創世記24章58-61節 「御霊と教会」

アウトライン

1A アブラハムとイサク
  1B 愛するただ独り子
  2B 捧げる父の苦しみ
2A エリエゼルとリベカ
  1B エリエゼル(15:2) 「神は我が助け」
  2B リベカへの贈り物
  3B イサクの富
3A キリストの花嫁 エペソ5
   1B 御霊が働かれる
   2B 父とキリストの栄光
   3B 信仰の決断
   4B 励ましと忍耐
   5B イエスとの出会い

本文

 創世記24章を開いてください。第二礼拝にて、私たちは24章から25章を学びたいと思いますが、第一礼拝では24章にある話に注目したいと思います。2458節から61節をお読みします。

24:58 それで彼らはリベカを呼び寄せて、「この人といっしょに行くか。」と尋ねた。すると彼女は、「はい。まいります。」と答えた。24:59 そこで彼らは、妹リベカとそのうばを、アブラハムのしもべとその従者たちといっしょに送り出した。24:60 彼らはリベカを祝福して言った。「われらの妹よ。あなたは幾千万にもふえるように。そして、あなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。」24:61 リベカとその侍女たちは立ち上がり、らくだに乗って、その人のあとについて行った。こうして、しもべはリベカを連れて出かけた。

1A アブラハムとイサク
1B 愛するただ独り子
 私たちは今、麗しい神の救いのご計画をアブラハムとイサクの生涯の中で見ています。神はアブラハムに、「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを、全焼のいけにえとしてわたしにささげなさい(22:2参照)」と言われました。そしてイサクを捧げにモリヤ山に行くのですが、それは、まさに父なる神ご自身が御子イエス・キリストにあって行なうことを、彼らが予め示すためでした。

2B 捧げる父の苦しみ
 神が、ご自分の独り子を罪の供え物として捧げるその苦しみと痛みと、泣き叫びを、アブラハムにあって現されました。モリヤは、まさにキリストが十字架につけられたゴルゴダがあったところです。そしてイサクは、父の言うことの従順に従いました。自分が祭壇の上に縛り付けられて、父が刀を振り落とすその最後の瞬間まで父の言われることに従ったのです。これも、十字架に至るまで従順でありました。

2A エリエゼルとリベカ
1B エリエゼル(15:2) 「神は我が助け」
 そしてサラが死にます。アブラハムは、自分の子イサクに嫁を与えなければいけないと思い、それで、自分の財産を管理している僕にこう言いつけます。242節からです。「そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。(2-4節)」イサクのために妻を迎えますが、イサクを約束の地の外に出してはならない、とのことです。けれども、周りのカナン人はまことの神を信じていないから、アブラハムの親戚のところまで行って、それで嫁を探してきなさい、というものでした。

 これがいかに、とんでもないことであるかは容易に想像できると思います。彼らは今のシリアの北部、ユーフラテス川の上流地域に住んでいます。約八百キロあります。そこにイサクを連れて行くことなく、親戚のところにいる娘を引き入れなければいけません。しかし、彼はそれを実行しました。

 彼の名前はエリエゼルです。ここ24章にはありませんが、152節でアブラハムが彼の名前を話しています。その意味は「神は私の助け」です。ここで非常に興味深いことがあります。アブラハムが父なる神を表し、イサクが子なるキリストを表していますが、エリエゼルがまさに聖霊を表しています。イエス様は弟子たちに、ご聖霊についてこう語られました。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。(ヨハネ14:16」助け主とありますが、ギリシヤ語ではパレクレトスであり、「そばにいて援助する者」という意味です。

2B リベカへの贈り物
 エリエゼルは、らくだ十頭、そして主人の多くの貴重な品々を用意して長旅に出ました。そして、アラム・ナハライムという、アブラハムの兄弟ナホムが住んでいた町に着きました。彼は祈りました。「私は今、泉のほとりにいますが、私に水を与え、そしてらくだにも水を飲ませてあげましょうか、という人が、主人の息子さんのお嫁さんであることを知ることができますように。」という祈りです。この祈りが終わらないうちに、なんと目の前に若い娘が現れたのです!それで、彼女は彼が祈ったとおりに自分に水を与えただけでなく、らくだにも与えました。

 そして彼は娘に尋ねました。「あなたは、どなたの娘さんですか。(23節)」すると彼女は答えました。「私はナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です。(24節)」ぴったしかんかんです!それで彼は、用意していた貴重な飾り物を彼女に着せてあげたのです。金の飾り物、金の腕輪、また鼻の飾り物も身に着けてあげました。そしてリベカは家に戻り、そして彼女の兄ラバンがその飾りを見て、エリエゼルを家に招いたのです。

 私たちはご聖霊の性質とその働きについて、しっかりと知らなければいけません。ご聖霊は、三位一体の神の中で、私たちに直接関わっておられる方だからです。私たちがイエス様を信じると、聖霊は私たちの内に住んでくださいます。そして、私たちは神の愛、平安、喜び、その他のあらゆる良いものを味わい知ることができます。

 けれども、それらはあくまでも、神が天において私たちのために用意されている富のごく一部なのです。「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。(1ペテロ1:4」聖霊は天にある資産の一部を携えて、私たちのために来てくださいました。

 エペソ書1章14節にこうあります。「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。(エペソ1:14」御国を受け継ぐことの保証だ、とあります。「保証」の言葉は「頭金」と訳すことができるものです。商業用語です。

 私たちが大きな買い物をする時に、私たちは頭金を払います。自動車を買う時に、「これを買います」と販売員に話します。そして、「今は手元にお金が無いから、お金を用意するので、それまで他の人に売らないでください。」と言います。けれども販売員は、その保証を得たいです。本当にその人が本気で買うのかを知りたいです。もし後で気が変わって買わないのであれば、その間に他の人に売る機会を失うことになります。それで、「購入代金の一部を頭金としてください。もしあなたが気が変わった時にはこれをいただきますから。」と言います。ですから頭金を払う人は、本気でその自動車を買う意図があることを表しているのです。

 そして神は、ご聖霊が、私たちが神の国を相続する保証、頭金であると言われます。私たちが、イエス・キリストによって救われて、そして御霊の実を楽しみ、その愛、喜び、平安、信仰、希望を味わい、「なんて主はすばらしいのだろう!」と嬉しくなっています。けれども、それは、後に来るもののごくごく一部にしか過ぎないのです!神が与えてくださる御国の栄光は、とてつもなく大きいものです。言語に絶すること、人間の言葉で表現しようもなら罪を犯すほどの、尋常ではない、栄光に満ちたものです!神は確かに私たちを、御国の中に導いてくださることを、その強い意図を示すために、私たちにその一部を与えてくださっているのです。この方が聖霊です。

 ですから、エリエゼルはアブラハムの財産の一部を、リベカに身につけさせたのです。

3B イサクの富
 そして、エリエゼルは食事の席に招かれます。けれども、彼は非常に目的志向の人です。「私がここにやってきた理由と目的を話さないうちは、食事をいただくことはできません。」と言いました。そして、延々とここに至るまでの経緯を説明します。彼は主人アブラハムを紹介しました。「主は私の主人を大いに祝福されましたので、主人は富んでおります。主は羊や牛、銀や金、男女の奴隷、らくだやろばをお与えになりました。(35節)」父が非常に富んでいる話をしました。そして、イサクについてはこう話しています。「私の主人の妻サラは、年をとってから、ひとりの男の子を主人に産み、主人はこの子に自分の全財産を譲っておられます。(36節)」その富の全てをイサクが受け継ぐことになっている、というものです。

 そして、リベカに会えた経緯を話します。つまり、エリエゼルは言い寄っているのです。「このように大きな財産を持っている人がいて、その独り息子なのだよ。そして祈ったら、あなたに会うことができた。どうか拒むのであれば、そうおっしゃってください。恵みを施してくださるのなら、そうおっしゃってください。」と。兄ラバンと父ベトエルは、「主から出たことですから、あなたによしあしを言うことはできません。」と答え、イサクの妻になることを了承しました。

 このように神の聖霊は、私たちに父なる神を、そしてそのキリストを教えてくださいます。神が天地万物を造られた方であり、すべての富を持っておられること。そしてその相続を全て受け継いでおられる御子キリストがおられること。神、そしてキリストのすばらしさを聖霊は私たちに教えられることによって、私たちがこの方を受け入れるよう言い寄られるのです。

3A キリストの花嫁 エペソ5:25-27
 こうして彼女は、イサクのところに旅立ちます。そして、先ほど読んだとおり、次の日に彼女はエリエゼルと旅をします。おそらくエリエゼルは、彼女を載せたらくだの傍らにいて、主人アブラハムはどのような方なのか、そして婿イサクはどのような方なのかを話したことでしょう。旅の不便、苦痛も、エリエゼルの励ましと慰めによって乗り越えることができたでしょう。そして彼女はついに、砂漠を歩いていたイサクに対面するのです。そしてイサクは彼女をサラの天幕に引き連れ、そして彼女は妻となります。

 この麗しい物語は、実にリベカがキリストの教会を表していることを知ると、私たちにとって現実のものとなります。エペソ5章25節を開いてください。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5:25-27」イサクはキリストを表していましたが、リベカはその花嫁であるキリストを表しているのです。

1B 御霊が働かれる
 私たちが教会のことを考える時に、まず何を思うでしょうか?牧師がいて、人がいて、賛美する人がいて・・・。人がいなければいけないのは当たり前ですね。けれども、その本質において「御霊がおられるところだ」ということを認識しなければいけません。「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。(1コリント12:13」そして使徒パウロは、各々に御霊が、ご自分のみこころのままに分け与えると言っています。

 私たちが教会として集まる時に、御霊が働かれることを第一に求めているでしょうか?聖霊ではなく、私たちの行為、計画、意見が強い影響を与えることを願っているでしょうか?聖霊の知恵と力、その賜物があるところに、キリストの体が存在するのです。

2B 父とキリストの栄光
 そして、ご聖霊はキリストの栄光を現します。エリエゼルが自分のことを話したのではなく、アブラハムとイサクのことを話したように、ご聖霊が働かれる時は、私たちはこれまで以上にキリストの栄光をはっきりと見ることができるのです。イエス様が弟子に言われました。「御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。(ヨハネ6:14

 皆さんの心の中に、礼拝の中で何がはっきりとしてくるでしょうか?誰かすぐれた信仰者のことでしょうか?牧師のことでしょうか?教会のこと?あるいは、他の人のこと?何よりも、自分のことがはっきりしますか?キリストの形が私たちの心と思いの中に造り出されていく時に、イエス様の栄光が見えてくるときに、ご聖霊が活発に働いてくださっている現われなのです。

3B 信仰の決断
 そして花嫁である教会は、信仰の決断をしなければいけません。リベカは、聖霊の促しに対して、これからどうなるか分からないけれども応答しました。私たちは御霊の促しを受けたら、それに従順になってください。御霊が生きておられるようにしてください。「御霊を消してはなりません。(1テサロニケ5:19」御霊に導かれたなら、私たちは信仰によって前に進むのです。

4B 励ましと忍耐
 そして、ご聖霊の重要な働きは、イエス・キリストが戻ってくださる時まで、私たちを励まし、慰めてくださることです。黙示録の最後のところにこう書いてあります。「御霊も花嫁も言う。『来てください。』(11:17」イエス様が来られる時まで、その栄光を私たち教会に指し示し、力を与え、約束を与え、道しるべとなってくださるのが聖霊です。

5B イエスとの出会い
 そして、私たちは、天から戻ってきてくださるイエス・キリストにお会いすることになります。私たちにとっての希望は何でしょうか?私たちが最も嬉しい出来事とは何でしょうか?今は見ないけれども、それでも熱く愛しているイエス様ご自身にお会いすることではないでしょうか?

 1テサロニケ4章16-17節、「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」主が、私たちを引き上げてくださり、空中で会ってくださいます。

 そして、その時には顔と顔を合わせて主を見るのです。「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。(1コリント13:12」なんという出来事でしょうか!ちょうどリベカがイサクのところに入ったように、私たちは主イエス・キリストのところに入ることができるのです。

 この日が待ち遠しいです。ところで、私たちがなぜこれほどイエス様を愛しているのでしょうか?「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4:10」神が愛してくださったのです。キリストが私たちの罪のtがめに死んでくださるほど、神は私たちを愛してくださいました。この愛を受け入れた人であれば、爆弾のような強い衝撃を受け、心の奥底から神を愛する思いが出てくるのです。

 どうか、キリストを受け入れてください。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
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