創世記49章22-24節 「実を結ぶ若枝」
アウトライン
1A 豊かな命
1B 「実を結ぶ若枝」
2B 「泉のほとり」
3B 「垣を越える」
2A 弓を射る者
1B 悩み
2B たゆまない弓
3A ヤコブの全能者
1B 「岩」
2B 「牧者」
本文
創世記49章を開いてください。明日の第二礼拝では48章から50章までを学びます。今は、49章22-24節に注目してみたいと思います。
49:22 ヨセフは実を結ぶ若枝、泉のほとりの実を結ぶ若枝、その枝は垣を越える。49:23 弓を射る者は彼を激しく攻め、彼を射て、悩ました。49:24 しかし、彼の弓はたるむことなく、彼の腕はすばやい。これはヤコブの全能者の手により、それはイスラエルの岩なる牧者による。
私たちが前回学んだように、ヤコブは130歳でエジプトに下り、そこに17年間住みました。そして、自分に死期が近づいたと感じた時にヨセフを呼び寄せて、自分の遺体をエジプトではなく、必ず先祖たちの墓に葬ってくれ、と誓わせました。
そしてヤコブは、ヨセフの二人の息子、マナセとエフライムを自分の直接の養子にし、ヨセフに二倍の分け前を与え、二人を祝福します。そして彼は十二人の息子を呼び寄せて、一人一人を祝福しますが、それは、「終わりの日に、あなたがたに起こること」つまり、はるか先にある息子から出てくる各部族の将来を預言しました。そしてヨセフの番になりました。私たちが読んだのは、その最初の部分です。
1A 豊かな命
1B 「実を結ぶ若枝」
ヤコブは初めに、ヨセフを「実を結ぶ若枝」と表現しました。(この「若枝」は他の訳では「若木」なっています。大枝を意味します。)彼の人生はもちろん、実を結ぶ人生でした。エジプトの支配者となり、膨大な富を有する者となりました。それだけでなくエジプト人や世界の人を飢餓から救いだすという大きな働きを成し遂げました。そしてヤコブの家族もこのように救い出しました。多くの実を結ばせる人生となったのです。
主は、何度も何度も、イスラエルの人たちを、また私たちキリスト者に対しても、「実を結ばせる」ことについて話しています。「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。(ヨハネ15:8)」「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。(マルコ4:20)」「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。(ガラテヤ5:22-23)」
私たちは単に天国に行くための切符を手にするために信じたのではなく、主に対して良い行いをするために救われました。行いによって救われるのではありません。けれども、行いのために信仰によって救われました。「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2:10)」
2B 「泉のほとり」
そして、これが「泉のほとりの実を結ぶ若枝」とあります。ですからこの若木は、周囲の気候によって枯れたりすることがありません。たとえ雨がずっと降らなくても、川が枯れても、泉のそばですから絶えず水があります。むしろ、乾燥したところでなおも瑞々しさを持っているのです。
イスラエルでは「泉」が非常に重要です。日本と違い、気候はずっと乾燥しているからです。5月から10月辺りまで乾季なので、ほとんど雨が降りませんが、けれども泉から水が湧き上がっているのでそこに緑が密集しています。ですから泉のそばにいれば多くの実を結びますが、そうでないと熱い日差しで焼かれてしまうのです。
このことをダビデは、詩篇第一篇で歌いました。「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。(詩篇1:2-4)」水路に植わっている、実をたわわにさせている木と、吹き飛ばされる籾殻が隣り合わせになることもあるのです。
詩篇94篇13節にはこうあります。「わざわいの日に、あなたがその人に平安を賜わるからです。その間に、悪者のためには穴が掘られます。」災いの日にも平安が与えられます。悪者のために穴が掘られているのを隣で見ていても、自分には平和の実が結ばれているのです。つまり、逆境の中にあっても動じることなく、主に対して実を結ばせる力を「泉」は与えます。
3B 「垣を越える」
そしてヤコブは、「その枝は垣を越える」と言いました。自分の庭だけ実を結ばせるのではなく、垣根を越えて外の人々にも実を与えている状態です。これはまさにヨセフの人生です。エジプトの人々に糧食を与えるのではなく、世界中から来る人々にも与えていました。ヨセフのことを、エジプト人は慕っていました。彼らが自分に財産がなくて農奴となっても、ヨセフが統治しているのでそれを喜びました。パロは、ヨセフの家族が見つかったことを聞いてたいそう喜んで、彼らを最良の地ゴシェンに住ませたのも、ヨセフの人生の垣根から若木が越えていったことを表しています。
聖霊の働きは、このようなものです。私たちの内に聖霊が住まわれるだけでなく、私たちを満たし、あふれ出てくださいます。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネ7:38)」私たちの内に大きな変化が起こることを、私たちは信仰をもった時には期待するのですが、それからさらに一歩進んで、自分の周りに神の証しを立てていきます。ちょうどヨセフを見てパロが、「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。(41:38)」と言いました。
この、ご聖霊の働きは私たちが奉仕の働きをする時に必ず必要になってきます。なぜなら、私たちにその能力を与えるのは、まさに御霊ご自身であり、御霊が賜物として私たちに与えられるからです。教会の人たちの益になるように、また世にいる人々の証しになるようにしてくださいます。
2A 弓を射る者
このように実り豊かなヨセフなのですが、彼は苦しみを通りました。それが23節、「弓を射る者は彼を激しく攻め、彼を射て、悩ました。」です。
1B 悩み
これはもちろん、ヨセフが受けた心の痛みです。もっとも大きな痛みは、もちろん自分の兄たちから受けたものです。兄によって奴隷に売られた時の心に受けた大きな傷、突如として家族から引き離された悲しみ、さらにいわれのない告発を受けて、監獄に入った時の傷もあります。
ヨセフが受けた弓の矢は、私たちにも身近なものです。一つは「妬み」です。ヨセフは、父ヤコブの寵愛を受けて、そして兄から妬みの言葉を言われました。かなりきつい言葉も語られたものと思われます。そして、無理やり穴の中に投げ込まれたものです。自分の兄さんたちに、そんなひどい仕打ちを受けました。
また、その矢は「苦々しい憎しみ」でした。彼は、穴に投げ込まれて、泣き叫びましたが、兄たちは「ざまあみろ」とでも言っていたことでしょう。そこで餓死させても構わなかったのだと思います。そして、自分の兄たちが自分を奴隷として売りました。赤の他人からではなく、自分の兄弟からそんなことをされたのです。
その他、彼はエジプトにおいて、「誘惑」という矢を受けました。また「偽りの告発」という矢を受けました。ポティファルの妻が彼が自分を辱かしめようとしたと言ったのです。そして、監獄の中では「忘れられた」という傷も受けました。献酌官長の夢を解き明かしたのに、彼は二年間もヨセフが頼んでいたことを忘れていたのでした。これらは、彼を激しく攻める弓であり、彼を射てくる弓でした。
2B たゆまない弓
ところが24節には、「彼の弓はたるむことなく、彼の腕はすばやい。」とあります。これは、ヨセフがむしろ、兄たち、またエジプトのポティファルやその妻に対して向けることのできた弓であります。彼は囚人の身から、一気にエジプトの支配者になりました。そして、食糧を買いに来た兄たちをその場で殺す権威も与えられていました。また自分を牢獄に入れたポティファル、特にその妻を罰する権威もありました。
ところが、これまで読んだ話の中には、彼は復讐を何一つしなかったことを見ることができます。弓は持っていたのですが、矢を射ることはなかったのです。罰する権威と力を持っていても、それをあえて行使しなかったのです。
覚えていますか、兄たちがヨセフの所に来た時に、彼らがヨセフにひれ伏しました。「ヨセフは兄弟たちを見て、それとわかったが、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで彼らに言った。(42:7)」とあります。これまで我慢していた感情が一気に噴き出しそうになるのをこらえていたからです。けれども、彼は弟がいないのを見ました。それで問いただしました。兄たちが、父と共にいると言ったので、「お前たちは間者だ、スパイだ。」と言いました。
けれども彼らを牢屋に入れたものの、三日後には、「一人だけ牢屋に入って、他の者たちは食糧を届けなさい。」と言います。そして彼らが再びやってきた時に食事をいっしょに取ります。兄たちは、ヨセフの家に呼ばれた時は、自分たちは殺されるのだろうと思って恐れましたが、ヨセフはそれを行う力を持っていたのです。弓はたゆむことがなかったのです。けれども、矢を放つことはありませんでした。
私たちは、しばしば「何かをすることができない」ことで不満を抱くことがあります。例えば、外国語を話せない人は、外国語を話せる人を見て羨ましくなります。けれども、外国語が話せるのに、その言語を話す人が目の前にいるにに、あえてその外国語を使わないというのは、実はもっと大変です。「日本語の先生」で優れた先生は、日本語しか使わない人です。けれども、例えば、英語、韓国語、中国語も話せるのです。けれども、アメリカ人の学生がいても、韓国人、中国人の学生がいても、日本語しか使いません。
「能力があるのに、それをあえて用いない。」ということこそ、大変なことはありません。それは、ヨセフの弓にもありました。ヨセフは、仕返しをしようと思えばいくらでもできたのです。けれども、それをあえてしなかった、というところに、彼の本当の力があります。
似たような人にダビデがいます。彼は義父サウルから追われていました。サウルはダビデを殺そうとしていました。ダビデとその部下が逃げている時、ちょうど隠れている洞窟にサウルが入ってきました。そして彼は横たわって寝ました。だから部下は、「今こそ、主が、『あなたの敵をあなたの手に渡す。』と言われた時です。」と言いました。彼はサウルの上着の裾を切り取ったのですが、それで「心を痛めた」とあります。それ以上できなかったのです。殺すことは、子供でもできるような状況だったのに、あえてそれを控えました。
仕返しするのは実に簡単です。それは、私たちの性質そのものです。やられたら、やりかえすという復讐心があります。けれども、ヨセフのように、またダビデのように、復讐は主が行われるのだ、私は神ではない、というへりくだりが必要です。能力があるのに行わないという勇気が必要です。
3A ヤコブの全能者
ヨセフは、これを自分自身の力で行ったのではありませんでした。「これはヤコブの全能者の手により、それはイスラエルの岩なる牧者による。」とあります。あえて復讐しないという勇気と力は、ヤコブの全能者の手があったからです。ちょうど、それは自分が弓を引いている時に、背後からその手を押さえていてくださっているようなものです。主がヨセフの人生に、彼が持っているその権威と力に、すべて介在してくださっていました。
ヨセフは夢を解き明かす時には、「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。(40:8)」と言いました。そしてパロに対しては、夢を二度見た理由を、「神がなさろうとすることをパリに示されたのです。(41:28)」と言いました。そして、ヨセフが兄たちを三日間監禁した時には、「次のようにして、生きよ。私も神を恐れるものだから。(42:18)」と言いました。そしてヨセフの家の管理者は、兄たちが、自分たちは袋の中の銀は盗んだものではないと主張したところ、「あなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたのために袋の中に宝を入れてくださったのに違いありません。(43:23)」と言っています。お分かりですか、すべてが神から来ているのだ、全能者の手によって私は弓を引いているのだ、という意識がヨセフには強くあったのです。
そして兄たちを赦す時には、「今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。(45:8)」と言ったのです。そしてヤコブが死んだ後、兄たちは自分たちを赦してくれるよう懇願しました。ヨセフは泣きました。そしてこう言っています。「どうして、私が神の代わりでしょうか。(50:19)」彼はよく、よく分かっていたのです!彼らを赦すのも、裁くのも、自分ではなく神ご自身なのだ。私は神ではない、ということを知っていました。
これを「ヤコブの全能者の手」と呼びます。「全能者」というと、「自分のために神は何でもしてくれる。」という万能の便利な道具のように考えてはいけません。そうではなく、「私はすべての事がこの方なくして何もできない。」という告白なのです。完全に神に頼り切っている姿です。ここで使われているヘブル語は違いますが、アブラハムに現れた神はご自分をエル・シャダイと呼ばれました。その語源は、「母の乳を飲む赤子」の姿です。この方にしかできないという告白です。
1B 「岩」
そして、弓を張ることができたのは、「イスラエルの岩なる牧者による」とあります。神が「岩」と呼ばれています。ここを始めとして、聖書の至る所で神ご自身を「岩」「石」と呼んでいます。そのイメージは、「守り」「力」「丈夫」というものです。箴言に、「岩だぬきは強くない種族だが、その巣を岩間に設ける。(30:26)」とあります。弱くても、強い方を避け所としているから自分は強い、という意味です。
イスラエルに行くと、なぜそんなに聖書に「岩」と「石」が出てくるのかがすぐに理解できます。イスラエルは石だらけの国です。石灰石が多く、それゆえ光の反射によって黄金に輝くエルサレムと呼ばれるように、光り輝いています。イエス様は「大工の息子」と呼ばれていますが、それは現在の家を見てもすぐに分かります。石でできています。ですから、木工(もっこう)ではなく「石工」でした。
ダニエル書でバビロンの王が見た夢を見ますと、世界帝国を表している金属で出来た人の像が、人手によらず切り出された石で木端微塵になりました。そしてその石が大きな山となったという記述があります(2章)。この石、キリストは、大国をも木端微塵にするほどの硬さを持っておられるのです。ですから、この方に頼っていれば安全です。「しかし主は、わがとりでとなり、わが神は、わが避け所の岩となられました。(詩篇94:22)」
2B 「牧者」
そして、ヨセフは岩なる神だけでなく、牧者なる神によっても強められていました。聖書では、神が「羊飼い」としても数多く出てきます。ヤコブは、48章で「きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神(15節)」と告白しています。羊飼いの役割は、「養う」ことです。食べさせることです。それから「守る」ことです。狼などの敵を追い払うことです。それゆえ、聖書の中では指導者も羊飼いとして出てきます。その国民を食べさせることができるのか、敵から守ってあげることができるのか、その基準で神が指導者を裁かれました。
神が羊飼いであられるなら、私たちは羊であるはずです。けれども私たちは羊なんですけど、羊であることを知らない、あるいは認めようとしません。自分は自分で生きていけるのだと思ってしまいます。羊は野生になることが決してできない動物です。独りでいれば必ず死にます。どこに青草があるかも分かりません。自分で勝手にどこかに行こうとします。一言でいうとお馬鹿さんです。けれども、羊は同時に、頼ることを知っています。自分を世話してくれる羊飼いがいると、その信頼によって何でも見分けます。他の人がその羊飼いの声を真似しても、決して寄り付こうとしません。もう羊飼いの声を分かっているからです。
イエス様がよみがえられて園の墓の敷地におられた時、マグダラのマリヤはイエス様を園の管理人だと思いました。「あなたが、あの方を運んだのですか。どこに置かれたのですか?」と尋ねました。けれども、イエス様は、「マリヤ」と言われたのです。その一言の呼びかけで、彼女はイエス様に抱き着いて、イエス様が窒息しそうなぐらいに、もう二度とどこかに行かせないという強い思いで掴みました。彼女はイエス様の声を知っていたのです。
ですから、ヨセフも羊飼いである神を知っていました。彼は、アブラハム、イサク、ヤコブのように、直接神が現れて、語りかけるという経験はしていませんでした。けれども、彼は夢を見ました。また自分の周りで物事が成功していくのを見ました。そして、神の物語を知っていました。自分の周りで起こっていることは無秩序なのではなく、すべてに目的があり、計画があることを知りました。そこに彼は神の語りかけを聞いていたのです。
みなさんはいかがでしょうか?自分の周りで神が語られているのに気づきませんか?私たちは、神の声を知っているのです。そして神に聞き従えばよいのです。神が養ってくださいます。そして成長させてくださいます。そしてヨセフのように、実り多くしてくださいます。自分だけでなく、周りの人たちにも恩恵を与えます。
それは、弓のない生活を意味していません。弓を射てくる人は必ずいます。悪魔、悪霊どもが放つ火の矢があります。けれども、私たちは全能の神によって、岩なる神によって、羊飼いなる神によって必ず守られます。むしろ強められ、すばやい腕を持つことができるのです。