創世記12−14章 「神との出会い」
アウトライン
1A 約束の地へ 12
1B カナン人の住むところ 1−9
2B エジプトでの災難 10−20
2A ロトとの別れ 13
1B 約束の地を離れるロト 1−13
2B 約束の地にとどまるアブラハム 14−18
3A 王たちの戦い 14
1B ロトの拉致 1−12
2B メルキゼデクとの出会い 13−24
本文
創世記12章を開いてください。私たちはこれからアブラハムの生涯を学んでいきます。私たちは前回、11章の終わりで、アブラハムが神に呼ばれて、「あなたの父の家を出て行きなさい」と言われたのにも関わらず、父とともに旅に出たところを読みました。そのため、ハラン(カラン)という町に居とどまることになり、彼が死ぬまで待たなければなりませんでした。そして12章に入ります。
1A 約束の地へ 12
1B カナン人の住むところ 1−9
12:1 その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
この約束は、とてつもなく大きな約束です。神が当初アダムに与えられた祝福を、彼個人を通して全世界にいきわたらせるというものです。そして、聖書全体を読むと分かってくるのですが、実はこれは今現在に至るまで続いている約束であり、またこれから成就する約束でもあり、まだ完成していないものです。今は、イエス・キリストにあって私たちが神の霊的祝福をすべて受けていることにおいて成就します。そして、イエス・キリストが再び地上に来られる時に物理的にも成就し、約束が完成します。
この約束が実現するのに一つだけの条件があります。それは、「わたしが示す地へ行きなさい。」です。アブラハムは、この呼びかけに応えて旅を始めました。ですから、その後に続く約束はすべて神が無条件に与えてくださいます。
これが、神が私たちに与えておられる約束の性質です。イエス様はこう言われました。「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。(ヨハネ6:37)」イエス様のところに一度来たら、イエス様が途中で見捨てることは決してないとおっしゃっています。イエスの名を信じた者には永遠の命が与えられるのであり、永遠に救ってくださっているのです。私たちが、途中でイエス様が私を見放して、私は地獄に送り込まれてしまうかもしれない、と恐れる必要は全くないのです。「愛には恐れはありません。全き愛は恐れを締め出します。(1ヨハネ4:18)」
神の約束の一つ一つを見ていきましょう。一つは、「わたしはあなたを大いなる国民」とあります。バベルの塔によって、人々は偶像礼拝を行なうようになり、また言葉がばらばらになり、民族と国民に分かれ出ました。そこで神は、まったく新たにご自分の呼びかけに応えて、ご自分を信じる国民をその中に一つ造り出そうとされているのです。他の異邦人が野生種のオリーブの木であれば、イスラエルは神によって培養された栽培種のオリーブの木です(ローマ11章参照)。
私たちは自分たちの民族の出自に興味を持っています。はたして日本人はどこから来たのか?朝鮮半島や中国からか、東南アジアからか、それとも?といろいろな説があります。そして古事記や日本書紀など、日本が建てられた神話があります。これは世界共通でどこの国に行っても存在しますが、かなりあやふやなものです。けれどもイスラエルは、人間の歴史の中ではっきりとその始まりが記されているのです。しかもそれは、血縁関係や宗教ではなく、ただ、天地創造の神に呼び出され、この方を信じるという従順によって成り立っているのです。
ですから、私たちキリスト者も同じです。私たちは、親や兄弟がクリスチャンだからということで神の民になれるのではありません。どんなに自分が教会員らしく振舞えば神の民になれるのではありません。ただ神が引き寄せてくださる者だけが、神のキリストにある救いの呼びかけに応える者だけが、神の民の中に入ることができるのです。
そして次の約束は「あなたを祝福する」です。これは、アブラハム個人の生涯に成就していきます。これから私たちが読む彼の人生に、祝福が成就していくのを見ていきます。
そして次に、「あなたの名を大いなるものとしよう。」シヌアルの地で塔を建てていた人々は、自分たちの力で自分の名を上げようとしていました(11:4)。けれども、神は自分を高める者を低くし、へりくだる者を高めてくださいます。主はアブラハムの名を上げてくださいます。
具体的には、今、私たち信仰者の間で名が高められています。私たちはアブラハムを、信仰の父として仰ぎ見ています。それだけでなく、ユダヤ民族はもちろん異邦人である私たちより先に、アブラハムを自分たちの父とみなしていました。そしてキリスト教の後に出てきたイスラム教においても、アブラハムは預言者の一人でありあがめられています。
私は去年ヘブロンに行きましたが、そこにアブラハムを初めとする族長たちの墓があります。一つの建物の中に、ユダヤ教徒が礼拝する区画とイスラム教徒が礼拝する区画に分かれていました。私はどちらも入っていきましたが、イスラム教の区画に入る時に「目的は?」とイスラエル兵に聞かれました。「私はクリスチャンです。」と答えたら、すんなり入れてくれました。ですから、ユダヤ教、イスラム教、そしてキリスト教の中でアブラハムの名は高められています。
12:3a あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。
この原則は、アブラハム個人の生活に見ることができますが、さらにアブラハムの子孫であるイスラエル民族に続きます。この原則を読めば、その後の聖書に出てくる話しは納得が行きます。エジプトのパロがヘブル人の男の子をナイル川に投げ込みましたが、パロとその軍隊は紅海の中で溺れ死にました。ヘブル人の男の子を生かしておいた助産婦は神に祝福されました。ヨシュアの時代、イスラエル人を偵察にエリコに行かせましたが、彼らをかばったラハブはエリコの破壊を免れ、イスラエル共同体の中に入り、そしてラハブ自身がイエス・キリストの先祖となるのです。
そして今も、その原則は続いています。イスラエル、またユダヤ人を呪った国や人は、その呪いと等しい災いを受けています。イスラエルを滅ぼそうとする動きの背後には必ず悪魔がいます。イスラエルがいなくなれば、神の選びによる救いの計画は台無しになるからです。それゆえに、この民を守るために神は、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。」と言われたのです。
12:3b地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。
これがアブラハムが神に召された最終的な目的です。バベルの塔によって散っていった民族の中に新しい神の民を創設し、彼らによって他の異邦の民が、元来アダムに与え、ノアにも約束されていた祝福を受け継ぐことができるようにされました。
このアブラハムから出たのがイエス・キリストです。だから、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」という新約聖書の言葉が非常に重要なのです。私たちは、キリストにあって、アブラハムに約束された祝福のうち、霊的な部分を受け継いでいます。「聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、『あなたによってすべての国民が祝福される。』と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。(ガラテヤ3:8-9)」神は、ご自分の前に出ても、私たちを正しいと宣言してくださいます。神の前で義と認められるという祝福は、アブラハムの子孫キリストにあって与えられているのです!
12:4 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカラン(ハラン)を出たときは、七十五歳であった。
これが信仰の姿です。信仰は、「主を信じて、その信頼のゆえに神に頼りながらついていく」ことです。ノアも箱舟について主から語られた時に、「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行なった。(6:22)」とあります。
「信仰は聞くことから、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」と、ロマ書10章17節にあります。そして本当に聞いている人には行ないが伴います。飛行機が離陸する時に、酸素マスクや非常出口などの説明の映像が流れますが、だれもきちんと聞いていません。けれども実際に飛行機が乱気流の中で激しく揺れ動いている時に、搭乗員の人が改めて指示を与えたら、私たちはその一言一言に耳をすますはずです。話している言葉が自分の命に関わることであることを信じているから、そうできるのです。私たちも、キリストについての神の言葉を自分の命に関わることだと信じているならば、自ずとその言葉に聞き従うはずです。
そしてもう一人、甥のロトの姿が出てきています。「ロトも彼といっしょに出かけた」とあります。ここに、とても大事なアブラハムとの違いがあります。アブラハムは神の声を自分自身で聞いて、それで応答して旅に出かけたのですが、ロトはあくまでもアブラハムおじさんと一緒に出かけた、ということです。旅に出るという同じ行動を取っているのですが、アブラハムは信仰の応答として、ロトは周囲の変化に応答しているという違いがありました。
これが後で、二人の人生に大きな違いをもたらします。最終的には、ロトは二人娘以外のすべてのものを失い、その二人娘とも近親相姦によって子孫を残すことになります。そしてアブラハムはとてつもない祝福で祝福されます。ですから私たちは、今、自分たちが行なっていること以上に、そのことを行なっている時の心の動機に注意を払うべきです。キリストの愛に駆り立てられて行なっているのか、それとも単に他の人々が行なっているから漫然と付いてきているのかの違いです。
12:5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、カラン(ハラン)で加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。
カナンの地については、前回、創世記10章で学びましたね。現在のイスラエル国がある地域です。北はレバノン、北東にはシリア、東は死海とヨルダン、そして南はエジプトに囲まれている、地中海沿いに南北に細長い土地です。
そして前回言及するのを忘れましたが、妻のサラは不妊の女でした(11:30)。ですから、アブラハムが大きな国民となることはもちろんのこと、彼女から、彼に与えられた子孫の約束、キリストが来られる約束は、到底考えることはできないことでした。けれども、それをいかに信じていくのかが注目に値します。
不思議なことに、聖書には不妊の女が多く出てきます。文化的に考えれば、その女たちは呪われていましたが、神はあえてそれらの女たちを用いて、男の子を与えてご自分の御用のために用いられる人に立て上げてくださいます。ここにも神が、「この世の弱い者を選ばれた(1コリント1:27)」という原則を見るのです。
12:6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。
おそらくアブラハムは、シリア方面から南下し、ヨルダン川に流れるヤボク川の渓谷を使って、ヨルダンの高地から下り、そしてヨルダン川を越えてそのまま西に向かったと思われます。「シェケム」は地理的に、約束の地の真ん中にあります。後にヨシュアがここにあるゲリジム山とエバル山のところで、イスラエルに対する神の祝福と呪いを宣言させ、またずっと後には、イエス様がサマリヤの女にここで会います。
当時は、ここに書いてあるとおり「カナン人」が住んでいました。そして「モレの樫の木」とありますが、この場所でカナン人は偶像礼拝を行なっていました。つまりアブラハムは、異教徒が住んでいる真ん中に来て、異教の慣わしが満ちているところにやってきました。けれども彼は、その慣わしを行なうことは決してしませんでした。
12:7 そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。
主が、アブラハムがウルの町で、そしてハランの地でお語りになった次に、再び現れてくださいました。ここに信仰の原則を見ることができます。神は、私たちにすでに語られていることに対して応答している時に、次の一歩を見せてくださるということです。アブラハムに対する神のご計画を、「わたしが示す地に行きなさい」という命令に従った後に、さらに見せてくださいました。逆に言うと、その命令に従わないうちは、次の一歩を示されないということです。
私たちは、一度に神のご計画を知りたいと願います。けれども、もし神がすべてを示されたら、私たちは神に拠り頼もうとしないでしょう。また、そのご計画に圧倒されて、倒れて気絶してしまうかもしれません。こんな大変なことが起こるのか?とびっくりするからです。だから、神はちょうど父が子を育てるように、少しずつ、成長するにつれ、知識を与えられるのです。ですから私たちは、今、神から命じられていること、すでに知っていることに忠実になるべきです。そうすれば、次の一歩を示してくださいます。
そして主が与えられた啓示は、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」というものです。アブラハムに子孫が与えられます。これは単なるイスラエルの子孫が多くなるということだけでなく、アダムとエバに与えられた神の約束である「女の子孫」のこと、つまりメシヤのことを指します。
そして「この地を与える」と主は言われます。つまり、イスラエルの民がこの地を所有すること、またイエス・キリストご自身がイスラエルの地を支配されることを意味しています。確かにこれまで、イスラエル人がこの地を所有していたことはありますが、すべての地ではありませんでした。これは、キリストが再び地上に来られた時に完成します。
それで彼は祭壇を造って、主に礼拝を捧げています。ノアもそうでしたね?すべて良いことが起こった時に、感謝のいけにえをもって応答していることです。主が良くしてくださったこと、神の真実を知ったことを思って、礼拝を捧げます。
そして、それが異教徒の慣わしがいっぱいあるところで行なったということが重要です。その慣わしに影響されるのではなく、むしろ世の光として、地の塩として、神を証しするのです。私たち日本に地においても、周りに神社や寺がたくさんあっても、パチンコ店や酒屋が並んでいても、主への礼拝を捧げます。
12:8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。
さらに南下しました。ベテルとアイはシェケムのさらに南にあります。そこで再び彼は主に礼拝を捧げています。セツの子孫がそうであったように、アブラハムも主の御名によって祈りました。
12:9 それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。
ネゲブはイスラエル南部にある砂漠地帯です。彼は遊牧民として、そこに住むのはさほど苦ではなかったでしょう。彼は、約束の地の北から南まで歩き、主に与えられた土地を踏みしめました。
2B エジプトでの災難 10−20
12:10 さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。
エジプトはさらに南にあります。ネゲブの南はシナイ半島であり、それを横切るとエジプトがあります。アブラハムはカナンの地に飢饉が襲ったので、エジプトに下りました。エジプトは砂漠の中にありますが、ナイル川のおかげで緑があり、肥沃な土地でした。その豊かさによってエジプトは大きな国になっていました。
飢饉だからエジプトに行く、というのは人間的に考えれば当たり前のことです。家族を食べさせなければいけません。けれども、神の目からはこれは大きな失敗でした。神が、「この地をあなたに与える。」とカナンの地を与えられていたのに、エジプトに行って助けを得ようとしたからです。
エジプトはこれから、聖書の中で「世」を示す型になっていきます。雨量がかなり少ないイスラエルの地に住む者にとって、常にナイルの水を得ているエジプトは魅力的であり、それに頼りたくなります。けれども、世に頼るのではなく、神ご自身の約束に踏みとどまるのだという決断を私たちがするときに、神がその必要を満たしてくださいます。
しかしアブラハムは、その信仰の試みに対して失敗しました。エジプトに下りました。確かに物質的な助けは得られます。けれども、霊的に大変なことが起こります。
12:11 彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。12:12 エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。12:13 どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」
アブラハムは、とんでもないことを妻サラにお願いしています。最近のエジプトで起こった反政府デモで、女性記者が性的に乱暴を受けたというニュースがありましたが、アブラハムの時代のエジプトも状況は同じでした。女がいれば、無理やりにでも自分の妻にするという危険がありました。それでアブラハムは、サラが自分の妻だといえば、「じゃあこの男を殺してしまおう。そしてこの女を妻にしよう。」とエジプト人が言うだろうことを予測して、彼女に「妹」だと言っておくれと頼んでいるのです。サラは確かに腹違いの姉妹です。けれども、この状況下においては完全に嘘です。
私たちは、一度、信仰の試みに失敗すると、次々に肉の行ないが出てきます。一度、忍耐しきれなくなって自分勝手に行動すると、次には恐れ、次には怒り、次には嘘など、崖から落ちてしまうように次々と罪を犯すようになります。大事なのは、キリストのうちに、信仰のうちにとどまっていることです。
12:14 アブラムがエジプトにはいって行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。12:15 パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。
サラはこの時、もう六十五歳でした。アブラハムより十歳年下です。当時は寿命が長かったので、それだけ若かったとは思いますが、それにしてもかなりの美人だったようです。パロがなんと彼女を自分のハーレムの中に入れました。
12:16 パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。
いわゆる結納金です。サラの父はすでに死んでいるようですから、半兄弟であるアブラハムがその結納金を受け取ったのです。このように、世の富は妥協すればすぐに手に入るかもしれません。けれども、これは後で痛手となるのです。
まず13章で、ロトがこの富に魅惑されてしまいました。そして16章では、ここにいる女奴隷の一人ハガイによって、アブラハムは神の約束されていない子イシュマエルを生みました。富によってかえって痛々しい思いをしなければならなかったのです。
12:17 しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。
なんと痛めつけられたのはアブラハムではなく、パロの家のほうでした!アブラハムが嘘をついて罪を犯したのですから、彼が罰を受けるべきですが、神はアブラハムを祝福すると約束されたゆえ、彼を罰することをされなかったのです。むしろ、彼の祝福が失われることのないために、パロの家を災害で痛めつけました。おそらく、パロがサラの寝床に入ることのないように、サラの胎を守るために、パロやその家の男どもにひどい病を与えたのではないかと思われます。痛くて、それで女と寝るどころではなかったではないかと思われます。
アブラハムが行なったことは、単なる嘘というものではありません。神がアブラハムの子種によって、そしてサラの胎によって約束のキリストをもたらすと決められていたからです。それを他の男の、しかも異邦人の子種が入ってしまうことによって、この神のご計画が台無しになってしまうという大きな危機でした。それで神はパロを呪われました。パロは意図的ではなかったにしろ、12章3節にある、「あなたをのろう者をわたしはのろう。」という神の言葉通りのことを行なっていました。
神はこのようにして私たちを守ってくださいます。神はキリストにあって、私たちを罪に定めることは決してなさいません(ローマ8:1)。もちろん懲らしめることはなさいます。アブラハムも、この失敗によって後にいろいろな刈り取りをしました。けれども、それは罰ではありません。神は、キリストにあって私たちをただ祝福し、愛を降り注ぐようにお決めになったのです!
12:18 そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。12:19 なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」
まことの神を知らない不信者の人から、このように叱られるのは本当に不名誉なことです。本来なら、信仰者が不信者に正しい神のことを示さなければなりません。
12:20 パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。
普通ならパロはアブラハムを当然のごとく殺していたでしょうが、彼はアブラハムには神がおられるという恐れがありました。それで、彼らが早く自分たちから去ってくれるようにと、分け与えた財産共々、エジプトから出してしまいました。
2A ロトとの別れ 13
それで彼らは、約束の地に戻ります。
1B 約束の地を離れるロト 1−13
13:1 それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。13:2 アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。13:3
彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、以前天幕を張った所まで来た。13:4 そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。
アブラハムは、主が語られたとおり多くの富を持ちましたが、彼はその富に支配されていませんでした。むしろ、彼はエジプトにおける大きな失敗から立ち直り、かつて祭壇を築いたベテルとアイの間まで戻り、再び主の御名によって祈りました。彼は悔い改めたのです。
けれども、アブラハムは良かったでしょう、このように立ち直ることができるほど彼は霊的に敏感でした。けれども、まだ信仰が確立していなかったロトは、この富に支配されてしまいました。
13:5 アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。13:6 その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。13:7 そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。
アブラハムとロトは、それぞれ多くの家畜を持ち、それを羊飼いに飼育させることによって家業を営んでいました。けれども、土地が狭いです。そこはカナン人の地であり、その町々の間にあるわずかな荒れ地を使って放牧していたのですが、ついに両者の羊飼いたちが言い争うようになりました。
13:8 そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。13:9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」
アブラハムの霊性は優れています。彼は、周囲にカナン人がいることを知っていました。まことの神をあがめる者たちが言い争いをしているのを見せてしまっては、彼らに良い証しにならないことを知っていました。
それでロトとの間に平和があることを求めました。アブラハムはおじですから、ロトにいくらでも、どこかに行けと命じることができたはずです。ところがアブラハムは、ロトに最初の選択を委ねました。ここに、アブラハムの柔和さとへりくだりがあります。これは、すべてのことは神から来ているのでから、相手も神の御手の中にあるというへりくだりです。自分の手を動かして、自分で支配しないというへりくだりです。
13:10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
イスラエルの地形は、その土地の真ん中に南北に山脈が連なっています。そしてヨルダン川は渓谷になっています。世界で最も低い陸地であり、死海の上空を飛ぶ飛行機は何と海水の水面下を飛ぶことができます。
したがって、今、サマリヤの山々にいるロトからは死海地域は大きく見渡すことができました。ソドムとゴモラは死海の南の方にあったのではないかと言われていますが、ツォアルは最南端にある町です。そこ一帯が緑で潤っていたのです。今は塩分を多く含む砂漠になっているので信じられませんが、それはソドムとゴモラに火と硫黄が後に降り注がれるからです。
ロトは、この目に見えるものに魅了されました。特に、「エジプトの地のように」とあるように、彼が味わった豊かさがそこにはありました。彼は、信仰によってではなく、目に見えるものにしたがって動いてしまったのです。私たちには、二つの道があります。どちらも箴言にありますが、一つは「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。(3:5)」です。そしてもう一つは自分の悟りに頼る道で、「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(14:12)」であります。
13:11 それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。13:12 アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。13:13 ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。
非常に豊かであったけれども、「主に対して非常な罪人であった」とあります。主が嫌悪されていたのは、彼らがその豊かさによって安逸を貪っていたことと、男色を行なっていたことです。
ロトは、これらの罪に関わりたくはありませんでした。だから、「ソドムの近くまで天幕を張った」のです。罪は犯したくないからそこには行かないが、その近くまでは行こう、ということです。いかがでしょうか?私たちは、自分たちがいかに弱い存在であるかを忘れてしまいます。自分の目にしたがって、自分は大丈夫だと思って行なうことによって、すでに信仰から来る内からの力を失っています。それで罪に対しては弱くなっています。近くに行くだけでは済まなくなってくるのです。
それで14章12節をご覧ください。何とありますか?「ロトはソドムに住んでいた。」です。そして19章1節をご覧ください、「ロトはソドムの門のところにすわっていた。」とあります。当時の町は城壁に取り囲まれており、門には建物がついていて、今の役所の役割を果たしていました。つまり、ロトはソドムの町のさばきつかさになっていた、ということです。ちょっとした、目の欲による妥協がロトを罪のど真ん中へと突き落としたのです。
2B 約束の地にとどまるアブラハム 14−18
13:14 ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。13:16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。13:17 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」
詳しくは第一礼拝の説教を聞いてください。ロトは目で見えるものを追い求めたのに対して、アブラハムは信仰の目で見えるものを見て喜びました。
そしてアブラハムは、神から大きな慰めを得ました。かつてシェケムで神が現れてくださった時には、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。(12:7)」と言われましたが、内容は同じですが、もっと規模の大きい、確かな幻として見せてくださったのです。神は、約束の地をくまなくお見せになりました。そしてその所有が永久であることを告げられました。さらに、子孫がちりのようになることも約束してくださっています。そして、信仰によって前もって楽しむことも命じておられます。「歩き回りなさい」と言われました。
私たちは、信仰によって受けた損失が大きい分、神はそれを補い、むしろ溢れさせてくださるように満たしてくださいます。信仰によって失ったものを、十二分に与えてくださるのです。
13:18 そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のための祭壇を築いた。
アブラハムは南部に住むところを移しました。これから、ヘブロンが彼の住まいの町となります。エルサレムから車で1時間弱のところにあります。そこに行っても、彼は主のための祭壇を築きました。
3A 王たちの戦い 14
1B ロトの拉致 1−12
14:1 さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代に、14:2 これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわち、ツォアルの王と戦った。14:3 このすべての王たちは連合して、シディムの谷、すなわち、今の塩の海に進んだ。
場面は王たちの戦いに移ります。これはすべて、すぐに出てくるロトをさらっていくという事件の背景を説明するためです。そして戦いの場は、「塩の海」つまり死海のところです。
四人の王はメソポラミアの地域の者たちです。「シヌアル」は、もうすでにバベルの塔のところで出てきましたね。そして後者の五人の王はカナンの地にいる者たちです。この中に、ソドムの王とゴモラの王がいます。
14:4 彼らは十二年間ケドルラオメルに仕えていたが、十三年目にそむいた。14:5 十四年目に、ケドルラオメルと彼にくみする王たちがやって来て、アシュテロテ・カルナイムでレファイム人を、ハムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、14:6 セイルの山地でホリ人を打ち破り、砂漠の近くのエル・パランまで進んだ。14:7 彼らは引き返して、エン・ミシュパテ、今のカデシュに至り、アマレク人のすべての村落と、ハツァツォン・タマルに住んでいるエモリ人さえも打ち破った。
メソポタミアからの王たちは、シリアに南下し、今のヨルダンを通過し、紅海の港町であるエル・バランまで行き、それから折り返して南からカナン人の地を攻めて行きました。
14:8 そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ベラの王、すなわちツォアルの王が出て行き、シディムの谷で彼らと戦う備えをした。14:9 エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアル、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、この四人の王と、先の五人の王とである。14:10 シディムの谷には多くの瀝青の穴が散在していたので、ソドムの王とゴモラの王は逃げたとき、その穴に落ち込み、残りの者たちは山のほうに逃げた。14:11 そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。14:12 彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。
カナンの王たちが負けて逃げました。それで一般の人々がメソポラミア側の王たちにさらわれていきました。その中にロトがいて、その家族や財産があったのです。
2B メルキゼデクとの出会い 13−24
自分から離れてしまったロトであるけれども、甥を愛してやまないアブラハムは命がけでロトを奪還すべく追跡します。
14:13 ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの親類で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。
ここで初めて「ヘブル人」という言葉が出てきます。エベルから派生した言葉です。そしてエモリ人のマムレという人とアブラハムは盟約を結んでいました。おそらくマムレに対して、アブラハムは良い影響を与えていたのだろうと思われます。彼らもアブラハムの神に回心していた可能性もあります。
14:14 アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。14:15 夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。
ものすごい距離です。「ダン」はイスラエルの北端の町であり、ゴラン高原あるいはフラ渓谷から北上するとその遺跡を今でも見ることができます。さらに彼らは北上し、なんとシリアのダマスコの北まで行きました。
14:16 そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。14:17 こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。
この「シャベの谷」は、「ヨシャパテの谷(ヨエル3:2)」のことです。エルサレムの町の神殿の丘とオリーブ山の間にある谷で、ケデロンの谷の一部です。
14:18 また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。
アブラハムは二人の王の訪問を受けました。一人はソドムの王で、そしてもう一人は、突然、負って沸いたようにメルキデゼクという王が出てきています。
14:19 彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。14:20 あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。
彼はいったい誰なのでしょうか?まず「シャレムの王」とあります。シェレムは「平和」という意味があり、エルサレムの別名です。(エルサレムは「神の平和」という意味です。)そして、「メルキデゼク」という名前の意味は「義の王」です。つまり、平和の町の義の王だということです。
しかも彼は、王だけでなく「いと高き神の祭司」であります。王であり祭司である方です。これはちょうど、天皇と国の指導者が一つになったようなもので、とんでもないことです。後に律法では、レビ系のアロンの家の者たちが子孫が祭司職を受け持ち、ダビデの子孫が王座に着きます。王が神殿の中で祭司が行なう、いけにえを捧げるようなことをするやいなや、例えばウジヤ王はらい病にかかってしまいました。ですから、旧約聖書の制度においても決してあってはならないことです。
さらに、メルキデゼクは彼を祝福しています。祝福する人が、祝福を受ける人より上位にいます。そして決定的なのはアブラハムが彼に十分の一を捧げていることです。律法によれば、十分の一を捧げるのは神ご自身に対してであり、人に対するものではありません。もちろん、実際には祭司たちのところに持ってきますが、あくまでも捧げる対象は神に対するものです。
そして不思議なのは、メルキデゼクは「パンとぶどう酒」を持ってきていることです。このコンビを読むのは、もちろんイエス様の聖餐式です。最後の晩に弟子たちに、「これは、あなたがたのために裂かれるわたしの肉です。取って食べなさい。」「これは、新しい契約のために流されるわたしの血です。取って飲みなさい。」と言われました。
そしてこのメルキデゼクについて、後にダビデは聖霊によって、キリストについてこう預言しました。「主は誓い、そしてみこころを変えない。『あなたは、メルキデゼクの例にならい、とこしえの祭司である。』(詩篇110:4)」ここの「例」は「位」と訳すこともできます。メルキデゼクは、キリストの現われそのものだったのです!
メルキデゼクがキリストご自身であるか、あるいはキリストを表していただけでキリストご本人でないかについて意見が分かれますが、私はキリストご本人であると思います。イエス様はユダヤ人に、「アブラハムは、わたしの日を見て、大いに喜びました。(ヨハネ8:56参照)」と言われました。そして彼らに対して、「アブラハムがいる前から、わたしはいるのです。(58節参照)」と言われたのです!イエス様は、二千年前にベツレヘムでお生まれになった時に存在し始めたのではなく、実に永遠の昔から生きておられ、アブラハムの時代にも生きておられたのです。そしてメルキデゼクとして現れてくださいました。
たとえキリストご自身でなかったとしても、キリストを表す人物であることは確かです。ですから、アブラハムはこのような形で神とキリストに出会ったのです。彼はウルの地を出てから、いろいろ失敗しました。父とともに旅に出かけ、そしてエジプトに下ってしまいました。そのため、ロトがソドムに行ってしまいました。けれども、彼に神は現れてくださいました。シェケムで、そしてロトが去った後にベテルで、さらに今、エルサレムの谷でキリストご本人に見えているのです!
これが私たちの信仰の歩みです。私たちがたとえ紆余曲折したとしても、神は決して私たちを見捨てず、私たちが一歩、信仰によって前進すればそれだけ神はご自分を私たちに現してくださいます。これが、私たちが信仰生活を送っている醍醐味です。
14:21 ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」14:22 しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。14:23 糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。14:24 ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」
メルキデゼクとは対照的に、ソドムの王とは一切の関わりを持ちませんでした。当時の慣わしであれば、戦争で勝った者がその戦利品をすべて受け取ることができます。けれども、アブラハムはその一切を断りました。その理由が、「『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。」とあります。イエス様は、「豚の前に、真珠を投げてはなりません。(マタイ7:6)」と言われました。この俗悪な王の財産を受け取ることによって、神にある自分の評判を売り渡してはいけないと考えたのです。
かつては、エジプトのパロから多くの財産を受け取ったアブラハムですが、彼の富はこの世のものではありませんでした。むしろ、神ご自身から富を彼は欲しました。彼は、確かにこの地上の富による祝福を約束されていましたが、あくまでも神ご自身の霊的な祝福、天から来る祝福に裏づけされたものでした。
ですから私たちの生活も、天に根ざしたものです。確かに、私たちはこの世において報いを受けます。すばらしい友達、すばらしい伴侶、また教会もそうでしょう。けれども、それらは背後にある霊的真実があるからこそ祝福されたものであり、そちらのほうが大事なのです。私たちは、このようにして互いにキリストにあって知り合っています。この背後にある神の御霊の導き、神の時の中に生かされている喜び、そしてキリストが巡り合わせてくださったのだから、キリストにあって互いに仕えていくという献身、これらが私たちを支えているのです。
次回は、この戦いの直後に恐れをいただいていたアブラハムに、神がさらに大いなる報いの約束を与えられる話しから読んでいきます。