創世記28−30章 「ヤコブの独り旅」
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創世記28章を開いてください。私たちは前回、イサクがエサウを祝福しようとしたところが、ヤコブがエサウに変装してその祝福を受けたところを読みました。そのために、エサウは、父が死んだ後にヤコブを殺そうと思いました。そのことを知った母リベカが、ヤコブに対し、自分の兄ラバンの所にとどまっていなさいと言いつけます。
そして、夫イサクに対しては、エサウがいかに自分たちの家に頭痛の種になっていたことを打ち明けます。「私はヘテ人の娘たちのことで、生きているのがいやになりました。もしヤコブが、この地の娘たちで、このようなヘテ人の娘たちのうちから妻をめとったなら、私は何のために生きることになるのでしょう。(27:46)」それで、イサクはようやく、これまでないがしろにしていた、この家にある霊的問題に取り組みます。
1A 母の故郷への旅 28
1B 父の祝福 1−9
28:1 イサクはヤコブを呼び寄せ、彼を祝福し、そして彼に命じて言った。「カナンの娘たちの中から妻をめとってはならない。28:2 さあ、立って、パダン・アラムの、おまえの母の父ベトエルの家に行き、そこで母の兄ラバンの娘たちの中から妻をめとりなさい。
覚えていますか、これはまさに父アブラハムが自分の僕に対して、イサクの嫁を探すときに命じて、誓わせたことです。長男のエサウはまさにこの過ちを犯していました。けれども、自分自身、そのような形でリベカを妻として得たという事実に彼は直面したのです。ここには神に対する愛のみならず、妻に対する愛も反映されています。
28:3 全能の神がおまえを祝福し、多くの子どもを与え、おまえをふえさせてくださるように。そして、おまえが多くの民のつどいとなるように。28:4 神はアブラハムの祝福を、おまえと、おまえとともにいるおまえの子孫とに授け、神がアブラハムに下さった地、おまえがいま寄留しているこの地を継がせてくださるように。」
これも、父アブラハムが受けた祝福と同じです。イサク自身、これを継承していていました。これを今、エサウではなくヤコブに与えています。子孫が繁栄すること、そして強い国となること、それからメシヤ、キリストが出てきて、この地を受け継ぐようになること、です。
28:5 こうしてイサクはヤコブを送り出した。彼はパダン・アラムへ行って、ヤコブとエサウの母リベカの兄、アラム人ベトエルの子ラバンのところに行った。
「アラム」というのは、シリヤの古代名です。パダン・アラムは今のシリアの北部に位置し、ユーフラテス川の上流地域にあります。かつて、アブラハムが父テラと一時滞在していた、カラン(あるいはハラン)の町がある地域です。
28:6 エサウは、イサクがヤコブを祝福し、彼をパダン・アラムに送り出して、そこから妻をめとるように、彼を祝福して彼に命じ、カナンの娘たちから妻をめとってはならないと言ったこと、28:7 またヤコブが、父と母の言うことに聞き従ってパダン・アラムへ行ったことに気づいた。28:8 エサウはまた、カナンの娘たちが父イサクの気に入らないのに気づいた。28:9 それでエサウはイシュマエルのところに行き、今ある妻たちのほかに、アブラハムの子イシュマエルの娘で、ネバヨテの妹マハラテを妻としてめとった。
エサウは、自分なりに父また母を喜ばせようとしました。(ここではカナンの娘、とありますが、ヘテ人など、その地域に住む人々は総称として「カナン人」と呼ばれます。)ヘテ人ではなく、イサクの兄イシュマエルの娘であれば、父を喜ばせることができると思ったのです。
けれども、果たしてそうでしょうか?霊的に考えれば、イシュマエルはアブラハムの肉の努力による子であり、神の前では彼の跡継ぎの子として数えられていません。ヤコブが親戚のところでお嫁さん探ししたのとは話が違うのです。ここに、エサウがこの世の人であり、霊的な事柄について全く知識がないことが表れています。
御霊に関することは、ちょうどラジオの電波の受信のようなもので、周波数が外れればどんな努力をしても音が聞こえてくることができないのと同じです。エサウがしなければならなかったのは、父を喜ばすのではなく、神を喜ばせることを考えることでした。
私たちがある人に伝道をしていました。その人は私たちがしたことでとても感謝していました。私たちがイエス様を受け入れなければいけないことをたくさん話したので、その次に会ったときに、彼は自宅にイエス様の絵が描いてあるものを用意していたのです。私たちがそれで喜ぶでしょうか?違いますね。彼自身が神を、キリストを認めることが私たちを喜ばせます。けれども、自分自身はそれが分からず、私たちがイエス様の絵を見れば喜ぶと思っていたのです。
2B 天の梯子 10−22
28:10 ヤコブはベエル・シェバを立って、カランへと旅立った。
ベエル・シェバは、イサクが井戸を掘って住み着いた所でしたね。彼らはそこにずっと住んでいました。そこからカラン、つまりずっと北に向かって進みました。
28:11 ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。
ここはサマリヤの山地です。ベエル・シェバからユダヤの山地である、ヘブロン、ベツレヘム、エルサレムを越えて、しばらくするとサマリヤの山地になります。
28:12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。
第一礼拝でお話したように、この梯子は神が人に届くために立ててくださったものです。イエス様は、ご自分がその梯子であることをヨハネ1章でお語りになりました。私たちは今、自分たちのいる場で、そこに主をお迎えすれば主が降りてきてくださいます。
28:13 そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。
アブラハムへの神の約束、そしてイサクに受け継がれた約束が、今、ヤコブに受け継がれています。後に神はご自分のことを、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ばれます。それは、この約束の故です。
ヤコブにとっては驚きだったでしょう。今、兄エサウに憎まれて、殺意まで抱かれていて、たった一人、野宿しているこの場所で、主が、「あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。」と言われたのです。神は、私たちが失敗したと思っているその所で、私たちが苦しんでいるその所で、ご自分の祝福を注がれ、溢れ流してくださいます。
約束の内容をいつも思い出さなければいけません。それは、一つに土地についてです。ヤコブの子孫は、カナン人の地をすべて所有するようになります。ですから、これからの聖書の話がイスラエル人がこの地にどのように住んでいくようになるのか、そして彼らが神の裁きとしてこの地から引き抜かれてしまうのか、そして今、そして将来、イスラエルの子孫がどのようにその地に住むようになるのか、この経緯に注目しなければいけません。そのことによって、主が今、このアブラハム、イサク、ヤコブに対する約束にどのように関わっておられるかを眺めることができるからです。
そして、子孫が増え、広がっていきます。このことも、聖書の歴史におけるイスラエルの繁栄を見ることによって、神の約束の指標となります。あれだけの迫害と虐殺を通りながら、今、先進国の一つとしてイスラエル国が成り立っていることが、神の約束が無効になっていないことを知ることができます。
それから、すべての地上の民族が祝福されることですが、これは霊的に実現しています。ユダヤ人であるイエス・キリストが、世界中の民族に神の救いを与えてくださっています。
28:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
これは、神が最終的な約束だけでなく、その約束の実現を見るまでの間、守ってくださるという約束です。「共にいる」というのは、イエス様が弟子たちにあらゆる国民を弟子としなさいと命じられた時にも与えられた約束でした。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 (マタイ28:20)」主から与えられた使命を果たす時は、主がその使者に対してご臨在の約束を与えてくださるのです。主が行なわれることを行う時、必ず自分の力ではない、主ご自身の働きを見ることができます。
そして、「どこへ行っても、あなたを守り」とあります。ヤコブがこれからいろいろな危険に遭います。それらの悪から必ずヤコブを守る、という約束です。神は、神のことを行なう私たちにも同じように守りを与えてくださいます。そして「決して見捨てない」という約束です。私たちは神が遠くに感じるという信仰の試練が出てくるでしょう。けれども、実はそのような試練の時に主が自分を支えていてくださるのです。
28:16 ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。28:17 彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
ここに、ヤコブ自身の驚きが記されています。神がまずもって、おられないであろうと思われる所に、実におられた、という驚きです。私たちがヤコブと同じような出会いをしているでしょうか?自分の人生にとって、その分岐点に差し掛かったとき、自分の深い部分が揺り動かされるような経験をした時、また普段、何か空しいと感じていて真実を求めている時など、その時が、ヤコブと同じように、「ここが神の家だ」と言わしめる体験をすることができるのです。
28:18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。28:19 そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。
なんでもない石が主を思い出す記念となりました。このようにして、彼は主が現れてくださったことを決して忘れませんでした。同じように私たちは、主との出会いをいつまでも証ししていかなければいけません。それは他の人たちのため以上に、自分自身が戻っていける場所を持っているためです。
「ベテル」は「神の家」という意味です。今は、パレスチナ自治区首都のラマラの近くにベテルがあったのではないか、と言われています。
28:20 それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜わり、28:21 私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、28:22 私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」
ヤコブは、これからの旅において、それが主から出たものであることを知りました。それで十分の一を捧げる、と言っています。私たちはこのようにして、献身が必要です。自分の身を捧げる決意が、主がしてくださることへの応答として必要です。主は、私たちが生けるいけにえとして神の前にささげることを望んでおられます。そうすることによって初めて、主との歩みを開始することができるのです。
財産の十分の一を神にお返しするというのは、とても良い基準です。私たちが献金をささげる時も、十分の一を捧げるという目安にしていると、自分自身が教会の一部になり、神に属している者という意識が生まれます。もちろん、献金はその金額ではなく、態度です。喜んで捧げる人を神は愛されます。喜んでささげることのできる額を、それぞれが心に定めて捧げます。
2A 二人の妻 29
1B ラケルとの出会い 1−14
29:1 ヤコブは旅を続けて、東の人々の国へ行った。29:2 ふと彼が見ると、野に一つの井戸があった。そしてその井戸のかたわらに、三つの羊の群れが伏していた。その井戸から群れに水を飲ませることになっていたからである。その井戸の口の上にある石は大きかった。29:3 群れが全部そこに集められたとき、その石を井戸の口からころがして、羊に水を飲ませ、そうしてまた、その石を井戸の口のもとの所に戻すことになっていた。
ベテルからさかのぼって、ヤコブは今、アラム・ナハライムの地域に来ています。井戸に蓋がされていますが、それは砂埃やその他の不純物が入らないようにするためです。開け閉めの時にも埃が立ってしまうので、群れがすべて集まった時にだけ開けるようにしています。
29:4 ヤコブがその人たちに、「兄弟たちよ。あなたがたはどこの方ですか。」と尋ねると、彼らは、「私たちはカランの者です。」と答えた。29:5 それでヤコブは、「あなたがたはナホルの子ラバンをご存じですか。」と尋ねると、彼らは、「知っています。」と答えた。29:6 ヤコブはまた、彼らに尋ねた。「あの人は元気ですか。」すると彼らは、「元気です。ご覧なさい。あの人の娘ラケルが羊を連れて来ています。」と言った。
非常に興味深いですね、かつてアブラハムの僕が、イサクのためのお嫁さん捜しに来た時と同じようなことが起こっています。アブラハムの僕と同じように、ヤコブも井戸の所に来ました。そして僕はリベカに尋ねると、アブラハムの親戚であることがわかりました。ここでも、ヤコブの伯父ラバンのことを知っています。そして僕は祈っている時に、リベカがやってきましたが、ここでは話している時に、ラケル本人がやってきました。
29:7 ヤコブは言った。「ご覧なさい。日はまだ高いし、群れを集める時間でもありません。羊に水を飲ませて、また行って、群れをお飼いなさい。」29:8 すると彼らは言った。「全部の群れが集められるまでは、そうできないのです。集まったら、井戸の口から石をころがし、羊に水を飲ませるのです。」29:9 ヤコブがまだ彼らと話しているとき、ラケルが父の羊の群れを連れてやって来た。彼女は羊飼いであったからである。
ここが焦っていたのでしょう、ラケルと自分二人だけになりたかったのだと思います。
29:10 ヤコブが、自分の母の兄ラバンの娘ラケルと、母の兄ラバンの羊の群れを見ると、すぐ近寄って行って、井戸の口の上の石をころがし、母の兄ラバンの羊の群れに水を飲ませた。29:11 そうしてヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた。29:12 ヤコブが、自分は彼女の父の親類であり、リベカの子であることをラケルに告げたので、彼女は走って行って、父にそのことを告げた。
何人かの人で転がす重い石を彼は自分独りで転がし、そして水を飲ませました。そして口づけをしていますが、これは私たちの文化や習慣で言うなら握手のようなものです。今でも中東だけでなく世界のいろいろな地域では、男同士でも口づけをします。
29:13 ラバンは、妹の子ヤコブのことを聞くとすぐ、彼を迎えに走って行き、彼を抱いて、口づけした。そして彼を自分の家に連れて来た。ヤコブはラバンに、事の次第のすべてを話した。29:14 ラバンは彼に、「あなたはほんとうに私の骨肉です。」と言った。こうしてヤコブは彼のところに一か月滞在した。
ラバンも非常に嬉しかったでしょう。かつて、アブラハムの僕エリエゼルが来た時、同じようにして彼をお迎えし、そして自分の妹リベカを送り出しました。その息子が今、このようにやって来たのです。
けれども一ヶ月の間、滞在しています。これは次の節を読むと分かりますが、ラバンがヤコブに家畜を飼う仕事をさせていたからだです。ここが、エリエゼルのときと違います。彼はすぐにリベカを連れて出て行きました。ラバンはヤコブがよく働くので、ここに留まらせたのでしょう。母リベカは、「しばらくとどまっていて、事が収まったら戻ってきなさい。」と言ったのですが、ラバンの下で何と合計20年間、留まることになるのです。これはすべて、ラバンの貪りと欲望によるものです。
これからヤコブの生涯から私たちが学ぶことができるのは、「奉仕」ではないかと思います。アブラハムの生涯においては、「信仰」でした。イサクからは「約束のうちに留まる」ことでした。そしてヤコブは、「神に仕える」ことではないかと思います。
ヤコブは、その名のごとく手を出す人です。エサウが腹をすかせている時に長子の権利を売らせたことから始まり、イサクに対して自分がエサウと偽って祝福を自分のものにしたり、そして今、ラケルとの出会いで、自らの手で井戸の蓋をあけました。この手を出す力を、後に神が砕かれます。そして彼は真に祝福された者となります。
けれども、彼が自分の手を出している間、彼は祝福されていなかったということではありません。神が彼に約束されたように、主が彼と共にいてくださり、彼を守ってくださいます。そして祝福も与えてくださいます。このラバンの下にいたときでも、彼が守られていく姿を見ることができます。
2B レアとの結婚 15−30
29:15 そのとき、ラバンはヤコブに言った。「あなたが私の親類だからといって、ただで私に仕えることもなかろう。どういう報酬がほしいか、言ってください。」29:16 ラバンにはふたりの娘があった。姉の名はレア、妹の名はラケルであった。29:17 レアの目は弱々しかったが、ラケルは姿も顔だちも美しかった。29:18 ヤコブはラケルを愛していた。それで、「私はあなたの下の娘ラケルのために七年間あなたに仕えましょう。」と言った。29:19 するとラバンは、「娘を他人にやるよりは、あなたにあげるほうが良い。私のところにとどまっていなさい。」と言った。
嫁にもらうためには結納金が必要です。ラケルが好きになってしまったので、ヤコブは働くことで結納金を払うということにしました。
興味深いのは、姉レアがその目が弱々しかったのに対して、ラケルは見目麗しかったことです。この「弱々しい」というのが視力だという人がいますが、私は外見がここでは問題にされているのでそうでないと思います。これまで、イスラエル、エジプト、ヨルダンに行きましたが、そこにいるアラブ人とイスラエル人の女性の顔つきは、目が非常に大きくクッキリしていて、私たち東洋人が見れば、みな麗しく見えます。ちょうどアラビアン・ナイトに出てくる女性のような。おそらくラケルがそのような人だったのに対して、レアはそうではなかった、ということだと思います。
興味深いことに、族長の妻になる人はみなきれいな人でした。サラもそうですし、リベカもそうでした。そしてここではラケルもそうです。ここまでの話なら、麗しい信仰のストーリーになるのですが、これからめちゃくちゃなことが起こります!
29:20 ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた。
恋した人は誰でも分かりますね。七年間も数日です。
29:21 ヤコブはラバンに申し出た。「私の妻を下さい。期間も満了したのですから。私は彼女のところにはいりたいのです。」29:22 そこでラバンは、その所の人々をみな集めて祝宴を催した。29:23 夕方になって、ラバンはその娘レアをとり、彼女をヤコブのところに行かせたので、ヤコブは彼女のところにはいった。29:24 ラバンはまた、娘のレアに自分の女奴隷ジルパを彼女の女奴隷として与えた。
結婚式では、花嫁は顔に覆いをかけています。そして夜だと、今と違って明かりがありません。だからヤコブはレアだとは分からなかったのです。
29:25 朝になって、見ると、それはレアであった。それで彼はラバンに言った。「何ということを私になさったのですか。私があなたに仕えたのは、ラケルのためではなかったのですか。なぜ、私をだましたのですか。」29:26 ラバンは答えた。「われわれのところでは、長女より先に下の娘をとつがせるようなことはしないのです。29:27 それで、この婚礼の週を過ごしなさい。そうすれば、あの娘もあなたにあげましょう。その代わり、あなたはもう七年間、私に仕えなければなりません。」
何とヤコブは、無報酬で十四年間も働くことになります!ラバンは非常に狡猾です。ヤコブが働き者であること、ヤコブの働きによってラバンの家が栄えているのを彼は知っていました。それで、このようにして騙したのです。
興味深いのは、動機の違いこそあれ、ヤコブは自分が行なったことと同じ経験をしました。イサクがエサウだと思ってヤコブを祝福したように、ヤコブはラケルだと思ってレアと寝ました。エサウが、腹が空いたということをヤコブは利用して長子の権利を得ましたが、今度は、ヤコブがラケルが欲しいというのを利用して、ラバンは14年間の労働を手に入れました。
これを多くの人は、「ヤコブは自分のしたことの罰を受けているのだ。」と言います。けれども、事実は違います。この二人の女性によって、ヤコブはイスラエルの十二部族になる息子を生むことになります。また、ラバンにだまされましたが、最後は、ヤコブはラバンの家畜から非常に裕福になり、故郷に戻ることができました。
私は使徒パウロのことを思います。彼は、熱心で厳格なユダヤ教徒で、キリスト者を迫害していました。彼がイエス様を信じた後に、今度は、彼は同胞のユダヤ人から激しい迫害に遭いました。これを彼が過去に行なったことの報いと呼ぶでしょうか?いいえ、彼はむしろ、自分は迫害者であり、罪人の頭であるにも関わらず、神は大きな憐れみをもってその罪を赦してくださった、と言っています。そして、迫害するユダヤ人に対しては、福音に反対することへの神の報いを彼らは受けると宣言しました。迫害を、自分が過去に迫害したことの応報などと一切考えていなかったのです。
私たちはこのことを肝に銘じるべきです。私たちがたとえどんな悪を過去に行なったとしても、そしてその報いを今、受けているように感じても、主の目には異なります。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5:17)」主は、私たちに与えられている不利に思えるようなことさえも、神を愛する者には必ず益としてくださるのです。
29:28 ヤコブはそのようにした。すなわち、その婚礼の週を過ごした。それでラバンはその娘ラケルを彼に妻として与えた。29:29 ラバンは娘ラケルに、自分の女奴隷ビルハを彼女の女奴隷として与えた。29:30 ヤコブはこうして、ラケルのところにもはいった。ヤコブはレアよりも、実はラケルを愛していた。それで、もう七年間ラバンに仕えた。
これで、ヤコブはレアとラケルを自分の妻にすることになりました。モーセの律法によると、姉と妹を同時に自分の妻にしてはならないという掟があります(レビ18:18)。けれども、時はまだ律法が与えられる前でした。また一夫多妻制は旧約の時代は許容されています。けれども新約時代に、イエス様が、原初の結婚の目的は、アダムがエバに結ばれた一対一であることを言明されました。ですから当時、一夫多妻であっても罪ではありませんが、けれども神が一人の妻だけをお定めになった理由を、次に見ることができます。言わば、「出産競争」が起こったのです。
3B 息子の誕生 31−35
29:31 主はレアがきらわれているのをご覧になって、彼女の胎を開かれた。しかしラケルは不妊の女であった。
主は、不思議な方です。ヤコブがラケルのほうを愛しているのをご覧になって、それでレアに憐れみをかけてくださっています。そしてラケル自身は、かつてのサラ、リベカと同じく不妊です。
29:32 レアはみごもって、男の子を産み、その子をルベンと名づけた。それは彼女が、「主が私の悩みをご覧になった。今こそ夫は私を愛するであろう。」と言ったからである。29:33 彼女はまたみごもって、男の子を産み、「主は私がきらわれているのを聞かれて、この子をも私に授けてくださった。」と言って、その子をシメオンと名づけた。29:34 彼女はまたみごもって、男の子を産み、「今度こそ、夫は私に結びつくだろう。私が彼に三人の子を産んだのだから。」と言った。それゆえ、その子はレビと呼ばれた。29:35 彼女はまたみごもって、男の子を産み、「今度は主をほめたたえよう。」と言った。それゆえ、その子を彼女はユダと名づけた。それから彼女は子を産まなくなった。
いかがですか?レアがいかにヤコブの愛を出産によって獲得しようとしているかが、その息子たちの名前を見ると分かるでしょう。四人目の子ユダによって、彼女は満足しました。それで主も、それから子をしばらくお与えになりませんでした。主はとても優しい方です。
一夫多妻制が破綻しているのは、夫が複数の妻をまったく同じように愛することは不可能であること、けれども妻たちは自分以上にもっと寵愛を受けている女が入れば、とても心苦しくなることになります。エペソ書5章28節に、「そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。(エペソ5:28)」とあります。自分の体のように愛するなんて、たった一人の人でも大変です。二人の妻がいるとしたら、自分の体を二人分世話するのと等しいです。
けれども、これらの欠けた部分においても、神は主権をもってヤコブを祝福してくださっています。三人目のレビから出た子孫の中に、モーセとアロンがおり、アロンの子孫が祭司となっていきました。そして四人目のユダの子孫から後にダビデが出てきて、そしてダビデ家から王が出てきて、後にキリストご自身が現れます。私たちは「失敗したら、それで全てが終わり。」とがっかりすることが多いのですが、主はもっと心の広い方です。失敗をもご自分の栄光のために用いられます。
3A 神の祝福 30
1B 11人の息子 1−24
30:1 ラケルは自分がヤコブに子を産んでいないのを見て、姉を嫉妬し、ヤコブに言った。「私に子どもを下さい。でなければ、私は死んでしまいます。」30:2 ヤコブはラケルに怒りを燃やして言った。「私が神に代わることができようか。おまえの胎内に子を宿らせないのは神なのだ。」
私はこの会話を見て、何か自分と妻との会話に思えてしまいました。女性は、夫から自分の全てが守られることを求めます。けれども男性は理屈で答えます。
30:3 すると彼女は言った。「では、私のはしためのビルハがいます。彼女のところにはいり、彼女が私のひざの上に子を産むようにしてください。そうすれば私が彼女によって子どもの母になれましょう。」30:4 ラケルは女奴隷ビルハを彼に妻として与えたので、ヤコブは彼女のところにはいった。
あれれ、かつてサラがアブラハムに要求したことを、ラケルがヤコブに対して行なってしまいました。サラがアブラハムに対して、自分の奴隷ハガルによって子を得たことだけで、お家騒動が起こってしまったのですが、ヤコブの家族はそれどころではありません。この後でレアも女奴隷によって子を生ませているのですから、もうしっちゃかめっちゃかです。
30:5 ビルハはみごもり、ヤコブに男の子を産んだ。30:6 そこでラケルは、「神は私をかばってくださり、私の声を聞き入れて、私に男の子を賜わった。」と言った。それゆえ、その子をダンと名づけた。30:7 ラケルの女奴隷ビルハは、またみごもって、ヤコブに二番目の男の子を産んだ。30:8 そこでラケルは、「私は姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った。」と言って、その子をナフタリと名づけた。
すごいですね「死に物狂いの争い」です!
30:9 さてレアは自分が子を産まなくなったのを見て、彼女の女奴隷ジルパをとって、ヤコブに妻として与えた。30:10 レアの女奴隷ジルパがヤコブに男の子を産んだとき、30:11 レアは、「幸運が来た。」と言って、その子をガドと名づけた。30:12 レアの女奴隷ジルパがヤコブに二番目の男の子を産んだとき、30:13 レアは、「なんとしあわせなこと。女たちは、私をしあわせ者と呼ぶでしょう。」と言って、その子をアシェルと名づけた。
レアも負けじと、自分の女奴隷を通して子をヤコブに生ませました。
30:14 さて、ルベンは麦刈りのころ、野に出て行って、恋なすびを見つけ、それを自分の母レアのところに持って来た。するとラケルはレアに、「どうか、あなたの息子の恋なすびを少し私に下さい。」と言った。
ルベンは、レアに与えられたヤコブの長男です。「恋なすび」は性欲促進剤として使われていたものですが、ラケルはヤコブとの関係においてそれを必要と思ったのでしょう。
30:15 レアはラケルに言った。「あなたは私の夫を取っても、まだ足りないのですか。私の息子の恋なすびもまた取り上げようとするのですか。」ラケルは答えた。「では、あなたの息子の恋なすびと引き替えに、今夜、あの人があなたといっしょに寝ればいいでしょう。」30:16 夕方になってヤコブが野から帰って来たとき、レアは彼を出迎えて言った。「私は、私の息子の恋なすびで、あなたをようやく手に入れたのですから、私のところに来なければなりません。」そこでその夜、ヤコブはレアと寝た。
レアは、ヤコブと寝ることが少なかったようです。それで、このような取り引きをするにまで至りました。
30:17 神はレアの願いを聞かれたので、彼女はみごもって、ヤコブに五番目の男の子を産んだ。30:18 そこでレアは、「私が、女奴隷を夫に与えたので、神は私に報酬を下さった。」と言って、その子をイッサカルと名づけた。30:19 レアがまたみごもり、ヤコブに六番目の男の子を産んだとき、30:20 レアは言った。「神は私に良い賜物を下さった。今度こそ夫は私を尊ぶだろう。私は彼に六人の子を産んだのだから。」そしてその子をゼブルンと名づけた。
主ははやり、レアを省みてくださっています、17節に「レアの願いを聞かれた」とありますね。
30:21 その後、レアは女の子を産み、その子をディナと名づけた。
ヤコブはディナの他にも娘たちを生んでいるのですが、名前が記されているのは彼女だけです。なぜなら、34章で彼女を巻き込んだ事件が起こるためで、前もってこの時点で彼女が生まれたことを記しています。
30:22 神はラケルを覚えておられた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた。
ここでようやく、主の、ラケルに対する御心が示されました。彼女は自分がずっと見放されていると思っていましたが、神には時があるのです。その時が来たら、主は必ず行ってくださいます。私たちには、待つという姿勢が必要です。
30:23 彼女はみごもって男の子を産んだ。そして「神は私の汚名を取り去ってくださった。」と言って、30:24 その子をヨセフと名づけ、「主がもうひとりの子を私に加えてくださるように。」と言った。
ヨセフは、後に主に用いられる大きな器となります。そして、主はこのラケルの願いを聞いてくださいます。けれども、男の子が産まれることによって彼女が死んでしまいました。その十二番目の子の名はベニヤミンと言います。
2B 多くの富 25−43
30:25 ラケルがヨセフを産んで後、ヤコブはラバンに言った。「私を去らせ、私の故郷の地へ帰らせてください。30:26 私の妻たちや子どもたちを私に与えて行かせてください。私は彼らのためにあなたに仕えてきたのです。あなたに仕えた私の働きはよくご存じです。」
すでに14年の月日が経ちました。それでもう故郷に帰らせてくれとラバンに頼んでいます。
30:27 ラバンは彼に言った。「もしあなたが私の願いをかなえてくれるのなら……。私はあなたのおかげで、主が私を祝福してくださったことを、まじないで知っている。」30:28 さらに言った。「あなたの望む報酬を申し出てくれ。私はそれを払おう。」
ヤコブは、熱心に働きました。主が彼と共におられて、彼の仕事を祝福されました。ラバンは、ヤコブには一切に報酬を与えていないので、すべてがラバンの財産になっています。ラバンは彼をさらせることは惜しいと考えたのです。
そしてラバンは、ヤハウェの神を知っていながら、まじないをしていたようです。けれども神は、そのまじないの中でも、ヤコブには主がおられ、それで自分がその祝福を得ていることを教えられました。
30:29 ヤコブは彼に言った。「私がどのようにあなたに仕え、また私がどのようにあなたの家畜を飼ったかは、あなたがよくご存じです。30:30 私が来る前には、わずかだったのが、ふえて多くなりました。それは、私の行く先で主があなたを祝福されたからです。いったい、いつになったら私も自分自身の家を持つことができましょう。」
ヤコブの切なる訴えでした。
30:31 彼は言った。「何をあなたにあげようか。」ヤコブは言った。「何も下さるには及びません。もし次のことを私にしてくださるなら、私は再びあなたの羊の群れを飼って、守りましょう。30:32 私はきょう、あなたの群れをみな見回りましょう。その中から、ぶち毛とまだら毛のもの全部、羊の中では黒毛のもの全部、やぎの中ではまだら毛とぶち毛のものを、取り出してください。そしてそれらを私の報酬としてください。30:33 後になってあなたが、私の報酬を見に来られたとき、私の正しさがあなたに証明されますように。やぎの中に、ぶち毛やまだら毛でないものや、羊の中で、黒毛でないものがあれば、それはみな、私が盗んだものとなるのです。」30:34 するとラバンは言った。「そうか。あなたの言うとおりになればいいな。」
ヤコブは、なんと今ある家畜を報酬として求めませんでした。これから産まれるやぎと羊の中で、やぎはぶち毛とまだら家、そして羊は黒毛のものを自分の財産とすればよい、と言っています。これらの種類が産まれるのは、非常に稀です。そこでラバンは、ヤコブが自らに課した不利な条件に満足したようです。
30:35 ラバンはその日、しま毛とまだら毛のある雄やぎと、ぶち毛とまだら毛の雌やぎ、いずれも身に白いところのあるもの、それに、羊の真黒のものを取り出して、自分の息子たちの手に渡した。30:36 そして、自分とヤコブとの間に三日の道のりの距離をおいた。ヤコブはラバンの残りの群れを飼っていた。
なんとラバンは、姑息な手段を使っています。息子たちに、ぶち毛とまだら毛、羊の黒いのを任せました。つまり、ヤコブが飼うラバンのやぎや羊には、ぶち毛、まだら毛のやぎ、黒毛の羊がいないのです。ですから、これらのやぎや羊が出てくる可能性は極めて低いものになります。けれども、次から神の逆転劇が始まります。
30:37 ヤコブは、ポプラや、アーモンドや、すずかけの木の若枝を取り、それの白い筋の皮をはいで、その若枝の白いところをむき出しにし、30:38 その皮をはいだ枝を、群れが水を飲みに来る水ため、すなわち水ぶねの中に、群れに差し向かいに置いた。それで群れは水を飲みに来るときに、さかりがついた。30:39 こうして、群れは枝の前でさかりがついて、しま毛のもの、ぶち毛のもの、まだら毛のものを産んだ。
ここに神が介在しておられます。31章12節に、ヤコブが夢の中で主の使いが語っておられる部分が出てきます。「すると御使いは言われた。『目を上げて見よ。群れにかかっている雄やぎはみな、しま毛のもの、ぶち毛のもの、まだら毛のものである。ラバンがあなたにしてきたことはみな、わたしが見た。」ヤコブは、皮の剥いだ若枝を水さしの所に置いておくという作業はしましたら、それでさかりのついた家畜が、しま毛のもの、ぶち毛のもの、まだら毛のものを産むという保証は全くないのです。むしろ、そうでない家畜だけしかいませんから、その可能性は極めて低いのです。けれども、主がそうしてくださいました。
30:40 ヤコブは羊を分けておき、その群れを、ラバンの群れのしま毛のものと、真黒いものとに向けておいた。こうして彼は自分自身のために、自分だけの群れをつくって、ラバンの群れといっしょにしなかった。
ラバンとの取り決めにしたがって、しま毛のもののやぎ、真黒の羊は自分のものになりますが、そうではない元々のやぎや白い羊はラバンのものなので、分けておきました。
30:41 そのうえ、強いものの群れがさかりがついたときには、いつもヤコブは群れの目の前に向けて、枝を水ぶねの中に置き、枝のところでつがわせた。30:42 しかし、群れが弱いときにはそれを置かなかった。こうして弱いのはラバンのものとなり、強いのはヤコブのものとなった。
ヤコブが行なっているのは、悪いことではありません。強い群れが交尾をし、繁殖してくれればよいのです。だから弱い群れには枝は置きませんでした。けれども、枝を差し出してさかりがつくのは、まだら毛のやぎ、真黒の羊ばかりが産まれたのです。それで、ラバンの群れは結果的に子を産まなくなり、ヤコブの群れだけが強く、増えていきました。
30:43 それで、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになった。
六年間のこの繁殖で、ヤコブは富む者となりました。14年間、なんと無償で働いたという仕打ちを受け、そして非常に不利な条件での仕事を行なったにも関わらず、非常に増えたのです。
ですから思い出してください、主は、「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(創世記28:15)」と言われていました。私たちは、主にあって始めたことは、ラバンのように反対に遭うことがあります。いや、世は主の働きに反対するのです。ですから、ヤコブのように不利な条件に陥ることが数多くありますが、主の働きはそのような制限に、制限されるような方ではありません。防波堤を易々と乗り越えた津波のように、主は、人間の妨げに対して易々と乗り越えて、ご自分の事を行なわれます。