エズラ記7−8章 「主の恵みの御手」
アウトライン
1A 王の命令 7
1B 律法に通じた学者 1−10
2B 主の宮への栄光 11−28
2A 宝物の運搬 8
1B 帰還者の系図 1−14
2B アハワ川の断食 15−34
3B 全焼のいけにえ 35−36
本文
エズラ記7章を開いてください、今日は7章と8章を学びます。ここでのテーマは、「主の恵みの御手」です。前回の学びは、「注がれる神の目」というのがメッセージ題でしたが、反対者に遭っても神の目が注がれているので、主に命じられたことを行なうことができる、という内容でした。今回も似たような内容です。主がご自分のことを行なわれるときに、周りの状況をすべて支配してくださること、つまり主の御手が置かれることについて学びます。
1A 王の命令 7
1B 律法に通じた学者 1−10
7:1a これらの出来事の後、ペルシヤの王アルタシャスタの治世に、エズラという人がいた。
「これらの出来事」というのは、私たちがこれまで学んできたゼルバベルが主導した神殿再建の出来事のことです。神殿建築が完成したのは、紀元前515年のことです。そしてこれからエズラがエルサレムに帰還しますが、その年が紀元前458年のことです。57年の空白期間があります。(ちなみに、この間にペルシヤの都シュシャンでは、エステルを取り巻くユダヤ人虐殺の危機の出来事が起こっていました。)エズラ記はもちろんエズラによって書かれたものですが、これまでの1章から6章はエズラのことではなくゼルバベルのことでしたが、これからはエズラ本人が体験したことを書いていきます。
7:1bこのエズラはセラヤの子、順次さかのぼって、アザルヤの子、ヒルキヤの子、7:2 シャルムの子、ツァドクの子、アヒトブの子、7:3 アマルヤの子、アザルヤの子、メラヨテの子、7:4 ゼラヘヤの子、ウジの子、ブキの子、7:5 アビシュアの子、ピネハスの子、エルアザルの子、このエルアザルは祭司のかしらアロンの子である。
エズラは自分が祭司の身分があるアロンの末裔であることを、このように系図によって証明しています。この作業は非常に重要なものでした。イスラエルの地から引き抜かれて、それぞれ離散の地に居住していたからです。その中で、自分たちがユダヤ人であるという身分証明が重要になりました。ゼルバベルの主導の下エルサレムに帰還するとき、その証明ができなかった人たちは祭司の職に就くことができなかったことを思い出してください。ですから系図を書き記す必要がありました。
むろん現在、神がキリストのからだによってご自分の救いの栄光を現わす時代においては、ユダヤ人も異邦人も関係なく、キリストにあって一つであるという系図を問わない経綸の中にいます。ですから、いま自分たちが何人であるのかは関係ありません。
むしろ私たちは、かつてエズラたちが系図にこだわった同じこだわりをもって、キリストにある神の子どもであるという結びつきにこだわらなければいけません。親がクリスチャンであるとか、自分が教会に所属しているとか、そのような要素で私たちは人をクリスチャンであるかどうかの物差しにしてしまいがちですが、使徒ヨハネは明確にこう言いました。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(ヨハネ1:12-13)」イエスの名を信じているという、その明確な信仰告白に基づいてクリスチャンになっています。
7:6 エズラはバビロンから上って来た者であるが、イスラエルの神、主が賜わったモーセの律法に通じている学者であった。彼の神、主の御手が彼の上にあったので、王は彼の願いをみなかなえた。
エズラを主導とするエルサレム帰還は、神殿増築やいけにえの調達の目的がありましたが、それだけでなく律法を教えるという事業がありました。エズラは祭司である以上にモーセの律法に通じる学者でした。エズラ記ではなくネヘミヤ記にて、エズラがイスラエル人たちに律法を教えている場面が出てきます。
バビロン捕囚以後のイスラエル人たちの歴史で特徴的なのは、この律法を教える学者の存在でした。バビロン捕囚以前にもその萌芽がありましたが、ヨシヤが王のときにそれを行なっています。彼自身が律法の巻を読んでもらい、衣を引き裂き悔い改めましたが、その後にイスラエル人たちを集めて律法を聞かせました。自分たちがいかに、主がお語りになったことからかけ離れていることを行なっているかを知るために律法を聞き、そして祭司だけでなくイスラエル人全体がそれを聞く必要を知ったのです。
そこで、ゼルバベルによる神殿の再建、またネヘミヤによるエルサレムの町の城壁の再建だけでなく、エズラによる律法を教える改革も行なわれたのです。神によって土地から引き抜かれて、すべてを失ってしまったイスラエル人は、再び神によって植えられる作業を行なっています。その時、全面的に最初からイスラエル人としての土台作りをしていかなければいけませんでした。律法を一般民衆にも教えることにより、その改革を推進しようとしました。
そして驚くことに、この必要性を感じたのはとりわけ霊的なユダヤ人ではなく、異教徒であるペルシヤ人の王であったのです。王の心を神ご自身が奮い立たせて、エズラの願いを全面的に組み入れるようにさせて、律法をイスラエル人たちに教えるように命じるのです。「彼の神、主の御手が彼の上にあった」とあります。神の選びというものはこういうもので、私たちが何かを行なうときに自分の主導によっては決して行なうことはできません。かならず神のあわれみと恵みが先行し、事が進みます。ローマ書9章に、「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(9:16)」とあるとおりです。
7:7 アルタシャスタ王の第七年にも、イスラエル人のある者たち、および、祭司、レビ人、歌うたい、門衛、宮に仕えるしもべたちのある者たちが、エルサレムに上って来た。
536年にゼルバベルらがエルサレムに帰還したときだけでなく、エズラが帰還するときにも祭司やレビ人など、神殿にて奉仕する人たちがいっしょに行きました。
7:8 エズラは王の第七年の第五の月にエルサレムに着いた。7:9 すなわち、彼は第一の月の一日にバビロンを出発して、第五の月の一日にエルサレムに着いた。彼の神の恵みの御手が確かに彼の上にあった。
ちょうど四ヶ月という帰還です。ユーフラテス川を越えて、現代のイスラエル国があるところまで、そしてエルサレムの町まで基本的に徒歩で来るのに四ヶ月という短期間で来ることができました。彼らはその他、いけにえのための家畜や金や銀などの貴重品も携えつつ歩いていきましたから、これは驚くほどの短期間です。その理由は、「彼の神の恵みの御手が確かに彼の上にあった」からです。私たちがいろいろな計画を立て、それを実行するための準備をしますが、しかし実際に成功するのは、一方的な神の恵みによってでしかありません。神の恵みの御手が物事を動かすのです。
そしてここに「彼の神の恵みの御手」とあります。エズラは個人的に神を知っていました。個人的に神が自分に関わってくださっているのを知っていました。私たちもこのような神の恵みの働きを体験することが必要です。
7:10 エズラは、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルでおきてと定めを教えようとして、心を定めていたからである。
律法の教師として三つの大切な要素がここに書かれています。一つは、律法を「調べる」ことです。聖書に書かれてある内容を客観的に知ることなくして、神がお語りになっていることを知ることはできません。私たちが聖書を読むときも、そこに何が書かれているか前後関係を考えながら観察していくことは非常に大事です。そして二つ目の要素は、「実行する」ことです。知っただけではそれは単なる知識です。知識を披露するだけなら意味がありません。そうではなく、神の御言葉を調べているうちに、主が御霊によって心に語りかけてくださいます。それを実行する必要があります。それから三つ目の、「おきてと定めを教える」という働きに入ります。心の中で受け入れているだけでは足りません。一つに伝えるのも大切な仕事です。
そして大事なのは、「心に定めていた」というところです。この言葉を英語で言い表わすには、コミットメント(commitment)というのがあります。どんなことが周りで起こって、私は必ずこれを行なうという決意です。行なおうとする気持ちや勢いではなく、静かに心の奥底で行なう意思決定です。自分だどんな状況に置かれてもそれは変わることはありません。かつてダニエルの友人三人が、ネブカデネザル王に、なぜ金の像の前でひれ伏すことをしないのかと問い詰められました。命令に従わなければ、燃える火の炉に投げ込むという脅しの中で、彼らは自分たちの神は燃える火の炉から救い出してくださいます、と言った後で、「もしそうでなくても、私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。(ダニエル3:18)」と言いました。
これがコミットメントですが、エズラはダニエルの友人三人のように、周りの外的要素に左右されないで、律法を調べ、これを行い、人々に伝えることをはっきりと決めていたのです。この決意があったので神の恵みの御手が彼の上にあったのです。神はいつも、このようにして働かれます。棚ぼた式に、何ら心に定めるものがなくぐらぐらしている人にご自分の恵みの御手を置かれることはありません。神を思いと心に宿す明確な意思決定をした人のみに働かれるのです。
2B 主の宮への栄光 11−28
7:11 アルタシャスタ王が、祭司であり、学者であるエズラに与えた手紙の写しは次のとおりである。・・エズラは、主の命令のことばと、イスラエルに関する主のおきてに精通した学者であった。・・
ここから王が学者エズラに渡した、王の命令が書かれている手紙の内容です。
7:12a 「王の王アルタシャスタ。天の神の律法の学者である祭司エズラへ。
王は自分のことを「王の王」と呼び、自分に絶大な権力があることを言っただけでなく、エズラのことを「天の神の律法の学者」と呼んでいます。彼に絶大な霊的権威があることを認めています。
7:12bこの件は完了した。さて、7:13 私は命令を下す。私の国にいるイスラエルの民、その祭司、レビ人のうち、だれでも自分から進んでエルサレムに上って行きたい者は、あなたといっしょに行ってよい。7:14 なぜなら、あなたは、あなたの手にあるあなたの神の律法に従ってユダとエルサレムを調査するよう、王とその七人の議官によって遣わされており、7:15 また、王とその議官たちが、エルサレムに住まれるイスラエルの神に進んでささげた銀と金、7:16 バビロンのすべての州で、あなたが得るすべての銀と金、それに、エルサレムにある自分たちの神の宮のために、民と祭司たちが進んでささげたささげ物をも合わせて携えて行くために遣わされているからである。
神の律法を教えることの外に、いろいろな人たちからのささげ物を携えていくためにエルサレムに行きます。一つは、王と議官たちからのささげ物です。王も議官も自分たちの自腹を切って、エルサレムの神殿のためにささげています。もう一つは、エズラたちが自分たちで持っている金銀です、そしてもう一つは、その他のイスラエル人たちが自ら進んでささげに来たささげ物を携えていきます。
7:17 それゆえ、あなたはその献金で、牛、雄羊、子羊、また、そのための穀物のささげ物と注ぎのぶどう酒を心して買い求め、エルサレムにあるあなたがたの神の宮の祭壇の上で、それをささげなければならない。7:18 また、残りの銀と金の使い方については、あなたとあなたの兄弟たちがよいと思うことは何でも、あなたがたの神のみ心に従って行なうがよい。7:19 また、あなたの神の宮での礼拝のために、あなたに与えられた器具は、エルサレムの神の前に供えよ。7:20 その他、あなたの神の宮のために必要なもので、どうしても調達しなければならないものは、王の宝物倉からそれを調達してよい。
ささげられた金銀の使い道についてついて指示しています。金銀は、神殿の犠牲のささげ物を購入するために使います。残ったものは、あなたがたの自由で、神のみこころに従った使い方をします。そして金銀だけでなく、神殿で使うためにささげられた器類がありますが、これは確かに神殿の器として用いなさい、と命じています。また、不足分は王の財産から調達しても良いという太っ腹です。
7:21 私、アルタシャスタ王は、川向こうの宝庫係全員に命令を下す。天の神の律法の学者である祭司エズラが、あなたがたに求めることは何でも、心してそれを行なえ。7:22 すなわち、銀は百タラントまで、小麦は百コルまで、ぶどう酒は百バテまで、油も百バテまで、塩は制限なし。
王や議官だけでなく、ユーフラテス川の向こう側、つまりイスラエルがある地域の財務省の役人に対して、神殿のための予算を作りなさいと命じています。
7:23 天の神の宮のために、天の神によって命じられていることは何でも、熱心に行なえ。御怒りが王とその子たちの国に下るといけないから。
アルタシャスタ王がここまで、イスラエルに住まわれる神に対してささげようとしている動機は、健全な神への恐れからでてきたものでした。アルタシャスタ王は、かなりエズラなどによって教育を受けていたみたいです。バビロンが滅んだその理由が、天の神をあがめず偶像を拝んだからだということ。イスラエルの神に逆らった国々が、どのようにして滅んでいったかについて、かつてアブラハムに神が、「あなたを祝福するものを祝福し、あなたをのろうものをのろう」と言われたことがいかに実現してしたかについて、エズラが王に教えたのだろうと思います。
7:24 また、次のことを知らせる。祭司、レビ人、歌うたい、門衛、宮に仕えるしもべたち、つまり、この神の宮に仕える者にはだれにも、みつぎ、関税、税金を課してはならない。
祭司やレビ人は税金を納めなくても良いです。
7:25 エズラよ。あなたは、あなたの手にあるあなたの神の知恵にしたがってさばきつかさや裁判官を任命し、川向こうにいるすべての民、すなわち、あなたの神の律法を知っているすべての者をさばかせよ。また、これを知らない者に、あなたがたは教えよ。7:26 あなたの神の律法と、王の律法を守らない者には、だれにでも、死刑でも、追放でも、財産の没収でも、または投獄でも、その判決を厳格に執行せよ。」
神の律法の完全な実行を司法においても促しています。
7:27 私たちの父祖の神、主はほむべきかな。主はエルサレムにある主の宮に栄光を与えるために、このようなことを王の心に起こさせ、7:28 王と、その議官と、すべての王の有力な首長の好意を私に得させてくださった。私の神、主の御手が私の上にあったので、私は奮い立って、私といっしょに上るイスラエル人のかしらたちを集めることができた。
本当にその通りですね、この命令には主が働かれています。エズラが行ないたいと願っていること、つまりエルサレムに住む人たちの宗教改革の事業を全面的に援助してくれています。主が働き、戸を開かれるときは、障壁に見えるようなものは一気に取り除かれるのです。
2A 宝物の運搬 8
1B 帰還者の系図 1−14
8:1 アルタシャスタ王の治世に、バビロンから私といっしょに上って来た一族のかしらとその系図の記載は次のとおりである。
系図が14節まで続いています。ここに記載されている人の人数と、後で加えられるレビ人の人数を合計すると1772人です。これは成年男子だけなので女子供を合わせると、おそらく四千人から五千人の人たちが帰還したのでしょう。ゼルバベルの時が約五万人でしたから、かなり少ない人数です。
2B アハワ川の断食 15−34
8:15 私はアハワに流れる川のほとりに彼らを集め、私たちはそこに三日間、宿営した。私はそこに、民と祭司たちとを認めたが、レビ人をひとりも見つけることができなかった。
アハワ川はユーフラテス川の支流になります。
8:16 それで、私はかしらのエリエゼル、アリエル、シェマヤ、エルナタン、ヤリブ、エルナタン、ナタン、ゼカリヤ、メシュラムと、教師エホヤリブ、エルナタンを呼び集め、8:17 彼らをカシフヤ地方のかしらイドのもとに遣わした。私は彼らにことばを授けて、私たちの神の宮に仕える者たちを連れて来るように、カシフヤ地方にいるイドとその兄弟の宮に仕えるしもべたちに命じた。8:18 私たちの神の恵みの御手が私たちの上にあったので、彼らはイスラエルの子、レビの子、マフリの子孫のうちから思慮深い人、シェレベヤと、その子たち、およびその兄弟たち十八名を私たちのところに連れて来た。
エズラは、レビ人がぜひ必要だと思っていました。なぜなら、ネヘミヤ記を読みますとレビ人たちが、律法を人々に聞かせるときそれを解き明かしたことが書かれてあるからです。律法を教える教師が必要でした。律法を教えることを心に定めていたからこそ、思いとどまってレビ人を集めてくるように気づくことができたのです。
8:19 また、ハシャブヤとともに、メラリの子孫のうちからエシャヤと、その兄弟と、その子たち二十名、8:20 および、ダビデとつかさたちにより、レビ人に奉仕するよう任命されていた宮に仕えるしもべたちのうちから、二百二十名の宮に仕えるしもべたちを連れて来た。これらの者はみな、指名された者であった。
律法を教えるレビ人のほかに、神殿で仕えるためのレビ人も連れて行きました。
8:21 そこで、私はその所、アハワ川のほとりで断食を布告した。それは、私たちの神の前でへりくだり、私たちのために、私たちの子どもたちと、私たちのすべての持ち物のために、道中の無事を神に願い求めるためであった。8:22 私は道中の敵から私たちを助ける部隊と騎兵たちを王に求めるのを恥じたからである。私たちは、かつて王に、「私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りとは、神を捨てるすべての者の上に下る。」と言っていたからである。8:23 だから、私たちはこのことのために断食して、私たちの神に願い求めた。すると神は私たちの願いを聞き入れてくださった。
エズラは、ちょっとジレンマに陥っていました。これまでエズラは王に、大胆に神のことを証ししていました。(だからこそ、アルタシャスタ王の命令があれだけ具体的だったのです。)けれども大胆になったのは良いものの、ここで王に護衛兵を頼めば、これまで語ったことを自ら否定してしまうことになります。だから今、必死に祈り始めて、道中が無事に守られるように神に願ったのです。
私たちクリスチャンもこういうことがよくありますね。語ったのはいいものの、それを実際に行動に移していなければ未信者の人たちに、神の証しを立てることはできません。妻のほうの両親に、私は以前、先祖供養の話題からイエスさまのことを伝えようとしました。死んでから親を大事にするのではなく、生きているうちに大事にするのが筋ではないのか?という話をしました。生きているうちに、将来の永遠の運命を決めるのだよ、という問いかけだったのですが、そのことを話す前に、「じゃあ、なんで年賀状を送ったりしているのに返事がないのか?」と言い返されてしまったのです。私たちは年末年始は渡米していることがほとんどなので、年賀状を書く暇もなかったのですが、それでは親のほうは大事にされているとは感じないでしょう。証しを立てているとおりに、相手にも分かるように行動することが必要です。
8:24 私は祭司長たちのうちから十二人、すなわち、シェレベヤとハシャブヤ、および彼らの同僚十人を選び出し、8:25 王や、議官たち、つかさたち、および、そこにいたすべてのイスラエル人がささげた、私たちの神の宮への奉納物の銀、金、器類を量って彼らに渡した。8:26 私は銀六百五十タラント、また、百タラント相当の銀の器類、および、金百タラントを量って彼らに渡した。8:27 それにまた、一千ダリク相当の金の鉢二十。また、金のように高価な、光り輝くみごとな青銅の器類二個を彼らに渡した。8:28 ついで、私は彼らに言った。「あなたがたは主の聖なるものである。この器類も聖なるものとされている。この銀と金は、あなたがたの父祖の神、主への進んでささげるささげ物である。8:29 あなたがたは、エルサレムの主の宮の部屋で、祭司長たち、レビ人たち、イスラエルの一族の長たちの前で量るまで、寝ずの番をして守りなさい。」8:30 祭司とレビ人たちは、その銀、金、器類を、エルサレムの私たちの神の宮に持って行くために、量って、受け取った。
あなた方自身も神に聖別された存在だから、あなたがたが同じく聖別されてる器物や献金を守りなさい、という命令です。こうしてエズラは、祈りを呼びかけ、かつ守る人々をあてがい、そしてまた祈っていたものと思われます。主の御手が私の上にあった、という表現はこの営みから来ています。祈り、そして祈りに基づいて行動し、一歩一歩神を意識しながら、主を認めながら歩みます。
8:31 私たちはエルサレムに行こうと、第一の月の十二日にアハワ川を出発した。私たちの神の御手が私たちの上にあって、その道中、敵の手、待ち伏せする者の手から、私たちを救い出してくださった。
本当に救いです。もちろん、霊的な永遠の救いはあるのですが、具体的な危険や試練について、主は私たちを救い出してくださいます。
8:32 こうして、私たちはエルサレムに着いて、そこに三日間とどまった。8:33 四日目に銀と金と器類が、私たちの神の宮の中で量られ、ウリヤの子の祭司メレモテの手に渡された。彼とともにピネハスの子エルアザルがおり、彼らとともにレビ人であるヨシュアの子エホザバデと、ビヌイの子ノアデヤがいた。8:34 全部が数えられ、量られた。そのとき、全重量が書き留められた。
無事に金銀、器類が届けられました。
3B 全焼のいけにえ 35−36
ゼルバベルたちがエルサレムについてから行なったのは、祭壇を築いていけにえをささげたことでした。エズラたちも同じことを行ないます。
8:35 捕囚の人々で、捕囚から帰って来た者は、イスラエルの神に全焼のいけにえをささげた。すなわち、イスラエル全体のために雄牛十二頭、雄羊九十六頭、子羊七十七頭、罪のためのいけにえとして雄やぎ十二頭をささげた。これはすべて主への全焼のいけにえであった。
前回から出てきましたが、ユダ族、ベニヤミン族、そしてレビ族が中心の帰還集団なわけですが、あくまでもイスラエル十二部族全体を代表していました。
聖書の初めから、主が良いことをしてくださった後にいけにえをささげる場面が出てきます。ノアも、アブラハムなど族長たちも、またその後の聖徒たちも、すぐに全焼のいけにえをささげました。私たちは困った時や、何かをしなければいけない前に祈りささげることはありますが、その後に祈ることを忘れてしまいます。「ようやく終わった」と喜ぶだけで、主に感謝の祈りをささげる時間を持たない事が多いのです。けれども、彼らは事が起こっても、主への献身の思いをすぐ後で表面したのでした。
8:36 それから、彼らは王の命令書を、王の太守たちと、川向こうの総督たちに渡した。この人たちは、この民と神の宮とに援助を与えた。
王の命令書には、彼らに対する命令も含まれていたので渡しました。そして命令書の通りに、彼らも援助しました。
こうして、主の御手が道中ずっとあったところを観察できました。その中でエズラの心定め(コミットメント)、祈り、行動を見ることができました。そして彼は神を自分の神と表現することができたのです。私たちの歩みの上にも主が御手を置いてくださいます。そこに戸が開かれて私たちは前進することができます。
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