アウトライン
1A 信仰の回復 (14章)
1B 試練 1―12
2B 忍耐 13−17
3B 報酬 18−24
2A 信仰による義 (15章)
1B 主のことば 1−6
2B 代価 7−16
3B 恵み 7−21
3A 御霊による信仰 (16章)
1B 肉の行い 1−6
2B 神のわざ 7−16
4A 契約に基づく信仰 (17章)
1B 契約の構成 1―14
1C 約束 1−8
2C しるし 9−14
2B 契約の作成 15−22
3B 契約の批准 22−27
本文
今日は、創世記14章から17章までを学びます。ここでのテーマは「祝福の契約」です。前回私たちは、「変わることのない祝福」という題をもって、10章から13章までを学びました。神は人を祝福されようとしますが、人は神に反抗してのろいを刈り取っています。最後はバベルの塔において人間が反抗したので、神は、彼らの言語をばらばらにし、民族として彼らを世界中に散らされました。しかし神は、人間をあきらめたりなさいません。ご自分の祝福を人間に与えるために、新しい民族を造り出す計画を立てたのです。それは、その民族を祝福して、その民族を通して世界中の民族を祝福する計画です。また、それは人間の行いによって変えられる事のない計画です。神は、その民族の父となるようにアブラハムを呼び出されました。アブラハムは、その呼びかけに応じました。ウルという現在のイラクにある町から、カナンという現在のイスラエルにある町に移り住んだのです。
また私たちは前回、信仰というものをアブラハムの生涯から学ぶ事が出来ることを知りました。パウロは、アブラハムを「信仰の足跡に従って歩む者の父(ローマ4:12)」と呼びました。ただ、日本語で普通に使われている「信仰」と、聖書で書かれてある「信仰」という言葉には、意味の隔たりがあります。聖書で使われている「信仰」は、信頼と言い換えた方が良いかもしれません。神に対する深い信頼、愛、依存などが、その「信仰」という言葉に含まれます。言い換えると、信仰は、神との人格的な関係を持つための手段です。今日は、神がアブラハムに深い関係を持とうとされる部分を学びます。それが、「契約」という形で持たれますが、神はアブラハムと祝福の契約を結ばれます。祝福は、財産や自分の置かれている状況にあるのではなく、実はこの契約の中にあるのです。結婚が祝福されるのは、財産があるからではなく、2人の関係が正しいときにあります。同じように、神の祝福は、神と私たちとの良い関係の中にあるのです.
1A 信仰の回復 (14章)
それでは、14章から読み進めましょう。
1B 試練 1―12
さて、シムアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの追うケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代に、これらの王達は、ソドムの王ベラ、ゴモラの負おうビルシャ、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムアベル、ベラの王すなわち、ツェボイムの王と戦った。このすべての王達は連合して、シディムの谷、すなわち、今の塩の海に進んだ。
現在のイラクにある国々の王たちが、今のイスラエルやヨルダンの地域にある国々に対して戦いを挑んでいます。ここに「ソドム」と「ゴモラ」という地域が書かれていますが、前回学びましたように、現在は死海に沈んでいる町であり、不法と汚れに満ちていました。けれど、当時は肥沃な農耕地帯だったので、アブラハムのおいロトは、その町の方角にテントを張って住み始めたのです。
彼らは12年間ケドルラオメルに仕えていたが、13年目に背いた。これが、戦争がおこったきっかけです。「14年目に、ケドルラオメルと彼にくみする王たちがやってきて、アシュテロテ・カルナイムでレファイム人を、ハムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、セイルの産地でホリ人を打ち破り、砂漠の近くのエル・バラムまで進んだ。彼らは引き返して、エル・ミシュパテ、今のカデシュに至り、アマレク人のすべての村落と、ハツァツォル・タマンに住んでいるエモリ人さえも打ち破った。
反抗した国々を制圧するためと言うのは大義名分で、その途中さまざまな地域と人々を自分達のものにしています。
そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アデマの追おう、ツェボムの王、ベラの王、すなわちツァオルの王が出て行き、シディムの谷で彼らと戦う備えをした。エラムの王ケドラオメル、ゴイムの王ティデアル、シネアルの王アムラフェル、エラサムの王アルヨク、この4人の王と、先の5人の王とである。
ソドムやゴモラなど、イスラエル・ヨルダン地域にいる王たちは、反撃しようとします。
シディムの谷には多くの瀝青の穴が散在していたので、ソドムの王とゴモラの王は逃げた時、その穴に落ち込み、残りの者達は山の方に逃げた。
戦いには敗れて撤退を開始しています。
そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食料を奪っていった。略奪を開始しました。彼らはまた、アブラハムのおいのロトとその財産も奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。
彼らは、ロトとその財産をも奪い去っています。ここで、「ロトはソドムに住んでいた。」となっていることに注目してください。13章の12節では、「ロトは、・・・ソドムの近くまで天幕を張った。」とありました。ロトはソドムに次第に深く関わるようになっています。19章の1節には、「ロトはソドムの門のところに座っていた。」とありますが、彼はソドムの町の役人までをしていたのです。最初はちょっとだけだと思って許していたものが、それだけでは終わらず大きくなっていくのです。これが罪の性質です。罪は、少しだけなら大丈夫だろうでは済まされません。誘惑を受けた時は、どんなに小さく見えるものでも、それに抵抗しなければなりません。ヤコブは言いました。「神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(ヤコブ4:7)」悪魔は私たちが立ち向かえば逃げ去ります。
こうして、ロトとその財産が奪い去られましたが、近くに住んでいるアブラハムも略奪される可能性は大でした。彼に信仰の試練が訪れたのです。信仰の試練は彼にとって2回目でした。1回目は、カナンの地でききんが起こったときですが、彼は神の約束に反して、エジプトに下ってしまいました。しかし、彼は、失敗の経験を生かして、今度はカナンの地に踏みとどまります。それだけでなく、ロトとその財産を奪回するために戦うのです。私たちもよく失敗するのですが、神は再びチャンスを与えられる方です。そのとき、アブラハムのように信仰によって歩み出せばよいのです。
2B 忍耐 13−17
ひとりの逃亡者は、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレは自分の親戚がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども318人を召集して、ダンまで追跡した。夜になって、彼と奴隷達は、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追及した。」
彼らは、ずっと北上して、現在のシリヤにあるダマスコまで追及しています。
そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。
こうして、アブラハムはこの試練を耐え忍びました。私たちが本当に信仰を必要とするときは、試練のあるときです。神を信頼しているので、一見悪い事があると、普通なら神を疑います。しかし、神は正しい方であり、決して自分を見捨てないと信じるとき、その結果として忍耐が生じるのです。ヤコブは言いました。「進行が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知らないのですか。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ掛けたところのない、成長と遂げた完全なものとなります(ヤコブ1:3−4)」アブラハムは忍耐して戦いました。
3B 報酬 18−24
こうして、アブラムがケドラオメルと、彼と一緒にいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出てきた。
ソドムの王は、戦いを勝利に導いたアブラハムを祝すために、彼のところにやってきます。
また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持ってきた。彼はいと高き神の祭司であった。
ソドムの王だけではなく、シャレムの王が来ています。けれども、この王はどこからきたのでしょうか。先ほどの戦いには登場していません。実は、このメルキゼデクという人物、ただ者ではありません。詩篇に引用され、ヘブル人への手紙で詳しく説明されています。そこからわかることは、彼はまず「シャレム」、訳すと平和の王であることです。シェレムはエルサレムの短縮形ですが、エルサレムで支配する王であります。そして、彼の名前「メルキゼデク」は、義の王という意味です。彼はさらに、いと高き神の祭司です。「いと高き神」とは、偶像の神々とは、比較にならないほど崇高な神ということで、天と地を創造した神のことです。そして、祭司は神と人との仲介者のことです。葬式の時にお坊さんがお経を唱えますが、彼は私たちに代わって霊界のことを世話しているのですが、つまり、あの世とこの世の仲介者に一応なっています。祭司は、神と人との仲介者ですが、メルキゼデクは創造主と人との仲介者です。さらに、彼がとこしえの祭司であることがわかります。父も母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもありません。そして、彼は神の子に似たものとされていることがわかります。よく考えて見ましょう。平和と義の王であり、創造の神の仲介者であり、永遠に生きておられる方で、神の子にされている方といえば誰でしょうか。
キリストですね。アブラハムは受肉するまえのキリストご自身に会ったのです。イエスはユダヤ人に言われました。「あなたがたの父アブラハムは、私の日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです.(ヨハネ8:56)」メルキゼデクは「パンとぶどう酒を持って来」ましたが、イエスも弟子達の前でパンを裂かれて、ぶどう酒を配られました。それは、キリストの裂かれた体と、流された血を現しています。さらに彼は、アブラハムに祝福のことばを宣言します。
彼はアブラハムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に誉れあれ。アブラムはすべてのものの十分の一を彼に与えた。
祝福が、単なる言葉なんてつまらないと思うかもしれません。しかし、アブラハムにとって、神を喜ばすことが自分の願いでした。彼が信仰の試練を通過して、それによって神に栄光が帰されたことを聞いた時、彼は大いに喜んだのです。主ご自身の祝福のことばは、財産の褒美よりもはるかに好ましいものだからです。神は、キリストを信じる者達にも同じようにしてくださいます。神は信仰の試練を与え、私たちがそれを通過するとき、報いを与えられます。その報いはキリストご自身であり、またキリストからの祝福のことばです。ペテロは言いました。「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちてゆく金より尊いのであって、イエス・キリストの現れのときに賞賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。(Tペテロ1:7)」イエス・キリストが再び来られるときに、私たちは顔と顔を合わせてキリストを見、この方から、「よくやった。忠実な良いしもべだ。」と祝福のことばをかけられます。信仰者にとって、これほど喜ばしいことはありません。
アブラハムは、シャレムの王とは対照的に、ソドムの王の褒美を断ります。ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に従う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。ただ若者達が食べてしまった物と、アネルとエシュコルとマムレには彼らの分け前を取らせるように。」
アブラハムがソドムの王の褒美を断ったのは、それを受け取る事によって神ではなく人に栄光が返されてしまうからでした。「アブラムをとませたのは私だ。」と言わせたくなかったのです。アブラハムは、エジプトにおいてパロから財産を受け取った事によって、苦い経験をしました。神に栄光が返されない富は、心配を増やしても祝福にはならないからです。彼は、その経験から学んで、主に信頼して、主を愛する事こそが祝福への満ちであることを知ったのです。
2A 信仰による義 (15章)
こうして彼の信仰は回復しました。神は彼の信仰にあわせて、また啓示を与えられました。前回学んだように、神は、私たちの信仰の歩みに応じて、ご自分のことを少しづつ私たちに示されます。ちょうど、暗闇の洞窟の中を懐中電灯を持って一歩一歩歩くようなものです。一歩進まなければ、次を見ることができません。アブラハムは、信仰による歩み出しを再び始めたので、神は、ご自分の祝福の計画について、彼にさらに細かいことをお見せになります。
さらに、15章においては、私たちキリスト者にとって大事な言葉が出てきます。6節の、「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」という言葉です。つまり、信仰によって神から正しい者として認められることです。この章においては、信仰による義について知ることができます。
1B 主のことば 1−6
これらの出来事の後、主の言葉が幻の内にアブラムに来、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」
アブラハムに主のことばがありました。この「ことば」は、聖書に出てくる一番最初の「ことば」であります。私たちは、目に見えない神とどのように関わりを持つのでしょうか。目に見える人間同士なら、お互いの間に関係がある事がわかります。けれども、神の場合はそうはいきません。私たちが神について不信者の人に話すとき、多くの人は何とかして自分のイメージや感覚で神を理解しようとします。しかし、分らないのです。なぜなら、聖書の神は、ことばによってご自分のことを示されるからです。アブラハムは幻を見ましたが、それはイメージや感覚ではなく主の言葉であったのです。それは、単なる文字ではありません。聖霊によって語られる生きたみことばであり、私たちがそれを聞く時、神との人格的な関わりを持つことが出来るのです。そして、私たちの信仰は、主のことばを聞く事から始まります。パウロは言いました。「信仰は聞く事から始まり、聞く事は、キリストについてのみことばによるのです。(ローマ10:17)」アブラハムは、主のことばを聞いて、それを信じました。
主のことばの内容ですが、初めに「恐れるな。」とあります。アブラハムは戦いという過酷な状況の中での恐れが心に残っていたのでしょう。不安と恐れがあるときに、主が、「恐れるな。」と語られたのです。主は、私たちが恐れのあるとき不安のあるときに、私たちに対しても同じように語ってくださいます。そして、「わたしはあなたの盾である。」とあります。アブラハムの恐れは、自分を防御するものがないと思っていたからでした。しかし、主ご自身が私たちを守って下さるのです.さらに、「あなたの受ける報いは非常に大きい。」と主は言われました。彼はソドム王の財産の分け前の申し出を、公然と断りました。しかし、主ご自身がアブラハムの分け前になるのです。預言者エレミヤは、「主こそ、私の受ける分です。(哀歌3:24)」といいました。このように、アブラハムは信仰によって一歩踏み出したときに、犠牲を伴ないました。しかし、主ご自身がその必要になってくださり、彼を大いに慰められたのです。
わたしたちに対してもそうです。私たちは信仰によって歩む時、しばしば犠牲を伴ないます。私たちはそれが失われるのが恐くて、なかなか一歩を踏み出せないのですが、しかし、一歩踏み出せば、神は豊かに必要を満たしてくださるのです。アブラハムは、この「報いが大きい」という言葉を聞いて、主がかつて約束されたことを思い出しました。かれの子孫がカナンの地を所有する事です。そこで彼は次の質問をしています。
そこでアブラハムは申し上げた「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「御覧なさい。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取になるでしょう。」と申し上げた。
エリエゼルは、アブラハムに仕えているしもべの長でした。彼の名前は、「神は私の助け」とか「慰め主」という意味です。新約聖書では、ギリシャ語の同じ意味の言葉としてパラクレトスがあります。それは聖霊です。パラクレトスは、「援助のために、そばに呼ばれたもの。」という意味です。
このエリエゼルは、後にアブラハムのひとり子イサクのために、花嫁を捜しにバビロンに行きます。そして、花嫁としてリベカを得て、イサクのもとに連れて帰ったのです。後にこれが、御父と、御子と聖霊の働きを指し示す、すばらしい予表になります。アブラハムが御父をあらわしし、イサクは御子キリストをあらわします。そしてエリエゼルが聖霊を示して、リベカが教会をあらわします。このことの詳しいい学びは、23章以降の学びで出来ますので、そのときを待ちましょう。
すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「そのものがあなたの後を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出るものが、あなたの後を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数える事ができるなら、それを数えなさい」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」
主は先に、アブラハムに子孫を与えることをや約束されました。さらに、子孫が地のちりのようにならせることを約束されました。そして今は、星のように子孫が数え切れなくなることを約束されたのです、そして、その子孫はアブラハムがエリエゼルを自分の養子にすることでなく、「あなた自身から生まれ出るもの」つまり、嫡子であることを約束されました。こうして、神は徐々にご自分の計画を明らかにされています。
彼は主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。
アブラハムは、これらの約束を信じました。ただ、彼は多くの子孫が出てくることを信じたのではありません。パウロは言いました。「ところで、約束は、アブラハムとその一人の子孫に告げられました。神は『子孫達に』と言って、多数を指すことをせず、一人を指して、『あなたの子孫に』と言っておられます。その方はキリストです。(ガラテヤ3:16)」アブラハムは、一人の子孫キリストを信じたのです。アダムが罪を犯して人が神から離れてしまった直後から、人を神の身元に引き戻す救い主が人の子孫から現れることを、神は約束されました。創世記3章15節には女の子孫が、悪魔のかしらを踏み砕くとあります。セツが生まれたとき、アダムは、「神は私にもうひとりの子を授けられたのだから(4:25)」と言いました。ノアの父レメクは、ノアが生まれたとき、「この子は慰めを与えてくれるだろう(5:29)」と言いました。人々は、自分の子孫から、救いがもたらされると信じたのです。
そして、神はアブラハムに、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される(12:3)」と言われて、アブラハムの子孫から、神が人を祝福することを約束されたのです。アブラハムは、そのひとりの救い主キリストを信じたのです。私たちも、このキリストが自分をのろいから祝福の下に置いてくださる救い主として信じています。私たちは、2千年前の過去の出来事を見てそれに信仰を置いているのですが、アブラハムは、2千年後の未来の出来事を見て、それに信仰を置いたのです。
そして、彼が主を信じたので、義と認められました。英語ではこの義認を、imputed righteousnessと呼びますが、imputeというのは「転換する」という意味です。責任転換という言葉で使われる転換のことです。つまり義認とは、実際は正しくないのに、正しいものとされる事であります。私たちはよく、「あなた、自分のやったことえを人のせいにしているでしょう。」というような言い方をしますが、それは責任転換です。「あなた、キリストのやったことを自分のものにしているでしょう。」と言えば、義認になるのです。パウロはこう言っています。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(2コリント5:21)」
私たちは本当は有罪なのに、キリストが有罪になることによって無罪になったのです。実際は罪人なのに、キリストがその罪を負われたので、私たちは義人と宣言されたのです、神は今、キリストを信じる者をそのように見ておられます。私たちを見る時に私たちの罪を見るのではなく、私たちのうちにおられるキリストを見てくださるのです。私たちは、信仰によって神から正しい者と認められたのです。
2B 代価 7−16
また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」
主は、子孫についての約束から土地についての約束に移られています。創世記12章に出てきた約束には、3種類あります。一つは国家についてです。二つ目は、祝福される民族についてです。そして三つ目は、土地の所有です。主は土地の所有に焦点を当てて、さらに詳しい啓示を与えられます。
彼は申し上げた。『神、主よ。それが私の所有であることを、どうして知ることができましょうか。』
アブラハムは、神の約束が確かであることを示すしるしを求めています。
すると彼に仰せられた。『私のところに3歳の雄牛と、3歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持ってきなさい。』彼はそれら全部を持ってきて、それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。
動物を切り裂いてその間を通ることは、当時、契約を結ぶ時に行われていました。契約を結ぶ双方が、その間を通ることで、その契約はいのちが取られるほど重いものであることを確認するのです。今はそれが賠償金などの罰則になっていますが、要するに契約には代価がともなったのです。つまり、神は当時の慣習を用いて、ご自分の約束が確かであると言う事をアブラハムに示されました。このように、神はアブラハムを義と認められる背後に、尊いいのちの代価があったのです。
同じように、神はキリストを信じる信仰によって、私たちを義と認められますが、神は非常に大きい代価を支払われたのです。ひとり子キリストの命です。日本語に「尻拭い」という言葉がありますが、会社で部下がへまをしたとき、上司がその処理をしてくれます。部下は何の苦労もなく元通りにされるのを見るのですが、尻拭いをする方は大きな犠牲を払うのです。私たちも、キリストを信じるという実に簡単なことによって正しい者と認められたのですが、その背後には神がご自分の子を死に渡すとい、あまりにも大きな代価を支払われているのです。
猛禽がその死体の上に降りてきたので、アブラムはそれらを追い払った。日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラハムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。
アブラハムは主の言われたとおり、動物を裂きましたが、神はすぐに現れて来ませんでした。むしろ、猛禽が来て、暗黒の恐怖が彼を襲ったのです。それは、次のことを神はアブラハムに知らせたかったからです。
そこで、アブハムに仰せがあった。「あなたはこのことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分達の物でない国で寄留者となり、彼らは奴隷にされ、400年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民をわたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出てくるようになる。あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。そして、4代目の者たちが、ここに戻ってくる。それはエモリ人の咎がそのときまでに満ちることはないからである。」
神のアブラハムに対する約束は実現されるのですが、すぐには実現されず、暗黒の時代を経た後に実現される事を神は教えられました。子孫が400年の間エジプトで奴隷として苦しめられて、それから、このカナンの地に戻ってきます。その話は、創世記の後の主ツエジプト記に書かれています。
3B 恵み 7−21
さて、日が沈み、暗闇になったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。
契約には、それを結ぶ双方が切り裂かれたものの間を通り過ぎなければなりません。ところが、ここではアブラハムは通らずに、煙の立つかまどと、燃えているたいまつによって神のみが通り過ぎられました。これは、神が契約を結ばれただけでなく、アブラハムの方が契約を破った場合の代償は、神ご自身が支払う事を意味します。この契約は、彼の行いによって無効となるようなものではなかったのです。神の祝福の約束は、彼の行いによって失われるものではありませんでした。だから彼は、行いによらず、信仰によって義と認められたのです。神は同じように私たちにも恵みを注いで下さっています。私たちの救いが、もし自分の行いにかかっていたら、今日1日でさえ、救いを失うのに十分な罪を犯しているのではないでしょうか。神はご自分ですべてのことをしてくださったので、私たちが失敗してもそれによって救いを失う事はないのです。だから私たちは安全です。主が確実に私たちを天の御国へと導いてくださいます。
その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川ユーフラテス川まで。ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヘテ人、パリジ人、レファイム人、エモリ人、カナン人、ギルガジ人、エブス人を。」
神は、土地に関する約束をさらに詳しく示されました。所有する土地は、エジプトの川からユーフラテス川までです。地図を持っていらっしゃる方はご覧になるとわかるのですが、現在のイラク、ヨルダン、シリヤ、エジプトの一部にまで至る土地であります。イスラエルは今まで、そこまで大きな土地を所有したことがありません。しかし、これは神の約束です。キリストが再び来られたとき、神はユダヤ人にこれらの領土をお与えになるのです。
3A 御霊による信仰 (16章)
こうして、アブラハムが信仰によって義と認められたことを見てきました。ところが、アブラハムは再び信仰的に失敗してしまいます。前回は、試練に耐えることが出来ずに失敗しましたが、今回は、神の約束を自分で達成させようとして失敗しています。
1B 肉の行い 1−6
アブラハムの妻サライは、彼に子供を生まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。
このハガルは、おそらく、アブラハムとその家族がエジプトに下った時に得た奴隷なのでしょう。
サライはアブラムに言った。「ご存知のように、主は私が子供を産めないようにしておられます。どうぞ、女奴隷のところにおはいりください。多分彼女によって、私は子供の母になれるでしょう。」アブラムはサライの言う事を受け入れた。アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから10年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。
アブラムは、妻サライの言う事を聞き入れて、サライの女奴隷を自分の妻とすることによって子孫を残す事にしました。そしてこれは、アブラムがカナンの地に住んでから10年後の事です。2人は、アブラハムに与えられた約束が10年も経っているのに実現しないのを見て、自分達で何とかしなければと思ったのです。けれども、これは大きな間違いです。神は、私たちの助けを必要とされるような方ではありません。逆に、私たちが神の助けを必要としているのです。
サライとアブラハムのこのような行為を、聖書では、「肉の行い。」と呼ばれています。それは、人の行いによって神の働きを実現させようとする試みです。パウロは、ガラテヤにいる信者達にこう言いました。「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」(ガラテヤ3:3)」私たちのクリスチャン生活は、信仰によって始まり、信仰によって完成します。キリストを信じた後は、聖書の基準に達することができるように自分で頑張ろうとするのは、間違いです。けれども、こう質問されるかも知れません。「それではどうしたら、私たちはキリストの命令を行う事ができるのか。信じるのは簡単だけれども、行うのは大変だ。」私たちがキリストを信じる時に、神が私たちに力を与えてくれました。私たちがイエスを自分の救い主として受け入れた時に、神は聖霊を私たちのうちに住まわせてくださいます。この聖霊の力によって、肉の欲望を満足させることがなくなるのです。
私たちに必要なのは、信仰です。神に深い信仰をよせて、キリストに従う事です。わたしたちには到底出来ないことをイエスは命じられるのですが、そのときに、「あなたがそういわれているのでしたら、やってみます。」と言って従おうとすると、それに必要な力を神は私たちにお与えになります。ですから、自分の力で行おうとするのではなく、神に信頼して聖霊の力によりたのむことが必要です。それはちょうど、馬に乗っている私たちのようなものです。初心者の人は、馬に乗ることだけで精一杯です。しかし、慣れてくると、馬にどのように乗りつづけるかが分るようになります。同じように、私たちは、神にどのように信頼していくかを学んでいかなければなりません。
彼はハガルのところにはいった。そして彼女は身ごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。そこで、サライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分が身ごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたとの間をおさばきになりますように。」アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。
アブラハムとサライは、ハガルから子孫をつくることは良い考えだと思っていたでしょう。けれども、どんなに優れた考えでも、それが神のみこころでなければ、そこには混乱や嫉妬や争いや悲しみがあります。私たちの生活の中で、そのようなプレッシャーを感じている部分はないでしょうか。 多くの場合、それは肉の行いによって怒っています。ですから、神に心を尽くしてより頼む事が最善なのです。箴言には、「心を尽くして主に依り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行くところどこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(箴言3:6)」とあります。
2B 神のわざ 7−16
主の使いは、荒野の泉のほとり、シュエルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」と訪ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライののところから逃げているところです。」そこで主の使いは彼女に言った。「あなたの主人のもとにかえりなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」
ハガルとサライ、アブラハムは敵対関係に入ってしまいましたが、主が彼らに和解をもたらそうと促されています。ハガイに話しているのが「主の使い」となっているのに注目してください。エホバの使いです。これは、受肉前のキリストであります。その証拠に、後にハガルは、その方を「主を見た」と言って、主ご自身であることを証言しています。それなのに、主とは別の存在なのです。イエスは言われました。「私と父は一つです。(ヨハネ10:30)」三位一体の神がここに登場しています。こうして、主ご自身が働かれて、彼女を導いて折られます。
また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、私が大いにふやすので、数え切れないほどになる。」さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れたから。」
彼女の子孫も祝福される事を、主の使いは宣言しました。肉の行いによって生まれた子なのに、その子孫は大いにふやされて、名前がイシュマエル、神が聞き入れるという名をつけられます。ここに、すべてのことを益として働かせてくださる神のあわれみを見ることが出来ます。わたしたちは不完全でありますから、多くのことで失敗します。その失敗によって苦しみや痛みを持ちます。しかし、神は、その失敗までも用いて益として働かせて下さるのです。
彼は野生のろばのような人となり。その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。
イシュマエルは、アラブ民族の先祖の一人と言われています。イシュマエルの子孫は、歴史を通じて、他の民族に、とくにイスラエル民族に敵対して生きてきました。今の中東問題もその一つかもしれません。
そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と叫んだ。それは「ご覧になる方の後ろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからであり。それゆえ、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと矢ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。」
エル・ロイとは、神は見ておられるという意味です。ベエル・ラハイ・ロイは、生きて見ておられるお方の井戸、という意味です。彼女は苦しみの中で、神が自分を見ておられることを知りました。 また、神が自分の叫びを聞き入れてくださるのも知ったのです。私たちが苦しみを持っているとき、だれも自分を省みてくれない、神でさえも省みられないと思ってしまいます。しかし、逆に、私たちが苦しみをもっているときにこそ、神は私たちに聞き入り、その苦しみをご覧になっておられるのです。
ハガルは、アブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名づけた。
アブラハムは、イシュマエルという名を聞いて恥ずかしく思ったでしょう。自分はハガルを見捨てたが、神は見捨てておられなかったからです。
ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは86歳であった。
4A 契約に基づく信仰 (17章)
こうして、私たちは、信仰の歩みとは聖霊によって導かれる事であり、肉の行いによって神の約束を達成しようとしてはならないことを学びました。次に、神は、アブラハムと固い契約を結ばれます。つまり、契約にもとづく信仰です。
1B 契約の構成 1―14
アブラムが99歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。
彼がイシュマエルを生んだとき86歳ですから13年の空白があります。アブラハムは、てっきりイシュマエルによって神約束が実現されると思っていたでしょう。しかし、その子は肉の行いの結果でした。神は御霊によるものこそ本当の子孫であることを示すために、13年という年月を置かれたのです。アブラハムに生殖能力が失われ、サライも閉経して子供を産む能力がなくなったときに、約束を実現されようとしています。それは、彼はもはや自分の能力に頼らずに、神の全能の力によりたのむことでした。自分の働きを誇ることをせずに、神の奇跡をたたえるようにさせるためでした。そこで次を見てください。
1C 約束 1−8
私は全能の神である。あなたは私の前を歩み全き者であれ。
この全能の神はエル・シャダイです。もともと、子どもが母親の胸に抱かれて乳を飲むところから来ています。つまり、神にこそ何かをする力があり、私たちは全面的に神によりたのまなければいけないことをあらわしています。私たちは、自分に何かできると思っている間は、空回りの生活をしてしまいます。しかし、キリストにとどまるときに、多くの実を結ぶことができるのです。イエスは言われました。「わたしはぶどうの木であなたがたは枝です。私にとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もする事が出来ません(ヨハネ15:5)」
そして、主は、「あなたはわたしの前を歩みなさい。」と言われています。歩むと言うのは、生きるともいえましょう。主の前を歩むということは、主を意識して生きていきなさい言う事です。
さらに「全き者であれ。」とあります。これは、全く過ちがないように、ということではありません。主により頼む人生を全うしなさいと言う事です。ですから、この全き者というのは、完全というよりも成熟と言ったほうがよいかもしれません。例えば、学校の勉強を全うする、といいます。それは、完璧な点数をとったのではなく、最後まで学びつづけたことを意味しますね。わたしが学んでいたスクール・オブ・ミニストリーでは、卒業時には入学時の半分の人数になります。卒業した人は、必ずしも成績が良かったといえません。しかし、やめたいと思ったときに、主から力を受けて忍耐してやりとおしたのです。そういう人が、全き者という事になります。私たちは、キリストを信じました。その歩みの中でさまざまな失敗をします。でも、諦めないで下さい。最後まで初めの確信を持ちつづけたものが、永遠のいのちを受け継ぐのです。
そして主は、「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。私は、あなたをおびただしくふやそう。」と言われています。ここでは、「わたしが、」と、くり返されています。アブラハムは神の約束を自分で行おうとしましたが、神が行うのでなければ意味がないのです。
アブラムはひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。「わたしは、このわたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、もうアブラムとよんではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。」
アブラムはアブラハムという名に変えられました。余分につけられた「ハ」という発音は、息の音です。創世記2章7節には、「神である主は、土のちりで人を形づくり、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は生きものとなった。」とあります。つまり、息は神の御霊を表しています。
ここにも、「私が」とか「わたしは」という言葉が繰り返されています。御霊に従って生きることは、主の行いを信じていくことです。しかし、肉に従って生きることは、自分の行いにより頼んでいく事です。アブラムは、自分の肉の行いを捨てて、主の御霊によって歩むように、主から名前をアブラハムと変えられました。神のアブラハムに対する約束は続きます。
私は、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから王たちが出て来よう。
これは、新しい啓示です。主は12章において、「あなたは、大いなる国民となる。」と言われましたが、それは、王たちが出てくることによって実現します。
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そして、あなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。私は、あなたが滞在している地、即ちカナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。私は、彼らの神となる。
ここでは、「永遠」という言葉が2回繰り返されています。ですから、この契約は2千年前のことだけだけではなくて、現在もそして終りの時まで至ります。イスラエルの民はまだ、約束の土地をすべて所有したわけではありません。ヨシュアの時代の時も、ソロモンの時代の時もすべてではありませんでした。そして、もちろん現在のイスラエルは、ユーフラテス川からエジプトの川までを領土にしていません。この約束が完成するのは、キリストとが再び来られる時です。キリストが再び来られる時に、世界中に散らばっているイスラエルの民が集められて、彼らはその土地を所有するようになります。
そして、ここでは、「私は、あなたとあなたの子孫の神となる。」という言い回しが2回繰り返されています。これは、主とイスラエルが個人的な関係に入ることを意味します。私たちが今、キリストを通して神との個人的な関係に入っているように、イスラエルの民も個人的な関係に入るのです。
2C しるし 9−14
このように、神はアブラハムと契約を結ばれていますが、それは神の約束によって始まりました。次に、この契約へのサインをするように、神はアブラハムに仰せられます。
ついで、神はアブラハムに仰せられた「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。次の事が、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなた方の中のすべての男子は割礼を受けなさい。あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、私とあなたがたの間の契約のしるしである。あなたがたの男子はみな、代々にわたり、生まれて8日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られてあなたの子孫でない者も。あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も必ず割礼を受けなければならない.私の契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉のうえにしるさなければならない。包皮の肉を切り捨てられない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったからである。」
神とアブラハムまたはその子孫との契約は、割礼のしるしを伴なわなければなりませんでした。男性の性器の包皮を切り取る儀式ですが、それを生まれてから8日目の赤ちゃんに施します。
私たちはこれまで、聖書の神は、人間に関わりを持つ神であることを学びました。人間関係があるように、神との関係もあるのです、そして、人が神と関わりを持つためには信仰が必要です。アブラハムの生涯を通じて、信仰とは何であるかを知ることができています。そして、今日学んでいるところでは、さらに一歩進んで、契約が結ばれています。神との関係は契約関係です。そして、それは永遠の契約です。私たちの周りの関係の中で、それに似たものがあります。結婚関係です。夫と妻が関係を持つのですが、それは一生涯ともに生きていくという約束ごとに基づく関係であり、結婚式という誓約が行われます。友達関係のように、途中で気に入らなくなったらやめる事はできません。それは、真剣な結びつきであり、その結びつきの中に深い愛が生まれるのです。私たちがキリストを信じた時に、この契約関係に入っていきます。多くの人の考える信仰は、あるときには、仏壇に手を合わせ、あるときはキリスト教会で式を挙げて、あるときは神社のお賽銭にお金を放り込むように、いいかげんなものです。調子の悪い時には神に祈るという、「神頼み」が信仰だと思っています。しかし、キリスト者はそうではありません。聖書では、キリストが花婿であり、教会が花嫁にたとえられていますが、あるときはキリストに従って、途中でやめて仏教徒に変えてもいいような類いのものではありません。キリストに自分自身を全て捧げる時に、初めて私たちは神の愛が何であるかを知ることが出来ます。
そして、今読んだところは、契約のしるしについてでした。これは、内側で起こっている事実を外側に現すことです。アブラハムは、肉の行いを捨てて、御霊に従う生き方をします。そこで、包皮の肉を切り取ることによって、自分が実際に、肉の行いによる生活を切り捨てていることを公に示したのです。このように、契約関係は、単に内側で起こっている事実を持っているだけでなく、外側にその事実を現素のです。キリストを信じる者もそうです。パウロは言いました。「だれでも、キリストのうちにあるなら、新しく造られた者です。古い者は過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(二コリント5:17)」このことを公に現すために、バプテスマがあります。水は墓であり、古い自分がキリストとともに葬られることをあらわします。そして、水から出てくる事により、キリストとともによみがえって、新しい生き方をする事を現します。また、キリストを信じている者はみな一つになっています。同じパンを裂いて、同じぶどう酒を飲むことによって、互いにキリストを王として、主として生きていきます。ですから、礼拝があります。定期的に礼拝に通う事により、私たちの生活はキリストによって支配されている事を公に示すのです。このように、神がアブラハムと結ばれた関係は契約関係であり、それは割礼というしるしを伴ないました。
2B 契約の作成 15−22
また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたに一人の男の子を与えよう。私は彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出てくる。」
神は、アブラハム自身の子から子孫が出てくることを約束されていましたが、ここではサラの子から生まれることを約束されています。彼女は不妊の女でした。そして、今や、90歳です。確か13年前には子供は生まれないだろうということで、ハガルをアブラハムに与えていたのです。しかし、神は人には不可能な事を約束されました。
アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「100歳の者に子供が生まれようか。サラにしても、90歳の女が子を生むことが出来ようか。」
アブラハムは、とてつもなく大きな祝福に対して、笑いしか出てきませんでした。それはすばらしいことだが、自分にはあまりにももったいないと思ったのでしょう。イシュマエルで構いませんと彼は主に申し上げています。
すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。」
神は、アブラハムと違う考えをお持ちでした。彼は神の約束を信じていたのですが、神の方法を知らなかったのです。自分から子孫が出るという約束を信じていましたが、まさか妻サラから生まれることは知らなかったのです。預言者イザヤは言いました。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・・天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(55:8、9)」私たちにも、神は私たちの考えをはるかに越えて、すばらしい計画を立ててくださっています。
イシュマルについては、あなたの言う事を聞き入れた。確かに、私は彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多くまし加えよう。彼は12人の族長達を生む。わたしは彼を大いなる国民にしよう。しかし、わたしは。来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。
神は、サラからイサクが生まれる時期まで示されています。
3B 契約の批准 22−27
こうして、神は、アブラハムに契約を結ばれようとしています。後は、彼がその契約に同意するだけです。次を見てみましょう。神はアブラハムと語り終えられると、彼から離れて上がられた。そこでアブラハムはその子イシュマエルと家で生まれたしもべ、また、金で買い取った者、アブラハムの家のうちのすべての男子を集め、神が彼にお告げになったとおり、その日のうちに、彼らの包皮の肉を切り捨てた。
それは、その日のうちに切り捨てられました。私たちは、すぐに神の御声に従う事が大切です。
アブラハムが包皮の肉を切り捨てた時は99歳であった。その子イシュマエルが包皮の肉を切り捨てた時は、13歳であった。アブラハムとイシュマエルは、園火のうちに割礼を受けた。かれの家の男達、すなわち、家で生まれた奴隷、外国人から金で買い取った者もみな、彼と一緒に割礼を受けた。
こうして、神の仰せにあるとおり、アブラハムはすべての男子に割礼を施しました。ここにも、彼の信仰を見ることができます。神を信頼して、神の御声にすすんで聞きしたがったことです。
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