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創世記36章を開いてください。今日は、36章から40章までを学びます。ここでのテーマは、「栄光への苦しみ」です。それでは、さっそく本文に入りましょう。
1A 世の栄え 36
これはエサウ、すなわちエドムの歴史である。
エサウの歴史です。エサウは、エドムというニックネームが与えられていました。それで、彼から出る子孫はエドム人と呼ばれました。このエサウは、神からの祝福を受けられないようになったことを思い出して下さい。長子の権利を弟ヤコブに渡し、父イサクからの祝福を受けることができませんでした。では、彼の歴史が衰退しているかというとそうではありません。むしろ、非常に栄えているように見えます。
1B 子孫 1−19
まず最初に、2節から19節までに、エサウの子孫が記されています。2節をご覧ください。エサウはカナンの女の中から妻をめとった。すなわちヘテ人エロンの娘アダと、ヒビ人ツィブオンの子アナの娘オホリバマ。それにイシュマエルの娘でネバヨテの妹バセマテである。
エサウはカナン人の女と、イシュマエル人の女を妻としてめとりました。カナンはノアからのろわれ、イシュマエルは、アブラハムの肉の思いによって生まれました。エサウは、あえてその祖父を持つ民族から、妻をめとったのです。つまり彼は、神のことに何の関心も持たない、この世の人でした。けれども、彼から多くの子どもが生まれ、そして、6節にはこう書いてあります。
エサウは、その妻たち、息子、娘たち、その家のすべての者、その群れとすべての家畜、カナンの地で得た全財産を携え、弟ヤコブから離れてほかの地へ行った。それは、ふたりが共に住むには彼らの持ち物が多すぎて、彼らが滞在していた地は、彼らの群れのために、彼らをささえることができなかったからである。それでエサウはセイルの山地に住みついたのである。
エサウはヤコブに劣らず繁栄しました。多くの子どもを得て、多くのものを持ちました。それで、カナンを出て、セイルの地に行きました。そして、8節の最後に、エサウとはすなわちエドムである。とあります。神ではなく、エサウの名が高く上げられています。そして、15節以降を見ると、エサウの子ども達が首長になっているのがわかります。19節には、再び、これらはエサウ、すなわちエドムの子で、彼らの首長である。とエサウの名声が強調されています。日本でいうならば、徳川時代の、徳川家康のような存在です。彼から歴代の将軍が出てきたように、エサウから首長達が出てきました。
2B 住民 20−30
それだけではありません。20節以降を読みますと、自分たちの子孫だけでなく、他の民俗をも支配していたようです。20節には、この地の住民ホリ人セイルの子は次のとおり。とあります。セイルにすんでいた土着の民ホリ人をエサウはセイルに移住した時に、制したのであろうと考えられます。ヤコブは、エサウに会う時に、エサウに7回ひれ伏してしてお辞儀しましたが、エサウがその地域で支配者であることを認めたからです。20節から30節までに、ホリ人セイルの子孫の系図が記されています。
3B 王 31−43
さらに、エサウには王たちも与えられました。31節には、イスラエル人の王が治める以前、エドムの地で治めた王たちは次のとおり。とあって、王の名前が列挙されています。この説では、イスラエル人たちが王を持ち始めるときよりも、王が出てきたのが早かったことが強調されていますね。イスラエル人は、紀元前1000年頃に王を持ち始めましたが、それよりも前だったと言うのです。そして、最後の部分40節からは、再びエサウの首長の名前が列挙されており、最後にまた、エサウは、エドム人の先祖である。と記されています。そして、37章の1節をご覧ください。
ヤコブは、父が一時滞在していた地、カナンの地に住んでいた。
とあります。ヤコブは、カナンの地で滞在している寄留者であり、その家族もまだ少なかったのです。エサウが急速に繁栄したのに対して、ヤコブの繁栄は非常に遅いものでした。でも、エサウは、神のことには無関心であり、ヤコブは、神を一心に求めていました。となると、神を信じるのに何の得があるのか、神がいなくても十分幸せではないか、と考えられます。確かに、今の時代だけを考えればそうです。しかし同時に、この世の栄えは急速に衰えて、最後にはまったくなくなってしまうのも真実なのです。歴史を見ると、エサウからの血族の子孫は、紀元が始まる頃までには、完全に根絶やしにされています。この世の栄えは、急速に発展する一方で、急速にしおれていまうのです。預言者イザヤは、こう語りました。「人はみな草のようで、その栄えは、みな草のようだ。草はしおれ、花は散る。(1ペテロ1:24,25の引用)」
2A 将来の栄光(今の苦しみ) 37−40
私たちがこれから読む話は、それとは対照的な出来事です。つまり、今は苦しみにあうが、将来に輝かしい栄光が待っている事を読みます。パウロは、キリストにつながっているものは、「キリストと、栄光をともに受けるために苦難とともにしている」と言っています。また、「今のときの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと考えます。」と言いました。(ローマ17,18参照)。私たちは、アブラハム、イサク、ヤコブの生涯を通して、それぞれ、信仰、子としての身分、奉仕について学びました。これから始まるヨセフの生涯では、その三つの全てを見ることが出来ます。そして、彼はこれを苦しみの中で経験し、後に栄光に輝くのです。
1B 御霊の証し 37−38
1C 神の子ども 37
1D 世の光 1−11
37章2節をご覧ください。これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、彼の兄たちと羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らといっしょにいた。
ヨセフは、ヤコブの妻ラケルから生まれた子です。ヤコブの息子12人のうち、下から2番目の子供でした。兄たちは、もう仕事の出来る年齢に達していたので、17歳でまだ若いヨセフは、彼らの仕事を手伝っていたのです。そして、ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。とあります。お兄さんたちが、仕事で何か悪い事をしていたのを、ヨセフは、父に告げました。学校で、良い子が先生に告げ口をするように、人が悪い事をしているのをゆるしておく事は出来ませんでした。こういうタイプは、結構嫌われますが、ヨセフには、さらに嫌われる要因がもうひとつありました。
イスラエルは、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。それはヨセフが彼の年寄り子であったからである。それで彼はヨセフに、そでつきの長服を作ってやっていた。
この長服は、家の中での権威を象徴するものでした。イスラエルの家の後継ぎの子であることを示すような服を、イスラエルはヨセフに着さてやったのです。そこで、彼の兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった。とあります。そして、もう一つ、彼らの憎しみを爆発させるような出来事が起こります。
あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。ヨセフは彼らに言った。「どうか私の見たこの夢を聞いてください。見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」
ヨセフの束ねた束が立ち上がって、兄さんたちの束がピョンピョン跳ねてヨセフの束の所に来て、おじぎをしたと言うのです。
兄たちは彼に言った。「おまえは私たちを治める王になろうとするのか。私たちを支配しようとでも言うのか。」こうして彼らは、夢のことや、ことばのことで、彼をますます憎むようになった。
その夢は、ヨセフが支配者になって、兄達が、彼にひれ伏すというものでした。
ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです。」と言った。
ヨセフが父や兄たちに話したとき、父は彼をしかって言った。「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。」
太陽は、父のことで、月が母のことで、星は兄達のことです。おとうさんが息子にひれ伏すなんて、今でも考えられない事ですが、父がものすごく敬われていた当時の族長社会では、なおさらの事です。
兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心に留めていた。
父イスラエルは、ヨセフを叱りながらも、その夢を心に留めました。もしかしたら、神がヨセフに特別な使命と特権を与えておられるのかもしれない、と思ったのでしょう。こうして、ヨセフは、自分の将来についての夢を見ました。それは、自分が支配者となるという栄光に輝いたものでした。そして、兄さんたちの悪い事を見逃しておく事はせず、また、父から愛されていました。
この一つ一つを見ると、私たちの主イエス・キリストの生涯を思い起こします。イエスは、ユダヤ人としてお生まれになり、ユダヤ人の兄弟となられました。そして、当時のユダヤ人指導者たちを責めて、彼らの悪さを明らかにされました。また、イエスは、バプテスマを受けられた時、また高い山に上られた時、父なる神から、「これはわたしの愛する子。」と呼ばれました。さらに、ご自分がイスラエルの王キリストであることを、ユダヤ人の前で言い表されたのです。それで、彼らは、イエスをねたんで、憎みました。このように、ヨセフの生涯の中には、イエス・キリストの生涯を指し示すものがたくさんあります。そして、忘れてはならないことは、私たちはこの方を自分の主として生きている事です。私たちは、キリストにつなぎ合わされました。(ローマ6:5)イエスが、父なる神のひとり子であられるように、私たちも神の子どもとされています。「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。(ヨハネ1:12)」とあります。
もちろん、キリストは神であり私たちは人であって、子であることの意味は全然違いますが、それでもその特権と使命には計り知れないものがあります。それで、キリストは、神の国において、「私たちを王とし、自分の父である神のために祭司としてくださる、使徒とヨハネは言いました。(黙示録1:6)。そして、父がひとり子を愛されたように、私たちをご自分の子どもとして愛して下さっています。「私たちが神の子どもと呼ばれるために―事実、いま私たちは神の子どもです―、御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださった事でしょう。(1ヨハネ3:1:)」とあります。イエスが神の御子であることは、バプテスマを受けて、御霊が下られたとき確認されました。同じように、私たちは、御霊によって神の子どもであることが分かります。パウロはこう言いました。「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、証ししてくださいます。(ローマ8:16)」ヨセフが、夢によって自分の高い地位を知らされたように、私たちは、御霊によって知らされているのです。このように、キリストに継ぎ合わされたことによって、自分の置かれている立場が、非常に大きいものになっています。輝かしい栄光が将来に約束されているのです。
2D 世の憎しみ 12−28
その後、兄たちはシェケムで父の羊の群れを飼うために出かけて行った。シュケムは以前、彼らが住んでいた所です。それで、イスラエルはヨセフに言った。「おまえの兄さんたちはシェケムで群れを飼っている。さあ、あの人たちのところに使いに行ってもらいたい。」すると答えた。「はい。まいります。」また言った。「さあ、行って兄さんたちや、羊の群れが無事であるかを見て、そのことを私に知らせに帰って来ておくれ。」こうして彼をヘブロンの谷から使いにやった。それで彼はシェケムに行った。
ヘブロンからシュケムまでは、少なくとも80キロあります。こんな遠い所に、彼らはなぜ羊を飼っていたのでしょうか。おそらく、ヨセフとなるべく離れていたいと思っていたからでしょう。ヨセフは、かなり長い道を歩きました。
彼が野をさまよっていると、ひとりの人が彼に出会った。その人は尋ねて言った。「何を捜しているのですか。」ヨセフは言った。「私は兄たちを捜しているところです。どこで群れを飼っているか教えてください。」するとその人は言った。「ここから、もう立って行ったはずです。あの人たちが、『ドタンのほうに行こうではないか。』と言っているのを私が聞いたからです。」そこでヨセフは兄たちのあとを追って行き、ドタンで彼らを見つけた。
ドダンは、シュケムよりさらに30キロほど北に行ったところです。ヨセフはさらに兄たちを探す旅を続けなければなりませんでした。
彼らは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに、彼を見て、彼を殺そうとたくらんだ。彼らは互いに言った。「見ろ。あの夢見る者がやって来る。さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。」
なんと、兄たちの憎しみは、殺人にまで発達しました。俺たちがヨセフを拝むという夢が、あいつを殺してもそのとおりになるか、試してみようと言っています。
しかし、ルベンはこれを聞き、彼らの手から彼を救い出そうとして、「あの子のいのちを打ってはならない。」と言った。ルベンは、一番上のお兄さんです。それらしき、行動をとっています。ルベンはさらに言った。「血を流してはならない。彼を荒野のこの穴に投げ込みなさい。彼に手を下してはならない。」ヨセフを彼らの手から救い出し、父のところに返すためであった
ルベンは、兄弟殺しの罪のおそろしさを知っていました。カインが弟アベルを殺し、神から呪われました。血を流すものは、血によって報いられるという神の警告が、大洪水の後にありました。それで、ルベンは、ヨセフを救い出す計画を自分の心の中に立てた後、その場を立ち去りました。
ヨセフが兄たちのところに来たとき、彼らはヨセフの長服、彼が着ていたそでつきの長服をはぎ取り、彼を捕えて、穴の中に投げ込んだ。その穴はからで、その中には水がなかった。
彼らは、ヨセフが着ていた長服が気に入りませんでした。それは、その家における権威を示していましたヵら、ヨセフをねたましく思っていたのです。
それから彼らはすわって食事をした。
何と、彼らは、ヨセフを穴の中に投げ入れた直後に食事なんかをしています。ヨセフは、「助けて!ここから出して!」と叫んでいました。その苦しみの声を聞きながら、のんきに食事をする事が出来たのです。憎悪が、彼らの心をここまで冷たくしていました。
彼らが目を上げて見ると、そこに、イシュマエル人の隊商がギルアデから来ていた。らくだには樹膠と乳香と没薬を背負わせ、彼らはエジプトへ下って行くところであった。
イシュマル人は、アブラハムの子孫イシュマルから出た子孫です。彼らは、ギルアデというところからエジプトに貿易をしていました。
すると、ユダが兄弟たちに言った。「弟を殺し、その血を隠したとて、何の益になろう。さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが彼に手をかけてはならない。彼はわれわれの肉親の弟だから。」兄弟たちは彼の言うことを聞き入れた。
ユダは、上から4番目の兄です。一番上のルベンがいなくなった後、その次に年上のシメオンとレビは、やはりヨセフを殺したいと思っていたようです。兄としての責任を感じながら、口火をきったのだと思います。その案は、この商社マンたちに、ヨセフを奴隷として売る事でした。
そのとき、ミデヤン人の商人が通りかかった。それで彼らはヨセフを穴から引き上げ、ヨセフを銀二十枚でイシュマエル人に売った。イシュマエル人はヨセフをエジプトへ連れて行った。
ミデアン人とありますが、彼らも、アブラハムの子ミデアンの子孫です。イシュマエルとミデアン人は、よくいっしょにいましたが、ここでも一緒にいたようです。そして、銀20枚で、ヨセフを買いました。たいしたお金ではありません。せいぜい、みんなで昼食が出来るくらいの金額でしょう。可哀想なヨセフです。ここから、彼の苦しみの生活が始まります。このように、ヨセフは、夢見るものであったため、また、長服を着ていたために、殺されそうになりました。つまり、兄弟たちが、ヨセフの栄光ある将来をねたんだのです。
私たちの主イエス・キリストも同じでした。イエスが神の御子であること、キリストであると告白したことによって、祭司長たちは、怒り狂ってイエスを死刑に定めたのです。彼らがイエスをねたんでいたことは、ローマの総督ピラトが認めていたことです。そして、兄弟たちが銀貨でヨセフを売ったように、イスカリオテのユダは、銀貨30枚でイエスを売りました。そして、このイエスの足跡を、イエスに従う者も歩みます。将来、約束されている栄光のために、この世は私たちを憎みます。イエスは言われました。「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは、世のものではなく、かえって私が世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎みのです。(ヨハネ15:19)」イエスを信じて、神の子どもとされたとたんに、この世の神であるサタンは、私たちに挑みかかってきます。
3D 世の悲しみ 29−36
さて、ルベンが穴のところに帰って来ると、なんと、ヨセフは穴の中にいなかった。彼は自分の着物を引き裂き、兄弟たちのところに戻って、言った。「あの子がいない。ああ、私はどこへ行ったらよいのか。」
ルベンは、ヨセフがシュケムで死んでしまったと思い、どうすればよいかわからなくなりました。それで、着物を引き裂いて嘆きました。また、ヨセフを失った責任を感じていますが、父イスラエルに語る言葉が見つかりません。
彼らはヨセフの長服を取り、雄やぎをほふって、その血に、その長服を浸した。
兄弟たちは、父親にヨセフのことを告げる方法を考えつきました。獣に食い殺されたという方法です。
そして、そのそでつきの長服を父のところに持って行き、彼らは、「これを私たちが見つけました。どうか、あなたの子の長服であるかどうか、お調べになってください。」と言った。父は、それを調べて、言った。「これはわが子の長服だ。悪い獣にやられたのだ。ヨセフはかみ裂かれたのだ。」
イスラエルは自分の知らないこと、見ていないことに結論をつけてしまいました。私たちも、しばしば、この間違いを犯しますね。
ヤコブは自分の着物を引き裂き、荒布を腰にまとい、幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ。彼の息子、娘たちがみな、来て、父を慰めたが、彼は慰められることを拒み、「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい。」と言った。こうして父は、その子のために泣いた。
父は、完全にヨセフが死んだものと思いました。けれども次を見てください。あのミデヤン人はエジプトで、パロの廷臣、その侍従長ポティファルにヨセフを売った。
ヨセフは生きています。そして、ヨセフが受け始めた苦しみは、実は、神によって大いなる栄光に変えられることを、この物語の最後までを読んだ人たちは、知っています。実際もうヒントが与えられています。ヨセフは、兄達、父、母が、自分にお辞儀する夢を見ました。奴隷として売られたのは、実は彼が支配者になるためには絶対に必要な事だったのです。神は、ヨセフにすばらしい計画を持っておられたので、あえて、そのような苦しみが起こるのをゆるされたのです。これは、神を愛すす者達にとって、決して忘れてはいけない、非常に大切な教えです。つまり、神を愛する者たちにとって、神はすべての事を益に働かせてくださる、という事です。どんなに苦しいことも、悪いように見えることも、神は全てを用いて、私たちに良い事をもたらされます。神は、私たちに約束されました。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・・それは、災いではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29:11)」ですから、だれも私たちに敵対することはできません。どんな悪い事が起こっても、神は、その全能の力によって、それをすべて益に変えてくださいます。私たちが苦しむのは、神が私たちに意地悪しているのではなくて、むしろ愛してくださっていることの証拠なのです。
けれども、父親は、希望を失って、悲しみの中で押しつぶされてしまいました。彼の名前が、ここで、「ヤコブ」と言い換えられているのはおもしろいですね。イスラエルは、「神の君主」というすばらしい名前ですが、ヤコブは、「かかとをつかむ者」という、少し不名誉な名前です。神の働きをもつことの出来ない、彼の古い性質を示しています。彼は、神がすばらしい祝福の計画を立てられていることを忘れて、不信仰に陥ってしまったのです。このように、信仰を持っていない人にとっては、悪い事は悪い事に終わってしまいます。悪い事がおきたら、それは災難がふりかかってたとしか思うことが出来なくて、悲しみや怒りや苦しみの中で生きていかなければいけなくなるのです。パウロは、「世の悲しみは死をもたらします(2コリント7:10)」と言いました。
2C 神の相続人 38
そして、38章に入りますが、ヨセフではなく、ユダの話が挿入されています。ヨセフがエジプトで奴隷として売られた後に起こったことが、ここに記されています。
1D 神の怒り 1−11
そのころのことであった。ユダは兄弟たちから離れて下って行き、その名をヒラというアドラム人の近くで天幕を張った。
兄弟たちが、ヨセフを売ってから、ユダは彼らから離れて暮らし始めました。おそらく、この事件で、兄弟たちと一緒にいることがいやになったのでしょう。アドラムは、父の住んでいたヘブロンから約13キロ離れていた、小さな町です。
そこでユダは、あるカナン人で、その名をシュアという人の娘を見そめ、彼女をめとって彼女のところにはいった。
ユダは、カナン人の女を妻にしました。先ほども言いましたように、これは神の御心にそぐわない事です。けれども、そのときの状況を考えると、仕方がなかったのかもしれません。というのは、イスラエルの家族のほかに、だれもヤハウェの神を信じている人はいなかったからです。イスラエルのおじにあたるラバンの家は、すでに偶像崇拝をしていました。だから、自分の腹違いの妹達から、妻をめとるという方法もあったでしょうが、まだ、結婚するには若すぎたのでしょう。ユダは、このカナン人の女と結婚して、生まれてくる子どもに神のことを伝えようとしたのかもしれません。今で言うと、未信者の人と結婚して、結婚した後に妻や子どもが改心するのを願っているようなものです。つまりユダは、結婚において妥協したのです。
彼女はみごもり、男の子を産んだ。彼はその子をエルと名づけた。彼女はまたみごもって、男の子を産み、その子をオナンと名づけた。彼女はさらにまた男の子を産み、その子をシェラと名づけた。彼女がシェラを産んだとき、彼はケジブにいた。
3人の子どもが、続けざまに生まれました。最初の子は、ユダによって名前がつけられましたが、2番目、3番目の子は、妻によって名前がつけられています。家の中で、妻の影響力が次第に強くなってきたのがわかります。そして、家族が引っ越した先のゲジブは、アドラムのすぐ近くの町です。
ユダは、その長子エルにタマルという妻を迎えた。
ユダは、神を信じる子孫をつくるのに、タマルという人を選びました。たぶん、彼女なら、自分の息子に良い影響を与えるだろうと思ったのでしょう。
しかしユダの長子エルは主を怒らせていたので、主は彼を殺した。
エルは、この結婚を気に入らなかったようです。まだ結婚する準備ができていなかったのか、タマルが好きになれなかったのかはわかりませんが、父親の決断に反発していたことは確かです。ただ、彼は、父に反発していたというよりも、神ご自身に反発していました。主を怒らせました。おそらく、カナン人の母親の影響があって、ヤハウェの神を信じることを拒んだのでしょう。ユダは、自分の考えにまかせて、妥協して結婚相手を選びましたが、妥協はいつも失敗に終わります。子どもを改心させようとしても、それは出来ませんでした。
それでユダはオナンに言った。「あなたは兄嫁のところにはいり、義弟としての務めを果たしなさい。そしてあなたの兄のために子孫を起こすようにしなさい。」
当時は、兄が死んだ場合、弟が兄嫁と結婚して、兄のために子どもを残さなければならないような習慣がありました。これは、後に、モーセの律法で制度化されて、サドカイ人は、このことに関してイエスに質問した事もあります。
しかしオナンは、その生まれる子が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないために、兄嫁のところにはいると、地に流していた。彼のしたことは主を怒らせたので、主は彼をも殺した。
オナンも、兄エルとおなじように、主に反発しました。夫婦の関係をもちながら、子どもが生まれないように、地に流していたのです。ここから、家族計画を持つことは罪であるという教えが生まれましたが、それは一般化しすぎています。オナンの場合は、子どもを産むことは神のみこころだとわかっていたのに、それを無視したところに罪があったのです。彼は、ユダの子孫が増え広がるという、特定の神のみこころに、反抗したので、殺されました。
そこでユダは、嫁のタマルに、「わが子シェラが成人するまで、あなたの父の家でやもめのままでいなさい。」と言った。それはシェラもまた、兄たちのように死ぬといけないと思ったからである。タマルは父の家に行き、そこに住むようになった。
シュラも、兄達と同じように、主に反発して殺されることは、ユダはすぐに予測できました。それで、彼をタマルに与えるのは拒みました。でも、タマルには、「シュラが成人するまで」と言って、お茶を濁したのです。
2D 神の正しさ 12−26
かなり日がたって、シュアの娘であったユダの妻が死んだ。その喪が明けたとき、ユダは、羊の群れの毛を切るために、その友人でアドラム人のヒラといっしょに、ティムナへ上って行った。
息子だけでなく、カナン人の妻が死にました。ここに、「その喪があけたとき」とありますが、「ユダは慰められて」とも訳すことが出来ます。ユダの悲しみが短い間ですんだことになりますが、おそらく結婚生活はうまくいっていなかったのでしょう。ユダは、気分を晴らすために、友人のヒラと一緒に羊の毛を刈りに行きました。
そのとき、タマルに、「ご覧。あなたのしゅうとが羊の毛を切るためにティムナに上って来ていますよ。」と告げる者があった。それでタマルは、やもめの服を脱ぎ、ベールをかぶり、着替えをして、ティムナへの道にあるエナイムの入口にすわっていた。それはシェラが成人したのに、自分がその妻にされないのを知っていたからである。
ユダは、タマルとの約束を顧みず、シュラをタマルの夫に与えることはしませんでした。これでは、殺されてしまった二人の息子と同じ事をしています。つまり、子孫を残さない罪を、ユダ自身が犯してしまっている事になります。そこで、神は、一つの行為を許されました。タマルが思いかねてユダのところに接近するのを許されたのです。
ユダは、彼女を見たとき、彼女が顔をおおっていたので遊女だと思い、道ばたの彼女のところに行き、「さあ、あなたのところにはいろう。」と言った。
タマルがベールをかぶったのは、売春婦の姿をするためでした。カナン人の習慣には、神殿娼婦というのがありました。彼らの信じている宗教の中に、自分の体を売ることが組み込まれていたからです。タマルはこの手段を用いて、義理の父ユダから子どもを残そうと考えていました。勿論、この行為は神の御前で罪であります。けれども、彼女は、方法こそまちがっていましたが、動機は正しかったのです。つまり、ユダが、子孫を残さなければならない、ということです。神は、ユダが子孫を残さないでいるユダの罪を深く考えておられ、このような行為がおこるのを許されました。それに、遊女になることについて、タマルは、カナン人なので神のことをよく知らないという言い訳が成り立つかもしれません。けれども、ユダの場合は違います。妻がいなくなったので、姦淫の罪ではないとユダは考えたのかもしれませんが、不完全な従順は完全な不従順なのです。
彼はその女が自分の嫁だとは知らなかったからである。彼女は、「私のところにおはいりになれば、何を私に下さいますか。」と言った。彼が、「群れの中から子やぎを送ろう。」と言うと、彼女は、「それを送ってくださるまで、何かおしるしを下されば。」と言った。それで彼が、「しるしとして何をあげようか。」と言うと、「あなたの印形とひもと、あなたが手にしている杖。」と答えた。
これで取引が成立しました。
そこで彼はそれを与えて、彼女のところにはいった。こうしてタマルは彼によってみごもった。ユダによってみごもりました。彼女は立ち去って、そのベールをはずし、またやもめの服を着た。ユダは、彼女の手からしるしを取り戻そうと、アドラム人の友人に託して、子やぎを送ったが、彼はその女を見つけることができなかった。
ユダは、自分が遊女を買ったことを人に知られたくないと思ったのか、友人ヒラに子山羊を託しました。ヒラにとっては、遊女はたいした問題ではありませんが、ヤハウェ神を礼拝するユダにとっては、恥ずかしい行為だったのです。
その友人は、そこの人々に尋ねて、「エナイムの道ばたにいた遊女はどこにいますか。」と言うと、彼らは、「ここには遊女はいたことがない。」と答えた。それで彼はユダのところに帰って来て言った。「あの女は見つかりませんでした。あそこの人たちも、ここには遊女はいたことがない、と言いました。」ユダは言った。「われわれが笑いぐさにならないために、あの女にそのまま取らせておこう。私はこのとおり、この子やぎを送ったのに、あなたがあの女を見つけなかったのだから。」
ユダは見つからなければ、自分のしたことを隠す事が出来ると思ったのか、そのままにしました。しかし、ユダは愚かでした。人には隠せても、神には隠すことが出来ません。次を見てください。
約三か月して、ユダに、「あなたの嫁のタマルが売春をし、そのうえ、お聞きください、その売春によってみごもっているのです。」と告げる者があった。そこでユダは言った。「あの女を引き出して、焼き殺せ。」
ものすごい言い方ですが、ユダは、売春がとんでもない罪であることを知っていたから、ここまでの発言をしたのです。けれども、私たちは、彼の偽善を他人事のように笑う事は出来ません。教会では、「これこれをしては、いけない。」と胸を張って言っているのに、陰で、まさにこのことをしている場合が多いのです。
彼女が引き出されたとき、彼女はしゅうとのところに使いをやり、「これらの品々の持ち主によって、私はみごもったのです。」と言わせた。そしてまた彼女は言った。「これらの印形とひもと杖とが、だれのものかをお調べください。」
これらは、ユダ自身のものです。彼は、非常に恥ずかしくなったのでしょう。ユダは、カナン人タマルの前では、きよく生活している父親として振舞っていました。それが、タマル自身から、自分の罪深い姿を指摘されたようなものです。ユダにとっては、非常に辛い経験だったでしょう。クリスチャンは、しばしばこうした類の痛みを味わいます。自分が、主の言われる事に聞き従わないで、中途半端な行動をとっていると、主は、その愛ゆえに、私たちの注目を集めようとされます。箴言には、こう書いてあります。「我が子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。父が可愛がる子をしかるように、主は愛する者を叱る。(3:11、12)」そのときは、痛くて悲しむかもしれませんが、後に義の平和の実を結ぶ事が出来ます。
ユダはこれを見定めて言った。「あの女は私よりも正しい。私が彼女を、わが子シェラに与えなかったことによるものだ。」こうして彼は再び彼女を知ろうとはしなかった。
ここから、彼は悔い改めたことがわかります。まず、タマルの方が正しい、私がシェラを与えなかった、と罪の告白をしています。罪の告白とは、自分が間違っている事を認め、責任が自分にあることを認める事です。そして、彼女を再び知ろうとせず、行いを改めました。箴言28章には、「罪を告白して、それを捨てるものは、あわれみを受ける。(13節)」とあります。
3D 神のあわれみ 27−30
それで実際にユダはあわれみを受けました。
彼女の出産の時になると、なんと、ふたごがその胎内にいた。出産のとき、一つの手が出て来たので、助産婦はそれをつかみ、その手に真赤な糸を結びつけて言った。「この子が最初に出て来たのです。」
しかし、その子が手を引っ込めたとき、もうひとりの兄弟のほうが出て来た。それで彼女は、「あなたは何であなたのために割りこむのです。」と言った。それでその名はペレツと呼ばれた。そのあとで、真赤な糸をつけたもうひとりの兄弟が出て来た。それでその名はゼラフと呼ばれた。
ユダから双子が生まれました。兄と弟があべこべになってしまいました。リベカからエサウとヤコブが生まれたときと似ていますね。ヤコブがエサウのかかとをつかんだのを思い出して下さい。
こうして、ペレツが長子となったわけですが、ここでマタイの福音書1章を開いていただきたいと思います。1章の3節を見てください。「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、」とあります。パレスとはペレツのことです。タマルの名前も記されていますね。そして、この系図は何ですか。1節をご覧ください。「イエス・キリストの系図」です。タマルの子ペレツが、イエス・キリストの先祖になっているのです。これはすごく矛盾しているように感じます。聖なる方、神の御子であるイエスが、売春によって生まれた子を先祖に持っているのです。しかし、矛盾ではありません。イエスは罪人の中に入れられて罪人と同じ人間の姿をして来られました。このため、罪は犯されませんでしたが、人間のすべての弱さを知っておられました。ですから、キリストの系図に、タマルの名前が載っている事は、人間に対する神の深いあわれみの現れなのです。
2B いのちの支配 39−40
1C 義の賜物 39
そして、次から再びヨセフの話に戻ります。ここには、ユダの妥協と肉の行いとは対象的な、ヨセフの正しい行いを見ることが出来ます。
1D 主との歩み 1−6
ヨセフがエジプトへ連れて行かれたとき、パロの廷臣で侍従長のポティファルというひとりのエジプト人が、ヨセフをそこに連れて下って来たイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。
ヨセフはエジプトまで来ました。エジプトは、ナイル川が流れて土地が肥沃であり、世界の中心地でした。そして、ヨセフを買い取ったのは、ポティファルという名の、エジプトの王の高官を努めているような人でした。
主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。
主が、ヨセフとともにおられたとあります。ヨセフは、何も知らない異国の地で、ものすごく孤独であったはずです。兄弟たちに見捨てられ、自分は一人ぼっちであると考えて当然の状態にいます。そのような、真っ暗闇のような状態の中に、主はともにおられたのです。イエスは、弟子達に言われました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:20)」けれども、イエスは今、私たちと物理的にはおられません。天に上られた時に、もうひとりの助け主を私たちに送られたのです。「私は父にお願いします。そうすれば、父は、もう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです。(ヨハネ14:16)」キリストの御霊である聖霊が、今、私たちとともにおり、私たちの内にすんでくださっています。ですから、私たちも、たとえ暗闇のような中に入ったとしても、主がともにおられるのです。
彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。
主がともにおられたことは、ヨセフだけでなく、ポティファルも認めることができました。つまり、主の証人として、ヨセフは生きていました。私たちも同じです。イエスは、「聖霊があなたがたの上にのぞまれる時、あなたがたは力を受けます。そして、・・・わたしの証人となります。(使徒1:8)」といわれました。
それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。
ポティファルは、ヨセフが勤勉に働いているのを見ることができたのでしょう。彼に全財産をゆだねるに価する有能な人材であることを認めたのです。
主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。
彼がヨセフに全財産を任せると、その財産がどんどん増えていきました。ですから、ヨセフは、苦しみの中にいながらも、豊かな祝福があったのです。これもまた、私たちクリスチャンに約束されている祝福です。先ほどから、主に従おうとすると、苦しみを受けることを話しました。ならば、主に従いたくないと思われるかもしれません。しかし、その苦しみというのは、苦しみや怒りのともなうような否定的なものではありません。聖霊に満たされるとき、私たちは、苦しみの中にあっても、喜ぶ事が出来、平安に満たされて、愛のうちに歩む事が出来るのです。私たちは、この世において、主からいろいろなことを任されています。それを忠実に行っていく事によって、主はそれを祝福してくださり、大きくしてくださいます。イエスは、「あなたは、わずかなものに忠実だったから、私はあなたにたくさんの羊を任せよう。(マタイ25:21)」と言われました。だから、苦しみの中にも、主はともにおられ、私たちは喜びに満たされるのです。
彼はヨセフの手に全財産をゆだね、自分の食べる食物以外には、何も気を使わなかった。しかもヨセフは体格も良く、美男子であった。
ポティファルが食べるものを気にしたと言うのは、ダイエットをしていたのではなく、毒がはいっていないか注意するためであります。政府の高い位にいる人々は、食物に毒が入れられることによって、暗殺される可能性が高いからです。そして、ヨセフが体格がよく、美男子であったとあります。これは、次の話に関連してくることですが、彼はこの時、20歳ぐらいでした。
2D 主への恐れ 7−18
これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「私と寝ておくれ。」と言った。主人の妻が、ヨセフを誘惑しはじめました。しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」それでも彼女は毎日、ヨセフに言い寄ったが、彼は、聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、彼女といっしょにいることもしなかった。
主から祝福を受けていたヨセフに、大きな誘惑が襲いました。20ぐらいは、一番、性欲が強くなる時です。そしいて、彼は、エジプトという土地にいます。父の家から離れています。しかし、ヨセフが主人の妻の言う事を聞かなかったのは、「神に罪を犯すことができ」ないからでした。ヨセフは、神を恐れかしこんで、罪を犯すことを憎んだのです。神を信じてはいたが、肉の欲に屈してしまったユダの場合とは、対照的ですね。聖書には、「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲を満足させることはありません。(ガラテヤ5:16)」と書かれています。私たちが御霊に導かれると、誘惑に抵抗して、肉の欲を満たさないでもよくなります。ですから、御霊によって歩む、主がともにおられることを意識することは、大切です。
ある日のこと、彼が仕事をしようとして家にはいると、家の中には、家の者どもがひとりもそこにいなかった。それで彼女はヨセフの上着をつかんで、「私と寝ておくれ。」と言った。強制的に、ヨセフと寝ようとしています。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。
ヨセフは逃げました。誘惑を避けるのに、もっとも良い方法です。パウロは、「若い時の情欲から逃げなさい(2テモテ2:22参照)」とテモテに薦めました。このように、ヨセフは、神に従い通しました。でも、その結果はどうなったでしょうか。
彼が上着を彼女の手に残して外へ逃げたのを見ると、
彼女は、その家の者どもを呼び寄せ、彼らにこう言った。「ご覧。主人は私たちをもてあそぶためにヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとしてはいって来たので、私は大声をあげたのです。私が声をあげて叫んだのを聞いて、あの男は私のそばに自分の上着を残し、逃げて外へ出て行きました。」
彼女は、主人が家に帰って来るまで、その上着を自分のそばに置いていた。こうして彼女は主人に、このように告げて言った。「あなたが私たちのところに連れて来られたヘブル人の奴隷は、私にいたずらをしようとして私のところにはいって来ました。私が声をあげて叫んだので、私のそばに上着を残して外へ逃げました。」
この女は、自分が加害者なのに、被害者にしてしまいました。
3D 主の慰め 19−23
主人は妻が、「あなたの奴隷は私にこのようなことをしたのです。」と言って、告げたことばを聞いて、怒りに燃えた。
ヨセフの主人は彼を捕え、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄にいた。
神を恐れて罪を憎んだ結果、その行き先は監獄でした。みなさんがヨセフだったら、この時点でどう思うでしょうか。僕だったら、この時点で、「神を信じて従っても、何の益にもならない。むしろ悪い事ばかりが起こる。信じない方がよさそうだ。」と考えると思うます。しかし、それは、あまりにも短絡的な考え方です。私たちがどん底に落とされたとしても、神には考えがあります。すべての事を働かせて益にして下さる神は、このとてつもなく辛い経験を用いられて、思いや願いをはるかに越えた、素晴らしい計画を実行されようとしているのです。イエスは、「義のために迫害される人は幸いです。(マタイ5:10)」と言われました。なぜなら、天において大きな報いがあるからです。
そして次を見てください。驚くべき記述が載っています。しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。
兄弟に見捨てられ、祖国を離れ、今は、牢屋の中にいます。暗闇がさらに暗くなったような状況の、その真ん中に、主がともにおられたのです。主が私たちから離れているような場所はどこにもありません。
それで監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手にゆだねた。ヨセフはそこでなされるすべてのことを管理するようになった。監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。
ポティファルの時と同じように、ヨセフは祝福されて、監獄の長の信頼を得て、監獄における仕事を全て任されるようになりました。ここに、私は、主の深い慰めを見ます。聖霊は、「慰め主」と呼ばれていますが、私たちの神は、慰めの神なのです。パウロは言いました。「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の神、全ての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。・・・それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めも又キリストによってあふれているからです。(2コリント1:3−5)」
2C 恵みの賜物 40
そして、次にヨセフは、ある2人の囚人の世話をする出来事が記されています。
1D 奉仕 1−8
これらのことの後、エジプト王の献酌官と調理官とが、その主君、エジプト王に罪を犯した。それでパロは、この献酌官長と調理官長のふたりの廷臣を怒り、彼らを侍従長の家に拘留した。すなわちヨセフが監禁されている同じ監獄に入れた。
パロの下で働く献酌官長と、調理官長が囚人として連れ込まれてきました。彼らは、王国の中でも非常に重要なポストの人たちです。パロも、廷臣ポティファルと同じように、自分の食べるものに細心の注意を払っていました。それで、調理をするもの、ぶどう酒の杯を用意するものには、自分がもっとも信頼する人物をあてがいました。その彼らが、ヨセフと同じ監獄に入れられました。
侍従長はヨセフを彼らの付き人にしたので、彼はその世話をした。こうして彼らは、しばらく拘留されていた。ヨセフはこの2人の世話をしました。さて、監獄に監禁されているエジプト王の献酌官と調理官とは、ふたりとも同じ夜にそれぞれ夢を見た。その夢にはおのおの意味があった。朝、ヨセフが彼らのところに行って、よく見ると、彼らはいらいらしていた。
ヨセフは彼らに食事を持ってきたのでしょうか。朝、彼らのところに行くのが日課だったようです。そのときに、彼らは見た夢のことでイライラしていました。
それで彼は、自分の主人の家にいっしょに拘留されているこのパロの廷臣たちに尋ねて、「なぜ、きょうはあなたがたの顔色が悪いのですか。」と言った。ヨセフは彼らに元気がないのを察しました。ふたりは彼に答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」ヨセフは彼らに言った。「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください。」
ヨセフは、夢の解き明かしは神のなさることである、と言っています。彼の持っていた夢の解き明かしの能力は、彼が何か努力したからだとか、彼が何かすばらしいからとかいう理由で与えられているのではなく、神が恵んでくださったものだと認めています。それは、主がともにおられることを意識していたからです。
ヨセフが人々の世話をしていたように、クリスチャンも人々に仕えます。神が私たち一人一人に、信仰の量りにしたがってある一定の能力を与え、その能力を用いて神に仕え、人々に仕えるように願われています。それを聖書では、「御霊の賜物」と呼んでいます。私たちは、何か努力して能力を得るように感じますが、実は、神がその努力の過程で手助けしてくださり、神がその能力を人々に身につけさせるようにしてくださっているのです。もし、神もキリストも知らなければ、その人は、自分の栄光のためにそれを用います。例えば、歌手は、自分に注目を集めるように服装を選ぶし、その歌は自分が輝くための手段になっています。しかし、主がともにおられることを知っている人は、その能力を用いて神をほめたたえるのです。ですから、ヨセフは、夢を解き明かす事は、「神のなさることではありませんか」と言いました。私たちが御霊の中で歩んでいる時、御霊は、賜物をそれぞれに与えてくださり、それを教会全体の益になるように、用いる事を望まれています。
2D 信仰 9−19
それで献酌官長はヨセフに自分の夢を話して言った。「夢の中で、見ると、私の前に一本のぶどうの木があった。そのぶどうの木には三本のつるがあった。それが芽を出すと、すぐ花が咲き、ぶどうのふさが熟して、ぶどうになった。私の手にはパロの杯があったから、私はそのぶどうを摘んで、それをパロの杯の中にしぼって入れ、その杯をパロの手にささげた。」
一本のぶどうの木があって、3本のつるが出ていました。そこから出来たぶどうの実を、自分がしぼってパロの杯に入れるというものです。
ヨセフは彼に言った。「その解き明かしはこうです。三本のつるは三日のことです。三日のうちに、パロはあなたを呼び出し、あなたをもとの地位に戻すでしょう。あなたは、パロの献酌官であったときの以前の規定に従って、パロの杯をその手にささげましょう。
三日のうちに無罪が晴れると言う解き明かしでした。
あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください。私に恵みを施してください。私のことをパロに話してください。この家から私が出られるようにしてください。実は私は、ヘブル人の国から、さらわれて来たのです。ここでも私は投獄されるようなことは何もしていないのです。」
ヨセフは、この機会を捕らえて、自分がここから出ることができるよう献酌官長にお願いしました。自分の兄弟のことも、ポティファルの妻のことも言及せずに、穏やかに訴えました。ここから、私たちは、不必要に迫害にあう必要はないことを知ります。自分が不当な取り扱いを受けているとき、自分の権利を用いる事は何も悪い事ではありません。パウロが、カイザリヤで2年間も拘置されている時、総督フェストに対してこう言いました。「もし私が悪いことをして、死罪にあたることをしたのでしたら、私は死を逃れようとはしません。しかし、この人たちが訴えていることに一つも根拠がないとすれば、だれも私を彼らに引き渡す事は出来ません。私はカイザルに上訴します。(使徒25:11)」ローマ市民は、不当な取り扱いを受けていると感じたなら、皇帝に訴える権利を持っていたので、パウロはそれを用いたのです。こうして、ヨセフは、献酌高官に訴えました。
調理官長は、解き明かしが良かったのを見て、ヨセフに言った。「私も夢の中で、見ると、私の頭の上に枝編みのかごが三つあった。一番上のかごには、パロのために調理官が作ったあらゆる食べ物がはいっていたが、鳥が私の頭の上のかごの中から、それを食べてしまった。」
頭の上に、かごが3つ重なってありました。一番上のかごに調理されたものがありましたが、それを鳥が食べてしまったというものです。
ヨセフは答えて言った。「その解き明かしはこうです。三つのかごは三日のことです。
三日のうちに、パロはあなたを呼び出し、あなたを木につるし、鳥があなたの肉をむしり取って食うでしょう。」
調理官長は、死刑にされるようです。
3D 忍耐 20−23
三日目はパロの誕生日であった。それで彼は、自分のすべての家臣たちのために祝宴を張り、献酌官長と調理官長とをその家臣たちの中に呼び出した。そうして、献酌官長をその献酌の役に戻したので、彼はその杯をパロの手にささげた。しかしパロは、ヨセフが解き明かしたように、調理官長を木につるした。ヨセフの解き明かしのとおりになりました。
そして、次が重要な箇所です。ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。
とあります。唯一の命綱が切れてしまったかのようです。今日は、この章で学びを終えますが、次の41章には、2年後に献酌官長がヨセフのことを思いだしたことが書かれています。ヨセフは、献酌官長が牢屋から出てきた次の日から、自分は釈放されることを期待したことでしょう。でも釈放されない。次の日も次の日も、何の知らせもありませんでした。1週間後もありません。1ヶ月後もありません。そして、一年後にもありませんでした。そのときのヨセフの気持ちはどのようなものでしょうか。しかし、この2年間という期間は、神がヨセフに立てられたすばらしい計画が実現するのに、必要だったのです。もし献酌官長がすぐにでもパロにヨセフのことを話したら、釈放されたかもしれませんが、41章にでてくるような、とてつもなく栄光に満ちたものでは在りませんでした。2年が必要だったのです。ヨセフは忍耐して待ちました。ヘブル書にいは、こう書いてあります。「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手にいれるために必要なのは忍耐です。(10:36−36)」大きな報いをもたらす約束を手に入れるのには、忍耐が必要なのです。
こうして、私たちは、「栄光への苦しみ」について学びました。エサウの、目に見える繁栄とは裏腹に、ヤコブはまだカナンの地で滞在していました。そして、ヨセフは、兄弟に見捨てられ、エジプトで奴隷として売られ、さらに無実の罪を着せられて牢獄に入れられ、献酌官長に忘れられました。目に見えるところに従って生きれば、こんな苦しい事、みじめなことはありません。しかし、目に見えない神と、神の約束によれば、そのひとつひとつの出来事が決して無駄にはならず、後にくるすばらしい祝福のために用いられるのです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)」
だからといって、今の世において祝福がない、ということではありません。主が私たちとともにいる、という約束が与えられています。助け主、慰め主なる御霊が、私たちのそばにいてくださいます。この方に満たされる事によって、私たちは、聖く、正しく、罪を憎んで、神にお仕えすることが出来ます。又、賜物を用いて神にお仕えする事が出来ます。だから、信仰によって歩んでください。自分が神の子どもであることを深く認識してください。そして、忠実に神に任されたたもので奉仕してください。そうすれば、神は、豊かに報いてくださり、私たちを栄光の姿に変えてくださいます。
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