ、自分の乳房をかき裂く。わたしがこれを語ったからだ。・・神である主の御告げ。・・23:35 それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたはわたしを忘れ、わたしをあなたのうしろに投げやったから、あなたも自分のみだらな行ないと、淫行の責めを負え。」
ユダの人々は既に北イスラエルで起こった悲劇を知っていました。アッシリヤがもたらした恐怖と荒廃は、まさか自分たちには来ないだろうという甘い期待があったかもしれません。けれども、これをあなたがたも受けるのだ、という宣言です。
杯は、しばしば神の怒りを受けるときに使われる表現です。怒りによる苦しみと悲しみを経験することを、神の怒りの杯を飲むと言います。イザヤもエレミヤもこのことを語りました(イザヤ51:17、エレミヤ25:15等)。そして新約聖書の預言書である黙示録には、獣の国の住民が、「神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。(14:10)」とあります。
この杯を、主イエス様はゲッセマネの園で過ぎ去らせてくださるよう祈られたのです。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。(マタイ26:39)」十字架の上で、神の怒りの究極の杯をイエス様は飲み干さなければならなかったのです。
3B 遠くから来る使者 36−49
23:36 主は私に仰せられた。「人の子よ。あなたはオホラとオホリバをさばくか。それなら、ふたりに彼女たちの、忌みきらうべきわざを告げ知らせよ。23:37 彼女たちは姦通し、その手は血に染まっている。彼女たちは自分たちの偶像と姦通し、わたしのために産んだ子どもをさえ、それらのために火の中を通らせて、焼き尽くした。23:38 なお、彼らはわたしに対してこんなことまでし、同じ日に、わたしの聖所を汚し、わたしの安息日を汚した。23:39 偶像のために、自分たちの子どもを殺し、その同じ日にわたしの聖所に来て、これを汚した。彼らはなんと、このようなことをわたしの家の中でした。
自分の子供を偶像に火のいけにえとして捧げ、その同じ日に、なんと神殿の中で礼拝を捧げていました。忌まわしい罪と神への礼拝を共存させることによって、安息日と聖所を汚したと主は言われます。
教会に通う、また聖書を読み、祈りをする、そのようなことを行なってそのすぐ後に汚れた行ないをすれば、ここでやっていることを同じです。コリント人への第一の手紙の中で、遊女のところに通いながら、教会にも集っていた人々に対して、使徒パウロがこう言いました。「あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。『ふたりの者は一心同体となる。』と言われているからです。しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。(6:15-17)」遊女と主を一つにすることだ、とパウロは責めています。
23:40 それなのに、あなたがたは、遠くから来る人々を、使者を遣わして招いた。彼らが来ると、あなたは、彼らのために身を洗い、目の縁を塗り、飾り物で身を飾り、23:41 豪奢な寝台に横たわり、その前に食卓を整え、その上にわたしの香と油とを置いた。23:42 そこでは、のんきなばか騒ぎが聞こえ、都会からの者に、荒野からの大酒飲みが加わった。そして、彼らは、彼女たちの腕に腕輪をはめ、頭には、輝かしい冠をかぶせた。23:43 そこで、わたしは、姦通で疲れきった彼女について考えた。彼らは今、その女と姦淫をしているのではないかと。23:44 彼らは遊女のもとに行くように、彼女のもとに行った。彼らは、みだらな女たち、オホラとオホリバのもとに行った。
バビロンに対抗すべく、パレスチナ地方にある国々は連合して戦おうとしました。それで、エルサレムに周囲の国々から使者が送られてきたことが、エレミヤ書27章に書いてあります。「エドムの王、モアブの王、アモン人の王、ツロの王、シドンの王(3節)」からの使者です。興味深いことに、エゼキエル25章以降の諸国への裁きの中に、これら一つ一つの国への神の復讐が預言されています。彼らはみな、エルサレムが滅んだ時に、歓声をあげて喜んだのです。連合を組んだ相手なのに、イスラエルを元々憎んでいたのです。この憎んでいた相手と、エルサレムは淫乱なことを行なっていたのだよ、と主はここで責めておられます。
23:45 しかし、正しい人たちは、姦通した女に下す罰と殺人をした女に下す罰で彼らをさばく。彼女たちが姦通し、彼女たちの手が血に染まっているからだ。」
今、預言をしているエゼキエルがこの正しい人であるし、またエレミヤがいます。そしてダニエルも同じ時代に生きた正しい人でした。彼らが神の言葉を伝えることによって、彼らに対する裁きを行なっています。
23:46 まことに神である主はこう仰せられる。「わたしは一つの集団を彼らに向けて攻め上らせ、彼女たちを人々のおののきとし、えじきとする。23:47 集団は彼女たちを石で打ち殺し、剣で切り倒し、その息子や娘たちを殺し、その家々を火で焼き払おう。23:48 わたしはこの地からみだらな行ないをやめさせる。すべての女たちは自分自身を戒めて、あなたがたがしたような、みだらな行ないをしなくなる。23:49 あなたがたのみだらな行ないの報いはあなたがたの上に下り、あなたがたはあなたがたの偶像の罪の罰を負わなければならない。このとき、あなたがたは、わたしが神、主であることを知ろう。」
バビロンがエルサレムを破壊することによって、神の裁きが全うされます。
3A 攻城の日 24
1B 鍋の錆 1−14
24:1 第九年の第十の月の十日に、私に次のような主のことばがあった。24:2 「人の子よ。この日、ちょうどこの日の日づけを書きしるせ。ちょうどこの日に、バビロンの王がエルサレムに攻め寄せたからだ。
これは驚くべき預言です。なぜなら、この日はちょうどバビロンがエルサレムの包囲を始めた日であり、その同じ日にエゼキエルがその出来事を知ったからです。当時は、もちろん電話もEメールもありません。エルサレムで起こったことをバビロンで伝え聞くのに、二・三ヶ月はかかります。
だから、エルサレムの包囲が始まった日を前もって伝えることによって、確かにエゼキエルは神の預言を語っていたことが後で証明されるわけです。
ちなみに捕囚の民は、後にエルサレムに起こった出来事の期日を克明に覚えて、断食を行ない始めました。包囲が始まった第九年の第十の月、そして第十一年の第四の月に城壁が破られました。第五の月にバビロンはエルサレムを火で焼きます。さらに第七の月にも断食をしました。バビロンがユダヤ人ゲダルヤを総督として立てましたが、イシュマエルが彼を殺して、残りのユダヤ人はエジプトに下りました。この断食については、ゼカリヤ書7章に書いてあります。
24:3 あなたは、反逆の家に一つのたとえを語って言え。神である主はこう仰せられる。なべを火にかけ、これを据え、水をこれに注ぎ入れよ。24:4 これに肉の切れ、ももと肩の良い肉の切れをみないっしょに入れ、えり抜きの骨でこれを満たせ。24:5 えり抜きの羊を取れ。なべの下には、まきを積み、よく沸騰させて、その中の骨も煮よ。24:6 それゆえ、神である主はこう仰せられる。ああ。流血の町、さびついているなべ。そのさびは落とせない。一切れずつそれを取り出せ。くじで引いてはならない。
再び例えによる預言ですが、エルサレムをしばしば鍋としてユダヤ人自身が表現していたので、エゼキエルの意味するところを彼らはすぐ理解したことでしょう。「この町はなべであり、私たちはその肉だ。(11:3)」という言葉を言っていました。エルサレムにいれば安全である、なべのように外敵から守られると信じていたのです。
主が、ここで鍋に肉と骨を入れそれを煮込む目的を、「錆を落とす」ためであると言っておられるのは興味深いです。私たちが使っている鍋やフライパンの錆は、スポンジやたわしで擦ってもなかなか取れないものです。けれども、ぐつぐつ煮込むような料理を作っている時に、たまたま剥がれ落ちることがありますね。これを主は、期待されていたのです。
この「錆」は彼らの流血の罪です。次にその説明がありますが、煮込んでも錆を落とすことができなかったので、肉を一切れずつ出せと命じておられます。これは、エルサレムから王位に着く者を取り出しなさい、という意味です。エホアハズはエジプトに捕らえ移され、エホヤキンはバビロンに捕らえ移されました。
24:7 彼女の血はまだ、そこにある。彼女はそれを裸岩の上に流し、地面にそれを流さず、これに土をかぶせようともしなかった。24:8 わたしは、憤りをつのらせ、復讐するため、その血を裸岩の上に流させて、これに土をかぶせなかった。
レビ記17章13節に、猟をした獣や鳥の血は、注ぎ出して、土で覆わなければいけないと命じられています。血に肉の命があるからだ、ということです。けれどもエルサレムの住民は、大胆不敵に、あからさまに血を流す罪を犯していた、と神は糾弾しておられます。それで神も、バビロンが残虐な方法で彼らを殺すように仕向けることを宣言しておられます。
24:9 それゆえ、神である主はこう仰せられる。ああ。流血の町。わたしもこれにたきぎを積み上げよう。24:10 まきをふやし、火を燃え立たせ、肉をよく煮、味をつけ、骨も燃やせ。24:11 なべをからにして炭火にかけ、その青銅を熱くして、その中の汚れを溶かし、さびがなくなるようにせよ。
煮込むだけでは錆が取れなかった。そこでそのまま強く燃焼します。その中の料理はすべて燃えてしまい、空になった鍋を続けて火にかけて、それによって錆が剥がれ落ちるようにせよ、とのことです。
私たちが例えば、料理をしている最中に電話が来て、鍋に火をつけたままにして長話をし、コンロに戻ってきたら、食べ物がすべて焦げて、鍋のメッキも変色し、剥がれ落ちる程になっていた、ということを想像すればよいでしょう。
24:12 しかし、その骨折りはむだだった。そのひどいさびはそれから落ちず、そのさびは、なお、火の中にあった。24:13 あなたのみだらな汚れを見て、わたしはあなたをきよめようとしたが、あなたはきよくなろうともしなかった。それでわたしがあなたに対するわたしの憤りを静めるまで、あなたは決してきよめられない。24:14 主であるわたしは言った。それは必ず起こる。わたしはそれを行なって、なおざりにせず、惜しまず、思い直しもしない。あなたの行ないや、わざにしたがって、あなたをさばく。・・神である主の御告げ。・・」
どんなことをしても落ちない錆ですが、これは神ご自身の子イエス・キリストが流された血によってのみしか、落とすことはできません。「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。(ヘブル9:14)」
2B エゼキエルの妻の死 15−27
次は、エゼキエルによる最後の、エルサレムに対する神の裁きの預言です。彼個人の生活に大きな犠牲を伴うものでした。
24:15 次のような主のことばが私にあった。24:16 「人の子よ。見よ。わたしは一打ちで、あなたの愛する者を取り去る。嘆くな。泣くな。涙を流すな。24:17 声をたてずに悲しめ。死んだ者のために喪に服するな。頭に布を巻きつけ、足にサンダルをはけ。口ひげをおおってはならない。人々からのパンを食べてはならない。」24:18 その朝、私は民に語ったが、夕方、私の妻が死んだ。翌朝、私は命じられたとおりにした。
なんと奥さんが死んでしまいました。エゼキエルは祭司なので、近しい者が死んでも、髪の毛を振り乱したり、衣を裂いたりしてはならないという神の命令についてはよく知っていました(レビ記21章)。けれども、ここでは捕囚の民に対する一つの徴として行なっています。
24:19 すると、民は私に尋ねた。「あなたがしていることは、私たちにとってどんな意味があるのか、説明してくれませんか。」24:20 そこで、私は彼らに答えた。「次のような主のことばが私にあった。24:21 『神である主がこう仰せられるとイスラエルの家に言え。見よ。わたしは、あなたがたの力の誇りであり、あなたがたが愛し、心に慕っているわたしの聖所を、汚す。あなたがたが見捨てた息子や娘たちは剣で倒される。24:22 あなたがたはわたしがするようにすることになる。あなたがたは自分の口ひげをおおわず、人々からのパンを食べなくなる。24:23 頭に布を巻きつけ、足にサンダルをはき、嘆いたり泣いたりしないようになる。ただ、自分たちの咎のために朽ち果て、互いに嘆き合うようになる。24:24 エゼキエルはあなたがたのためのしるしとなり、彼がしたとおりを、あなたがたもするようになる。このとき、あなたがたは、わたしが神、主であることを知ろう。
エゼキエルが恋い慕っていたのは妻でしたが、ここでは捕囚の民が恋い慕っていたのはエルサレムの町でした。それが破壊されるときに、大袈裟に泣き悲しんではならないという命令です。
当時のユダヤ人は、近しい人が死んだ時になるべく大きな声を立てて、泣き喚いて、その悲しみを表現するのが慣わしでした。イエス様が会堂管理者ヤイロの家に入られたとき、死んだ娘のために、人々が取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしていた、とあります(マルコ5:38)。これは、プロの泣き屋がいたからです。家族がいかにその亡き人を悲しんでいるのか、その悲しみを周りの人々に伝えるために、泣く人々を雇うのです。
これを大幅に抑制せよ、というのがここでの神の命令です。なぜか?一つは、「互いに嘆き合うようになる」とあります。日常であれば、他の人々は自分の悲しみを聞く余裕があります。だから葬式が成り立ちます。けれども、全ての人が自分の家族、親戚に亡くなった人がいるのです。聞いてくれる人がいないのですから、大袈裟に泣く余地がないのです。
そしてもう一つの理由として「自分の罪のゆえに朽ち果て」とあります。エルサレムが破壊されたことを泣き悲しみ、喚くのではなく、自分の罪のゆえにじっくりと嘆きなさい、という命令です。自分が大切にしているものを失ったとき私たちは大いに悲しみますが、その背後で実は神が自分の罪のために裁かれたのだ、ということを見失うのです。大声を出しているうちに、神の小さな声を聞き損じてしまうのです。
私たちはしばしば後悔はしますが、悔い改めを怠ります。罪の結果を悲しみますが、罪そのものを悲しみません。悪いことをして大きな損失を被って、損失を嘆くことはしても、行なった悪を悔いることはしないのです。これを行ないなさい、じっくりと考えて、深い悔い改めの祈りを行ないなさい、という命令なのです。
24:25 人の子よ。わたしが、彼らの力とするもの、栄えに満ちた喜び、愛するもの、心に慕うもの、彼らの息子や娘たちを取り去る日、24:26 その日、のがれた者が、この知らせを告げにあなたのもとにやって来る。24:27 その日、あなたはのがれて来た者に口を開いて言え。もう黙っていてはならない。あなたが彼らのしるしとなるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。』」
なんと、ここで神は強制的に、エゼキエルがエルサレムに対して物が言えないようにされました。エルサレムが破壊されて、そこから人がバビロンに来て、そのことをエゼキエルに伝えたら、再び口が開くようになるというのです。事実、33章にエゼキエルが再び口を開く場面が出てきます。
覚えていますか、彼が神に召されるとき、神は、「わたしがあなたの下を上あごにつかせるので、あなたは話せなくなり、彼らを責めることができなくなる。(3:26)」と言われました。ちょうど、バプテスマのヨハネの父ザカリヤが、ヨハネが生まれてくるまで物が言えなくなったのと同じです。
ですから物理的に、バビロンによるエルサレム破壊の預言はここで途切れます。次25章から、周辺諸国への神の裁きの預言が始まります。そして実際にエルサレム陥落の知らせが入ったときにエゼキエルが口を開きますが、それで彼らは、「わたしが主であることを知ろう」と神は言われます。
いつ私たちは、神がすべての主であると認めることができるのか?その時まで主は私たちにいつまでも働きかけます。
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