創世記10−13章 「変わる事のない神の祝福」

アウトライン

1A 民族における神の祝福とのろい 10−11
   1B  祝福  10
   2B のろい  11
2A 新しい民族  12−13
   1B 信仰による従順  12
   2B 目に見えないことの確信 13

本文

 今日は、創世記の10章から13章までを学びます。ここでのテーマは、「変わることのない神の祝福」です。私たちは創世記1章から9章までで、神の祝福とのろいが繰り返されるのを見てきました。聖書の神は祝福の神です。しかし、人間が神に反抗して、のろいを刈り取っています。今日読むところの前半部分10章と11章では、人間が再び神に反抗して、神のさばきにあっている部分が出てきます。しかし、12章において、神は人間の行いとは別の、無条件の祝福の計画をたてられました。人間がどんなに反抗してもけっして変わることのない祝福を、神は約束されたのです。

1A  民族における神の祝福とのろい  10−11
 それでは早速10章から読んでいきましょう。

1B  祝福  10
 これはノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史である。大洪水の後に、彼らに子供が生まれた。

 ここから、ノアの息子から出る子孫の系図が書かれていますが、その行く末をノアが預言している部分があります。9章の25節から27節の部分です。ノアはハムに対して、「のろわれよ。」といいました。そしてセムに対しては、「広がって、セムの天幕に住まわせるように。」と言いました。ハムの子孫がのろわれて、セムの子孫が祝福されて、そして、ヤペテの子孫はセムの恩恵を受けるようになります。

 ヤペテの子孫はゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス。ゴメルの子孫はアシュケナズ、リファテ、トガルマ。ヤワンの子孫はエリシャ、タルシュシュ、キティム人、ドダニム人。これから海沿いの国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれ国々の言語があった。

 最初にヤペテの子孫が書かれています。ここで知っておくべきことは、この子孫から民族が分かれ出たことです。2節に出てくるゴメルはドイツ人、マゴグはロシヤ人です。ヤワンはギリシャ人です。そして飛んで3節のトガルマはアルメニア人にあたります。4節のタルシュシュは今のイギリス人であろうと思われています。したがって、ヤペテの子孫は、主にヨーロッパに住んでいる民族であることがわかりますね。彼に対する預言は、「ヤパテが広がり、セムの天幕に住まわせるように。」というものでしたが、ヤペテは西洋文化として世界の地域に広がっていきました。さらに彼らは、セムの子孫であるユダヤ人の次に、キリストを救い主として受け入れていった人たちです。新約聖書を読みますと、キリストの福音がギリシャとローマに広がっていった箇所を読みます。彼らが主に「異邦人」と呼ばれていた人々ですが、異邦人にも救い主が与えられたのです。それでノアは、ヤペテに対してセムの祝福の恩恵を受けることを預言したのです。

 そして、5節にあることばに注目してください。「国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれ国々の言語があった。」とあります。この表現が、この10章の中にくりかえし出てきます。ノアの3人の息子は当然のことながら、同じ血縁関係にあり、同じ言語を話していました。ですから、一つの民であり、一つのことばを話していたのです.ところが、バベルと言う町において、人間が神に公然と反抗したので、神は彼らのことばを混乱させたのです。そのため、ノアの3人の息子から出てきた子孫は、違うことばを話すようになり、異なる民族を形成するようになりました。

 このように2節から5節までがヤペテの子孫でしたが、6節から20節までがハムの子孫です。ハムに対してノアは、「のろわれよ。・・・兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」と預言しました。これは、ハムの子孫の中から神に反抗する動きが出るからです.

 ハムの子孫は、クシュ、ミツライム、プテ、カナン。クシュの子孫はセバ、ハビラ、サブダ、ラマ、サブテカ。ラマの子孫はシェバ、デダン。クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。彼は主のおかげで、力ある猟師になったので、『主のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ。』と言われるようになった。

 ハムの孫のニムロデに焦点が当てられています。ここで、「主のおかげで猟師になった。」とありますが、ちょっと語弊があります。ヘブル語をしらべますと、「主に反抗するために力ある猟師となった。」と訳したほうがよさそうです。ニムロデとは、「反抗」という意味です。エバが、蛇から誘惑を受けた時のことを思いだして下さい。蛇は、「あなたが、この木の実を食べれば神のようになる。」と嘘をつきました。それで、彼女はその実を食べたのです。人間には、自分が神になりたいという欲望があります。神のように、自分の思う通りにこの世界が動き、自分が人々からの賞賛を受けて、人々が自分に従ってほしいと願います。この欲のために、人間は神に反抗するのです。ニムロデは、それをとことんまで追求した人物です。そのために、彼は権力者となりました。これは、偽りの制度の始まりです。そして、11章では、天に高くそびえる塔が造られています。これは偽りの宗教です。人間はもともと神により頼み、神に従うように造られましたが、彼は、偽りの宗教や制度を造りだすことによって、人々が神をよりたのまなくても安心して生活できるようにしました。そして、最終的に、人々が、彼自身に従うようにさせたのです。

 このような制度は、わたし達の周りにいっぱいあります。今、日本人でクリスチャンは全人口の1パーセント未満ですが、なぜ日本人の人はキリストを信じなくても平気なのでしょうか。お金があるからですね。お金を持っているから、とくに生活に困らないのです。それは、日本に、お金に動くような拝金主義、または商業主義という制度があるからです。本当は人間に必要ないものを、ある一部のグループがもうけるために、無理やりその必要を作り出すのが、商業主義です。「今年は、これがはやりだ。」と言って、みながそれに飛びつきますが、実は、ごく一部の人々にその利益が集中されています。これはニムロデなんですね。そのごく一部の人が、自分たちに人々を従わせるために、本当の神に従わなくても安心して生活できるようなシステム、制度を作り出しているのです。

 日本の教育制度もそうです。戦後日本は、「日本を世界の工場にする。」という目標を掲げました。そのごく一部のエリートの野望を達成するには、日本人をそのように教育するのが早道です。そのために、日本の教育は詰め込み式の、自由や創造性を与えないようなものにしました。わたし達がキリストを日本人の人に伝えるとき、子供達は素直に受け止めます。しかし、中学生や高校生になると、「なんか変な宗教を押し付けている。」と反応します。なぜでしょうか。彼らが神により頼まないで、敷かれたレールの上を歩きなさいと教育されているからです。そのレ−ルの行き着く先は、会社の言いなりになることを進んで求めるロボット人間です。人間の創造性や自由は、神の絶対的な真理とキリストを受け入れることによってもたらされるのですが、キリストが教育の中で除外されています。それは、日本国民全体を一部の人々の権力の下に置くための企みなんですね。これがニムロデです。

 このように、ニムロデは、自分が神の役割を演じて、人々が自分に従うようにさせた最初の人です。10節です。「彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みなシヌアルの地にあった。」彼は独裁政治を始めて次々に土地を占領しました。その一つのバベルという町で、人々は公然と神に反抗しました。さらに、この地からバビロンという国が出て来て、後に、イスラエルという神の民を攻撃しました。「その地から彼は、アシュルに進出し、ニネベ、レホボテ、イル、ケラフ、およびニネベとケラフの間のレセンを立てた。それは大きな町であった。」これらの町のニネベは、後に、アッシリヤ帝国の首都となって、イスラエルを攻撃します。「ミツライム人はルデ人、アナミム人、ナフトヒム人、パテロス人、カスルヒム人―これらからペリシテ人が出たー、カフトル人を生んだ。」ハムの子ミツライムから出た民族です。ミツライム自身はもともとエジプトにいました。エジプトは肥沃な土地であり、さまざまな富をもちました。そのため、イスラエルの民がその富の事で思い煩うことが多くなったのです。また彼らはエジプトにおいて奴隷として酷使されたこともあります。また、ここに、「ペリシテ人」とありますが、後に地中海の海岸地域にすむようになり、イスラエルと戦うようになります。このように、ハムの子孫からは、イスラエルという神の民を滅ぼそうとする動きが出てきます。

 カナンは長子シドン、ヘテ、エブス人、エモリ人、ギルガシ人、ヒビ人、アルキ人、シニ人、アルワデ人、ツェマリ人、ハマテ人を生んだ。その後、カナン人、の諸氏族が分かれ出た。

 ここに書かれている氏族は、現在のイスラエルあたりに住んでいました。その彼らの一部を、神は後にイスラエルによって滅ぼされます。ちょっとひどすぎはしないか、と思うかもしれませんが、神はその前に全人類を洪水で滅ぼされています。なぜ滅ぼされたのでしょうか。暴虐と悪に満ちていたからですね。カナンから出た子孫から不法と悪がはびこるようになったのです。

 ところで、ここの氏族の一部は、東に移動しました。ヘテ人の一部はモンゴルへと移動し、シニ人は中国へ移動したと考えられています。だからといって、アジア人や日本人がのろわれている民ではありません。のろいがもたらされたのは、不法や悪の行いに対するものであり、カナンの子孫だからのろわれたのではありません。ここを注意してください。そして、「諸氏族がわかれ出た。」とありますが、これもバベルの塔における反抗の結果です。

 それでカナン人の領土は、シドンからゲラルにむかってガザに至り、ソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムにむかってレシャにまで及んだ。

 ここでよく知られている地域は、ソドムとゴモラです。創世記13章には「ソドムの人々はよこしまなもので、主に対しては非常な罪人であった。」(13節)と書かれています。彼らのなかには、同性愛がはびこっていました。神は、火と硫黄によってソドムとゴモラをほろぼされたのです。このように、カナン人は、不法と悪い行いによって神にさばかれています。

 以上が、その氏族、その国語ごとに、その地方、その国により示したハムの子孫である。」

 ハムの子孫から出た民族は、実に多岐に渡ります。大雑把な分け方をしますと、ヤペテの子孫はヨーロッパ系の民族であり、これから読むセムの子孫は中東に住むユダヤ人やアラブ人であり、その他の民族はハムから出ました。もちろん例外はありますが、大事なのは、わたし達はどんな民族であっても、皆同じ先祖をもっているということです。その先祖であるノアは、天地を造られた神を礼拝して、救い主キリストが来られるのをまっていました。ですから、偶像を拝んで、キリストをあがめていないのは、本来の日本人の姿ではありません。堕落した日本人の姿なのです。日本人であっても、他のどんな民族であっても、キリストを信じることによって、人間本来の生き方をする事ができるのです。

 セムにも子が生まれた。セムはエベルのすべての子孫の先祖であって、ヤペテの兄であった。

 最後に、セムの子孫が列挙されています。神は、この子孫から、救いを行われます。そしてここに「エベル」という人がでてきますが、ここから「ヘブル」という言葉が出てきています。ここからイスラエル人はよく、「ヘブル人」とか、「ヘブライ人」と呼ばれているのです。そして、、この旧約聖書も、一部を除いてヘブル語で書かれています。25節を見てください。「エベルには2人の男の子が生まれた。一人の名はペレグであった。彼の時代に地が分けられたからである。」セムの子孫エベルの息子が、ペレグとなずけられました。「分ける」という意味ですが、彼の時代にバベルの塔の事件が起こり民族が別れ出たのです。そして、29節をご覧ください。ここに、「ヨバブ」という人物が出てきますが、これがヨブ記のヨブであろうと思われています。

 それでは最後の節を読みましょう。以上が、その国々にいる、ノアの子孫達の諸氏族の家計である。大洪水の後にこれから、諸国の民が地上に別れで他のであった。

 この「民が分かれ出た」というのが、この10章の要約です。なぜ分かれ出るようになったにか。それが、次の11章に書かれています。

2B  のろい  11
 さて、全地は一つのことば、一つの話ことばであった。そのころ、人々は東の方から移動してきて、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。

 ニムロデが王国を立てたシヌアルの地に、人々は移住しています。

 彼らは互いに言った。『さあ、れんがを作ってよく焼こう。』彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。

 瀝青とはアスファルトのことです。なぜ彼らは、このような強固な建物を作ろうとしているのでしょうか。答えは、創世記6章から9章に出てきます。つまり、神の洪水のさばきです。大洪水によって、全人類は滅びました。彼らは、大洪水のことは先祖から言い伝えで知っていたのでしょう。そのさばきを恐れて、彼らは水が入ってこないように、石ではなくレンガを用い、粘土の変わりにアスファルトを用いて建物をたてました。ところが、ちょっと考えてみると、そんなことで洪水を免れる事はありません。しかし、彼らは不安と恐れから、そのようなものを作ったのです。これを、「偽りの保証」と呼べばよいでしょうか。不安と恐れを解消させるために、偽りの代用物を作り出します。

 これが、先ほどニムロデのところで話した、偽りの制度のことです。ローマ人の手紙1章をお開きください。わたし達人間だれでも、心のどこか奥底に恐れと不安を持っています。パウロはその恐れの原因を説明しています。28節からです。また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。彼らはあらゆる不義とむさぼりと悪意とに満ちたもの、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになったもの、陰口を言うもの、そしるもの、神を欺く者、人を人とも思わない者、高ぶる者大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。彼らは、そのようなことを行えば、」次が大切です。「死罪にあたると言う神のさだめを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行うものに心から同意しているのです。人間の持つ恐れは、根本的に死に対する恐れです。そして、その死は、自分が行ったもろもろの悪いことに対しする神のさばきです。しかし、この恐れが完全に取り除かれる方法があります。それは、キリストの身代わりの死に信頼を置くことです。イエス・キリストは、私たちの犯したすべての罪をご自分の身に受けてくださったんです。そこで、ヘブル書には、「キリストの死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれていて奴隷となっていた人々を解放してくださいました。(2:14、15をアレンジ)」と書かれてあります。また、ヨハネの手紙には、「愛にはおそれがありません。全き愛はおそれを締め出します。なぜなら、恐れには刑罰が伴っているからです.(Tヨハネ4:18)とあります。

 したがって、恐れや不安を完全に取り除いてもらう方法は、キリストを与えて下さった神に信頼することなのです。しかし、もし私が、今、街頭に立って、「あなたに死の恐れはありますか。」とインタヴューしたら、「いや、ありませんよ。」と答える人が大部分ではないかと思います。それは、自分の不安を解消してくれる、偽りの制度に依存しているからです。ある人にとって、銀行に預けている定期預金かもしれません。ある人には生命保険かもしれません。また、若い人は、今の繁栄した日本がずっと続くように考えています。でも、長い歴史の中で、たった3、40年しか続いていない繁栄です。そうした、偽りの現実にしがみついているのが、わたし達の姿なのですね。この偽りの保証を、シヌアルにいる人々は、作り出しました。

 それでは、創世記11章に戻りましょう。4節です。そのうち彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建てて、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

 彼らは、神により頼まなくてもいいように、偽りの制度を作りましたが、今度は偽りの宗教を作りました。「頂が天に届く塔」がそれです。その頂では、天や地を造られた神を拝むのではなく、つくられたものを拝んでいました。太陽、月などの自然や、動物や人間を拝んでいたのです。これを聖書では偶像崇拝と呼ばれていますが、この塔が世界中の偶像崇拝の初めです。わたし達は、日本古来の宗教は神道であると考えていますが、この神道もバビロン宗教に由来しています。

 それではなぜ、このような偽りの宗教を人間は作るのでしょうか。第一の理由として、人間が自分中心である事が上げられます。4節の分の主語は「われわれ」となっていますね。つまり、「われわれの町を立てて、われわれが天に届く塔を建て、われわれの名をあげよう。」となります。自分達の力で生きよう、自分達の名声のために生きよう。そんな生き方が偶像崇拝に発展するのです。例えば、商売繁盛の神がいます。それは、何も本気でその神を拝んでいるのではありません。自分のお店や会社がお金をもうけて、自分の名が高められるために、そんな神を祠の中にいれて拝んでいます。学問の神があります。自分の成績が上がって、自分がより有名な学校に入るために拝むのです。水子地蔵がありますね。それは、自分の欲望のために生まれた子供を殺してしまった、中絶した、そんな咎めを和らげるために作られていますが、じぶんの肉欲を隠すための手段でしかありません。ですから全部、自分に都合のよい神なんですね。自分が支配できる神なんです。しかし、天と地とを造られた神は、自分を支配する神です。人間の都合で変わるような方ではありません。ですから、この本当の神を礼拝しないかぎり、わたし達は自己中心性から解放される事はないのです。

 偽りの宗教を作る第二の理由として、人間には恐れがあるんですね。この世における恐れは、偽りの制度を作ることによって解決しましたが、来るべき世、つまり、死んだ後における不安を解消するために、偽りの宗教を作ります。私たちは先ほど、人間のは死に対する恐れがあると学びましたが、それだけではなく、死んだ後のことへの不安があります。その不安も、神のさばきに対する恐れなのです。ヘブル書には、「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受ける事が定まっている(9:27)とあります。しかし、このさばきも、イエスの十字架によって取り除かれました。イエスは十字架の上で、「神よ。神よ。なぜ私をお見捨てになったのですか。」と叫ばれましたが、それは神との断絶を私たちの身代わりになって受けてくださったからです。したがって、死後に対する不安もまた、キリストを与えられた神により頼む事によって取り除かれます。

 ところがです。再び私が街頭に出て、「死後への不安はないですか。」と人々にインタヴューしたら、「ない。」と答える人がほとんどではないでしょうか。それは、神により頼まなくても、死後の不安を解消してくれる偽りの宗教があるからです。

 ほとんどの人は年をとりと、葬式をどうするのか、とか、お墓はどうするのか、ということにこだわります。なぜなら、この世に居残っている人が死んだ自分をしっかり処理してくれなければ、心配でならないからです。それは、日本の仏教から来た言い伝えがそうさせているのです。基本的に、子孫が先祖を供養することによって、死後の世界で魂がきよめられるという教えです。ですから、逆にいうと、自分を供養してくれる息子や娘がいれば安心です。だから、神を信ぜず、神に仕えていないのです。このように、シヌアルにいる人々は、塔を建てることによって、偽りの宗教を作りました。そして、彼らは、「われわれが全地に散らされるといけないから。」と言いました。なぜ、散らされると思ったのでしょうか。神がノアとその家族に、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」と命じられていたからです。彼らは、この祝福の命令を「散らされる」と否定的にとって、故意に神の命令に背きました。そこで、主は、彼らをさばかれます。

 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りてこられた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられる事はない。さあ、降りていって、そこで彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」うして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。

 人々が互いに意思疎通ができなくなったので、彼らは全地に散るのを余儀なくされてしまいました。「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから。」この混乱は、ヘブル語で、「バラル」と発音します。「すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたのである。」こうして、神がノアとその家族に対して与えられた祝福は、この時点でまた台無しになってしましました。天地創造からの長い歴史を通じて、人間は神に反抗してきました。神はご自分のかたちに人間を造られて、これを愛し、これを祝福されましたが、人間は神に似ているがゆえに、その自由意志によって神に反抗したのです。最終的には、ここに書かれてあるように、神に反抗する人間が民族として分れて、世界中に散り散りになりました。しかし、神は決して人間にあきらめたりされませんでした。神は、民族として互いに分れてしまった人間を、どのように祝福されるか考えられました。・・・そこで、神は、まったく新しい民族をご自分の手で造り出される計画を立てられたのです。神により頼み、神に仕える民族を生み出し、世界に散らされた民族を、その新しい民族によって祝福する計画を立てられました。それが、イスラエルです。聖書の歴史は、ここからずっとイスラエルを中心として動いていきます。

 10節からこの話が始まりますが、神がどのようにしてイスラエルを造り出されるか、まずは、その背景から見ていきたいと思います。 これはセムの歴史である。

 ここからノアの息子セムの系図が書かれていますが、系図を見る時に大切なのは、その初めの人と終わりの人を見ることです。最初の人はセムですね。ノアはセムに、「ほめたたえよ。セムの神、主を。」と預言しました。そして、最後の人はアブラム、またはアブラハムです。26節にあります。神は、セムに与えられた修復のことばを、このアブラハムによって実現されます。このことを知れば、ここの箇所の目的はほぼ達成されます。

 
それでは、27節から読んでいきます。これは、テラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。ハランはその父の存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。

 アブハムはテラの息子の一人でしたが、その故郷はウルという町です。ここは、先ほどのバベルの町とさほど遠くないところにあります。つまり、そこは偶像崇拝がはびこっていた町です。周りの環境は、人に造り主を信じさせるようなものではありませんでした。さらに、アブラムの父テラですが、ヨシュア記24章2節には、彼が偶像崇拝者であったとかかれています。そのときに、神はアブラハムに語られました。その内容は12章1節から3節に書かれています。あなたは生まれ故郷、父の家を出て、私に従いなさい、というものです。そして、彼はついに、神に従いました。ここから、私たちは、神に信仰を持つとはどういうことなのかを学ぶ事ができます。それは、神の呼びかけに個人的に応答することです。信仰は、皆がやっているから、自分もやってみようというようなものではありません。全世界の人が神を信じていなくても、私は神の呼びかけに応じます、というのが信仰です。この日本の中で、クリスチャンになることは勇気がいります。ウルと同じように偶像の町であり、しばしば偶像崇拝の家を持つからです。しかし、それだけに、自分が神を信じている事がはっきりします。

 アブラハムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻はミルカと言って、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。サライは不妊の女で、子供が生まれなかった。

 ここも重要な記事です。サライ、またはサラはアブラハムの妻ですが、彼女は不妊の女でした。それにもかかわらず、アブラハムは、「わたしはあなたを大いなる国民とする」と言う神のことばを信じました。ここから、また、信仰とは何かを知ることができます。信仰とは、自分の可能性ではなく、神の可能性に賭けることです。わたし達は、キリストを信じない理由を捜せばいくらでも見つかると思います。私自身、こんなとんでもない奴がクリスチャンになったら、キリストの名がすたれると思いました。けれども、この弱い愚かなものを、神は、「あなたがたのうちに良い働きを始めた方は、それを完成してくださいます(ピリピ1:6:参照)」とおっしゃられて、その神の力を信じて生きているんですね。アブラハムは、妻のサライが不妊であるのに、自分から新しい民族が生まれ出ることを信じました。ところが、このアブラハム、最初に神に従ったときは、不完全な従い方をしていました。

 テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルから一緒に出かけた。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住みついた。

 神は、「あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい。」と言われたのに、父も家族も引き連れて生まれ故郷を出て行きました。そして、神の示されたカナンの地に行くことをせず、途中のカランという土地に住みついてしまったのです。その結果、どうなったでしょうか。

 テラの一生は205年であった。テラはカナンで死んだ。その後、主はアブラハムにお仰せられた。

 アブラハムは父のテラが死ぬまで、次の神の声を聞かなかったのです。ここから、信仰とは、一歩一歩示されたことに従っていくことがわかります。わたし達は、自分が死ね時までの神のご計画を、今見たいと思ってしまいますが、神は私が次に進むべき道しか示されません。詩篇119編には、「あなたのみことばは、私の足のともしび(105節)」と書かれていますが、信仰とはちょうど、暗闇の洞窟に懐中電灯を持って、一歩一歩前に進むような作業です。ですから、逆にいうと、もし私たちが神が最初に言われたことを従っていないなら、神は次のステップを示されないのです。アブラハムは、父テラが死ぬまで、次の神の声を聞きませんでした。

2A  新しい民族  12−13
 それでは、神が最初にアブラハムに語りかけたことばをみていきたいと思います。

1B  信仰による従順  12
 あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたのちちの家を出て、私が示す地に行きなさい。そうすれば、私はあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福するものをわたしは祝福し、あなたをのろうものを私はのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。

 みなさん、この神のことばで何がくり返されていますか。祝福ですね。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」といわれた祝福の神が、今、アブラハムに祝福の約束を与えられています。そして、この約束はたった一つの条件しかついていません。1節に、「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、私が示す地へ行きなさい。」とあり、2節に「そうすれば」とあります。その後は、「私はこうする。」「あなたはこうなる。」というように、神の一方的な働きが書かれています。実は、ここにかかれてある約束は、今でも続いている事です。いや、これからも続き、キリストが再び来られる終わりの時まで続きます。さらに、これは、アブラハム個人だけに対する約束ではありません。アブラハムの子孫のイスラエルの民の対する約束であり、さらに、全世界の人々に対する約束なのです。

 これだけのスケールの大きい計画を、神は、たった一人の人によって実現されます。それでは、このアブラハム、さぞかし立派な人物であったとわたし達は想像します。彼は、人格的に優れていたから神に選ばれたのであって、私とは関係ないと思ってしまいます。しかし、彼は失敗の多い、私たちと変わらない人間なのです。けれども、彼を偉大にさせたのは、信仰なのです。パウロは、アブラハムを、「信仰の足跡にしたがって歩む者の父(ローマ4:12)」といいましたが、私たちは、信仰とは一体なんであるかを彼から学ぶ事により、アブラハムと同じように神様のすばらしいご計画が自分のうちに実現します。

 2節からの祝福の約束の内容を見ていきます。わたしはあなたを大いなる国民としとあります。

 これは、後にアブラハムから出るイスラエル国民のことです。イスラエルが国民として始まるのは、約500年後にモーセという預言者が現れてからです。神は、モーセを通して、民に語られました。「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聴き従い、私の契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。(出エジプト記19:5)」イスラエルは一時期、世界の中でも大きな国となりましたが、基本的にはずっと小さな国です。そして現在は、日本の四国ぐらいしかない領土で、近隣のアラブ諸国の脅威と国際世論の圧力を受けています。しかし、キリストが再び来られる時には、イスラエルの民がみなイエスを信じ、世界中から集められて、大きな国が形成されます。そして、「あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。」とあります。ユダヤ人は自分達の父としてアブラハムを尊敬し、わたし達クリスチャンも彼を信仰の父としています。さらに、不信者であるイスラム教徒でさえ、アブラハムを偉大な預言者としてあがめています。このように、アブラハムの名は大いなるものとなりました。このように、イスラエルという民が祝福されますが、それが他の民に影響を与えます。

 あなたを祝福するものをわたしは祝福し、あなたをのろうものを私はのろう。

 イスラエルの民は、エジプトにおいて奴隷となり、苦役を強いられましたが、エジプトは神によってさばかれました。また、その反対に、カナン人の売春婦ラハブは、イスラエル人のスパイを助けたので、彼女とその家は、イスラエルがカナン人を滅ぼす時に助けられました。このように、神がイスラエルと共におられるので、イスラエルをのろうものはのろわれ、イスラエルを祝福するものは祝福されるのです。

 地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。

 これがイスラエルが存在する究極的な目的です。イスラエルから、神の願っている救いが訪れます。アダムとエバがエデンの園を離れ去ってから、神はなんとかして人間をご自分のみもとに引き戻そうとされていますが、イスラエルによって引き戻されるのです。具体的には、キリストを信じる者が、ひとりとして滅びる事無く、永遠のいのちを持つのです。まもなくクリスマスの時期がこようとしていますが、アブラハムの子孫であるマリヤからキリストはお生まれになりました。


 4節をご覧下さい。
アブラハムは主がお告げになったとおりに出かけた。

 これは、非常に大切なことばです。なぜなら、今読んだ神の壮大なご計画が、この一言にかかっているからです。ここには、信仰とは何かという明確な定義が書かれています。信仰とは、神を信頼して、その御声に聞き従う事です。わたし達は創世記を学んで、信仰と宗教の違いを見てきました。まずアダムとエバですが、彼らは自分達が裸であることを知って、自分たちで無花果の葉をつづり合わせて、自分達の腰のおおいを作りました。これは宗教です。自分の罪意識を自分の行いで隠そうとしているからです。しかし、神は、動物を殺して、その皮の衣を彼らに造り、彼らに着せてくださいました。これは信仰です。人間の罪意識を神の行いによって隠されているからです。神の行い、神がしてくださることを受け取る事が信仰なのです。次に、カインとアベルが出てきました。カインは、地の作物から主への捧げ者をしましたが、アベルは、羊の赤ちゃんから最良のものを、それも自分自身で持ってきました。カインは宗教であり、アベルは信仰です。カインは、じぶんが考えつく方法で神に近づきましたが、アベルは神が示してくださった方法で神に近づきました。そして、ノアを思い出して下さい。神はノアに命令されました。「箱舟を作りなさい。」「箱舟にはいりなさい。」「箱舟から出なさい。」という3つの命令です。神が命令された時、ノアは、「すべて主が命じられた通りにした。」とあります。ノアは、洪水が起こることを何も見ることがなかったのに、神を信頼して、神の御声に従ったのです。これが信仰ですね。その反面、バベルでは、人々は自分の力によって安全を確保しようとしました。これは宗教です。そして今読みましたが、アブラハムは、神の示された祝福の約束を信じて、神の命令に聞き従いました。これで、信仰と宗教の違いがわかるでしょうか。信仰では神が主役です。そして、神は宗教を受付けませんが、信仰を喜ばれます。アブラハムは、信仰によって神に従いました。ところが、次を見てください。

 ロトは彼と一緒に出かけた。

 アブラハムは主のお告げのとおりに従ったのに対し、ロトは彼と一緒にいるために出かけたことに注目してください。同じ、「出かける」という行為をしているのですが、神の命令に聞き従っているとは必ずしも言えません。信仰の歩みを、叔父さんアブラハムに任せているという感じですね。つまり、ロトと神の関係は、神だけに対する絶大な信頼によって成り立っているのではありませんでした。私たちはこれから、アブラハムの生涯だけでなくロトの生涯も見ていきますが、二人の歩みに次第に大きな差が現れてきます。ロトがアブラハムと一緒に出かけたときは、外見では、彼も信仰的に見えたでしょう。しかし、この、神の御声に聞き従っているのか、他の人の信仰の真似をしているのかという、心の中の微妙な動機が、後で大きく実となって現れたのです。ですから、わたし達が自分の心の状態を知っておくことはとても大切です。使徒パウロは、こう言いました。「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身を試し、また、吟味しなさい。(2コリント13:5)」

 アブラハムがカランを出たときは、75歳であった。」

 彼は比較的老年に差しかかって、神の御声に聞き従いました。当時の寿命は現代よりもやや長かったので、比較的老年と言いました。けれども、75歳にして、国民ができるという約束を信じたのですから、アブラハムから信仰について学ぶところは大きいです。信仰とは、自分が無力であることを知りながらも、神の力を信じることであることがわかります。

 アブラハムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、カランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。

 彼らは、カランの地において、物質的に繁栄していたようです。もしかしたら、父のテラはこの繁栄のために、カナンの地に行く事を拒んだのかもしれません。このように、この世の富に目を留めると、わたし達は、信仰の歩みをする事が出来なくなってしまいます。自分がどこに目を止めているかが大切です。イエスは、「からだのあかりは目です。(マタイ6:22)」と言われました。

 アブラハムがその地を通って行き、シュケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。

 彼は、「あなたは大いなる国民となる。」という神の約束を信じてカナンの地に来たのに、彼らが来たところは、ただカナン人が住む土地です。特に目を見張るようなことは何も起こらず、もし彼が目に見えるところに従えば、がっくりきたでしょう。しかし、7節を見てください。

 そのころ、主がアブラハムに現れ、そして、『あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。』と仰せられました。

 主はアブラハムを慰めて、希望を与えるために、彼に現れて声を掛けてくださいました。私たちがクリスチャンであることは、キリストを信じる信仰の歩みをしているということですが、アブラハムのように、目に見えるところに従えばがっかりする事が起こります。しかし、そのような時にはいつも、主は必ずわたし達に語りかけてくださります。わたし達の主は、慰めと励ましの神なのです。大事なのは、わたし達が神の声を進んで聞こうとする姿勢です。そして、神の御言葉は、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」というものです。神が最初に、「わたしが示す地に行きなさい。」と語られましたが、ここではさらに詳しい啓示を与えてくださっています。つまり、彼自身に土地が与えられているのではなく、彼の子孫にあたえられ、子孫が所有するのはこのカナンの地であることです。12章以降を読みますと、アブラハムの信仰の分岐点に、主が彼に現れて、少しずつ神のご計画の全貌を明らかにされます。そのクライマックスが、22章に出てくるアブラハムがその子イサクを捧げようとするところです。父なる神がその子キリストを、すべての民族のためにおささげになることを、アブラハム自身が疑似体験するような形で示されました。

 アブラハムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。

 アブラハムは、主が語りかけてくださったことに応じて、祭壇を築き、主を礼拝しました。主が私たちに良くして下さった事に対する適切な応答が礼拝です。私たちの信じる神は、仏壇にお供え物をするように、何かに不自由な事でもあるかのように、人の手に仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物をお与えになった方だからです、とパウロは言っています。したがって、私たちは、神が自分にしてくださったことに応答して、感謝、賛美、礼拝を捧げることができるのです。

 彼はそこからべテルの東にある山の方に移動して天幕を張った。西にはべテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。

 彼はテント生活をしていましたが、移動した場所で祭壇を築き、祈りを捧げました。彼は、生活の中に祈りを中心に置いたのです。私たちも、生活のあらゆる面において主を認め、絶えず主に祈る必要があります。祈りによって、私たちは主のことをもっと深く知ることができます。そして、主をもっと知ると、さらにこの方を信頼しやすくなります。したがって、祈りの生活を送る事は、信仰の成長に欠かすことのできないものなのです。

 それから、アブラハムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。

 彼は、今のイスラエルの南部にあたる地域に移動しています。こうして、アブラハムは信仰の歩みをはじめます。しかし次に彼は大失敗をします。

 さて、この地にはききんがあったので、アブラハムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地にはききんが激しかったからである。

 アブラハムの生活に初めての試練がおとずれました。彼は、主が示されたカナンの地にとどまらず、土地が肥沃で裕福なエジプトに下って行ったのです。けれども、神の導きに逆らうと、私たちは悪循環に陥ってしまいます。

 彼はエジプトに近づき、そこに入ろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は私の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。どうか、私の妹だと言っておくれ。そうすれば、あなたのおかげで私に良くしてくれ、あなたのおかげで私は生き延びるだろう。」

 なんと、アブラハムは妻のサライに嘘をつかせるだけでなく、自分の妻を他の男に与えようとしているのです。彼をここまでさせたのは、恐れです。彼はききんのためエジプトに下りましたが、その時点で不信仰になっていました。したがって、目に見えるところに従って動いていたので、恐れが彼の心に入ったのです。

 アブラハムがエジプトにはいって行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。パロの高官たちが(パロとは、エジプトの王の称号です)彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。

 パロの寝床に入るために、サラは召し入れられました。これは大変な事です。後でわかることですが、イスラエルの民は、アブラハムとサラの間から生まれる子供によって出てきます。したがって、もしサラがパロによって子を生んだら、神のご計画が総崩れになってしまいます。

 
パロは彼女のために、アブラハムに良くしてやり、それでアブラハムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。

 アブラハムだけが甘い汁を吸っています。彼はもしかしたらこの財産が祝福のしるしであると思ったのかもしれません。自分の計画通りいったと思ったでしょう。しかし、むろんそれはとんでもない間違いです。私たちも、神の方法ではなくて、自分の方法によって手に入れたものを、それを神の祝福と間違えることがあります。ですからよくよく自分を吟味しなければなりません。

 しかし、主はアブラハムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害でいいためつけた。

 主が介入されました。主は、彼の失敗によって、ご自分の計画を変えたりなさいません。必ず、ご自分の計画を実行されます。

 そこでパロはアブラハムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は、彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ、今、あなたの妻を連れて行きなさい」

 全くもっともな叱責です。彼は神の証しをすべきなのに、神を信じないパロから叱られています。私たちも、世に対して証しをしていないとき、神は時に、不信者を用いて咎められることがあります。私たちは、それを甘んじて受けなければなりません。

 パロはアブラハムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。

 こうしてアブラハムは、危機から逃れられる事が出来ました。ここに、信仰と関連して神の恵みがあります。恵みとは、自分が受けるに価しないものを受けることです。私たちが神の祝福を受けるに価しないものなのに、その祝福を受けるのが神の恵みです。アブラハムは失敗しました。しかし、神は彼から祝福を取り上げられませんでした。それは、彼が、「出て行きなさい。」という神の呼びかけに信仰によって従ったからです。また、彼は、神が、良くして下さったことに応答して、主を礼拝し、主に祈りました。その中で、彼は、神が真実な方で裏切る事はないこと、決して見捨てる方でないこと、御自分の約束は必ず実現することなど、主の交わりの中で学んでいったのです。それによって彼の主に対する信頼は大きくなり、後に自分の子をいけにえとしてささげるという神からの試練にも、耐えることが出来ました。このように、神の恵みが私たちを変えます。私たちが神さまによい事をして、神様から見返りとして報酬をもらおうとするなら、決して変わることはできません。そうではなく、神の働きかけに私たちが応答する時に、神が私たちを変えてくださるのです。このように神の恵みは、信仰とともに私たちに与えられるのです。

2B  目に見えないことの確信  13
 ただ、聖書には、「蒔いた種は、刈り取る。」という原則も書かれています。自分が行ったことには結果が伴なうのです。例えば、人殺しをしてしまった人がクリスチャンになるとします。彼は激しい良心の呵責から解放されて、二度と悪事を行わないと決心します。そして、彼は地獄に行くのではなく、天国に行きます。これは神の恵みですね。殺人を行ったのに、彼の人生は回復されて、死んだ後に天国という祝福の中に入れられるからです。しかし、その死んでしまった人は帰ってきません。殺された人の親族の悲しみは続きます。また、牢獄生活もしばらくは続きます。彼は神の恵みを受けているのですが、自分の蒔いたものを刈り取っているのです。同じように、アブラハムは神の恵みを受け取ったのですが、エジプトに下ったという失敗によって刈り取りました。

 それでは13章を読みましょう。それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに登った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトも一緒であった。

 彼は、イスラエルの方に戻ってきました。ここの「すべての所有物」の中には、奴隷も含まれていて、女奴隷のハガルという人もいました。実は、このハガルによって彼はとてもつらい経験をします。そして、彼とともにロトがいます。エジプトは、彼の肉の欲を満たす多くの機会がありました。それで彼は神の命令に従う生活を続けながらも、肉の欲に引かれてしまう生活を送っています。アブラハムはエジプトにいても大丈夫だったのですが、彼ほどに信仰がしっかりしていないロトはだいじょうぶではなかったのです。これも刈り取りですね。

 アブラハムは家畜と銀と金とに非常に飛んでいた。エジプトで与えられた富です。 彼はネゲブから旅を続けて、べテルまで、すなわちべテルとアイの間で、以前天幕を張ったところまで来た。そこは彼が最初に祭壇を築いた場所である。そのところでアブラムは主の御名によって祈った。

 彼は、主が最初に現れて下さった地に戻ってきました。そして、再び主を礼拝し、祈りを捧げています。アブラハムは主に立ち返っています。エジプトに下って主から離れてしまったのですが、信仰の歩みを再スタートさせたのです。私たちも同じです。私たちも主の愛から離れて信仰が後退してしまうことがあります。そのとき、悔い改めて、初めの行いをすればよいのです。

 アブラハムと一緒に行ったロトもまた、羊の群や牛の群、天幕を所有していた。その地は彼らが一緒に住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らが一緒に住む事が出来なかったのである。その上、アブラムの家畜と牧者たちとの間に争いが起こった。またそのころ、その地には、カナン人とペリジ人がいた。

 彼らは持ち物が多過ぎて、住む場所が狭かったので争いがおこりました。それでは、神を信じていないカナン人ペリジ人に主の証しを立てていません。

 そこでアブラハムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私と牧者たちとあなたとの間に争いがないようにしてくれ。私たちは親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」

 アブラハムは、争いよりも別れることを取りました。けれども、どこに住むかはロトの決断にゆだねたのです。本来ならば、 ロトはおじのアブラハムを尊んで、住む場所を選ばせるべきでしたが、アブラハムの方から率先して、その権利を放棄しています。彼は、その権利を放棄してまでも、争いがおこって欲しくないと願ったのです。彼は、自分を主にゆだねている人でした。

 ロトが目を上げてヨルダンの低地を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルノの方にいたるまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこも潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。

 ロトがヨルダンの低地を選んだのは何故でしょうか。10節の最初に、「ロトが目を上げてヨルダンの低地を見渡すと」とありました。目に見えるものによって選んだのです。アブラハムと比べてみましょう。アブラハムがカナンの地を選んだのは何故ですか。主が、「この地を与える。」といわれたから選んだのです。ロトは、目に見えるものによって選び、アブラハムは、主の語られた御言葉によって選んだのです。また、ロトは、エジプトで自分の肉の欲を満たすことをおぼえました。ソドムとゴモラがエジプトににて豊かな農業地帯だったので、彼はそこをえらびました。ですから、私たちは、自分にとってのエジプトを考えなければいけません。

 アブラハムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。ところが、ソドムの人々はよこしまなもので、主に対しては非常な罪人であった。

 ロトは、ソドムの罪に引き寄せられています。ここに「ソドムの近くまで」と書かれていますが、創世記14章12節を見ると、彼はソドムの中に住んでおり、19章1節を見ると、彼はソドムの町の役人になっています。罪に対するちょっとした妥協が、このように大きくなってしまいます。罪はパン種、つまり、パンのイースト菌に例えられます。初めは少ないものが、果てしなくどんどん広がり、私たちを腐らせて生きます。

 ロトがアブラハムと別れて後、主はアブラハムに仰せられた。

 主はアブラハムに対して、「家から出て行きなさい。」と命じられていました。しかし、アブラハムはおいのロトとの関係を切るのを惜しんでいました。けれども、今、主が強いて彼らの関係を切って下さっています。アブラハムにとってはとてもつらかったでしょうが、良いことだったのです。彼はロトと別れて、とても寂しくなったに違いありません。傷ついていたかもしれません。しかし、そのときに主が語られました。アブラハムの主は、私たちの主でもあります。私たちが寂しくなり、傷ついているような時にも、主は私たちに語りかけて下さいます。

 さあ、目を上げて、あなたがいるところから北と南、東と西を見渡しなさい。私は、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫に与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることが出来よう。

 主はご自分の祝福の計画について、さらに詳しいことをアブラハムに示されました。先ほどは、「あなたの子孫にこの地を与える。」というものでしたが、今は、子孫にどこの地が与えられるのか、そして子孫がどのようになるのかが示されています。このように、彼が信仰によって神の御声に聞き従ったときに、主は御自分の計画を私たちに少しずつ示してくださいます。そして、子孫がちりのようになるという約束は、アダムとノアに与えた、「生めよ、ふえよ、地をみたせ。」という祝福の命令の実現です。

 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。

 ここに、ロトとアブラハムの違いがはっきりと出ています。アブラハムは、目に見えるところは何も変わっていないのに、主の語られたみことばに反応して、あたかもそれが存在するかのように歩き回っているのです。みなさん、ちょっと想像してください。他の人が見たら、「この人、何やっているんだろう。」と思うかもしれません。けれども、これが信仰です。主が語られたことを聞き、目に見えないことを確信することが信仰です。

 そこで、アブラハムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のために祭壇を築いた。

 アブラハムは、このような大きな約束を示された主に対し、再び礼拝を捧げています。こうして私たちは、バベルの塔の記事と、アブラハムの初期の生涯を学びました。神は、散り散りになって希望を失った世界中の民族に、新しい神の民という希望を与えられています。そして、変わる事のない祝福の約束を与えられました。次回は、アブラハムの生涯を続けて学びます



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