創世記2617-25節 「井戸からの水」

アウトライン

1A いのちの泉
2A 世の反対
3A 堅忍
4A 広い所

本文

 創世記26章を開いてください。私たちは創世記25章と26章を学びたいと思います。今は、2617節から25節までに注目したいと思います。

26:17 イサクはそこを去って、ゲラルの谷間に天幕を張り、そこに住んだ。26:18 イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った。それらはペリシテ人がアブラハムの死後、ふさいでいたものである。イサクは、父がそれらにつけていた名と同じ名をそれらにつけた。26:19 イサクのしもべたちが谷間を掘っているとき、そこに湧き水の出る井戸を見つけた。26:20 ところが、ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ。」と言って、イサクの羊飼いたちと争った。それで、イサクはその井戸の名をエセクと呼んだ。それは彼らがイサクと争ったからである。26:21 しもべたちは、もう一つの井戸を掘った。ところが、それについても彼らが争ったので、その名をシテナと呼んだ。26:22 イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」26:23 彼はそこからベエル・シェバに上った。26:24 主はその夜、彼に現われて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」26:25 イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべらは、そこに井戸を掘った。

 私たちは今、アブラハムからイサクの生涯の話に移りました。アブラハムが死に、そしてイサクからヤコブとエサウが生まれました。アブラハムの生涯が、信仰の歩みがその特徴であったのに対して、イサクは「約束の内にとどまる」ことがその役目でした。アブラハムがイサクのために嫁を与える時も、自分のしもべに対して、イサクをカナン人の地から出さずして、アブラハムの親戚から嫁をめとらなければいけないと言いました。

 そしてイサクの生涯を表しているのが、ここ26章です、イサクがアブラハムに与えられた約束を、彼なりの信仰の持ち方によって受け継いでいます。

 アブラハムは、今のイスラエルの南西部にあるペリシテ人の地に住んだことがありました。創世記2122節以降に書いてあります。その王アビメレクと将軍ピコルがやって来て、アブラハムの強さを知ってか、平和条約を結ぶようお願いしました。けれども、その時にアブラハムは、アビメレクの僕どもが奪い取った井戸のことで抗議しました。アビメレクは、そんな事実は知らなかったと言い、アブラハムはそこでこれが確かに彼の井戸であるこの誓いを立てさせました。それで、「誓いの井戸」という意味合いのある、「ベエル・シェバ」という名がそこに付けられました。

 アブラハムは、そこで祈っています。柳の木を植えて、永遠の神、主の御名によって祈った、とあります。それは、自分の子に起こることを予見して行なったことです。この井戸のことについて、平和がいつまでもあるようにという祈願を持っていました。再び、ペリシテ人が自分たちの井戸を取るであろうと見通していたからです。

1A いのちの泉
 イスラエルの地にとって、特にイスラエル南部のネゲブにとって、水は死活的な問題です。私たち日本人は、世界の中でも水が豊富な国なので実感が湧かないと思いますが、ちょうど断水になり、少ない水をいかに使うか苦心した時のことを考えていただければ想像がつくと思います。まず水を溜めますね。同じように、イスラエルには数多くの貯水槽があり、町の遺跡があるところには必ず、岩を削り取った貯水のための穴が残っています。

 そこで水というものは、まさに自分の命に関わることであることを彼らは知っています。水への渇きはまさに、魂そのものの渇きでもありました。ダビデがユダの荒野にいたとき、エン・ゲディの要害に隠れて、サウルの手から逃げていました。そこには死海に流れ落ちる川が流れており、それを求める鹿を多く見かけます。彼は、自分がエルサレムの神殿で神を礼拝できず、遠くに離れていることから、次のような詩篇を歌いました。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。(42:1-2」神を求める魂は、まさに水を求める体とそっくりだったのです。

 そのような貴重な水の中でも、自分を最高に潤すのは泉の水です。溜めてある、よどんだ水と比べて、泉は自分を癒し魂の疲れを取るだけでなく、豊かにさせます。去年イスラエルに行った時に、私は信じられないプールを見ました。その水はすべて泉の水だったのです!日本の塩素の臭いなど、もちろん何一つありません。水に入ると、底で自分の足をつつく小魚が泳いでいます。泉の水は自分を包み込み、満足させ、そして自分から溢れ出る豊かさを与えます。

 イサクもここで、一度、ゲラルに住むペリシテ人によって埋められた井戸を掘り起こしていたら、19節に、「湧き水の出る井戸を見つけた」とありますね。これがすごいことです。

 イエス様は、水を求めるサマリヤの女に対してこう言われました。「イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(ヨハネ4:13-14」外側から摂取する水は、自分の内側を満たすことはできません。けれども、イエス・キリストの与える水は、内側に泉ができるので、いつまでも自分を満たし、溢れ流れるようにするのだ。それが永遠の命へと至らせるのだ、と言われました。

 そして、仮庵の祭りの終わりの日に、こう大声で叫ばれました。「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38」これは、イスラエルの冬の時期に起こる洪水のことを表しています。イスラエルには、年中涸れている、「ワジ」と呼ばれる涸れ川がたくさんあります。けれども、その砂漠にも一度か二度、雨が降ることがあります。その雨は小降りではなく、一気に振り付け、さらに川も鉄砲水となって勢いよく流れてきます。これが、イエス様が、「あなたがわたしを信じれば、心の奥底からそのようになるのだよ。」と言っておられるのです。

 すべてが内側からの変化なのです。外側の行ないを正すのではなく、内側が変わることによって外側に影響を与え、そして周囲にも影響を与えていきます。私たちは、常に外側を気にしています。周りの人々と共存していくために、調子を合わせて、角が立たないように行きます。けれども、それを行なっているといつか、心がワジのようにカラカラになってしまうのです。しかし、イエス様は私たちの内側を気にしておられます。私たちの内にあるものを変えたいと願っておられて、それで私たちがこの方に心を広げると、入ってきてくださるのです。

2A 世の反対
 ところでイサクは先ほど読んだ箇所で、父アブラハムの井戸をその土地の人々に埋められています。アブラハムは誓いを立たせてここを自分のものとしたのに、その土地の住民がむしろ、「自分たちの土地の井戸を奪うのではない!」と怒って、当然の権利であるかのように主張するのです。怒る権利のあるのはむしろイサクなのですが、かえってそのそしりを彼は受けています。

 それは、ここの箇所の前にイサクの富を彼らが妬んだことにあります。イサクが大いに神に祝福され、富んでいたので、彼らはイサクをゲラルの地から追い出したのです。そこで彼は、人々の住む山地ではなく、それを避けるようにして谷間に住んでいたのです。その谷間で掘り起こした井戸さえも、ペリシテ人は自分のものだとして争います。妬みは私たちの目をくらましてしまいます。

 私たちはこれを、イエス様と私たちとの関係で考えてみましょう。ヨハネ1章12節には、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。(ヨハネ1:12」とあります。私たちには、天地万物を造られた神の子供という大きな特権が与えられています。神のものを全て、私たちはキリストにあって相続するのです!そして、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5:17」すべてが新しくされました。

 けれども、新しく造られた私たちは、依然としてこの世の中に住んでいます。そのため、古いものが私たちに絡みつき、本当は神の子供とされた私たちの権利を主張させないようにするのです。罪の赦しを受けたのに、まるで罪に定められているかのような仕打ちを受けます。罪の力から開放されたのに、未だに罪の中に生きるように仕向けます。神の子供としての大きな権利を十分に享受させないようにします。ちょうど、イサクが井戸に対して権利があり、そこから潤いを得ているのに、そこに住んでいる者たちが「我々のものだ」と主張するのと同じようにするのです。

 興味深いことに、イサクはペリシテ人が奪い取ったその井戸を、「争う」という意味の「エセク」と名づけ、またもう一つの井戸を「敵意」という意味の「シテナ」と名づけていることです。この言葉はヘブル語の「サタン」という言葉と同根になっています。新しくされ、内側から泉を与えてくださっている神の命を、サタンは何とかして私たちの心から葬り去ろうと躍起になって働いています。

3A 堅忍
 このことに対するイサクの対応は、どのようなものだったでしょうか?彼は、その争いから避け、ひたすら井戸を掘っていったのです。それはあたかも、そのゲラルの者たちを無視するからのように掘っています。自分たちの命がこの井戸に掛かっているのをイサクは知っているからです。反対を受けたからといって、その作業をやめることはありませんでした。

 そこで私たちがイサクから学ぶことができるのは、「とどまる」ということなのです。それは、反対に遭ったとき、何をするかではなくひたすら、神から与えられた約束の中に踏みとどまっていることです。この神の約束にこそ、命の源泉があるからです。

 ペテロ第一の手紙に、悪魔が私たちを狙っていることが書かれています。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。(1ペテロ5:8-9」先ほど話したように、悪魔が何とかして私たちを滅ぼしてしまおうとしています。それに抵抗するのは、「堅く信仰に立っている」ということです。歩くのではなく、立つのです。自分が信じていることから揺り動かされることのないよう、踏みとどまっていることです。

 他にも、堅く立っていなさいという勧めは聖書全体の中で行なわれています。例えば、「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。(コロサイ2:6-7」イエス・キリストを心の中で主として受け入れてから、何をしなければならないのか?その勧めが、キリストの中に根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くすることです。そこから出てくる感謝に満たされなさい、という命令です。

 それでは具体的にどのようにすれば、立つことができるのでしょうか?今度は、土地の収穫の喩えで泉から湧き出る水と同じことを説明しているところを見てみましょう。マルコ4章を開いてください。3節から読みます。

4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。4:4 蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。4:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。4:6 しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。4:7 また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。4:8 また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」

 イエス様はこの喩えを、14節から説明しておられます。種は御言葉です。一つ目の道ばたに落ちた種は、心に少しも御言葉の影響がなかった、かたくなっている心を表しています。そして二つ目に注目してみましょう。16節から「同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです・・みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。(16-17節)」私たちが信仰にあって堅く立つというのは、困難や迫害が来ている時であっても御言葉を思い出し、それを自分のものであると受け入れ、しっかりと握っていることです。

 そして三つ目を見てください。18節からです、「もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです。・・みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。(18-19節)」ここでは、この世についての思い煩い、また富の惑わしがあっても、それではなく御言葉の約束に心を寄せて、それらの思いを退けることです。

 二つ目の、試練や困難についてはマイナス面ですね。生活がうまくいかない、病気になる、会社が倒産する、地震が起こる、などなど。そして三つ目の思い煩いと富はプラス面ですね。物事がうまくいくとき、問題が特に起こっていない時に、私たちは神の約束を忘れてしまいます。主が守ってくださることを忘れて、将来の保証について思い悩みます。不思議なことに、毎日の生活を生きるのに精一杯の人たちはむしろ希望を持っています。とくに問題が無いから悩むのです。

 これらのことから揺り動かされることなく、そのまま御言葉の約束を信じ、イエス様との交わりを保っていることが信仰を堅く持つことです。

4A 広い所
 そしてこのような信仰の格闘によって、イサクは、ついに反対のない所で井戸を掘り当てることができました。22節に書いてありますね、「レホボテ」というのは「広い所」という意味です。主は必ず、私たちを広い所に導いてくださいます。つまずきのない、平らな道です。「私の足は平らな所に立っています。私は、数々の集まりの中で、主をほめたたえましょう。(詩篇26:12」数々の試練の後に、あるいは誘惑の後に、主は必ず逃れの道というトンネルを取らせてくださり、そしてまた光を見せてくださいます。

 私たちはひたすら、井戸の中にある水を、キリストとの関係を深くし、根をはり、そこから栄養分を得るのです。イサクはこの後に、ゲラル地方から再びベエル・シェバに戻りました。そこで、主がイサクに語ってくださいました。24節で主が、「わたしはあなたの父アブラハムの神である」と言われます。神がアブラハムに良くしてくださったように、同じようにイサクにもしてくださいます。アブラハムに与えられた約束をイサクも享受することができました。

 私たちは、とかく「あの人は祝福されているけれども、それは私には当てはまらない。」と思います。「そんなことはないですよ。あなたも同じように祝福されることができるのですよ。」と言っても、「そりゃあ、祝福をされたからそんな風には思わない。」と思うでしょう。そんなことはないのです!誰でも、キリストを信じる者にはアブラハムと同じ祝福を受ける子孫として呼ばれています。どうか、しっかり約束の中にとどまっていてください。ただ信じてください。邪魔が入っても、それを振るいのけてください。神は必ず、イサクに対するのと同じように、もはや邪魔の入らない、広い所に導いてくださいます。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
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