創世記35章1-4節 「ベテルに戻ろう」
アウトライン
1A ヤコブにとっての「ベテル」
1B エサウからの逃亡
2B 天のはしご
3B 神の約束
4B 神の守り
2A シェケムの偶像
1B 「初めの愛」の離脱 黙示2章
2B 安定した生活
1C 世の楽しみ
2C 思い煩い
3A 着物の着替え
1B 古い人と新しい人
2B イエス・キリストご自身
本文
創世記35章を開いてください。第二礼拝では、34章から37章までを学んでみたいと思いますが、今晩は35章1節から4節に注目してみたいと思います。
35:1 神はヤコブに仰せられた。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現われた神のために祭壇を築きなさい。」35:2 それでヤコブは自分の家族と、自分といっしょにいるすべての者とに言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。35:3 そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」35:4 彼らは手にしていたすべての異国の神々と、耳につけていた耳輪とをヤコブに渡した。それでヤコブはそれらをシェケムの近くにある樫の木の下に隠した。
前回、私たちは、ヤコブがシェケムという町に定着した話を読んだのを思い出すでしょうか?今読んだ箇所は、シェケムにいるヤコブに対して神が語られた言葉です。ヤコブはエサウに会うにあたって、神の使いと格闘しました。そして劇的な再会を果たしました。ですから、彼は自分の信仰の旅において峠を越えたわけです。それで彼は油断しました。まだヨルダン川を渡っていなかったのに、スコテという川の手前の町で過ごしました。それからシェケムに入り、そこで土地も購入して住み始めたのです。
ところが、そこはカナン人が住んでいるところです。ある大事件が起きました。ヤコブの娘ディナが、その町の首長の息子に陵辱されたのです。そうしたら開き直って、その町のカナン人とヤコブの家族の結婚を申し出てきました。陵辱も酷い行為ですが、こんな雑婚をしてしまったらイスラエルの家族も無くなってしまい、イスラエルからメシヤを与えるという神の約束も滅茶苦茶になってしまいます。
それで、シメオンとレビは悪いことを考えました。その民族間の結婚を、カナン人の男全員が割礼を受けるという条件で受け入れると言いました。そしてカナン人の男はみなが割礼を受けました。その三日後、肉の包皮を切って一番痛みのある時に、二人は難なく彼らを虐殺したのでした。こんな暴虐にまで発展してしまって、それから主が語られたのが先ほど読んだ箇所です。
1A ヤコブにとっての「ベテル」
こんな苦々しい思いをしたヤコブに対して、神は「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。」と言われました。神は、ヤコブがシェケムに留まってしまった事をなじることはなさいませんでした。むしろ、ヤコブの霊的生活において全ての始まりとなった、ベテルに行きなさいと言われたのです。
私たちは自分の犯してしまった過ちを悔います。その悔いはとても大切です。それがなければ、私たちはいつまでも罪の中にとどまり、神に立ち上がることはなくなります。けれども、自分がしてしまったことを悲しむこと以上に、神はもっと大事なことを話してくださいました。ヤコブにとってのベテルは、黙示録2章にある「初めの愛」なのです。
黙示録2章を開いてください、4-5節前半を読みます。「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。」初めの愛というのは、私たちが初めに知った神の愛のことです。ヨハネ第一4章9節には、「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。(1ヨハネ4:9)」とあります。ヤコブは神のことを知っていましたが、神との初めての出会いはこのベテルでした。
1B エサウからの逃亡
彼がどのような時に、神が現れてくださったかを思い出してください。神がヤコブに、ご自身のことを「あなたが兄エサウから逃れていたとき、あなたに現れた神」と言われています。ヤコブは自分が何か良いことをしたから、神が現われてくださったのではありません。むしろ、彼の人生にとって負い目となるようなことを行なった時に、神が現れてくださいました。
ヤコブはおそらく、自分の信仰の人生はもう達観の領域に入っていると思っていたかもしれません。無事に約束の地の中に入ってきました。かつて自分の祖父アブラハムが、初めにここに入ってきて神が現れて、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。(12:7)」と仰せになった町がシェケムです。表向き、彼はシェケムにいるのは霊的にも十分に祝福されていると思われる所だったのです。
私たちも、信仰生活を始めて、それで聖書の中で、また教会の中で言われていることを分かり始めて、ある程度安定していく時に、自分は霊的にも安定してきたと思います。けれども、そこで忘れてしまうのが「初めの愛」なのです。自分がどこから来たのかを忘れてしまうのです。神が私たちに現れてくださったのは、私たちが優れていた時ではなく、むしろ惨めで劣っている時に来てくださったのです。
神は憐れみに富む方であることを知ってください。神が私たちを愛されているのは、私たちが何か良いことをしたからではなく、むしろ罪と汚れの中でもがいている私たちを見るに忍びなく、憐れに思って救い上げてくださったからです。私たちが自分たちを救い出したのではなく、どうしようもない私たちを一方的に救い上げてくださったのです。「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。(エペソ2:3-6)」
2B 天のはしご
そしてベテルでヤコブは、天のはしごを経験しました。夢の中で地から天に伸びている梯子でした。これで彼は、自分が生きているこの生活の真っ只中に天におられる神がいっしょにいてくださることを悟ったのです。イエス様は言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。(ヨハネ1:51)」
イエス様ご自身が、天のはしごです。イエス様を知る時に私たちが経験することは二つあります。一つは、自分の底辺にあるところに触れてくださることです。自分の外見、他者からの評判、そうしたもののために私たちは突っ張って、外面を良くしようとします。けれども、誰にも言うことのできない内面の苦しみ、実際の生活、どろどろとしたもの、暗闇など、いろいろあります。
私はかつて、ナイトクラブで歌手の仕事をしていた兄弟に聖書を教えていましたが、また私の両親もパブレストランを経営していました。そのような人々の特徴は、人を見る洞察力が優れていることです。人への接待を仕事にしているので、気取った人の姿ではなく、その人の内面を見る目があります。ありのままの姿が、そうした生活臭溢れた場所で出てくるのです。
そのようなものを聖書は「地」で言い表すことがあります。けれども、イエス様はそのようなどろどろした所で私たちに会ってくださるのです。
そして不思議なことに、そのようなどろどろしたところで出会ったイエス様は、私たちに至高の祝福を味合わせてくださいます。まさに天を味わうようにしてくださるのです。「・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。(エペソ2:6)」私たちが言い尽くすことのできない愛、喜び、平安、そして神の聖さ、真実、栄光、あらゆるものを経験させてくださいます。それはイエス様ご自身が神であられ、天におられるので、イエス様と出会うことは天国を味わうことと等しいからです。ですから、イエス様は神と人との架け橋であり、天と地との梯子であられます。
3B 神の約束
そして主はヤコブに大きな約束をしてくださいました。アブラハム、イサクに神が与えられた約束がそのままヤコブのものになること。子孫が増え、土地を所有すること、すべての民が彼の子孫によって、つまりキリストによって祝福される約束が与えられました。
私たちにもイエス・キリストを救い主として信じることによって、「私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。(1ペテロ1:3-4)」永遠の天の国に入ることのできる約束です。
4B 神の守り
そして将来の希望だけではなく、生きているこの世においての祝福も約束してくださいました。故郷に戻ってくるまで、主が彼と共にいてくださり、見捨てることはないと言ってくださいました。世においてはあらゆる害があるけれども、神はそこから私たちを守ってくださいます。
2A シェケムの偶像
1B 「初めの愛」の離脱 黙示2章
けれども、ヤコブはこの初めの愛から離れてしまっていました。表向きは約束の地にいるのです。そして財産も取得し、安定した生活を送っていました。その時に忍び寄ってきたのが偶像生活でした。周囲のカナン人が行なっていた偶像を、習慣として身につけてしまっていたのです。
主は創世記35章1節で、「立って」と言っています。彼は自分の生活に満足していたのです。その場に居座っていたのです。そして今、カナン人の住民を息子たちが虐殺するというとんでもないことが起こったのです。そこで主は、「立ち上がりなさい」と言われました。私たちに対しても、主は同じように語られます。物事が上手くいかなくて、後悔や自己憐憫に陥っている時、「立ち上がりなさい」と言われるのです。
そして、ベテルに住んで、「祭壇を築きなさい」と言われます。つまり、初めの愛に立ち返ったところの礼拝を捧げなさいということです。私たちは信仰生活に日数が経つと、正しいことは行なっているけれども、初めの愛から離れた形で行なっている、神との生きた交わりなしに行なっているようになってしまいます。それで、ベテルにいって初めの愛を取り戻すと同時に、その愛に突き動かされた礼拝を行いなさいと命じておられます。
私たちはこの福音の愛の中にとどまっているでしょうか?いくぶん礼拝に慣れて、自分なりに上手にいわゆる「クリスチャン生活」をなんなくこなしていることはないでしょうか?日々、イエス様の十字架にある神の愛に感動しているでしょうか。
2B 安定した生活
私たちにとっての敵は、「信仰的な満足」です。自分が試練にあっている時は主を求めます。そして主は真実な方ですからそれに答えてくださり、私たちは、生ける主を体験できます。問題は、試練や誘惑に打ち勝った後です。試練を通り越したので、もう自分は霊的に整えられたと思うのです。いや、私たちは続けて主に献身して、目標に向かって走り続けなければいけません。
1C 世の楽しみ
私たちが前進するのを止める時に、押し寄せてくるものは「世の楽しみ」です。キリストの愛の感動が少し冷えてきていますから、他に自分を楽しくさせてくれるものを求めます。もちろん、私たちは余暇の趣味やスポーツなどをしてはいけない、という話をしているのではありません。むしろ、余暇の中で主を認めて、主にあって休みを取り、主に感謝するという、神様を中心とした時間を過ごすことです。
けれども、私たちは生きた神との交わりが薄くなってくると、「キリスト」とか「神」とか信仰のこと自体から休みたくなる気持ちになります。この時に要注意なのです。
2C 思い煩い
そしてもう一つの押し寄せてくるものは、「世の思い煩い」です。世の楽しみと違い、それは「責任」であるとか「義務」という言葉で押し寄せてきます。仕事での責任、家族や友人関係の間にある責任を果たすという言葉を使って、主に対する責任を第二にしていく危険が迫ります。頭の中で、「これはしなければいけないことだから」という理由付けをしているのですが、実は、「主を心から礼拝して、賛美する」という神の愛に自分が献身していない埋め合わせを行なっているにしか過ぎません。
この世の楽しみや思い煩いは、信仰をもっても実を結ばせなくする要因としてイエス様が、「いばらの中に落ちた種」として言い表しておられます。「もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです。・・みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。(マルコ4:18-19)」
3A 着物の着替え
そして私たちは、世にあるものを愛するという偶像礼拝を行なってしまいます。ヤコブの家族は、異国の神々を家の中に持ち込んでいました。そして着物も、異教の慣わしが何らかの形であるものだったに違いませんが、ヤコブは、「着物を着替えなさい」と言っています。「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。(1ヨハネ2:16)」キリストの愛でいっぱいであった時は興味が湧かなかったものが、魅力的に見えるようになります。それを貪るようになっていきます。
ヤコブの家族は、特段に偶像を意識的に拝もうとはしていなかったでしょう。主を礼拝していました。けれども、習慣的に偶像を持ち込んでいたのです。着ている物も周囲の人たちと同じようなものだったのです。私たちも同じように、意識的に偶像礼拝をしようとは思わないでしょう。けれども、していることが世と何ら変わらない習慣を持っている、しかも気づかずに持っていることがあります。それは専ら、目に見えない生ける神との交わりが希薄になってしまったがゆえなのです。
1B 古い人と新しい人
それで、私たちは日々新たにされる、という命令を受けています。一度、私たちはキリストにあって新しくされました。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5:17)」、けれども、その新しい命を私たちが日々体験して、実質的にも新たにされることを神は命じております。「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(2コリント4:16)」
そして、ちょうどヤコブの家族が異教の影響のある着物を脱いだように、私たちも自分のうちに身につけていた古い習慣を脱ぎ捨てるべきなのです。エペソ4章22-24節を読みます。「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。(エペソ4:22-24)」
いかがでしょうか?私たちはどのような古い人を身につけているでしょうか?続けて具体的にパウロはこう述べています。エペソ4章25節から最後までです。
4:25 ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。4:26 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。4:27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。4:28 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。4:29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。4:31 無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。
偽り、憤り、盗み、悪口、そして無慈悲、悪意、そしりなどです。その他、エペソ5章には不品行を取り上げています。愚かな話や下品な冗談を、口にするもの良くないと言っています。これらのものが、私たちにいつの間にかまとわりつくのです。それを振り払う必要があります。
2B イエス・キリストご自身
そして私たちが身につけるべきは、新しい人です。キリストにある新しい性質です。ローマ人への手紙13章には、主が戻ってこられるに際してパウロがこう勧めています。「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。(ローマ13:12-14)」イエス・キリストご自身を新しい着物のように表現しています。イエス様ご自身を私たちが見つめていく時、そしてこの方と交わり、共に歩もうとする時、私たちは新しい着物を身につけているのです。
同じことを、ヘブル人への手紙の著者もこう話しています。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(1-2節)」イエス様にしっかり目を留めている時に、私たちはまとわりついている罪や重荷を捨て去ることが出来るのです。