創世記13章14−17節 「信仰の目」
アウトライン
1A 「目を上げなさい」 14節
2A 「見渡しなさい」 15,16節
3A 「歩き回りなさい」 17節
本文
ついに私たちの学びは、アブラハムの生涯に入っていきます。12章から14章までを第二礼拝で一節ずつ学びたいと思います。第一礼拝では、13章14節から17節に注目したいと思います。
13:14 ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。13:16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。
前回の第二礼拝で学んだように、アブラハムは、月の神を拝む町ウルに住んでいました。けれどもその時、神から「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。(12:1)」という呼びかけを受けました。確かに彼は故郷を出ては行きましたが、偶像礼拝者である父テラから離れることはありませんでした。家族ともどもいっしょに引っ越したのです。そのため、ハラン(カラン)の町まで来た時に、父がそこを気に入り、それ以上、旅を続けることができなくなりました。テラが死ぬまで、そこに留まったのです。
そして、テラが死んだ後にアブラハムは、妻のサラ、そして甥のロトと一緒に、カナン人の地に向かったのです。そしてそこに着いた時に、主が彼に現れてくださったのです。「あなたの子孫に、わたしのこの地を与える。(12:7)」と主が彼に語られました。アブラハムの子孫であるイスラエル人、そしてキリストご自身がこの地を所有するという約束です。彼はそこで祭壇を造り、神に全焼のいけにえを捧げています。ちょうど洪水後にノアが全焼のいけにえを捧げたように行ないました。
ところが、カナン人の地に飢饉がやってきました。彼はさらに南下して、ナイル川によって緑豊かなエジプトに下ってしまったのです。確かにそれは自分の家を養うのに賢明な判断だったと、人間的には言えるかもしれません。けれども神の目からは、神が約束してくださった地から離れる行為でした。案の定、エジプトには誘惑がたくさんありました。男たちは妻サラを見て、情欲を燃やしました。エジプトのパロは彼女を妻として娶りたいと言いました。そのときアブラハムは、なんとサラを「自分の妹だ」と言って、彼女を見放してしまったのです。けれども主は、かえってパロの家に災いを与えられ、サラの胎にアブラハム以外の子種が入ることのないように守られたのです。
このような痛い経験をして、アブラハムは再び北上して、前に住んでいたベテルに戻ってきました。そして再び主の御名によって祈り、主との交わりを再開しました。
けれども、アブラハムは悔い改めたから良かったのですが、甥のロトはそうではありませんでした。彼はアブラハムのように、神への信仰がまだしっかりしていませんでした。エジプトにいる時に、この世の豊かさに魅了されてしまいました。
ベテルの地で、アブラハムもロトも放牧を営んでいました。どちらの家畜も増えていったので、狭い土地の中でそれぞれの羊飼い通しの争いが絶えませんでした。けれども周りにカナン人たちがいます。これでは、生きている、天地を造られた神を信じる者として恥ずかしいです。それでアブラハムはロトに申し出たのです。「全地はあなたの前にあるではないか。私から離れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。(創世13:9)」
そのときロトは、「いいえ伯父さん。あなたがお選びください。」と言うべきところを、彼は自分の目の欲にしたがって選んでしまいました。それがソドムとゴモラの町に向かうヨルダン渓谷だったのです。「ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。(13:10)」
1A 「目を上げなさい」 14節
それで、ロトはアブラハムから離れていきます。これまで行動を共にしてきた、愛する甥を手放さなくなったのは本当に辛かったことでしょうか。「家族をエジプトに連れて行ってしまったばかりに・・・」という後悔もあったかもしれません。
アブラハムはロトを本当に愛しています。14章に入れば、さらわれたロトを奪い返すために、国々の王と命をかけて戦っています。18章では、ソドムを滅ぼすと言った天使に対して、ロトのことを思って、どうか滅ぼさないでくださいと懇願しています。
こうした愛する者との別れたばかりのアブラハムに対して神が、「目を上げなさい」(14節)でした。ということは、彼は目を下げていたのです。彼は落ち込んでいたのです。そのアブラハムを神は励まそうとされています。そしてそれは、彼がカナン人の地にとどまっていることがいかに祝福に満ちたことなのかという、約束の保証だったのです。
私たちは信仰の歩みの中で、アブラハムのように落ち込むことがあります。自分の愛する人が自分から離れてしまった。これまで共に働いてきた人々が、意図もしなかった誤解で自分から別れてしまった。「もしかしたら私が行なったことで、こうなってしまったのか?」と後悔します。
使徒パウロもそうでした。彼は、エルサレムにいるユダヤ人に自分の回心を証しするために、他の兄弟たちの反対もふりきってエルサレムに来ました。そして彼らの前で大胆に、どのようにイエスが自分に現れたのかを説明しました。けれども、「わたしはあなたを遠く、異邦人に遣わす。(使徒22:21)」というイエス様の言葉を話したとたん、それまでしんとして聞いていたユダヤ人群集が突然騒ぎ出し、「パウロを除け!」と叫びました。
それで彼は、ローマの牢屋に拘置されました。そして今度はユダヤ人議会に連れて来られましたが、そこでも彼の発言で、議員たちが激しい論争を始め、彼の話している福音は誰一人にも伝えることができなかったどころか、状況はもっと悪くなりました。
その夜、牢の中にいるパウロに主が現れました。彼のそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。(23:11)」パウロは恐れていたのです。もう自分は福音を語るのに失格者だと落ち込んでいたのです。けれども、そのような時にこそ主がそばに立って、「あなたは証しをしなさい。」と励まされたのです。
むしろ、神からではない結びつきによって結ばれていた人々との関係は、信仰の有無の違いによって切れることがあります。私たちは、その人間関係でほっとしていたけれども、その関係がかえって神が見ておられるように物事が見ることができなくしている時があります。ですから、関係が切れてしまうとき、その時に私たちが初めて見ることのできる幻というものがあります。アブラハムがそうでした。
預言者イザヤという人もいます。彼はユダの国で多くの罪悪があることに対して、怒りながら預言を行なっていました。けれども、当時はウジヤ王というカリスマ的な、神を愛する人がユダを統治していました。けれども、「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。(6:1)」とあります。彼は、ウジヤ王の優れた統治を仰ぎ見ていたために、かえって主ご自身がこの国また世界を統治されていることから目を離していたのです。彼が死ぬことによって、初めて主の御座の幻を見ることができるようになりました。
2A 「見渡しなさい」 15,16節
ですから神はアブラハムに、「目を上げなさい」と言われました。そして「あなたのいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。」と言われています。彼は今、ベテルとアイの間にいます。約束の地の中心部分にいるのですが、そこは肥沃な地ではありません。岩も転がっている、荒地です。
けれども、そこからは約束の地の東西南北を眺めることができます。「北」にはガリラヤ地方があります。「南」にはエシュコルの谷があります。モーセによって遣わされたイスラエルの12人のスパイが、巨大なぶどうの房を取ってきた所です。そして「東」にはエリコなどがあるヨルダン渓谷が、そして「西」はシャロン平原と地中海が見えます。
そして主は、「わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫に与えよう。」と言われるのです!一部ではなく全部です。そして一時期ではなく永久に、ということです。そして神は再び、アブラハムから子孫が出てくることを保証なさいました。それは単にイスラエルの子孫ということだけではなく、その子孫からキリストが出てくるという事です。
アブラハムは確かに見ていました。それはベテルという町を見ていました。そこで、家畜を飼うには狭くなってきた、大して草の生えていない所を見ていました。けれども、その目を遠くには持って行きませんでした。目の前のことは見ていますが、さらに遠くの壮大な神のご計画は見ていなかったのです。それで神が、東西南北をすべて見渡すように命じられたのです。
私たちはしばしば、目の前にある小さなことを見てしまう過ちを犯してしまいます。神の大きなご計画を見失ってしまうことがあります。イエス様が律法学者を責められた時の言葉、「あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。(マタイ23:23)」を犯してしまうことがあります。「自分」をずっと見続けてしまい、神を愛し、自分自身のように隣人を愛するという命令を忘れてしまうことがあります。
神がご自分の心の中で抱かれている世界は、まさに全世界です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世界(世)を愛された。(ヨハネ3:16)」神が私たちに与えておられる世界は無限に広がっており、全ての罪人に対して向けられているのです。そして神は、11人の使徒たちに対して、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。(使徒1:8)」と言われました。エルサレムにいた、自分たちの家の戸を占めてびくびくしていた弟子たちに対して、イエス様はこのように地の果てまでの幻を与えられました。
私たちは、目の前にある問題や不都合なことでいろいろ心配しますが、どうか回りに目を向けてください。そこには、神の愛を必要としている人々がたくさんいます。自分の問題が全く問題にならないほどの、はるかに大きな問題を抱えている人々がたくさんいます。私がアメリカの教会の事務所で祈りの奉仕をしたことの一つが、これでした。他の奉仕仲間も同じ事を話していましたが、「祈りの奉仕のすばらしさは、自分の問題が問題ではないことに気づくことだ。」というものです。他の人たちのために祈っていく時に、自分にはすでにキリストの愛を持っており、それをその人たちに示していく必要があるのだ、ということに気づくのです。
どうか、ご自分がイエス様を信じているなら、ご自分が持っている神の愛は分かち合っていく必要があるのだということをぜひ知ってください。数多くの人が、キリストの福音を受け入れた後に、「なぜもっと早く伝えてくれなかったのだ。」と訴えるのです。私たちが人を恐れてしまっている間に、福音を知らないで苦しんでいる人たちが数多くいるのです。周りを見てください、そして遠くを見てください。大海のように、神の愛を受けるべき人々が歩いています。
3A 「歩き回りなさい」 17節
そして神の、アブラハムへの励ましは続きます。「立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」ただ見渡すだけではなく、しっかりと歩き回りなさいと命じられているのです!
彼は、まだそれが自分の所有の地になっていないのに、すでに所有の地であるかのようにみなしてそれを行動に移しているのです。実際は、彼は死ぬ時にヘブロンで購入した墓地以外は、私有地はいっさいなく、生涯、遊牧の旅人でした。けれども、彼はその約束をはるかに仰ぎ見て、喜んで受け入れたのです。
この約束は徐々に実現していきます。400年後に、2,3百万いたと言われるイスラエルの民が、この地に入ってきて住み着きます。そして約1000年後にダビデとソロモンによってイスラエル王国が確立します。彼らの不従順によって、バビロン捕囚、そしてローマによる世界離散を経験しましたが、神はアブラハムへの約束を未だに覚えておられて、前世紀にはその地にユダヤ人による国家を建ててくださいました。私は三度、この地を舐めるようにして旅行しました。確かに、ユダヤ人によって開墾された地は豊かになっています。
けれども、神は必ずこの地をもっともっと祝福に満ちたところに変えてくださいます。イエス・キリストが再び戻ってきてくださり、この世界をすべて変えてくださり、エルサレムから君臨して世界を治めてくださいます。その時に、イエス様をメシヤとして受け入れた、新生したイスラエル人たちがこの地に住み着き、これまでにない祝福を受けるのです。
こんなことは、私たちがどうやって人間の頭で想像できるでしょうか?日本人の天才的な政治家に聖徳太子がいますが、彼は数百年先に起こることを政治的に予測したという話しを聞いたことがありますが、これは数百年の話ではありません、数千年の期間の話です。人間がとうてい想像すらできない未来を、アブラハムはただ神に言われたという理由で、それを喜んで受け入れ、その場でその喜びを歩き回ることによって表しました。
実はこれが、私たちキリスト者に与えられている務めです。キリストを信じる者は、永遠のいのちを得ています。それは、永遠の先に神が約束してくださっていることを今、受け入れて、その祝福を享受している者たちです。
私たちはどうやって、自分が神の子どもになったことを喜んでいるのでしょうか?神の相続者になったことを喜んでいるのでしょうか?神の国を受け継ぐことは、まだ未来ことです。永遠に生きるのも、まだ未来ことです。けれども、たった今喜んでいるのは、それはアブラハムのように信仰が与えられており、未来のものを既に今のものとして受け入れることができているからです。
これは、永遠の神であられる聖霊が私たちの心で行なってくださっていることなのです。「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5:2-5)」これを書いたパウロは、来臨のキリストにある神の栄光を、すでに喜び踊っていました。それゆえ今の艱難にも耐えることができると言っています。なぜなら、聖霊の愛が心に注がれているからだと言っています。
どうか、この「未来をすでに完了したものとする」ことができる奇跡を知ってください。私たちは、これから救われるのではなく、もうすでに救われたのです。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。(エペソ2:8)」異端の人々に質問してみてください、「あなたは救われましたか?」と。彼らは熱心に聖書を勉強していると言い、私たち一般のクリスチャンよりもはるかに多くの知識を持っています。けれども、この単純な真理については、どうしても答えることができないのです。「これから救われるかもしれません。熱心に伝道すれば。」としか言えません。「死ぬときまで分からない。」と言います。死んでからでは遅すぎます!
このようにして他の神の約束も受け入れてください。仰ぎ見るようにして、約束を見てください。そして心の中で喜んでください。そうすれば、アブラハムのようにすでに起こったこととして心の中で実現するのです。
これが信仰の目です。落ち込んでいたら、どうか見上げてください。そして目の前のことを見るのではなく、遠くを見渡してください。そして、信仰で見たものを喜び、歩き回ってください。