創世記32章24-31節 「人をびっこにさせる神」
アウトライン
本文
1A 肉との戦い
1B 世との戦い(ラバン)
2B 自分の弱み(エサウ)
2A 恐れがもたらすもの
1B 天使の陣営
2B 神の約束
3B あらゆる計画
3A 「できる」という問題
1B 格闘
2B 打たれたももつがい
3B ヤコブの泣き叫び
4B 神の祝福 「イスラエル」
アウトライン
私たちは明日の第二礼拝で創世記31章から33章までを学びます。今は、32章24節から31節に注目したいと思います。
32:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。32:25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。32:26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」32:29 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください。」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか。」と言って、その場で彼を祝福した。
32:30 そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。」という意味である。32:31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた。32:32 それゆえ、イスラエル人は、今日まで、もものつがいの上の腰の筋肉を食べない。あの人がヤコブのもものつがい、腰の筋肉を打ったからである。
アブラハムにとって彼の人生のクライマックスが、イサクを全焼のいけにえとしてささげなさいと神に命じられた場面ですが、ヤコブにとってはここの、神の使いとの格闘が彼の人生のクライマックスです。そして、ここから「イスラエル」が生まれました。ヤコブの名前がイスラエルに変わり、これがこの子孫の民族名また国の名前となったのです。
1A 肉との戦い
1B 世との戦い(ラバン)
ヤコブがラバンの家で、多くの家畜や奴隷を有して豊かになり、それで故郷に戻ることに決めました。けれども、ラバンはヤコブの群れに追いつき、彼を殺す意図を持っていました。けれども神が介在して、それを引き止められました。ヤコブとラバン、それはまさに「この世との確執」です。ヤコブにとってラバンは雇い主でしたが、あまりにも強欲で、狡猾な主人でした。その中においても彼を主が守ってくださり、そのような酷い仕打ちを受けたにも関わらず、多くの祝福の実をもたらしてくださいました。このことについては、32章で学びます。
2B 自分の弱み(エサウ)
けれども、ヤコブには自分の肉との確執がありました。ラバンについては、自分の内に非はありませんでした。もっぱらラバンが引き起こした問題によって悩まされていたのですが、エサウについては、彼は違います。彼は20年前、目の見えぬイサクがエサウを祝福しようとしたのに、ヤコブはエサウに変装して、自分がエサウだと偽りました。そのためにエサウがヤコブを殺そうと考えたのです。
ラバンの問題は自分の外側にあったのに対して、エサウの問題は自分の内側にありました。それは主に、恐れとの戦いでした。故郷に戻ることができて良かったのだが、そこには兄エサウがいる。彼との問題をどうすればよいのか、と悩んだのです。
使徒パウロはこれを「肉体の棘」と呼びました。ちょっと読んでみましょう、コリント第二12章7節から10節です。「また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」主があえて取り除かれない「棘」があります。私たちの弱さは、自分の力や知恵ではどうすることもできないことによって、かえって主に拠り頼むようになるのに必要なものなのです。
2A 恐れがもたらすもの
1B 天使の陣営
主は、ヤコブを初めから守ることを示してくださっていました。彼が故郷に帰る旅を始めましたが、32章を見ると、何と彼らに神の使いたちが現れました。それでヤコブは「ここは神の陣営だ」と言って、マハナイムと呼んでいます(2節)。
つまり、ヤコブはエサウと会うことに関して、エサウが危害を与えようとしたとしても、神が守ってくださることを示されたのでした。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ8:31)」
2B 神の約束
ところが彼は、恐れから解消されていません。前もって使いを送って、エサウに挨拶をしたのですが、エサウは400人を連れてこちらに来ている、とのことです。ここでヤコブは、神の陣営が味方していることを忘れ、恐れと心配に満たされ、それで行動に移しました。自分の家畜の群れを二つの宿営に分けて、エサウが一つの宿営を打っている間にもう一つの宿営が逃げることができる、と考えたのです。
そして彼は祈ります。かつて神がヤコブに、アブラハムとイサクへの約束を自分も与えてくださったこと、またこれまで神が恵みをくださったことを祈りの中で話しました。そして正直に、「私は恐れています。」と神に話しています。
3B あらゆる計画
けれどもヤコブには、大きな問題があります。彼は、自分でエサウに会うための対抗策や、対処法を自ら立ててしまうのです。彼は何と、エサウを宥めるためにいくつもの小さな群れを作ります。それぞれの群れを、時間の間隔を置いてエサウのところに送ります。贈り物としてエサウに与えるためです。一つだけの贈り物がだめなら、もう一つの贈り物を受けて、そして三つ目、四つ目と、少しずつ与えられたら、その怒りが鎮まるのではないかと願ったのです。
ヤコブの問題は「できてしまう」という問題です。私たちは、「できない」ことで悩みますよね。けれども、実はそれは幸いなことなのです。自分の弱さや不足した部分を見つけるとき、知らず知らずのうちに主に助けを呼び求めることができます。先ほど読んだ御言葉の通りに、「弱い時こそ強い」のです。
ところが、ある部分で自分に能力があると、せっかく主が働かれようとしているのに、自分自身で対処してしまい、それで主が働かれる機会が失われてしまいます。能力のある人ほど、かえって主の恵みの証しを持つことが難しいのです。
3A 「できる」という問題
1B 格闘
そして、ついに先ほど読んだ格闘場面が出てきます。ヤコブが神の使いとレスリングのように格闘しています。この方についてヤコブは、「私は顔と顔を合わせて神を見た(32:30)」と言っています。神ご自身と格闘していたのです。
彼は家族や家畜にヤボク川を渡らせて、そして独りになりました。祈っていたのでしょうか、彼はもがき始めました。神は「わたしがあなたを守るのだ。」という強い意志をもって臨まれましたが、けヤコブは、「私がどうしても自分で自分を守ります。」という意志を持っていました。これまで神の祝福を得るのに、ヤコブは自分の手を出して得てきました。そんなことをしなくても神は彼に祝福を与えられたのに、彼は手を出し続けたのです。
私たちには、生存するための強い意志を持っています。自分はそんなに強い意志を持っていないと言い、神の命令に対してしばしば、「いいえ、私は、それはできません。」と訴えます。いいえ、できないのではなく従っていないだけなのです。神の命令は、その神の意志に自分の思いと心をゆだねれば、神がその命令に従うための力を与えてくださいます。ところが、「できない」と言いながら、その委ねるという行為を行いません。実は、意固地になって神の意志に逆らっているだけなのです。
それで私たちは、ヤコブと同じような格闘の祈りを捧げることになります。私たちは時に、ヤコブと同じように、自分では対処することのできない状況の中に私たちを置かれます。そして、普段ならば自分の力や知恵で行なっていたその部分を、ご自分に委ねるように導かれるのです。
2B 打たれたももつがい
そして、神の使いは「ヤコブに勝てないのを見てとった」とあります。言い換えれば、神は、ヤコブが自発的に自分の意志をご自分に委ねるように促していたことを表しています。神が力においてヤコブに劣っていた、ということではありません。
その証拠に、彼の太ももの間接を外します。もう身動きができないようになりました。エサウに会いたくなくても、追いつかれても、物理的に逃げられなくなりました。神は、ヤコブがあまりにもエサウから逃げようとする意志が強いので、物理的に身体に障害を与えるしか他なかったのです。
神は私たちを愛しておられます。ですから、半強制的に何かを行なわせることは最も喜ばれません。けれども私たちがとことんまで自分の意志を貫こうとするなら、神はやむを得ずヤコブに対して行なわれたように、物理的に動けなくすることさえあるのです。そのようにならなくても、自分の自発的意志で従えば何の問題もないのです。覚えていますか、預言者ヨナがそうでした。彼はそのままニネベに行けばよかったのに、大魚の中でもがき苦しまなければならなかったのです。結果は、ニネベに行くという同じものでしたが、辛い方法で従うかどうかの違いです。
3B ヤコブの泣き叫び
そして26節に注目してください、「するとその人は言った。『わたしを去らせよ。夜が明けるから。』しかし、ヤコブは答えた。『私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。』」この文面だけ読みますと、まるでヤコブが要求しているように聞こえます。けれども、ホセア書にはヤコブの声が載っています。「彼は御使いと格闘して勝ったが、泣いて、これに願った。(12:4)」彼は泣いていたのです。したがって、ここではヤコブは要求しているのではなく、嘆願していたのです。彼は今、自分の能力や知恵で物事を処理することができなくなり、ただ泣いて、憐れみをすがることしかできなくなったのです。
私たちが主との出会いをするのであれば、その状態になることが必要です。自分の内にもはや頼るべき力がないことを知り、ただ神の救いだけを求めることが必要です。詩篇には、そのような状態、救いは神にしかない状態を「穴」と呼んでいます。「主、私の救いの神。私は昼は、叫び、夜は、あなたの御前にいます。私の祈りがあなたの御前に届きますように。どうか、あなたの耳を私の叫びに傾けてください。私のたましいは、悩みに満ち、私のいのちは、よみに触れていますから。私は穴に下る者とともに数えられ、力のない者のようになっています。(88:1-4)」自分を穴から出すことの出来る人は、穴の中にいない人だけです。つまり同じ人間が自分を救うことはできず、ただ神が自分のところまで降りてきて、引き上げてくださることのみです。イエス様が、このことを成し遂げてくださいました。
4B 神の祝福 「イスラエル」
ヤコブにとって、彼の涙は敗北でしょうか?人間的にはそうでしょう。けれども神から見たらそうではありませんでした。神は彼の名前を変えられます、「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。(28節)」イスラエルは、「神に勝つ」という意味もあり、また「神の支配を受ける」という意味もあります。これまで彼は、「かかとをつかむ」だったのです。自分の力で機会を掴み取っていました。けれども、今、自分の力を失って初めて、「神に支配される者」あるいは「神に勝った者」になったのでした。
自分の敗北が、実は自分の勝利だったのです。自分の失敗が、実は自分の成功だったのです。自分の惨めさは実は自分の幸せだったのです。神の祝福は、このように自分が弱くされた人に豊かに注がれます。「「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。(マタイ5:3-4)」
そして太陽が上がりました。もう神の使いはいません。彼はびっこを引いています。そして33章に入ると、彼はエサウに会います。もう逃げることは出来ません。けれども4節をご覧ください、「エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。」神は、エサウの心を既に変えておられたのです。神は心をかたくなにすることもできるし、そして心を開くこともおできになるかたなのです。神の陣営をヤコブは見たのですが、これは自分の戦いではなく、神の戦いでした。神が状況を掌握し、私たちは神の恵みをただ証しするだけなのです。
皆さんの前にも、神の恵みの御業が広がっているでしょうか?自分が何をしたわけでもないのに、なぜか道が広がっていて、戸が開かれているということはないでしょうか?自分に力があるときは、それが経験できません。イエス様は、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)」と言われました。「何も」することができない、というのがなかなか受け入れられないのです。何かできるのではないか、と思うのです。その何かできる、と思っているところが完全にそがれる時に、私たちは初めて神ご自身が働かれる恵みを知ることができます。
ヤコブの経験は痛いです。でも、全ての人が通らなければいけない経験です。痛いけれども、その後で真の癒しが与えられます。外科手術の治療を受けるのは傷を受けますが、病気の元になっているものは除去できて、真の癒しが始まるのと同じです。