創世記22−24章  「信仰の完成」

アウトライン

1A  アブラハムとイサク (御父と御子) 22
   1B  ひとり子のいけにえ  1−19
        1C  神のみことば  1−2
        2C  信仰による従順  3−14
            1D  行い  3−8
            2D  義認  9−14
        3C  約束の確認  15−19
    2B  一人子の花嫁  20−24
2A  サラの死  (イスラエル)  23
    1B  墓地の購買  1−16
        1C ヘブロンの地  1−2」
        2C ヘテ人との交渉  3−19
           1D  仲介  3−9
           2D  取引  10−16
    2B  墓地の所有  17−20
3A  エリエゼルとリベカ (聖霊と教会) 24
    1B  主人の近い  1−9
    2B  旅10−60
        1C  祈り  10−27
            1D  願い  10−14
            2D  答え  15−21
            3D  確認  22−27
        2C  言いより  28−51
            1D  もてなし  28−31
            2D  用向き  32−49
               1E  派遣  32−41
               2E  祈り  42−44
               3E  招き  45−49
            3D  承諾  50−51
        3C  導き  52−61
    3B  イサクの会合  62−67

本文

 創世記22章をお開きください。今日は創世記22章から24章までを学びます。ここでのテーマは、「信仰の完成」です。アブラハムの生涯が、クライマックスを迎えます。彼の信仰は、成長から成熟へと向かっています。私たちはそこから、自分たちの信仰がどのように完成するのか、どのように成熟していくのかを学びとる事が出来ます。それでは本文に入りましょう。

1A  アブラハムとイサク (御父と御子) 22
 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。

 これらの出来事とは、私たちが前回学んだ、イサクの乳離れの祝会の事です。イサクは、サラから生まれると約束された、アブラハムの息子であります。サラはもともと不妊の女であり、しかも90歳の老女でした。またアブラハム自身は100歳になっていました。しかし、神は、「約束されたとおりに、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさったの(21:1)」です。そこで、彼が、乳離れの年齢である2歳になったとき、アブラハムは盛大な祝宴を設けました。そして、この出来事があった後に、神はアブラハムを試練に会わせられました。長い年月が経っています(21:34)。

1B  ひとり子のいけにえ  1−19
 神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい、ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとイサクをささげなさい。」

 神の与えられる試練は、イサクをささげるというものです。ところで、試練とは、信仰の試練のことです。私たちが、イエス・キリストを信じてこの方に従う時に、いろいろな祝福の約束が与えられています。ところが、私たちに災いが降りかかることがあります。目に見えるところでは、決して祝福とはいえません。ですから、神を疑ってしまって当然なはずですが、聖書には面白い事が書かれています。ローマ書8章28節です、「神を愛する人々、すなわち、神の御計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」   

 一時的には悲しむような事が起こっても、神はそれを用いて最善のことをしてくださるのです。ですから、災いがおこったとしても、祝福の約束を信じる事が出来るのです。信仰の試練は、私たちがどれだけ神を信じているのか、私たち自身が知るためです。神は、私たちの心をすべて知っておられるのですが、私たち自身は、どれほど神を信じているのかよくわかりません。そこで、試練が振りかかる事によって分るようになります。そのために、神は試練を私たちに送られるのです。

1C  神のみことば  1−2
 神はイサクのことを、「あなたの愛している・・・子」と言われていますね。これが、聖書に一番最初に出てくる「愛」という言葉です。「愛」という言葉は、私たちの間でさまざまな使い方をされていますが、聖書は父が子を愛する愛を主に語っています。父の愛とは何でしょうか。先ず、私たちを食わせてくれる父、つまり必要なものを備えてくれる父です.そして、正しい父、悪い事をしたらそれをしつける父です。また、将来の計画を持つ父、はっきりとした意思と目標があります。そして、成長を願う父、子どもを励まし、なぐさめ、子どもが大人になることを願います。そして、いのちをささげる父、子どものためなら、いつでも死ねる覚悟が出来ています。このように、備える、正しさを連ぬく、計画を立てる、成長を願う、いのちをささげるなど、その他にもいろいろな特徴があるでしょうが、聖書の語る愛は父の愛です。聖書には、「神は愛」であるとかかれています。神の愛は本質であり、その愛は父の愛なのです。そして、神はイサクのことを、「ひとり子」といわれています。  

 ちょっと待ってください。私たちは、アブラハムにはもう一人の息子イシュマエルがいたことを知っています。それなのに、イサクが「ひとり子」と呼ばれています。イシュマエルは、アブラハムが神の約束を待つことをせずに、自分の計画で生んだ子であります。私たちは以前、それを肉の行いとして学びました。アブラハムは、神に言われていないのに、サラの女奴隷ハガルを妻として、彼女から子を生むようにしました。しかし、このような肉の行いは、神にはまったく受け入れられません。ですから、神の目には、イサクのみがアブラハムの子なのです。

 このように、イサクはアブラハムにとって、こよなく愛するひとり子でした。今、神はその子を全焼のいけにえとしてささげなさい、と言われています。人間的に考えたら、あまりにもむごいことです。なぜ、神はそのような事を言われたのでしょうか。ヨハネの福音書3章16節を読みます。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」アブラハムがこれからしようとすることは、実は、神がどのようにして私たち人間を救うかを示していたのです。神はひとり子をお持ちです。その子は、永遠の昔から神とともにおられて、その子自身も神です。神の子は人の形を取り、人の前に現れました。この方は、水のバプテスマを受けられました。そのときに父である神は、「これは、私の愛する子、私はこれを喜ぶ。(マタイ3:17)」と言われました。愛するひとり子です。しかし、彼は、神の御計画に従って、十字架という死刑台によって殺されてしまいました。使徒ヨハネは言いました。「神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を使わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4:10)」アブラハムがイサクをささげるのは、神ご自身がひとり子を、罪のいけにえとしてささげることを指し示していたのです。

2C  信仰による従順  3−14
1D  行い  3−8
 翌朝早く、アブラハムはロバに鞍をつけ、ふたりの若い者を息子イサクと一緒に連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして、彼は、神がお告げになった場所へ出かけていった。

 アブラハムが出かけていったのは、「翌朝早く」です。また、ここのヘブル語を調べますと、アブラハムが速やかに、続けざまにこれらの事を行った事が分ります。つまり、彼は、神の御声を聞いてからすぐに、もくもくと言われるとおりにしています。私たちはたいてい、試練になるようなことを神から言われたら、思い悩むものです。「ちょっと待ってください、よく考えてからにしますから。」と言ってしまいます。しかし、アブラハムは違いました。愛するひとり子をささげるという過酷な試練に、彼はすぐに、従順に聞き従ったのです。ここに、「神がお告げになった場所」とありますが、これは2節に出てきたモリヤのことです。エルサレムの地域にあたります。

 3日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。

 アブラハムの住んでいるベエル・シェバからモリヤまでは、歩いて3日間の距離があります。ここで、「3日目」という言葉に注目してください。コリント人への第一の手紙15章をお開きください。3節から読みます。「私があなたがたにもっとも大切なこととして伝えたのは、わたしも受けた事であって、次の事です。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれた事、また、葬られたこと、また、聖書に従って3日目によみがえられたこと。」とあります。キリストは、葬られてから3日目よみがえられました。「聖書に従って」とありますが、私たちが今読んだ箇所がそれです。神が、「イサクをささげなさい」と言われてから、その3日間、アブラハムの思いのなかでイサクは死んでいました。しかし、アブラハムは、イサクから祝福がくるという神の約束を信じていました。イサクにはまだ子どもがなかったのに、彼は信じたのです。それをどうやって信じたのでしょうか。ヘブル人への手紙11章を開きましょう。17節から読みます。「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出るものがあなたの子孫と呼ばれる。」といわれたのです。彼は、神には人を死者の中からよみがえらせる事も出来る、と考えました。それで、彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」彼は、神はイサクをよみがえらせることが出来ると信じたのです。だから、彼はイサクを臆せずささげる準備が出来ていたのです。そして、「これは型です。」とありますね。型とは模型のことです。模型は、実物ではないけれども本物を指し示す事を言います。アブラハムが3日間のたびをしたのは、イエスが3日目に死者の中からよみがえることを指し示す、型になっていたのです。

 それでアブラハムは若い者達に、「あなたがたは、ロバと一緒に、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻ってくる。」といった。

 ここで、「あなたがたのところに戻ってくる」の主語が、「私とこども」である事に注目してください。アブラハムは、よみがえったイサクとともに、若い者達のところに戻ってくる事を告げています。そして、「礼拝」という言葉が出てきていますが、これが聖書で一番最初に出てくる「礼拝」という言葉です。私たちは、教会に来て、歌をうたって、牧師のメッセージを聞く事が礼拝だと思っていますが、本来の「礼拝」の意味は、自分の意志を神にゆだねることを意味します。イエスが、「私の願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。(マタイ26:39)」と祈られましたが、それがまさに礼拝の姿です。

 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀を自分の手にとり、二人は一緒に進んでいった。

 イサクが、たきぎの木を負いました。同じように、イエスも十字架の木を負われました。

 イサクは父アブラハムに尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全勝のいけにえの羊を備えて下さるのだ。」こうして二人は一緒に歩きつづけた。

 アブラハムは、預言のことばを話しています。「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えて下さる」とあります。神は、全人類の罪を「あがなうといき。犠牲の羊や他の動物を用いず、神のひとり子を用いられたのです。つまり。神ご自身が、いけにえとなり、神ご自身がほふられて血を流してくださったのです。アブラハムは、そのことを預言しました。

2D  義認  9−14
 ふたりは、神がアブラハムに告げられた場所につき、アブラハムはその場所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。

 イサクは、この時点で、おそらくは20歳を超えていた事に気付いてください。アブラハムは120歳以上です。イサクを縛り、祭壇の上に置くアブラハムを。とっちめることは簡単に出来ました。しかし、イサクは父のすることに進んで従がったのです。イエス・キリストも同じです。私たちはマタイの福音書を学んでいましたが、イエスが十字架を免れる機会があったことを、至るところに見ることが出来ました。しかし、あえて、自らを進んで父なる神のみこころに従われました。

 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れる事がよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしに捧げた。」

 主の使いは、アブラハムが主に聞き従うのをご覧になりました。新約聖書で、ヤコブは、この行いによってアブラハムが義と認められたといっています(ヤコブ2:21−2)。彼は、ただ神の約束を信じただけで正しいものと認められましたが、その信仰が行いとしてあらわれたのです。それは、行いによって救われるという事ではありません。信じるだけで救われます。でも、本当の信仰は行いが伴なうのです。イサクをささげるという行いによって、アブラハムが本当に神を信じている事が分りました。

 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている1頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子のかわりに、全焼のいけにえとして捧げた。」

 このように、アブラハムは実際にはイサクをささげませんでした。なぜなら、それは型であって、実物ではなかったからです。しかし、神は、実に、そのひとり子をお与えになりました。実際にお与えになりました。

 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山には備えがある。」と言い伝えられている。

 アドナイ・イエルとありますが、正確には、エホバ・イルエです。新改訳の聖書には、「主」という言葉が太字になっていると、それはヤハウェとかエホバとかいう神の名前になります。そのエホバが使われています。さらに、「主の山には備えがある。」というのは、直訳では、「主は、主の山に備えくださり、それが見られるようになる。」とあリます。このモリヤの山、約2千年後は、ゴルゴタ、あるいはカルバリーと呼ばれました。ここで、私たちの主イエス・キリストは、私たちの罪をあがなういけにえとして、ご自分の命をささげられたのです。主は、このモリヤの山に本物のいけにえを備えてくださり、その栄光を見ておられたのです。このように、アブラハムがイサクをささげることは、あらゆる場面において、父なる神が御子キリストをささげる光景を予め示されていました。アブラハムは、信仰によってその生涯を歩みましたが、その行き着くところは神とキリストをあらわしていたのです。私たちも信仰によって歩む特に、主キリストの御姿が私たちからあらわれます。パウロは言いました。「私たちはみな、顔のおおいを取り除けられて、鏡のよう主の栄光を繁栄させながら、栄光から栄光へと、主と同じ形に変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです(2コリント3:18)」私たちは普通の人間です。失敗の多い、不完全な存在です。アブラハムも同じでした。彼も失敗の多い、不完全な人間でした。ただ、彼は神を信頼することを学んだのです。それで、神とキリストを示す事が出来たのです。私たちも同じように、不完全なものでありますが、キリストに信頼することを学ぶ事によって、キリストが私たちからあらわれてくださいます。これが、信仰の目的であり、私たちが生きている目的です。信仰が成長するに従って、キリストの姿が私たちから現れてくるのです。

3C  約束の確認  15-19
 信仰の試練を通過したアブラハムに、主の使いは約束の確認をしています。 それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、仰せられた。「これは主のみ告げである。私は自分にかけて誓う。」

 この主の使いは自分のことを主と呼んでいます。私たちは以前学びましたが、「主の使い」と出たら、それは、イエス・キリストの事です。キリストご自身がアブラハムに現れてくださっているのです。

 あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたの一人子を惜しまなかったから、私は確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう.そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取ろう、あなたの子孫によって、地の全ての国々は祝福を受けるようになる。あなたが私の声に聞き従がったからである。

 これは、12章からアブラハムに示された約束のまとめであります。1つはアブラハム個人に対する祝福の約束、2つは子孫の祝福の約束、3つ目は救い主メシヤの約束です。この約束は、アブラハムが主のみ声に聞き従ったゆえに、確かなものになりました。私たちは皆、アブラハムの信仰による恩恵を受けているのです。

 こうして、アブラハムは、若者達のところに戻った。彼らは立って、一緒にベエル・シェバに行った。アブラハムはベエル・シェバに住みついた。

 ここには、イサクが戻ったことが言及されていません。そして、イサクは24章の62節で、妻を迎えるところまで登場しません。なぜでしょうか。これもキリストのことを指し示しているからです。復活したキリストは、40日の間、弟子達にあらわれた後、天に登られました。肉体を持ったイエスは、彼らと共におられなくなったのです。イエスは復活されたのに、私たちがこの方を目で見ることが出来ないのは、そのためです。

2B  一人子の花嫁  20−24
 しかし、イサクがいなくなったあとに、リベカという女性が登場します。これらの出来事の後、アブラハムに次の事が伝えられた。「ミルカもまた、あなたの兄弟ナホルに子どもを産みました。」

 ナホルは、創世記11章に登場した、アブラハムの兄弟であります。彼はまだ、バビロンの町に住んでいました。「すなわち、長男がウツ、その弟がブズ、それにアブラハムの父であるケルセム、次にケセデ、ハゾ、ビルタシュ、イデラフ、それにベトエルです。」ベトエルはリバカを生んだ。見るかにはこれら8人をアブラハムの兄弟であるナホルに生んだのである。レウマというナホルのそばめもまた、テガフ、ガハム、タハシュ、マアカを生んだ。」リベカは、後にイサクの妻になります。イサクが、ひとり子キリストを指し示しているなら、このリベカは教会をあらわしています。つまり、私たちのことです。パウロはコリントとにある教会に、「私たちはあなたがたを、清純な処女として、一人の人を花嫁に定め、キリストに捧げることにしたからです。(2コリント11:2)」と言いました。教会が、処女である花嫁にたとえられています。つまり、リベカは、キリストが天に昇られた後に誕生した教会をあらわしているのです。

2A  サラの死  (イスラエル)  23
 このように、アブラハムがイサクをささげる話を読みました。次は、アブラハムの妻サラが死ぬ話を読みます。

1B  墓地の購買  1−16
1C ヘブロンの地  1−2
 サラの一生、サラが生きた年数は127年であった。サラはカナンの地キルヤテ・アルバ、今日のヘブロンで死んだ。アブラハムは来て、サラのために嘆き、泣いた。

 サラの死が記されています。アブラハムは来てとありますから、それが突然の死であった事が考えられます。アブラハムはそのときネゲブにいましたが、サラが死ぬ時一緒にいてやる事が出来なかったのです。

2C  ヘテ人との交渉  3−19
1D  仲介  3−9
 それからアブラハムは、その死者のそばから立ち上がり、ヘテ人たちに告げていった。「私はあなたがたの中に居留している異国人ですが、あなたがたの所で私有の墓地を私に譲っていただきたい。そうすれば私のところから移して、死んだものを葬る事ができるのです。」

 
アブラハムは、サラのために墓地を得ようとしています。面白い事は、彼は自分のことを「居留している異国人」と呼んでいることです。神は彼に、「子の地を与える」という約束を与えられていたのに、アブラハム自身は少しの土地も所有していませんでした。それではなぜ、彼は、土地の所有の約束を与えられて、喜び踊ったのでしょか。ヘブル人への手紙を書いた人はこう言っています。「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れる事はありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。・・・彼らは、さらにすぐれた故郷。すなわち天の故郷に憧れていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(11:13,16)」アブラハムは、天の故郷に憧れて、地上では旅人であることを告白していたのです。これは、キリストを信じる者たちの姿でもあります。パウロは、「私たちの国籍は天にあります。(ピリピ3:20)」と言いました。私たちがキリストを信じた時点で、国籍が日本国から天国に移りました。ですから、信仰を持つと、今までは心地よいはずの日常の生科に不便を感じるようになります。私たちは、天においてのみ、本当の安らぎを得る事が出来るのです。アブラハムは、カナン人の土地で自分が寄留者であることを告白しました。

 ヘテ人たちは、アブラハムに答えて言った。「ご主人。わたしたちの言う事を聞き入れてください。あなたは私たちの間にあって、神のつかさです。私たちの最上の墓地に、なくなられた方を葬ってください。私たちの中で、だれひとり、なくなられた方を葬る墓地を拒むものはおりません。

 ヘテ人は、アブラハムの申し出を全面的に受け入れています。彼らは、彼を「神のつかさ」と呼んでいます。アブラハムは、とても敬われていたのでしょう。

 そこでアブラハムは立って、その土地の人々、ヘテ人に丁寧にお辞儀をして、彼らに告げて言った。「死んだものを私のところから移して葬る事が、あなたがたのお心であれば、私の言う事を聞いて、ツォアルの子エフロンに交渉して、彼の畑地の端にある彼の所有のマクベラのほら穴を私に譲ってくれるようにして下さい。」

 ヘテ人は墓地を、無償で与えようとしましたが、アブラハムは私有の墓地を買いたいと願いました。妻をはじめとして、自分の家族が葬られる場所を、確かにしたかったのでしょう。そして、エフロンという人が所有している部分を買い取ることを申し出ました。

2D  取引  10−16
 エフロンはヘテ人たちの間に座っていた。ヘテ人のエフロンは、その町の門にはいてきたヘテ人たち皆が聞いているところで、アブラハムに答えて言った。

 エフロンはこれから取引を開始します。町の門にいるヘテ人たち第三者となり、その取引の証人となります。

 ご主人。どうか、私の言うことをお聞き入れてください。畑地をあなたに差し上げます。そこにあるほら穴も、差し上げます。私の国の人々の前で、それをあなたに差し上げます。なくなられた方を、葬ってください。」

 エフロンは、差し上げますといっていますが、これは交渉をする習慣の上で行っています。取引上の儀礼です。

 アブラハムは、その土地の人々にお辞儀をし、その土地の人々の聞いているところで、エフロンに告げていった。「もしあなたが許してくださるなら、私の言う事を聞いてください。私は畑地の代価をお払いします。どうか私から受け取ってください。そうすれば、死んだものをそこに葬る事が出来ます。」エフロンはアブラハムに答えて言った。「ではご主人。私の言う事を聞いてください。銀400シュケルの土地、それなら私とあなたの間では、何ほどもないでしょう。どうぞ、なくなられた方を葬ってください。」

 本当はここから、取引のゲームが始まります。アブラハムが値引きを申し出て、エフロンが少し譲歩して取引が成立します。けれども、次を読みましょう。

 アブラハムはエフロンの申し出を聞き入れ、エフロンがヘテ人たちの聞いているところでつけた代価、通り相場で銀400シュケルを計ってエフロンに渡した。

2B  墓地の所有  17−20
 こうして、マムレに面するマクベラにあるエフロンの畑地、即ちその畑地とその畑地にあるほら穴、それと、畑地の周りの境界線の中にあるどの木も、その町の角に入ってきたすべてのヘテ人たちの目の前で、アブラハムの所有となった。その地は、公式にアブラハムの所有となりました。こうして後、アブラハムは自分の妻サラを、カナンの地にある、マムレすなわち今日のヘブロンに面するマクベラにの畑地のほら穴に葬った。この畑地と、その中にあるほら穴は、ヘテ人から離れてアブラハム私有の墓地として彼の所有となった。」

 こうして、アブラハムはサラのための墓地を手に入れる事ができました。次の章からリベカが登場しますが、その前にサラが死んだことが記されているのには、目的、あるいは、型があります。アブラハムの妻であるサラは、イスラエル民族を指し示しています。イスラエルは、「主の妻」あるいは「エホバの妻」として聖書で書かれています。愛に基づく堅い契約を、神はイスラエルと結ばれたからです。ところが、彼らは主に逆らいつづけ、多くの預言者を殺しました。ついに、救い主キリストが誕生しました、しかし、ユダヤ人たちは、この方をメシヤと認めず、十字架につけて殺してしまったのです。それで神は、一時的にイスラエルを退けられました。彼らがもっている特権は、一時的に失われています。つまり、アブラハムの妻であるサラの死は、エホバの妻であるイスラエルが退けられていることを示しています。ただ、それは一時的であり、イスラエルに与えられた祝福の約束は、終わりの日に必ず成就します。

3A  エリエゼルとリバカ (聖霊と教会)  24
 こうしてサラは死にましたが、その後、アブラハムはイサクに妻を与えようと願いました。

1B  主人の近い  1−9
 アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた アブラハムは老人になったため、自分の勤めを果たす事を考え始めました。 そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。

 この最年長のしもべは、15章2節に出てきた、エリエゼルのことでしょう。彼は、アブラハムの全財産を管理しているしもべでした。エリエゼルという名前は、「神は、私の助け」という意味です。新約聖書に同じ名前が出てきます。ギリシャ語ではパラクレトスと言って、イエスはその名前を、後に来られる聖霊に用いられました。(ヨハネ14:16)イエスが天に昇られた後まもなくして、聖霊が弟子達に下られました。それが教会の始まりでした。教会は、キリストを信じて、自分に聖霊がすんでくださっている人たちの集まりです。聖霊によって導かれ、聖霊によって教会が成り立ちます。その聖霊の御名を、アブラハムのしもべは持っていました。つまり、このしもべは、聖霊なる神を指し示しています。彼がイサクの妻になる者を引き入れるため使わされるように、聖霊もキリストの花嫁になる者を引き入れるために、この世に使わされています。ただ、この24章において、エリエゼルという名が記されていないのは興味深いです。彼はこれから、アブラハムの子イサクを代表して妻になる人を探しにいくのであり、自分の事を売りこみにいくのではありません。聖霊も同じです。イエスは、「御霊は私の栄光をあらわします。(ヨハネ16:14)」と言われました。聖霊は、イエスの栄光を表してくださいます。ですから、教会において聖霊が強く働かれるとき、イエスの御名がたたえられるのです。人々は、イエスのすばらしさを知リ、さらにイエスを愛して、イエスに従っていきたいと願いようになります。なぜなら、聖霊が働かれて、イエスの栄光をあらわして下さっているからです。

 あなたの手を私のももの下に入れてくれ。これは、もっとも厳粛な誓いを果たす時に行われます。私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓う。私が一緒に住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。

 誓いはカナン人の娘ではなく、アブラハムの生まれ故郷で、イサクの妻になる者を迎える事です。アブラハムには、神の契約が思いの中にありました。自分の子孫から、すべての国々が祝福を受けるというものです。ノアは、カナンをのろいセムをほめたたえましたが、アブラハムは、セムの子孫が、つまり自分の親族が祝福を受けることを知っていました。彼は、エジプトで女奴隷をもらって、それでイシュマエルが出来て、大変つらい思いをしました。自分の肉の欲や、目の欲によるものは、たとえそれがいかに好ましく見えても、何もよいものが生まれないのです。大事なのは、結婚や就職など重要な決断をする時、神の視点に立つことです。そのときに、はじめて祝福があります。それで、アブラハムはカナン人の娘ではなく、自分の生まれ故郷でイサクの妻を探しなさい、としもべに言いました。

 しもべは彼に言った。「もしかして、その女が、私についてこの国に来ようとしない場合、お子を、あなたの出身地へつれも連れ戻さなければなりませんか。」

 しもべは、これが容易い仕事でないことを悟りました。まだあったことのない人のところに入り、しかも約800キロの道程を旅するのですから、そんな申し出を受ける女の人がいるのかどうかわかりません。

 アブラハムは彼に言った。「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える。』と約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に使わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。」

 アブラハムがなぜ、息子を連れ帰ってはならないといっているのでしょか。連れ帰ったら、イサクが結婚しても、バビロンが気に入ってそこに居続ける可能性は大だからです。この世のことに目が行き、「あなたの子孫であるこの地を与える。」という神の約束を、イサクが忘れてしまうかもしれないからです。私たちも、約束の内にとどまっていることが大切です。キリストを信じた私たちは、キリストにとどまりつづける必要があります。カルバリーで、新しく信じた人たちに渡される冊子には、次の箇所が引用されています。「あなたがたは、このように主イエス・キリストを受け入れたのですから〜、彼にあって歩みなさい。キリストのなかに根ざし、また立てられ、また、教えたとおりの信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。(コロサイ2:6、7)」

 もし、その女が、あなたについてこようとしないなら、あなたはこの私との誓いから解かれる。ただし、私の息子をあそこへ連れ帰ってはならない。」

 アブラハムは、イサクの結婚よりも神の約束を優先させました。サラからイサクを神がお与えになったように、神が、必ず約束を実現してくださることをアブラハムは信じたのです。

 それでしもべは、その手を主人であるアブラハムのもものしたにいれ、このことについて彼に誓った。

2B  旅10−60
 これから、しもべの旅が始まります。しもべは主人のらくだの中から10頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持っていった。彼は立ってアラム・ナハライムのナホルの町へ行った。

 ナホルはアブラハムの兄弟です。アブラハムは、ナホルにこどもが生まれたことを聞いていました。

1C  祈り  10−27
 彼は夕暮れ時、女達が水を汲みに出て来る頃、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。そうして言った。彼は祈り始めます。

1D  願い10−14
 私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の娘達が、水を汲みに出てまいりましょう。私が娘に、「どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください。」と言い、その娘が「お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう。」と言ったなら、この娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」

 エリエゼルは、普通では起こらないようなことを願っています。旅人に水を飲ませる事は、たいてい娘達は行いました。けれども、10頭のらくだに水を、しかも自分から申し出て飲ませることは普通ではありません。彼は、この普通ではないことを主がしてくださることによって、その人が、イサクの妻になる人であるように、主に祈ったのです。このように、彼の祈りは、実に具体的でした。私たちが、日々の決断をするときに、このように具体的な祈りが必要です。祈りを具体的にすることによって、主が自分の生活に具体的に介入されることを知ることが出来ます。

2D  答え  15−21
 こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水瓶を肩にのせて出てきた。祈りを言い終わらないうちに、答えられています。リベカはアブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘であった。この娘は非常に美しく、処女で、男に触れたことがなかった。

 
彼女は非常に美しいとあります。聖書では、多くのものが美しいと評価されていません。でも、詩篇45編11節には、「王は、あなたの美を慕おう。彼はあなたの夫であるから、彼の前にひれ伏せ。」とあります。これはキリストと教会の関係を示していますが、神のみ前には、教会はリベカのように美しいのです。私たちは自分の心を見て、なんと醜いのだろうと思いますが、「神は、私たちを、・・・キリストのうちに選び、み前で清く、傷のないものにしようとされました。(エペソ1:4:)」

 彼女は泉におりていき、水がめに水を満たし、そして上がってきた。井戸は大きな穴の底にありました。だから、かなりの労力を要します。しもべは彼女に会いに走っていき、そして言った。「どうか、あなたの水がめから、少し水を飲ませてください。」彼女はすばやく行動しています。

 すると彼女は、「どうぞ、お飲みください。だんな様。」と言って、すばやく、その手に水がめを取り降ろし、彼に飲ませた。」

 この水がめはとても重いそうです。イスラエルに旅行した人は、当時使われていたのと同じ水がめを奥さんに持たせましたが、彼女は持ち上げる事が出来ませんでした。でも、リベカは、それをすばやく扱っています。

 彼に水を飲ませ終わると、彼女は、「あなたのらくだのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう。」といった。彼女は急いで水がめの水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き。その全部のらくだのために水を汲んだ。しもべが祈ったとおりの行動を、リベカはしています。 この人は、主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。

 エリエゼルは、主の導きを真剣に見入っています。私たちは、祈ったあとで、その祈りさえ忘れてしまうようなことが多いですが、彼は違いました。その祈りをしっかりと見据えていたのです。このように、祈りは、自分の口で語るときで終わるものではありません。絶えず祈るものなのです。

3D  確認  22−27
 らくだが水を飲み終わったとき、その人は、重さ1ベカの金の飾り輪と、彼女の腕のために、重さ10シュケルの2つの金の腕輪を取り、たずねた。「あなたは、どなたの娘さんですか。どうか私に言ってください。あなたの父上の家には、私どもが泊めていただく場所があるでしょうか」彼は確認をしています。リベカが答えた。「私はナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です。」そして言った。「私たちのところには、わらも、飼料もたくさんあります。それにまたお泊りになる場所もあります。ピッタシカンカン。祈りがすべて答えられたことは、確認できました。そこでその人は、ひざまずき、主を礼拝して、言った。「私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は私の分に対する恵みとまことをお捨てにならなかった。主はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。」

 しもべは、すべてを主が導いてくださったことを思って、主をほめたたえています。これは私たちキリスト者にも与えられている導きです。時分に差し迫った使命について、具体的に祈ります。そして、祈った後にどのように答えられているかを見つめます。そして、自分が動かなければならないときは、臆せず動いていきます.そして、その結果を見て、主をほめたたえるのです。全ての場面に、主が介在しておおられたことを認めているのです。詩篇の記者は言いました。「人の歩みは主によって確かにされる。主その人の道を喜ばれる。37:23」」また、箴言にはあなたのいくどこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(3:6:)」とあります。

2C  言いより  28−51
1D  もてなし  28−31
 その娘は走って行って、自分の母の家の者に、これらの事を告げた。

 リベカは、このしもべのことばを聞きました。そこに「アブラハム」という名前が出てきました。彼女が聞いた事のある名前です。彼女は、何かとてつもないことが起こるという、興奮と不安の入り混じった気持ちになっていたと思います。それで、彼女は走っていきました。

 リベカにはひとりの兄があって、その名をラバンと言いました。ラバンは外に出て泉のところにいるその人のもとへ走っていった。 ラバンが登場しました。リベカの兄です。彼は、イサクの息子ヤコブの話で出てくる人物です。彼は鼻の飾り輪と妹の腕にある腕輪を見、また、「あの人がこう言われました。」といった妹リベカの言葉を聞くとすぐ、その人のところに言った。すると見よ。その人は泉のほとり、らくだのそばに立っていた。 ラバンは飾り輪と腕輪を見て、その人のところに走っていきました。彼は貪欲な人でした。 そこで彼は言った。「どうぞおいでください。主に祝福された方。どうして外に立っていられるのですか。私は家と、らくだのための場所を用意しております。」ベトエルがこの家での主ですが、その息子ラバンが、家のことを管理しているようです。

2D  用向き  32−49
1E  派遣  32−41
 それでその人は家の中にはいった。らくだの荷は解かれ、らくだにはわらと飼料が与えられ、その人の足と、その従者達の足を洗う水も与えられた。それから、ひとの前に食事が出されたが、その人は言った。「私の用向きを話すまでは食事をいただきません。」

 しもべは間違いなく長い旅路の後、疲れていたし、おなかがすいていたでしょう。それに、用向きを話す事は、食事の後に行われるのが習慣でした。でも、彼は、最後の最後の確認をしたかったのです。つまり、家族の人たちが、リベカをイサクの嫁にする申し出を受け入れるかどうかです。

 「お話ください」といわれて、その人は言った。「私はアブラハムのしもべです。主は私の主人を大いに祝福されましたので、主人は富んでおります。主は羊や牛、銀や金、男女の奴隷、らくだやろばをお与えになりました。私の主人の妻サラは、年をとってから、一人の男の子を生み、主人はこの子に時分の全財産をゆずっておられます。」

 しもべは、時分の主人アブラハムと、その子イサクのことを紹介し始めました。主人が富んでいること、そしてこの子に全財産が譲られている事です。このことを話して、リベカがイサクの嫁になることを言い寄っているのです。ここに、三位一体の神の働きをみます。父なる神は、全ての富を持っておられます。全能の神であり、すべてを備えてくださいます。そして、子イエス・キリストは、父のすべてをゆだねらてれています。イエスは父なる神に、「私のものはみなあなたのもの、あなたのものは私のものです。(ヨハネ17:10)」といわれました。そして、聖霊は、この父なる神と子なる神キリストを紹介しています。私たちのひとりひとりの心がキリストに向くように、聖霊は引寄せられようとするのです。

 私の主人は私に誓わせて、こう申しました。「私が住んでいるこの土地のカナン人の娘を私の息子の妻にめとってはならない。あなたは私の父の家、私の親族のところにいて、私の息子のために妻を迎えなくてはならない。」そこで私は主人に申しました。「もしかすると、その女の人は私について来ないかもしれません」すると主人は答えました。「私は主の前を歩んできた。その主が御使いをあなたと一緒に遣わし、あなたの旅を成功させてくださる。あなたは、私の親族、私の父の家族から、私の息子のために妻を迎えなければならない。次のような時には、あなたは私の誓いから解かれる。あなたが私の親族のところに行き、もしも彼らがあなたに娘を与えない場合、そのとき、あなたは私の誓いから解かれる。」

 しもべは起こったことをそのまま話しています。なぜなら、それが、もっとも説得力があるからです。でも、ちょっと違う部分があります。アブラハムは、「その女があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの私との誓いから解かれる。」といったとありますが、ここでは、「彼らがあなたに娘を与えない場合そのとき、あなたは私たちの誓いから解かれる。」とあります。しもべは、話をしながらも、家族の者に決断を迫っているのです。

2E  祈り  42−44
 今日、私は泉のところに来て申しました。「私の主人アブラハムの神、主よ。私がここまで来た旅も、もしあなたが、成功させてくださるなら、ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。おとめが水を汲みに出てきたならば、『私は、あなたの水がめから少し水を飲ませてください。』と言います。その人が私に、『どうぞお飲みください。私はあなたの、らくだにも水を汲んであげましょう。』と言ったなら、その人こそ、主が私の主人の息子のために定められた妻でありますように。」

3E  招き  45−49
 私がこころの中で話し終わらないうちに、どうです、リベカさんが水がめを肩に乗せて出て来て、泉のほとりに降りてゆき、水を汲みました。

 彼は、心のなかで祈っていました。神は、私たちの心の中の祈りも、口で言い表す祈りと同様に聞かれます。

 それで私が、「どうか水を飲ませてください。」と言うと、急いで水がめを降ろし、「お飲みください。あなたのらくだにも水を飲ませましょう。」と言われたので、私は飲みました。らくだにも水を飲ませてくださいました。私が尋ねて「あなたはどなたの娘さんですか。」といいますと、「ミルカがナホルに生んだベトエルの娘です。」と答えられました。そこで私は彼女の鼻に飾り輪をつけ、彼女の腕に腕輪をはめました。そうして私はひざまずき、主を礼拝し、私の主人アブラハムの神、主を賛美しました。主は私の主人の兄弟の娘を、主人の息子にめとるために、私を正しい道に導いて下さったのです。

 彼は起こったことを話すうちに、時分の話している目的を明白にし始めています。そして、次にはっきりと決断を迫ります。

 それで今、あなたがたが私の主人に。恵みとまこととを施してくださるのなら、私にそう言ってください。そうでなければ、そうでないと私に言ってください。それによって、私は右から左に向う事になるでしょ。

 決断をせまると言っても。彼は、家族の者に強いるような言い方をしていません。彼らに決定する権利があることを明確にしています。これが、聖霊が私たちにして下さることです。聖霊は、決断をせまりますが、決断をするのは私たちです。だから、私たちの決断によって、永遠の運命が決定されるのです。キリストを拒めば、神と永遠に離れて生きなければいけませんけれども、「この方を受け入れた人々、即ち、その名を信じた人々には、」神の子供とされる特権」が与えられます。(ヨハネ1:12)

3D  承諾  50−51
 それでは、家族の者の反応を見ましょう。するとラバンとベトエルは答えて言った。「このことは主から出た事ですから、私たちはあなたに良し悪しを言う事は出来ません。ご覧ください。リベカはあなたの前にいます。どうか連れて行ってください。主が仰せられた通り、あなたの主人の息子の妻となりますように。」彼らは、このことは主から出た事を認めました。このようなことは、神が生きて働かれなければ起こりようがない、ということを素直に認めました。私たちも、多くの人がキリストを信じてから、その人生が変えられる話を聞きます。そのときに、キリストがそうしてくださった事を認めるか、認めないかの選択があります。彼らは主がしてくださったことを認めました。

3C  導き  52−61
 アブラハムのしもべは、彼らの言葉を聞くやいなや、地にひれ伏して主を礼拝した。

 彼は、再び主に礼拝をささげています。アブラハムが神を信じていたことが、その家の者たちに強い影響を与えていた事が分ります。

 そうして、しもべは、銀や金の品物や衣装をとりだしてリベカに与えた。また、彼女の兄や母にも貴重な品々を送った。

 これが、彼らがしもべの言い寄りに応答した結果です。同じように、私たちが、聖霊の言い寄りに応じると、私たちは素晴らしい贈り物をいただきます。聖霊自身をいただきます。パウロは、「聖霊は私たちがみ国を受けつぐことの保証であられます。(エペソ1:14)」と言いました。つまり、私たちが受けつぐ財産はとてつもなく大きいのですが、その頭金として聖霊ご自身が与えられるという事です。私たちは、まだ天国に行っていませんが、この地上においても聖霊によって、愛と喜びと平安の生活を歩めるのです。こうして、しもべは、アブラハムの財産の一部をリベカと家族の者に与えました。

 それから、このしもべと、その従者達とは飲み食いして、そこに泊まった。朝になって、彼らが起きると、そのしもべは、「私の主人のところへ返してください。」と言った。すると彼女の兄と母は、「娘をしばらく、10日間ほど、私たちとどめておき、それから後、行かせたいのですが。」と言った。

 兄と母は、リベカを嫁に出すのは同意しましたが、こうも突然であるには驚きました。でも、しもべにとっては、主のなさることを遅らせる理由を何一つ見出さなかったのです。10日間待つことによって、いま行った決断がゆらいでしまうかもしれません。ならば、すぐに行くべきなのです。この兄と母は、この世の型です。イエス・キリストを受け入れる決断を、何とか遅らせようとします。そうする事によって、その決断をゆるがせます。しかし、イザヤは言いました。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ(55:6)」決断が出来るチャンスを見逃してはいけません。

 しもべは彼らに、「私が遅れないようにして下さい。主が私の旅を成功させてくださったのですから。私が主人の所へ行けるように私を帰らせてください。」と言った。彼らは答えた。「娘を呼び寄せて、娘の言うことを聞いてきましょう。」それで彼らはリベカを呼寄せて、「この人といっしょに行くか。」とたずねた。すると彼女は、「はい。参ります。」と答えた。

 聖霊も、私たちにお似たような質問をされます。「イエス・キリストに従いますか。いつか栄光のみ国にたどりつく旅路に出かけますか。」と聞かれます。家族の者は、この決断をリベカ自身にゆだねました。リベカは個人的に、「はい。参ります。」と言いましたが、私たちも、他の誰によってでもなく、個人的に、自分自身で、イエス・キリストに従う決心をするのです。

 そこで彼らは妹リベカとその乳母を、アブラハムのしもべとその従者達と一緒に送り出した。彼らはリベカを祝福して言った。「われらの妹よ。あなたは幾千万にもふえるように。そして、あなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。」

 これは、主がアブラハムに約束された言葉です。アブラハムはしもべにこれを話し、しもべはリベカの家族の者たちにこのことを話したのでしょう。

 リベカとその侍女たちは立ち上がり、らくだに乗って、その人のあとについていった。こうして、しもべはリベカを連れて出かけた。

 こうして旅に出かけました。あまり楽な旅ではありません。約800キロという長い距離です。乗り物はらくだです。らくだに乗っているときは、自分が力むと落ちてしまうそうです。だから、リラックスする方法を学ばなければなりません。同じように、私たちが、永遠のみ国にたどりつくまでにの道程は、楽ではありません。さまざまな試練を伴ないます。しかし、らくだに乗るように、イエス・キリストにゆだねることを学ばなければなりません。自分で何とかしようとすると、その試練に飲み込まれてしまうからです。リベカが疲れてきたとき、エリエゼルはその目的地の話をしたことでしょう。イサクのこと。アブラハムにある富について話したと思います。同じように、私たちの信仰が試される時、また信仰の歩みで疲れてくる時、聖霊は私たちを励ましてくださいます。将来にある栄光を指し示してくださいます。パウロは、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。(ローマ8:18)」と言いました。このように、試練や困難によって、私たちはキリストに近づくようになるのです。

3B  イサクの会合  62−67
 そのとき、イサクはベエル・ラハル・ロイ地方から帰ってきていた。

 イサクの登場です。私たちは学びました。イエス・キリストが天に昇られて、肉体としては私たちとともにおられません。しかし、再び、戻ってこられるときがやってきます。

 彼はネゲブ地方に住んでいたのである。イサクは夕暮れ近く、野に散歩に出かけた。彼がふと目を上げ、見ると、らくだが近づいてきた。リベカも目を上げ、イサクを見ると、らくだから降り、そして、しもべに尋ねた。「野を歩いてこちらの方に私たちを迎えに来るあの人は誰ですか。」しもべは答えた.「あの方が私の主人です。」そこでリベカはベールを取って身を被った。

 イサクとリベカの対面です。ふたりは目が合いました。イサクは、歩いて2人を迎えに来ています。走りよってもよさそうなのに、と思いますが、多分イサクの性格が、おっとりタイプだったのでしょう。私たちは、イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいますが、すぐに来て欲しいと願います。でも、遅いように感じてしまいます。イエスは、ひとりでも多くの者が救われるように、忍耐しておられるのです。

 しもべは自分がなしてきたことを残らずイサクに告げた。イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。彼は彼女を愛した。イサクは母の亡き後、慰めを得た。

 イサクはリベカをこよなく愛しました。同じように、キリストは私たちをこよなく愛されています。母の亡き後、慰めを得たとありますから、彼はサラの死を嘆き悲しんでいたのだと思います。こうして、晴れ晴れリベカはイサクの妻となりました。アブラハムの信仰は、イサク、サラ、リベカ、そして、しもべエリエゼルを通して、神とその救いの計画を指し示して完成しました。父なる神が一人子キリストをささげること、キリストが昇天されること、そしてイスラエルが一時的に退かれ、聖霊によって教会が誕生すること、さらに、教会がキリストにお会いする事であります。パウロは言いました。「信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を得るのです。(ガラテヤ1:9)」アブラハムの信仰の歩みによって、私たちは大きな祝福を受けています。また、私たち自身も、アブラハムのように祝福を与えて、キリストをあらわす生涯を送る事が出来るのです。信仰の完成、という題をもって話させていただきました。



「聖書の学び 旧約」に戻る
HOME