創世記15章6節 「信仰による義」

アウトライン

1A アブラハムの信仰 15:1-6
2A 行ないによらない義 ローマ4
3A 御霊による信仰 ガラテヤ3
4A 行ないの伴う信仰 ヤコブ2

本文

 私たちの聖書通読の旅は、創世記15章になりました。明日の第二礼拝で15章から17章まで学んでみたいと思います。第一礼拝では、156節に注目してみたいと思います。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

1A アブラハムの信仰 15:1-6
 アブラハムは、ソドムに住んでいたソドムがバビロン地方からの王によってさらわれたことにより、奪還するために遠くダマスコの北まで追跡しました。すべてを奪い返した後、メルキデゼクから祝福を受け、そしてソドム王からも褒美の申し出を受けましたが、きっぱりと断りました。

 そこで主がアブラハムに現れてくださいました。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。(15:1」後に、バビロン方面の王たちから反撃があることを恐れていたのでしょうか、主は彼に「恐れるな、わたしがあなたを守る。」と安心させてくださいました。そして、ソドム王からの褒美をいっさい断ったあとで、その空白を埋めるかのように「あなたの受ける報いは大きい。」と言われたのです。

 アブラハムは、このことが子孫に関わることであることを知っていました。すでに神はアブラハムに対して、「あなたの子孫は地のちりのようにならせる。(13:16」と約束してくださったからです。けれども、アブラハムには息子が一人もいません。サラは不妊だったのです。それでアブラハムは、「私の家の奴隷が、私の跡取りになるのでしょう。(15:3」と尋ねました。彼には、家の管理人であるエリエゼルというダマスコから来た僕がいたからです。

 けれども神はすぐに強く否定されました。「あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がせなければならない。」自分とサラとの間に、必ず子を与えるという約束です。それから神は彼を外に連れ出されました。そして夜空の星を見上げさせました。そしてこう言われました。「星を数えることができるなら、それを数えなさい。・・・あなたの子孫はこのようになる。(15:5」いかがですか、サラが不妊であるときにアブラハムは、この約束を聞いたのです。人間的には文字通り不可能です。けれども、彼はこれを信じました。

 それでその信仰が、神によって義と認められた、つまり「正しい者と認められた」ということになるのです。

2A 行ないによらない義 ローマ4
 私たちは、いつも「認められる」ことを求めています。人から認められる、人から受け入れられる。あるいは評価される渇望を抱いています。ちょうどエバがアダムからそれを求めていました。けれども神はエバに対して、「あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配するようになる。(創世記3:16」と言われました。受け入れられたいと願うのですが、実際は受け入れられません。

 その飢え渇きを唯一、完全に満たすことのできる方は神です。私たちをお造りになった神が私たちを受け入れてくださる時、私たちの心は安心します。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4:10」神があなたを愛してくださっています。このことを知れば、私たちは人からの評価、人から与えられる価値を気にすることなく生きることができます。ただ自分がここにいて、神がこの自分を愛してくださることを知っているので、満足できるのです。

 ところが、一つ問題があります。「では、何をすれば自分は神から認められるのだろうか?」という問いです。私たちが他人に認められるためには、いろいろなことを自分が行なうことによって認められるわけですが、神に対しても同じように認められるために努力しようとするのです。それで、「そのままの自分で、神はあなたを愛しておられます。」と言われても、どうしても落ち着くかなります。神に対しても正しいと認められるように、行ないによって努力しなければと思います。

 けれども、この神は人間ではありません。神は義なる方です。正しい方です。単なる正しさではありません、一つの落ち度もない、完全な義を持っておられます。ですから、人を喜ばせようとして努力するように神を喜ばせようとすると、その完全な、完璧な義の基準の前で、とてつもない葛藤の中に陥ります。

 イエス様が地上に来られた時に、同時ユダヤ人の中で最も正しく生きていると思われていた人たちは、パリサイ派と呼ばれるユダヤ教の一派の人たちでした。バビロンの捕囚の民であったユダヤ人がエルサレムに帰還し、それからこれ以上、神の律法に背いてはならないという強い反省から、律法に厳格に従っていこうという動きが起こりました。それがパリサイ派の始まりです。支配している異教徒の国に妥協しながら生きているサドカイ派とは両極端でした。

 ところがイエス様が、弟子たちに対してこう語り始められたのです。「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。(マタイ5:20」聞いていた弟子たちは度肝を抜かれたでしょう。そしてイエス様は続けてこう語られます。「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイ5:20-22」いかがですか、「バカ!」と他の人に言ったことがありますか?そうしたら、あなたは人殺しと同じであり、神の最後の審判を受け、地獄に投げ込まれる、とイエス様は言われるのです。

 同じように、こう言われました。「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。(マタイ5:27-29」男の人が女の人を見て、心の中でいやらしいことを考えたら、すでに姦通の罪に問われる。そしてその罰は燃えるゲヘナ、地獄であるとイエス様は言われます。

 このように神の義は絶対であり、完全なのです。私たちの考える義は、他のものと比較することによって認知する相対的な義なのです。イエス様はこうも言われました。「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(同48節)

 では、どうしたら神に正しいと認められるのでしょうか?このままでは、全員が地獄に突き落とされます。けれども、神はご自分の義を、罪に対するご自分の怒りをキリストの上に置かれました。ご自分の独り子であるキリストが、その罰を代わりに十字架の上で受けるようにしてくださいました。イエス様は十字架上で、「神よ。神よ。なぜわたしをお見捨てになられたのですか。」と訴えましたが、イエス様が代わりに、神から見捨てられる経験をされたので、私たちはもう捨てられることはないのです。ですから、もはや私たちの行ないではなく、キリストが十字架上で行なったことを土台にして、神は私たちを受け入れてくださいます。

 それで神は、私たちを「行ないの原理」ではなく、「信仰の原理」によって私たちを受け入れてくださいます。何か私たちが行なうところの義ではなく、キリストを信じているそのものをご覧になって「正しい」と宣言してくださるのです。それでアブラハムは、神に対して特段に正しいことを行なっていなかったにも関わらず、神の約束をただ信じただけで、その信仰が義と認められました。むしろ、私たちが創世記11,12章で見てきたように、彼は完全とは程遠い人でした。行ないではなく、信仰による義だからです。

 これまで話したことのまとめを、ローマ人への手紙4章で読むことができます、2節から読みます。「もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。『それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。』とあります。働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。(ローマ4:2-5

 ここでパウロは極端にも、「不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら」と言っています。経験ではないもの、不道徳な者、不正や不義を行なっている者、そういった者たちでも、神が義と認めてくださることを信じるなら、その信仰によって正しいと認められるのだ、というのです。ですから、凶悪犯であっても天国に行っている人はたくさんいます。また逆に、善人であるとか聖人と呼ばれている人であっても地獄に行っている人が大勢いるのです。神はすでに行ないによって人を推し量っておられないからです。行ないによれば、みなが地獄に行くのです。そうではなく、キリストを信じているかそうでないかで私たちを量っておられます。

3A 御霊による信仰 ガラテヤ3
 そして、私たちは次の課題に出くわします。イエス・キリストを自分の救い主として受け入れ、クリスチャンになったけれども、神の命令に従うことができないという葛藤です。自分はイエス様を信じたのだから、本来ならイエス様が命じられていることを行なわなければいけないのに、そうすることができないという葛藤が生じます。そこで、私たちは、自分自身に対して規則を設けて、その規則を守ることによって確かに救いが保証されているのだという努力を行なってしまいます。

 実は、アブラハムがその過ちを犯しました。明日学びますが創世記16章に出てきます。子孫を星のように増やしてくださると言われたのは神ですから、神がアブラハムとサラとの間に子供を与えてくださるはずです。ところが、サラは自分が妊娠しないので焦って、アブラハムに自分の女奴隷のハガルをアブラハムに与えました。今でいう「体外受精」ですね。跡継ぎの子を残すために、今は試験管ベイビーが存在しますが、当時は他の女と寝ることによって子孫を残しました。

 確かにハガルは妊娠しました。ところが、ハガルがサラを見下げるようになりました。「私はアブラハムの子を孕んでいる。」と高慢になったのです。それで今度はサラがアブラハムに文句を言いました。アブラハムは責任を取らないでサラに丸投げしてしまいました。サラはハガルをいじめました。それでハガルは家出したのです。つまり「お家騒動」が起こったのです。

 これを聖書は「肉の行ない」と言います。見た目は、人間が努力しているので正しいように見えます。信仰によって待っているよりも、人間が活発に動いているのでむしろそちらの方が霊的に見えます。けれども、実を見てください。アブラハムの家族のように、その良い行ないと思われていたことのメッキが剥がれます。人間の生身の醜さが噴出することになります。

 このことを使徒パウロは、「ガラテヤ人への手紙」の中で、ガラテヤの信徒が同じ過ちに陥っているのを警告して、こう語っています。ガラテヤ書3章2節からです。「ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。あなたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか。万が一にもそんなことはないでしょうが。とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行なわれた方は、あなたがたが律法を行なったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。(2-6節)

 ガラテヤの人たちは、十字架につけられたキリストをはっきりと見て、それで信じました。そうして神の御霊が与えられました。それにも関わらず、律法の行ないによって救いを達成しようとしてしまったのです。パウロは、信じることによって始めたのに、なぜ最後まで信仰によって進まないのか、と訴えているのです。

 私たちが神の御言葉、命令、戒めなど、「こうしなさい」という言葉を聞くときに、私たち自身はキリストの十字架につけられた者であることを決して忘れてはなりません。「キリストが私のために、すべての罪を背負って死んでくださったのだ。」という安心感なしに、また、「私はキリストが死ななければならないほど、堕落している人間だ。私の内には何一つ良いものはないのだ。」という自分の無力を認めることなしに、神の命令を守ろうとしてはなりません。神が命じられるのは、私たちが神を愛するからであり、命令を守らなければ神が罰せられるから、恐いからというものではないのです。そして神を愛している、という思いは、まず神が私を愛してくださったという事実から出てくる、自然の応答なのです。

 私たちがこのように、キリストを信じることによって与えられた御霊によって、私たちの内ではできなくなっていることを神はしてくださっています。御霊に導かれることによって、肉の欲を満たすことから我が身を守ることができます(ガラテヤ5:16)。

4A 行ないの伴う信仰 ヤコブ2
 こうして、信仰による、御霊による生活を歩むと、自ずと結ばれるのが実です。ちょうど庭園に種を蒔いて、茎が出てきて、花が咲いて、実を結ばせるように、信仰によって、御霊の中で私たちがキリストと交わっている時に、この実が結ばれます。つまり、良い行ないは信仰の営みから生まれてきます。

 アブラハムは、ハガルの子が生まれて13年後にサラから子を生みます。イサクという名前でした。彼がもう20歳近くなったころでしょうか、神はなんと、「あなたの愛しているひとり子イサクを、全焼のいけにえとしてささげなさい。(創世22:2参照)」と命じられました。アブラハムはすでに、自分が何の行ないもなしに自分を義と認められていたことを知っていました。神が約束のとおりにイサクを自分に与えてくださったことを知っていました。自分で頑張った時にはことごとく失敗した経験もあります。それで、彼は神が何でもすることがおできになる方だ、という信仰を持っていました。それで彼は、何のためらいもなくイサクを捧げるための準備を始めたのです。

 そして彼を祭壇の上に載せて、彼を縄で縛って、刀を取って彼を殺そうとしたちょうどその時、主の天使が彼の腕を押さえて、やめさせたのです。彼の信仰は、このように神への従順によって、行ないによって現れました。ヘブル人への手紙11章によると、実はアブラハムは、この時、神はイサクをよみがえらせることができると信じていました。神がイサクから子孫を与えることを約束されたのだから、この神がご自分の命令に対して責任を取ってくださると信じていたのです。「私が殺すなら、神はこの子を生き返らせてくださる。」と信じていました。

 このように、真の信仰は行ないが伴っています。私たちは自分の行ないによっては決して神に義と認められませんが、義と認められた信仰には行ないが伴っています。自分が何を信じているかが、行ないによって表れるのです。

 使徒ヤコブはこのことに焦点を合わせて、信仰による義についてこのように述べています。ヤコブ書220節からです。「ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、そして、『アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。(20-24節)

 いかがでしょうか、最後の「行ないによって義と認められる」という言葉を聞くと、パウロが言っていることに真っ向から反対していると思われるかもしれません。そうではありません、ヤコブは、「義と認められるための方法」を話しているのではなく、「義と認められる信仰の種類」について述べています。信仰と言っても、口だけで信じていることが多いです。ヤコブは悪霊でさえ、神を恐れて身震いしていると言っています。「信じている」というのは、神に全面的に、自分の心を、自分の人格をのものを委ねている信仰であるかどうかを確かめなさい、ということです。

 多くの人がこれまで、「私はイエス様を信じています。」と言いました。けれども、その人の生活に変化を見ることができません。顔に喜びがありません。祈ろうとは思いません。同じ兄弟姉妹がいる教会に来ようともしません。その人に救われたことの変化を見ることができないのです。

 その一方で、自分がいつのまにか知らずうちに神を求めています。イエス様の言葉を聞いて感動しています。そして、自分もこの道に従おうと思っています。けれども、それを自分が行なっていることなどとは全然思っていません。ただ嬉しいから、喜んでいるから、自ら進んで行ないたいだけだ、と思っています。これが聖霊の実なのです。神がその人の信仰によって御霊を与えてくださり、その御霊の導きで生きているからです。本人は自分がそれを行なっているという意識がありません。事実、内におられるキリストの御霊が行なってくださっているからです。だから、自分を誇ることができません。神のみに栄光を帰すのです。

 いかがでしょうか?アブラハムの生涯は、信仰によって始まり、信仰によって成し遂げられ、そして良い行ないの実を結びました。これが神が私たちにも求められていることです。私たちの信仰を見て、神は私たちを正しいとみなしてくださいます。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
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