創世記42章36節 「全てが悪い方に?」
アウトライン
1A ヤコブの嘆き
1B 自暴自棄から来る愚かさ
1C 早まった判断
2C 誇大解釈
3C 事実に基づかない発言
2B 自暴自棄が示す信仰の欠如
1C 最善を望む信仰 対 最悪を予期する自暴自棄
2C 神から目を離す
3C 状況だけを見ている
4C 「見えないものを見て、忍び通す」
2A 「全てを働かせて益となる」 ローマ8章28節
1B 「知っている」
2B 「神を愛する者」条件
3B 「全て」
4B 事実
1C 感情ではない
2C 全ての涙は拭われる
本文
創世記42章を開いてください。第二礼拝では、42章からおそらく44章まで学ぶと思いますが、今は42章36節に注目したいと思います。
42:36 父ヤコブは彼らに言った。「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」
ここの「こんなことがみな、私に降りかかってくるのだ」は、新共同訳ですと、「みんなわたしを苦しめることばかりだ。」になっています。また英語はもっとはっきりしていて、"All these things are against me."です。これら、全ての事が自分に悪い方に働いている、という意味です。
皆さんも、このような気分になったことがないでしょうか?ある悪いことが起こったかと思うと、続けて違う悪いことが起こる。そこには運命があって、その運命は自分に反対して定まっている、という気持ちです。今の日本に当てはめるなら、「地震が起こって、それから津波まで起こった。それだけではなく原発事故も起こってしまった。すべてが日本に悪い方に進んでいるのだ。」というものです。私たち個人の生活でも、そのようなことがあるのではないでしょうか?
1A ヤコブの嘆き
ヤコブは、13年前にヨセフを失っています。いや、ヨセフは死んでいなかったのですが、兄たちが、牛をほふった血をヨセフの長服に浸してそれを父に持っていったので、ヨセフは死んだものと思っていたのです。そして、シメオンがいなくなりました。飢饉が酷かったので、ヤコブは息子十人に食糧をエジプトで購入するように言いつけます。
けれども、ヨセフを失ったヤコブは、末の子ベニヤミンについては過敏になっており、過剰に保護していました。彼は行かせませんでした。ところが、エジプトで食糧を管理する人は何と、「お前たちはスパイだ。末の息子を連れてこないうちは、一人を監禁しておく。」と言って、シメオンを監獄に入れました。末の弟を連れてくる条件で、彼を釈放するというのです。
しかもこの管理者は、彼らが穀物の代金として支払った銀貨を、穀物の袋の中に返してしまったのです。息子たちが家に戻ってきて、自分の目の前で息子たちの袋から銀貨が出てきたのを見たヤコブは、先ほど読んだ嘆きの言葉を述べたのです。「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」
けれども、その管理者は、皆さんもよくご存知の通り、ヤコブの愛する子ヨセフ本人でした。ヨセフがかつて夢の中で、兄たちが自分にひれ伏すのを見たとおり、兄たちはエジプトの支配者になっていたヨセフの前でひれ伏しました。そしてヨセフは、兄たちが心を入れ替えているのかどうかを試すために、自分の弟ベニヤミンに対して兄たちがどう対応しているのかを知るために、「末の子を連れて来い。」と言ったのです。
1B 自暴自棄から来る愚かさ
1C 早まった判断
私たちもヤコブと同じように、強く失望したことはないでしょうか?ヤコブは、「あなたがたはもう、私に子を失わせている。」と言いました。断定しています。失望すると次に襲ってくる思いは、自分勝手に、早まって断定してしまうことです。そして、自分の家族、友人、その他近くにいる人々に、怒りと嘆きの強い思いをぶちまけてしまうのです。彼らが慰め、励まそうとしているのに、かえって当り散らしてしまうのです。
聖書は、早まった判断をすることを戒めています。「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。 (1コリント4:5)」裁かれる方、判断される方は神なのです。私たちが先走って断定することによって、自分自身を神の立場に置いてしまいます。私たちが怒ったり、憤ったりする時に、しばしばこの過ちを犯しているのです。
2C 誇大解釈
そしてヤコブは誇大解釈をしています。「ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。」今、自分の目に見えることによって、全てのことを拡大して解釈しています。私たちも同じ過ちを犯していないでしょうか?今、自分が経験していること、感じていることを基にして、これからの全てがそのようになると思っているのです。
イスラエルが後に、この過ちによって不信仰の罪を犯しました。シナイの荒野から約束の地に入る時に、始めに使わされた十二人の斥候のうち十人が、先住民が非常に強い民であることを強調しました。カレブやヨシュアは、「そこはすばらしい良い土地だ。主の御心にかなうならば、それを私たちに下さるだろう。」と言いました。けれども彼らは、こう言ったのです。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。(民数13:32-33)」自分の見たものが、思いの中でどんどん拡大されていくのです。
3C 事実に基づかない発言
そしてヤコブは、「みんなわたしを苦しめることばかりだ。」と発言しているのです。全てのことが相働いて益となるのではなく、災いとなっていくと考えました。
これは全く事実ではありません。事実は、主が全てのことを働かせて、益としてくださっていました。そのエジプトの食糧管理長はヨセフだったのです。彼は、ヤコブの家族をエジプトに連れてくるために既に手配を整えようとしていました。銀貨を返したのは、「私があなたがたを養います」という印だったのです。けれどもまだ兄たちが変わっているのかどうかを知るために、試していただけなのです。
苦しめることどころか、ヨセフに間もなく会える一歩手前まで来ていることの徴だったのです。これを「みんな私を苦しめることばかりだ」、「私は悪いことを受ける運命の中にあるのだ」と嘆いていました。けれども、その嘆きは事実に基づかないのです。私たちはしばしばこう言います。「こんな悪いことから、何か良いものが生まれるのだろうか?」ええ、生まれるのです。その「良いものが生まれる」ということの方が事実であり、「全てが悪に働いている」というのは幻想なのです。
2B 自暴自棄が示す信仰の欠如
このような自暴自棄になった失望感は、霊的には「信仰がない」ために起こっている問題です。
1C 最善を望む信仰 対 最悪を予期する自暴自棄
信仰は「最善」を望みます。「(愛は)・・・すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。(1コリント13:7)」期待して、望みをもって待っているのが信仰です。ヘブル人への手紙11章1節にも、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」望んでいるそれに対して、失望は最悪を予期するのです。何か一つのものを見ても、信仰によれば「命」を見ます。たとえそこに何もなくても、そこから神が生み出してくださることを知っています。けれども、自暴自棄になっていると、「もうこれですべてが終わりだ」と思ってしまうのです。
2C 神から目を離す
そして信仰は、当然ながら常に神を見ています。けれども、神から目を離したときに私たちはこのように落ちてしまうのです。ペテロがガリラヤ湖で、イエス様が水の上を歩いておられる時、「ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。(マタイ14:29)」とあります。「ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、『主よ。助けてください。』と言った。(30節)」とあります。イエス様から目を離してしまったのです。
3C 状況だけを見ている
そしてペテロは、「風を見て、こわくなった」とあります。神から目を離して、そして状況だけを見ていたためにそうなってしまいました。問題はここにあります。神を見つめながら、今の状況を見るという順番なら正しいのですが、今の状況を始めに見ると、神が見えなくなります。まるで状況が自分の顔に覆いとなって、太陽の光を見ることができなくなるのと同じです。
ヤコブは、状況だけを見ていました。ヨセフがいない、シメオンがいない、そしてベニヤミンも自分から離れていく・・・。ここに神を見上げた行為がありません。
4C 「見えないものを見て、忍び通す」
けれども、信仰は「目に見えないものを見ることができる」ようにする力となります。ヘブル11章にてモーセについて、「信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。(27節)」とあります。信仰は私たちを盲目にするのではありません。その反対です。今まで見えなかったものを見ることができるようにしてくれるのです。そして今、目に見える世界がどのように動いているのかを正しく判断してみることができるのです。
信仰を持つと、今読んだように忍び通すことができます。聖書が語っている「忍耐」は、やみくもに我慢することではありません。禁欲的になることではありません。事実に裏打ちされた希望があり、それを目で見るように追っていく作業そのものです。そこで、耐え忍び、待ち望むことによって私たちは支えられます。パウロがこう言いました。「私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。(ローマ8:24-25)」
けれども、ヤコブは途中であきらめてしまいました。忍耐する行為を放棄してしまいました。それで目に見えることだけに目を留めていたのです。
ここまでヤコブの問題を話してきましたが、彼はその中にいつまでも沈みこんでいたではないことを付け足したいと思います。43章には、「私も失うときには、失うのだ。(14節)」と言いました。ベニヤミンを失ってもよい、神が憐れんでくださるから、という決意ができました。
2A 「全てを働かせて益となる」 ローマ8章28節
では、ヨセフ本人は一連の出来事をどう見ていたのでしょうか?彼自身も、その問題の渦中にいる時はどこまで理解できていたのかは分かりません。けれども、彼は自分の人生でしだいに明らかにされていく神のご計画に気づき、最後ははっきりと悟っていました。ヤコブが死んだ時に彼は兄たちにこう言いました。「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。(50:20)」
これと同じ考えが、新約聖書の中にあります。ローマ人への手紙8章28節です。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
1B 「知っている」
英語でここの箇所を読むと、"We know"から始まります。つまり、「私たちは知っています」から始まるのですが、ギリシヤ語には「知る」には二つの単語があります。一つは、経験的に知っていることです。自分が経験しているので知っています。そしてもう一つは、直感で知っていることです。経験はしていないけれども、「確かにこのとおりだ」と直感で分かっているのです。
ここの箇所では、後者が使われています。つまり直感で知っているのです。「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」ことを、私たちはもちろんのこと体験することはできません。すべてのことが善であるはずがありません。ヨセフが、兄たちが行なったことについて、「あなたがたは、私に悪を計りました」と言ったように、悪いことは悪いのです。
ですから、キリスト者はくさいものに蓋をするように、悪いものに目を留めないのではありません。悪は悪なのです。けれども、人間はそこで「悪が重なり合って、災いが自分に降りかかる」と推測するのです。けれども、私たちは知っているのです。「これらの悪も、神のご計画の中で、善の目的のために使われていくだろう。」と知っているのです。
ですから、キリスト者はちょっと複雑な感情を抱きます。悲しいのですが、嬉しいのです。今、経験していること、目で見ていることは悲しいのですが、神を知っているので、神が何かをしておられるという期待感で嬉しくなるのです。言い換えれば、キリスト者は二つのレンズを持っていると言えるでしょう。今まで見てきた物理的な世界の他に、目に見えない神の世界の二つの眼鏡を持っています。神の与えてくださるレンズでは、まったく同じ物でも違う方向に進んでいることを見ることができるのです。
2B 「神を愛する者」条件
そして神が、すべてのことを働かせて益あるいは善としてくださることは、全ての人に与えられている特権ではありません。「神を愛する人々」です。神を愛して、神に心が開かれているからこそ、万事が働き益となっていくことを知ることができます。神を知らない人、神を憎んでいる人には悪いことは悪いことで終わるのです。
何か悪いことが起こると、神に心を閉ざしている人は神を非難します。「なぜこのような悪いことを神は起こすのか?」と憤慨します。そして「神がしていることは分からない」と疑うのです。けれども、よく考えてみてください。神は無理やり口をこじ開けて、ご自分を受け入れるようにすることはなさらないのです。神は、私たちが自分の心を開いた分だけ、ご自分の愛を注いでくださいます。ですから私たちのほうが、神に大きく心を開いていないといけないのです。
そして、どのようにしたら神を愛せるのでしょうか?「神のご計画に従って召された人々」とあります。ヨハネ第一には、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し(4:10)」とあります。まず、神が一方的に私たちを愛して、私たちをキリストにあって選んでくださったからこそ、私たちは神を愛することができるのです。「召された」というのは、神の子供になるように呼ばれた、ということです。私たちがボランティアを申し出て神の子供になったのではなく、神が私たちを、孤児院から自分の養子にするために選び出してくださったのです。
この一方的な愛、私たちの行ないとは別に受けている愛を持っているので、私たちは心から神を愛してやまないのです。
3B 「全て」
そして忘れてはいけないことは、「すべてのことを働かせて」であります。一部ではなく、全てです。私たちは神の主権について、よく理解しないといけません。神の主権からはみ出している物など何一つないのです。ダニエル書2章に、「神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、(21節)」とあります。どんなに権力をもった支配者であっても、その支配者を動かしておられるのは神ご自身なのです。どんなに、神を脱しているかのような人がいても、その人が神の支配から離れているところか、神に操られている人形にしか過ぎないのです。
私たちは、全てのことに主を認める必要があります。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(箴言3:6)」どんなに悪いことが起こっても、自分に酷いことが襲いかかっても、「主がこのことをされているのだ」と思った時に私たちの心に平安が与えられます。神がそこに関わっておられないと信じるから、残されているのは自分たった独りなのです。それで自分で何とかしなければと思うのですが、どうしようもできないので絶望してしまいます。神は良いことだけでなく、悪いことにおいても主権を持っておられる方です。
4B 事実
1C 感情ではない
私たちは感情を持っている生き物です。喜んだり、悲しんだり、笑ったり、怒ったりします。けれども、感情によって生きる存在ではありません。多くの人が感情を優先させることによって、事実が見えなくなっています。私たちの信仰は、感情ではなく御言葉という事実に基づいています。たとえ感じられなくても、御言葉は真実だからという理由だけで、それに拠り頼んでいくのです。
2C 全ての涙は拭われる
ですから、「全てが相働き益となる」という真理を決して捨てないでください。聖書は最も悪いことが最も良いことに変わるパラドックスでいっぱいです。キリストの十字架ほど、人間の惨たらしさと醜さが現れている事件はありません。人殺しでも、兄弟殺しでもなく、まさに神殺しをした究極の罪です。ところが、神はそれをご自分の計画の中枢に置いておられました。全人類の罪をご自分の子の上に置き、多くの人を救うための計画を立てておられたのです。
そして、この世はますます悪くなります。地震は起こるし、飢饉、戦争が起こり、そして最後には世界戦争、天変地異が続きます。けれども、これらの悪いことは、「天地が過ぎ去り、神の国が来る」ことの前座でしかありません。悪いことは悪いことです。悲しいです。けれども、神の国に近づいているという喜びがあります。「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。(ローマ13:11)」
ゆえに私たちは決して倒れることはない、ということではありません。悔しい時には悔しいです。辛い時には辛いです。けれども、そこから新しい命の息吹で立ち直る力が与えられるのです。多くの苦しみと迫害を経たパウロがこう言いました。「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。(2コリント4:8-10)」
そして神が最後の時を私たちに見せてくださる時、その過程で苦しんできたことへの有り余る報いをもって慰めてくださいます。すべての涙を拭い取ってくださいます。「また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示21:3-4)」
ヤコブが嘆いていました。周囲の家族に八つ当たりしていました。けれども、それは彼がヨセフに会う一歩手前でありました。ぜひ、私たちの生活でも私たちの苦しみは慰めの一歩手前なのだということを忘れないでください。