創世記46章−50章  「贖いの約束」


アウトライン

1A  保証  46−47
   1B  みことば  46
      1C  信頼  1−7
      2C  献身  8−27
      3C  満足  28−34
   2B  初めの働き  47
      1C  分離  1−12
      2C  支配  13−26
      3C  実現  27−31
2A  確信  48−49
   1B  選び  48
      1C  約束  1−7
      2C  礼拝  8−16
      3C  信仰  17−22
   2B  終わりの日  49
      1C  地の祝福  1−28
      2C  天の祝福  29−33
3A  堅忍  50
   1B  従順  1−14
   2B  和解  15−21
   3B  約束  22−26

本文 

 創世記46章を開いてください。今日は、創世記の最後の学びになります。46章から50章までを学びます。ここでのテーマは、「贖いの約束」です。それでは早速、本文に入りましょう。

1A  保証  46−47
1B  みことば  46
1C  信頼  1−7
 イスラエルは、彼に属するすべてのものといっしょに出発し、ベエル・シェバに来たとき、父イサクの神にいけにえをささげた

 イスラエルは息子ヨセフがまだ生きていることを聞きました。生きているだけでなく、エジプト全土を支配していることを聞きました。ヨセフは、父とその家族が全員エジプトに下ってくるようにお願いしました。飢きんがあと5年続くので、このままでは飢え死にしてしまうからです。それで、イスラエルはすぐに身支度を整え、家族と一緒に大移動を開始しました。

 けれども、彼はふと、こう思ったことでしょう。「自分の父アブラハムとイサクは、このカナンの地に住んだ。私も、パダン・アラムで妻と子どもを得てから、カナンの地の戻ってきた。ここは、神の約束の地であり、私は今まで、ここに、留まってきたのだ。それなのに、今、ここを離れてよいものか。」と、彼は考えたにちがいありません。それで、ベエル・シェバにきたときに、神に伺いを立てたのです。神がこの移住を喜んでおられるのか、エジプトに行くことを神は願っておられるのか、ヤコブは知りたいと思いました。いけにえをささげた場所は、父イサクが住んだベエル・シェバです。神はベエル・シェバで、イサクに現れてくださいました。

 ですから、この場所でいけにえをささげることは、神の約束を思い出し、神との交わりをし、神に自分をささげるときを持つことです。私たちも、日々の生活の決断において、神に立ち戻り、主のみこころをうかがわなければいけません。

 神は、夜の幻の中でイスラエルに、「ヤコブよ、ヤコブよ。」と言って呼ばれた。彼は答えた。「はい。ここにいます。」

 神は、ヤコブを愛されていました。ヤコブよ、ヤコブよ、と優しく語り掛けておられます。そして、ヤコブは、「はい。ここにいます。」とすぐに答えています。彼は眠っている時でも、神の御声を聞き分けることが出来ました。預言者サムエルが召し出されるときも、同じ事が起こりましたね。彼は、寝ていたときにおきあがって、「はい。ここにいます。主よ。お話ください。しもべは聞いております。(1サムエル3:4,9)」と答えました。彼らは、一心に主の御声に耳を澄ましていたのです。聞きたくないことは、聞かないというような条件つきの聞き方ではなく、何でもお話ください、という無条件の聞き方でした。

 ある小冊子に、お父さんが子どもを呼ぶときに、好き勝手な聞き方をしていることが書かれていました。「ほら、部屋の掃除をしなさい。」とか、「ほら、ちゃんと、宿題をしなさい。」とお父さんが言っても、子供達から何の反応もありません。けれども、「アイスクリーム買ってきたぞ。」とか、「ディズニー・ランドに行こう!」と言うと、子供達はどこからともなく、ふって沸いたように出てきます。私たちも、神の御言葉に対して、そのような聞き方をしていないでしょうか。聞きたくないことは聞かない。自分勝手に解釈することはありませんか。けれども、ヤコブは、夜眠っているときに、「はい。ここにいます。」と言いました。何でも聞きます、いつでも聞きます、という態度をもっていたのです。

 すると仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。」

 神ご自身がヤコブに現れてくださいました。そして、ヤコブの疑問について、保証をしてくださいました。「あなたは、エジプトに行く事をとまどっているが、だいじょうぶだ。安心しなさい。これは、わたしの願っていることなのだ。」とおっしゃっているのです。いろいろな約束を与えられて、ヤコブを安心させておられます。

 1つ目の約束は、エジプトで、ヤコブを大いなる国民にすると約束されたのです。アブラハムがこの約束を受けてから、もう215年たちますが、まだ70人の家族しかいませんでした。けれども、エジプトに下っていったら、大いなる国民にすると約束されたのです。事実、イスラエルが430年エジプトに滞在してから、大人の男性だけでも60万人になっていたことが、出エジプト記12章に書かれています。そして、神ご自身がヤコブとともにエジプトに下ると約束されました。彼は、異国の地でひとりぼっちになりません。神がともにおられて、彼を励まし、慰め、力を与え、まもってくださいます。イエスも弟子達に、「私は、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:20)」と約束されています。

 さらに、神ご自身が必ずヤコブを導き上らせると約束してくださいました。ヤコブは、自分がずっとカナンの地に滞在して、神の祝福の約束が実現されると思っていました。しかし、そうではなく、エジプトにいるイスラエル人が、カナンの地に導かれることによって約束が実現します。アブラハムには、自分の子孫が外国に行って、寄留者になり、奴隷とされ、苦しめられることが伝えられていました(15:13)。彼らは、こうした苦しみと奴隷の状態から救い出されて、約束の地に連れ戻され、祝福を受けます。

 これを言い換えると、贖いと言います。これはもともと、「買い戻す」という商業用語で、奴隷を代金をはらって自分のものとすることを言います。神が、奴隷状態になっている民を買い戻し、ご自分の民にすることが、ここで言う贖いです。私たちが贖われるというのは、罪の奴隷状態から贖われることです。神はご自分の子を代価にして、罪の奴隷になっていた私たちを買い戻してくださいました。ですから、神がヤコブに約束してくださったのは、救いの約束であり、将来、必ず救い出される保証をしてくださったのです。そして、神は、ヤコブの死を息子ヨセフが見届けてくれる約束もしてくださいました。安心して死ぬことができる保証をしてくださったのです。

 それから、ヤコブはベエル・シェバを立った。イスラエルの子らは、ヤコブを乗せるためにパロが送った車に、父ヤコブと自分たちの子や妻を乗せ、また彼らは家畜とカナンの地で得た財産も持って行った。こうしてヤコブはそのすべての子孫といっしょにエジプトに来た。すなわち、彼は、自分の息子たちと孫たち、自分の娘たちと孫娘たち、こうしてすべての子孫を連れてエジプトに来た。

 ヤコブは、神の御声に聞き従いました。そして、すべての財産、すべての子孫を連れて行きました。何か一部を残して主に従ったのではなく、全部従いました。神を全面的に信頼したのです。「心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる(箴言3:5−6)」とソロモンは言っています。

2C  献身  8−27
 エジプトに来たイスラエルの子――ヤコブとその子――の名は次のとおりである。

 ここから、ヤコブの家族の名前が列挙されています。ヤコブの12人の息子の名前と、彼らが生んだ子供達の名前が載っています。27節に飛びます。

 エジプトでヨセフに生まれた子らはふたりで、エジプトに行ったヤコブの家族はみなで七十人であった。

 出て行くときは70人でした。この70人を、ヤコブは、ある意味で主にお捧げしたのです。この70人から大いなる国民が出ることを、彼は信じたのです。イザヤ書には、「もっとも小さいものも氏族となり、最も弱いものも強国となる。時がくれば、わたし、主が、すみやかにそれをする。(60:22)」と書かれています。どんなに少ない人数でも、神は、それを氏族とし、強国とされるのです。大事なのは、その少ないものを全て捧げることです。イエスは、弟子達に、自分達で5千人以上の群集に食べ物を与えるように命じられました。彼らには、5つのパンと2匹の魚しかありませんでしたが、それをみなイエスに差し出しました。すると、イエスは、それを祝福し、群集に配るように命じられると、全ての群集が満腹し、あまりも出たのです。これが、神の方法です。少ないものをふやすことによって、ご自分の栄光を表されます。私たちの責任はそのすくないものすべてをささげることです。

3C  満足  28−34
 さて、ヤコブはユダを先にヨセフのところに遣わしてゴシェンへの道を示させた。先にユダを遣わしました。ユダが、兄弟の中で家を管理する役割を担っていました。それから彼らはゴシェンの地に行った。ヨセフは車を整え、父イスラエルを迎えるためにゴシェンへ上った。そして父に会うなり、父の首に抱きつき、その首にすがって泣き続けた。22年以上ぶりの再会です。ヨセフが父ヤコブを見たのは、17歳の頃でした。彼が首に抱きついて、泣きつづけたのは無理もない事です。イスラエルはヨセフに言った。「もう今、私は死んでもよい。この目であなたが生きているのを見たからには。」

 イスラエルは満足しました。神が、「ヨセフの手があなたの目を閉じてくれるだろう。」と言われたことが確実になったからです。それに、ヤコブは、ヨセフが兄弟と父母も治めるヨセフの夢のことを聞いていました。いま、自分の目で、その夢が実現されたのを見ることが出来て、彼は満足しているのです。ヤコブは霊的な人ですね。自分に何か幸せがおとずれて満足するのではなく、神の約束が実現されることに満足しているからです。

 みなさんは、何が実現されて満足するでしょうか。衣食住の物質的な必要が満たされることでしょうか。肉体が元気になって満足することでしょうか。それとも、精神的な必要がみたされることで満足しますか。友達が出来たり、教会で活動をするなど、社会的な必要が満たされる事ですか。イエスは、「神の国とその義をまず第一に求めなさい。」と言われました。神の約束が実現すること、神ご自身が自分に現れてくださること、神のことを深く知るようになること、そうした霊的な必要が満たされる事が、最も大切です。

 ヨセフは兄弟たちや父の家族の者たちに言った。「私はパロのところに知らせに行き、申しましょう。『カナンの地にいた私の兄弟と父の家族の者たちが私のところに来ました。この人たちは羊を飼う者です。家畜を飼っていた者です。彼らは、自分たちの羊と牛と彼らのものすべてを連れて来ました。』パロがあなたがたを呼び寄せて、『あなたがたの職業は何か。』と聞くようなときには、あなたがたは答えなさい。『あなたのしもべどもは若い時から今まで、私たちも、また私たちの先祖も家畜を飼う者でございます。』と。そうすれば、あなたがたはゴシェンの地に住むことができるでしょう。羊を飼う者はすべて、エジプト人に忌みきらわれているからです。」

 ヨセフが、彼らがゴシェンの地にすむための手はずを整えています。まず自らパロに話し、次に、兄弟たちがパロに話します。そのときに、自分達が羊を飼うものであると言います。ヨセフが、詳しく指示を与えていますが、何故でしょうか。理由は、羊を飼うものは、エジプト人に忌み嫌われている、という事実です。ヨセフも、父ヤコブと同じように、神がイスラエルをエジプトで、大いなる国民にされることを知っていました。その時、イスラエル人がエジプト人と結婚することなく、ふえていかなければなりません。ですから、羊を飼うことをパロに話すことは、この神の御計画に好都合なことだったのです。ヨセフも、神の贖いの御計画をよく知っていました。そして、その計画に基づいて、実際的な手続きを踏んでいるのです。

2B  初めの働き  47
1C  分離  1−12
 ヨセフはパロのところに行き、告げて言った。「私の父と兄弟たちと、羊の群れ、牛の群れ、そして彼らのものすべてがカナンの地からまいりました。そして今ゴシェンの地におります。」彼は兄弟の中から五人を連れて、パロに引き合わせた。パロはヨセフの兄弟たちに尋ねた。「あなたがたの職業は何か。」彼らはパロに答えた。「あなたのしもべどもは羊を飼う者で、私たちも、また私たちの先祖もそうでございます。」 彼らはまたパロに言った。「この地に寄留しようとして私たちはまいりました。カナンの地はききんが激しくて、しもべどもの羊のための牧草がございませんので。それでどうか、あなたのしもべどもをゴシェンの地に住ませてください。」

 兄弟たちは、ヨセフの支持どおりに行いました。彼らは、この地に寄留していると告白しました。カナンの地が故郷であり、ゴシェンに住むことは、一時的であるという意識を彼らは持っていました。神の約束を受け取っていたのです。私たちは、今ここで住んでいる地が外国であると感じるほど、天の御国に憧れているでしょうか。天の御国のすばらしさを、しっかりと理解する事によって、私たちは、この地上では寄留者であると告白することが出来るのです。

 その後、パロはヨセフに言った。「あなたの父と兄弟たちとがあなたのところに来た。エジプトの地はあなたの前にある。最も良い地にあなたの父と兄弟たちとを住ませなさい。彼らはゴシェンの地に住むようにしなさい。パロは、基本的に、どこに住んでも良い、もし、それがゴシェンならそれをとりなさい、と言っています。もし彼らの中に力のある者がいるのを知っていたら、その者を私の家畜の係長としなさい。」 パロ自身も、家畜を飼っていたようです。彼らの一人が、その家畜を飼うように命じました。それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、パロの前に立たせた。ヤコブはパロにあいさつした。

 この、あいさつした、は、祝福したと訳せます。ヤコブがパロを祝福しました。今、ここで、2人の王が出会っています。霊的な王と、この世界の王です。どちらも、ものすごい権威がゆだねられています。そして、霊的な王が、この世の王よりも優れています。ヘブル書に、「下位のものが上位のものから祝福されるのです。(7:7)」とあるからです。クリスマスの時に、ボスニアに、プレゼントの入った箱を子供達に持って行った、一人の夫人の話を聞きました。ビリー・グラハムの息子、フランクリンがリーダーになっているプロジェクトの中で、この女性が防弾チョッキを着て、ボスニアに入りました。でも、彼女はどこにでも見かけるような、普通のおばさんだそうです。それを聞きつけたアメリカ政府は、彼女をホワイトハウスに招きました。そして、ビル・クリントンが彼女に会い、彼女は、「あなたのためにお祈りしていいですか。」と聞きました。そして、クリントンに手を置いて祈った後、彼は涙を流していたようです。この普通のおばさんが、アメリカを動かし、世界に影響力を与える合衆国大統領よりも優れていました。霊的な権威は、地上の権威よりも大きいのです。

 パロはヤコブに尋ねた。「あなたの年は、幾つになりますか。」ヤコブはパロに答えた。「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」

 アブラハムは175歳で死に、イサクは180歳で死にましたが、ヤコブは自分が長生きしても、その年齢には達しないことを感じていました。また、「私の齢の年月はふしあわせです。」と彼は言いました。エサウから逃げるところから始まり、ラバンにだまされて苦労して働き、帰ってきたら、娘のディナが強姦にあい、シメオンとレビは虐殺を働き、そして、兄弟たちは、ヨセフを奴隷に売りました。彼の生涯は苦労の連続だったのです。そのため、実際に肉体が衰えて、寿命を短くしていたのかもしれません。

 ヤコブはパロにあいさつして、パロの前を立ち去った。

 また、パロを祝福しました。

 

2C  支配  13−26
 ききんが非常に激しかったので、全地に食物がなく、エジプトの地もカナンの地もききんのために衰え果てた。それで、ヨセフはエジプトの地とカナンの地にあったすべての銀を集めた。それは人々が買った穀物の代金であるが、ヨセフはその銀をパロの家に納めた。

 ここからヨセフは、パロの中央集権国家を作ろうとしています。官僚制と封建制を強いて、この飢きんの年月に国家に秩序が保たれるようにしようとしています。まず、銀をパロの家に納めました。

 エジプトの地とカナンの地に銀が尽きたとき、エジプト人がみなヨセフのところに来て言った。「私たちに食物を下さい。銀が尽きたからといって、どうして私たちがあなたさまの前に死んでよいでしょう。」 ヨセフは言った。「あなたがたの家畜をよこしなさい。銀が尽きたのなら、家畜と引き替えに与えよう。」彼らがヨセフのところに家畜を引いて来たので、ヨセフは馬、羊の群れ、牛の群れ、およびろばと引き替えに、食物を彼らに与えた。こうして彼はその年、すべての家畜と引き替えた食物で彼らを切り抜けさせた。

 ヨセフは銀の次に家畜を集めました。

 
やがてその年も終わり、次の年、人々はまたヨセフのところに来て言った。「私たちはあなたさまに何も隠しません。私たちの銀も尽き、家畜の群れもあなたさまのものになったので、私たちのからだと農地のほかには、あなたさまの前に何も残っていません。私たちはどうして農地といっしょにあなたさまの前で死んでよいでしょう。食物と引き替えに私たちと私たちの農地とを買い取ってください。私たちは農地といっしょにパロの奴隷となりましょう。どうか種を下さい。そうすれば私たちは生きて、死なないでしょう。そして、土地も荒れないでしょう。」それでヨセフはエジプトの全農地を、パロのために買い取った。ききんがエジプト人にきびしかったので、彼らがみな、その畑地を売ったからである。こうしてその土地はパロのものとなった。

 ヨセフは、今度は、土地をパロのために集めました。けれども、ひとつだけ集められなかった土地があります。次を見てください。

 彼は民を、エジプトの領土の端から端まで町々に移動させた。ただ祭司たちの土地は買い取らなかった。祭司たちにはパロからの給与があって、彼らはパロが与える給与によって生活していたので、その土地を売らなかったからである。

 ヨセフは異郷の祭司達の土地も、買い取ろうとしたのでしょう。しかし、これにはパロが拒否権をだし、買い取れなかったのだと思われます。祭司達には、強い既得権があったのでしょうか、確かなところはわかりません。でも、後にモーセがパロの前に杖を投げた時、同じように杖を投げたのは、このエジプトに雇われた祭司達でした。そして、エジプトの一つ一つの神々が、災害によってさばかれました。

 ヨセフは民に言った。「私は、今、あなたがたとあなたがたの土地を買い取って、パロのものとしたのだから。さあ、ここにあなたがたへの種がある。これを地に蒔かなければならない。収穫の時になったら、その五分の一はパロに納め、五分の四はあなたがたのものとし、畑の種のため、またあなたがたの食糧のため、またあなたがたの家族の者のため、またあなたがたの幼い子どもたちの食糧としなければならない。」

 中央集権とか封建制と聞くと、民主主義に生きている私たちには否定的に聞こえますが、税率は20パーセントでした。それで全部だったので、実は現在の所得税と住民税などの全てを合わせた比率よりも、小さいのではないでしょうか。ヨセフという良い支配者がいたので、政府の目的である公共の福利を与えることが出来ました。人間は、問題が起こると制度が悪いと言って、それを変えようとしています。けれども、問題は制度ではなく、統治している人にあるのです。「神に従う人が大いになると民は喜び、神に逆らう人が支配すると民は嘆く。(箴言29:2新共同訳)」と箴言に書かれています。それで、エジプト人は、ヨセフの立てた政策に非常に満足しています。

 すると彼らは言った。「あなたさまは私たちを生かしてくださいました。私たちは、あなたのお恵みをいただいてパロの奴隷となりましょう。」彼らが、自発的にパロの奴隷になることを選んでいます。ヨセフはエジプトの土地について、五分の一はパロのものとしなくてはならないとの一つのおきてを定めた。これは今日に及んでいる。ただし祭司の土地だけはパロのものとならなかった

 今日とは、モーセの時代のことでしょう。当時存在していたエジプトが、なぜ強固な国家を築いたのかを説明したかったのかもしれません。それは、異郷の国が考え出した案ではなく、神を恐れるヘブル人ヨセフによるものでした。日本は、自分達が先進国になっていることを誇っていますが、それがもたらされたのは、聖書を憲法の土台としているアメリカが民主主義と自由経済をもたらしたからです。もちろん、アメリカや、民主主義や自由経済がすばらしいということでなく、―アメリカも神を社会から締め出しているので、急速に悪くなっています― 神を中心に据えた原則を取り入れると、人々は必ず祝福されるのです。けれども、日本はエジプトと同じように、異郷を自分達の社会制度に取り残しています。それで、時に神に反抗し、神にさばかれています。こうして、イスラエルの家が最良の土地を与えられた一方、人々は飢きんにあえぎました。ヤコブは、神ご自身によって災いから守られ、養われたのです。

3C  実現  27−31
 さて、イスラエルはエジプトの国でゴシェンの地に住んだ。彼らはそこに所有地を得、多くの子を生み、非常にふえた。

 エジプト人は土地を買い取られたのに対し、イスラエルは所有していました。そして、ヤコブの生涯に、神の約束が実現されていますが、子が、非常に増えました。

 ヤコブはエジプトの地で十七年生きながらえたので、ヤコブの一生の年は百四十七年であった。イスラエルに死ぬべき日が近づいたとき、その子ヨセフを呼び寄せて言った。「もしあなたの心にかなうなら、どうかあなたの手を私のももの下に入れ、私に愛と真実を尽くしてくれ。どうか私をエジプトの地に葬らないでくれ。私が先祖たちとともに眠りについたなら、私をエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってくれ。」

 ヤコブは、子どもが非常に増えたことで十分に満足しませんでした。エジプトの地にいたからです。彼は、自分が祝福されても、祝福そのものを求めませんでした。神を求めていたのです。後に自分の子孫が、神によってエジプトから連れ出されるわけですが、ヤコブは自分の生涯においても、出エジプトを体験したかったのです。それだけ、神の約束を慕いあえいでいました。ももの下に手を入れるのは、非常に厳粛な誓いを立てるジェスチャーです。アブラハムもまた、自分のしもべがイサクの花嫁を探しに行かせる時も、ももの下に手を入れさせました。

 するとヨセフは言った。「私はきっと、あなたの言われたとおりにいたします。」 それでイスラエルは言った。「私に誓ってくれ。」そこでヨセフは彼に誓った。イスラエルは床に寝たまま、おじぎをした。

 神の祝福の約束は、ヤコブの子孫だけではなくて、ヤコブの生涯にも実現しました。エジプトの中で、最良の土地を所有し、養われて、子どもがたくさん増えました。そして、自分の体はカナンの地に行く事が出来ます。もちろん、神の約束の完全な実現は、何百年も後にならないと起こらないし、また、キリストが戻ってこられる時の神の国を待たなければなりません。けれども、神は、良い働きを、ヤコブが生きているときからすでに始めてくださったのです。ヤコブは、ベエル・シェバにいたとき、神は将来の保証をしてくださいました。その約束が実現されるのは、ずっと後のことですが、それでも良い働きは始められていたのです。私たちもそうです。私たちに 永遠のいのちが保証されています。贖いが保証されています。まだ、神が完全に実現してくださっているのを見ていませんが、初めの働きは経験しました。パウロはこう言っています。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日がくるまでにそれを完成してくださる事をわたしは堅く信じています。(ピリピ1:6)」

2A  確信  48−49
 次から、ヤコブが死ぬ直前の話を読みます。

1B  選び  48
1C  約束  1−7
 これらのことの後、ヨセフに「あなたの父上は病気です。」と告げる者があったので、彼はそのふたりの子、マナセとエフライムを連れて行った。マナセとエフライムは、もうすでに20代の若者です。ある人がヤコブに告げて、「あなたの子ヨセフがあなたのもとにおいでです。」と言ったので、イスラエルは力をふりしぼって床にすわった。ヤコブはヨセフに言った。「全能の神がカナンの地ルズで私に現われ、私を祝福して、 私に仰せられた。『わたしはあなたに多くの子を与えよう。あなたをふやし、あなたを多くの民のつどいとし、またこの地をあなたの後の子孫に与え、永久の所有としよう。』 今、私がエジプトに来る前に、エジプトの地で生まれたあなたのふたりの子は、私の子となる。エフライムとマナセはルベンやシメオンと同じように私の子にする。 しかしあとからあなたに生まれる子どもたちはあなたのものになる。しかし、彼らが家を継ぐ場合、彼らは、彼らの兄たちの名を名のらなければならない。私のことを言えば、私がパダンから帰って来たとき、その途上カナンの地で、悲しいことに、ラケルが死んだ。そこからエフラテに行くには、なお道のりがあったが、私はエフラテ、すなわちベツレヘムへの道のその場所に彼女を葬った。」

 
ヤコブは、ヨセフの子どもを自分の子どもにする事を話しました。そして、彼らがヤコブの相続の分け前をもらう事を話しています。それは、ヨセフが、妻ラケルの長子であることに基づいています。一見、普通の家族の遺産相続の会話のように聞こえますが、彼らがエジプトの地にいることを思い出して下さい。カナンの地を所有していないどころか、滞在さえしていないのです。それなのに、あたかも自分達がカナンの地をすでに所有しているかのように、相続地の割り当ての話を進めています。何故でしょうか。彼が神の約束を確信していたからです。神の約束を疑いのない事実として受けとめていたからです。ヘブル書には、「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。(11:1)」とあります。神がヤコブに、「安心しなさい。私自身があなたをエジプトから導き上るから。」と保証してくださいました。そして、今、ヤコブが、その目に見えない事実を確信しているのです。

 私たちが贖いの確信を持つことは必要です。パウロは、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。(エペソ2:8)」と言いました。大事なのは、これから救われるのではなく、もうすでに救われたことです。わたしたちはまだ、堕落する前のアダムと同じ、完全に贖われたものとなっていません。しかし、永遠の神の目には、そのことはもう実現しているのです。ですから、私たちもこれから救われるのではなく、救われたと言い切ることが出来ます。神の約束を強く確信しているからです。そして、確信が与えられると、私たちはその確信にもとづいて行動する事が出来ます。まだ天国にいないのだけれど、この地上で天国人のようにして生きることが出来ます。パウロはピリピ書1章で、「御国の民の生活をしてください。」と言いました。天国に生きているように、地上でも生活をしなさいということです。ヤコブは、まだエジプトの地にいるときに、カナンの地の相続の割り当てについて手はずを整えることが出来ました。

2C  礼拝  8−16
 イスラエルはヨセフの子らに気づいて言った。「これはだれか。」ヨセフは父に答えた。「神がここで私に授けてくださった子どもです。」

 ヨセフの口から再び神の主権を認める言葉が出ています。「神が子どもを授けてくださったのです。」と言いました。

 すると父は、「彼らを私のところに連れて来なさい。私は彼らを祝福しよう。」と言った。この祝福によって、ヤコブは、神の相続を引き継ぎます。イスラエルの目は老齢のためにかすんでいて、見ることができなかった。それでヨセフが彼らを父のところに近寄らせると、父は彼らに口づけし、彼らを抱いた。イスラエルはヨセフに言った。「私はあなたの顔が見られようとは思わなかったのに、今こうして、神はあなたの子どもをも私に見させてくださった。」ヤコブの感慨は非常に深かったのでしょう。今、神のすばらしさをかみしめています。ヨセフはヤコブのひざから彼らを引き寄せて、顔を地につけて、伏し拝んだ。

 ヨセフも神のすばらしさに感動し、父に対する感謝と敬意を表しています。エジプトの奴隷の身であったヨセフが、今、父から祝福を受ける事が出来るからです。

 それからヨセフはふたりを、エフライムは自分の右手に取ってイスラエルの左手に向かわせ、マナセは自分の左手に取ってイスラエルの右手に向かわせて、彼に近寄らせた。家の長子が、相続の2倍を受け取るのが普通でした。それで、ヨセフはマナセを、権威を象徴する右手に向かわせたのです。すると、イスラエルは、右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。マナセが長子であるのに、彼は手を交差して置いたのである。

 イスラエルは逆にしてしまいました。彼は、神から弟が相続を多く受け取ることを示されていました。神は、自然の法に反して、マナセではなくエフライムを選ばれたのです。これは、創世記、いや聖書全体にある、面白いテーマです。兄カインではなく弟のアベルが認められ、兄イシュマエルではなく弟イサクが選ばれ、兄エサウではなく、弟ヤコブが選ばれました。さらに、ルベンではなくヨセフが最初に祝福され、ずっと後の歴史では末っ子のダビデが王に選ばれました。救いの計画を見ると、まずユダヤ人に福音がのべ伝えられたのに、異邦人がみことばを受け入れていきました。パウロはそれは、野生のオリ−ブの木の枝が栽培種の木に接がれたのと同じで、不自然であることを話しています。

 特にヤコブの生涯においては、エサウとヤコブが生まれる前に、「兄は弟に仕える。」と神は仰せになっていたのです。それは、選びの確かさが、人の行いにはよらず、召してくださる方によるようになるためだ、とパウロは言っています。したがって、ここから言えることは、神の御計画、神の方法は、私たちの自然の成り行きとは、往々にして逆の流れをもっていると言う事です。私たちが自然に左を向いているなら、神は右を向いておられます。

 したがって、私たちが神の御心に従って生きるときに、自然の成り行きに反して、神の御心を意識して選びとっていかなければいけないことになります。だから、パウロは、「神のみこころは何か、すなわち、何がよいことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:2)」と言ったのです。信仰生活は、自然にわきあがってくるものではなく、 非常に緻密な意識的な作業なのです。

 それから、ヨセフを祝福して言った。ヨセフと自分の子にしたエフライムとマナセを祝福しました。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。すべてのわざわいから私を贖われた御使い。この子どもたちを祝福してください。

 ヤコブは祝福を与えるために、神を礼拝しました。まず、アブラハムとイサクが御前に歩んだ神と言っています。これは、リベカとイサクから聞いていた全能の神です。彼は、その証しを聞いて、この神を慕い求めました。そして、私の羊飼いであられた神と言っています。神のことを聞いただけでなく、自分自身がこの神を体験しました。羊飼いのようにヤコブを守り、養ってくださったのです。さらに、災いから私を贖われた御使いといっています。御使いと呼んでいますが、この方はよく、神と呼ばれました。ヤコブが、人と格闘したのに、神を見たと言った御使いです。そして、この御使いが、自分をエサウやラバンの手から救い出してくださった、贖って下さったと言っています。ですから、ここを読むと、あたかも三つの神が存在するように聞こえますが、もちろんヤコブは天と地とを造られた唯一神を信じていたのです。ここに、三位一体の神が現れています。父なる神と、ヤコブの羊飼いであられた聖霊なる神と、ヤコブを贖った御子なる神です。

 私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちにとなえ続けられますように。

 後に、神の御名が語られる時、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」とよばれました。また、イスラエルという名前自体が、民俗の名前になったのです。自分の名が唱えられるようにというのは、利己的に聞こえますが、いやむしろ、神ご自身が望んでおられた事です。

 また彼らが地のまなかで、豊かにふえますように。」

 
これで、全般的な祝福が終わりました。

3C  信仰  17−22
 ヨセフは父が右手をエフライムの頭の上に置いたのを見て、それはまちがっていると思い、父の手をつかんで、それをエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。ヨセフは父に言った。「父上。そうではありません。こちらが長子なのですから、あなたの右の手を、こちらの頭に置いてください。」ヨセフは、まだ神の選びを理解していませんでした。そこで、父はこういいます。しかし、父は拒んで言った。「わかっている。わが子よ。私にはわかっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう。」 そして彼はその日、彼らを祝福して言った。「あなたがたによって、イスラエルは祝福のことばを述べる。『神があなたをエフライムやマナセのようになさるように。』」こうして、彼はエフライムをマナセの先にした。

 彼は将来起こることを信じて、このように預言しました。ヘブル書には、「信仰によって、ヤコブは死ぬ時、ヨセフの子供達をひとりひとり祝福しました。(11:21参照)」と書かれています。

2B  終わりの日  49
 こうして、ヤコブは、神の約束を確信して、所有のカナンの地でおこることを預言しましたが、今度は、その確信が終わりの日にまで及びます。

1C  地の祝福  1−28
 ヤコブはその子らを呼び寄せて言った。「集まりなさい。私は終わりの日に、あなたがたに起こることを告げよう。 ヤコブの子らよ。集まって聞け。あなたがたの父イスラエルに聞け。

 ヤコブがこれから語ることは、終わりの日のことです。12人の子供達の将来から始まって、後のイスラエルの将来、そして、贖いが完成される終わりのときまでを予言します。主に、8つの将来が預言されています。1つめは、イスラエルが神のさばきを受ける事です。3節から8節までに書かれています。

 ルベンよ。あなたはわが長子。わが力、わが力の初めの実。すぐれた威厳とすぐれた力のある者。ルベンが長子としてほめたたえられています。だが、水のように奔放なので、もはや、あなたは他をしのぐことがない。

 ルベンは、水のように奔放でした。ヨセフが鏡台たちによって奴隷に売られたとき、それを止めることが出来ませんでした。また、ベンヤミンをエジプトに連れて行こうとするとき、父のヤコブを説得する事が出来ませんでした。決断力がなく、水のように奔放です。そして、長子の権利が取られることが預言されています。

 あなたは父の床に上り、そのとき、あなたは汚したのだ。――彼は私の寝床に上った。――

 ルベンは、ヤコブのそばめビルハのところに入り、寝たことを思い出して下さい。この不道徳な行為のために、彼は長子の権利が取られてしまったのです。これは、ルベンの生涯だけでなく、イスラエルの歴史をも描いています。イスラエルは、不品行を犯し続けました。特に、霊的な姦淫、偶像崇拝を連行しました。そのために、相続の土地をアッシリヤとバビロンから奪われました。そして、紀元790年には、ローマから奪われたのです。もちろん、イスラエルだけでなく、個人の生活においても、不品行、不道徳は多くの祝福を失います。

 シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の道具。わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったから。ヤコブは、シメオンとレビがシュケムで暴虐を働いたことを話しています。のろわれよ。彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。

 これは、カナンの地の相続において実現しました。シメオンの相続地は、ユダ族の相続地にありました(ヨシュア19:1)。そして、レビには土地がありませんでした。それらはみな、彼らの激しい怒りのためでした。激しい怒りは、繁栄を失います。モーセは、レビ族のものでしたが、彼はメリバの水で激しく怒ったため、約束の地に入る事が出来ませんでした。こうして、ヤコブは、神のさばきを預言しました。2つめに、彼は、メシヤの到来を予言します。8節から12節までです。

 ユダよ。兄弟たちはあなたをたたえ、あなたの手は敵のうなじの上にあり、あなたの父の子らはあなたを伏し拝む。

 ユダは、賛美という意味です。彼がほめたたえられています。ユダは、兄弟の中で責任ある行動をとりました。ベンヤミンの代わりに自分が奴隷になろうとし、ヤコブがヨセフに会うときはに、まずユダがドシェンに送られました。そして、ユダ族は、王なるキリストをもたらす部族となるのです。敵を征服し、兄弟が伏し拝むようになるというのは、キリストが来られることを意味します。

 ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。

 獅子は征服の象徴となっています。黙示録では、イエス・キリストが、ユダ族から出た獅子と呼ばれ、7つの封印を解かれるところが出てきます。「王権はユダを離れず、統治者の杖はその脚の間を離れる事がない。」王族がユダから出て来て、ダビデの子がキリストとなります。統治者の杖とは、すべてを支配する権威のことを意味します。黙示録19章には、メシヤ・イエスが、「鉄の杖を持って、彼ら」つまり国々を「牧する。」と書かれています。

 王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。

 シロとは、エレミヤ書26章6節に、滅ぼされる象徴の町として記されています。つまり、破滅、荒廃が来て、それからキリストに国々の民が従うと言う事です。紀元70年から1948年まで、イスラエルには荒廃が定められていました。キリストが来られて、国々がこの方に従う日はまもなく訪れます。

 彼はそのろばをぶどうの木につなぎ、その雌ろばの子を、良いぶどうの木につなぐ。

 私たちは、この預言の成就を福音書で見ることが出来ます。イエスはロバの子に乗って来られました。ところが、次を見てください。 彼はその着物を、ぶどう酒で洗い、その衣をぶどうの血で洗う。その目はぶどう酒によって曇り、その歯は乳によって白い。

 これは何の預言でしょうか。黙示録19章には、ハルマゲドンの戦いの場面が出てきます。そのときに、神に反抗する諸国の民を、キリストがことごとく滅ぼされます。その時、大量の血が飛び散るのですが、その血がキリストの衣にもついてしまうのです。13章に、「その方は血に染まった絹を着ている。」と書かれています。つまり、ここでのヤコブの預言は再臨のキリストについてです。最初は、へりくだってこられました。次は、力を持ってこられます。

 これが、キリスト到来の予言でした。神のさばき、キリストの到来と見ましたが、3つ目は、イスラエルとこの世との関係について、預言がなされています。13節です。ゼブルンは海辺に住み、そこは船の着く岸辺。その背中はシドンにまで至る。

 ゼブルン族は、海辺の土地を相続し、さらに異邦の国シドンにまで至ります。貿易が、ゼブルンを通して行われます。モーセもゼブルンについて、「ゼブルンよ。喜べ。あなたは外に出て行って。・・・彼らが海の富と、砂に隠されている宝とを吸い取るからである。(申命記33:18、19)」と言いました。イスラエルは世界と貿易をしました。ソロモンの時代、そして現在のイスラエルは大きな貿易国です。そして、4つめに、重荷と苦役が預言されています。

 イッサカルはたくましいろばで、彼は二つの鞍袋の間に伏す。彼は、休息がいかにも好ましく、その地が、いかにも麗しいのを見た。しかし、彼の肩は重荷を負ってたわみ、苦役を強いられる奴隷となった。

 イッサカルの相続地は、豊かな土地であったと言われています。しかし、むろん、アッシリヤによって苦役を強いられました。また、これは、イスラエルが土地を持っても、苦役を強いられる歴史を示しています。1967年、彼らはエルサレムを奪回しましたが、神殿の敷地は異邦人の者となっています。そして、5つめは、神の救いの祈りの預言です。

 ダンはおのれの民をさばくであろう、イスラエルのほかの部族のように。ダンは、道のかたわらの蛇、小道のほとりのまむしとなって、馬のかかとをかむ。それゆえ、乗る者はうしろに落ちる。

 ダンはさばきつかさになりますが、当時に、偶像崇拝を導入しました。士師記18章にそこのことが記されています。それが蛇として象徴されています。ヤコブは、蛇のことを話したら、即座に、「主よ。私はあなたの救いを待ち望む。」

 と祈りました。エバに現れた蛇を思い出したのでしょう。その蛇の頭を打ち砕くのがキリストです。勿論イスラエルは、偶像崇拝の罪を犯し、悪魔の罠にはまります。大艱難時代の時、彼らは滅ぼされそうになりますが、救い主を待望するようになります。事実、キリストが来られて、彼らを救い出されるのです。さらに、6つめは、イスラエルの最終的な勝利が書かれています。

 ガドについては、襲う者が彼を襲うが、彼はかえって彼らのかかとを襲う。アシェルには、その食物が豊かになり、彼は王のごちそうを作り出す。ナフタリは放たれた雌鹿で、美しい子鹿を産む。

 ここに、イスラエルの歴史の逆転劇が記されています。大艱難で襲われるが、千年王国が訪れるので圧倒的な勝利を得ます。その土地には食物が豊かになることが、ほかの預言書にも記されています。ナフタリの預言は、「美しい小鹿を生む」というところが、「美しいことばを出す」と訳す事ができますが、彼らは、千年王国で、解放された喜びの歌を歌うのです。

 そして7つめです。これは、イスラエルの将来の祝福、神がアブラハム、イサク、ヤコブに与えられた祝福の約束が、最後に成就する事が預言されています。ヨセフは実を結ぶ若枝、泉のほとりの実を結ぶ若枝、その枝は垣を越える。

 実りがあり、その実がほかの人にまで及びます。まさにヨセフの生涯を説明しています。と同時に、終わりの時に、イスラエルが全ての民を祝福するようになることが預言されています。

 弓を射る者は彼を激しく攻め、彼を射て、悩ました。ヨセフは、悩まされました。奴隷になりました。しかし、彼の弓はたるむことなく、彼の腕はすばやい。これはヤコブの全能者の手により、それはイスラエルの岩なる牧者による。

 ヨセフは、そのような苦境に立たされても、たゆむことなく、すばやくエジプトの支配者になりました。イスラエルの最後も同じです。大艱難を通りますが、たゆむことなく、すばやく大いなる国となるのです。そして、それは、ヤコブの全能者、岩なるキリストによるのです。

 あなたを助けようとされるあなたの父の神により、また、あなたを祝福しようとされる全能者によって。その祝福は上よりの天の祝福、下に横たわる大いなる水の祝福、乳房と胎の祝福。

 この豊かな祝福が、ヨセフの生涯を特徴づけましたが、イスラエルの祝福も同じです。そして、私たちキリストにつながる者の祝福も同じです。この祝福を受けるために、私たちは救われました。

 あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり、永遠の丘のきわみにまで及ぶ。これらがヨセフのかしらの上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭上にあるように。永遠の祝福が、神の国にはあります。

 最後の8つ目の預言です。イスラエルの征服を預言しています。ベニヤミンはかみ裂く狼。朝には獲物を食らい、夕には略奪したものを分ける。」

 
ベンヤミン族は、強く、大胆になりました。士師記20章には、勇敢に戦うベンヤミン族の姿が書かれています。獲物を食べるわけですが、イスラエルは、千年王国が始まる時、救われた異邦人とともに祝宴を設けます。イエスは言われました。「たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓につきます。(マタイ8:11)」

 これらすべてはイスラエルの部族で、十二であった。これは彼らの父が彼らに語ったことである。彼は彼らを祝福したとき、おのおのにふさわしい祝福を与えたのであった。

 こうしてヤコブは、イスラエルの祝福を確信して預言しました。この地における預言です。キリストが戻ってこられる時、この地は、エデンの園のように変えられます。そして、イスラエルに対する神の祝福の約束が完全に成就し、イスラエルによって多くの国民が祝福を受けるようになります。これが、「神の国」と言われるものです。ヤコブは贖いの完成を確信して預言しました。

2C  天の祝福  29−33
 彼はまた彼らに命じて言った。「私は私の民に加えられようとしている。私をヘテ人エフロンの畑地にあるほら穴に、私の先祖たちといっしょに葬ってくれ。そのほら穴は、カナンの地のマムレに面したマクペラの畑地にあり、アブラハムがヘテ人エフロンから私有の墓地とするために、畑地とともに買い取ったものだ。そこには、アブラハムとその妻サラとが葬られ、そこに、イサクと妻リベカも葬られ、そこに私はレアを葬った。その畑地とその中にあるほら穴は、ヘテ人たちから買ったものである。」ヤコブは子らに命じ終わると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。

 ヤコブは、自分が葬られる場所を指定しています。アブラハムとサラ、イサクとレアが葬られている、ヘテ人から買い取った畑地です。そして、ヤコブは、「私は私の民に加えられようとしている」と言いました。彼はまず、神の地上における約束を信じていました。カナン人の土地です。そして、彼は、神の天における約束を信じたのです。この民と言うのはイスラエルのことではありません。約束を待ち望む人々が死んだ後に行く所であり、よみと呼ばれ、新約聖書では、「アブラハムのふところ」と呼ばれています。そこに加えられるのを、ヤコブは確信していたのです。

 このよみは、イエスが十字架につけられてから存在しなくなりました。彼らが天に引き上げられたからです。神の国が地上で立てられた後、全ての天と地が過ぎ去ります。そして、新しい天と地が再び創造されます。これば、新しいエルサレムとか、生ける神の都とか呼ばれるところで、黙示録21章以降に、そのことが詳しく記されているのです。ですから、ヤコブは、地上だけでなく、天における祝福を確信していました。

3A  堅忍  50
 そして、創世記の最後の章に入ります。ここには、ヤコブの葬儀と、ヨセフと兄弟達の和解と、ヨセフ自身の死が記されています。

1B  従順  1−14
 ヨセフは父の顔に取りすがって泣き、父に口づけした。神が、「ヨセフがヤコブの目を閉じる」と言われた約束は実現しました。ヨセフは彼のしもべである医者たちに、父をミイラにするように命じたので、医者たちはイスラエルをミイラにした。そのために四十日を要した。ミイラにするにはこれだけの日数が必要だった。エジプトは彼のために七十日間、泣き悲しんだ。

 イスラエルはミイラにされました。ミイラの技術は、今でもわかりません。ヨセフも死んでからミイラにされますが、マクベラの畑地には、まだヤコブとヨセフの遺体を見ることが出来るかもしれません。

 その喪の期間が明けたとき、ヨセフはパロの家の者に告げて言った。「もし私の願いを聞いてくれるのなら、どうかパロの耳に、こう言って伝えてほしい。私の父は私に誓わせて、『私は死のうとしている。私がカナンの地に掘っておいた私の墓の中に、そこに、必ず私を葬らなければならない。』と申しました。どうか今、私に父を葬りに上って行かせてください。私はまた帰って来ます、と。」

 ヨセフはヤコブの言うとおりに、ヤコブをカナンの地に葬るため、パロに許可を求めました。それは、単に父の命令であるだけではなく、神の約束があることをヨセフは知っていました。その約束にしがみつくため、このような申し出をヨセフはしたのです。約束にしがみつく、ということは大切です。私たちは、救いの保証が与えられ、救いの確信があるだけでは不十分です。自分は救われたし、死んだら天国にいけるのだ、だけでは不十分なのです。なぜなら、世の流れは、私たちをそのような確信から引きずり降ろすからです。ヨセフとヤコブがエジプトにいました。が、彼らが意識して、神の約束にしがみつくことをしていなければ、おそらくそのままエジプトにいたでしょう。だから、しがみつくことは大切なのです。

 パウロは、御国に入るためには、多くの苦しみを通らなければならないことを話しました。イエスは、「わたしにとどまりまさい。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」と言われました。ヘブル書には、「私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前におかれている競争と忍耐をもって走りつづけようではありませんか。(12:12)」と書かれています。しっかりと耐えしのび、主を見続けていく必要があります。

 パロは言った。「あなたの父があなたに誓わせたように、上って行ってあなたの父を葬りなさい。」

 パロは本心では、ヨセフに行って欲しくなかったでしょう。なぜなら、彼はエジプトを救った尊い人物であり、彼がそのままカナンの地にとどまってしまったら、ということを考えたかもしれません。しかし、ヨセフは約束しました。また、戻ってきますと言っています。ヨセフは、エジプトでもっとイスラエルの民がふえなければならないこと、神がイスラエルを連れ出すのはもっと後になることであるのを知っていました。今、自分に与えられた勤めは、続けてパロに代わってエジプトを治める事です。

 そこで、ヨセフは父を葬るために上って行った。彼とともにパロのすべての家臣たち、パロの家の長老たち、エジプトの国のすべての長老たち、ヨセフの全家族とその兄弟たちおよび父の家族たちも上って行った。ただ、彼らの子どもと羊と牛はゴシェンの地に残した。

 みんなが行きました。エジプトの役人たちも行きました。ヤコブは、パロからもエジプトからも尊敬されていたのでしょう。

 また戦車と騎兵も、彼とともに上って行ったので、その一団は非常に大きなものであった。 彼らはヨルダンの向こうの地ゴレン・ハアタデに着いた。そこで彼らは非常に荘厳な、りっぱな哀悼の式を行ない、ヨセフは父のため七日間、葬儀を行なった。その地の住民のカナン人は、ゴレン・ハアタデのこの葬儀を見て、「これはエジプトの荘厳な葬儀だ。」と言った。それゆえ、そこの名はアベル・ミツライムと呼ばれた。これはヨルダンの向こうの地にある。この地はモアブ、現在のヨルダンの地にあります。こうしてヤコブの子らは、命じられたとおりに父のために行なった。その子らは彼をカナンの地に運び、マクペラの畑地のほら穴に彼を葬った。そこはアブラハムがヘテ人エフロンから私有の墓地とするために、畑地とともに買ったもので、マムレに面している。ヨセフは父を葬って後、その兄弟たちおよび、父を葬るために彼といっしょに上って行ったすべての者とともに、エジプトに帰った。

 こうして、彼らは、父の命を守るため、神の約束を信じるために、マムレの畑地にヤコブを葬りました。そして、エジプトに帰っています。神が自分たちをエジプトから連れ出してくださると信じて、戻りました。

2B  和解  15−21
 ヨセフの兄弟たちが、彼らの父が死んだのを見たとき、彼らは、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない。」と言った。

 彼らは、自分たちのした悪い行いでまだ悩まされていました。今までは、父ヤコブがいたからヨセフは自分たちに何もしなかったけれども、今度は自分たちに仕返しするかもしれないと思いました。罪責感は、こんなに長い間、人々の頭をもたげるのです。

 そこで彼らはことづけしてヨセフに言った。「あなたの父は死ぬ前に命じて言われました。 『ヨセフにこう言いなさい。あなたの兄弟たちは実に、あなたに悪いことをしたが、どうか、あなたの兄弟たちのそむきと彼らの罪を赦してやりなさい、と。』今、どうか、あなたの父の神のしもべたちのそむきを赦してください。」ヨセフは彼らのこのことばを聞いて泣いた。

 そうでしょう。ヨセフは彼らのことを完全に赦していました。何の苦味も、怒りもありませんでした。でも、エジプトで奴隷となったあの苦しみと悲しみは記憶に残っていた事でしょう。それを思い出して泣きました。

 彼の兄弟たちも来て、彼の前にひれ伏して言った。「私たちはあなたの奴隷です。」

 彼らは、自分たちがヨセフを奴隷にしたので、自分たちが奴隷になる覚悟を決めていました。彼らは、自分がしたことには報いがあることを理解していたのです。多くの人が、赦しの意味を間違っています。自分が裁かれても当然であるという覚悟を持たないで、赦しを求めることがあります。しかし、父に豊かに赦された、放蕩息子の話を思い出して下さい。「私をあなたの雇い人の一人のようにしてください(ルカ15:21)」と言って、息子としての権利を求めていませんでした。自分のしてしまったことを理解しているのです。こうした、さばきを受けることをしっかりと理解した上で、はじめて、神の赦しが浮き彫りにされます。

 ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。

 ヨセフは神のようにさばく事は出来ない、と言いました。あなたがたをさばくのは主であるから、私がとやかく言うことは出来ない、ということです。

 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。

 すばらしい、赦しの言葉です。人が悪を計っても、神がそれを良いことのために計らいます。その神のみこころを知ったヨセフは、こんなひどい仕打ちを受けたにもかかわらず、豊かに赦す事が出来たのです。

 ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。

 ヨセフは、父が死んだからと言って、彼らを赦す事をやめませんでした。ずっと赦す立場を貫いたのです。ペテロが、「兄弟が私に対して罪をおかした場合、何度まで赦すべきでしょうか。7度まででしょうか。」と言いました。イエスは、「7度までとは言いません。7度を70倍するまでと言います。」と言われました。赦すことは、信仰生活と同じように、赦し続ける事なのです。その立場を貫きつづける時に、ヨセフのように、私たちの心に優しさが生まれます。善意が生まれます。神は、私たちが、救いだけでなく、赦すことについても、しっかりとみことばをにぎることを願っておられます。

3B  約束  22−26
 ヨセフとその父の家族とはエジプトに住み、ヨセフは百十歳まで生きた。ヨセフはエフライムの三代の子孫を見た。寿命はどんどん短くなっています。曾孫の子どもまで見たということです。マナセの子マキルの子らも生まれて、ヨセフのひざに抱かれた。ヨセフも、ヤコブとおなじように祝福されました。ヨセフは兄弟たちに言った。

 まだほかの兄弟で、生きている人がいたようです。ベンヤミンは生きていたでしょうが、もっと年を取っている兄弟の何人かも生きていました。

 「私は死のうとしている。神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」

 ヨセフもヤコブと同じように堅く神の約束を信じていました。そして、神が彼らを顧みてくださることを、念を押して伝えました。

 そうして、ヨセフはイスラエルの子らに誓わせて、「神は必ずあなたがたを顧みてくださるから、そのとき、あなたがたは私の遺体をここから携え上ってください。」と言った。

 なんと、ヨセフもカナンの地で自分が葬られる事を誓わせています。ずっとエジプトの地にいたヨセフにとっても、そこは外国の地だったのです。ヨセフも、神の約束の約束にしがみついていました。

 ヨセフは百十歳で死んだ。彼らはヨセフをエジプトでミイラにし、棺に納めた。

 そして、この棺は、実際に、イスラエルの民が連れ出されるとき、いっしょに運び出されています。「モーセがヨセフの遺骸を携えて来た。」と出エジプト記13章19節に書かれています。また、ヨシュア記24章32節には、ヨセフが、シュケムの地でヤコブが買い取った地に葬られたことが書かれています。イスラエルはヨセフに立てた誓いを果たしました。

 これで、創世記はみな終わりです。けれども、話はすぐに出エジプト記につながっています。それは、贖いの約束ではなくて、贖いが実際に行われる記事です。創世記は約束の記事でした。神が祝福を与えるという約束です。1章から11章までが、約束に至るまでの経緯、つまり、人が神に反抗しているのでのろいを刈り取っている部分でした。そして、12章から24章までは、祝福の約束の内容です。アブラハムの生涯にそれが啓示されていました。そして、25章から35章までに、イサク、ヤコブへとその約束が継承されたのです。最後に、37章から50章までで、苦しみから救い出されて祝福を受けるという贖いの約束が書かれていました。


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