創世記21−23章 「約束の子」
アウトライン
1A イサクの誕生 21
1B 相続者 1−21
1C 御言葉の実現 1−7
2C 肉の子孫 8−21
2B 井戸の誓い 22−34
2A アブラハムの試練 22
1B イサクのいけにえ 1−19
2B リベカの家族 20−24
3A サラの死 23
本文
創世記21章を開いてください、ついに私たちはアブラハムの人生の頂点に入っていきます。主が、彼が信仰生活を始めた間もない時から約束してくださった彼の子が、ついに生まれます。
1A イサクの誕生 21
1B 相続者 1−21
1C 御言葉の実現 1−7
21:1 主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。21:2 サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
ここで強調されているのは、「約束されたとおり」「仰せられたとおり」、つまり主の言葉がそのまま実現した、ということです。アブラハムは、「わたしは全能の神である」という神の啓示を受けました。ですから神が、その約束を成就する力を持っていることを信じて、彼は待っていました。
私たちは、神の御言葉をこのように信じなければなりません。イザヤを通して神はこう言われました。「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。(55:11)」
そして、「神がアブラハムに言われたその時期」とは、神がアブラハムとサラに「来年の今ごろ、サラがイサクを産む。」と言われた時期です(17:21,18:10)。
21:3 アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。21:4 そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。
割礼は、イシュマエルが13歳の時、神がアブラハムと契約を結ばれ、その時に印として受けなければいけないと命じられました。後に「八日目」の男の子に割礼を施すことは、モーセを通して律法の中で定められます。
21:5 アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。21:6 サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」21:7 また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる。』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」
イサクは「笑う」という意味です。サラは自分自身も笑いましたが、興味深いのは神がサラに向かって笑われました。みなが笑っています。それは、神がこんなにすばらしいことを、奇跡を与えられたからです。
神は、私たちに思いもしないこと、聞いたことのないようなことを行なわれます。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。(1コリント2:9)」そして、私たちの願いをはるかに超えて、願いを聞いてくださる方です。「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に・・・(エペソ3:20)」
2C 肉の子孫 8−21
けれども次に、厳しく、悲しい出来事が起こります。
21:8 その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。21:9 そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。
イサクは2-3歳です。そしてイシュマエルは20歳近くになっています。そのお兄さんのイシュマエルがイサクをからかっていました。イサクが生まれた時は喜びの笑いでしたが、イシュマエルはあざけりの笑いをイサクにぶつけていたのです。
ここで著者モーセは、注意深く誰がからかったのかを説明しています。「エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子」とあります。約束ではなく、アブラハムが約束を自分の肉の力で実現させなければいけないと考えた結果、与えられた子です。
そしてまた、そのからかいは、母親のハガルがイサクに対して抱いていたさげすみを反映していたものでした。それは女主人であるサラをも見下していることにつながります。「子は親の鏡」と言われますが、それを反映した出来事だったのです。
21:10 それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」21:11 このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。
それはその通りですね、アブラハムにとっては辛いことです。
21:12 すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。21:13 しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」
以前、サラの言うことを聞いてハガルによって子を生んだアブラハムですが、今回は、サラの言っていることは神の御心にかなったものでした。神はアブラハムを祝福し、イシュマエルの子孫も祝福されるようにしてくださいましたが、メシヤを生ずる新しい子孫はあくまでもイサクによって与えられます。
この出来事は、御霊の導きによって、肉の働きを切り取らなければいけないという、一つの大きな霊的原則を表しています。神の導きによって与えられるものは、すべて恵みであり、信仰によって与えられるものです。けれども、その信仰の歩みに邪魔になるのは、これまで自分が積み上げてきた肉の努力です。
多くの人が、イエスを自分の救い主として、キリストとして受け入れられないというのは、自分が生まれてきてから培ってきた経験と知識、努力が、キリストを受け入れることによって否定されることになるからです。もちろん、神は私たちが信じる前から、能力を与えその人を恵んでおられます。けれども、これらの能力や経験が自分のものとしているのが肉であり、その誇りまたは自慢が、イエス・キリストを信じる時の妨げとなります。イエス様は、「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。(マルコ10:15)」と言われました。
この出来事がガラテヤ書4章に引用されています。「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。しかし、聖書は何と言っていますか。『奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。』こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。(ガラテヤ4:28-31)」
肉の人たちは、御霊の人たちを必ず迫害します。遠くにいる世の人は信仰をもった人を迫害はしないでしょう。近くの人たちが迫害するのです。それは多くの場合、家族です。そして、友人かもしれません。そしてある時には、教会の中で起こるかもしれません。習慣的に、文化的に教会に通っている人こそが、本当に新生した人たちを迫害します。
私が去年、イスラエルに旅行に行った時にベツレヘムに行きました。パレスチナ人のガイドさんが、なんとイエス様を信じる新生したクリスチャンでした。彼が言うには、自分が迫害されるのは、ギリシヤ正教であるとか、カトリックであるとか、既存のパレスチナ人キリスト教徒の人たちだとのことです。おそらく彼はキリスト教徒の中で育ったからだと思います。イスラム教徒よりも、キリスト教徒が御霊の人を迫害するのです。
けれどもここに書かれているように、その肉の仲間が神の国を相続できないのです。物理的に同じ共同体にいても、ハガルとその子が追放されたように、神の国には入ることができません。
21:14 翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。
ベエル・シェバから、シンの荒野、パランの荒野が始まり、そしてシナイの荒野に入ります。そしてエジプトがあります。アブラハムは、次のオアシスまでに必要な糧食を持たせて出て行かせました。ところが問題は、ハガルが道を迷ってしまったことです。
21:15 皮袋の水が尽きたとき、彼女はその子を一本の潅木の下に投げ出し、21:16 自分は、矢の届くほど離れた向こうに行ってすわった。それは彼女が「私は子どもの死ぬのを見たくない。」と思ったからである。それで、離れてすわったのである。そうして彼女は声をあげて泣いた。21:17 神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。21:18 行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」
イシュマエルという名前には、「聞く」という意味が含まれています。神は、イシュマエルが小さく声を出しているその祈りを聞き入れてくださいました。主は、私たちのそのようなうめきのような声をも聞いてくださいます。
21:19 神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。
ハガルの問題は井戸がなかったことではありませんでした。悲しみのあまり、ある井戸も見えていなかったのです。それで、主がその悲しみを取り除き、近くにあった井戸を見えるようにしてくださったのです。私たちも、自分の感情でいっぱいになっているときに、見えるものが見えなくなることがしばしばありますね。主がそれを取り除いてくださいます。
21:20 神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。
神が以前、前もってこうお語りになっていました。16章12節です。「彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。(創世記16:12)」事実そうなりました。荒野に住む遊牧民となりました。また猟師となりました。これは以前、ニムロデが猟師であり、主に対して反抗していたことからも、否定的に使われています。
21:21 こうして彼はパランの荒野に住みついた。彼の母はエジプトの国から彼のために妻を迎えた。
イスラエルの南部ネゲブとシナイ半島の間にある荒野です。そしてセム系のイシュマエルに、ハガルはハム系のエジプト人を娘として与えました。ますます主の思いから離れています。
2B 井戸の誓い 22−34
そして今度は、かつてアブラハムがサラのことを自分の妹だと言って偽ったアビメレクとの話がまた始まります。
21:22 そのころ、アビメレクとその将軍ピコルとがアブラハムに告げて言った。「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる。21:23 それで今、ここで神によって私に誓ってください。私も、私の親類縁者たちをも裏切らないと。そして私があなたに尽くした真実にふさわしく、あなたは私にも、またあなたが滞在しているこの土地にも真実を尽くしてください。」
「アビメレク」というのは名前ではなく王の呼び名の一つです。ちょうど「天皇」が称号であって名前でないのと同じです。同じく「ピコル」も名前ではありません。彼らは地中海沿岸地域に住むペリシテ人です。
この異邦人が、アブラハムに神が共におられることを認めました。そして、アブラハムと平和条約を結ばなければいけない必要性も知りました。それは、創世記12章1-3節で神がアブラハムに約束してくださった、「あなたは大いなる者となる。あなたを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われる。」という約束がそのまま実現しているからです。この人には手を触れてはいけない、害を与えれば自らが被害にあうと知っていたのです。
21:24 するとアブラハムは、「私は誓います。」と言った。
この「誓う」というヘブル語が「シャバ」であります。
21:25 また、アブラハムは、アビメレクのしもべどもが奪い取った井戸のことでアビメレクに抗議した。21:26 アビメレクは答えた。「だれがそのようなことをしたのか知りませんでした。それにあなたもまた、私に告げなかったし、私もまたきょうまで聞いたことがなかったのです。」21:27 そこでアブラハムは羊と牛を取って、アビメレクに与え、ふたりは契約を結んだ。
これは契約や条約を結ぶ時に、当時、取り交わされたものです。家畜を取って契約を結びます。
21:28 アブラハムは羊の群れから、七頭の雌の子羊をより分けた。21:29 するとアビメレクは、「今あなたがより分けたこの七頭の雌の子羊は、いったいどういうわけですか。」とアブラハムに尋ねた。21:30 アブラハムは、「私がこの井戸を掘ったという証拠となるために、七頭の雌の子羊を私の手から受け取ってください。」と答えた。21:31 それゆえ、その場所はベエル・シェバと呼ばれた。その所で彼らふたりが誓ったからである。
通常の契約の他に、アブラハムはさらに七頭の羊を用意しました。平和条約の他に、ここが確かにアブラハムの井戸であることを示す証拠だということです。そして「七」という数字はヘブル語で「シェバ」と言います。「ベエル」が井戸という意味です。それで、「ベエル・シェバ」は七の井戸あるいは誓いの井戸というどちらの意味も含む言葉であります。
ベエル・シェバは、今でもイスラエルの中で大きな都市の一つになっています。ヘブロンよりもさらに南に下り、ネゲブ砂漠が始まる入り口のところにあります。遺跡の残っており、その遺跡の入口には井戸も残っています。
21:32 彼らがベエル・シェバで契約を結んでから、アビメレクとその将軍ピコルとは立って、ペリシテ人の地に帰った。21:33 アブラハムはベエル・シェバに一本の柳の木を植え、その所で永遠の神、主の御名によって祈った。21:34 アブラハムは長い間ペリシテ人の地に滞在した。
「木」は対立のない状態、平和な状態を象徴する存在として出てきます。そして、永遠の神の名で祈りました。いつまでも、ここが平和な状態でありますように、ということです。これは、彼はイサクがこの井戸のことでペリシテ人と争いが出てくるであろうと、前もって予測あるいは、神ご自身に教えられていたからであると思われます。26章に、ペリシテ人がアブラハムの掘った井戸を塞いでしまい、イサクが掘ったものの、「それは我々の井戸だ」と主張する場面が出てきます。それでも、イサクは最終的には争いを克服することができました。アブラハムのここでの祈りが聞かれたのです。
2A アブラハムの試練 22
1B イサクのいけにえ 1−19
22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。
ついにアブラハムの人生のクライマックスです。おそらくは、21章の出来事から十年以上は経っていることでしょう。イサクも20歳ちかくになっています。その時に神がアブラハムを試練に会わせました。
初めから、アブラハムは神の声に対して従順に答えています。「はい。ここにおります。」です。私たちはしばしば、「神は祈りに答えてくださらない。」と不平をもらしますが、その逆は自問したことはあるでしょうか?神が呼びかけておられるのに、自分は答える心の準備ができていないことです。実は、神の御心を知ることができないという課題以上に、神の御心を行なう準備を私たちがしているかどうかという問題があります。
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
ぜひ、第一礼拝の説教をお聞きください。ここから神はアブラハムに、「ご自分が通られる苦しみを、アブラハムとイサクを通して現される。」ことを行なわれます。ご自分が御子キリストにあって、この愛する独り子を罪の供え物のためにささげなければならないということを、アブラハムとイサクによって私たち世界にお示しになるのです。
ですから、「あなたの愛しているひとり子イサク」と主は呼ばれています。イシュマエルがいるのに、「ひとり子」と呼んでおられるのです。それは、アブラハムに与えられた約束を相続する独自の子、という意味です。父なる神がご自分のものをすべてお任せになっている御子も独自です。そして神は、御子をこよなく愛しておられます。イエス様に神は、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。(ルカ3:22)」と言われました。
22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
第一礼拝でも説明しましたが、ここにアブラハムのためらいはありません。「そして」というヘブル語の接続詞が連続的に出ています。一つ一つの行動を畳みかけて行なっている動作です。迷いがないのです。
信仰というのは、神からの賜物です。アブラハムは一度、神の声を聞いた時に、それにただ従順になりました。そうすれば、神がその時に必要な確信と力と知恵を与えてくださいます。それは、私たちが恐れている時には、途方もない勇気に見えますが、一度、主に委ねれば、主が前進する力を与えてくださるのです。
22:4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。
ベエル・シェバ方面から、今、モリヤの山、すなわちソロモンが神殿を建てるエルサレムです。三日間かかりました。そしてこの「三日」という期間も預言になっていることを第一礼拝で学びましたね。イエス・キリストが死者の中から三日目によみがえることを示しています。アブラハムが、自分と子どもが共に戻ってくると言っている所に、アブラハムがイサクはよみがえるという信仰があったことを知ります。
22:6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
ここも説明しました。イサクが木を背負っているのは、まさにイエス様が十字架を背負わされて歩かれている姿を表しています。そして父が言った言葉は預言です。「神がご自身を、いけにえの羊を備えられる。」とも訳すことができます。つまり、父と一つであられるイエス・キリストが、いけにえの羊となられるという預言なのです。
22:9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
アブラハムの信仰も信仰ですが、イサクの信仰もすばらしいです。彼はもう二十歳になっているかもしれないほど大きくなっています。百二十歳のおじいさんが自分を縛り付けるのを、いとも簡単に抵抗することができたのです。けれども、父の行なうことに自ら身を任せました。
ここにイエス様が行なわれたことを見ることができるのです。イエス様は、ご自分の十字架の道をほんの少しでも止めることがおできになりました。けれども、あえて父の御心に従われて、捕まえに来た人たちにご自分の身を任せ、ユダヤ人の裁判であえてご自分が神の御子キリストであることを公言し、そしてローマの裁判ではあえて無実を訴えることをしませんでした。十字架上でも、「神の子であるなら、自分自身を救ってみよ。」と叫ばれても、罵り返すことはしませんでした。すべてを避ける力をお持ちだったのに、あえてご自分を弱くされました。
「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。(ヨハネ10:18)」と言われました。そして使徒パウロはこう説明しています。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2:6-8)」
22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。22:11 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
アブラハムは本気でした。主の使いが、「アブラハム。アブラハム。」と、一度ならず二度彼の名を呼んでいます。そしてアブラハムは再び「はい。ここにおります。」と従順に答えています。
22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
ここにも、私たちは神とキリストの姿を見ます。「すべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ8:32)」アブラハムがイサクを惜しまずにささげたように、父なる神ご自身は、こんなにも大切なご自分の子を、罪人である私たちのために死に渡してくださったのです!
22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。
この訳によれば、そこの藪に引っかかっている雄羊が主の備えと捉えることができるかもしれませんが、もう一つの訳は「主は見ておられる」というものです。アドナイ(あるいはヤハウェ)・イルエは、「ヤハウェは見ておられる」です。
つまり、ここで父なる神はご自分の子キリストが十字架につけられて死なれるのを見ておられました。そこには父の涙があります。父の苦しみがあります。父の痛みがあります。父の叫びがあります。ご自分の愛する子をこのような苦しみに遭わせなければいけないという壮絶な悲しみを、父なる神は味わったのです。
その苦しみを共に分かち合いたいと思われて、神はアブラハムにイサクを捧げよと命じられたのでした。これを「キリストの苦しみとの交わり」と呼びます。私たちはキリストの復活の力の交わりにもあずかっていますが、キリストの苦しみの交わりにも預かっているのです。キリストと一つになること、これが私たちの信仰の目的です。
22:15 それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、22:16 仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、22:17 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。22:18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
主は、アブラハムにこれまでの契約と約束の確証を与えてくださいました。すごいのが神の誓いです。「自分にかけて誓う」と言われています。誓いを立てる時、自分よりも上位の存在にかけて誓わなければいけません。けれども、神にはご自分より上の存在がいないので、自分にかけて誓われているのです。それだけ、アブラハムへの約束は確かだということです。
そしてそれは大いなる祝福、子孫が増えること、そしてもう一つ、「あなたの子孫は、その敵の門を勝ち取る」という約束があります。覚えていますか、神は蛇に言われました。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。(3:15)」キリストが、悪魔の門を勝ち取る、悪魔の牙城を打ち破られる、ということです。
そして、キリストにおいてあらゆる国々が祝福を受けるという約束もあります。これが、あらゆる民族でキリストの名を信じる人々が起こされていること、また新生イスラエルを中心とした神の国が立てられることで成就します。
22:19 こうして、アブラハムは、若者たちのところに戻った。彼らは立って、いっしょにベエル・シェバに行った。アブラハムはベエル・シェバに住みついた。
ここが、アブラハムのヘブロンに続く定住地となりました。
そして興味深いことに、イサクはこのときアブラハムと一緒にいたはずなのに、「アブラハムは」とだけあって、出てきていません。実は、ここにも味噌があります。すべては、「神とキリストにある救いの計画の壮大な預言」であることに気をつけてください。キリストは、三日目によみがえらえた後に天に昇られました。この世にはおられないのです。
そしてイサクが再び登場するのは、新しいお嫁さんリベカが彼のところに来る時です。24章の最後に出てきます。それにも、深い神の救いの物語があります。その前置きとも言うべき、リベカの家族の話が次に出てきます。
2B リベカの家族 20−24
22:20 これらの出来事の後、アブラハムに次のことが伝えられた。「ミルカもまた、あなたの兄弟ナホルに子どもを産みました。22:21 すなわち長男がウツ、その弟がブズ、それにアラムの父であるケムエル、22:22 次にケセデ、ハゾ、ピルダシュ、イデラフ、それにベトエルです。」22:23 ベトエルはリベカを生んだ。ミルカはこれら八人をアブラハムの兄弟ナホルに産んだのである。22:24 レウマというナホルのそばめもまた、テバフ、ガハム、タハシュ、マアカを産んだ。
ナホルの子の「ウツ」が地名として「ヨブ」が住んでいた所として、ヨブ記1章1節に出てきます。「ブズ」はエリフという、ヨブ記に出てくるまた別の人物です。ですから、ヨブ記の舞台は族長時代であったと言えます。そして「リベカ」はアブラハムの、いとこベトエルの娘です。
次の23章でサラが死ぬ話しが出てきます。それからイサクがサラの亡き後、彼を慰めてくれる妻リベカの話が24章に出てきます。
リベカは教会の型です。イエス・キリストが天に昇られてから聖霊が降り、そしてペテロの説教によって三千人のユダヤ人の男性がバプテスマを受けました。教会の始まりです。そして教会は、ユダヤ人のみならず異邦人にまで広がります。イエス様が再び来られて、教会が引き上げられて、そして空中でイエス様とお会いする時まで、それが続くのです。
けれどもその間、一時的にイスラエルは、その特別な働きを退けられています。神は、ユダヤ人、異邦人を問わず、今、教会によってご自分の救いの栄光を現しておられます。けれども教会がこの地上から取り上げられてからは、神は再びイスラエルに働きかけ、イスラエルをお救いになります。そこでサラは、イスラエルの型であると見ることができます。神が救いのご計画において、イスラエルを一時的に退けられ、そして教会を通して働かれます。
3A サラの死 23
23:1 サラの一生、サラが生きた年数は百二十七年であった。
女性として寿命が記録されているのは、彼女ぐらいだと思います。彼女も族長的な存在です。アブラハムはこのとき、137歳でした。
23:2 サラはカナンの地のキルヤテ・アルバ、今日のヘブロンで死んだ。アブラハムは来てサラのために嘆き、泣いた。
アブラハムはベエル・シェバに住んでいましたが、サラは自分が死んだ時ヘブロンにいました。
23:3 それからアブラハムは、その死者のそばから立ち上がり、ヘテ人たちに告げて言った。23:4 「私はあなたがたの中に居留している異国人ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。そうすれば私のところから移して、死んだ者を葬ることができるのです。」
非常に重要な告白です。アブラハムは、とてつもない広大な土地を「あなたのものである」という所有の約束を受けていたにも関わらず、その時は何一つ所有していなかったのです。それで彼は、「私はあなたがたの中に居留している異国人だ」と告白しています。
神の約束を受け継いでいる者は、すべてがこの地上において寄留者であり、旅人であることを告白します。ヘブル人への手紙11章13節から16節まで読みます。「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(ヘブル11:13-16)」アブラハムにとって、天がまことの故郷だったのです。
23:5 ヘテ人たちはアブラハムに答えて言った。23:6 「ご主人。私たちの言うことを聞き入れてください。あなたは私たちの間にあって、神のつかさです。私たちの最上の墓地に、なくなられた方を葬ってください。私たちの中で、だれひとり、なくなられた方を葬る墓地を拒む者はおりません。」
アビメレクだけでなくヘテ人の間でも、アブラハムは敬われ、恐れられていました。「神のつかさ」と言っています。「あなたの名を大いなるものとしよう(12:2)」という神の約束の通りです。
23:7 そこでアブラハムは立って、その土地の人々、ヘテ人にていねいにおじぎをして、23:8 彼らに告げて言った。「死んだ者を私のところから移して葬ることが、あなたがたのおこころであれば、私の言うことを聞いて、ツォハルの子エフロンに交渉して、23:9 彼の畑地の端にある彼の所有のマクペラのほら穴を私に譲ってくれるようにしてください。彼があなたがたの間でその畑地に十分な価をつけて、私に私有の墓地として譲ってくれるようにしてください。」
今、当時、不動産を買う交渉を読んでいます。「どうぞ、なくなられた方を葬ってください。」と言うヘテ人の言葉はあくまでも儀礼であって、相手が自ら購入を申し出るための前置きであります。
23:10 エフロンはヘテ人たちの間にすわっていた。ヘテ人のエフロンは、その町の門に入って来たヘテ人たちみなが聞いているところで、アブラハムに答えて言った。
交渉は町の門のところで行なわれていました。行政や大きな商取引が執り行われていた場所です。
23:11 「ご主人。どうか、私の言うことを聞き入れてください。畑地をあなたに差し上げます。そこにあるほら穴も、差し上げます。私の国の人々の前で、それをあなたに差し上げます。なくなられた方を、葬ってください。」23:12 アブラハムは、その土地の人々におじぎをし、23:13 その土地の人々の聞いているところで、エフロンに告げて言った。「もしあなたが許してくださるなら、私の言うことを聞き入れてください。私は畑地の代価をお払いします。どうか私から受け取ってください。そうすれば、死んだ者をそこに葬ることができます。」
「差し上げる」と言っても、額面どおりではありません。アブラハムが強く購入したいということを言い表すためのお膳立てにしかすぎません。私たち東洋の文化でも、こんなことはよくありますよね。何かを上げようとして、「いいえ、結構ですよ。」と相手は強く拒むのですが、こちらはもっと強気に出て、「受け取りなさいよ。」と言います。「ああ、そうですか・・・。」と相手は喜んで受け取るのですが、それはこちらが本当に心を込めて与えようとしていることを表現するために、相手は初めは断るのです。西洋人には、ちょっと分からないやり取りかもしれません。
23:14 エフロンはアブラハムに答えて言った。23:15 「ではご主人。私の言うことを聞いてください。銀四百シェケルの土地、それなら私とあなたとの間では、何ほどのこともないでしょう。どうぞ、なくなられた方を葬ってください。」23:16 アブラハムはエフロンの申し出を聞き入れ、エフロンがヘテ人たちの聞いているところでつけた代価、通り相場で銀四百シェケルを計ってエフロンに渡した。
ここには書いていませんが、エフロンはちょっと驚いたかもしれません。当時の相場では四シェケルではなかったかと言われています。それをべらぼうに高い値段でアブラハムは購入したからです。中東に行くと、初めに言った額に対して、こちらが強く出て交渉すると一気に、十分の一になったりします。
けれどもアブラハムにとっては、それを払えないわけでは全然なかったし、そして墓の対価がそれだけの価値があることを知っていました。後にここは自分自身、そして自分の息子、そして孫、それぞれの妻たちが葬られるところになります。
23:17 こうして、マムレに面するマクペラにあるエフロンの畑地、すなわちその畑地とその畑地にあるほら穴、それと、畑地の回りの境界線の中にあるどの木も、23:18 その町の門にはいって来たすべてのヘテ人たちの目の前で、アブラハムの所有となった。
「木」によって土地の価値を決めていました。かつて、オスマン・トルコがイスラエルの地を支配していた時、土地税として地主に木の数にしたがって納めさせていました。そのため地主は、木を切り取ってしまったのです。そこでユダヤ人たちが、1800年代の後半にここに帰還し始めた時は、イスラエルの土地は荒地と沼地しかなかったと言われます。今は、緑がいっぱいです。植林したからです。
23:19 こうして後、アブラハムは自分の妻サラを、カナンの地にある、マムレすなわち今日のヘブロンに面するマクペラの畑地のほら穴に葬った。23:20 こうして、この畑地と、その中にあるほら穴は、ヘテ人たちから離れてアブラハムの私有の墓地として彼の所有となった。
今、ヘブロンにある畑地と洞窟のところは、ヘロデ大王が建てたと思われる建物があります。そこでユダヤ教徒とイスラム教徒が祈りと礼拝を捧げています。
先ほども言いましたが、アブラハムが生きていた時、これだけの土地しか所有していなかったのです。これはステパノもこう言っています。「ここでは、足の踏み場となるだけのものさえも、相続財産として彼にお与えになりませんでした。それでも、子どももなかった彼に対して、この地を彼とその子孫に財産として与えることを約束されたのです。(使徒7:5)」神は、何百年後、そして数千年後に、この約束をかなえてくださいました。そしてキリストが再臨される時、このことが完成します。
私たちはこのような信仰の先駆者がいます。今は、目に見えていない神の国を私たちは約束によって受け継いでいます。この約束を信じて、望みを持っている時に、私たちはこの地上において神の愛に支えられて生きることができるのです。「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。(1コリント13:13)」