創世記45−47章 「遣わしたのは、神」

アウトライン

1A ヨセフの招き 45
   1B 自分を兄に明かすヨセフ 1−15
   2B ヨセフの生存を知るヤコブ 16−28
2A エジプトに下るヤコブの家族 46
   1B 神からの確認 1−7
   2B 七十人の家族 8−27
   3B 父との再会 28−34
3A エジプトでの養い 47
   1B パロとの会合 1−12
   2B エジプトの国有化 13−26
   3B 先祖の墓 27−31

本文

 創世記45章を開いてください。私たちはユダが、ベニヤミンのために自分が奴隷となって保証人となりますという執り成しをヨセフに対して行ったところまで読みました。その続きです。

1A ヨセフの招き 45
1B 自分を兄に明かすヨセフ 1−15
45:1 ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、「みなを、私のところから出しなさい。」と叫んだ。ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。

 ヨセフはこれまで我慢していました。兄たちが自分の前に立った時に、荒々しいことばで語り始め、自分が弟であることを隠しました。けれども、父のこと、弟のことをしつこく尋ね、また銀貨を返し、また兄弟たちを歳の順で席に座らせるなど、自分のことをすべて隠すことはできませんでした。兄たちが自分たちが行ったことを悔いているのを聞いていた時は、表に出て泣きました。ベニヤミンと顔を合わせた時も外に出て泣き、顔を洗って戻ってきました。

 けれども、ここではもう我慢できません。そこからすべての人たちを出し、思いっきりその場で泣きました。

45:2 しかし、ヨセフが声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、パロの家の者もそれを聞いた。

 ヨセフの家はパロの宮廷のすぐそばにあったものと思われます。

45:3 ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして驚きのあまり、答えることができなかった。

 元々は、エジプト語で彼らに話しかけ、通訳がいてヘブル語に直してもらっていましたが、今、突然、彼らにヘブル語で話しかけています。そして兄弟たちは、驚きのあまり答えることができていません。あまりにも意表をついているいるだけでなく、ヨセフであれば殺されても仕方がないという恐怖です。

45:4 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。45:5 今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。

 ヨセフは優しく語りかけました。近寄らせて、確かにヨセフであることを伝えました。確かに兄は自分を売ったけれども、神がこれをヤコブの家族の命を救う目的にしてくださった。兄たちが行っていたのは、実は神ご自身が行っておられたのだ、という悟りです。

 私たちは、このような神の主権を知る必要があります。人が行っているけれども、神が主権の中ですべてを動かしておられるという真理です。イエス様が十字架につけられたのが、まさにそうです。ユダヤ人指導者が彼をねたみ、死刑宣告をしました。そしてローマ人の兵士が彼を十字架につけました。総督ピラトが十字架処刑を宣告しました。これらはみな人が行ったことですが、聖書でははっきりと、神がこれを計画し、予め定めておられたのです。使徒ペテロがこう言いました。「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。(使徒2:23」十字架につけたのは不法な者たちの手によってであります。けれども、それは神が定めた計画と予知によるものでした。

45:6 この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。

 夢によると、七年の豊作の後に七年の飢饉が起こるということでした。二年は経っていますが、だれもそれが五年も続くなど思っていませんでした。それで、ヨセフが五年も続くことを強調しています。

45:7 それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。

 イスラエルの家族がここに来て滞在し、ここで生き残り、そして後に大いなる救いによって生きながらえます。この物語が出エジプト記に記してあります。その時には成年男子で約六十万人が、ですから女子供合わせると2-300百万人が、一気にエジプトから出ていきました。

45:8 だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。

 分かりますか、ヨセフはすべてを神によるものだと悟っているのです。兄がエジプトに売った、自分がパロの夢を解き明かした、自分の知恵を見てパロが私をエジプトの支配者にした、ではなく、神がエジプトに遣わし、神が私をエジプトの統治者にされた、ということです。

 皆さんも同じように言えるでしょうか?「私が今ここにいるのは、神が導かれたからだ。」と言えるでしょうか?それとも、人間側のことだけを考えているでしょうか?すべてが神のご計画の一部なのです。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。(ピリピ1:6」「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(2:13」してくださっているのは神なのです。

45:9 それで、あなたがたは急いで父上のところに上って行き、言ってください。『あなたの子ヨセフがこう言いました。神は私をエジプト全土の主とされました。ためらわずに私のところに下って来てください。45:10 あなたはゴシェンの地に住み、私の近くにいることになります。あなたも、あなたの子と孫、羊と牛、またあなたのものすべて。45:11 ききんはあと五年続きますから、あなたも家族も、また、すべてあなたのものが、困ることのないように、私はあなたをそこで養いましょう。』と。

 「ゴシェンの地」というのは、ナイル川下流の東の地域でスエズ辺りのところです。ナイルの氾濫によって土が肥沃になっている所です。

45:12 さあ、あなたがたも、私の弟ベニヤミンも自分の目でしかと見てください。あなたがたに話しているのは、この私の口です。45:13 あなたがたは、エジプトでの私のすべての栄誉とあなたがたが見たいっさいのこととを私の父上に告げ、急いで私の父上をここにお連れしてください。」

 自分の愛してやまないベニヤミンにも、個人的に声をかけています。そして確かに私はヨセフであることを確認させています。

45:14 それから、彼は弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンも彼の首を抱いて泣いた。45:15 彼はまた、すべての兄弟に口づけし、彼らを抱いて泣いた。そのあとで、兄弟たちは彼と語り合った。 

 ヨセフの豊かな赦しと優しさによって、彼らは和解することができました。和解して、その後、親密な兄弟たちの会話になりました。私たちはなんと、このことを望むでしょうか?分かれてしまった関係、もつれた関係、これらがキリストにある神の和解によって和解が成り立つことを祈らざるを得ません。

 そしてヨセフのことについてですが、彼の話が始まる時に私は、「彼は、ヤコブの家族によって、後に来られるキリストの型になる。」ということをお話ししました。アブラハム、イサク、ヤコブに神は、子孫によって祝福するという約束を与えられましたが、ヤコブの子ヨセフを通してその家族を救いを得ることによって、イスラエルの民全体も救いをキリストによって得ることを予め表しています。

 興味深いことに、そのことはイエス様によって実現しました。イエス様が神の御子であり、天地万物を創造された、イスラエルの聖なる神、いと高き方を、イエス様は「わたしのお父さん」と呼び続けたのです。それで同胞のユダヤ人は怒り、妬み、憎しみ、この方を殺してしまったのです。ところが、イエス様はご自分が戻ってくるときに、「祝福あれ。主の御名によって来られる方に。(マタイ23:39」と言うようになると予告されています。彼らは、イエス様が再び現れる時には、全体として彼をキリストとして受け入れるということなのです。

 ゼカリヤ書12章の後半から13章前半に、そのことが克明に預言されています。1210節だけ読みます。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。」彼らが、全世界の国々によって攻められ、危機一髪の状態である時に、彼らを救うべく主が戻ってこられます。その姿を見るや、彼らは、自分の先祖らがかつて十字架に突き刺したあのナザレ人イエスではないか、と驚愕するというのです。ちょうどそれは、兄たちが、自分たちがかつて奴隷に売ったヨセフが、今エジプトの支配者になって自分に対面しているときの驚きと同じです。

 今、ユダヤ人の人は、イエスの話を聞くとひどく嫌います。イエスを信じることは、ユダヤ人を捨てることだという思いが強くあります。興味深いことに、日本人の人もクリスチャンになると、日本人性を捨てなければいけないという思いに駆られるのと似ている、と、ユダヤ人クリスチャンの方がおっしゃられていました。特に、正統派ユダヤ教徒には、新約聖書を焚書にしたり、イエスを信じるユダヤ人牧師の家族に爆弾を送りつけたりと、迫害を行っています。ですから、戻ってこられた時に、この方が、自分たちが熱心に求めていたメシヤだとは・・・という驚愕に包まれることでしょう。

 私たちも、同じように正しい知識に基づかずに熱心にだけなっていれば、後に天に入った時に驚くことでしょう。パウロはユダヤ人について、「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。(ローマ10:2」と言いましたが、同じように間違った方向で熱心になることはあり得るのです。

2B ヨセフの生存を知るヤコブ 16−28
45:16 ヨセフの兄弟たちが来たという知らせが、パロの家に伝えられると、パロもその家臣たちも喜んだ。45:17 パロはヨセフに言った。「あなたの兄弟たちに言いなさい。『こうしなさい。あなたがたの家畜に荷を積んで、すぐカナンの地へ行き、45:18 あなたがたの父と家族とを連れて、私のもとへ来なさい。私はあなたがたにエジプトの最良の地を与え、地の最も良い物を食べさせる。』

 ヨセフの願いは、パロもすぐに受け入れてくれました。いや、ヨセフ以上にパロは喜んでくれて、彼らに最善の援助をしたいと願いました。自分たちの国を救ってくれたのはヨセフだからだ、ということをよく知っていたからです。彼がいなかったら、エジプト人のほとんどが今頃死に絶えていたことだろう、ということをよく知っていたからです。すばらしい証しをヨセフは立てましたね。

45:19 あなたは命じなさい。『こうしなさい。子どもたちと妻たちのために、エジプトの地から車を持って行き、あなたがたの父を乗せて来なさい。45:20 家財に未練を残してはならない。エジプト全土の最良の物は、あなたがたのものだから。』と。」

 国賓並みの待遇で、ヤコブの家族をエジプトに招き入れようとしています。

45:21 イスラエルの子らは、そのようにした。ヨセフはパロの命により、彼らに車を与え、また道中のための食糧をも与えた。45:22 彼らすべてにめいめい晴れ着を与えたが、ベニヤミンには銀三百枚と晴れ着五枚とを与えた。

 ヨセフは、ベニヤミンに自分の思いを投影させています。これまでの労苦に対する報いを、まるで自分に対して与えるかのようにベニヤミンに行っています。

45:23 父には次のような物を贈った。エジプトの最良の物を積んだ十頭のろば、それと穀物とパンと父の道中の食糧とを積んだ十頭の雌ろばであった。

 エジプトからの贈り物、国をあげての最上の贈り物を与えたいのですが、エジプトに移動しなければならない身です。私たちは、これから引っ越そうとしている人に荷物になるものを贈り物で与えてはいけませんよね?それで知恵を絞って贈り物を考えるのですが、ヨセフは、道中の食べ物にその価値を付けました。十頭のろばと十頭の雌ろばに、道中の食糧をいっぱいに積みました。

45:24 こうしてヨセフは兄弟たちを送り出し、彼らが出発するとき、彼らに言った。「途中で言い争わないでください。」

 これは、彼らに再び良心の呵責が呼び出されて、彼らの間でヨセフに対して行った悪いことについて言い争うな、ということです。ヨセフはなんと優しいのでしょうか!私たちもしばしば行ってしまいますね、過去に葬り去ったことをまた掘り起こしてしまいます。それを埋めたままにすること、一度赦したものは思い返さないこと、これが赦しと和解には必ず必要なことです。

45:25 彼らはこうしてエジプトから上って、カナンの地にはいり、彼らの父ヤコブのもとへ行った。45:26 彼らは父に告げて言った。「ヨセフはまだ生きています。しかもエジプト全土を支配しているのは彼です。」しかし父はぼんやりしていた。彼らを信じることができなかったからである。

 そりゃ、そうですね。信じられるはずがありません。これまでヨセフの死を嘆き悲しんで生きてきたのですから、生きているだけでなく、エジプトの支配者がヨセフなんて?ということです。

45:27 彼らはヨセフが話したことを残らず話して聞かせ、彼はヨセフが自分を乗せるために送ってくれた車を見た。すると彼らの父ヤコブは元気づいた。

 当時の車は、ものすごい高級なものでした。エジプトの最高級のものであったに違いありません。これが信じるに値する証拠となりました。

45:28 イスラエルは言った。「それで十分だ。私の子ヨセフがまだ生きているとは。私は死なないうちに彼に会いに行こう。」

 興味深いことに、ここでは「イスラエル」という神が与えられた新しい名になっています。27節まで「ヤコブ」でした。神の支配の中に自分が生きていることをまた思い出したので、そうなのです。ヨセフの死を嘆き悲しむ間はヤコブでしたが、今、ヨセフを通して神がすべてのことを支配しておられたことを知って、イスラエルになったのです。

 私たちも同じように、自分の名が天に書き記されています。いのちの書に書き記されています。ゆえに、すべてが神の喜びのゆえに成り立っていること、神の中に行き、動かされていることを知るべきです。

2A エジプトに下るヤコブの家族 46
1B 神からの確認 1−7
46:1 イスラエルは、彼に属するすべてのものといっしょに出発し、ベエル・シェバに来たとき、父イサクの神にいけにえをささげた。

 イスラエルは、ヘブロンに住んでいました。そこを南下してベエル・シェバまで来ると、そこからネゲブで荒野になります。そこにはかつてアブラハムが住み、それからイサクも住んでいました。そしてそこからは約束の地から離れることになります。覚えていますか、少年イシュマエルが母ハガルとともにそこから旅をしました。サラがアブラハムに出ていけなければいけない、と言ったからです。イサクと共に約束を受け継ぐことはできないことを話しました。それでアブラハムはパンと水の皮袋を持たせて行かせましたが、井戸が見つからなくて死んでしまうと思ったのです。

 この約束の地の境目まで来たときに、ヤコブは神との出会いに飢え渇きました。ヨセフに会えるとはすばらしいことです。彼が神に対する信仰をもって、ヤコブ全家族を呼び寄せていることも知っています。けれども、自分自身はかつてラバンの下で働いた時以来、約束の地から出たことがありません。住み慣れたところから離れるのはいつでも辛いです。

 けれども何よりも、彼は父イサクのことを思い出したのでしょう。父イサクはいつも、エジプトに下ってはならないと神に語られていました。祖父アブラハムも、決してイサクを外に出すことはしませんでした。アブラハムがエジプトに下り大きな失敗を犯した教訓があるからです。ですから、エジプトに下るというのは、神が語られたことに反するのではないか、とヤコブははたと考えたのです。それで礼拝をささげました。

 私たちにもこのような時が必要です。すべてがうまくいっています。そして、それが神の御心であることも周りの状況からはっきりしています。感情も高まります。また否定的な感情もあり、複雑になっているかもしれません。けれども、そこで置き忘れがちなのは、神との出会いです。神ご自身に会うという営みによって、初めて私たちは霊を休ませることができ、神によって遣わされる必要があるのです。

46:2 神は、夜の幻の中でイスラエルに、「ヤコブよ、ヤコブよ。」と言って呼ばれた。彼は答えた。「はい。ここにいます。」

 すばらしいですね、ヤコブは「はい。」としっかりと答えています。「あなたの言われることは、何でも聞きます。」という態度です。そして神ご自身も、「ヤコブよ、ヤコブよ。」と一度ならず、二度呼びかけておられます。ヤコブに聞いてもらいたいという強い願いを感じることができます。

 そしてこれが「幻の中で」行われました。へブル書1章には、「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。(1-2節)」とあります。かつて預言者が幻や夢などで語られたけれども、御子ご自身によって神が終わりの時に語ってくださっています。その御子を証言するこの聖書の言葉が、私たちに神が語りかけてくださる方法です。

 けれども、だからといって幻や夢で神がもう語られないということではありません。主が来られた後も、使徒たちは夢の中で語られました。そしてヨエル書の預言には、御霊がすべての者に降り注ぎ、青年は幻を見、老人は夢を見る、とあります(使徒2:17)。

46:3 すると仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。46:4 わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。」

 主が語ってくださいました。確かにこれが神の御心であることを知りました。神は、「あなたの父の神」とご自分を呼ばれることによって、確かにアブラハムとイサクに神が与えられた約束を、ヤコブがエジプトに下っても受け継ぐことになることを知りました。

 それは、アブラハムに「あなたは大きな国となる」と言われたことが、エジプトでそうなるのだという実現を見ます。そして何よりも、「わたし自身が下る、またわたし自身が再び導き上る」という神の臨在を約束してくださったからです。主がともにおられなければ、全てのことは空しいです。けれども、主がおられれば、すべてのことが成功します。

 そして彼個人への慰めの約束は、「ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。」です。安らかに、愛する息子によって死を迎えることができるということです。彼はすでに百三十歳になっていますから死期が近づいていることを感じていました。ですから、これは大きな慰めです。

46:5 それから、ヤコブはベエル・シェバを立った。イスラエルの子らは、ヤコブを乗せるためにパロが送った車に、父ヤコブと自分たちの子や妻を乗せ、46:6 また彼らは家畜とカナンの地で得た財産も持って行った。こうしてヤコブはそのすべての子孫といっしょにエジプトに来た。46:7 すなわち、彼は、自分の息子たちと孫たち、自分の娘たちと孫娘たち、こうしてすべての子孫を連れてエジプトに来た。

 家族すべての者がエジプトに動くことを強調しています。そして次から、エジプトに下った家族の名前を列挙しています。

2B 七十人の家族 8−27
46:8 エジプトに来たイスラエルの子・・ヤコブとその子・・の名は次のとおりである。ヤコブの長子ルベン。46:9 ルベンの子はエノク、パル、ヘツロン、カルミ。46:10 シメオンの子はエムエル、ヤミン、オハデ、ヤキン、ツォハル、カナンの女の産んだ子サウル。

 かつてユダがカナン人の女をめとった話を読みましたが、シメオンの妻の一人にもカナン人の女がいたようです。

46:11 レビの子はゲルション、ケハテ、メラリ。

 後にレビ族から幕屋に仕える者たちが出てきますが、ゲルション氏族、ケハテ氏族、メラリ氏族それぞれに分担が与えられます。

46:12 ユダの子はエル、オナン、シェラ、ペレツ、ゼラフ。しかしエルとオナンはカナンの地で死んだ。ペレツの子はヘツロンとハムルであった。

 私たちがすでに読んだ、ユダとタマルの話です。タマルが遊女に変装し、ユダから直接子をもうけました。

46:13 イッサカルの子はトラ、プワ、ヨブ、シムロン。46:14 ゼブルンの子はセレデ、エロン、ヤフレエル。46:15 これらはレアがパダン・アラムでヤコブに産んだ子で、それにその娘ディナがあり、彼の息子、娘たちの総勢は三十三人。

 レアは初めに四人の息子を得て、それからしばらく不妊で、ずっと後にイッサカルとゼブルンを得ました。

46:16 ガドの子はツィフヨン、ハギ、シュニ、エツボン、エリ、アロディ、アルエリ。46:17 アシェルの子はイムナ、イシュワ、イシュビ、ベリアとその妹セラフ。ベリアの子はヘベル、マルキエル。46:18 これらは、ラバンが娘レアに与えたジルパの子である。彼女がヤコブに産んだのは十六人であった。

 レアの女奴隷ジルパが産んだ子と孫たちです。

46:19 ヤコブの妻ラケルの子はヨセフとベニヤミンである。46:20 ヨセフにはエジプトの地で子どもが生まれた。それはオンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテが彼に産んだマナセとエフライムである。46:21 ベニヤミンの子はベラ、ベケル、アシュベル、ゲラ、ナアマン、エヒ、ロシュ、ムピム、フピム、アルデ。46:22 これらはラケルがヤコブに産んだ子で、みなで十四人である。

 ラケルが産んだのはヨセフとベニヤミンのみです。それから生まれた子たちのことです。マナセとエフライムはエジプトで生まれましたが、二人もここに加えています。

46:23 ダンの子はフシム。46:24 ナフタリの子はヤフツェエル、グニ、エツェル、シレム。46:25 これらはラバンが娘ラケルに与えたビルハの子である。彼女がヤコブに産んだのはみなで七人であった。

 ラケルの女奴隷ビルハの子と孫たちです。

46:26 ヤコブに属する者、すなわち、ヤコブから生まれた子でエジプトへ行った者は、ヤコブの息子たちの妻は別として、みなで六十六人であった。46:27 エジプトでヨセフに生まれた子らはふたりで、エジプトに行ったヤコブの家族はみなで七十人であった。

 ヤコブの息子たちの妻は別としていますし、娘たちの夫も別にしています。さらに、シェケムにてその男たちをシメオンとレビが虐殺したとき、その女子供を略奪しましたから、その構成員も含まれるでしょう。ですから、実際に動いていたのは七十人より多かったです。

 そして使徒の働き7章にて、ユダヤ人のサンヘドリンにおいてステパノという教会の執事が裁判にかけられた時に、旧約の歴史を彼は述べていきました。「そこで、ヨセフは人をやって、父ヤコブと七十五人の全親族を呼び寄せました。(使徒7:14」と言っています。五人さらに多いです。これは、マナセとエフライムの息子と孫の数が足されているからです(民数26:28-37、1歴代7:14-27)。

 けれども「七十」という数は興味深いですね。「七」という数が創世記の初めからたくさん出てきましたが、これは神のご性質をあらわす数であることが分かります。後にモーセのところにつく長老が七十人いることになります。そして、ダニエルが終わりの日については、七十週が定められているという啓示を受けました。

3B 父との再会 28−34
46:28 さて、ヤコブはユダを先にヨセフのところに遣わしてゴシェンへの道を示させた。それから彼らはゴシェンの地に行った。

 ユダが家族を率いる役目を担っています。ヨセフに対して保証人となると言ったのもユダであるし、不名誉なことですが、ヨセフを売ろうと言ったのもユダでした。彼が後に、ヤコブから「獅子のようになる」という預言を受け、つまりは王たちが出てきて、メシヤも現れるとの祝福を受けます。

46:29 ヨセフは車を整え、父イスラエルを迎えるためにゴシェンへ上った。そして父に会うなり、父の首に抱きつき、その首にすがって泣き続けた。

 二十二年ぶりの再会です。長いこと泣き続けたことでしょう。

46:30 イスラエルはヨセフに言った。「もう今、私は死んでもよい。この目であなたが生きているのを見たからには。」

 彼は旅を始める前に、「私は死なないうちに彼に会いに行こう。」と言いました。そして今会えたので、「もう今、私は死んでもよい。」と言いました。そして、神の約束も感じたことでしょう、ヨセフの手が自分の目を閉じてくれる、という約束です。

 けれども、彼はさらにここで十七年生きることになります。まだ主が彼に与えられている地上での役目と祝福がありました。

46:31 ヨセフは兄弟たちや父の家族の者たちに言った。「私はパロのところに知らせに行き、申しましょう。『カナンの地にいた私の兄弟と父の家族の者たちが私のところに来ました。46:32 この人たちは羊を飼う者です。家畜を飼っていた者です。彼らは、自分たちの羊と牛と彼らのものすべてを連れて来ました。』46:33 パロがあなたがたを呼び寄せて、『あなたがたの職業は何か。』と聞くようなときには、46:34 あなたがたは答えなさい。『あなたのしもべどもは若い時から今まで、私たちも、また私たちの先祖も家畜を飼う者でございます。』と。そうすれば、あなたがたはゴシェンの地に住むことができるでしょう。羊を飼う者はすべて、エジプト人に忌みきらわれているからです。」

 ヨセフは、彼らが肥沃なゴシェンの地に確かに住むことができるように、申し合わせをさせました。パロの前での手続きです。

 そして興味深いのは、家畜を飼う者はエジプト人は忌み嫌っていた、ということです。高い文明を誇っているエジプト人は、羊を飼う者たちをさげすんでいました。したがって、これもまたエジプトの中で彼らが守られ、増え広がった原因となったのです。エジプト人がそこに近づかなかったので、彼らだけで子を生むことができたのです。

3A エジプトでの養い 47
1B パロとの会合 1−12
47:1 ヨセフはパロのところに行き、告げて言った。「私の父と兄弟たちと、羊の群れ、牛の群れ、そして彼らのものすべてがカナンの地からまいりました。そして今ゴシェンの地におります。」47:2 彼は兄弟の中から五人を連れて、パロに引き合わせた。47:3 パロはヨセフの兄弟たちに尋ねた。「あなたがたの職業は何か。」彼らはパロに答えた。「あなたのしもべどもは羊を飼う者で、私たちも、また私たちの先祖もそうでございます。」

 ヨセフの申し合わせ通りに答えています。さらに・・・

47:4 彼らはまたパロに言った。「この地に寄留しようとして私たちはまいりました。カナンの地はききんが激しくて、しもべどもの羊のための牧草がございませんので。それでどうか、あなたのしもべどもをゴシェンの地に住ませてください。」

 兄たち五人は、「寄留しようとして」という言葉を使っています。これはここに定住するということではなく、一時滞在ということです。ここから創世記の最後に至るまで、彼らは、ヤコブ、そしてヨセフに至るまで「エジプトは我々の故郷ではない」という姿勢を貫きます。ちょうど地震と原発事故でほかの地域に一時避難している人たちのように、彼らも神の計らいで一時的にエジプトに滞在しているだけです。

 ここから、「約束の地を待つイスラエル」の姿が浮かびあがってきます。たとえエジプトにいても、心はイスラエルの地です。私たちキリスト者は、信仰によって新たに御霊によって生まれた時以来、国籍が天に移りました。故郷はここにはあらず、天にあるのです。私たちの地上の生活が、「一時的なもの」という意識はあるでしょうか?ペテロはこう言いました。「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。(1ペテロ2:11

47:5 その後、パロはヨセフに言った。「あなたの父と兄弟たちとがあなたのところに来た。47:6 エジプトの地はあなたの前にある。最も良い地にあなたの父と兄弟たちとを住ませなさい。彼らはゴシェンの地に住むようにしなさい。もし彼らの中に力のある者がいるのを知っていたら、その者を私の家畜の係長としなさい。」

 パロ自身も家畜を所有していました。

47:7 それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、パロの前に立たせた。ヤコブはパロにあいさつした。

 ここで訳されている「あいさつした」というのは、大きな意訳です。ヤコブがパロの前を去る時も10節に「あいさつした」とありますが、実際は「祝福した」とあります。祝福は上位にいる者が下位にいる者に対して行うものです。ヤコブは、この世の王を前にして、自分が自由人であり、霊的には彼に祝福を与える位置についていることを知っていました。

 私たちキリスト者は、ヤコブと同じように霊的に祭司であり、自由人です。どんなに力を持っている人であっても、知識を有している人であっても、すべての人の霊的必要は同じなのです。キリストが罪人を救うために来られた、ということ。そして罪の赦しを受け、永遠の命を得るのだということ。この真理を伝え、またこの真理のために祈り、祝福するのは、たとえ国の指導者であっても行うものなのです。イエス様が弟子たちに言われました。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。(ヨハネ20:23

 時々、牧師は不思議な気分になります。知識や経験においては、はるかに優れている人々に対して霊的な奉仕をさせていただいていることが多いからです。仕事についていることは、その最前線で働いておられるわけであり、自分は何様だ、という思いになることがあります。けれども不思議なことに、霊的な必要については全く同じなのです。子供であっても大人であっても、女性であっても男性であっても、学齢のある人、高度な知識を要する職業についている人であっても、土方のおじさんであっても、真理はとても単純であり、それを必要としています。

 だから、私たちはすべての人に対して祭司であり、キリストの御名によってその人のために祈り、仕える必要があります。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(1ペテロ2:9

47:8 パロはヤコブに尋ねた。「あなたの年は、幾つになりますか。」47:9 ヤコブはパロに答えた。「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」47:10 ヤコブはパロにあいさつして、パロの前を立ち去った。

 アブラハムは175歳まで生き、イサクは180歳まで生きました。それで「齢の年月はわずか」と言っています。そしてそれが、「ふしあわせだった」からだと言っていますが、確かにヤコブの人生には今でいうストレスが多かったです。エサウから逃げ、ラバンの下で過酷な労働を強いられました。自分の力で、自分の手の力で生きてきた所にあるのは、ストレスであり疲れです。現代に生きる私たちにも同じことが言えるのではないでしょうか。

47:11 ヨセフは、パロの命じたとおりに、彼の父と兄弟たちを住ませ、彼らにエジプトの地で最も良い地、ラメセスの地を所有として与えた。47:12 またヨセフは父や兄弟たちや父の全家族、幼い子どもに至るまで、食物を与えて養った。

 ゴシェンの地の一部が「ラメセス」という地です。後にラメセス王朝が出てきますが、この地名が由来です。そして彼らは、飢饉が激しく続いていてもここで生き残ることができました。

2B エジプトの国有化 13−26
 次にヨセフがいかに、この飢饉の時期にエジプト国民を生かし続けることができたか、その知恵ある統治の姿を読むことができます。

47:13 ききんが非常に激しかったので、全地に食物がなく、エジプトの地もカナンの地もききんのために衰え果てた。47:14 それで、ヨセフはエジプトの地とカナンの地にあったすべての銀を集めた。それは人々が買った穀物の代金であるが、ヨセフはその銀をパロの家に納めた。

 ヨセフは受け取った金をすべて国庫の中に入れました。

47:15 エジプトの地とカナンの地に銀が尽きたとき、エジプト人がみなヨセフのところに来て言った。「私たちに食物を下さい。銀が尽きたからといって、どうして私たちがあなたさまの前に死んでよいでしょう。」47:16 ヨセフは言った。「あなたがたの家畜をよこしなさい。銀が尽きたのなら、家畜と引き替えに与えよう。」47:17 彼らがヨセフのところに家畜を引いて来たので、ヨセフは馬、羊の群れ、牛の群れ、およびろばと引き替えに、食物を彼らに与えた。こうして彼はその年、すべての家畜と引き替えた食物で彼らを切り抜けさせた。

 家畜の財産をもって支払いをさせました。

47:18 やがてその年も終わり、次の年、人々はまたヨセフのところに来て言った。「私たちはあなたさまに何も隠しません。私たちの銀も尽き、家畜の群れもあなたさまのものになったので、私たちのからだと農地のほかには、あなたさまの前に何も残っていません。47:19 私たちはどうして農地といっしょにあなたさまの前で死んでよいでしょう。食物と引き替えに私たちと私たちの農地とを買い取ってください。私たちは農地といっしょにパロの奴隷となりましょう。どうか種を下さい。そうすれば私たちは生きて、死なないでしょう。そして、土地も荒れないでしょう。」

 彼らは自ら農奴となりました。土地をパロのものにしてもらい、そして食糧はあてがってもらい、そして自分たちがそこで小作をします、ということです。飢饉であっても農作をある程度しなければほんとに荒れ果ててしまいまので、そう申し出ています。

47:20 それでヨセフはエジプトの全農地を、パロのために買い取った。ききんがエジプト人にきびしかったので、彼らがみな、その畑地を売ったからである。こうしてその土地はパロのものとなった。47:21 彼は民を、エジプトの領土の端から端まで町々に移動させた。

 土地がすべて国有化されたので、ヨセフは一時的に町々に移動させました。そして改めて、彼らに土地を割り当て、そこで農作してもらうことになります。

47:22 ただ祭司たちの土地は買い取らなかった。祭司たちにはパロからの給与があって、彼らはパロが与える給与によって生活していたので、その土地を売らなかったからである。

 当時、エジプトの神官はものすごい既得権を得ていました。王でさえ干渉することのできない私有地を持つことができるほどでした。後に出エジプト記で、彼らがパロの前で魔術を行って見せます。王をある意味で動かしていたのがこれら祭司です。

47:23 ヨセフは民に言った。「私は、今、あなたがたとあなたがたの土地を買い取って、パロのものとしたのだから。さあ、ここにあなたがたへの種がある。これを地に蒔かなければならない。47:24 収穫の時になったら、その五分の一はパロに納め、五分の四はあなたがたのものとし、畑の種のため、またあなたがたの食糧のため、またあなたがたの家族の者のため、またあなたがたの幼い子どもたちの食糧としなければならない。」

 農奴になったと言っても、実際の生活は手厚い保護を受けていました。いわゆる税率20パーセントの納税を行っていたのと同じです。けれども福利厚生関連はみな宛がわれていたのですから、ずいぶん得をしています。

 ヨセフによくしてあげたエジプトのパロは、ヨセフのゆえに祝福されました。「あなたを祝福するものは祝福される」という約束の通りです。そして、出エジプト記ではイスラエルをパロは苦しめました。そしてエジプトも十の災いの苦しみを受けました。「呪うものは呪われる」です。

47:25 すると彼らは言った。「あなたさまは私たちを生かしてくださいました。私たちは、あなたのお恵みをいただいてパロの奴隷となりましょう。」47:26 ヨセフはエジプトの土地について、五分の一はパロのものとしなくてはならないとの一つのおきてを定めた。これは今日に及んでいる。ただし祭司の土地だけはパロのものとならなかった。

 ヨセフの行政によって、彼らは自分たちが救われていることをよく知っていました。それで喜んでパロの奴隷になっています。ヨセフは民に愛されている指導者でした。このような指導者は幸せです。

 そしてモーセがこの創世記を記したのですが、彼の時代、すなわち紀元前1400年辺りまでこの税制は続いていたようです。そして神官優遇制度も続いていました。

3B 先祖の墓 27−31
47:27 さて、イスラエルはエジプトの国でゴシェンの地に住んだ。彼らはそこに所有地を得、多くの子を生み、非常にふえた。47:28 ヤコブはエジプトの地で十七年生きながらえたので、ヤコブの一生の年は百四十七年であった。

 ヤコブは、生きている時に神の約束の一部を見ました。自分が生きている時でさえ、多くの子が生まれました。

47:29 イスラエルに死ぬべき日が近づいたとき、その子ヨセフを呼び寄せて言った。「もしあなたの心にかなうなら、どうかあなたの手を私のももの下に入れ、私に愛と真実を尽くしてくれ。どうか私をエジプトの地に葬らないでくれ。

 かつて、アブラハムが自分のしもべに、自分のももの下に手を入れ誓わせましたが、これは厳粛な誓いです。

47:30 私が先祖たちとともに眠りについたなら、私をエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってくれ。」するとヨセフは言った。「私はきっと、あなたの言われたとおりにいたします。」

 ヘブロンのところにある私有の墓地です。そこに私を葬ってくれとお願いしています。

47:31 それでイスラエルは言った。「私に誓ってくれ。」そこでヨセフは彼に誓った。イスラエルは床に寝たまま、おじぎをした。

 「床に寝たまま」とありますが、七十人訳では「杖によりかかって」となっているそうです。ヘブル書1121節に、「信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました。(ヘブル11:21」とあります。彼はここで、自分の信仰をふりしぼって、神に礼拝をささげていたのです。

 彼はエジプトで最後の十七年間、非常に祝福されたにも関わらず、それでも自分自身ではないことを告白しました。カナン人の地が故郷であることを告白しました。そして、先祖に与えられた約束に自分も入っているのだという信仰表明のために、その墓に自分も葬られたいと願ったのです。

 私たちもこのヤコブの姿勢を持っているべきです。たとえこの世において祝福されても、それによって左右されてはいけません。試練にもあうし、祝福もされますが、それによって自分を変えてはならないのです。いつも、ただ天のみを仰ぎ見て、そこに自分が行くことだけを願い求める生活を送るべきです。皆さんは、天へのあこがれはあるでしょうか?そこに不動の神の都があるのを知っていますでしょうか?そこに入りたいと切望していますか?

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