エゼキエル書25−26章 「エルサレムを嘲る者」

アウトライン

1A ユダに支配されていた国々 25
   1B 悲劇を喜ぶ者 (アモン) 1−7
   2B 選びを侮る者 (モアブ) 8−11
   3B 復讐する者 (エドム) 12−14
   4B 執拗に憎む者 (ペリシテ) 15−17
2A 代わりに富む国 (ツロ) 26
   1B 廃墟の町 1−6
   2B 敵の攻撃 7−14
   3B 島々の身震い 15−18
   4B 地下の国 19−21

本文

 エゼキエル書25章を開いてください、今日は25章と26章を学びます。ここでのメッセージ題は「エルサレムを嘲る者」です。

 私たちはとうとう、先週エルサレムに対する神の裁きの預言を読み終えました。エゼキエル書のテーマは「神の栄光」ですが、神のエルサレムに対する裁きがこれほどまでに徹底的なものなのか、と驚きました。罪に対する裁きを私たち人間は、ぼかしてしまいます。そのインパクト、悪い影響力をあまり語りません。けれども、そうすることによって何が起こるかと言いますと、神の栄光が見えなくなります。罪に対して神の裁きが貫徹されるときに、確かに聖なる神がおられることを知り、その栄光を私たちは見ることができます。

 そして25章から32章までで、神はユダの周りの国々に対する裁きを宣言されます。7つの国に対してエゼキエルは預言しています。アモン、モアブ、エドム、ペリシテ、そしてツロに対しては3章に渡り預言しており、エジプトに対しては4章に渡っています。今日はアモン、モアブ、エドム、ペリシテに対する裁きと、ツロに対する裁きの始めの部分を読みますが、これらの国々が裁きを受ける理由は、「エルサレムが倒れ、イスラエルの地が荒れ果てたことを嘲る」ことです。

 聖書には、父祖アブラハムに対して主が語られた、「あなたをのろう者をわたしはのろう。(創世12:2」の原則が終始一貫して働いています。主は、ご自分の民を裁かれる時に異邦の国々を用いられますが、異邦の国々は、そのイスラエルへの攻撃を行なったがゆえに、神によって裁かれています。

 「なぜ、神の裁きのために用いられた器が、かえって裁かれるのか。」と私たちは思うでしょう。けれどもこれは人間の論理です。人間の知識と理解をはるかに超えたところでご自分の思うところを行なわれる、神の主権と摂理をわきまえる必要があります。神は、イスラエルに対してはイスラエルへの裁きを語られます。けれども、諸国の民に対しては諸国の民に語られているのです。それぞれが、神が宣言されていることをそのまま受け入れればよいのです。

 そこで私たちは、イスラエルが神によって裁かれる、ユダヤ人が裁かれる姿を見て、どのような反応をしなければならないのでしょうか?あるいは、ユダヤ人でなくても良いですが、ある人がその罪のゆえに裁かれるのを知った時、私たちはどのような反応をしなければならないのでしょうか?正しい反応は、「恐れおののき、神の栄光をあがめる。」ことです。罪が裁かれるのを見て、畏怖の念を抱き、そこに現れ出た聖い神の栄光をあがめるのです。

 初代教会で、偽善の罪を犯したアナニヤとサッピラがペテロの前で倒れて死んだ事件によって、「教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。(使徒5:11」とあります。そして、主の御業がますます使徒たちを通して現れています。裁きを見て震えおののき、自分の身を慎み、神を恐れかしこみながら生きます。すべては神の栄光のゆえなのです。

 ところが、もし私たちがこれらの裁きを人間的に見て、倒れてしまった人々を侮るのであれば、神のご目的とは反対のことをしていることになります。まるで自分が裁判官にでもなったかのように、その裁きに自分も座するのであれば、そこに神の栄光が全く見えなくなります。

 そこで神は、今度は逆に倒れた人々を嘲る人々をも裁くことによって、ご自分の栄光を現そうとされます。多くのユダヤ人がイエスをメシヤと信ぜず、倒れてしまい、代わりに多くの異邦人がイエスをキリストと信じることによって救われたことについて、使徒パウロが強く警告しています。「枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。(ローマ11:19-22」私たちは同じように、倒れたイスラエルを侮った諸国に対する神の厳しさをこれから読みます。

1A ユダに支配されていた国々 25
1B 悲劇を喜ぶ者 (アモン) 1−7
25:1 次のような主のことばが私にあった。25:2 「人の子よ。顔をアモン人に向け、彼らに預言せよ。25:3 あなたはアモン人に言え。神である主のことばを聞け。神である主はこう仰せられる。わたしの聖所が汚されたとき、イスラエルの地が荒れ果てたとき、ユダの家が捕囚となって行ったとき、あなたは、あはは、と言ってあざけった。

 21章の後半部分で、エゼキエルは既にアモン人に対する神の裁きを預言していました。バビロンがエルサレムを滅ぼしに北からやって来た時、まずアモンを攻めるかエルサレムを攻めるか、肝を使って占いをした箇所です。諸国への裁きの筆頭に挙げられるのが、このアモンです。

 アモンは長年に渡って、イスラエルの敵でした。アブラハムの甥ロトと、その二人の娘の近親相姦の関係で生まれた子がアモンとモアブです。その子孫アモン人は今のヨルダンの北の部分に住み着きました。士師の時代にイスラエルを苦しめていましたが、サウルがアモン人と戦い、ダビデがアモンを制圧しました。

 ソロモンが死んで、イスラエルとユダに対して反抗し始めて、機会があれば攻撃しました。けれども、その間にバビロンというとてつもなく強大な国が出現します。それで、ユダに対して敵意を抱きながらも、ツロとともにエルサレムとバビロンに反抗する連携を取っていました。

 そしてネブカデネザルはアモン、ユダ、ツロを攻めることを考えながら北からやって来ましたが、始めにユダを攻めたのです。その時に、アモンは非常に喜びました。ここに書いてあるとおりです、「あはは」と言って嘲っています。鬱積していたユダに対する怨念を、ここで晴らすことができたわけです。

 私はこの25章を読んだ時、実に時宜にかなった問題だと思いました。米同時多発テロにて、世界貿易センターが倒れたのをカザにいるパレスチナ人が歓声をあげて喜んだのが画面に映りました。彼らはイスラエル人の兵士が自分の手の中に陥るときも、同じです。ただ殺すのではなくリンチにして、文字通り手足をばらばらにし、その性器をもぎ取り、それを手にしてみなの前で喜び踊るのです。アラブ人は敵をこのようにして殺した後、手足をばらばらにするという悪しき習慣を持っていますが、その背後にあるのはこの鬱積した憎しみです。

 私たちはどうでしょうか?前々回も学びましたが、箴言にこういう言葉があります。「あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまずくとき、あなたは心から楽しんではならない。主がそれを見て、御心を痛め、彼への怒りをやめられるといけないから。(24:17-18」敵が倒れたことを喜ぶのではなく、かえって共に悲しむべきです。

25:4 それゆえ、わたしは、あなたを東の人々に渡して、彼らの所有とする。彼らはあなたのうちに宿営を張り、あなたのうちに住まいを作り、あなたの産物を食べ、あなたの乳を飲むようになる。25:5 わたしがラバを、らくだの牧場とし、アモン人の地を羊のおりとするとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。

 アモン人は、エルサレムが倒れた後もユダの地域を不安定にさせて、自分たちにバビロンの目が向かないように仕向けました。エレミヤ書に書いてありますが、バビロンが任命したゲダルヤというユダヤ人を総督にして、ミツパという所で小さなユダヤ人共同体ができつつありましたが、それを良く思っていなかったイシュマエルは、アモンの助けを借りてゲダルヤを暗殺しています。

 けれどもこのアモンも、エルサレムが滅んだ5年後に、モアブとともにネブカデネザルが攻めています。(ヨセフスの「ユダヤ古代誌」にその記録があります。)その後、この地域に「東の人々」つまり、アラブの遊牧民らがやって来て、遊牧生活を送りました。

 「ラバ」はアモンの首都であり、今のヨルダンの「アンマン」です。今でもアンマンの郊外にあるラバの遺跡の辺りには、アラブ人の遊牧民が羊やヤギを飼っています。文字通り預言が成就しているのです。

25:6 まことに、神である主はこう仰せられる。あなたは手を打ち、足を踏み鳴らし、イスラエルの地を心の底からあざけって喜んだ。25:7 それゆえ、わたしは、あなたに手を伸ばし、異邦の民にあなたをえじきとして与え、あなたを国々の民の中から断ち滅ぼし、国々の間から消えうせさせる。このとき、あなたは、わたしが主であることを知ろう。

 今、アモン人が生きているかどうか知っていますか?いませんね。民族として、歴史の中で消えて生きました。ギリシヤの時代、マカバイ家のユダがアモン人と戦い、倒したという記録は残っていますが、それ以降どうなったかは分かりません。だから、「このとき、あなたは、わたしが主であることを知ろう」なのです。エルサレムが倒れたことを喜んだ対価は自分たちが消滅することでした。

2B 選びを侮る者 (モアブ) 8−11
25:8 神である主はこう仰せられる。モアブとセイルは、『見よ、ユダの家は異邦の民と変わらない。』と言った。25:9 それゆえ、わたしは、モアブの山地の町々、その国の誉れであるベテ・ハエシモテ、バアル・メオン、キルヤタイムの町々をことごとくあけ放ち、25:10 アモン人といっしょに、東の人々に渡して、その所有とし、諸国の民の間でアモン人が記憶されないようにする。25:11 わたしがモアブにさばきを下すとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。

 モアブへの裁きです。モアブもアモンと同じく、イスラエルに対する長年の敵です。場所は、アモンの南で、ちょうど死海の東側に位置していました。イスラエルが約束の地に入る前から、モアブの王バラクが預言者バラムを雇ってイスラエルを呪おうとしました。モアブもアモンと同じように、ダビデの時代にイスラエルに従属しました。けれどもその後、モアブもユダに反抗し、バビロンがユダを滅ぼした時にユダを侮りました。

 そのため、先ほどのヨセフスの記録の通り、5年後にネブカデネザルがアモンとともにモアブを制圧しました。そして、アモンと同じように、ナバテア人などアラブ系の遊牧民がそこを支配して、いつしか歴史の中から消えました。

 イザヤ書とエレミヤ書に、モアブの破滅について預言がありますが、彼らの生活は、その地形のため外敵に攻められることがほとんどなかったようです。イスラエル側からヨルダン川の向こうを眺めると、ずっと高地が続いているのを延々と見ますが、それがヨルダンの高地であり生活が非常に安定していたようです。それでエレミヤ書では、彼らが「ぶどう酒のかすの上にじっとたまっていて、器から器へあけられたこともなく(48:11」と表現されています。それで、三つ上げられている町を、「国の誉れ」であったとあります。

 ちなみに、「セイル」は死海の南に広がっている山地であり、エドムをまたいでいます。

 神がモアブを裁かれた理由は、「ユダの家は異邦の民と変わらない。」と言ったことです。「ユダの家は、神によって選ばれた者たちなのに、異邦の民と変わりなく滅んだではないか。」ということです。神の選びを否定したことが彼らの問題でした。

 このことも実に、時宜を得た問題です。今日のキリスト教会において、現代のイスラエルに対する見方が大きく分かれています。イスラエルは、聖書の預言の成就、またはその一部であると見る人々と、そうではなく、他の国々と変わりないと見る人々がいることです。昔、イスラエルの国ができる前は、ユダヤ人について、「彼らは、イエス・キリストを拒んだ民であるから、神の選びから外れた。」と考えるのがキリスト教会の大半でした。それが今も続いているのです。

 いかがでしょうか?この見方はまさにモアブのそれなのです。ローマ人への手紙にて、キリスト教の教理において根幹をなす「信仰の義」について体系的に論じられている手紙にて、「神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。(11:1」とパウロは断じているのです。そして11章を、いかにイスラエルに対する神の選びと召命が変わっていないかを延々と論じることによって費やしています。

 イスラエルとユダヤ人の存在意義を否定しはじめると、必ず、その人の聖書信仰が歪んできます。聖書を神の言葉として受け入れている人が、そのように受け入れられなくなるのです。イスラエルの問題ではなくなり、その人の聖書理解そのもの、そして信仰そのものがおかしくなります。

3B 復讐する者 (エドム) 12−14
25:12 神である主はこう仰せられる。エドムはユダの家に復讐を企て、罪を犯し続け、復讐をした。25:13 それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしはエドムに手を伸ばし、そこから人も獣も断ち滅ぼし、そこを廃墟にする。テマンからデダンに至るまで人々は剣で倒される。25:14 わたしは、わたしの民イスラエルの手によってエドムに復讐する。わたしの怒りと憤りのままに彼らがエドムに事を行なうとき、エドムは、わたしが復讐するということを知る。・・神である主の御告げ。・・

 エドムはモアブの南にある、死海南部の国です。エドムも、アモン・モアブと同じくイスラエル人の遠い親戚です。ヤコブの双子の兄として生まれたエサウは、その長子の権利を失いました。レンズ豆の煮物と引き換えに、エサウはヤコブに長子の権利を売りました。そして父イサクがエサウを祝福しようとした時に、ヤコブはエサウに変装し、その祝福を受けてしまいました。それでエサウは、父イサクが死んだ後でヤコブを殺すと言ったのです。

 この憎しみと復讐心が後の子孫エドム人の特徴となりました。イスラエル人を率いるモーセが、エドムの地を通過させてほしいと頼んだところ、彼らは脅迫して拒みました。アモンとモアブと同じく、ダビデがエドムもイスラエルに従属させましたが、その後、反逆し、ユダの王とエドムの間での戦いが続きます。

 バビロンがエルサレムを攻めた時に、エドムは加勢します。この様子は、エドムへの預言があるオバデヤ書に詳しく載っています。彼らはいつまでも復讐心を抱き、機会があれば憎しみを込めてイスラエルを貶めたのです。

 それゆえ「テマンからデダンに至るまで人々は剣で倒される」とあります。テマンのすぐそばにペトラがあります。今も世界遺産に認定されている、ナバテア人の作った都市を見ることができます。エドムはこのペトラを誇っていたのですが、ナバテア人によって滅ぼされたのです。

 そしてエドムは、バビロンによって滅ぼされたユダの地域に住み着きます、ギリシヤ人とローマ人に「イドマヤ人」と呼ばれます。ギリシヤ時代、マカベヤ家の勇士たちによって彼らは叩かれて、ヨハネ・ヒュルカノスによって強制的にユダヤ教に改宗させられました。その末裔があのヘロデであり、異邦人でありながら形としてはユダヤ教徒であり、ユダヤ人の王となった所以です。ここに「イスラエル人の手によってエドムの復讐する」とあるのは、このマカベヤ家の者たちによって成就しました。

 人をいつまでも恨み、憎むことの弊害を私たちはエドムにおいて見ることができます。ヘブル人への手紙の著者は、エサウの例をとって苦みを抱くことに注意を喚起しています。「そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。(12:15-16」私たちは「汚れる」というと、たいてい不品行や不道徳のことを思い出しますが、苦みや赦せない思い、憎しみも汚れなのです。

 私たちは、憎しみは神の正義とは相容れないものであることを知らないといけません。ある国が他の国を過去の歴史のゆえに憎むことは当たり前になっていますが、私は最近、日本軍が侵攻した国が製作した映画を見ました。エゼキエル書を学んでいた私は、汚された思いでいっぱいになりました。加害者が日本人であれ、誰であれ関係ありません。憎しみを植えつけること自体が正義でもなんでもなく、まったく汚れたこと、神の義にかえって反するものなのです。

4B 執拗に憎む者 (ペリシテ) 15−17
 そして次はペリシテ人です。

25:15 神である主はこう仰せられる。ペリシテ人は、復讐を企て、心の底からあざけって、ひどい復讐をし、いつまでも敵意をもって滅ぼそうとした。25:16 それゆえ神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、ペリシテ人に手を伸ばし、ケレテ人を断ち滅ぼし、海辺の残った者を消えうせさせる。25:17 わたしは憤って彼らを責め、ひどい復讐をする。彼らは、わたしが彼らに復讐するとき、わたしが主であることを知ろう。」

 彼らは地中海の海洋民族であり、出身は「ケレテ」すなわちクレテ島であると言われています。クレテ島には、ペリシテ人の作った遺物が博物館に展示されているそうです。

 ペリシテ人は、古くからイスラエルに敵対していた民族であることは、聖書を通読している人であれば誰でも気づきます。士師の時代、ペリシテ人と戦ったのはサムソンです。神の箱は、内陸まで攻めてきたペリシテ人によって奪い取られました。少年ダビデは、ペリシテ人のゴリヤテと戦いました。他のアモン、モアブ、エドムと同じくダビデがペリシテを制圧しましたが、歴代のユダの王の時代にユダに反抗しています。

 彼らも他の国々と同じく、民族として歴史から消滅しました。ギリシヤ時代にアレキサンダー大王がガザの王を倒して以来、マカベヤ家のハスモン朝の中で同化していったようです。

 彼らもエドムと同じ問題を抱えていました。「心の底からあざけって、ひどい復讐をし、いつまでも敵意をもって滅ぼそうとした」とあります。憎しみと同時に、相手を見下す態度もあったようです。現代のパレスチナ人は、民族はペリシテ人ではありません。彼らはそう主張するのですが、「パレスチナ」という言葉は「ペリシテ人」から来ているのを根拠としています。けれども、性格は受け継いだようです。

 テレビやインターネットの媒体は、ガザ地区の人々がいかにイスラエル軍によって虐げられているかを描きますが、もともと機会があればイスラエルをいつも攻撃するハマスがいるためにイスラエル軍が攻撃しています。生活基盤が整っていないことをイスラエルのせいにしますが、イスラエルを始め、世界中の国々から巨額の援助をパレスチナに対して与えています。そのお金を使ったら、裕福な都市が何個も建てることができるほどだと言われています。そのお金は今どこに行ったのでしょうか?自分たちの生活を良くするために努力するのではなく、いつまでもイスラエルに対する憎しみを晴らすべく、武器購入に用いているのです。

 ペリシテの問題から見えてくるのは、「憎しみからは何も生まれない」です。人を憎しむのは、自分自身を痛めつけることなのだ、ということです。憎まれた本人は、憎まれていることさえ気づいていないことが多いです。被害を受けていません。ところがどんどん憎んでいる本人がその心が蝕まれていくのです。その憎しみを捨てるのは、相手のため以上に自分自身の為なのです。

2A 代わりに富む国 (ツロ) 26
 そして次はツロに対する預言です。26章から28章までに至る長いこの預言は、神の預言の正確性、信憑性を歴史によって裏付けることのできる、驚くべき箇所です。

1B 廃墟の町 1−6
26:1 第十一年のその月の一日に、私に次のような主のことばがあった。

 紀元前586年です。エルサレムがバビロンによって滅ぼされるその年に預言がありました。

26:2 「人の子よ。ツロはエルサレムについて、『あはは。国々の民の門はこわされ、私に明け渡された。私は豊かになり、エルサレムは廃墟となった。』と言ってあざけった。

 ツロも他のイスラエル周辺諸国と同じように、エルサレムの破壊を嘲っています。けれども、その理由が少し違います。「私は豊かになり」とありますね。もっと経済的な理由、物質的な理由から嘲っています。

 ツロは紀元前3000年頃に建てられた、古代文明都市です。この町は非常に小さいですが、一つの都市国家を形成させていました。そして、地中海を舞台としてその海洋力を発展させ、地中海のあちらこちらに植民都市を建てました。そして世界を相手に貿易を始め、とてつもない巨大な富を蓄積させたのです。今で言うなら、石油国ドバイのような存在でしょう。

 イスラエルとの関係において、他の周囲の国々にあるような敵対感情なものはありません。かつてダビデとソロモンは、ツロの王ヒラムと友好関係を結び、神殿と宮殿の木材は、レバノンの杉をツロから輸入しました。

 ここでツロが喜んでいるのは経済的な理由です。その世界貿易にて、ツロは海洋を舞台にしていたものの、陸上は「海の道」と「王の道」の国際幹線道路が通っているイスラエルとユダによって邪魔されていました。その競争相手が今やなくなりました。「国々の民の門はこわされ、私に明け渡された」というのは、町の門にてユダが貿易商人らに関税を徴収していたけれども、今は廃墟となって、ただ通り過ぎるだけでよくなったので、そこをツロが支配することができるようになった、ということです。

 このような金への貪欲、富への貪欲に対して、神は徹底的な裁きを行なわれます。次の26章を読むと、それは黙示録18章に出てくる大バビロンの崩壊とそっくりであり、27章を読むと、その背後にサタンそのものが働いていることを見ることができます。

26:3 それゆえ、神である主はこう仰せられる。ツロよ。わたしはおまえに立ち向かう。海の波が打ち寄せるように、多くの国々をおまえに向けて攻め上らせる。

 打ち寄せる波は、一つの国が攻め上っても、それだけでは倒れることはなく、後の時代にまた別の国が攻め上る姿を表しています。アッシリヤの時代は三人の王が攻め、バビロンのネブカデネザル、そしてギリシヤのアレキサンダー大王が攻めています。非常に小さい国であるにも関わらず、彼らは町を海の中にまで突き出出ている城壁で取り囲み、そして海では非常に優れた海軍を有していたため、大国であってもなかなか倒すことのできない難攻不落の状態でありました。

26:4 彼らはツロの城壁を破壊し、そのやぐらをくつがえす。わたしはそのちりを払い去って、そこを裸岩にする。26:5 ツロは海の中の網を引く場所となる。わたしが語ったからだ。・・神である主の御告げ。・・ツロは諸国のえじきとなり、26:6 畑にいる娘たちも剣で殺される。このとき、彼らはわたしが主であることを知ろう。

 その強い城壁もバビロンのネブカデネザルが破壊します。そして「やぐら」とありますが、「塔」と訳したほうがいいかもしれません。宝石でできたとてつもなく美しいものだったそうで、夜でも光り輝いていました。それそのものが彼らの神、偶像であったそうです。

 そして驚くべきは、ツロが裸岩になるという預言です。これはギリシヤのアレキサンダー大王が行ないました。その土までをもはぎ落とす作業を行ないましたが、その詳しいことは後で出てきます。「ツロ」の名前は「岩」という意味ですが、神は文字通り裸岩にされました。

 そして「海の中の網を引く場所となる」というのも、驚くべき正確な預言です。乾かすために網を引くのは陸の上でなければいけませんね、けれども「海の中」と表現しています。これは文字通り起こりました。以前は海であったところに瓦礫をアレキサンダーが放り投げて、そこを土手道にしました。それが長い期間によって半島になりました。その上で、今、レバノンの漁師は網を引いて乾かしています。このことも、また後で詳しく説明します。

 そして6節、「畑にいる娘たち」とありますが、他の訳では「周囲の町々(新共同訳)」と訳しています。当時、大きな町の周囲にある町々をこう呼んでいたそうです。けれども文字通り娘たちであっても、実際に数多くの女性が殺されましたので、これも預言の成就です。

2B 敵の攻撃 7−14
26:7 まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、王の王、バビロンの王ネブカデレザルを、馬、戦車、騎兵をもって多くの民の集団とともに、北からツロに連れて来る。26:8 彼は畑にいる娘たちを剣で殺し、おまえに向かって塁を築き、塹壕を掘り、大盾を立て、26:9 城壁くずしをおまえの城壁に向けて配置し、やぐらを斧で取りこわす。26:10 その馬の大群の土煙はおまえをおおう。彼が城門にはいるとき、打ち破られた町にはいる者のように、騎兵と、車両と、戦車の響きに、おまえの城壁は震え上がる。26:11 彼は、馬のひづめで、おまえのちまたをすべて踏みにじり、剣でおまえの民を殺し、おまえの力強い柱を地に倒す。

 ネブカデネザルは、エルサレムを紀元前586年に倒すと、今度はツロに向かいました。エルサレムは包囲して2年間弱で倒れましたが、ツロも短い期間の包囲で倒せると言いました。ところが、13年かかっています。

 なぜか?ツロには自分たちの味方である地中海があるからです。城壁をバビロンが包囲しても、海のほうから必要な物資をツロは調達しています。ツロの海軍は世界で最も強力だったので、バビロンでも太刀打ちできません。

 それでも、町にいる人々はバビロンの包囲に嫌気が差してきました。10節にあるように、馬の鳴き声や、戦車の響きで本当にうるさいです。そして土煙が舞い上がるので、奥さんが家がすぐにほこりで汚くなります。そこでツロの住民は海岸から1キロ近く離れたところにある島に移り住みました。少しずつツロの町にあるものを島のほうに動かしていきました。

 そしてついに13年目にネブカデネザルが城壁を崩したときには、ツロの町の中はがらんどうだったのです。それで彼は怒りくるって、その中にある建物をみな破壊して瓦礫の山とさせました。そのことが2918節にこう書いてあります。「人の子よ。バビロンの王ネブカデレザルはツロ攻撃に自分の軍隊を大いに働かせた。それで、みなの頭ははげ、みなの肩はすりむけた。それなのに、彼にも彼の軍隊にも、ツロ攻撃に働いた報いは何もなかった。」略奪品が何もなかったのです。

26:12 おまえの財宝は略奪され、商品はかすめ奪われ、城壁はくつがえされ、住みごこちのよい家は取りこわされ、石や、木や、ちりまでも、水の中に投げ込まれる。26:13 わたしはおまえの騒がしい歌をやめさせる。おまえの立琴の音ももう聞かれない。26:14 わたしはおまえを裸岩とする。おまえは網を引く場所となり、二度と建て直されない。主であるわたしが語ったからだ。・・神である主の御告げ。・・

 日本語訳では分かりませんが12節から主語の代名詞が変わっています。11節までは、ネブカデネザルを指し示す「」が主語でしたが、12節からは「彼らは」となっています。一つの出来事の預言のように見えるこの箇所は実は、二つの大きなツロ攻撃の出来事を描いていたのです。

 これは紀元前332年に起こりました。時はギリシヤのアレキサンダーが遠征に進みます。彼はペルシヤと戦うべく東に進みたかったのですが、まずその前にパレスチナ地方の国々を制圧し、そしてエジプトを倒さなければいけません。ペルシヤと戦っている時に後ろから叩かれる可能性があるからです。

 それで南下しましたが、ツロに対して平和裏に引き下がってほしいと願い使者を送りましたが、ツロは無残にも殺してしまいました。それでアレキサンダーは、その新しい島にあるツロを倒すべく行動に移しました。

 海から船で、城壁に囲まれたその島を攻略することは全然できませんでした。そこでアレキサンダーはとんでもないことを考えつきました。陸から島までの土手道を作ることです。ツロに残っている瓦礫を海の中に放り込み、そしてツロの土で平らにして、城壁崩しを前に少しずつ進めたのです。ツロの住民は最初馬鹿にしていましたが、ついに城壁が崩れ、町の中に一番先に入ったのは、本人アレキサンダーだと言われています。そしてツロの町を徹底的に破壊し、住民を奴隷として捕らえ移しました。この土手道について、エゼキエルは、「石や、木や、ちりまでも、水の中に投げ込まれる。」と預言したのです。

 ツロの町は200年前まで、半島と考えられていました。上空からの写真を撮ると、確実に半島です。そのため、ネブカデネザルとアレキサンダーによるツロ攻略の話しの信憑性を疑う人々もいました。ところが、考古学者の人たちがここを訪れた時に、裸石の上で網を引いている漁師に話しかけましたが、その裸石をじっくり見るとそれは天然のものではなく、人工のものであることに気づいたのです。土手道は、長年かけて、海流によって土が回りに堆積し、半島になったのです。

 ここまで正確に、詳細に起こることを言い当てるのは、天文学的数字の確立になります。だから、主は「主であるわたしが語ったからだ。」と言われているのです。

3B 島々の身震い 15−18
26:15 神である主はツロにこう仰せられる。刺された者がうめき、おまえの中で虐殺が続けられ、おまえがくずれ落ちるとき、その響きに、島々は身震いしないだろうか。26:16 海辺の君主たちはみな、その王座をおり、上着を脱ぎ、あや織りの着物を脱ぎ、恐れを身にまとい、地面にすわり、身震いしながら、おまえのことでおののき、26:17 おまえについて、哀歌を唱えて言う。海に住む者よ。おまえはどうして海から消えうせたのか。海で強くなり、ほめはやされた町よ。すべての住民を恐れさせたその町とその住民よ。26:18 今、島々はおまえがくずれ落ちる日に身震いし、海沿いの島々はおまえの最期を見ておびえている。

 ツロによって作られた都市が、地中海の周辺を覆っています。そしてツロとの貿易によって収益を得ていた数多くの国々があります。これらの人々が、ツロがなくなったことで多額の損失を負うことになり、嘆き悲しんでいる姿がここに書いてあります。これは次の27章で「ツロに対する哀歌」として詳しく描かれています。

4B 地下の国 19−21
26:19 まことに、神である主はこう仰せられる。わたしがおまえを廃墟の町とし、住む者のない町々のようにするとき、深淵をおまえの上にわき上がらせ、大水がおまえをおおうとき、26:20 わたしがおまえを穴に下る者たちとともに昔の民のもとに下らせるとき、わたしはおまえを穴に下る者たちとともに、昔から廃墟であったような地下の国に住ませる。わたしが誉れを与える生ける者の地におまえが住めないようにするためだ。26:21 わたしはおまえを恐怖とする。おまえはもう存在しなくなり、人がおまえを尋ねても、永久におまえを見つけることはない。・・神である主の御告げ。・・」

 これは単に海の中にツロの町が沈んだことを描いているだけではありません。「地下の国に住まわせる」と主は言われます。かつてバビロンの王に対してイザヤが預言した時も、この下界の陰府のことを話しました。「下界のよみは、あなたの来るのを迎えようとざわめき、死者の霊たち、地のすべての指導者たちを揺り起こし、国々のすべての王を、その王座から立ち上がらせる。彼らはみな、あなたに告げて言う。『あなたもまた、私たちのように弱くされ、私たちに似た者になってしまった。』あなたの誇り、あなたの琴の音はよみに落とされ、あなたの下には、うじが敷かれ、虫けらが、あなたのおおいとなる。(イザヤ14:9-11

 深い海底、いやそれよりも深いところに穴があり、そこに入るというのは、悪魔や悪霊が行くところを表しています。エゼキエル28章に、このツロの背後で働いていた悪魔の存在を、神は暴かれます。