創世記28章10-19節 「主がおられる所」
アウトライン
1A 石の枕
1B エサウからの逃亡
2B 荒地
2A 天に届く梯子
1B 御使い
2B 主ご自身
1C アブラハムへの約束
2C 旅の安全
3B 主イエスご自身
3A 神の家
1B 「この所」
2B ご臨在の意識を妨げるもの
1C 神理解の小ささ
2C 日常の忙しさ
3C 罪の生活
4C 霊的無気力
本文
創世記28章を開いてください。第二礼拝では28章から30章までの通読を行ないたいと思いますが、今は28章10節から19節までに注目したいと思います。
28:10 ヤコブはベエル・シェバを立って、カランへと旅立った。28:11 ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。
28:12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。28:13 そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。28:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
28:16 ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。28:17 彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」28:18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。28:19 そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。
1A 石の枕
1B エサウからの逃亡
ヤコブは劇的な神との出会いをしています。けれども、人間的に考えたら、神との出会いには全くそぐわない状況の中で出会いました。
前回の学びを思い出してください。イサクが自分の死期が近づいていると思って、ヤコブではなくエサウを祝福し、後を継がせようとしました。けれども、ヤコブが神の約束の継承者になることを神から教えられていたリベカは、息子ヤコブにエサウに変装して父から祝福を受けるよう言いつけます。それでヤコブは自分がエサウだと偽って、父から祝福を受けました。その後でエサウがすぐに猟から戻ってきました。けれども、もう祝福は残されていません。それでエサウはヤコブを恨みます。父が死んだら、ヤコブを殺そうと思いました。
そのことをリベカが知る所となりました。それでリベカは、自分の兄ラバンのいるところに行きなさいと言いつけます。またリベカは夫イサクに、エサウのヘテ人の妻のことで本当に困っていることを打ち明けます。そこで、イサクが改めてヤコブを祝福して、そして妻をリベカの故郷で見つけるべく、彼を遣わすのです。
大きなお家騒動が起こりました。そして突然、自分の住み慣れていた所を離れなければいけなくなりました。兄エサウからは非常に憎まれています。身の危険さえ感じています。そして、持ち物も杖一本(32:10)という、着の身着のままです。
2B 荒地
さらに今、彼がいるところはサマリヤの山地と呼ばれる、荒地です。後にここが「ベテル」という名前をヤコブ自身が名づけますが、今、そこはパレスチナ人の町になっており、岩がごつごつとした、草が多少生えているような所です。そこで、もう夜になったので野宿しなければいけませんでした。しかも、枕はそこにあった石です。どう考えても、そこに神がおられるとは考えにくいですね。
私たちが普通、「神を感じることができる」という時と場はどういうものでしょうか?場所であれば、美しいステンドグラスのある大聖堂なんか感じることができるかもしれませんね。すてきな人と出会ったら、その幸福感が神との出会いと勘違いするかもしれません。あるいは、すばらしい音響設備の中で、プロ顔負けの歌唱力を持った人が賛美の歌を披露している時、神がおられると感じられるかもしれません。
けれども、いかがでしょうか?そのすばらしい教会での集会から帰って来た後に、家に帰ってきたら、賞味期限を当に越えていた腐った生物を発見して、そのことで妻と口論になり、あまりにも激しく口論したため、家の外で自家用車の中で寝るとします。「あの、神のご臨在はどこにあるのでしょうか?」とたぶん、私なら嘆くことでしょう。あまりにも惨めな気持ちになり、自分が言ってしまったことを後悔し、妻のぬくもりもなく肌寒い車内で寝なければいけません!
けれども、そのような時にこそ、真に神に出会うことのできる機会が与えられているのです。表面的な、感情的な体験を神との出会いだと思っていたけれども、実は自分があまり考えていなかった普段の生活で起こっている事柄、分かっているけれども避けて通ってきた現実、そのようなものの中にイエス様を、主人としてお迎えする機会が生まれるのです。その時に神と出会えば、これから大きな試練が来ようとも揺り動かされることのない、かけがえのないものになります。
2A 天に届く梯子
ヤコブの場合は、ずっと家の中で両親に仕えていたので、その環境から出たという利点がありました。そして、今、たった独りになっています。それは孤独との葛藤であると同時に、単独でなければ会うことのできない神ご自身と会うことになります。
1B 御使い
具体的には、「天に届く梯子」という夢の中で主が現れます。天使がその上を、上がったり下がったりしています。そしてヤハウェなる神ご自身が、13節を見ますと彼の傍らにおられたのです。この方はおそらく、主の使い、ヤハウェの使いご自身であられるイエス・キリストでしょう。
覚えておられるでしょうか、同じように天に届くものを建てようとして、それを神が裁かれた事件、そうバベルの塔です。その時、彼らは、「地に満ちなさい」という神の命令に背いて、一つの平地に集まり、町を建て、そして天に届こうとして塔を建てました。さらに、神を押しのけて、自分たちの名が上がるように願ったのです。
私たちは快適な生活を願っています。そして、その先にある裕福な生活、安定した生活を願っています。そこにこそ幸せがあり、自分の向かうべき道があると思っています。けれども、それはバベルの塔なのです。真実な人生の意味はその先にはないのです。
むしろ、自分はこれまで触れたくもないこと、惨めな自分、苦しんでいる時のこと、そうした所で初めて人生の真相を見極めることができます。幸せになろうとして、これまで努力してきた何年もの努力が、一瞬にして、神のほうが梯子をかけてくださって、今の自分に近づいてくださるのです。
2B 主ご自身
1C アブラハムへの約束
そして主は、ヤコブに対して約束してくださいました。13節と14節に書いてあります。もう一度、読みます。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。」
いかがですか?ヤコブは確かに、アブラハムに与えられた約束を受け継ぎました。土地の所有の約束、そして子孫の繁栄の約束、そして何よりも全世界が祝福を受ける所のイエス・キリストの約束を神がヤコブに与えてくださったのです。
考えても見てください、ヤコブはちょっと前に、父イサクに対して自分はエサウだと偽ったばかりなのです。家の中が切り裂かれたのです。父が神の命令に反して、エサウを祝福しようとしたことが全ての間違いですが、それでも行なったことは弁解の使用がありません。このような時に、私たちは、「ついに神の約束を失ってしまった。」と思うのです。
けれども神は、決してそうではないことを教えるために、ヤコブとエサウがまだ母リベカの胎にいる時に、ヤコブを選んだことを示しておられたのです。ヤコブが何か行ないによって、神から救われるべき約束を得た、という可能性が一切ないようにしてくださったのです。
マラキ書には、神のこの愛を疑っている人々に対する言葉が載っています。「『わたしはあなたがたを愛している。』と主は仰せられる。あなたがたは言う。『どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。』と。『エサウはヤコブの兄ではなかったか。・・主の御告げ。・・わたしはヤコブを愛した。』(1:2)」この「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。」という言葉は神に仕える祭司たちが言った言葉です。不信者ではなく、すでに神を信じている者たちが言った言葉です。私たちも、神の愛を疑うことが多々あるのです。その時に神が、「ヤコブを愛した」と言われました。これは無条件の愛なのです。一方的に、私たちの行ないとは別に前もって、救うと選んでくださった愛なのです。
2C 旅の安全
そして神はヤコブに、これからの旅を守る約束も与えてくださっています。15節をもう一度読みましょう。「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」なんと素晴らしいことでしょうか、彼はアブラハムとイサクに与えられた神の約束を受けただけでなく、これからの道中の約束も与えられたのです。つまり、私たちキリスト者にとっては、永遠の命の約束を与えられたただけでなく、天に入るまでの、この地上における生活においても神が共にいて、守ってくださるという約束が与えられているのと同じです。主が共にいてくださいます、そして決してあなたを見捨てられません。
私たちはとかく、天に導きいれられる祝福は信仰者に与えられているが、この世での生活には与えられていないと思います。むしろこの世では惨めなのだと考えるのです。イエス様は、その考えを正しておられます。マルコ10章29,30節にこうあります。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」主は、私たちが失ったものを十分に埋めてくださる報いを、この世においても用意してくださっています。ですから、今、自分がしがみついているもの、主に従おうとしているけれども捨てるのをためらっている物を、勇気をもって捨てることが必要です。
3B 主イエスご自身
そして、イエス様はこの出来事の約1800年後に、弟子に対してこう語られました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。(ヨハネ1:51)」イエス様は、ヤコブのかたわらにいた主はご自身であり、かつ天のはしごそのものも、ご自分を表していたことを教えておられます。
つまり、どういうことでしょうか?天におられる神と、地上にいる人間との完全な架け橋になる、天を地につなぐ方がまさしくイエス・キリストだ、ということです。神と人との仲介者なのだ、ということです。
私たちが神のことを考える時、宇宙のはるかかなたにいる存在であると思ってしまうでしょう。そして、私たちの身近の生活には関わるにはあまりにも大きすぎる存在であり、ここには神は住んでおられないと思うでしょう。キリスト教の神は遠くに住んでいて、現世の神々は神社にいてくれるとも思っているかもしれません。
特に苦しみの中にいる時に、そう感じるでしょう。一切の財産と息子、娘を一気に失い、しまいに自分の体全身に皮膚病を患ったヨブは、「私たちふたりの家に手を置く仲裁者が私たちの間にはない。(9:33)」と言いました。この「ふたり」とは神と自分自身のことです。神と、今、苦しみもがいている自分の間に大きな隔たりがあると感じたのです。けれども、それをしっかり埋めてくださったのはイエス・キリストなのです。
イエス様が十字架につけられたのは、まさに人間の最も泥臭い、醜いところのど真ん中で起こった出来事でした。私たちは今でこそ、十字架をネックレスにして、そして十字架のキリストが美しい聖堂の像となっていて、ドラマの一場面でよく登場しますが、とんでもないことです。今、エルサレム旧市街の北側にある、キリストの墓として残っている「園の墓」は、主が十字架刑に処せられたゴルゴダの丘かもしれないと言われている所は、けたたましくクラクションが鳴り響くアラブ人バスの乗り場になっています。当時は、過越の祭りでしたから、雰囲気としてはこの喧騒の方が正しいのです。私たちがもっとも、神がここにはおられない、と感じるような所に、むしろ神が顕在しておられるのです。
3A 神の家
1B 「この所」
そこでヤコブは、驚きをもって夢から覚めた後にこう言っています。16節です、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」「この所」なのです。自分がまったく思いつきもしなかった、この場所に主がおられたのです。
そして、ここをヤコブは「神の家」と呼び、「天の門」と呼びました。自分の枕にしていた石にも、油を注ぎ、確かに主が自分にこのような形で会ってくださったことを記念しているのです。「ベテル」というのは「ベト・エル」で、「神の家」と言う意味です。
みなさんは、いかがですか?このような経験を持っているでしょうか?「私は、ここで神と出会ったのだ」という経験がおありでしょうか?私は、実家の自分の家の中です。大学生活で惨めな思いをし、冬休みに実家に戻り、クリスマス礼拝を出席した後で、自分の部屋で祈りました。今までの生活、人生がどうも歯車がかみ合っていないような、ずれを感じていました。そして、「神様、私は生まれた時からあなたを無視していました。」と祈ったのです。そうしたら頭の先から足のつま先まで自分を受け入れ、包んでくださる神の愛に満たされました。
皆さんが、「ここにこそ神がおられる」と思い込んでいる所から離れ、「ここには神はおられない」と思い込んでいる所で神に心を開いてみましょう。主は必ず、戸を開いてくださいます。「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示3:19-20)」
2B ご臨在の意識を妨げるもの
1C 神理解の小ささ
神のご臨在を妨げるものとして、考えられることを列挙したいと思います。一つは、「神理解の小ささ」です。神を自分の理解の中に閉じ込めて、小さくしてしまっていることです。自分が理解できないところには神はおられない、と思っています。当然、神は私たちの思いと考えをはるかに超えた考えをお持ちであり、その計画を示したいと願っておられます。けれども、私たちがその小さな理解の中でしか神を考えないので、神に出会えないのです。
2C 日常の忙しさ
次に、日常の忙しさがあります。「次にこれをしなければ、あれをしなければ」とあわただしく動いているために、「神のみこころのままに」という祈りができなくなります。神は、私たちの生活のすべての領域に介入されたいと願っています(ヤコブ4:13-15参照)。神のみこころを求めるために、立ち止まってください。
3C 罪の生活
そして、神の臨在を妨げるものは罪の習慣です。罪を犯していると、神との間に仕切りを作ってしまいます。神はおられるのですが、神との交わりを楽しめなくなります。けれども、罪を告白し、キリストの十字架にその罪を持っていき、その罪を捨てるのであれば、神の豊かな憐れみと、すべての罪を清めるキリストの血潮を体験することができます。
4C 霊的無気力
最後に、「霊的無気力」があります。教会生活、信仰生活に活気がなくなります。マンネリ化してきます。なぜなら、積極的に主を追い求めないからです。すべては受動的に与えられると思っています。心の奥底から叫んで、自分に今足りないものがありますと正直に主に訴える、その祈りが必要です。そこから、主があなたの心を取り扱ってくださり、主がおられることを感じ始めることができます。
以上のことを踏まえて、どうかヤコブのように、「ここに主がおられることを知らなかった」という感動を体験してください。