創世記 イントロ
アウトライン
聖書全体のテーマ = 「主イエス・キリストとの出会い」
準備 − 旧約聖書
顕現 − 福音書
宣伝 − 使徒行伝
説明 − 書簡
完成 − 黙示録
モーセ五書のテーマ = 「神の祝福」
約束 − 創世記
贖い − 出エジプト記
聖め − レビ記
奉仕 − 民数記
勧め − 申命記
創世記のテーマ = 「神の祝福の約束」
1.約束までの経緯(1−11)
2.約束の内容(12−24)
3.約束の継承(25−36)
4.約束の贖いへの準備(37−50)
創世記1−11章のテーマ = 「神の祝福と呪い」
1A 創造における祝福と呪い 1−4
1B 祝福 1−2
1C 被造物 1
2C 人間 2
2B 呪い 3−4
1C 人間 3
2C 文明 4
2A 子孫における祝福と呪い
1B 祝福 新しい子孫 5
2B 呪い 6−9
1C 原因 − 暴虐 6
2C 内容 − 洪水 7
3C 結果 − 乾き 8
4C 終了 − 契約 9
3A 民族における祝福と呪い 10−11
1B 祝福 − 民族の増加 10
2B 呪い − 民族の離散 11
本文
今日から、創世記からの聖書通涜の学びを始めます。
聖書全体のテーマ 「イエス・キリストとの出会い」
けれども今日は、創世記に入る前に、聖書の全貌を眺めていきたいと思います。聖書が書かれた日的を一言で言い表すと、みなさん何になると思いますか。多くの人は、聖書を道徳を教える書物と考えています。確かに、聖書は人間に善と悪の基準を与えているという意味で、道徳の書物でありますか、前々回学びまし定ように、「あなたがたが、天の父が完全なように、完全でありなさい。(マタイ5:48)」ということばもあり、道徳の書物を考えるには、あまりにも基準が高いです。ある人たちは、科学の書物と考えます。確かに、聖書の記述は科学的にも正しいのですが、このような人はたいてい、奇蹟の場面を読むと聖書を読みたくなくなります。むしろ、「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(イザヤ6:9)」とあり、私たちがすべてを知ることはできないのです。そして、聖書は文学であると考えている人もいます。日本の知識人のほとんとが、そのような読み方をしています。確かに、聖書は、人間の有様を措いているので文学とも言えますガ、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはできません。(ヨハネ14:6)」というイエスのことばを、文学的にどう解釈するのでしょうか。文学としては、あまりにも、私たち自身に深い関わりをせまっています。
そして、ほとんどの人が犯している間違いは、聖書が宗教の書物であることです。確かに、「神」ということばを使っているので宗教の書物と言えますが、聖書は、人間がいかにして神に到達できるかを教えていません。むしろ、神がどのようにして人間に到達されさたかを伝えています。イエスは、「神はそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」と言われています。したがって、私たちが正しい目的で聖書を読まなければ、理解することができす、挫折してしまうのです。
聖書が書かれた目的を一言で言うと、「イエス・キリストという方を知る。」ということです。イエスは、ご自分のことを花婿と呼び、教会のことを花嫁と呼ぼれまし定。花嫁が花婿のところに入り、結ばれるように、私たちはキリストのもとに入り、キリストを知るようになります。この夫婦の関係にはいるまでの段階を、聖書は措いているのです。
みなさんが今、結婚相手を探していると仮定してください。ます、結婚相談所に行き、プロフィールを眺めて、見合いのための準備をします。それから、プロフィールに示されている人物が実際に現われます。写真や文字の説明が、実物として自分の前に現われます。あなたは、その人に結婚を申し出て、その人は同意し、婚約が決まりました。次に、しばらくして、二人は招待状を送ります。それから、結婚式場であなたは、自分の友人たちに、結婚相手の説明をします。それから、式が終わると、はれて二人は夫婦関係に入ります。ここまで至る段階として、まず、結婚相手に会うための準備ガ行われ、第二に、本人が自分の前に現われ、第三に、その人との結婚の知らせをして、第四に、結婚相手の説明をし、最後に夫婦関係に入ります。
聖書全体も、これと同じ段階を踏んでいます。聖書はまず、キリストが実際に現われる前の、準備の記録を残しています。それガ、旧約聖書です。旧約聖書は、歴史、法律、詩、ことわざ、箴言など、さまざまな種頻の書物によって成り立っていますが、これらはみな、キリストの紹介なのです。イエスは言われました。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。(ヨハネ5:39)」したがって、キリストが実際に現われるまでの準備が、聖書に設けられています。
第二に、旧約聖書で語られていたキリストが実際に現われたことを記録しています。それが福音書です。使徒ヨハネは、イエスを証言してこう言いました。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、・・このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。・・(1ヨハネ1:1-2)」キリストが実際に、肉をとってお現れになったのを、福音書が記録しているのです。
そして第三に、イエスが実にキリストである事実を知らせています。それが使徒行伝です。パウロがユダヤ人の会堂で、こう話しました。「しかし、神はこの方を死者の中からよみがえらせたのです。イエスは、ご自分といっしょにガリラヤからエルサレムに上った人たちに、幾日もお現われになりました。きょう、その人たちがこの民に対してイエスの証人となっています。私たちは、神が先祖たちに対してなされた約束について、あなたがたに良い知らせをしているのです。(使徒13:30-32)」このように、イエスがキリストであることを知らせている書物が、使徒行伝です。
第四に、このキリストがどのような方であるか説明されています。それが書簡です。例えば、ローマ人への手紙1章2節には、こう書かれています。「・・この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」このように、イエス・キリストを詳しく、体系的に説明しているのが書簡です。そして最後に、私たちとキリストと結婚が完成することが預言されています。それが黙示録です。キリストと私たちの関係は、今は花婿と花嫁の関係にありますが、キリストが再び現われるとき、私たちは夫婦の関係に入ります。黙示録21章9にEは、御使いが使徒ヨハネに、「私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。」と言っています。したがって、私たちがキリストを完全に知ることが、黙示録に預言されているのです。つまり、婚姻の完成です。
モーセ五書のテーマ 「神の祝福」
このように、聖書全体は、私たちがキリストを知るようになるため、キリストとの関係に入るために書かれていることが分かりました。そこで、旧約聖書を見て、キリストの実際の現われの前の準備段階の部分を見ていこうと思います。聖書の最初の5冊は、「モーセ五書」と呼ばれますね。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記はみな、預言者モーセが書いた書物です。このモーセ五書のテーマは、「神の祝福」です。神の祝福は、キリストを信じる信仰によって実現されますが、その前段階の準備として、この5つの書物が存在しています。それをを読むと、神が私たちを豊かに祝福されたいと願われていることがわかります。しかし同時に、人間が神に反抗するので、その呪いを刈り取っています。それにもかかわらず、神は人間を祝福されようと御手を伸ばしておられるのです。
モーセ五書の鍵になる聖句は、創世記12章1−3節です。
「その後、主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。』」
神は、アフラハムを選ばれて、彼によってすべての民族を祝福する計画を立てられました。神は、この祝福の約束を創世記の中で示されています。
そして、神は、この約束にもとづいて、イスラエルを敵の手から救い出されました。神は、子羊をほふる過越の祭を、彼らがエジプトから脱出する前に制定されましたが、神はそのぎ犠牲をもってイスラエルを救い出されました。このことを贖いと呼びますが、贖いは「買い戻す」という意味です。神がイスラエルを、敵の手から買い取って、ご自分のものされました。この贖いを出エジプト記が記しています。
そして、贖われた民が聖く生きる祝福を、神は与えられました。神は、「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。(レビ19:2)」と言われました。人間は罪あるものであり、神は聖なる万ですが、動物の犠牲ささげものによって、人間が神に近づく方法を設けられました。さらに、人間がきよい生活をすることによって、神とともに歩むことを教えられました。その聖めについて、レビ記が語っています。
さらに、贖われた民が、神に仕える祝福にあずかりました。ミノナイ山においてモーセが授けラ得た律法にしたがって、イスラ工ルの民は、荒野を旅しました。神は、軍務につく人を定めたり、レビ人を幕屋の奉仕に定めたりして、彼らが神に仕えることを実行に移したのです。この奉仕を、民数記が記しています。
最後に、贖われた民が祝福を受け続けるように、神はモーセをとおして勧めをされています。イスラ工ルの民はその不従順によって荒野を40年間さまよいました。それで、ヨルダン川に着いたときには、若い世代のみが残っていました。晩年のモーセが、律法を守り行うように勧めたのです。私たちは、教えられたことをなかなか実行しませんが、だれかが「早く、やりなさい。」と言ったら、実際にそれができるものです。実際に行なうように促すのが勧めですが、モーセは彼らが、律法を聞くだけでな<、実際に守り行うように勧めためです。この勧めが、申命記に書かれています。
したがって、まとめますと、モーセ五書のテーマは「神の祝福」であり、創世記のテーマはその約束、出エジプト記のテーマは約束に基づく贖いであり、レビ記は聖め、民数記は奉仕であり、申命記は勧めです。
このイスラ工ルの歴史は、キリストを信じる者にも当てはめることガできます。パウロは、イスラ工ルに起こつ定ことは、私たちへの戒めである、と話しています(1コリント10:6)。つまり、こういうことです。神の祝福の約束が私たちに与えられています。けれども、私たちが罪を犯したために、その呪いを身にまとっていました。そこでイエスが来られて、血の代価をもって私たちを贖われたのです。贖われた私たちは、聖なる生活をすることによって、また、神に仕える生活をすることによって、神の祝福を得ることができます。また、私たちは、神のみことばの勧め、あるいは、メッセージによって祝福を受けるのです。このように、モーセ五書のそれぞれに書かれていることは、キリストによって神の祝福を受けるために残された、イスラ工ルの歴史なのです。
創世記のテーマ 「神の祝福の約束」
それでは、モーセ五書の創世記の学びに絞ってみましょう。創世記@テーマは、神の祝福の約束であることを学びまし左。創世記12章1−3節は、その祝福の約束です。この箇所を中心にして、創世記全体が書かれています。まず、1章から11章までは、この祝福の約束に至るまでの経緯がされています。なぜ神は、アブラムに対して、私たちが先ほと読んだ祝福のことばを仰せになられたのかが記されています。二番目に、12章から24章までは、この約束の内容が記されています。12章1−3節で宣言された内容が、アブラハムの全生涯において、少しずつ深く啓示されていきます。第三番目に、25章から36章までは、祝福の約束の継承が行われています。アブラハムがイサクへ、そしてヤコブがこの約束を引き継ぎました。そして第四番目に、祝福の約束にもとづく、神の贖いへの準備が書かれています。神がアプラハムの祝福の内容を示されていたとき、彼の子孫が奴練になり、そこから救い出されることによって、祝福の約束を手にすることを語られました(創世15:13−14)。そのための準備が、ヤコブの子、ヨセフの生涯をとおして行われていきます。したがって、第一に約束までの経緯ガ記されていて、第二に約束の内容が書かれていて、第三が約束の継承がなされていて、第四に、約束に基づく贖いの準備が行われています。
創世記1−11章のテーマ 「神の祝福と呪い」
そして、創世記をさらに絞り、1章から11章までの概観を見ていきたいと思います。ここでのテーマは、「神の祝福と呪い」です。私たちの神は、祝福の神です。祝福とは、基本的も「豊かにする」ということであり、イ工スは、「わたしが来たのは、いのちを得、またそれを豊かに持つためです。(ヨハネ10:10)」と言われました。また、使徒パウロは、「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(工ペソ1:3)」と言っています。そして、のういは祝福の反対語です。祝福のない状態がのろいです。神は人を祝福されようとするのですが、人が神に逆らって、罪を犯し、その結果呪いを刈り取ります。神が与えられた祝福を、人間のほうが台なしにしていく歴史が、1章から11章まで書かれています。こうした背景があって、神はアフラハムを選び、祝福を確立させる約束を与えられたのです。
神の祝福とのろいのサイクルは、主に3つ段階を経ています。第一段階は、創造における祝福とのろいです。神が造らたものは非常によかったのですが、アダムの罪によって地がのろわれたものとなり、またカインの殺人によって、人間がのろわれた者となりました。けれとも神は、アダムの子セツを、カインの代わりに与えられました。そこで第二段階は、子孫における祝福とのういです。神は、セツから出た子孫を祝福されましたが、増え広がった人類が暴虐に満ちたために、そののういを洪水というかたちでもって刈り取りました。しかし神は、セツの子孫のノアとその家族を残して、ノアの3人の息子によって人間を祝福する計画を開始されたのです。これが第三段階であり、これはまた、民族による祝福とのろいです。セムとハムとやへテの3人から、人々が出てきましたが、バベルにおいて塔を建てることにより神に反逆したため、言語を混乱させられました。このように、神は私たちに祝福のご計画を立てられていたにE、人間の反抗によってのろいも定められていました。けれども神は、そのサイクルを止めるために、ひとりの人アフラハムを選ぼれました。彼を祝福して、彼の子孫を祝福し、さらにその子孫によって、すべての民族を祝福する計画を立てられました。それが、創世記の12章1−3節です。
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