アウトライン
1A 選びの計画 25
1B 約束の子イサク 1−18
1C 財産 1−6
2C 祝福 7−11
3C 自由 12−18
2B 選びの子ヤコブ 19―34
1C 出産 19−26
2C 長子の権利 27−34
2A 子としての身分 26
1B 滞在 1−11
1C 父の約束 1−5
2C 父の失敗 6−11
2B 忍耐 12−25
1C 約束の実現 12−16
2C 反対 17−22
3C 約束の確認 23−25
3B 証人 26−35
1C 世の常識 26−33
2C 世の仲間 34−35
3A みこころの確かさ 27
1B ヤコブへの愛 129
1C イサクの反対 1−4
2C リベカの対処 5−17
3C ヤコブの実行 18−29
2B エサウへの憎しみ 30−46
1C エサウの悲しみ 30−40
2C リベカの対処 41−46
4A 約束の確認 28
1B イサクによる確認 1−9
1C めとるべき妻 1−5
2C むなしい努力 6−9
2B キリストによる保証 10−22
1C 夢 10−15
2C 誓願 16−22
本文
創世記25章を開いてください。今日は、25章から28章までを学びます。ここでのテーマは、「祝福の相続」です。私たちは今まで、祝福の約束がアブラハムに与えられたことを見ました。これからは、その約束がイサクに受け継がれて、さらにその息子ヤコブに受け継がれていくのを見ます。それでは、本文に入りましょう。
1A 選びの計画 25
1B 約束の子イサク 1−18
1C 財産 1−6
アブラハムは、もうひとりの妻をめとった。その名はケトラといった。彼女は彼に、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデヤン、イシュバク、シュアハを産んだ。
ヨクシャンはシェバとデダンを生んだ。デダンの子孫はアシュル人とレトシム人とレウミム人であった。ミデヤンの子は、エファ、エフェル、エノク、アビダ、エルダアであって、これらはみな、ケトラの子孫であった。
アブラハムは、イサクがリベカをめとった後に、自分も妻をめとりました。彼の子を生ませる能力は、イサクを生むときに回復されたようです。彼が妻をめとったのは、イサクが父から離れてリベカとともに暮らしはじめて、独り身になったからだと考えられますが、それ以上に、神の約束を意識していたからでしょう。神は以前、アブラハムに、「わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする(17:6)」と言われました。こうして神のみことばが、アブラハム個人の生涯に実現しています。
アブラハムは自分の全財産をイサクに与えた。しかしアブラハムのそばめたちの子らには、アブラハムは贈り物を与え、彼の生存中に、彼らを東のほう、東方の国にやって、自分の子イサクから遠ざけた。
数多くいる子どもの中から、彼はイサクを選び、彼に全財産を与えました。他の子どもにも暮らしていけるほどの財産を贈りましたが、彼らをイサクから遠ざけて、イサクと区別したのです。それは、イサクが約束の子どもだからです。イサクは神の約束によって、数多くの子どもの中から選ばれたのです。新約聖書でパウロは説明しています。「アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、『イサクから出るものがあなたの子孫と呼ばれる。』のだからです。すなわち肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。(ローマ9:7−8)」イサクと同じように、私たちも約束の子どもです。使徒パウロが言いました。「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。(ガラテヤ3:29)」そして、アブラハムがイサクに全財産を与えたように、神は、キリストによってご自分のものを私たちに与えてくださいます。ペテロがこう言いました。「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、・・・朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。(Tペテロ1:3−4)」したがって、私たちがイサクを見る時に、神の子どもとしての身分を知ることができます。アブラハムを見る時に、信仰による歩みを学びました。イサクを見るときには、神の子どもの特権について学ぶ事が出来ます。
2C 祝福 7−11
以上は、アブラハムの一生の年で、百七十五年であった。アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。アブラハムの生涯の最後の記録です。彼の子らイサクとイシュマエルは、彼をマクペラのほら穴に葬った。父の埋葬を機に、イサクとイシュマエルがいっしょに会うことが出来ました。このほら穴は、マムレに面するヘテ人ツォハルの子エフロンの畑地の中にあった。この畑地はアブラハムがヘテ人たちから買ったもので、そこにアブラハムと妻サラとが葬られたのである。アブラハムの死後、神は彼の子イサクを祝福された。イサクはベエル・ラハイ・ロイの近くに住みついた。
息子イサクが祝福されています。神がアブラハムに約束された祝福が、今はイサクに受け継がれているのです。
3C 自由 12−18
これはサラの女奴隷エジプト人ハガルがアブラハムに産んだアブラハムの子イシュマエルの歴史である。
これから、イシュマエルから出た子孫の系図が載っています。彼は、奴隷から生まれた子として紹介されています。パウロはガラテヤ書で、イシュマエルが奴隷の子で、イサクが自由な子のたとえであると言いました(4:21−30)アブラハムとサラは、自分の行いによって神の約束を達成しようとしてイシュマエルを生みました。しかし、そこには心痛と欲求不満しか残りませんでした。これが人の行いによる結果です。その一方、彼らは約束をただ信じただけでイサクが生まれたのです。そこには、喜びと笑いと祝福が残りました。これが信仰の結果です。一方は奴隷状態で、他方は自由です。それで私たちのクリスチャン生活はどうでしょうか。窮屈ですか、それとも、愛と喜びと平和で満たされていますか。もし、窮屈なら、それは神のみことばを自分で行おうとしているからです。けれども、神のみことばを信じるなら、神の御霊によって私たちのうちに愛や平安などの実が結ばれます。このことについては、次の26章にあるイサクの生活の中に見出すことが出来ます。そのときに取り扱います。
すなわちイシュマエルの子の名は、その生まれた順の名によれば、イシュマエルの長子ネバヨテ、ケダル、アデベエル、ミブサム、ミシュマ、ドマ、マサ、ハダデ、テマ、エトル、ナフィシュ、ケデマである。これらがイシュマエルの子孫で、それらは彼らの村落と宿営につけられた名であって、十二人の、それぞれの氏族の長である。
イシュマエルの系図には、12の氏族にいたるまでの子孫が記されています。それ以降は書かれていません。何故でしょうか。それは、神の約束が実現していることを示すものだからです。17章20節で、こう書かれています。「イシュマエルについては、あなた(つまりアブラハム)の言う事を聞き入れた。確かに、私は、彼を祝福し、彼は12の族長達を生む。私は彼を大いなる国民にしよう。」とあります。
以上はイシュマエルの生涯で、百三十七年であった。彼は息絶えて死に、その民に加えられた。
イシュマエルも、アブラハムと同じ所に行きました。つまり、彼も天における祝福にあずかったのです。イシュマエルの子孫は、ハビラから、エジプトに近い、アシュルへの道にあるシュルにわたって、住みつき、それぞれ自分のすべての兄弟たちに敵対して住んだ。
彼らが住んだ地域は、ちょうど現在のアラビヤにあたります。そして、すべての兄弟たちに敵対して住んでいたというのは、これも、神が以前語られたことが実現したからです。16章12節に、「彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」という神のことばがあります。
2B 選びの子ヤコブ 19―34
1C 出産 19−26
これはアブラハムの子イサクの歴史である。アブラハムはイサクを生んだ。イサクが、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であるリベカを妻にめとったときは、四十歳であった。イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。
みごもったのは結婚して20年たってからの事です。イサクが主に祈るまで、それだけの期間がかかりました。彼は約束の子としての身分を知っていました。父アブラハムは、主の約束を知るために信仰の歩みをして、主にすがりつきましたが、息子イサクにはすべて約束がしらされていたので、主により頼む必要性をあまり感じていなかったようです。しかし、約束はあくまで信仰によって実現されていくものであり、イサクも信仰をもつ必要がありました。それゆえ主はリベカの胎を閉じられて、イサクが主を求めるようにされたのです。
子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は。」と言った。そして主のみこころを求めに行った。すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」
神は約束の子孫についてイシュマエルではなくイサクを選ばれたように、今度は、兄ではなく弟を選ばれる事を語られています。ここではさらに、神の選びが生まれる前からおこっているのが分ります。このことについてパウロが再び語っています。「このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。その子ども達は、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に使える」と彼女に告げられたのです。(ローマ9:10^、11)」私たちは、キリストにあって、神に選ばれて、祝福を受け継ぐものとされましたが、それは私たちが何かよいことをしたから、神の興味をそそるようなすばらしい性格の持ち主だからではありません。私たちの方では神に選ばれる何の要素もないのに、私たちを選ばれたのです。そのことが、リベカの胎内の2人の子どもに現れています。
出産の時が満ちると、見よ、ふたごが胎内にいた。最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それでその子をエサウと名づけた。エサウとは「毛深い」という意味です。そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。
この出産の姿は、神の選びがどのように確かなものにされていくかを示しています。エサウは、人々の目からは強くたくましいものでありますが、ヤコブは、彼のかかとをつかんで、エサウから祝福を掴み取るものとなります。ここから、多くの人はヤコブをずるがしこいものとしてとらえ、その子孫であるユダヤ人に対してもそうした見方をします。そして、エサウをかわいそうなものとしてとらえます。しかし、聖書の評価はその反対です。ヘブル書11章では、ヤコブがアブラハムとイサクと並んで信仰の人として紹介されています。(11:9)。そして、ヘブル書12章では、エサウは、「不品行なもの」「俗悪なもの」として紹介されています。(12:16)。ですから、神が見ておられるようにヤコブとエサウの話を読んでいきたいと思います。
2C 長子の権利 27−34
この子どもたちが成長したとき、エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。
ここからエサウは神について無関心な、肉的な人であり、ヤコブは神を強く求めた霊的な人であることがわかります。エサウは、巧みな猟師でありましたが、家畜を持っていたイサクにとって猟は必要なことではありません。それに、聖書にある猟師といえば、神に反抗したニムロデがいます。その反面、ヤコブは天幕に住んでいて、家族に仕え、主に仕えていました。ここの「穏やかな人」とは、ヨブ記では、ヨブが正しい人であるという「正しい」に訳されています。つまり、神がアブラハムとイサクに与えられた祝福の約束を堅く信じて、主が与えてくださるものは何でも吸収して、せっせと神に仕えていたのがヤコブです。約束を信じるということに関しては、ある意味で、アブラハムよりすぐれていたのではないかと思われます。このように、神のことしか考えていないヤコブと、それにまったく無関心なエサウが双子の兄弟だったのです。
イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。
なんと、イサクは肉的なエサウを愛していました。それは、自分の食欲を満たす、つまり、肉の欲のためです。でも、なぜそうなったのかは想像がつきます。自分が約束のものを受け継いでいることに安住していたからです。これは、クリスチャンが天国にいけることに安住して、毎日の生活で主の導きを求めないのと同じです。結果的に、肉的なものを求め始めます。そして、リベカは霊的願望の強いヤコブを愛しています。彼女は、主の仰せを聞いた張本人でありますから、その約束を大事にして生きていたのです。この正反対の特徴をもつ兄弟から、起こるべくしておこる事が次に記されています.
さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。
エサウの子孫は後にエドム人と呼ばれます。するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。
ここでの長子の権利は、父イサクからの神の祝福の約束を受け継ぐ権利でありました。
エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言った。それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい。」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。
ここまで読むと、ヤコブがエサウから権利を奪い取ったと受けとめてしまいます。しかし、次に、
こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。
とあります。エサウは腹がへっているから天国行きの切符を捨てるような事をしたのであり、そのことを聖書は咎めているのです。そして、ヤコブは奪い取ったのではなく、神の選びの計画によればもともとやコブの権利だったのです、。それで彼は、霊的現実をすぐに実行に移しました。ただ、これがすべてよい事だったとは言い切れません。彼は、主がその計画を実行されるのを待つことが出来ました。主の御計画に従って生きる事はすばらしいことなのですが、主は定められたときをもっておられ、そのときが満ちると実行に移されるのです。そのため、ヤコブは、主に仕えることだけでなく、主を待ち望むことが必要だったのです。私たちも、待たずに動いてしまうことがよくありますね。ヤコブの弱さは、私たちもみな持ち合わせています。
2A 子としての身分 26
こうして私たちは、神の選びについて見てきました。26章では、子としての身分に焦点が当てられています。
1B 滞在 1−11
さて、アブラハムの時代にあった先のききんとは別に、この国にまたききんがあった。それでイサクはゲラルのペリシテ人の王アビメレクのところへ行った。
イサクは、父親が受けたのと同じ類の試練を受けています。飢きんです。アブラハムはその信仰の試練で、失敗をしました。ゲラルとは、イスラエルの南部にある海岸地域です。アビメレクは、ペリシテ人の王の称号であり、以前、アブラハムはアビメレクと盟約を結びました。
1C 父の約束 1−5
主はイサクに現われて仰せられた。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。これはアブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めと命令とおきてとおしえを守ったからである。」
イサクは、神がアブラハムに与えられたのと同じ、祝福の約束を受けました。そして、それは、父アブラハムのゆえに受け継がれた祝福です。子孫によって祝福があることが繰り返されていますが、アブラハムにとってイサクが子孫でした。そしてイサクにとって、その息子が子孫です。究極的にはキリストがこの子孫になります。この約束の中で大事なのは、3節にある、「滞在しなさい」という神の命令です。この約束は、ゲラルに滞在するという条件でした。アブラハムに対しては、「生まれ故郷から出て行きなさい。」という条件でした。しかし、ここでは「滞在しなさい」という条件です。エジプトに行くのではなく、また東方の国に旅することもなく、イサクは約束された地にとどまりました。この「とどまる」ということが、神の子どもにとって非常に大切になります。先程、みことばを自分で行おうとすれば、奴隷のように窮屈になり、みことばを信じていけば自由にされて、豊かに実が結ばれていくことを話しました。そして、この「信じる」ということは、言いかえると、とどまる事なのです。それは、何か妨害が来ても、信じる立場を貫く事です。しかし、私たちは、もともと、自分の行いによって正しくなろうとする性質を持っています。そのため、信じるという立場から離れてしまいます。しかし、それでは、キリストを信じるだけで、罪が許され、義と認められ、御子の似姿に変えられるなど、神の子に与えられている特権を自ら放棄する」ことになるのです。ガラテヤ書5章1節において、パウロは、信者に次のような命令をしています。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしましょう。」しっかり立つ、あるいはとどまることが、子の身分を持っているものにとって唯一しなければいけない仕事なのです。イサクに対する神の命令は、「滞在しなさい。」というものでした。
2C 父の失敗 6−11
イサクがゲラルに住んでいるとき、イサクは神の命令を守りました。その土地の人々が彼の妻のことを尋ねた。すると彼は、「あれは私の妻です。」と言うのを恐れて、「あれは私の妹です。」と答えた。リベカが美しかったので、リベカのことでこの土地の人々が自分を殺しはしないかと思ったからである。
イサクは、アブラハムとまったく同じ間違いを犯しています。妻を妹といい、それは自分が殺されるのを恐れたからです。
イサクがそこに滞在して、かなりたったある日、ペリシテ人の王アビメレクが窓から見おろしていると、なんと、イサクがその妻のリベカを愛撫しているのが見えた。それでアビメレクはイサクを呼び寄せて言った。「確かに、あの女はあなたの妻だ。なぜあなたは『あれは私の妹です。』と言ったのだ。」それでイサクは、「彼女のことで殺されはしないかと思ったからです。」と答えた。アビメレクは言った。「何ということをしてくれたのだ。もう少しで、民のひとりがあなたの妻と寝て、あなたはわれわれに罪を負わせるところだった。」
アブラハムのときと、同じような叱責を受けています。そして次が興味深いです。
そこでアビメレクはすべての民に命じて言った。「この人と、この人の妻に触れる者は、必ず殺される。」
イサクはこのような嘘をついたのですから、アビメレクに殺されても不思議ではなかったでしょう。なのに、アビメレクはむしろ、この2人を守るような処置に出ました。これは恵みです。失敗したのに、その後に祝福が注がれています。イサクは、「滞在しなさい。」という神の見声に聞きしたがったので、主がイサクとその妻を恵みを持ってまもられたのです。
2B 忍耐 12−25
1C 約束の実現 12−16
そして、祝福の約束が、イサク個人において実現されてきました。
イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。
イエス様は、ここから、良い地に落ちる種は30倍、60倍、100倍の実を結ぶことを話されたのかもしれません。キリストのうちにとどまるものは、多くの実を結びます。
こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。彼が羊の群れや、牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしてこれをふさいだ。
アブラハムはかつて、この井戸のことで、アビメレクに抗議したことがあります。そして彼が井戸を掘ったという証拠を提示して、アビメレクと契約を結んでいました。このアビメレクは、そのときと違う人だと思いますが、これは明らかに契約違反です。
そうしてアビメレクはイサクに言った。「あなたは、われわれよりはるかに強くなったから、われわれのところから出て行ってくれ。」アビメレクは、イサクの繁栄に脅威を感じて、彼を追い出しました。
2C 反対 17−22
イサクはそこを去って、ゲラルの谷間に天幕を張り、そこに住んだ。イサクは、以前の契約のもとづいて、アビメレクに対立することができましたが、むしろその場を離れています。イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った。それらはペリシテ人がアブラハムの死後、ふさいでいたものである。イサクは、父がそれらにつけていた名と同じ名をそれらにつけた。
これは、イサクの信仰のあらわれです。彼はこう思っていたことでしょう。「父に与えられた神の祝福が、いま自分に受け継がれている。アビメレクに対立するよりも、この祝福の約束を信じていきたい。」彼は再び、神の約束にふみとどまっていたのです。
イサクのしもべたちが谷間を掘っているとき、そこに湧き水の出る井戸を見つけた。ところが、ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ。」と言って、イサクの羊飼いたちと争った。それで、イサクはその井戸の名をエセクと呼んだ。それは彼らがイサクと争ったからである。再び反対にあっています。しもべたちは、もう一つの井戸を掘った。ところが、それについても彼らが争ったので、その名をシテナと呼んだ。シテナは、「敵意」という意味です。イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。彼は争いにのめりこむ事はしませんでした。また、別のところで井戸を掘ります。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」
ようやく彼は、約束のものを獲得しました。信仰によって獲得しました。この間、彼は忍耐しつづけたでしょう。このように、私たちが信じるというのは、約束に踏みとどまり続けることです。そして、約束にとどまり続けるには、忍耐が必要です。ヘブル書10章にこう書かれてあります。「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。(35,36節)」イサクは約束を堅く信じて、その結果、忍耐という神のご性質が彼のうちに建て上げられました。
3C 約束の確認 23−25
彼はそこからベエル・シェバに上った。ベエル・シェバは、父アブラハムがイサクをささげようとしたモリヤ山から戻って来た後、彼が住みついた場所です。
主はその夜、彼に現われて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。彼は、この信仰の戦いによって恐れが生じていたのでしょう。神は彼を励まされています。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」
主は、約束の確認をしてくださいました。イサクが信仰によって歩んだので、神は励まし、支え、保ってくださいます。私たちが約束にしがみつく力さえ私たちの力ではなく、神の支えによるものなのです。ユダは、私たちの救い主である唯一の神は、「あなたがたを、つまずかないようにまもる事ができ、傷のないものとして、大きな喜びを持って栄光の御前にた立たせることが出来る(24章)」と言いました。イサクの信仰はここで終わりません。次を見てください。
イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべらは、そこに井戸を掘った。
イサクは、神の語りかけに応答して、礼拝をささげ、祈りをしました。感謝と賛美をささげたのです。これは、本当の礼拝の姿です。礼拝は、クリスチャンだからしょうがないからしなければならないものではなく、神が欲してくださった事にすぐ喜ぶ事です。
3B 証人 26−35
1C 世の常識 26−33
そのころ、アビメレクは友人のアフザテとその将軍ピコルと、ゲラルからイサクのところにやって来た。
将軍がいるのは、イサクのところに来たのが軍事的な理由であることがわかります。
イサクは彼らに言った。「なぜ、あなたがたは私のところに来たのですか。あなたがたは私を憎んで、あなたがたのところから私を追い出したのに。」それで彼らは言った。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。それは、私たちがあなたに手出しをせず、ただ、あなたに良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように、あなたも私たちに害を加えないということです。あなたは今、主に祝福されています。」
アビメレクは、イサクと平和条約を結ぼうとしています。父アブラハムのときと同じですね。そして、その理由が、「主があなたとともにおられる」「あなたは、主に祝福されている」というものです。つまり、イサクは主の証し人になっていました。約束に踏みとどまるものは、主の証人になります。また、平和条約を結ぼうとしているのは、神の約束の実現ともいえます。主は、「あなたを祝福するものを私は祝福し、あなたをのろう者を私はのろう(12:3)」といわれました。アビメレクは、自分たちが祝福されるには、イサクを祝福する立場をとらなければいけないことを悟ったのです。
そこでイサクは彼らのために宴会を催し、彼らは飲んだり、食べたりした。翌朝早く、彼らは互いに契約を結んだ。イサクは彼らを送り出し、彼らは平和のうちに彼のところから去って行った。
イエスは言われました。「平和を作るものは幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)」
ちょうどその日、イサクのしもべたちが帰って来て、彼らが掘り当てた井戸のことについて彼に告げて言った。「私どもは水を見つけました。」そこで彼は、その井戸をシブアと呼んだ。それゆえ、その町の名は、今日に至るまで、ベエル・シェバという。
シブアあるいはシェバは「誓い」という意味です。つまり、ベエル・シェバは「誓いの井戸」ということです。
2C 世の仲間 34−35
ところが、イサクの家族に一大重大事件が始まります。まず、その事件の背景が書かれています。
エサウは四十歳になって、ヘテ人ベエリの娘エフディテとヘテ人エロンの娘バセマテとを妻にめとった。彼女たちはイサクとリベカにとって悩みの種となった。
どの妻をめとるかは、神の約束を相続するものにとって非常に重要な事です。なぜなら、その約束は、「子孫」によって実現されるものだからです。それなのに、神のことを何も知らない、いや、知ろうともしない人を妻にめとることは、神にたいする冒涜のなにものでもありません。エサウは、このように神に無関心な俗悪なものでした。
3A みこころの確かさ 27
ですから、イサクは、このことをよく考えるべきでした。確かに、自然の法に従えば、長男のエサウが祝福を受け継ぐことになります。しかし、神の約束を信じる者だけが相続人になる資格があるので。イサク自身も、井戸についての争いによって信仰が建て上げられ、アブラハムの相続を受け継ぐものとされました。それに、何よりも、神はリベカに、「兄が弟に仕える。」と告げられていたのです。そのみことばだけでも、イサクはヤコブが神に選ばれた子であることを悟るべきでした。ところが、彼は、とんでもないことをしでかしました。
1B ヤコブへの愛 129
1C イサクの反対 1−4
イサクは年をとり、視力が衰えてよく見えなくなったとき、長男のエサウを呼び寄せて彼に「息子よ。」と言った。すると彼は、「はい。ここにいます。」と答えた。イサクは言った。「見なさい。私は年老いて、いつ死ぬかわからない。だから今、おまえの道具の矢筒と弓を取って、野に出て行き、私のために獲物をしとめて来てくれないか。そして私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て私に食べさせておくれ。私が死ぬ前に、私自身が、おまえを祝福できるために。」
イサクは、肉の欲のために神の祝福を台無しにしようとしています。故意に神のみこころに反抗しています。おそらく、リベカに語られた主の仰せを信じなかったのかもしれません。ならば、自分が祈って、祝福を与える子について主に伺いを立てるべきでした。それをせずに、自分の気分に従っています。
2C リベカの対処 5−17
リベカは、イサクがその子エサウに話しているのを聞いていた。それでエサウが獲物をしとめて来るために、野に出かけたとき、リベカはその子ヤコブにこう言った。「いま私は、父上が、あなたの兄エサウにこう言っておられるのを聞きました。『獲物をとって来て、私においしい料理を作り、私に食べさせてくれ。私が死ぬ前に、主の前でおまえを祝福したいのだ。』
それで今、わが子よ。私があなたに命じることを、よく聞きなさい。さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎ二頭を私のところに取っておいで。私はそれで父上のお好きなおいしい料理を作りましょう。あなたが父上のところに持って行けば、召し上がって、死なれる前にあなたを祝福してくださるでしょう。」
リベカは事の重大性にすぐ気付きました。そして、すばやくその問題に対処する方法を考え出しました。ヤコブがエサウのふりをして、イサクから祝福をいただくというものです。ここから、リベカは人を欺く罪を犯している、と考えるかもしれません。私はその評価は単純すぎると感じています。家を治めるべきイサクが神に重大な罪を犯しているので、リベカがこういう計画を立てるのを、神がゆるされたのではないかと思います。もちろん、リベカにも神が約束を実現されることを待たなかったという責任はあります。自分が介入しなくても、神がして下さると信じるべきでした。しかしながら、イサクの罪がここでスクープされていると見るほうが大切です。なぜなら、「兄が弟に仕える。」という神の選びの計画があったからです。
しかし、ヤコブは、その母リベカに言った。「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私のはだは、なめらかです。もしや、父上が私にさわるなら、私にからかわれたと思われるでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになるでしょう。」母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」リベカは、母親の権威でもってヤコブに命令しています。
それでヤコブは行って、取って、母のところに来た。母は父の好むおいしい料理をこしらえた。それからリベカは、家の中で自分の手もとにあった兄エサウの晴れ着を取って来て、それを弟ヤコブに着せてやり、また、子やぎの毛皮を、彼の手と首のなめらかなところにかぶせてやった。そうして、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブの手に渡した。
リベカは、機敏に動いています。エリエゼルにあったときも、彼女はすばやく井戸から水を汲んで、彼とらくだに水を与えていましたね。
3C ヤコブの実行 18−29
次に、ヤコブが実行に移します。ヤコブは父のところに行き、「お父さん。」と言った。イサクは、「おお、わが子よ。だれだね、おまえは。」と尋ねた。ヤコブは父に、「私は長男のエサウです。私はあなたが言われたとおりにしました。さあ、起きてすわり、私の獲物を召し上がってください。ご自身で私を祝福してくださるために。」と答えた。
ヤコブがふりしぼってエサウの声の真似をしているのが聞こえてきそうです。
イサクは、その子に言った。「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね。わが子よ。」すると彼は答えた。「あなたの神、主が私のために、そうさせてくださったのです。」
明らかに、嘘をついています。しかし、また、ここではそれが大きな問題ではありません。遊女ラハブのことを思い出して下さい。彼女は、イスラエルのスパイをかくまうために嘘をつきました。そのかくまったことは、新約聖書で信仰によるものだと評価されています(ヘブル11:312)。ヤコブもリベカも、その問題は嘘をついたということではなくて、神の約束を神が実行されることを待たなかったという事実です。しかし、ヤコブが祝福を受けるのは神のみこころにかなった事であり、それにはむかっていたのはイサクなのです。
そこでイサクはヤコブに言った。「近くに寄ってくれ。わが子よ。私は、おまえがほんとうにわが子エサウであるかどうか、おまえにさわってみたい。」ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼にさわり、そして言った。「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。」ヤコブの手が、兄エサウの手のように毛深かったので、イサクには見分けがつかなかった。それでイサクは彼を祝福しようとしたが「ほんとうにおまえは、わが子エサウだね。」と尋ねた。すると答えた。「私です。」
ヤコブも自分の声だけは隠す事が出来ませんでした。それで、イサクは少し疑っています。でも、ヤコブは自分がエサウだと主張しました。
そこでイサクは言った。「私のところに持って来なさい。私自身がおまえを祝福するために、わが子の獲物を食べたいものだ。」そこでヤコブが持って来ると、イサクはそれを食べた。またぶどう酒を持って来ると、それも飲んだ。父イサクはヤコブに、「わが子よ。近寄って私に口づけしてくれ。」と言ったので、ヤコブは近づいて、彼に口づけした。イサクは、ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福して言った。「ああ、わが子のかおり。主が祝福された野のかおりのようだ。神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒をお与えになるように。国々の民はおまえに仕え、国民はおまえを伏し拝み、おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子らがおまえを伏し拝むように。おまえをのろう者はのろわれ、おまえを祝福する者は祝福されるように。」
見てください。これは明らかに主のみ言葉に対する反抗です。リベカに語られた主の言葉と、アブラハムに語られた主のことばを引用していますが、ヤコブがエサウに仕えるように祝福しています。しかし、面白い事に、彼が主のみこころを変えようとした試みは、みごとに打ち砕かれています。エサウだと思って祝福した事が、ヤコブを祝福していたのです。ヘブル書11章では、「信仰によって、イサクは未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。(20章)」と書いてあります。神の選びの計画は、人の計らいによって変えることは出来ないのです。預言者マラキは、「私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」という主のみことばを告げました(ローマ9:13)。
2B エサウへの憎しみ 30−46
次は、神がエサウを退けられた出来事が記されています。
1C エサウの悲しみ 30−40
イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くか行かないうちに、兄のエサウが猟から帰って来た。ぎりぎりセーフです。彼もまた、おいしい料理をこしらえて、父のところに持って来た。そして父に言った。「お父さんは起きて、子どもの獲物を召し上がることができます。あなたご自身が私を祝福してくださるために。」すると父イサクは彼に尋ねた。「おまえはだれだ。」彼は答えた。「私はあなたの子、長男のエサウです。」
イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」
イサクは自分の与えた祝福が変更されることのない堅い契約である事を知っていました。当時の相続の契約は、こうして口によるものだったのです。今でいうなら、結婚式の牧師のことばとでもいいましょうか。
エサウは父のことばを聞くと、大声で泣き叫び、ひどく痛み悲しんで父に言った。「私を、お父さん、私も祝福してください。」
父は言った。「おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえの祝福を横取りしてしまったのだ。」
エサウは言った。「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。いや、究極的に押しのけられたのは神ご自身です。長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった。」また言った。「あなたは私のために祝福を残してはおかれなかったのですか。」
イサクは答えてエサウに言った。「ああ、私は彼をおまえの主とし、彼のすべての兄弟を、しもべとして彼に与えた。また穀物と新しいぶどう酒で彼を養うようにした。それで、わが子よ。おまえのために、私はいったい何ができようか。」
エサウは父に言った。「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。」エサウは声をあげて泣いた。
エサウは悲しんで、泣き叫びました。しかし、その叫びは聞かれませんでした。何故でしょうか。彼が悲しんだのは祝福が自分に与えられない、ということで悲しみました。自分が神に対して罪を犯したことを、また、自分が今まで神を無視しつづけたことを悲しんでいません。彼が欲しかったのは、神のいない祝福です。物質的な祝福です。そして、その悲しみは悔い改めとは違っていました。これを聖書は、「死をもたらす世の悲しみ(2コリント7:11参照)」と呼んでいます。自分が何か悪い事をしてしまった時、悲しみが訪れます。そのときに、本当に神に対して罪を犯したという認識を持っているでしょうか。自分が嫌悪感に陥ったり、他人に危害を与えたり、また自分自身が大変な事態に陥った事を悲しんでいるかもしれませんか、究極的に生ける神に対して罪を犯したという認識を持っているでしょうか。その認識を持った時に悔い改めが始まり、悔いのない救いをもたらします。逆に罪を犯した結果のみを悲しんでいるのであれば、赦しも恵みも与えられていないのです。ヘブル書に、エサウの生涯のまとめがかかれています。「また、不品行なものや、一杯の食物と引き換えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪なものがないようにしまさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思いましたが、退けられました。涙を流して求めても、彼にはこころを変えてもらう余地がありませんでした。(12:16−17)」
父イサクは答えて彼に言った。「見よ。おまえの住む所では、地は肥えることなく、上から天の露もない。おまえはおのれの剣によって生き、おまえの弟に仕えることになる。おまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを自分の首から解き捨てるであろう。」
この預言は、エサウ自身には成就していませんが、エサウの子孫であるエドム人において成就しています。こうして、神はエサウを退かれました。
2C リベカの対処 41−46
エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」兄エサウの言ったことがリベカに伝えられると、彼女は使いをやり、弟ヤコブを呼び寄せて言った。「よく聞きなさい。兄さんのエサウはあなたを殺してうっぷんを晴らそうとしています。だからわが子よ。今、私の言うことを聞いて、すぐ立って、カランへ、私の兄ラバンのところへ逃げなさい。リベカの生まれ故郷です。兄さんの憤りがおさまるまで、しばらくラバンのところにとどまっていなさい。兄さんの怒りがおさまり、あなたが兄さんにしたことを兄さんが忘れるようになったとき、私は使いをやり、あなたをそこから呼び戻しましょう。一日のうちに、あなたがたふたりを失うことなど、どうして私にできましょう。」
リベカは、再びこの危機的な事態を対処しようとしています。ヤコブを、しばらくの間、兄ラバンのもとに送るという計画です。ところが、これは、彼女の予期せぬ方向に流れました。ヤコブはラバンのところに行きますが、彼が戻ってこないうちに、リベカは天に召されたのです。リベカは、ヤコブが祝福を受けるようにした事で、大きな代償を払いました。そして、リベカはイサクにあった根本的な問題を咎めています。
リベカはイサクに言った。「私はヘテ人の娘たちのことで、生きているのがいやになりました。もしヤコブが、この地の娘たちで、このようなヘテ人の娘たちのうちから妻をめとったなら、私は何のために生きることになるのでしょう。」
リベカの生涯を思い出して下さい。何も知らない遠い所に、ただ神の約束を信じてイサクの妻になりました。そして、双子をみごもった時に神のみ声を聞きました。彼女は、このことのために生涯をささげました。それをめちゃくちゃにしょうとしていたのが、イサクです。イサクは、ここで目覚めたのではないでしょうか。自分が約束の祝福をいただいていた事に安住していた。神は、ベエル・シャバで確かに、「あなたの子孫を増し加えよう」と仰っていた。なのに、私は子孫のことを侮っていた、と。このような形で、彼は悔い改めに導かれたのです。
4A 約束の確認 28
そこで、28章に続きます。27章では神のみこころが、人の反抗にあっても必ず成し遂げられる事を見ました。ここでは、アブラハムからイサクに受け継がれた約束が、ヤコブに受け継がれることが確認されます。
1B イサクによる確認 1−9
1C めとるべき妻 1−5
イサクはヤコブを呼び寄せ、彼を祝福し、そして彼に命じて言った。悔い改めたイサクは、ヤコブへの祝福を確認します。「カナンの娘たちの中から妻をめとってはならない。さあ、立って、パダン・アラムの、おまえの母の父ベトエルの家に行き、そこで母の兄ラバンの娘たちの中から妻をめとりなさい。
父アブラハムが命じた事と、おなじような命令ですね。アブラハムは、イサクがカナン人の妻をめとってはならず、親戚のナホムの家からめとりなさいと命じました。ただ違うのは、ヤコブ自身がカナン人の地を出ている事です。イサクはその地にとどまるようにされましたが、ヤコブは出て行くようになっています。イサクには子としての身分があらわれているなら、ヤコブには、主に仕える事、奉仕についてあらわれています。主の約束を信じて、その約束に基づいて動いていくヤコブは、私たちが主に仕えてる姿をあらわしています。そして、次に、この命令に従うことにともなう祝福が列挙されています。
全能の神がおまえを祝福し、多くの子どもを与え、おまえをふえさせてくださるように。そして、おまえが多くの民のつどいとなるように。
これは、神がアブラハムに言われた「大いなる国民となる」という約束と同じです。神はアブラハムの祝福を、おまえと、おまえとともにいるおまえの子孫とに授け、神がアブラハムに下さった地、おまえがいま寄留しているこの地を継がせてくださるように。」ヤコブに対する神の祝福を、イサクは確信を持って宣言しました。こうしてイサクはヤコブを送り出した。彼はパダン・アラムへ行って、ヤコブとエサウの母リベカの兄、アラム人ベトエルの子ラバンのところに行った。
ヤコブは、イサクの命令に従いました。
2C むなしい努力 6−9
再び、エサウの話に戻ります。エサウは、イサクがヤコブを祝福し、彼をパダン・アラムに送り出して、そこから妻をめとるように、彼を祝福して彼に命じ、カナンの娘たちから妻をめとってはならないと言ったこと、またヤコブが、父と母の言うことに聞き従ってパダン・アラムへ行ったことに気づいた。エサウはまた、カナンの娘たちが父イサクの気に入らないのに気づいた。それでエサウはイシュマエルのところに行き、今ある妻たちのほかに、アブラハムの子イシュマエルの娘で、ネバヨテの妹マハラテを妻としてめとった。
ここに、エサウのむなしい努力が書かれています。彼は、両親に気に入ってもらいたいがために、アブラハムの子イシュマルの親戚から妻をめとりました。神のみことばをまったく聞く事をしないので、実に的外れな事をしているのです。イシュマエルは、自分と同じように神が退かれた人物です。肉によればアブラハムの子ですが、約束にしたがえばそうではありません。
2B キリストによる保証 10−22
ヤコブはベエル・シェバを立って、カランへと旅立った。
さあ、ここからヤコブの信仰の旅が始まります。アブラハムでもイサクでもそうでしたが、信仰の本格的な歩みを開始する時に必ず起こるのは、主の現れです。ヤコブもそれを経験します。
1C 夢 10−15
ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。
彼は、独りだけのさびしい旅を開始しました。持っているものは何もなく、泊まるべき宿もなく、彼はこの夜をどう過ごしたのでしょうか。家族の中で起こった騒動を経験して、兄エサウが自分を殺したいと思っているんです。神がおられるとかそのような雰囲気は何もなく、むしろ、神が離れてしまっているのではないか、という感じさえ受けたかもしれません。アブラハムがカナンの地についたときを思い出します。何も注目にあたいするような事は起こらず、ただ、カナン人が住んでいるのを見ただけでした。そのような、もしかしたら落胆してしまうとき、失望してしまう時に主が彼に現れてくださったのです。ヤコブにも、似たような状況の時に主が現れてくださいます。
そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。
ものすごい光景です。天と地を結ぶはしごが掛けられていました。そして、御使いがそのはしごを上り下りしています。しかも、その上に主ご自身が現れて下さっています。私たちの主イエス・キリストです。霊的世界では、実はこのことがヤコブの寝ているところで起こっていたのです。天とは、むろん神が住んでおられるところです。そして、地とは、私たちのいる場所です。この天と地は大きく離れています。つまり、神と私たちは大きく離れているのです。アダムが罪を犯してから、全世界に罪が入りました。だれも、この神と人間を結ばせる仲介者がいませんでした。神は、アダムが罪を犯したあとにすぐ、「女の子孫」という仲介者を送られる事を約束されました。人々は、祭壇を築いて、羊の犠牲によって、その来るべき救い主、メシヤが来られる事を信じたのです。あの正しい人ヨブも叫びました。「神は私のように人間ではないから、私は「さあ、さばきの座に一緒に行こう」と申し入れる事は出来ない。私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはない。(ヨブ9:32,33)」人間には、はしごが必要でした。そのはしごが今、このように夢の中であらわれています。そして、そこに主ご自身が立っておられます。主は肉となって私たちの間に宿られた神であられました。この主によって、わたしたちはこの神に近づき、さわることもできたのです。ヨハネは言いました。「初めから在ったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手で触ったもの。(1ヨハネ1:51)」この方こそ、私たちのはしごであり、神と人との仲介者なのです。この約二千年後、イエスはナタナエルに語られました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは、今に見ます。(ヨハネ1:51)」主イエス・キリストは、肉をとられただけでなく、自分が祭壇のささげものになることによって仲介をされました。そして、アブラハム、イサク、ヤコブに約束された、祝福の「子孫」にもなってくださいました。この方こそ、すべての全てであり、永遠のいのちであります。主は、このような壮絶な霊的現実をヤコブにお見せになった後、厳粛な誓いを行われます。
「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。この子孫とはキリストのことです。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。
地のちりのようになる約束に加えて、それが地の果てまで広がる約束も与えられています。そして、地上のすべての民族をまずヤコブによって、つまりイスラエルによって、そして、子孫であるキリストによって祝福されます。今までにない、ものすごい祝福です。そして、主は、ヤコブ個人への約束へと移られます。
見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
ああ、なんとすばらしい約束でしょうか。主がともにおられて、決して見捨てません。主イエスは言われました。「わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:20)」「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。(ヘブル13:5)」
2C 誓願 16−22
次を見ましょう。ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。
彼は、主ご自身に出会ったことを認識しています。そして、彼はおそれおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
それだけでなく、自分は天への入り口にいた事を認識しました。主ご自身に出会う事、そして天の御国に自分が近づいている事、この祝福は、キリストにあるすべてのものに与えられています。皆さんは、この2つの確信をはっきりと持っているでしょうか。持っていなかったら、それは、主がおられない、天の御国は遠いということではありません。この栄光に輝く主はおられて、天の御国も近くにあるのです。だから、パウロはこう祈っています。「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊をあなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたのこころの目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられるのぞみがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光にとんだものか、・・・知ることが出来ますように。(エペソ1:17,18)」
翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。ヤコブはここを、自分がいつも思い出すよりどころにしようとしています。そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。ベテルとは、「神の家」という意味です。それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜わり、私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」
ヤコブは、この偉大な啓示によって、神が守ってくださる方、日々の必要を満たして下さる方、エホバなる方が自分の神となってくださることを知りました。その認識にもとづいて、彼は自分の物の十分の一を神にささげる誓いを立てました。これから、ヤコブの労働が始まります。その奉仕は、この主との出会い、主の、みことばから始まるのです。私たちも、奉仕を考えるとき、この順番を忘れてはなりません。主の恵みをはっきり知ったときに、自ずと奉仕へと導かれます。福音も、この恵みが啓示されてから勢いよく広がりました。パウロはこう言っています。「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それを本当に理解した時以来、あなたがたの間でも見られるとおりのいきおいを持って、世界中で、実を結び広がりつづけています。(コロサイ1:6)」大事なのは、祝福の約束の理解です。
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