創世記25−27章 「選びの子」
アウトライン
1A アブラハムの子孫 25
1B アブラハムの晩年 1−11
2B イシュマエルの息子 12−18
3B ヤコブとエサウ 19−34
2A イサクの約束継承 26
1B 「この父にしてこの子あり」 1−11
2B 井戸の争い 12−25
3B 平和の回復 26−35
3A お家騒動 27
1B リベカとヤコブの謀り 1−29
2B エサウの祝福喪失 30−40
3B ヤコブの脱出 41−46
本文
創世記25章を開いてください。私たちはついに、アブラハムの生涯の最後を読みます。そしてイサクの生涯、そしてヤコブの生涯の始まりを読みます。
1A アブラハムの子孫 25
1B アブラハムの晩年 1−11
アブラハムは、24章で、イサクに嫁を与えるという父としての責任を果たしました。けれども、神の約束はさらに続きます。
25:1 アブラハムは、もうひとりの妻をめとった。その名はケトラといった。25:2 彼女は彼に、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデヤン、イシュバク、シュアハを産んだ。
何と彼は、サラを失った後、つまり137歳以降もこのように新たに妻を得て、子を生んでいます。彼が子を生むようになることができたのは百歳の頃だけではなく、その後も続いたようです。
25:3 ヨクシャンはシェバとデダンを生んだ。デダンの子孫はアシュル人とレトシム人とレウミム人であった。25:4 ミデヤンの子は、エファ、エフェル、エノク、アビダ、エルダアであって、これらはみな、ケトラの子孫であった。
これらの子が後に民族と国を形成します。例えば、「ミデヤン」はモーセが後に羊飼いとなる家のイテロがミデヤン人でした。つまり、これは神がアブラハムに与えられた約束、「あなたを多くの国民の父とする(19:5)」の実現です。
25:5 アブラハムは自分の全財産をイサクに与えた。25:6 しかしアブラハムのそばめたちの子らには、アブラハムは贈り物を与え、彼の生存中に、彼らを東のほう、東方の国にやって、自分の子イサクから遠ざけた。
非常に大切ですね。イシュマエルの時にアブラハムは、自分の肉の痛みを切ってでも、彼を追い出さなければいけませんでした。アブラハムはすでにイサクに対する神の約束を十分に理解しています。他の子たちも祝福はされるのですが、相続者はあくまでもイサクです。
25:7 以上は、アブラハムの一生の年で、百七十五年であった。25:8 アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。
「自分の民に加えられた」というのは、物理的なことを話しているのではありません。もしそうなら、彼はカルデヤ人の故郷に戻らなければいけませんが、それはしませんでした。信仰者が天の中に入ることのできる希望を表しています。
25:9 彼の子らイサクとイシュマエルは、彼をマクペラのほら穴に葬った。このほら穴は、マムレに面するヘテ人ツォハルの子エフロンの畑地の中にあった。25:10 この畑地はアブラハムがヘテ人たちから買ったもので、そこにアブラハムと妻サラとが葬られたのである。
サラのために購入した墓は自分が葬られる墓にもなりました。その後、族長たちはここに葬られます。
25:11 アブラハムの死後、神は彼の子イサクを祝福された。イサクはベエル・ラハイ・ロイの近くに住みついた。
ベエル・ラハイ・ロイは、かつてハガルがサラのもとから逃げていた時、神の使いに会ったところです。ネゲブ砂漠の南部にあります。そして、アブラハムへの祝福がイサクに受け継がれている文をここで読むことができます。
2B イシュマエルの息子 12−18
25:12 これはサラの女奴隷エジプト人ハガルがアブラハムに産んだアブラハムの子イシュマエルの歴史である。
19節からイサクの歴史が始まります。その前に、イシュマエルの歴史をここで著者は書き記しています。
25:13 すなわちイシュマエルの子の名は、その生まれた順の名によれば、イシュマエルの長子ネバヨテ、ケダル、アデベエル、ミブサム、25:14 ミシュマ、ドマ、マサ、25:15 ハダデ、テマ、エトル、ナフィシュ、ケデマである。25:16 これらがイシュマエルの子孫で、それらは彼らの村落と宿営につけられた名であって、十二人の、それぞれの氏族の長である。
すべてアラビア半島辺りにいる部族であり、今日のアラブ人を形成しています。長子ネバヨテは、有名なペテロの都市を造ったナバタイ人の父祖です。
そして、神がアブラハムに約束されたように、十二の族長を与えてくださいました(17:20)。
25:17 以上はイシュマエルの生涯で、百三十七年であった。彼は息絶えて死に、その民に加えられた。25:18 イシュマエルの子孫は、ハビラから、エジプトに近い、アシュルへの道にあるシュルにわたって、住みつき、それぞれ自分のすべての兄弟たちに敵対して住んだ。
ハビラはユーフラテス川上流地域で、それからエジプトに近い砂漠にまで住み着いています。今でも遊牧民、ベドウィンはこの地域に住み着いています。
そして、最後に「兄弟たちに敵対して住んだ」とあります。これも神が予め語られたことですが、アラブ人たちの部族抗争は絶えることなく、ユダヤ人に対する敵対意識は終わることがありません。これがまた、肉の特徴を示しています。肉は絶えずねたみ、争うことを望みます。
3B ヤコブとエサウ 19−34
そして次から、私たちは、人間の知性では理解することのできない神の深い知識と計画の話題に入っていきます。それは「神の選び」です。私たちが神の子供となり、御霊によって新たに生まれるのは、神が私たちを愛し、私たちを予め選ばれたからだ、という真理です。このことについて、イサクの後に生まれるヤコブとエサウから見ていくことができます。
25:19 これはアブラハムの子イサクの歴史である。アブラハムはイサクを生んだ。25:20 イサクが、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であるリベカを妻にめとったときは、四十歳であった。25:21 イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。
リベカもサラと同じく不妊という問題を抱えていました。聖書では興味深いことに、神に用いられる器は初め不妊であることが多いです。ハンナもそうでしたね。そして究極は、キリストを生み出す器として用いられたマリヤは、不妊どころか処女であった時に妊娠しました。
そしてイサクが子を生んだのは26節に出てきますが、60歳です。結婚してから20年後です。彼は子が生まれることをただ待っていたのですが、20年ぐらい経ってから、必死になって祈り始めました。私たちも、すべてを神に任せて特に強く願うこともしなかったけれども、ある時から具体的に熱心に祈るようになることがありますね。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。(マタイ7:7)」
25:22 子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は。」と言った。そして主のみこころを求めに行った。25:23 すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」
なんと、母の胎内にいるときから二人は争っています。そして弟が兄よりも強くなります。これはつまり、弟が父の相続を受け継ぐということです。弟が約束の子になり、キリストを生み出す子孫が出てくるということです。
これから私たちは、ヤコブが非常に霊的なものを熱心に求めて、エサウは全く関心のない姿を読んでいくことになります。その確執によって、ヤコブがついに兄の長子の権利を取るようになり、祝福がエサウではなくヤコブに与えられるようになるのを見ます。イサクとイシュマエルの間にも御霊と肉との間の対立を見ましたが、ヤコブとエサウの間ではもっと深い対立を見ます。それは、神がヤコブを選び、エサウを退けられたという計画があったからです。
このことをパウロは、ローマ人への手紙でこう説明しています。9章です。「このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、『兄は弟に仕える。』と彼女に告げられたのです。『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。』と書いてあるとおりです。(ローマ9:10-13)」
神の選びの計画が、人の行ないによらないことをはっきり示すために、まだ母の胎内にいる時に神がヤコブを選ばれた、ということです。私たちは「選び」という言葉を聞く時に、何かを行なったから選ばれると思います。良い成績を出すから、スポーツ選手は大会の選抜を受けます。けれども神の選びは愛に基づくものであり、一方的な憐れみによるものです。したがって、むしろ愚かと思われるもの、弱いとされる者、取るに足りない者を選ばれます。それによって、私たちではなく神の栄光が現れるためです。
25:24 出産の時が満ちると、見よ、ふたごが胎内にいた。25:25 最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それでその子をエサウと名づけた。25:26 そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。
エサウの名前は「毛もくじゃら」です。そしてヤコブの名前は、「かかとを掴む君」です。この双子の姿は今後の二人の確執を象徴的に表しています。
25:27 この子どもたちが成長したとき、エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。25:28 イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。
ここにおいて、かつてのカインとアベルのような対比があります。エサウは巧みな猟師とありますが、かつて学んだように、ニムロデも同じ猟師であり、主に反抗する権力者でありました。神のことについて無関心、無頓着な姿を表しています。
それに対してヤコブは、「穏やかな人」とあります。けれども、ここの訳は実は「全き人」というものです。かつてノアに対して神がこのような評価をしました。父と母の権威の下にいる従順な子供であった、ということです。
そして親も対照的です。兄が弟に仕える、という言葉は父ではなく母が聞きました。その神の御声にしたがって、リベカはヤコブに愛情を持っていました。けれども父は、なんとエサウの猟の獣を好んでいたのです。ですからイサクのエサウへの愛は、非常に肉的な動機であり、神のご計画を度外視したものでした。
25:29 さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。25:30 エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。
エドムは「赤い」という意味があります。ここからエドム人という名前が始まります。
25:31 するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。25:32 エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言った。25:33 それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい。」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。25:34 ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。
有名な、レンズ豆の話しです。ここの話を読んで、ヤコブはいかにも狡賢く見えます。けれども、聖書の評価はヤコブではなく、エサウに向けられています。「長子の権利を軽蔑したのである」ということです。ヤコブが行なったことは、神は良いとも悪いとも仰っていませんが、エサウは、キリストを生み出す父祖となる所の長子の権利をないがしろにしたことで問題なのです。ヘブル書12章16節には、「エサウのような俗悪な者」とあります。
この世には、エサウのような人がたくさんいます。たった今、楽しいこと、やりたいことのために、永遠の命に関わる希望をいとも簡単に捨ててしまうことです。天における資産など、どうでもいいと思って、真剣にイエス・キリストの福音について取り合わないことです。皆さんはいかがでしょうか?ヤコブのように、自分の行ないに関わらず神に愛されているという確信があれば、ヤコブのように神を熾烈に愛する心が与えられます。
2A イサクの約束継承 26
26章は、挿入的な話になります。27章にて、続けてヤコブとエサウの話がありますが、その前にアブラハムに与えられた神の約束がどのようにしてその子イサクに受け継がれたのか、その経緯を読みます。
1B 「この父にしてこの子あり」 1−11
26:1 さて、アブラハムの時代にあった先のききんとは別に、この国にまたききんがあった。それでイサクはゲラルのペリシテ人の王アビメレクのところへ行った。26:2 主はイサクに現われて仰せられた。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。26:3 あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。26:4 そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。26:5 これはアブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めと命令とおきてとおしえを守ったからである。」
イサクの時代に、飢饉がありました。それでアブラハムと同じように、彼はエジプトに下ろうとしていたようです。ペリシテ人の住むゲラルを経由すると、地中海沿いの道を歩いて、最短距離でエジプトに行くことができます。
けれどもイサクがゲラルにいる時に、主が「エジプトへは下るな。」と言われます。父が失敗した過ちを繰り返すことのないように戒められています。エジプトは、イスラエルにとって豊かな地であり、また当時は大国でした。楽な所に行って住みたいという誘惑があります。けれども、わたしが示されたところにとどまりなさい、と主は命じられます。
エジプトは聖書の中で、この世を表した存在として登場します。私たちは試練を受けると、世の提供する方法に頼りたくなります。けれども、そこでキリストの約束に踏みとどまる必要があります。
3節に「あなたはこの地に、滞在しなさい。」という命令があります。「滞在」であって「所有」ではありません。アブラハムだけでなくイサクもまたこの地を所有していなかったのです。カナン人やペリシテ人の地であったけれども、あなたがたはそこに寄留しているのだよ、ということです。ペテロはこう勧めました。「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。(1ペテロ2:11-12)」天が故郷である私たちは、地上においては旅人であり寄留者です。
そして、ここに留まっているならば、父に与えられた神の約束がそのまま、イサクに受け継がれます。
26:6 イサクがゲラルに住んでいるとき、26:7 その土地の人々が彼の妻のことを尋ねた。すると彼は、「あれは私の妻です。」と言うのを恐れて、「あれは私の妹です。」と答えた。リベカが美しかったので、リベカのことでこの土地の人々が自分を殺しはしないかと思ったからである。
なんと、かつてアブラハムが行なった過ちをイサクも繰り返しています。アブラハムの妻サラも見目麗しい人でしたが、リベカもそうでした。
26:8 イサクがそこに滞在して、かなりたったある日、ペリシテ人の王アビメレクが窓から見おろしていると、なんと、イサクがその妻のリベカを愛撫しているのが見えた。26:9 それでアビメレクはイサクを呼び寄せて言った。「確かに、あの女はあなたの妻だ。なぜあなたは『あれは私の妹です。』と言ったのだ。」それでイサクは、「彼女のことで殺されはしないかと思ったからです。」と答えた。26:10 アビメレクは言った。「何ということをしてくれたのだ。もう少しで、民のひとりがあなたの妻と寝て、あなたはわれわれに罪を負わせるところだった。」26:11 そこでアビメレクはすべての民に命じて言った。「この人と、この人の妻に触れる者は、必ず殺される。」
アブラハムの時と同じように、イサクも異邦人の王からその嘘について咎められました。そしてアブラハムの時と同じように、王は本人を罰するのではなく、むしろリベカに触れる者が死罪を受けると宣言しました。アブラハムに与えられた、「あなたをのろう者はわたしが呪う」という御言葉の通りです。
非常に興味深い話です。日本語に言い回しに「この父にしてこの子あり」とある通りのことが起こってしまいました。父の子に与える影響は計り知れません。聖書には、「父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。(出エジプト34:7)」とあります。それは、子に罪がないのに、無条件で父の咎を問われるということではなりません。連帯責任では決してありません。けれども、往々にして父が子に与える影響がこのように続くことを表しています。
けれども、福音、良い知らせがあります。それを断ち切る力を神は与えてくださいます。エゼキエル書18章には、詳しくその連鎖を断ち切る話しが出てきます。「しかし、彼が子を生み、その子が父の行なったすべての罪を見て反省し、そのようなことを行なわず、丘の上で食事をせず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を汚さず、だれをもしいたげず、質物をとどめておかず、物をかすめず、飢えている者に自分の食物を与え、裸の者に着物を着せ、卑しいことから手を引き、利息や高利を取らず、わたしの定めを行ない、わたしのおきてに従って歩むなら、こういう者は自分の父の咎のために死ぬことはなく、必ず生きる。(エゼキエル18:14-17)」
福音には、罪の力を断ち切る自由が約束されています。イエス様が言われました。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ8:31-32)」
2B 井戸の争い 12−25
26:12 イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。26:13 こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。
イサクは放牧だけでなく、農業も手かげたようです。そして非常に富みました。3節にある、「あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。」という言葉が実現しています。
「百倍」という言葉を聞くと思い出すのは、イエス様が御言葉をよく聞く者に対する約束のことです。「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。(マルコ4:20)」イサクだけでなく、私たちにもこの祝福を神は与えてくださいます。
26:14 彼が羊の群れや、牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。26:15 それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしてこれをふさいだ。26:16 そうしてアビメレクはイサクに言った。「あなたは、われわれよりはるかに強くなったから、われわれのところから出て行ってくれ。」
妬みというのは、百害あって一利なしです。もし彼らがイサクの祝福を共に喜ぶならば、「あなたを祝福するものをわたしは祝福する。」と言われた神の御言葉通り、彼らも祝福を受けることができたはずです。けれども、私たちには肉の誇りがあります。自分が相手よりも強くなければならない、大きくなければいけないという高慢、プライドがあります。それでせっかく受けられるはずの祝福を見逃すのです。
アブラハムが僕たちに掘らせた井戸というのは、第一礼拝で取り上げましたが、21章後半部分に出てくる誓いのことです。アビメレクの僕どもがアブラハムが掘った井戸を奪い取りました。そのことを抗議すると、アビメレクはそれを返すと言って、そこで誓いを立てたのです。ところが、時を経て、このように彼らは自分たちのものだと主張して、井戸を塞いでしまったのです。
26:17 イサクはそこを去って、ゲラルの谷間に天幕を張り、そこに住んだ。26:18 イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った。それらはペリシテ人がアブラハムの死後、ふさいでいたものである。イサクは、父がそれらにつけていた名と同じ名をそれらにつけた。
その名とは、「ベエル・シェバ」のことです。「誓いの井戸」という意味です。
26:19 イサクのしもべたちが谷間を掘っているとき、そこに湧き水の出る井戸を見つけた。26:20 ところが、ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ。」と言って、イサクの羊飼いたちと争った。それで、イサクはその井戸の名をエセクと呼んだ。それは彼らがイサクと争ったからである。
ゲラルの平地には住むことができなくなったので、谷間に移動しました。ゼカリヤ書1章に、異邦人の諸国に圧迫されているイスラエルが、谷底にいる姿が描かれています。イサクも異邦人の地にいて、退けられていたので谷間にいます。
そして、単なる井戸ではなく湧き水の出る井戸を掘り当てました。この霊的意義については第一礼拝のメッセージをお聞きください。興味深いのは、「この水は我々のものだ」とゲラルの羊飼いが主張していることです。本当は、アブラハムがアビメレクに誓いを立てさせ、確かにこれは彼の井戸であることを主張していたのです。
私たちは、自分の目や判断が正しいと思っています。けれども、心の状態によって見えるものが実は変わってきます。冷静さを失い、事実とは異なったものが事実だと思い込んでしまうのです。イエス様を十字架につけたユダヤ人指導者たちも、妬みによって真実が見えなくなっていました。
26:21 しもべたちは、もう一つの井戸を掘った。ところが、それについても彼らが争ったので、その名をシテナと呼んだ。
エセクが「争い」という意味で、「シテナ」は敵意という意味です。
26:22 イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」
第一礼拝でお話ししましたように、イサクは彼らと争いませんでした。むしろ、ひたすら場所を移動して井戸を掘り続けました。私たちも同じように霊の戦いがあり、反対があります。その反対に対して対抗するのではなく、むしろ神の働きに集中していくこと、キリストとの関係を深めることに焦点を当てていくことが重要です。そしてその向こうには、ここにあるように「広い所」が用意されています。
26:23 彼はそこからベエル・シェバに上った。26:24 主はその夜、彼に現われて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」26:25 イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべらは、そこに井戸を掘った。
主は、イサクがその争いの中で恐れていたので、慰めの言葉をかけてくださいました。「恐れてはならない。」そして、確かに父アブラハムへの約束をイサクも自分のものにするという確証を与えてくださいました。この確認の言葉はとても慰められます。私たちも神の約束が与えられ、それに正しく応答し、それからその約束は今も生きているという確認をいただく経験が必要です。
そしてイサクは、かつてアブラハムが行なったように主を礼拝し、主の御名によって祈りました。
3B 平和の回復 26−35
26:26 そのころ、アビメレクは友人のアフザテとその将軍ピコルと、ゲラルからイサクのところにやって来た。26:27 イサクは彼らに言った。「なぜ、あなたがたは私のところに来たのですか。あなたがたは私を憎んで、あなたがたのところから私を追い出したのに。」26:28 それで彼らは言った。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。26:29 それは、私たちがあなたに手出しをせず、ただ、あなたに良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように、あなたも私たちに害を加えないということです。あなたは今、主に祝福されています。」
主の御業は続きます。妬みを持っていた彼らは、ついにイサクの上に神の祝福があることを認めました。自分たちがイサクに悪いことをしたら、自分たちに呪いを招くことを知りました。かつて彼の父アブラハムに対して行なったように、平和条約を結びたいと申し出ています。
26:30 そこでイサクは彼らのために宴会を催し、彼らは飲んだり、食べたりした。26:31 翌朝早く、彼らは互いに契約を結んだ。イサクは彼らを送り出し、彼らは平和のうちに彼のところから去って行った。
契約を結ぶ時に、当時はこのようにして飲み食いをしました。平和というのは、このように一つのものを供給する、分かち合うことによって成り立ちます。主が食事を取られたとき、ご自分の体と血に弟子たちがあやかるように、聖餐式を定められたのと同じです。私たちも、同じ時間を共有する、同じ活動を共有することによって平和の一致を保つことができます。
26:32 ちょうどその日、イサクのしもべたちが帰って来て、彼らが掘り当てた井戸のことについて彼に告げて言った。「私どもは水を見つけました。」26:33 そこで彼は、その井戸をシブアと呼んだ。それゆえ、その町の名は、今日に至るまで、ベエル・シェバという。
「シブア」は誓いという意味です。主がこの平和条約をも祝福してくださっていることを見て取れます。
26:34 エサウは四十歳になって、ヘテ人ベエリの娘エフディテとヘテ人エロンの娘バセマテとを妻にめとった。26:35 彼女たちはイサクとリベカにとって悩みの種となった。
話しがヤコブとエサウに戻っています。先ほどの話を思い出してください、エサウは一杯の食物と引き換えに、長子の権利を売った俗悪な者です。ここにも、カナン人の女を妻にして、イサクの家に悩みの種を作っています。ヤハウェなる神に対して全く無頓着で、生活も異教的であり、ふしだらだったのでしょう。アブラハムは自分の僕に、「カナン人の娘の中から妻を娶ってはならない」と言いつけたのは、このようなことが起こることが分かっていたからです。
3A お家騒動 27
それで次の話に移ります。かつて、私たちはアブラハムがサラの女奴隷ハガルを通してイシュマエルを得た時に、お家騒動が起こりましたが、ここではもっと大きなお家騒動を見ます。
1B リベカとヤコブの謀り 1−29
27:1 イサクは年をとり、視力が衰えてよく見えなくなったとき、長男のエサウを呼び寄せて彼に「息子よ。」と言った。すると彼は、「はい。ここにいます。」と答えた。27:2 イサクは言った。「見なさい。私は年老いて、いつ死ぬかわからない。27:3 だから今、おまえの道具の矢筒と弓を取って、野に出て行き、私のために獲物をしとめて来てくれないか。27:4 そして私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て私に食べさせておくれ。私が死ぬ前に、私自身が、おまえを祝福できるために。」
イサクは、この時点でおそらく137歳だと思われます。彼の一生は180歳であり(35:28)、あと43年生きることになります。けれども彼は自分の目が見えなくなったことで、死期が近づいていると感じたのです。
そして長男のエサウを呼び寄せています。そして、彼を祝福しようとしています。これは、まさに自分の跡継ぎになる子を定めるための法的手続きであり、ヤコブではなくエサウに神の約束を受け継がせようとしている行為なのです。彼はリベカから、「兄が弟に仕える。(25:23)」という神の声を聞いているはずです。それにも関わらずエサウを祝福しようとするのは、彼がそのリベカの証しを軽んじていた、そして結果的には神ご自身の声を退けていたことを表しています。
そしてその理由が文字通り肉的です。エサウのしとめる獲物の肉が欲しいから、ということです。25章28節にもイサクがエサウを愛する理由が、猟の獲物を好んでいたからだ、とあります。これからヤコブが父イサクに嘘をついてまで、その祝福を受けるようにする場面を読みます。それで多くの人がヤコブは狡猾な人間であるという非難や批判をするのですが、それよりも、家長であるイサクが神の御声をないがしろにしたという罪のほうがはるかに大きいです。
27:5 リベカは、イサクがその子エサウに話しているのを聞いていた。それでエサウが獲物をしとめて来るために、野に出かけたとき、27:6 リベカはその子ヤコブにこう言った。「いま私は、父上が、あなたの兄エサウにこう言っておられるのを聞きました。27:7 『獲物をとって来て、私においしい料理を作り、私に食べさせてくれ。私が死ぬ前に、主の前でおまえを祝福したいのだ。』27:8 それで今、わが子よ。私があなたに命じることを、よく聞きなさい。27:9 さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎ二頭を私のところに取っておいで。私はそれで父上のお好きなおいしい料理を作りましょう。27:10 あなたが父上のところに持って行けば、召し上がって、死なれる前にあなたを祝福してくださるでしょう。」
リベカはヤコブを愛していました。それは、自分自身が神から声を聞いていたからです。リベカとイサクの間に、きちんとした意思疎通ができていなかったことは明らかです。この一騒動が起こった後で、リベカははっきりとイサクに、「エサウの妻のことで嫌になりました。」と言っています。この不信感が、イサクに直接話さずに、企みを謀る行動を取らせました。
27:11 しかし、ヤコブは、その母リベカに言った。「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私のはだは、なめらかです。27:12 もしや、父上が私にさわるなら、私にからかわれたと思われるでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになるでしょう。」27:13 母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」
リベカが言った「のろいは私が受けます」というのは、その通りになりました。ヤコブが家を出て行って、20年経ち、彼が故郷に戻ってきた時には母は死んでいました。ですから、これで愛するヤコブとの生活は終わりになるのです。
27:14 それでヤコブは行って、取って、母のところに来た。母は父の好むおいしい料理をこしらえた。27:15 それからリベカは、家の中で自分の手もとにあった兄エサウの晴れ着を取って来て、それを弟ヤコブに着せてやり、27:16 また、子やぎの毛皮を、彼の手と首のなめらかなところにかぶせてやった。27:17 そうして、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブの手に渡した。
目が見えないので、臭いでごまかす企みです。
27:18 ヤコブは父のところに行き、「お父さん。」と言った。イサクは、「おお、わが子よ。だれだね、おまえは。」と尋ねた。27:19 ヤコブは父に、「私は長男のエサウです。私はあなたが言われたとおりにしました。さあ、起きてすわり、私の獲物を召し上がってください。ご自身で私を祝福してくださるために。」と答えた。27:20 イサクは、その子に言った。「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね。わが子よ。」すると彼は答えた。「あなたの神、主が私のために、そうさせてくださったのです。」
ヤコブははじめ、少し躊躇しています。けれども、二度目答えるときには、「あなたの神、主が私のために」と、神の名を使ってまで嘘をついています。私たちは、罪を犯すと、次に犯す時には良心が麻痺しています。罪の程度がさらに大きくなります。
27:21 そこでイサクはヤコブに言った。「近くに寄ってくれ。わが子よ。私は、おまえがほんとうにわが子エサウであるかどうか、おまえにさわってみたい。」27:22 ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼にさわり、そして言った。「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。」27:23 ヤコブの手が、兄エサウの手のように毛深かったので、イサクには見分けがつかなかった。それでイサクは彼を祝福しようとしたが、27:24 「ほんとうにおまえは、わが子エサウだね。」と尋ねた。すると答えた。「私です。」
ヤコブはさらに確信的に自分がエサウだと答えています。
27:25 そこでイサクは言った。「私のところに持って来なさい。私自身がおまえを祝福するために、わが子の獲物を食べたいものだ。」そこでヤコブが持って来ると、イサクはそれを食べた。またぶどう酒を持って来ると、それも飲んだ。27:26 父イサクはヤコブに、「わが子よ。近寄って私に口づけしてくれ。」と言ったので、27:27 ヤコブは近づいて、彼に口づけした。イサクは、ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福して言った。「ああ、わが子のかおり。主が祝福された野のかおりのようだ。27:28 神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒をお与えになるように。27:29 国々の民はおまえに仕え、国民はおまえを伏し拝み、おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子らがおまえを伏し拝むように。おまえをのろう者はのろわれ、おまえを祝福する者は祝福されるように。」
分かりますか、これを神はかつて、二人を胎内に宿していたリベカに対してお語りになった約束です。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。(25:23)」かなり確信的に、リベカが聞いた言葉に反対しています。おそらくイサクは、リベカが言ったことに反感さえ感じていたのでしょう。自分ではなく妻に神が語られたことを信じられなかったのでしょう。リベカそしてヤコブが行なったことは悪いことですが、神はこのことを用いて、ご自分の計画をイサクに知らしめます。
2B エサウの祝福喪失 30−40
27:30 イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くか行かないうちに、兄のエサウが猟から帰って来た。27:31 彼もまた、おいしい料理をこしらえて、父のところに持って来た。そして父に言った。「お父さんは起きて、子どもの獲物を召し上がることができます。あなたご自身が私を祝福してくださるために。」27:32 すると父イサクは彼に尋ねた。「おまえはだれだ。」彼は答えた。「私はあなたの子、長男のエサウです。」27:33 イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」27:34 エサウは父のことばを聞くと、大声で泣き叫び、ひどく痛み悲しんで父に言った。「私を、お父さん、私も祝福してください。」27:35 父は言った。「おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえの祝福を横取りしてしまったのだ。」
はじめは、最初に来たのが誰だか分かりませんでしたが、ヤコブであることを確信しました。
27:36 エサウは言った。「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった。」また言った。「あなたは私のために祝福を残してはおかれなかったのですか。」
イサクとエサウは、ヤコブことを「横取りした」「奪い取った」と言っていますが、それは神の約束をないがしろにした二人が言った言葉です。実際、横取りしたのは彼らの方です。神はヤコブを愛されていました。
27:37 イサクは答えてエサウに言った。「ああ、私は彼をおまえの主とし、彼のすべての兄弟を、しもべとして彼に与えた。また穀物と新しいぶどう酒で彼を養うようにした。それで、わが子よ。おまえのために、私はいったい何ができようか。」27:38 エサウは父に言った。「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。」エサウは声をあげて泣いた。27:39 父イサクは答えて彼に言った。「見よ。おまえの住む所では、地は肥えることなく、上から天の露もない。27:40 おまえはおのれの剣によって生き、おまえの弟に仕えることになる。おまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを自分の首から解き捨てるであろう。」
イサクは、与えられた信仰にしたがって、エサウにはこのような預言を行ないました。これがエサウの子孫、エドム人のたどる道となります。彼らが住むセイルと呼ばれる死海南部の地域はごつごつした山と砂漠の地域です。そして、いつもイスラエルよりも小国であり、イスラエルに仕える国となりました。イスラエルが罪を犯し、国が弱まった時に、エドムは隙をみてイスラエルを攻撃しました。
エサウは、祝福を得られないことで嘆いています。けれども、これは霊的な祝福ではありません。神ご自身をないがしろにして、その祝福だけを願っている姿です。「あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。(ヘブル12:17)」
私たちには二種類の悲しみがあります。一つは、真に罪を悔い改める悲しみです。もう一つは、自分が不幸な境遇に置かれてしまったことを悲しむ、単なる後悔です。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(2コリント7:10)」今、刑務所に入っている囚人は、その多くが「自分が犯してしまった罪」を悲しんでいるのではなく、「この牢屋に入ってしまったこと」を後悔しています。
私たちはいかがでしょうか?自分の罪そのものを悲しんでいるでしょうか?神に対して罪を犯したことを、神の心を傷つけたことを悲しんでいるでしょうか?それとも、罪のせいで友達との関係を失われたとか、何か損をしてしまったとか、そのことを悲しんでいるでしょうか?
3B ヤコブの脱出 41−46
27:41 エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」27:42 兄エサウの言ったことがリベカに伝えられると、彼女は使いをやり、弟ヤコブを呼び寄せて言った。「よく聞きなさい。兄さんのエサウはあなたを殺してうっぷんを晴らそうとしています。27:43 だからわが子よ。今、私の言うことを聞いて、すぐ立って、カランへ、私の兄ラバンのところへ逃げなさい。27:44 兄さんの憤りがおさまるまで、しばらくラバンのところにとどまっていなさい。27:45 兄さんの怒りがおさまり、あなたが兄さんにしたことを兄さんが忘れるようになったとき、私は使いをやり、あなたをそこから呼び戻しましょう。一日のうちに、あなたがたふたりを失うことなど、どうして私にできましょう。」
まず、エサウが「父の喪の日も近づいている」と言っているところに目算が外れていました。イサクはさらに43年生きます。そしてリベカもそのことに基づいて、自分の愛する息子を家から出すという行動に走りました。彼女の目算も間違っています。彼女はイサクの妻になるために、その僕はたった一日だけいて、それでリベカを連れて引き返したのですが、ヤコブは20年経たないと戻ってこなかったのです。箴言に、「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。(19:21)」との言葉があります。
27:46 リベカはイサクに言った。「私はヘテ人の娘たちのことで、生きているのがいやになりました。もしヤコブが、この地の娘たちで、このようなヘテ人の娘たちのうちから妻をめとったなら、私は何のために生きることになるのでしょう。」
リベカは、ついに夫イサクに訴え出ました。けれども時は遅いです。このような騒動に発展するまで彼女は夫に言えなかったのです。これでようやくイサクは、神のご計画を知ります。確かに、ヤコブを神が選ばれておられること、そしてヤコブも自分の時と同じく、リベカの親戚から妻を得なければいけないことを悟りました。そして28章には、イサクがヤコブを祝福し、送り出す祈りを読むことになります。
いかがでしょうか?族長たちの生活は、私たちが想像するように完璧なものとは程遠い所にあります。私たちの間にも存在するお家騒動など、様々な、劇的な事件がありますが、族長も例外に漏れなかったのです。けれども、その中に神の憐れみがあります。そして憐れみだけでなく、恵みもあり、祝福が彼らに注がれています。それは、神がマラキ書で、「わたしはヤコブを愛した。わたしはエサウを憎み・・・(1:2-3)」とあるように、神は一方的に、私たちの生まれる前から、私たちを祝福すると決め、選んでくださったのです。この、神の救いにおける選びに対する確信を堅く保っていてください。そこに初めて、神を愛し、神に仕え、神に従う力が湧き上がってきます。