エズラ1−3章 「新しい歴史の幕開け」


アウトライン

1A クロスの布告 1
   1B 預言の実現 1−4
   2B 周囲の援助 5−11
2A エルサレム帰還 2
   1B 系図 1−67
   2B ささげ物 68−70
3A 起工式 3
   1B 仮庵の祭り 1−5
   2B 礎の工事 6−13

本文

 エズラ記1章を開いてください、今日からエズラ記の学びを始めます。今日は1章から3章までを学びます。ここでのテーマは、「新しい歴史の幕開け」です。私たちはこれまでずっと、イスラエルが外国に捕え移される歴史を見てきました。ダビデがイスラエルの王国を確立し、エルサレムを都と定めてからアッシリヤとバビロンの捕囚の民となったところの歴史です。けれども、バビロンでの捕囚の民としての生活が終わりました。これから、エルサレムに帰還して新たな生活を始める歴史に入ります。

1A クロスの布告 1
1B 預言の実現 1−4
1:1 ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。

 この一節だけでも、一つの説教にすることができるような内容の詰まったクロス王の布告です。1節に、「エレミヤにより告げられた王のことばを実現するために」とあります。それは、前回の歴代誌第二の最後にも言及されていた七十年というバビロン捕囚の月日についての預言です。エレミヤ書2910節から読みます。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(1012節)」私たちがよく覚えている有名な「平安を与える計画」は具体的には、イスラエルが七十年経った後に約束の地に帰ることができる、という計画です。ペルシヤの王クロスが布告を出したのは紀元前536年です。ちょうど七十年前は、バビロンによる第一回目のユダヤ人捕囚がありました、紀元前606年です。

 そしてエレミヤの預言を続けて読みますと、心を尽くして主を捜し求めるなら、主によって見いだされられて、イスラエルは帰還することができると約束されています。以前、ソロモンも神殿奉献の式で祈った時、こう祈っています。「捕われていった敵国で、心を尽くし、精神を尽くして、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた彼らの地、あなたが選ばれたこの町、私が御名のために建てたこの宮のほうに向いて、あなたに祈るなら、あなたの御住まいの所である天で、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの言い分を聞き入れ、あなたに対して罪を犯したあなたの民を赦し、あなたにそむいて犯したすべてのそむきの罪を赦し、彼らを捕えていった者たちが、あわれみの心を起こし、彼らをあわれむようにしてください。(1列王8:48-50

 この祈りをささげた人がいました。ダニエルです。彼は日に三度、エルサレムのほうを向いて祈っていました。そのために、獅子の穴に投げ込まれたのですが、ダニエル書9章を開いてください。「メディヤ族のアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤ人の国の王となったその元年、」つまりバビロンがクロスによって滅ぼされてすぐにダリヨスが王となったときです。彼がエルサレムに向かって何を祈っていたかが次からわかります。「すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。」彼は、バビロン第一回捕囚のときに捕われて来ました。そして数えると、あと1〜2年でちょうど七十年になります。それで自分たちがエルサレムに帰れる時が間近になっているのを知ったのです。

 続けてこう思っています。「そこで私は、顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求めた。私は、私の神、主に祈り、告白して言った。「ああ、私の主、大いなる恐るべき神。あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守り、恵みを下さる方。私たちは罪を犯し、不義をなし、悪を行ない、あなたにそむき、あなたの命令と定めとを離れました。私たちはまた、あなたのしもべである預言者たちが御名によって、私たちの王たち、首長たち、先祖たち、および一般の人すべてに語ったことばに、聞き従いませんでした。主よ。正義はあなたのものですが、不面目は私たちのもので、今日あるとおり、ユダの人々、エルサレムの住民のもの、また、あなたが追い散らされたあらゆる国々で、近く、あるいは遠くにいるすべてのイスラエル人のものです。これは、彼らがあなたに逆らった不信の罪のためです。・・・(7節まで)」彼は、数々の預言者が語っていたとおりのことが、自分たちの身にふりかかったことを素直に認めたのです。このような災いはかつてないほどだけでども、それは私たちの罪のためであり、あなたは正しい方ですと、へりくだっています。

 
そして彼は主にあわれみを請います。16節からです、「主よ。あなたのすべての正義のみわざによって、どうか御怒りと憤りを、あなたの町エルサレム、あなたの聖なる山からおさめてください。私たちの罪と私たちの先祖たちの悪のために、エルサレムとあなたの民が、私たちを取り囲むすべての者のそしりとなっているからです。私たちの神よ。今、あなたのしもべの祈りと願いとを聞き入れ、主ご自身のために、御顔の光を、あなたの荒れ果てた聖所に輝かせてください。私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください。私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。(1618節)」エルサレムに戻って、聖所を回復してください、という祈りをささげました。するとガブリエルがやって来て、民と聖所のために回復のための七十週が定められていると伝えたのです。

 このダニエルの預言研究と祈りがあって、今、主がクロス王の霊を奮い立たせて、エルサレム帰還の布告を出させたのです。改めて、ダニエルがユダヤ人のために大いなることをしたのだと思わされます。そして注意深くクロス王の発布を読みますと、彼は明確に主から与えられた自分の使命をわきまえています。

1:2 「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。1:3 あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。1:4 残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても、その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるささげ物のほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ。』」

 なぜクロスは、イスラエルの神が天の神であり、この神が世界の諸国を自分に与えてくれたこととか、エルサレムに宮を建てるという具体的な事業がゆだねられているとか、宮の建築ために援助をしなければいけないとか、それらが神からの命令であることが分かるのでしょうか?それは、だれかがイザヤの預言を彼に教えたからでしょう。イザヤ書4424節を開いてください。「あなたを贖い、あなたを母の胎内にいる時から形造った方、主はこう仰せられる。「わたしは万物を造った主だ。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げた。わたしは自慢する者らのしるしを破り、占い師を狂わせ、知恵ある者を退けて、その知識を愚かにする。わたしは、わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画を成し遂げさせる。エルサレムに向かっては、『人が住むようになる。』と言い、ユダの町々に向かっては、『町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる。』と言う。淵に向かっては、『干上がれ。わたしはおまえの川々をからす。』と言う。わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる。』と言う。エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる。』と言う。(イザヤ44:24-28」イザヤは、クロスが生まれるはるか約150年前に、「クロス」と名指しで、バビロンを崩壊させ、ユダヤ人たちをエルサレムに帰還させる器として用いられることを預言したのです。

 この預言の正確さは計り知れないものがあります。「占い師を狂わせ、知恵ある者を退けて、その知識を愚かにする。」とありますが、ダニエル書5章にはベルシャツァル王が宴会を催していたとき、壁に人の指が現われて物を書いたのを見たとき、彼は占い師や知者を呼び集めて、その意味を解き明かさせようとしましたが、だれも答えることができませんでした。そして続けて、「わたしは、わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画を成し遂げさせる。」と言いましたが、主の僕であるダニエルがその文字を解き明かし、それがバビロンが倒れてメディヤとペルシヤに渡されることを言ったその夜に、バビロン国は崩壊したのです。

 続けてイザヤ書を読むと、45章にはこう書いてあります。「主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。(1-3節)」「腰の帯を解き」とありますが、壁のところに人の指を見たベルシャツァルは、腰の関節がゆるみ、ひざはがたがた震え始めました。

 そして、「彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。」とありますが、44章のほうで読んだ、「淵に向かっては、『干上がれ。わたしはおまえの川々をからす。』と言う。」という預言と合わせて、クロスがバビロンの町を攻めた時の歴史的記述と完全に一致します。クロスはバビロンの中を流れるユーフラテス川に人工的に支流をつくり、水の流れを迂回させました。すると、バビロンの壁の下から、乾いた川床を通って中に入ることができました。入っても、青銅のとびら、鉄のかんぬきがあるのですが、ベルシャツァルの宴会によってみなが泥酔して、門をあけたままにしていたのです。そこで難なく宮中に入ることができ、バビロン王を倒すことができたのです。

 ダニエルは、おそらくクロス王にこれらのイザヤ書の預言を見せたのでしょう。自分のことが、その細かいところまでが語られているこの言葉の神が、エルサレムの神であり、私にユダヤ人をエルサレムに帰還させる使命を賜っているのだと悟ったのでしょう。もともとダニエルは、ユダが捕われの民であったときであっても、自分が仕えていた王に力強い証しを立てていました。ネブカデネザルは、最後は自分自身も回心しているのではないかと思われるほど、イスラエルの神が王の王であり、主の主であることを宣言したし、ダリヨスもダニエルが獅子から救い出された奇蹟を見て、自分が治めている諸国民に対して、この天の神をあがめるように命令しました。こうした王たちに対する証しがあって、クロス王の発布にまで至ったのです。ダニエルの証しがいかにすぐれたものであるかを思わされます。

2B 周囲の援助 5−11
1:5 そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、すなわち、神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった。1:6 彼らの回りの人々はみな、銀の器具、金、財貨、家畜、えりすぐりの品々、そのほか進んでささげるあらゆるささげ物をもって彼らを力づけた。

 ペルシヤの地にいる、捕囚の民の中で主にユダとベニヤミンの人たち、また祭司やレビ人たちが、クロス王の発令に御霊によって触発されました。

1:7 クロス王は、ネブカデネザルがエルサレムから持って来て、自分の神々の宮に置いていた主の宮の用具を運び出した。

 かつてネブカデネザルが、神の宮から自分の神々の宮に器具を運び出しましたが、クロス王はそれを返還しています。

1:8 すなわち、ペルシヤの王クロスは宝庫係ミテレダテに命じてこれを取り出し、その数を調べさせ、それをユダの君主シェシュバツァルに渡した。1:9 その数は次のとおりであった。金の皿三十、銀の皿一千、香炉二十九、1:10 金の鉢三十、二級品の銀の鉢四百十、その他の用具一千。1:11 金、銀の用具は全部で五千四百あった。捕囚の民がバビロンからエルサレムに連れて来られたとき、シェシュバツァルはこれらの物をみないっしょに携えて上った。

 シェシュバツザルとはゼルバベルのことです。ユダヤ人の総督です。次に出てきます。

2A エルサレム帰還 2
1B 系図 1−67
2:1 バビロンの王ネブカデネザルがバビロンに引いて行った捕囚の民で、その捕囚の身から解かれて上り、エルサレムとユダに戻り、めいめい自分の町に戻ったこの州の人々は次のとおりである。2:2 ゼルバベルといっしょに帰って来た者は、ヨシュア、ネヘミヤ、セラヤ、レエラヤ、モルデカイ、ビルシャン、ミスパル、ビグワイ、レフム、バアナ。イスラエルの民の人数は次のとおりである。

 ネヘミヤ記ではさらに一人加えられ、十二人の名が列挙されています。おそらくはイスラエル十二部族全体を代表しているのでしょう。思い出していただきたいですが、イスラエルが北イスラエルと南ユダに分裂した後、エルサレムで主を礼拝したい北イスラエル十部族の人たちがユダやベツレヘムのほうに来ていました。彼らも共にバビロンに捕囚とされ、そして帰還しているのかもしれません。また、もともとアッシリヤ帝国に捕え移された北イスラエルの人たちは、その時はすでにメディヤ・ペルシヤ帝国の中に住んでいたのです。アッシリヤをバビロンが倒し、バビロンをメディヤ・ペルシヤが倒したからです。したがって、帰還後のイスラエルは北十二部族を含む全イスラエルを構成していました。

 そして3節から氏族ごとの人数が記載されており、21節からは出身の町ごとの人々の人数が記載されています。ユダとベニヤミンの中にある町です。そして、36節からは祭司の氏族の人数が、40節からはレビ人の氏族の人数です。歌うたい、門衛など各奉仕に割り当てられている氏族も列挙されています。そして55節からは、ソロモン時代、宮中で働いた人たちの子孫が書かれています。

 興味深いのは59節からです。彼らがきちんとユダヤ人の血を持っているのかどうか、正確を期した姿を読むことができます。

2:59 次の人々は、テル・メラフ、テル・ハルシャ、ケルブ、アダン、イメルから引き揚げて来たが、自分たちの先祖の家系と血統がイスラエル人であったかどうかを、証明することができなかった。2:60 すなわち、デラヤ族、トビヤ族、ネコダ族、六百五十二名。2:61 祭司の子孫のうちでは、ホバヤ族、コツ族、バルジライ族。・・このバルジライは、ギルアデ人バルジライの娘のひとりを妻にめとったので、その名をもって呼ばれていた。・・2:62 これらの人々は、自分たちの系図書きを捜してみたが、見つからなかったので、彼らは祭司職を果たす資格がない者とされた。2:63 それで、総督は、ウリムとトンミムを使える祭司が起こるまでは最も聖なるものを食べてはならない、と命じた。

 ウリムとトンミムは、神のみこころを伺うときに使われた、おそらくは輝石ではなかったかと思われます。系図によっては祭司の子孫であることが証明されなかったので、神による直接の方法ができるまで、祭司の務めを行っていけませんでした。

2:64 全集団の合計は四万二千三百六十名であった。

 従来のイスラエルとユダの人口を考えてみたら、非常に少ない数です。もちろん、帰還に加わらなかったユダヤ人はたくさんいました。むしろ、商売や貿易でかなり成功していた人たちが多く、ペルシヤのユダヤ人に寛容な政策の中で、比較的快適に暮らしていたと考えられます。ですから、神の約束がこのようにクロスによって実現しても、それに応答しない人たちも出てくるわけです。私たちはどうでしょうか?今の生活に満足しているために、神が戸を開かれても前に向かって進んでいかないということはないでしょうか?

2:65 このほかに、彼らの男女の奴隷が七千三百三十七名いた。また彼らには男女の歌うたいが二百名いた。2:66 彼らの馬は七百三十六頭。彼らの螺馬は二百四十五頭。2:67 彼らのらくだは四百三十五頭。ろばは六千七百二十頭であった。

 全人数に比べたら、移動・運搬用の家畜はかなり少ないです。二人乗りとか、あるいは多くは徒歩で歩いたのでしょう。馬はかなり少なくだいたい、ろばが多かったみたいです。

2B ささげ物 68−70
 このように、少ない人数の中でも、主に従おうとする人たちが現われたことはすばらしいことです。この人たちがこれから、神さまにささげ物をささげます。

2:68 一族のかしらのある者たちは、エルサレムにある主の宮に着いたとき、それをもとの所に建てるために、神の宮のために自分から進んでささげ物をした。2:69 すなわち、彼らは自分たちにできることとして工事の資金のために金六万一千ダリク、銀五千ミナ、祭司の長服百着をささげた。

2:70 こうして、祭司、レビ人、民のある者たち、歌うたい、門衛、宮に仕えるしもべたちは、自分たちのもとの町々に住みつき、すべてのイスラエル人は、自分たちのもとの町々に住みついた。

 七十年あるいは、七十年近く離れていた町々にようやく戻ることができました。

3A 起工式 3
1B 仮庵の祭り 1−5
3:1 イスラエル人は自分たちの町々にいたが、第七の月が近づくと、民はいっせいにエルサレムに集まって来た。

 第七の月は秋の祭りの季節です。ラッパを吹き鳴らす日から始まり、そして贖罪の日があります。そして仮庵の祭りを守ります。戻ってきた人々はすべて、いっせいにこのモーセの律法を守るために集まってきました。

3:2 そこで、エホツァダクの子ヨシュアとその兄弟の祭司たち、またシェアルティエルの子ゼルバベルとその兄弟たちは、神の人モーセの律法に書かれているとおり、全焼のいけにえをささげるために、こぞってイスラエルの神の祭壇を築いた。

 エルサレム帰還において、神よって立てられた指導者は二人います。一人はゼルバベル、もう一人はヨシュアです。ゼルバベルはユダ族の人であり、ダビデの末裔です(1歴代3:19参照)。彼が総督であり政治的な指導者となっています。もう一人はヨシュアで、彼は大祭司です。この二人が神殿再建の時に用いられる器となって、この二人について預言者ハガイとゼカリヤが叱責と励ましの預言を行ないます。エズラ記の前半部分を読むにあたって、ハガイ書とゼカリヤ書を読むとその背景を知ることができます。

3:3 彼らは回りの国々の民を恐れていたので、祭壇をもとの所に設けた。彼らはその上で主に全焼のいけにえ、すなわち、朝ごと夕ごとの全焼のいけにえをささげた。

 祭壇を築くときに、周囲のことを気にしなければいけませんでした。次回の学びやネヘミヤ記の中に出てきますが、周囲の人たちは神殿建設を阻止するのに躍起になります。新しく来た者たちに敵対的だったのです。

3:4 彼らは、書かれているとおりに仮庵の祭りを祝い、毎日の分として定められた数にしたがって、日々の全焼のいけにえをささげた。3:5 その後、常供の全焼のいけにえと、新月の祭りのいけにえと、主の例祭のすべての聖なるささげ物、それからめいめいが喜んで進んでささげるささげ物を主にささげた。

 モーセの律法に書かれているとおりに行ない、それを喜びとして行なっています。残された帰還の民の心には、主のみこころを行なうことこそこの上もない喜びだったのです。

2B 礎の工事 6−13
3:6 彼らは第七の月の第一日から全焼のいけにえを主にささげ始めたが、主の神殿の礎はまだ据えられていなかった。3:7 彼らは石切り工や木工には金を与え、シドンとツロの人々には食べ物や飲み物や油を与えた。それはペルシヤの王クロスが与えた許可によって、レバノンから海路、ヤフォに杉材を運ぶためであった。

 神殿の礎から工事を始めます。ネブカデネザルが神殿を破壊した時、根こそぎ破壊したことがよく分かります。

 そして、資材の調達ですが以前ソロモンが神殿を建てたときと同じように、レバノンの職人を雇っています。またいかだを組んでレバノンからヨッパまで木材を運ばせたのも、従来と同じです。これをクロスが許可をしたということですから、クロスはかつてのソロモンの神殿建設についても詳しく聞かされていたかもしれません。

3:8 彼らがエルサレムにある神の宮のところに着いた翌年の第二の月に、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアと、その他の兄弟たちの祭司とレビ人たち、および捕囚からエルサレムに帰って来たすべての人々は、主の宮の工事を指揮するために二十歳以上のレビ人を立てて工事を始めた。

 翌年の第二の月ですから、だいたい七ヶ月経ってから工事を始めました。

3:9 こうして、ユダヤ人ヨシュアと、その子、その兄弟たち、カデミエルと、その子たちは、一致して立ち、神の宮の工事をする者を指揮した。レビ人ヘナダデの一族と、その子、その兄弟たちもそうした。

 工事は直接的にレビ人が関わるようにさせ、祭司たちが指揮しています。神殿の実際的な事柄において霊的指導者が関わっています。教会も同じように、牧師などがその会堂建設や教会の予算など、主に祈って具体的に主に与えられたものを管理し、使用していくのかを考えるわけです。

3:10 建築師たちが主の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって主を賛美するために、祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出て来た。

 ついに礎が完成し、起工式を行ないます。モーセの律法にしたがった彼らは今度は、ダビデの規定にしたがって賛美の歌をうたい、音楽を奏でます。

3:11 そして、彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに。」と歌い合った。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。

 「歌い合った」とありますが、これはちょうど輪唱のような感じで歌っていたのでしょう。

3:12 しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。3:13 そのため、だれも喜びの叫び声と民の泣き声とを区別することができなかった。民が大声をあげて喜び叫んだので、その声は遠い所まで聞こえた。

 神殿が崩壊したのは、紀元前586年です。そしてこの時は紀元前535年あたりですから、60歳程度であれば以前の神殿を見て、覚えていたと考えられます。

本当に複雑な感情が放出されています。喜びの叫び声と、悲しみの叫び声です。喜びの叫び声は、バビロンの中で生まれ育ち、生まれながらにして捕囚の民であり、イスラエルに対する神の約束はただ言葉でしか聞いたことがなかったことです。ですから、今、その約束が実現されつつあるのを見て、喜んでいるのです。けれども、悲しんでいる人は前の栄華と比べると全然劣っていることを知っていて、イスラエルが犯した罪がいかに大きな禍根を残したのか、思い出さざるを得なかったのです。

罪がもたらす傷が大きいものです。それが赦され主が恵みによって回復してくださっても、罪がいかに大きな悲しみをもたらしたかをよく知っています。これは罪を憎み、罪から離れるのに必要な感情でありますが、できるなら、この若い世代の人たちのように罪を知らないほうが良かったのです。

けれども今、新しい時代が始まりました。神が与えてくださった新しい生活です。神に応答したのはわずかな残りの民でしたが、それでも彼らは神に対して忠実です。神のあわれみと恵みの中で、主にあって家を建てあげるわざを行なうことができます。


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