創世記48−50章 「信仰による死」

アウトライン

1A ヨセフの子への祝福 48
   1B 養子縁組 1−7
   2B 弟の優先 8−22
2A 十二人へ祝福 49
   1B 終わりの日 1−28
   2B 先祖の墓 29−33
3A ヤコブの後 50
   1B 荘厳な葬儀 1−14
   2B 兄への養い 15−26

本文

 創世記48章を開いてください、今日でついに創世記を完読します!それではさっそく読んでみましょう。

1A ヨセフの子への祝福 48
1B 養子縁組 1−7
48:1 これらのことの後、ヨセフに「あなたの父上は病気です。」と告げる者があったので、彼はそのふたりの子、マナセとエフライムを連れて行った。

 前回は、ヤコブの家族がエジプトに移り住んできた話まで読みました。そして4727節から、一気に十七年後のヤコブの姿を描いています。彼が自分の死期が近づいたのを知って、それでヨセフに自分の遺骸を必ずヘブロンにある先祖の墓に葬りなさい、と命じます。そして今、病気になりました。

 それですかさず自分の息子二人をヨセフは連れて行きました。この時ヨセフは56歳で、マナセとエフライムは20歳ぐらいでしょう。

48:2 ある人がヤコブに告げて、「あなたの子ヨセフがあなたのもとにおいでです。」と言ったので、イスラエルは力をふりしぼって床にすわった。

 ヤコブは自分がしなければいけないことは分かっています。かつて自分の父イサクが行ったように、息子に対して祝福を与えることです。これによって、相続財産の受け継ぎをします。けれども、神の約束を財産として受け取っているヤコブは、これを息子ヨセフに与えるのです。

48:3 ヤコブはヨセフに言った。「全能の神がカナンの地ルズで私に現われ、私を祝福して、48:4 私に仰せられた。『わたしはあなたに多くの子を与えよう。あなたをふやし、あなたを多くの民のつどいとし、またこの地をあなたの後の子孫に与え、永久の所有としよう。』

 「ルズ」というのは、べテルのことです。主が天のはしごの夢の中で現れて、ヤコブにアブラハムそしてイサクに与えられた約束を与えてくださいました。

48:5 今、私がエジプトに来る前に、エジプトの地で生まれたあなたのふたりの子は、私の子となる。エフライムとマナセはルベンやシメオンと同じように私の子にする。48:6 しかしあとからあなたに生まれる子どもたちはあなたのものになる。しかし、彼らが家を継ぐ場合、彼らは、彼らの兄たちの名を名のらなければならない。

 ヤコブは明らかに、ここでヨセフに長子の権利を与えようとしています。ヨセフの息子二人がヤコブの息子と数えられることによって、分け前が二倍になるからです。長子は父の分け前を二倍受け取ります。ここでヤコブが行っているのは、ヨセフの子を自分のものに奪い取るのではなく、むしろヨセフに二倍に分け前を与えるためです。そして三人目以降はヨセフの子となりますが、それでもその子はマナセかエフライムの名を名のならければいけません。

 ところで、イスラエル民族は十二部族があります。けれども、実際は十三部族です。ここでヤコブがマナセとエフライムをそれぞれの部族の先祖にしたからです。けれどもイスラエルは十二部族と呼ばれます。興味深いことに、イスラエル十二部族が列挙されている時に、何か一つの部族が欠如しています。レビ族が抜けている時もあれば、黙示録7章には144千人のイスラエルの子孫がいて、それぞれ一万二千人ずついるのですが、そこにはダン族が抜けています。なぜダン族なのかは分かりません。

 けれども、神は「十二」という数字を保ちたがっていることには間違いありません。新約聖書においては十二弟子がいました。そして、イスカリオテのユダがイエス様を裏切り自殺した後で、ペテロはくじを引いて、マッテヤという弟子を使徒にしました。ところが後に、復活のイエスはパウロに現れました。そしてパウロも使徒とされたのです。そこでも十三人の使徒がいるのですが、やはり「十二使徒」と呼ばれています。ここから「十二」という数字は、「統治」を表しているようです。神の統治が十二のようです。

48:7 私のことを言えば、私がパダンから帰って来たとき、その途上カナンの地で、悲しいことに、ラケルが死んだ。そこからエフラテに行くには、なお道のりがあったが、私はエフラテ、すなわちベツレヘムへの道のその場所に彼女を葬った。」

 覚えていますか、シェケムからべテルに行き、それからさらに南下したときにラケルが産気づきました。ついにヨセフに次にベニヤミンを産みました。ところが彼女はその苦しみで死んでしまったのです。エフラテというのはベツレヘムの別名です。「ベツレヘムへの道」とありますが、別にベツレヘムに近いところではなく、ベツレヘムに通じる南北に走る道のことを指しています。実際のラケルの墓は、エルサレムより北にある「ラマ」という町の近くになります(1サムエル10:2)。

2B 弟の優先 8−22
48:8 イスラエルはヨセフの子らに気づいて言った。「これはだれか。」48:9 ヨセフは父に答えた。「神がここで私に授けてくださった子どもです。」すると父は、「彼らを私のところに連れて来なさい。私は彼らを祝福しよう。」と言った。48:10 イスラエルの目は老齢のためにかすんでいて、見ることができなかった。それでヨセフが彼らを父のところに近寄らせると、父は彼らに口づけし、彼らを抱いた。

 イスラエルはほとんど目が見えなかったので、自分の孫たちが来ても誰なのか区別ができませんでした。けれども、ヨセフが「神がここで私に授けてくださった子どもです」と言いました。ヨセフは常に、すべてのことを神に帰しています。「私が生んだ」ではなく「神が授けてくださった」のです。そして今イスラエルが話したように、二人をそれぞれ祝福することによって、ヨセフに対して二倍の分け前を与えることになります。

48:11 イスラエルはヨセフに言った。「私はあなたの顔が見られようとは思わなかったのに、今こうして、神はあなたの子どもをも私に見させてくださった。」48:12 ヨセフはヤコブのひざから彼らを引き寄せて、顔を地につけて、伏し拝んだ。

 ヨセフはとても嬉しかったのでしょう、ひれ伏すことによって父への敬意を表しています。ヨセフはもうすでに死んでいると思って22年経ってからヨセフに再会しました。だからヨセフの顔さえ見れば死んでよいと思ったのに、彼の息子たちの顔まで見ることができるようになったという感動です。

 ところで、目がほとんど見えないのに「見させてくださった」とヤコブが言っているのは面白いです。わずかにしか見えていませんが、それでもイスラエルは見えているのです。私がかつて一時期通っていた教会で、牧師さんが全盲でした。けれども、彼はしばしば「今日はたくさんの信徒さんたちがおられますね。」と、まるで見ているような感じで話されます。その場の雰囲気と、またもちろん信仰の目によって見ているからでしょう。

48:13 それからヨセフはふたりを、エフライムは自分の右手に取ってイスラエルの左手に向かわせ、マナセは自分の左手に取ってイスラエルの右手に向かわせて、彼に近寄らせた。48:14 すると、イスラエルは、右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。マナセが長子であるのに、彼は手を交差して置いたのである。

 ヤコブは不思議なことをします。ヨセフは、父の右手でマナセが祝福を受けるようにし、左手でエフライムが祝福を受けるようにするようにしました。なぜならマナセが兄だからです。右手が権威を表す手です。ところがヤコブは両手を交差して、エフライムが右手で祝福を与えました。

 ところで「手を置く」という行為は、ここから始まります。手を置いて祝福し、手を置いて祈ります。これは、手を置いた相手と自分を一体化させることを意味します。例えば、教会として誰かをどこかの地域に送り出す時に、その人に手を置いて祈るのは、「あなたが遠くに行っても、私たちはあなたと共にいる。あなたの働きは私たちの働きだ。」ということを示すためです。

48:15 それから、ヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。

 神の約束を受け継がせる祈りです。アブラハムに対する神、イサクに対する神が、自分の羊飼いであられたという告白です。確かにアブラハムに与えられた約束は自分のものとなったということです。私たちも同じ告白ができるでしょうか?聖書に記されているイエス・キリストが、はたして自分の主となって私たちを導いておられるでしょうか?

 そして、「羊飼い」という言葉は聖書の中で、ここで初めて出てきます。彼自身の職業が羊飼いであったため、それが何を意味しているかよく分かっていました。私がイスラエル旅行に行った時に思ったのですが、その団長になられているアーノルド・フルクテンバウム師が羊飼いのようでした。だらだらしゃべっている私たちに、「ほら、これから出発するよ。」と言って、横道にそれそうになっている時に「ほら、こっち、こっち!」と言って、どこで何を食べるかを決めて、いつも目を離さないで引導しなければいけません。そして聖書の言葉も教えます。休む暇なく、世話し、導き、教え、養わないといけません。ヤコブは、神がこのような方であられたことを実感していました。

48:16 すべてのわざわいから私を贖われた御使い。この子どもたちを祝福してください。私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちにとなえ続けられますように。また彼らが地のまなかで、豊かにふえますように。」

 「贖う」というのは、もともと「買い戻す」という商業用語です。もともと自分が所有していたけれども、それが自分の手から離れて売られてしまったけれども、また買い戻して自分のものとするということです。そこから、「救い出して、自分のものに取り戻す」という意味になります。ここでは、災いから救い出してご自分のものとしてくださったという意味で「贖い」と使っています。

 そして「御使い」とありますが「主の使い」である、イエス・キリストご本人です。ある人は、15,16節に三位一体の神が現れている、といいます。「その御前を歩んだ神」は父なる神で、「羊飼いであられた神」がご聖霊、そして贖い主であられるキリストです。

 聖書には、神の御名を呼ぶときに、三度このように出てくることがあります。例えば、私が祝祷でよく用いる民数記624-26節は、「『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』(民数6:24-26」また、イザヤ書で御座のところにいる天使セラフィムが、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主(6:3」と叫んでいます。三位一体の神への賛美です。

 ヤコブは二人に、アブラハムとイサクに続く祝福を祈りました。さらに、地で豊かに増えるようにと祈りました。事実、エフライム族とマナセ族は生産力のある豊かな地になりました。

48:17 ヨセフは父が右手をエフライムの頭の上に置いたのを見て、それはまちがっていると思い、父の手をつかんで、それをエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。48:18 ヨセフは父に言った。「父上。そうではありません。こちらが長子なのですから、あなたの右の手を、こちらの頭に置いてください。」48:19 しかし、父は拒んで言った。「わかっている。わが子よ。私にはわかっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう。」

 イスラエルは確信犯でした!あえて弟を兄より先にしたのです。兄も栄えるけれども、弟のほうが栄えるようにしました。かつて自分自身のことについて、母リベカがまだ双子を胎に宿している時に、「兄が弟に仕える」と主から聞いたのです。

48:20 そして彼はその日、彼らを祝福して言った。「あなたがたによって、イスラエルは祝福のことばを述べる。『神があなたをエフライムやマナセのようになさるように。』」こうして、彼はエフライムをマナセの先にした。

 これはヤコブの恣意的な操作ではなく、預言でした。事実、エフライム族が北イスラエルの代表的な部族になり、「エフライム」と呼ばれればそれは北イスラエルのことを指していました。

 聖書は興味深いパラドックスに満ちています。これまで族長は、弟が神の約束を受け継いでいます。イシュマエルではなくイサクが受け継ぎました。エサウではなくヤコブが受け継ぎました。そしてマナセよりもエフライムが大きくなります。後にダビデが神に選ばれた王となりますが、彼は八人の息子のうち末っ子でした。

 そして母親もパラドックスに満ちています。サラは不妊でした。リベカも不妊でした。そしてヤコブの愛するラケルもずっと子を産みませんでした。これからも、不妊の女がたくさん出てきます。サムエルの母ハンナも不妊でした。そして、バプテスマのヨハネの母エリサベツも不妊でした。

 ここから導き出せる神の原則は、「人間の規範に対抗するように、神は人を選ばれる」ということです。以前、ローマ9章から神の選びについて学びましたが、「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、『兄は弟に仕える。』と彼女(ラケル)に告げたのです。(11-12節)」とあります。

 人間の行い、人間の能力や知恵、これらをあざ笑うかのように神は、ご自分の栄光を現すためにあえて卑しめられているもの、無力な者、弱い者を選ばれるのです。私たち自身が誇らないように、私たち自身が自分の知識と知恵に慢心しないように、すべて神をあがめることができるように、神はそうされます(1コリント1:26-29)。

48:21 イスラエルはヨセフに言った。「私は今、死のうとしている。しかし、神はあなたがたとともにおられ、あなたがたをあなたがたの先祖の地に返してくださる。48:22 私は、あなたの兄弟よりも、むしろあなたに、私が剣と弓とをもってエモリ人の手から取ったあのシェケムを与えよう。」

 ヤコブは信仰によって将来を語っています。必ず、約束の地に主が引き戻してくださいます。これは、主ご自身がヤコブに語ってくださったことであるし、彼の祖父アブラハムに神が語ってくださったことです。皆さんも、このように神の約束を大胆に信仰によって言い表してみてください。神の約束であれば、たとえ見ていなくても、確信をもって語ってよいのです。

 そして、ヤコブは自分がかつて住んでいたシェケムをヨセフに与えることを約束しました。覚えていますね、娘ディナが凌辱を受け、そしてシェケムの住民をシメオンとレビが虐殺したところです。そこはすでにヤコブの町になっていました。他の兄弟ではなくヨセフに与えることを約束しました。

 事実、確かにイスラエルの民は四百年後にヨセフの遺骸を運びだし、そして約束の地に入った時には、ヨシュア記の最後ですが「イスラエル人がエジプトから携え上ったヨセフの骨は、シェケムの地に、すなわちヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子らから買い取った野の一画に、葬った。そのとき、そこはヨセフ族の相続地となっていた。(24:32」とあります。

 そして、新約聖書ではサマリヤという地方での出来事で、「それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。(ヨハネ4:5-6」とあります。この井戸をめぐって、一人のふしだらな女がイエスこそメシヤであることを知り、生ける神の水を手に入れるのです。

2A 十二人へ祝福 49
1B 終わりの日 1−28
49:1 ヤコブはその子らを呼び寄せて言った。「集まりなさい。私は終わりの日に、あなたがたに起こることを告げよう。

 二人の子を祝福したのちに、ヤコブは十二人の息子一人ひとりに祝福を与えました。そして、その祝福は「終わりの日に、あなたがたに起こること」であることに注目してください。彼らのこれからの人生という短い期間ではなく、彼らの後から出てくる部族の今後の姿、そしてはるか先にある神の国が始まる完成の日までを見通した預言になるのです。

 「終わりの日」という言葉を聞くときに、私たちは初めに考えることは「すべてが終了する日」だと思いますね。けれども聖書の語る「終わりの日」あるいは「終わりの時」とは、終了ではなく「完成する日」です。神が行われようとしているご計画、救いを完成されるのが「終わりの日」です。ですから、「これですべて終わりだ」というような破局の言葉ではなく、むしろ私たちは終わりの日を待ち焦がれるのであります。

 興味深いことに、創世記という「初めの書物」において、神はすでに終わりの日を告げておられることです。イザヤ書に、「わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。(46:10」とあります。神は永遠の方です。「永遠」というのは、今の時間がずっと続くことではありません。時間も神によって創造されたものです。時間を超越していることです。したがって、神によっては今も昔も「今」にあります。

 神はいつも「完成した姿」から、今を語ってくださいます。終わりから初めを語ってくださいます。私たちは時間の枠組みにいると、これから終わりが見えてくるわけで、それがどうなるかが分かりません。けれども、神は私たちにすでに終わりを見せてくださっています。「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。(ローマ8:30」すでに栄光の姿に変えられた私たちを、神はキリストにあって見てくださっているのです!ですから、私たちは不安になることがありません。不動の希望を持っています。

49:2 ヤコブの子らよ。集まって聞け。あなたがたの父イスラエルに聞け。

 今、声をふりしぼって語っているのでしょう。小さい声ですから、けれどもとても大切な話をするのですから、二度、「聞け」と命じています。

49:3 ルベンよ。あなたはわが長子。わが力、わが力の初めの実。すぐれた威厳とすぐれた力のある者。49:4 だが、水のように奔放なので、もはや、あなたは他をしのぐことはない。あなたは父の床に上り、そのとき、あなたは汚したのだ。・・彼は私の寝床に上った。・・

 これが長男ルベンに対する預言です。彼は長男ですから、「初めの実」であり、長男としての威厳と力を持っていました。ところが、「水のように奔放だ」と言います。例えば、彼はヨセフを他の兄から救い出そうとして、「穴に入れなさい」と言います。ところが戻ってきたら、自分の弟たちは彼を奴隷に売ってしまいました。さらに、シメオンがエジプトの監獄にはいって、ベニヤミンを連れて行かなければエジプトには来てはならないと言われて、父は「絶対にいやだ」と言っている時に、ルベンは、「もしベニヤミンに何かあったら、私の子を殺してください。」と言いました。説得力がありません。指導力がありません。水のように奔放なのです。

 そして、その奔放さが最も表れたのが、父のそばめビルハと寝たことです(35:22)。ラケルが死んだ後に、彼はラケルの女奴隷ビルハのところに入ることにより、父の相続を得ようとしたのです。当時、それは父の相続を取る行為に他なりませんでした。

 このことによって彼はかえって、「他をしのぐことはない」つまり、長子の権利を持つことはなくなりました。歴代誌第一5章にこう記録されています。「イスラエルの長子ルベンの子孫・・彼は長子であったが、父の寝床を汚したことにより、その長子の権利はイスラエルの子ヨセフの子に与えられた。系図の記載は長子の権利に従って行なうものではない。ユダは彼の兄弟たちにまさる者となり、君たる者も彼から出るのであるが、長子の権利はヨセフに帰したからである。・・(1-2節)」先に話したようにヨセフが長子の権利を受け継ぎます。そして、ユダについては「君たる者」つまりメシヤが出てくる、という約束が与えられます。

 ルベン族は、死海の東側の部分を相続の割り当て地として受け取りますが、ルベン族は主たる役割を果たすこともできず、人数も減っていきます。後にモーセは、「ルベンは生きて、死なないように。その人数は少なくても。(申命33:6)」と祈らなければならなかったほどです。

49:5 シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の道具。49:6 わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったから。49:7 のろわれよ。彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。

 覚えていますね、二番目の子シメオンと三番目の子レビが、シェケムにおいて虐殺を行いました。ヤコブは、彼らの「激しい怒りと甚だしい憤り」から自分の心を引き離す祈りを捧げています。ディナが凌辱を受けたということに対する彼らの怒りは正しいものでしたが、それを抑制も効かせず発散させたところに、近寄ってはならないという汚れがあったのです。エペソ書4章にこうあります。「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。(26節)」「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。(31節)

 そして、彼らは相続地を有することがなくなるとヤコブは言います。シメオン族は、ユダ族の割り当て地の中で住むようになります。そしてレビ族は、町が与えられましたが相続地は与えられません。けれども、神はレビ族を憐れまれました。モーセまたアロンを輩出しました。そしてレビ族は、主を礼拝する幕屋で仕える奉仕にあずかりました。相続地はなかったものの、主ご自身の近くにいるという分け前は受け取りました。

49:8 ユダよ。兄弟たちはあなたをたたえ、あなたの手は敵のうなじの上にあり、あなたの父の子らはあなたを伏し拝む。49:9 ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。

 カナン人の娘を妻に取るなど失敗したユダですが、その後、彼は家族の中で指導的な役割を果たすようになりました。その典型が、ベニヤミンを奴隷とする代わりに、自分が保証人となって奴隷となるとヨセフに申し出たことです。

 「ユダ」とは「ほめたたえる」という意味が含まれていますが、それで兄弟たちがあなたをほめたたえる、と言っています。そして彼は強くなります。敵が彼に屈します。また兄弟たちは、彼を拝むようになります。ちょうどそれは、獅子のようです。

 これは、ダビデがユダから出てくることで実現していきます。ユダ族は人口が増え、割り当て地も南部に大きく持ち、そしてダビデが出て彼から王が出てきます。イスラエルが分裂した時も、南ユダ王国と北イスラエル王国に分かれ、北イスラエルがアッシリヤに滅んだ後もユダはバビロンに捕え移されるまで持ちこたえました。

 そして黙示録5章にて、天において、御使いがヨハネにこう告げます。「ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得た(5節)」イエス様が十字架につけられ、そしてよみがえられたことを話しています。イエス様がユダの獅子なのです。

49:10 王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。

 ここに大きなメシヤ預言があります。アダムには「女の子孫」、アブラハムには「あなたの子孫」、そしてその子孫がユダに引き継がれることがここで明らかになっています。ここの「シロ」というのがメシヤの別称です。

 ここでの意味は、ユダヤ人の支配と主権が、メシヤが来られる時まで決して離れることはない、という預言です。ここの「王権」という箇所から、ユダヤ人たちは「死刑制度」を自分たちの主権の尺度としていました。かつてノアに神が語られた言葉、「人の血を流す者は、人によって、血を流される。(9:6」を根拠にしていました。

 ところが紀元6年に、ローマ帝国がユダヤ人から死刑の権利を奪うことになります。それでユダヤ人指導者は神が約束を守られなかったと嘆いて、町中を歩いたと言われています。けれども彼らは知りませんでした。もう十歳ぐらいでしょうか、すくすくとイエス様は育っておられたのです。

 さらに、イエス様はエルサレムは破壊されて、彼らが散り散りになることを予告されました。ユダヤ人に主権が完全になくなってしまいました。紀元70年のことです。その時までにシロ、メシヤが来なければならず、ユダヤ教徒たちは70年より前にメシヤが誰かを見出さなければいけないのです。これはダニエル書926節でも同じであり、ローマ軍によってエルサレムが荒らされる前にメシヤが来られて、断たれなければいけないことが書いてあります。

49:11 彼はそのろばをぶどうの木につなぎ、その雌ろばの子を、良いぶどうの木につなぐ。彼はその着物を、ぶどう酒で洗い、その衣をぶどうの血で洗う。49:12 その目はぶどう酒によって曇り、その歯は乳によって白い。

 ここは強さと豊かさが表れています。「ぶどうの木」にろばをつなげていれば、ぶどうの木が折れてしまいます。けれども、それだけ強い木になるのだという約束です。ぶどうの木ですから実を結びながら、力も帯びるいうことです。

 さらに、「着物をぶどう酒で洗う」というのはキリストの再臨の預言です。「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。(イザヤ63:3」敵どもを殺した時の返り血がつくことを表しています。

 さらに、目がぶどう酒で曇り、歯が乳によって白いというのは、農産物の豊かさを表しています。神の国では豊かな農産物の生産が約束されています。

49:13 ゼブルンは海辺に住み、そこは船の着く岸辺。その背中はシドンにまで至る。

 ゼブルン族は、実際の割り当て地はガリラヤ地方の真ん中であり、地中海にもガリラヤ湖にも接していません。けれども、貿易品によって栄えることになるという約束です。

49:14 イッサカルはたくましいろばで、彼は二つの鞍袋の間に伏す。49:15 彼は、休息がいかにも好ましく、その地が、いかにも麗しいのを見た。しかし、彼の肩は重荷を負ってたわみ、苦役を強いられる奴隷となった。

 イッサカル族は同じガリラヤ地方の南部に位置します。そこにはイズレエル平原という大きな穀倉地帯が広がっています。その豊かさのためかえって、彼は怠け者になり、他の雇い主に虐げられる奴隷のように、指導権を発揮することはないという預言です。

49:16 ダンはおのれの民をさばくであろう、イスラエルのほかの部族のように。49:17 ダンは、道のかたわらの蛇、小道のほとりのまむしとなって、馬のかかとをかむ。それゆえ、乗る者はうしろに落ちる。

 ダンは「さばく」という意味がありますが、イスラエルを救う士師であるサムソンがダン族から出ました。そしてダン族は、地中海の中腹、今のガザ地区の北部辺りを割り当てに与えられましたが、土地が足りないと言って北上して、まったく無防備であったライシュというカナン人の町を襲って、そこを自分たちの町としました。これを「道のかたわらの蛇」と形容しているのでしょう。

49:18 主よ。私はあなたの救いを待ち望む。

 突然、主の救いを願う祈りを捧げています。ダン族は、きわめて北部に位置していたため、周囲のカナン人の偶像生活から離れることなく、北イスラエルの時代はヤロブアムによって金の子牛礼拝が行われていました。そしてアッシリヤがやってきてダンから滅ぼされるのをヤコブは予見したのでしょう、それで主の救いを、イエス様を呼び求めたのです。

49:19 ガドについては、襲う者が彼を襲うが、彼はかえって彼らのかかとを襲う。

 ガド族はヨルダン川の東を自分の割り当て地にしたため、敵から絶えず責められていました。けれども、「かえってかかとを襲う」というのは、戦いの勇士になるということです。

49:20 アシェルには、その食物が豊かになり、彼は王のごちそうを作り出す。

 アシェルは、地中海沿岸の北側、カルメル山の北に位置します。今でも農産物が豊かに取れます。

49:21 ナフタリは放たれた雌鹿で、美しい子鹿を産む。

 ナフタリ族は、ガリラヤ湖の西側に南北に延びる割り当て地です。「放たれた鹿」という形容は、敏捷性があるということです。軍事において彼らはその敏捷性を発揮しました(士師4章)。

49:22 ヨセフは実を結ぶ若枝、泉のほとりの実を結ぶ若枝、その枝は垣を越える。49:23 弓を射る者は彼を激しく攻め、彼を射て、悩ました。49:24 しかし、彼の弓はたるむことなく、彼の腕はすばやい。これはヤコブの全能者の手により、それはイスラエルの岩なる牧者による。

 ついにヨセフへの祝福です。長子の権利を持つヨセフなので、その祝福も長く預言されています。第一礼拝でお話ししましたように、これはヨセフがエジプトの支配者になり、エジプトと世界を飢饉から救う豊かな者になったことを表し、また弓で射られるような苦しみを味わったけれども、神の力によって力を得たことを表すものです。兄たちによって売られたこと、ポティファルの妻によって偽りの告発を受けたこと、監獄に二年間いたことなどを表しています。しかしその苦しみによって豊かな栄光が与えられたのです。

49:25 あなたを助けようとされるあなたの父の神により、また、あなたを祝福しようとされる全能者によって。その祝福は上よりの天の祝福、下に横たわる大いなる水の祝福、乳房と胎の祝福。

 エフライム族とマナセ族は、豊かな収穫が与えられました。強い部族となりました。

49:26 あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり、永遠の丘のきわみにまで及ぶ。これらがヨセフのかしらの上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭上にあるように。

 すばらしい約束です。「あなたの父の祝福が、親たちの祝福にまさる」というのは、ヤコブがアブラハム、イサクよりも祝福されるという意味です。実にヤコブは、十二部族という祝福が与えられ、その代表格としてヨセフ族、つまりエフライムとマナセ族がいる、ということです。そして、「永遠の丘のきわみ」というのは、非常に長く祝福が続くということであり、神の御国におけるイスラエルの地を暗示しています。

49:27 ベニヤミンはかみ裂く狼。朝には獲物を食らい、夕には略奪したものを分ける。」

 最後のベニヤミンですが、彼もダン族のように、戦いにおいて優れている部族となっていきます。士師のエフデ、王サウルとその子ヨナタン、エステル記ではモルデカイとエステルもベニヤミン族でした。さらに新約聖書では使徒パウロがベニヤミン族です。

49:28 これらすべてはイスラエルの部族で、十二であった。これは彼らの父が彼らに語ったことである。彼は彼らを祝福したとき、おのおのにふさわしい祝福を与えたのであった。

 これで祝福が終わりました。それぞれにふさわしい祝福、つまり預言になっていたことです。ヘブル人への手紙11章では、ヤコブがこれを信仰によって行ったことを教えています。「信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました。(21節)」すばらしいですね、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(ヘブル11:1」みなさんもぜひ、預言の賜物を求めてください。それは、人々に慰めと励ましを与える言葉です。希望を与える言葉です。書かれてある御言葉に基づく言葉であり、信仰によって与えられた知識を言葉に出します。

2B 先祖の墓 29−33
49:29 彼はまた彼らに命じて言った。「私は私の民に加えられようとしている。私をヘテ人エフロンの畑地にあるほら穴に、私の先祖たちといっしょに葬ってくれ。49:30 そのほら穴は、カナンの地のマムレに面したマクペラの畑地にあり、アブラハムがヘテ人エフロンから私有の墓地とするために、畑地とともに買い取ったものだ。49:31 そこには、アブラハムとその妻サラとが葬られ、そこに、イサクと妻リベカも葬られ、そこに私はレアを葬った。49:32 その畑地とその中にあるほら穴は、ヘテ人たちから買ったものである。」

 ついに、そこに入る族長たちの名前が出そろいました。初めはサラそれからアブラハムです。次にリベカそしてイサクです。それからレアも葬りました。ヤコブよりレアが早く死にました。ラケルは先ほどのベツレヘムへの道で死んだのでそこに葬られています。そしてヤコブ本人がそこに葬られます。

49:33 ヤコブは子らに命じ終わると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。

 ついにヤコブが息絶えました。そして「自分の民に加えられた」とありますが、これは死後に命があるという希望です。神の民に加えられた、ということです。

3A ヤコブの後 50
1B 荘厳な葬儀 1−14
50:1 ヨセフは父の顔に取りすがって泣き、父に口づけした。

 ヤコブは、ベエル・シェバからエジプトに下る時、いけにえを捧げたその夜に、主から言葉があって「ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるだろう。(46:4」と言いました。

50:2 ヨセフは彼のしもべである医者たちに、父をミイラにするように命じたので、医者たちはイスラエルをミイラにした。50:3 そのために四十日を要した。ミイラにするにはこれだけの日数が必要だった。エジプトは彼のために七十日間、泣き悲しんだ。

 エジプトと言えば、ファラオのミイラが有名ですが、ヤコブの遺体もヨセフはミイラにさせました。なぜなら、これから彼をカナン人の地に持っていかねばならず、ここにあるように、エジプト人全体がヤコブのために七十日間喪に服したからです。その後に旅をせねばならないので、ミイラにしました。

 ミイラは、ミイラにする特別な者たちがいますが、ヨセフは医者に命じています。おそらくこれは、ミイラにする時に魔術を使うのでそれを避けたかったのかもしれません。

50:4 その喪の期間が明けたとき、ヨセフはパロの家の者に告げて言った。「もし私の願いを聞いてくれるのなら、どうかパロの耳に、こう言って伝えてほしい。50:5 私の父は私に誓わせて、『私は死のうとしている。私がカナンの地に掘っておいた私の墓の中に、そこに、必ず私を葬らなければならない。』と申しました。どうか今、私に父を葬りに上って行かせてください。私はまた帰って来ます、と。」50:6 パロは言った。「あなたの父があなたに誓わせたように、上って行ってあなたの父を葬りなさい。」

 パロは、直接ではなくパロの家の者を通してカナン人の地に行かせてほしいとパロに頼みました。パロはヨセフを決して手放したくないことは分かっているので、「私はまた帰ってきます」と約束しています。

50:7 そこで、ヨセフは父を葬るために上って行った。彼とともにパロのすべての家臣たち、パロの家の長老たち、エジプトの国のすべての長老たち、50:8 ヨセフの全家族とその兄弟たちおよび父の家族たちも上って行った。ただ、彼らの子どもと羊と牛はゴシェンの地に残した。50:9 また戦車と騎兵も、彼とともに上って行ったので、その一団は非常に大きなものであった。

 ものすごいですね、エジプトの役人たちが全員、また護衛する兵士たち付きで動いています。国賓並みです。ヤコブはヨセフのゆえにパロに愛されていたのでしょう。

50:10 彼らはヨルダンの向こうの地ゴレン・ハアタデに着いた。そこで彼らは非常に荘厳な、りっぱな哀悼の式を行ない、ヨセフは父のため七日間、葬儀を行なった。50:11 その地の住民のカナン人は、ゴレン・ハアタデのこの葬儀を見て、「これはエジプトの荘厳な葬儀だ。」と言った。それゆえ、そこの名はアベル・ミツライムと呼ばれた。これはヨルダンの向こうの地にある。

 ヨルダン川の岸辺、おそらくは西岸にあったと思われますが、カナン人たちはあまりにも荘厳でエジプト式なので、「アベル・ミツライム」と言いました。ミツライムはエジプトの古代名です。今でもエジプトではこの国名は使われています。

50:12 こうしてヤコブの子らは、命じられたとおりに父のために行なった。50:13 その子らは彼をカナンの地に運び、マクペラの畑地のほら穴に彼を葬った。そこはアブラハムがヘテ人エフロンから私有の墓地とするために、畑地とともに買ったもので、マムレに面している。50:14 ヨセフは父を葬って後、その兄弟たちおよび、父を葬るために彼といっしょに上って行ったすべての者とともに、エジプトに帰った。

 ヨセフにとっては、カナン人の地に戻ってきたのは39年ぶりです。けれども葬った後は、パロに約束した通りエジプトに戻りました。ヨセフもヤコブと同じように、自分が生きている間はエジプトにいるが、必ず子孫はここを出て、また自分の遺骸も出ていくことになるのだと信じていました。

2B 兄への養い 15−26
50:15 ヨセフの兄弟たちが、彼らの父が死んだのを見たとき、彼らは、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない。」と言った。50:16 そこで彼らはことづけしてヨセフに言った。「あなたの父は死ぬ前に命じて言われました。50:17 『ヨセフにこう言いなさい。あなたの兄弟たちは実に、あなたに悪いことをしたが、どうか、あなたの兄弟たちのそむきと彼らの罪を赦してやりなさい、と。』今、どうか、あなたの父の神のしもべたちのそむきを赦してください。」ヨセフは彼らのこのことばを聞いて泣いた。50:18 彼の兄弟たちも来て、彼の前にひれ伏して言った。「私たちはあなたの奴隷です。」

 見てください、もう約40年の月日が経っているのです。けれども兄たちは、ヨセフに殺されることを恐れていました。覚えていますか、エサウがイサクの祝福をヤコブに奪い取られたと思って、イサクが死んだ後にヤコブを殺そうと思ったのを。父がいるからヨセフは我慢していたけれども、今、復讐を果たすのではないか、という恐れです。

 ヨセフは泣きました。この涙は、「なぜ、そんなことをずっと長いこと思っていたのですか。」という思いと、兄たちがあまりにもこのことで苦しめられていることを思っての涙です。そして渾身の力で彼は赦しの言葉を述べます。

50:19 ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。50:20 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。50:21 ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。

 なんとすばらしいことでしょうか!彼は、心から彼らを赦していて、そして彼らを残りの生涯ずっと養うことを約束しました。もはや父のゆえではなく、ただ神の赦しのゆえ彼らを養うと決めたのです。そして、彼の信仰の核心である「神が、悪を良いことのための計らいとなさった」ということを述べています。

 どうしてこのような全き赦しを行うことができるのでしょうか?先ほどのヤコブの預言にありました、「ヤコブの全能者の手により、それはイスラエルの岩なる牧者による。(49:24」です。彼は神の力により赦すことができたのです。その赦しは、何度赦したかという数の問題ではなく、質の問題です。イエス様は、「罪は何度赦したらいいんですか。七度まですか。」とペテロが尋ねたころ、「七の七十倍赦しなさい。」と答えられました。490回赦しなさい、つまり完全に赦しなさい、ということです。これは自分の力ではなく、全能者の手によって支えられているからこそできるのです。ぜひ第一礼拝の説教をお聞きください、そこに復讐する力があってもあえて行わない勇気について話しています。

50:22 ヨセフとその父の家族とはエジプトに住み、ヨセフは百十歳まで生きた。50:23 ヨセフはエフライムの三代の子孫を見た。マナセの子マキルの子らも生まれて、ヨセフのひざに抱かれた。

 ヨセフもヤコブと同じように子孫に恵まれました。

50:24 ヨセフは兄弟たちに言った。「私は死のうとしている。神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」50:25 そうして、ヨセフはイスラエルの子らに誓わせて、「神は必ずあなたがたを顧みてくださるから、そのとき、あなたがたは私の遺体をここから携え上ってください。」と言った。50:26 ヨセフは百十歳で死んだ。彼らはヨセフをエジプトでミイラにし、棺に納めた。

 ヨセフもまったく父ヤコブが命じたのと同じように、約束の地に自分の遺体を持っていってほしいと頼んでいます。そのためにミイラにしてもらっています。彼の信仰もヤコブと同じです。「神は必ずあなたがたを顧みてくださるから」であります。これが出エジプト記の始まりです。モーセがこの遺言をしっかりと聞いていて、出エジプト記1319節にこうあります。「モーセはヨセフの遺骸を携えて来た。それはヨセフが、『神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない。』と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせたからである。」それが360年後の話です。そして先ほど読んだように、ヨシュア記の終わりにヨセフがシェケムで葬られたことが書かれています。

 したがって、数百年後に実現する神の約束を信じて、ヨセフは死んでいきました。ヤコブも同じくそう信じて死にました。ヘブル11章に、「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。(ヘブル11:13」とあります。

 私たちの子の地上での生活も、ヤコブやヨセフのように祝福されます。けれども、私たちの強烈な思いは天にあります。「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。(ピリピ3:20」この方にまみえることができる、という切なる願いを持って私たちも生きているのです。ここでも祝福されます、けれども心は天に置いて行きましょう。

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