エゼキエル書40−43章 「幻の神殿」
アウトライン
1A 神の宮 40−42
1B 外枠 40
1C 高い山 1−4
2C 門と庭 5−49
1D 東向きの門 5−16
2D 外庭 17−19
3D 他の方角の門 20−27
4D 内庭の門 28−37
5D いけにえのすすぎ清めの台 38−43
6D 歌うたいたちの部屋 44−49
2B 本堂 41
1C 至聖所までの内部 1−4
2C 脇間の部屋 5−11
3C 西側の建物 12−14
4C 装飾 15−20
5C 至聖所の前 21−26
3B 祭司の部屋 42
1C 聖域に面する部屋 1−14
1D 三階建て 1−12
2D 聖なる物 13−14
2C 全体の大きさ 15−20
2A 主の栄光 43
1B 宮に満ちる栄光 1−12
1C ケバル川で見た幻 1−5
2C 不義の除去 6−12
2B 祭壇の贖い 13−27
1C 祭壇の寸法 13−17
2C 七日間の全焼のいけにえ 18−27
本文
エゼキエル書
40
章を開いてください。今日からエゼキエル書のクライマックスと呼べる箇所を学んでいきます。メッセージ題は「幻の神殿」です。
私たちは
33
章から、エルサレムの神殿が破壊された後で主がエゼキエルに与えられた幻を読んでいます。特に
36
章からは、イスラエルの地、そして国民、さらに安全保障に至るまでの神による回復の幻を読みました。その中で、いやエゼキエル全体の中で繰り返されている言い回しは、「わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう」です。これが、主がすべてのことを行なわれる目的です。人間らが、神が神であることを見えなくさせる行ないをするのですが、それを止めさせる、あるいは全く新しいことをされる中で、ご自分が主であることを示されます。
そしてエゼキエルは祭司です。預言者でありますが祭司であるエゼキエルに、主は神殿についての幻を生々しく見せられました。1章にて、エゼキエルにケルビムをお見せになり、その上に座しておられる主ご自身が彼に語られました。それから、
8
章から
11
章の中で、エルサレムの神殿の中にある主の栄光が、徐々にそこから離れ、東の門を通り、オリーブ山にとどまり、それから去って行く幻を見ました。それ以降、主の臨在による栄光を見ることができませんでした。
けれども、イスラエルに神の栄光が戻ってきます。それが今日読むところです。驚くべき、新しい神殿の構造の幻から始まり、祭司によるいけにえの制度の回復、君主の入城、エルサレムの町、相続地と事細かに主はエゼキエルに、将来の回復した姿をお見せになります。私たちはこれを読むというよりも、むしろ鑑賞していくことによって主の栄光を仰ぎ見ることができます。
そして私たち自身の内に、主の栄光が宿ることを願ってください。パウロがこう言いました。「
『光が、やみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。(2コリント
4:6
)
」
1A 神の宮 40−42
1B 外枠 40
1C 高い山 1−4
40:1
私たちが捕囚となって二十五年目の年の初め、その月の十日、町が占領されてから十四年目のちょうどその日、主の御手が私の上にあり、私をそこへ連れて行った。
39
章までは、エルサレムの神殿が破壊されてから数ヶ月経った時に与えられたものでした。
33
章から始まっています。そして、ここは新しい幻です。紀元前
573
年のことです。エゼキエルが捕囚の民としてここに連れて来られたのが
597
年で、神殿が破壊されたのが
586
年です。
そして「
年の初め、その月の十日
」とあります。ユダヤ人にとって宗教的な暦では「新年」に当たる時です。過越の祭りの時です。その十日に、家ごとに羊一頭を用意しなさい。そして十四日の夕暮れにそれをほふり、血は門柱と鴨居につけて、肉は家の中で食べなさい。夜中にあなたがたはエジプトを出て行くことになる、と主が言われました(出エジプト
12
章)。
エゼキエルはまだバビロンのケバル川のほとり、ユダヤ人の捕囚の民が共同体をなして住んでいた所にいましたが、以前そうであったように、主によってエルサレムの方へ連れて行かれます。
40:2
すなわち、神々しい幻のうちに、私はイスラエルの地へ連れて行かれ、非常に高い山の上に降ろされた。その南のほうに町が建てられているようであった。
私たちは既に、イスラエルの山々が牧場のようになり、そしてダビデが君主となって国、そして聖所が建てられるという神の約束を読みました。けれども、ゴグとマゴグの戦いによってイスラエルは窮地に立たせられますが、主が滅ぼされることによって、彼らはこの方こそ主であることを知ります。そして御霊が注がれます。
ここはその後の話です。つまり、主がイスラエルを物理的だけでなく、霊的にも回復してくださった後の話です。イエス様が地上に再臨し、神の国を建てられた後の話です。
預言というのは、時間に制約されている私たちには理解が難しい時がたくさんあります。今、エゼキエルは、紀元前
586
年にエルサレムの神殿が破壊された後に語っているので、普通に考えれば
33
章の預言は、バビロンが滅んだ後にユダヤ人たちがエルサレムに帰還する時に実現すると考えてしまいます。
けれども、エルサレム帰還を記しているエズラ記とネヘミヤ記を読みますと、これから読む神殿とは程遠い小さな神殿とエルサレムの町しか建てられていないことを知ります。ソロモンの神殿を見たことのある老人たちは、建てられている神殿を見てあまりにも、ちんけなので嘆き悲しみました。
キリスト教会も、長いこと
33
章以降のイスラエルの回復の預言をどう解釈すべきか悩んでいました。実際にその通りになっていないからです。それで、これを象徴的に教会によって実現したと教えていました。けれども前回と前々回お話したように、その一部を私たちはすでに現代のイスラエル国で見ることができるようになっています。ここの箇所もその通り実現するのです。
だから、いつ、そしてどのように預言が成就するのかについて、私たちは首をかしげるのです。理由は簡単です。主が永遠の神だからです。時間を超えたところから主は、預言を語っておられます。千年を一日のように考えられる方です。大事なのは、たとえずっと後のことであっても、今、それが起こるかのように私たちが信じることです。そして期待して、望みを持って生きることです。
それで「
非常に高い山
」ですが、イザヤが終わりの日を預言してこう言いました。
2
章
2,3
節です。「
終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。多くの民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。』それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。(イザヤ
2:2-3
)
」主イエス様が地上に戻ってこられる時に、天変地異が起こります。地殻変動が起こって、それでエルサレムの所だけが他のあらゆる所よりも高くなり、そこにエルサレムの町を新しくお建てになるのです。
ゼカリヤ書
14
章を開いてください。
3
節から読みます、「
主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたは、わたしの山々の谷に逃げよう。ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう。私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。(
3-5
節)
」分かりますか、地殻変動が起こります。
そして
8
節から
11
節まで読みます。「
その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる。
」これはエゼキエル書
47
章にも出てくる預言です。「
主は地のすべての王となられる。その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる。全土はゲバからエルサレムの南リモンまで、アラバのように変わる。エルサレムは高められ、もとの所にあって、ベニヤミンの門から第一の門まで、隅の門まで、またハナヌエルのやぐらから王の酒ぶねのところまで、そのまま残る。そこには人々が住み、もはや絶滅されることはなく、エルサレムは安らかに住む。
」他の地域がアラバ、つまりヨルダン渓谷の低地のようになり、それによってエルサレムのみが高くそびえます。
そして「
南のほうに町が建てられている
」とありますが、北の部分に神殿を主が建てられます。南のほうの町については、
47
章と
48
章に書かれています。
40:3
主が私をそこに連れて行かれると、そこに、ひとりの人がいた。その姿は青銅でできているようであり、その手に麻のひもと測りざおとを持って門のところに立っていた。
「
青銅でできている
」とありますが、覚えていますか、ケルビムなど天使の存在が青銅の輝きを持って、かつ人の手を有していました。そして、測量するための道具を持っています。麻ひもは長距離を測る時、測り竿は短い部分を測る時に使います。
40:4
その人は私に話しかけた。「人の子よ。あなたの目で見、耳で聞き、わたしがあなたに見せるすべての事を心に留めよ。わたしがあなたを連れて来たのは、あなたにこれを見せるためだ。あなたが見ることをみな、イスラエルの家に告げよ。」
主はかつてモーセに対して幕屋を造るのを命じられた時、「
あなたに示すのと全く同じように作らなければならない。(出エジプト
25:9
)
」と言われました。なぜならば、主がモーセに示された事は、建築設計者が見て、実際に建てることのできる詳細な見取り図であったからです。それが天に模られたものであることを、ヘブル書の著者は話しています。
ここでも同じです。私たちが文字だけを追って読めば、非常に疲れるところで頭が痛くなります。けれども、私がこの箇所の学びを準備している中で、インターネットに、ものすごく正確にエゼキエルの見た神殿を再現しているサイトがいくつも出てきました。これを作る人々にとっては、これほど分かりやすい説明はないのです。
2C 門と庭 5−49
では実際に、読んでいきましょう。インターネットのサイトに掲載されていた画像を頼りにしながら、読んでいきたいと思います。
参照サイト
http://www.sonstoglory.com/ThirdTempleEzekielsMillennialTemple.htm
http://bible.ag/en/enezekieltranscript.htm
1D 東向きの門 5−16
(図1)
40:5
そこに、神殿の外側を巡って取り囲んでいる壁があった。その人は手に六キュビトの測りざおを持っていた。その一キュビトは、普通の一キュビトに一手幅を足した長さであった。彼がその外壁の厚さを測ると、一さおであり、その高さも一さおであった。
初めに、神殿の外側を巡っている壁です。寸法ですが、一キュビトは普通は肘から手の先までの長さです。それに加えて一手幅を足したものなので、
50
センチ強の長さです。測り竿は
6
キュビトなので、
3
メートル
20
センチ程度の長さになります。高さと幅がそれぞれ一さおです。
(図1)
(図2)
次にこの神殿全体を眺める写真を見てみましょう。
外側の周囲の壁は(図2)の4の部分です。
40:6
それから、彼が東向きの門に行き、その階段を上って、門の敷居を測ると、その幅は一さおで、もう一つの門の敷居も幅は一さおであった。
40:7
控え室は長さ一さお、幅一さおで
あり、控え室と控え室の間は五キュビトであった。門の内側の玄関の間に続く門の敷居は一さおであった。
40:8
彼
が門の内側の玄関の間を測ると、一さお、
40:9
すなわち、門の玄関の間を測ると、八キュビト、その壁柱は二キュビトで、門の玄関の間は内側にあった。
(図3)
40:10
東のほうに ある門の控え室は両側に三つずつあり、三つとも同じ寸法であった。壁柱も、両側とも、同じ寸法であった。
40:11
彼が門の入口の幅を測ると、十キュビト、門の内のり幅の長さは十三キュビトであった。
40:12
控え室の前に出た仕切りは両側ともそれぞれ一キュビトであった。控え室は両側とも六キュビトであった。
40:13
彼がその門を、片側の控え室の屋根の端から他の側の屋根の端まで測ると、一つの入口から他の入口までの幅は二十五キュビトであった。
40:14
彼は壁柱を六十キュビトとした。門の周囲を巡る壁柱は庭に面していた。
40:15
入口の門の前から内側の門の玄関の間の前までは五十キュビトであり、
40:16
門の内側にある控え室と壁柱には格子窓が取りつけられ、玄関の間もそうであった。内側の回りには窓があり、壁柱には、なつめやしの木が彫刻してあった。
(図4)
これは、図2の神殿(3)に相対する、外壁の門です。神殿は西向きありますから、東向きの門はその反対です。
敷居は上の図3の通りです。敷居の両端が一さおずつになっています。
そして、控え室は上から見た図4の通りです。これが片側に三つ、もう一方に三つあります。おそらくここで門番のレビ人が立つものと思われます。
(図5)
そして図5は、門を内側から見た姿です。なつめやしが壁柱にありますね。壁柱は外壁の内側には付いているのですが、なつめやしがある壁柱が門の所だとすぐに分かります。
2D 外庭 17−19
40:17
それから、彼は私を外庭に連れて行った。そこには部屋があり、庭の回りには石だたみが敷かれていた。石だたみの上に、三十の部屋があった。
40:18
石だたみは門のわきにあり、ちょうど門の長さと同じであった。これは下の石だたみである。
40:19
彼が下の門の端から内庭の外の端までその幅を測ると、東も北も百キュビトであった。
(図6)
図6を見てください、外壁の内側に四角になっている部分がありますね、それが今読んだ部屋です。数は三十ですが、東西南北四方に付いていたものと考えられます。
3D 他の方角の門 20−27
40:20
彼は外庭にある北向きの門の長さと幅を測った。
40:21
それには両側に三つずつ控え室があり、壁柱も玄関の間も先の門と同じ寸法であった。その長さは五十キュビト、幅は二十五キュビトであった。
40:22
その窓も玄関の間もなつめやしの木の彫刻も、東向きの門と同じ寸法であった。七段の階段を上って行くと、その先に玄関の間があった。
40:23
東に面する門と同様に、北に面する門にも内庭の門が向かい合っており、彼が門から門まで測ると、百キュビトであった。
つまりこれまで見た東向きの門とまったく同じものが北にもあります。図6の6です。
40:24
次に、彼は私を南のほうへ連れて行った。すると、そこにも南向きの門があり、その壁柱と玄関の間を彼が測ると、それは、ほかの門と同じ寸法であった。
40:25
壁柱と玄関の間の周囲に窓があり、それはほかの窓と同じであった。門の長さは五十キュビト、幅は二十五キュビトであった。
40:26
そこに上るのに七段の階段があり、その先に玄関の間があった。その両側の壁柱には、なつめやしの木が彫刻してあった。
40:27
内庭には南向きの門があり、彼がこの門から南のほうに他の門まで測ると、百キュビトであった。
南向きの門も東向き、北向きと同じです。図6の8です。そして、七段の階段がそれぞれの門に付いています。
4D 内庭の門 28−37
(図7)
40:28
彼が私を南の門から内庭に連れて行き、南の門を測ると、ほかの門と同じ寸法であった。
40:29
その控え室も壁柱も玄関の間もほかのと同じ寸法で、壁柱と玄関の間の周囲に窓があった。門の長さは五十キュビト、幅は二十五キュビトであった。
40:30
玄関の間の周囲は長さ二十五キュビト、幅五キュビトであった。
40:31
その玄関の間は外庭に面し、その壁柱にはなつめやしの木が彫刻してあった。その階段は八段であった。
今度は内庭に行きます。内庭に行く門も、東、北、南の外側の門と同じ作りです。図6の(11)がそれです。図7は、外庭から見た内庭への門です。外庭の門との違いは、階段が八段になっていることです。
40:32
次に、彼は私を内庭の東のほうに連れて行った。そこの門を測ると、ほかの門と同じ寸法であった。
40:33
その控え室も壁柱も玄関の間もほかのと同じ寸法で、壁柱と玄関の間の周囲に窓があった。門の長さは五十キュビト、幅は二十五キュビトであった。
40:34
その玄関の間は外庭に面し、両側の壁柱にはなつめやしの木が彫刻してあった。階段は八段であった。
内庭の東向きの門も同じ寸法です。図6の(10)がそれです。
40:35
彼は私を北の門に連れて行った。それを測ると、ほかの門と同じ寸法であった。
40:36
その控え室も壁柱も玄関の間もほかのと同じ寸法で、その周囲に窓があった。門の長さは五十キュビト、幅は二十五キュビトであった。
40:37
その玄関の間は外庭に面し、両側の壁柱にはなつめやしの木が彫刻してあった。階段は八段であった。
図6の(9)です、すべて同じ寸法です。そしてこの内庭への北向きの門のそばに、いけにえのための台があります。
5D いけにえのすすぎ清めの台 38−43
40:38
門の壁柱のそばに戸のある部屋があり、そこは全焼のいけにえをすすぎ清める所であった。
40:39
門の玄関の間には、全焼のいけにえ、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえをほふるために、両側にそれぞれ二つずつの台があった。
40:40
北の門の入口へ上って行くと、外側に二つの台があり、門の玄関の間の他の側にも二つの台があった。
40:41
すなわち、門の片側に四つの台があり、他の側に四つの台があり、この八つの台の上でいけにえをほふるのである。
40:42
また、全焼のいけにえのための四つの切り石の台があり、その長さは一キュビト半、幅は一キュビト半、その高さは一キュビトであった。その上に全焼のいけにえや、ほかのいけにえをほふるための道具が置かれていた。
40:43
内側には、周囲に一手幅の縁が取りつけてあり、ささげ物の肉は台の上に置かれるようになっていた。
図7をご覧ください、門の両脇に四つずつ台がありますね。これがいけにえのための台です。
(注:実は図7は南向きの門ではなく、ここ北向きの門です。)
ここから祭司らは中に入っていき、内庭の中央にある祭壇の上で主にいけにえをささげます。
ここである大きな疑問が生じるかもしれません。先に、この幻は主イエス・キリストが再臨されて、神の国をこの地に建てられる時のことだと話しました。それなのになぜ、このようないけにえの制度が存在するのか?という疑問です。
キリストが罪のためのいけにえとして十字架の上で死なれたのにも関わらず、続けてユダヤ人たちは動物のいけにえを神殿で捧げていたのですが、そのことについてヘブル書の著者は、「
また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。(
9:12
)
」と言いました。だから動物のいけにえは廃止された、と言っています(
10:9
)。
このことのゆえに、エゼキエルの預言は旧約時代のもの、あるいは象徴的なもので教会を表すという解釈が大半でした。けれども、ここで私たちは「神の約束は反古にされるようなものではない」ことを知るべきです。確かにモーセの律法はキリストの死によって完成しました。けれども旧約聖書はすべてが律法なのではなく、無条件の約束として神が与えておられるものが沢山あります。このエゼキエル書の幻も、イスラエルの民が律法を守り行なったから与えるという条件はなく、むしろ彼らが不従順であるから、神がご自分の名のゆえに行なうと一方的に決められたものです。
ではなぜ、いけにえを捧げるのでしょうか?記念するためです。ちょうど主が私たち教会に、ご自分の死を覚えるために、パンを裂き、ぶどう酒を飲みなさいと命じられたように、すでに完成されたキリストの贖いの御業を覚えて行なうのです。霊的に回復したイスラエルが、以前はこれによって救われると思っていたいけにえが、そうではなくキリストの贖いをこれらは表していたのだという認識を持って、感謝してささげるものであります。
確かにカトリック教会は、聖餐式、彼らは聖体拝領と呼びますが、パンが実際にキリストの肉になり、ぶどう酒がキリストの血になり、それに預かることによって自分たちはさらに聖化されると信じています。ですから贖いはまだ進行中であり、過程ですが、聖書はキリストの贖いは完成されたと教えています。私たちはあくまで、覚えて、記念して行なうのです。
主は、この天と地を完全に滅ぼされて、新しい天と地を造られる前に、これらイスラエル人らに与えられた地上における約束をすべて実現される時代を与えられます。それが黙示録
20
章に記されている千年王国です。黙示録
21
章に新天新地がありますが、それでは
20
章の千年間のキリストの統治はいったい何なのでしょうか?これがイスラエルに対する神の回復の時期です。もちろんイスラエルだけでなく、異邦人も関わります。教会はキリストの共同統治者です。
そしてこれらイスラエルへの約束を実現された上で、最後の審判を行なわれ、完全な、究極の秩序の変化を与えられます。
6D 歌うたいたちの部屋 44−49
(図8)
40:44
彼は私を内庭に連れて行った。内庭には二つの部屋があり、北の門のわきにある部屋は南を向き、南の門のわきのは北を向いていた。
40:45
彼は私に言った。「この南向きの部屋は、宮の任務を果たす祭司たちのためであり、
40:46
北向きの部屋は、祭壇の任務を果たす祭司たちのためである。彼らはツァドクの子孫であり、レビの子孫の中で主に近づいて仕える者たちである。」
新改訳は「
二つの部屋(
44
節)
」と訳していますが、下にある引照の説明をご覧ください。この訳は七十人訳から来たものであり、ヘブル語は「歌を歌う者たちの部屋」であるという説明書きがあります。
図8は、東向きの門を内庭から見たものですが、その左右に、つまり北向きの門の脇と南向きの門の脇に部屋があります。これが歌うたいたちの部屋です。それぞれ宮の任務、祭壇の任務を果たすためでありますが、歌うたいもその奉仕の一つです。東向きの門から本堂である聖所に入るに当たって、ここで絶えず主への歌が歌われているのです。
(図9)
40:47
彼が庭を測ると、長さ百キュビト、幅百キュビトの正方形であった。神殿の前には祭壇があった。
図9のようになります。何間かに祭壇がありますね。そして内庭は正方形です。
40:48
彼が私を神殿の玄関の間に連れて行って、玄関の間の壁柱を測ると、両側とも五キュビトであり、その門の幅は十四キュビト、その門の両わきの壁は、それぞれ三キュビトであった。
(図
10
)
40:49
玄関の間の間口は二十キュビト、奥行は十二キュビトであった。そこへ上るのに階段があり、両側の壁柱のそばにはそれぞれ円柱が立っていた。
本堂への入口である玄関です。(図
10
)をご覧ください。
2B 本堂 41
1C 至聖所までの内部 1−4
41:1
彼は私を本堂へ連れて行った。その壁柱を測ると、その幅は両側とも六キュビトであった。これが壁柱の幅であった。
41:2
入口の幅は十キュビト、入口の両わきの壁はそれぞれ五キュビトであり、本堂の長さを測ると、四十キュビト、幅は二十キュビトであった。
(図
11
)
図
11
は、本堂を上から見た図です。長さ
40
キュビト、幅
20
キュビトですから、二対一の寸法です。これはモーセの幕屋の聖所の寸法、そしてソロモンの神殿の聖所と同じです。
41:3
彼が奥にはいり、入口の壁柱を測ると、二キュビト、入口は六キュビト、入口の両わきの壁は七キュビトであった。
41:4
彼はまた、本堂に面して長さ二十キュビト、幅二十キュビトを測って、私に「これが至聖所だ。」と言った。
図
11
ですと、右側の門を入るとそこが正方形の形をした所があり、そこが至聖所であります。後で読みますがここが神の御座であり、主がここに着座されます。
2C 脇間の部屋 5−11
41:5
彼が神殿の壁を測ると、六キュビト、神殿の周囲を囲む階段式の脇間の幅は四キュビトであった。
41:6
階段式の脇間は三段に重なり、各段に三十あった。神殿の周囲の階段式の脇間は壁に固定してささえられ、神殿の壁は梁でささえられていなかった。
41:7
階段式の脇間の幅は階段を上るごとに広くなっていた。それは神殿の周囲にあるらせん階段を上るごとに、その段の幅も広くなり、その下の段から上の段へは中央の階段を通って上るのである。
41:8
私は神殿の回りが高くなっているのを見た。階段式の脇間の土台は、長めの六キュビトの測りざおいっぱいであった。
41:9
階段式の脇間の外側の壁の厚さは五キュビトであった。神殿の階段式の脇間と、
41:10
部屋との間には空地があり、それが神殿の周囲を幅二十キュビトで囲んでいた。
41:11
階段式の脇間の入口は空地のほうに向き、一つの入口は北向きで、他の入口は南のほうに向き、その空地は幅五キュビトで周囲を囲んでいた。
(図
12
)
ソロモンの神殿と同じように、神殿の南北には脇間がくっ付いています。図
12
がそれです。脇間は三段式になっていますが、梁を入れていません。それでも倒れないでぴったりと神殿の壁にくっ付いていられるように、上の脇間は内側により入り込んでいます。図
12
の(4)と(5)を見てください。
そして地面のほうを見てください、五キュビトを空けて壁が周囲を囲んでいます。そしてその壁の外側に二十キュビトの空き地があります。
3C 西側の建物 12−14
41:12
西側の聖域にある建物は、その奥行が七十キュビト、その建物の回りの壁は、厚さ五キュビト、その間口は九十キュビトであった。
41:13
彼が神殿を測ると、長さは百キュビト、その聖域と建物とその壁とで、長さ百キュビトであった。
41:14
また、東側の聖域と神殿に面する幅も百キュビトであった。
(図
13
)
西側には大きな建物があります。神殿に最も近いところなので「
聖域
」と呼ばれています。
そして図
13
を見てください。西側の建物から神殿の周囲ある壁までが百キュビト、神殿の玄関から周囲の壁までが百キュビト、さらに南北に空地を入れて神殿の寸法測ると百キュビトです。非常に幾何学的な作りです。
4C 装飾 15−20
41:15
彼が神殿の裏にある聖域に面した建物の長さと、両側の回廊とを測ると、百キュビトであった。本堂の内側と、庭の玄関の間、
41:16
門口と格子窓と三段になった回廊とは、床から窓まで羽目板が張り巡らされていた。また、窓にはおおいがあった。
41:17
入口の上部にも、神殿の内側にも外側にも、これを囲むすべての壁の内側にも外側にも彫刻がしてあり、
41:18
ケルビムと、なつめやしの木とが彫刻してあった。なつめやしの木はケルブとケルブとの間にあり、おのおのケルブには二つの顔があった。
41:19
人間の顔は一方のなつめやしの木に向かい、若い獅子の顔は他方のなつめやしの木に向かい、このように、神殿全体の回りに彫刻してあった。
41:20
床から入口の上まで、本堂の壁にケルビムとなつめやしの木が彫刻してあった。
装飾についての説明です。本堂の中はすべて、ケルビムとなつめやしの木の彫刻が施されています。ケルビムの幻について思い出してください、四つの顔がありましたね。ここではその内の二つの顔です。幻ではその上に主が御座に着いておられました。
そして「
なつめやしの木
」です。門にもなつめやしの木の門柱がありました。これは、イエス様が王なるキリストであることを表しています。今、エゼキエルが過越の祭りの月の十日にこの幻を見ていることを思い出してください。イエス様が十字架につけられたのは過越の祭りの日でしたが、十日は棕櫚の聖日でした。その時に主がエルサレムに入城されて、群集が主が通られる道のところになつめやし等の枝を敷いて、「ホサナ!」と叫んでメシヤとして迎え入れたのです。
5C 至聖所の前 21−26
41:21
本堂の戸口の柱は四角で、至聖所の前には何かに似たものがあった。
41:22
それは木の祭壇のようであり、高さは三キュビト、長さは二キュビトで、その四隅も台も側面も木でできていた。彼は私に、「これが主の前にある机だ。」と言った。
これはちょうど、モーセの幕屋とソロモンの神殿においては香壇のあった所です。けれども単純に木でできた机のみがあります。なぜでしょうか?その他、本堂の中には燭台もなく、供えのパンの机もありません。そして最も肝心な、契約の箱と贖いの蓋がありません。至聖所の中は空っぽです。
(図
14
)
なぜでしょうか?それは、再臨のキリストご自身がその体を持って至聖所に入られるからです!
43
章に出てきますが、主の栄光がここに戻ってきます。それは主イエス・キリストご自身が入られて、至聖所で御座に着かれるからです。もはや光を灯すための燭台も、香を炊くための壇も必要ではありません。そして、十戒の石の板がある契約の箱も必要としないのです。
エレミヤ書
3
章
16
−
17
節には、契約の箱を必要としない預言があります。「
その日、あなたがたが国中にふえて多くなるとき、・・主の御告げ。・・彼らはもう、主の契約の箱について何も言わず、心にも留めず、思い出しもせず、調べもせず、再び作ろうともしない。そのとき、エルサレムは『主の御座』と呼ばれ、万国の民はこの御座、主の名のあるエルサレムに集められ、二度と彼らは悪いかたくなな心のままに歩むことはない。
」
再臨のキリストが地上を君臨される前に、偽キリストが来ることはご存知だと思います。マタイ
24
章またテサロニケ第二2章に預言されている、「荒らす憎むべき者」あるいは「罪の人」は、ユダヤ人たちが建てた神殿の中に入って、そして至聖所の中に入って、そして自分が神であると宣言します。それから世界を荒廃させることを行なうのです。ユダヤ人はその時騙されたことに気づき、荒野に逃げますが、反キリストは彼らを追っていきます。
けれども本物のキリストが来られたら、この方こそが至聖所に着座されるにふさわしい神であられます。ゼカリヤ書には、こう書いてあります。「
彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間には平和の一致がある。(
6:13
)
」王であられかつ祭司であられる方です。
そしてこの方から御言葉がでます。今読んだエレミヤ書3章、先に読んだイザヤ書2章の預言には、すべての民がここに来て主の教えを聞きます。第一コリント
13
章に書かれているように、完全な方が来られたら、預言も知識もすたれます。もうこのように聖書を教える者たちがいなくても、主ご自身が教えてくださるのです!
41:23
また、本堂と至聖所にそれぞれ二つのとびらがあり、
41:24
それらのとびらにはそれぞれ二つの戸が折りたたむようになっていた。すなわち、一つのとびらには二つの戸があり、ほかのとびらにも二つの戸があった。
41:25
本堂のとびらには、壁に彫刻されていたのと同じようなケルビムとなつめやしの木が彫刻してあった。外側の玄関の間の前には木のひさしがあった。
41:26
玄関の間の両わきの壁には格子窓となつめやしの木があり、神殿の階段式の脇間とひさしも同様であった。
本堂と至聖所の間には戸があります、そして本堂の入口にも扉があります。
3B 祭司の部屋 42
1C 聖域に面する部屋 1−14
1D 三階建て 1−12
(図
15
)
42:1
彼は私を北のほうの外庭に連れ出し、聖域に面し、北方の建物に面している部屋へ連れて行った。
42:2
その長さは百キュビト、その端に北の入口があり、幅は五十キュビトであった。
42:3
二十キュビトの内庭に面し、外庭の石だたみに面して、三階になった回廊があった。
42:4
部屋の前には幅十キュビトの通路が内側にあり、その長さは百キュビトであった。その部屋の入口は北に向いていた。
42:5
上の部屋は、回廊が場所を取ったので、建物の下の部屋よりも、また二階の部屋よりも狭かった。
42:6
なぜなら、これらは三階建てであり、庭の柱のような柱がないためである。それで、上の部屋は下の部屋よりも、また二階の部屋よりも狭かった。
42:7
部屋に沿った外側の石垣は、外庭のほうにあって、部屋に面し、その長さは五十キュビトであった。
42:8
したがって、外庭に面する部屋の長さは五十キュビトであった。しかし、本堂に面する側は百キュビトであった。
42:9
これらの部屋の下には、外庭からはいれるように、東側に出入口があった。
42:10
聖域や建物に面している南側の庭の厚い石垣の中には、部屋があった。
42:11
その部屋の通路は、北側の部屋と同じように見え、長さも同じ、幅も同じで、そのすべての出口も構造も入口も、同様であった。
42:12
南側の部屋の入口も同様で、通路の先端に入口があり、東側の石垣に面し、そこからはいれる通路があった。
図
15
にあるように、本堂の両側、南北にそれぞれ部屋があります。三階建てになっています。ちょっと分かりにくいかもしれませんが、その建物は二重になっています。
2D 聖なる物 13−14
42:13
彼は私に言った。「聖域に面している北の部屋と南の部屋は、聖なる部屋であって、主に近づく祭司たちが最も聖なるささげ物を食べる所である。その場所は神聖であるから、彼らはそこに最も聖なる物、すなわち穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえを置く。
42:14
祭司たちは聖所にはいったなら、そこから外庭に出てはならない。彼らが奉仕に用いる服は神聖だから、それを脱いで他の服に着替えてから民の所に近づかなければならない。」
ここに、南北の部屋の目的が書かれています。聖なる物を食べる部屋です。レビ記に詳しく書かれていますが、彼らが食べるのは腹を膨らませるためではなく、主への礼拝の一部です。ちょうど私たちが聖餐式でパンとぶどう酒に与るように、彼らもそれらを食べることによって主と交わります。
そして着物を着替えます。私たちもまた、古い人を脱ぎ捨てて、キリストにある新しい人を身につけるという作業が必要です(エペソ
4:22
‐
24
)。
2C 全体の大きさ 15−20
42:15
彼は、神殿の内側を測り終えると、東向きの門に私を連れ出し、神殿の周囲を測った。
42:16
彼が測りざおで東側を測ると、測りざおで五百さおであった。
42:17
北側を測ると、測りざおで五百さおであった。
42:18
南側を測ると、測りざおで五百さおであった。
42:19
彼が西側に回って測りざおで測ると、五百さおであった。
42:20
彼が外壁の回りを巡って四方を測ると、その長さは五百さお、幅も五百さおで、聖なるものと俗なるものとを区別していた。
神殿の外側の壁全体の距離をエゼキエルが測りました。(図2)を見てください。
500
さお、つまり約
160
0メートルの正方形です。
そしてその目的が、「聖なるものと俗なるものの区別」です。レビ記の中に、
11
章から
15
章まで食物、不浄の血、らい病などについての規定があります。そこに
10
章で、「
聖なるものと俗なるもの、また汚れたものときよいものを区別するため(
10
節)
」とあります。
主がおられるところには必ずこの区別があります。主はすべての人を愛しておられます。けれども汚れたものをそのまま受け入れることは決してできません。天のエルサレムにおいても、黙示録
21
章、
22
章で明確に、汚れた者がこの都に入ることはできないと但し書きが付いています。だから、キリストは血を流すことによって、私たちの汚れと罪の清めを行ってくださったのです。「
しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(1ヨハネ
1:7
)
」
2A 主の栄光 43
1B 宮に満ちる栄光 1−12
1C ケバル川で見た幻 1−5
43:1
彼は私を東向きの門に連れて行った。
43:2
すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現われた。その音は大水のとどろきのようであって、地はその栄光で輝いた。
43:3
私が見た幻の様子は、私がかつてこの町を滅ぼすために来たときに見た幻のようであり、またその幻は、かつて私がケバル川のほとりで見た幻のようでもあった。それで、私はひれ伏した。
43:4
主の栄光が東向きの門を通って宮にはいって来た。
43:5
霊は私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。なんと、主の栄光は神殿に満ちていた。
ついに戻ってこられました!栄光の主が戻ってこられました。これがエゼキエル書全体の中心部分です。エゼキエルが、「
幻の様子は、私がかつてこの町を滅ぼすために来たときに見た幻のようであり
」と言っていますね。
1
章から
3
章までに現われた主ご自身であられます。
1
章
26
節から読みます。「
彼らの頭の上、大空のはるか上のほうには、サファイヤのような何か王座に似たものがあり、その王座に似たもののはるか上には、人間の姿に似たものがあった。私が見ると、その腰と見える所から上のほうは、その中と回りとが青銅のように輝き、火のように見えた。その腰と見える所から下のほうに、私は火のようなものを見た。その方の回りには輝きがあった。その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それは主の栄光のように見えた。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。(
26-28
節)
」
そしてケルビムの上に座しておられる主は、至聖所から東向きの門を通って徐々に離れられました。神殿の敷地で偶像礼拝を行ない、汚れを行なっている祭司たち、長老たちがいたからです。これまで見てきた、本堂の玄関、そして内庭の東向きの門、そして外庭の東向きの門を通られ、外に出られたのです。
11
章
22
節から読みます。「
ケルビムが翼を広げると、輪もそれといっしょに動き出し、イスラエルの神の栄光がその上のほうにあった。主の栄光はその町の真中から上って、町の東にある山の上にとどまった。また、霊が私を引き上げ、神の霊によって幻のうちに私をカルデヤの捕囚の民のところへ連れて行った。そして、私が見たその幻は、私から去って上って行った。(
22-24
節)
」
それから主の栄光がエルサレムから去ってしまいました。ではいつ戻ってくるのか?それがこれです。主が東のオリーブ山に戻ってこられ、東向きの門から入って、一直線に歩かれて、そして至聖所で着座されます。ゼカリヤ書
14
章
4
節は、再臨の主はオリーブ山に立たれることを教えています。使徒の働き
1
章で、主がオリーブ山で昇天された時も白い衣を着た二人が、「
(イエスは)店に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。(
1:11
)
」と言ったのを思い出してください。
今のエルサレムに行くと、城壁の東の門は閉じられています。「黄金門」と言いますが、それはこの預言を意識してのことです。メシヤが来られる時まで閉じている、ということです。ちなみにその下にイスラム教徒の墓地がありますが、死体によってそこを汚し、その預言が成就するのを阻止するためだと言われます。なんという宗教でしょうか!もちろんそんなことで主のお入用を妨げることはできません。
主の栄光を私たちはどれほど見ているでしょうか?モーセの幕屋が完成した時も、ソロモンの神殿が建てられた時も、主の栄光がそこを満たしました。「
そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。(出エジプト
40:34-35
)
」
そしてソロモンの神殿ですが、歴代誌第二
5
章
13
節からです。「
ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、『主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。』と主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。(
5:13-14
)
」
どちらも宮に入ることさえできなかった、遮られたとあります。「栄光」という言葉の元々の意味は「重い」です。ちょうど星の重力によって光が集められているように、全てのものがそこに引き寄せられるという意味を持ちます。そこから注目、賛美、富、知恵などが、そこに集められる、つまり栄光がある、ということになります。
主の栄光を仰ぎ見るとは、こういうことです。私たちの行ないは全て排除されます。ただ主のみが行なわれる世界、領域に入る時に私たちは主の栄光を見ることができます。そして私たちがその礼拝に参加するためには、私たち自身が空の器にならなければいけません。意志も思いもすべて、主に明け渡さなければいけません。初めに言ったように、「土の器」にこそ主の光が宿ってくださるのです。
2C 不義の除去 6−12
43:6
ある人が私のそばに立っているとき、私は、神殿からだれかが私に語りかけておられるのを聞いた。
43:7
その方は私に言われた。「人の子よ。ここはわたしの玉座のある所、わたしの足の踏む所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む所である。イスラエルの家は、その民もその王たちも、もう二度と、淫行や高き所の王たちの死体で、わたしの聖なる名を汚さない。
43:8
彼らは、自分たちの門口をわたしの門口のそばに設け、自分たちの戸口の柱をわたしの戸口の柱のかたわらに立て、わたしと彼らとの間には、ただ壁があるだけとなり、彼らの忌みきらうべきわざによってわたしの聖なる名を汚した。そこでわたしは怒って、彼らを絶ち滅ぼした。
43:9
今、彼らにその淫行や王たちの死体をわたしから遠く取り除かせなければならない。わたしは永遠に彼らの中に住もう。
エルサレムの神殿と町を破壊された主は、完全に回復の御業を行なってくださっています。この幻の目的はこれです。彼らが二度と、汚れた行いをすることのないようにするためです。先ほど言いましたように、彼らはここで汚れたことを行なっていました。エゼキエルが壁の穴を開けて、そこから入ると、イスラエルの長老たちがあらゆる忌まわしい偶像崇拝を行っていました(
8:7
‐
13
)。
すばらしい約束は、「
永遠に彼らの中に住もう
」です。「永遠」という言葉には、もう二度と主が離れることはないという絶対的な保証があります。私たちに与えられている「永遠の命」にはその保証と約束があります。
43:10
人の子よ。イスラエルの家が自分たちの不義を恥じるために、彼らに神殿を示し、彼らにその模型を測らせよ。
43:11
もし彼らが、自分たちの行なったあらゆることを恥じるなら、あなたは彼らに神殿の構造とその模型、その出口と入口、すなわち、そのすべての構造、すべての定め、すべての構造、すべての律法を示し、彼らの目の前でそれを書きしるせ。彼らが、そのすべての構造と定めとを守って、これを造るためである。
43:12
宮に関する律法は次のとおりである。山の頂のその回りの全地域は最も神聖である。これが宮に関する律法である。
バビロンにいるユダヤ人たちに、彼らが悔い改めるならば、これまで私たちが見てきたものを見せなさいと主が命じられています。けれどもユダヤ人たちがこれを作ることはありませんでしたから、やはり将来を待たなければいけないのでしょう。
この完全な神殿の姿を見るときに、私たちは自分の汚れを恥じます。なんでこんな恥ずかしいことを行なったのだろう、と後悔します。私たちはいつもこのように主の前に出て、自分がどのような存在なのかを思い出し、そして主がそのような汚れから私たちを清められたことを感謝しなければいけません。
2B 祭壇の贖い 13−27
1C 祭壇の寸法 13−17
43:13
キュビトによる祭壇の寸法は次のとおりである。・・このキュビトは、普通のキュビトに一手幅足したものである。・・その土台の深さは一キュビト、その回りの縁の幅は一キュビト、みぞは一あたりである。祭壇の高さは次のとおりである。
43:14
この地面の土台から下の台座までは二キュビト、回りの幅は一キュビト。この低い台座から高い台座までは四キュビト、その回りの幅は一キュビト。
43:15
祭壇の炉は高さ四キュビトであり、祭壇の炉から上のほうへ四本の角が出ていた。
43:16
祭壇の炉は長さ十二キュビト、幅十二キュビトの正方形である。
43:17
その台座は長さ十四キュビト、幅十四キュビトの正方形で、その回りのみぞは半キュビト、その縁は一キュビトであり、その階段は東に面している。」
(図
16
)
祭壇の説明です。内庭の真ん中にあります。図
16
のように、三段式になっています。
2C 七日間の全焼のいけにえ 18−27
43:18
彼は私に言った。「人の子よ。神である主はこう仰せられる。祭壇の上で全焼のいけにえをささげ、血をそれに注ぎかけるために祭壇を立てる日には、次のことが祭壇に関する定めとなる。
43:19
わたしに仕えるために、わたしに近づくツァドクの子孫のレビ人の祭司たちに、あなたは、罪のためのいけにえとして若い雄牛一頭を与えよ。・・神である主の御告げ。・・
43:20
あなたは、その血を取って、祭壇の四本の角と、台座の四隅と、回りのみぞにつけ、祭壇をきよめ、そのための贖いをしなければならない。
43:21
またあなたは、罪のためのいけにえの雄牛を取り、これを聖所の外の宮の一定の所で焼かなければならない。
祭壇を用いるにあたって、この祭壇を清める儀式を行ないます。これはモーセの幕屋においても行なわれたことです(出エジプト
29:38
‐
46
)。
43:22
二日目に、あなたは、傷のない雄やぎを罪のためのいけにえとしてささげ、雄牛できよめたように、祭壇をきよめよ。
43:23
きよめ終えたら、あなたは、傷のない若い雄牛と群れのうちの傷のない雄羊とをささげよ。
43:24
あなたは、それらを主の前にささげ、祭司たちがそれらの上に塩をまき、全焼のいけにえとして主にささげなければならない。
43:25
七日間、あなたは毎日、罪のためのいけにえとして雄やぎをささげ、傷のない若い雄牛と群れのうちの傷のない雄羊とをささげなければならない。
43:26
七日間にわたって祭壇の贖いをし、それをきよめて使い始めなければならない。
43:27
この期間が終わり、八日目と、その後は、祭司たちが祭壇の上で、あなたがたの全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげなければならない。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れる。・・神である主の御告げ。・・」
この二頭ずつのいけにえを七日間行ない、それで贖いが完成します。そうすれば約束があり、「
わたしはあなたがたを受け入れる
」です。
すばらしいです、主が私たちを受け入れてくださるまで、完全な祭壇による贖いを行わければいけない、ということです。私たちはしばしば、罪を罪として残したままにして平気で、主と交わっていると勘違いします。主と交わるには暗やみがあってはならない、と第一ヨハネ1章にあります。主が徹底的にその罪をその身に負ってくださり、その血によって清めてくださったからこそ、主は私たちを受け入れることがおできになります。この非常に高くついた代価を私たちは決して忘れてはなりません。
次回は、この中におけるいけにえについて学びます。そして興味深い人物「君主」が出てきます。彼が誰であるかも次回、取り組んでみたいと思います。
(あとがき)
以下のサイトに行けば、神殿についての動画説明、そしてソフトを導入して自分自身で3D映像を操作することができます。
Video Tour of the Future Temple and Messianic Kingdom as Described in Ezekiel Chapters 40-48
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