創世記19章24-26節 「ロトの妻」

アウトライン

1A ソドムという町
   1B 地形的豊かさ
   2B 霊的堕落
      1C 安逸
      2C 同性愛
2A ロトの家族
   1B 正しい人ロト
   2B ソドムを惜しむ家族
      1C 逃げなかった婿の家族
      2C 塩の柱
      3C 残された二人の娘
3A 「ロトの妻を思い出しなさい」ルカ17:28-33
   1B 人の子の到来
      1C 堕落した世界
      2C 教会携挙後の裁き
   2B 世への執着
      1C 世への愛
      2C 命を救う者

本文

 創世記19章を開いてください。第二礼拝での学びは、18章から20章までを学びたいと思います。今は1924節から26節に注目したいと思います。

そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。

1A ソドムという町
1B 地形的豊かさ
 ソドムという町は、私たちは既に、ロトが伯父のアブラハムから離れて、その町の近くに天幕を張ったところで見ました。死海の南端にあった町でしたが、当時は、「主の園のように、またエジプトの地にように、どこもよく潤っていた。(13:10」とあります。そこはヨルダン渓谷という低地で、死海の所より北の部分は、今でもヨルダン川におかげで豊かな農地があります。当時は、ソドムとゴモラの町は、農業の生産率があまりにも良かったので、自分たちの手で働かなくても、自然に収益が入ってくるシステムが出来上がっていました。

2B 霊的堕落
1C 安逸
 そのような状況の中で、普通、人々は何を行なうでしょうか?私たちは、労働は神からの賜物であることを知っています。むろん働くのは大変ですが、ではお金があるから働かないようになったら一体どうなるでしょうか?エゼキエル書の中に、当時の様子が描かれています。「だが、あなたの妹ソドムの不義はこうだった。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き、安逸をむさぼり、乏しい者や、貧しい者の世話をしなかった。(16:49」高慢になります。安逸を貪ります。

 そして、それだけお金があるのだから、乏しい人や貧しい人に施せばいいものを、そういう発想が浮かびません。私たちは、人々を助けることができるのは、たくさん持っているからこそできるのだと考えたら間違いです。むしろ、自分自身も必要があるにも関わらず、惜しみなく喜んで与える人々によって、必要が満たされるのです。

2C 同性愛
 そして、安逸を貪っている結果、彼らはよからぬことを考え始めました。私たちは、良い意味で忙しくしていることは大切です。主にあって、与えられた事柄を一生懸命行なっていることによって、私たちは不必要なことを考えなくても良くなります。

 けれども、暇なとき、有りあまっている時に、私たちは考えてはいけないことを考えます。ソドムの者たちは性的に堕落しました。その堕落の度合いは、単なる不品行や姦淫ではなく、男色、同性愛にまで発展したのです。「また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。(ユダ7

 ロトの家に二人の御使いが来ました。その二人は好青年のように見えたのでしょう、夜に町中から人々がやってきました。若者から年寄りまで、です。そしてこう叫びました。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。(18:5」集団レイプを、それも男たちが男に対して、公然と行なおうとしているのです!

2A ロトの家族
1B 正しい人ロト
 ロトは、どのような気持ちだったのでしょうか?使徒ペテロは第二の手紙で、こう言っています。「また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。(2:7-8」ロトは、これらの邪悪な行ないを見聞きして心を痛めていました。彼は、主にある良心を持っていたのです。

 私たちがいかがでしょうか?テレビやインターネットで出てくる汚らわしいこと、悪いものに対して、それを喜び楽しんで見ているでしょうか?それは、クリスチャンにとっては決してエンターテイメントにはなりません。心が主にあって正しければ、悲しみ、苦しみ、怒りを感じるはずです。

2B ソドムを惜しむ家族
1C 逃げなかった婿の家族
 けれども、ロトの周りの人々は違いました。御使い二人はロトに、「この町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。(19:12」と伝えました。それで婿たちのところに行きました。「そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。(14節)」彼らは、「主」という言葉を聞いただけで、まるでおとぎ話か何かだと思ったのでしょう。ロトは、ソドムにいることによって、自分自身は信仰を保つことができたが、他の人々には全く影響を与えることができなかった、ということです。

 いかがでしょうか、私たちが効果的な伝道をするには、相手に伝えるということの他に、自分自身がキリストを主にして、この世に調子を合わせることなく生きていくことが大切です。相手がつまずくのではないかということを気にして、主が行ないなさいと命じられていることを行なわなければ、結局のところその人たちの魂も失われたままでいる、ということになります。

 ともかく、このような人々が大勢であることを私たちは知っていますね。私たちが、「この世の終わりが来ます。」と話しても、たった二週間前に大地震と津波を経験してでさえ、たわごとしか思われません。

2C 塩の柱
 では、ロト自身の家族はどうかと言いますと、彼らもためらっていました。「夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。『さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。』しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。・・主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。(19:15-16」ロトは、自分の家の者たちですから、主について、神について彼女たちにいろいろ話していたことでしょう。けれども、心はこの世のままでした。父親が神を信じるから、表向きは信じていたけれども、内心はそうではなかったのです。

 そして、ロトは自分の未婚の娘の手を引いて、歩いたことでしょう。けれども、自分の妻はもちろん自分で歩かせています。おそらく距離も開いてきたことでしょう。そして、ロトの妻は、御使いにやってはいけないと指示されていたことを、やってしまったのです。主が、硫黄の火を降らせたときに、「ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。」主が何とかしてお救いになろうとしていたのに、彼女は最後のところで振り返り、塩の柱になってしまいました。

 今の死海地域に行きますと、そこは黄褐色の砂漠の中に、コバルトブルーのきれいな死海がくっきり出てきます。そこは、ミネラルが水の四分の一を占めており、そのため泳げない人でも簡単に浮かぶことができます。新聞を読むことさえできます。そして死海の南部に行くにつれ、岩が白くなっていきます。岩塩になっているからです。そこに、伝説的に「ロトの妻の柱」と呼ばれるものがいくつかあります。硫黄の火によって、一気に水が蒸発した塩が彼女の身に降りかかったのです。

 そしてイスラエルのネゲブ砂漠には、「マクテシュ」と呼ばれる非常に大きなクレーターのような痕があります。それが死海の南西部に、三つ一直線に並んでいます。ちょうど、揚げ物をしている時、油がなべから飛び散ったような格好をしています。もしかしたら、神が硫黄の池でソドムとゴモラの地域を滅ぼされたとき、飛び散ったのかもしれません。

3C 残された二人の娘
 それで生き残った三人でありますが、何とこれだけで終わりません。未婚の娘二人は、もはや自分たちしか生き残っていないと考えました。自分たちで子孫を残すことができないと思いました。それで何と、父親に酒をたくさん飲ませて、泥酔させて、彼が眠っているところを、父と性的関係を結び子を宿したのです。彼女たちは自分の身体は滅びから免れましたが、心はまだソドムの状態だったのです。

 そして彼女たちから生まれたのが、モアブとアモンです。そこからモアブ人とアモン人という民族が出てきました。死海の東側、今のヨルダンの地方にいました。彼らがその後、イスラエルに敵対し、絶えず攻撃をしかける者たちとなっていくのです。

3A 「ロトの妻を思い出しなさい」ルカ17:28-33
1B 人の子の到来
1C 堕落した世界
 この出来事は、その後の神の警告において、預言者を通して神が残された教訓となっています。イエス様は、世の終わりのことを話されたときに、ノアの時代の洪水と並んで、ソドムのことを語られました。ルカによる福音書1728節から33節までを読みましょう。

 また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。ロトの妻を思い出しなさい。自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。(ルカ17:28-33

 イエス様は、同じことが、ご自分が戻ってこられる時にもこの世で起こっていることを示唆されています。この箇所を読むと、ちょうど今回の津波に対する避難指示に似ていますね。岩手県釜石の小中学生三千人のうち死者と行方不明者が何と五人という新聞記事を読みました。彼らが教室で教えられていた防災訓練では、「とにかくひたすら高い所に逃げろ。家に戻ってはいけない。」が第一原則で、先生の指示も仰がずにひたすら高台から高台へ逃げたのだそうです。

 聖書の預言では、津波もあるかもしれませんが、今回とは比べ物にならない大きな地震、また隕石が落ちてくること、天が真っ暗になることなど、天変地異が起こります。その時に、私たちはどこにも逃げることはできません。逃げる避難所は唯一、主ご自身であり、神のみこころを行なっているということ一点であります。

 当時のソドムの社会と同じように、私たちは退廃した文化の中に生きています。メディア媒体では、贅沢や不品行が垂れ流しです。児童や生徒に過激な性教育をしてはいけないと言っているおやじたちが、自分たちは平気でポルノ雑誌と変わらないスポーツ新聞を読んでいます。それで、適切に用いれば神に祝福される性欲が異様な形で放出され、初めは女、つぎに未成年、それから同性へと発展するのです。

 女性の人も非難を免れません。必要ではない買い物をどうしてするのでしょうか?必要のないダイエットをどうしてするのでしょうか?これも、テレビやメディア媒体によって作り出された虚構です。そして、こうした欲望はお金に余裕がある時に噴出します。

2C 教会携挙後の裁き
 そして次にロト自身に注目してみましょう。アブラハムは、主がこの町を滅ぼされることを聞いた時にこう言いました。「正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。(18:25」そして、神はたとえ、ソドムの町に十人しか正しい者がいなくても、町全体を赦すと言われました。

 けれども、ソドムには十人の正しい人もいませんでした。けれども、神は御使いによって、ロトが確実に災いを免れたことを確認してから硫黄の火を降り注がれたのです。ちょっと考えてみてください、天気にしろ自然災害にしろ、たった一人の人のために、それを一時期、引き延ばされるということが起こったのです。それだけ、神は正しい人が悪者といっしょに滅ぼすことを望んではおられませんでした。

 もう一度、先ほど読んだペテロの手紙第二26節から読んでみましょう。「また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。(6-9節)」そうなのです、もしみなさんが不義に悩まされていたら、悲しんでいたら、神は裁きから必ず救い出してくださるのです。

 ガラテヤ14節には、「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。」とあります。私たちは、地獄から救われるだけでなく、神が御怒りを下されるこの世界そのものからも救われえるのです。そして黙示録310節には、「わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」とあります。

 その救いの具体的な方法は、テサロニケ人への手紙第一4章と5章にあります。キリストが私たち信者のために来られて、もう既に死んでいる聖徒たちがまずよみがえり、生き残っている私たちは一瞬にして変えられて、そしてともに引き上げられて、天より降りてこられたキリストに見えることになります。教会の携挙です。

2B 世への執着
 けれども、ロトの妻はその機会を逃しました。なぜでしょうか?先ほど読んだルカの福音書をもう一度見てみます。「ロトの妻を思い出しなさい。自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。(ルカ17:32-33」彼女の問題は、「自分のいのちを救おうとした」ということです。ここで言っている「自分の命を救う」のは、肉体の命のことではありません。もし肉体のことを指しているのであれば、夫ともに一目散に逃げたはずです。

 彼女は行なったことは「世の思い煩い」です。自分の命、あるいは生活と言ったら良いでしょう。キリストに全てを明け渡すのではなく、自分が心の王座を占め、そして世の欲を愛するという行為が、「自分のいのちを救う」ことです。「神によってソドムが滅ぼされると言われても、それで自分の生活を大きく変える程のことをしたくない。まさか神が滅ぼされることはないだろう、もし滅ぼさないのであれば、全てを捨ててしまうのはあまりにももったいない。」と言った欲です。けれども、その自分を救おうとする行為がかえって、それを失ったという悲劇を表しています。

 ヨハネの第一の手紙には、「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。(1ヨハネ2:16-17」とあります。この世への愛、肉の欲、目の欲、そして暮らし向きの自慢を愛しているなら、この世と共に滅びます。けれども、この愛を退け、御父の愛を受け入れるなら、私たちは、この地面が動こうと、天体が動こうと、何の問題もなく生きながらえるのです。

 私たちはキリストを自分の主として心であがめているでしょうか?自分を否んでいるでしょうか?キリストの弟子になるには、自分が最も大切に思っているものでも、その偶像を退けて、キリストが自分の心に住んでいただくようにしていただかなければなりません。そして、たとえ自分のこれまでの強い願いや思いに反していても、キリストのゆえにその執着から手を離すのです。そうすることこそが、かえって多くの恵みと霊的富を得ることのできる、キリストが与えられている道であります。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
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