創世記5−8章 「水の裁き」

アウトライン

1A アダムの系図 5
2A 箱舟の建設 6
   1B 堕落した地 1−8
   2B 主との契約 9−22
3A 洪水の裁き 7
   1B 七日前の警告 1−10
   2B 全世界を覆う水 11−24
4A 新世界 8
   1B 乾いた大地 1−14
   2B 出てきたノアの家族 15−22

本文

 創世記5章を開いてください、今日は8章まで読んでいきたいと思います。ここでのテーマは、「水の裁き」です。それでは早速、本文に入りましょう。

1A アダムの系図 5
5:1 これは、アダムの歴史の記録である。神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼を造られ、5:2 男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名をアダムと呼ばれた。5:3 アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。5:4 アダムはセツを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ。5:5 アダムは全部で九百三十年生きた。こうして彼は死んだ。

 前回私たちは、4章の最後でアダムとエバがセツを生んだところを読みました。そしてセツから、主の御名によって祈る人々が出てきたところを読みました。5章は、このセツからの系図の記録であり、次に出てくる神の人ノアに至るまでの系図であります。

 アダムは、「神に似せられ」て創造されましたが、ここで特徴的なのはセツが、「アダムのかたちどおりの子」であった、ということです。すでに神の似姿を損ない、罪の性質をもって生まれてきました。さらに、アダムは930年という高齢ではありましたが、それでも「死んだ」という言葉で終わっているところに、神がアダムに言われた「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。(2:17」の言葉の実現を見ます。ここに、パウロが、ロマ書5章で論じている出来事が起こっています。「ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、・・それというのも全人類が罪を犯したからです。(ローマ5:12

 そしてこのアダムの系図は延々と旧約聖書の中で続き、新約聖書の最初のマタイによる福音書で終わります。「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」です。アダムの系図と共に罪と死が入ったのですが、キリストの系図によって恵みと命が入ってきました。キリストを信じる者はすべて義と認められ、そして罪と死に打ち勝ち、命にあって勝利することができるのです。

5:6 セツは百五年生きて、エノシュを生んだ。5:7 セツはエノシュを生んで後、八百七年生き、息子、娘たちを生んだ。5:8 セツの一生は九百十二年であった。こうして彼は死んだ。5:9 エノシュは九十年生きて、ケナンを生んだ。5:10 エノシュはケナンを生んで後、八百十五年生き、息子、娘たちを生んだ。5:11 エノシュの一生は九百五年であった。こうして彼は死んだ。5:12 ケナンは七十年生きて、マハラルエルを生んだ。5:13 ケナンはマハラルエルを生んで後、八百四十年生き、息子、娘たちを生んだ。5:14 ケナンの一生は九百十年であった。こうして彼は死んだ。5:15 マハラルエルは六十五年生きて、エレデを生んだ。5:16 マハラルエルはエレデを生んで後、八百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。5:17 マハラルエルの一生は八百九十五年であった。こうして彼は死んだ。5:18 エレデは百六十二年生きて、エノクを生んだ。5:19 エレデはエノクを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ。5:20 エレデの一生は九百六十二年であった。こうして彼は死んだ。

 アダムと同じように、「生きて、死んだ」という言い回しが続いています。また、「息子、娘たちを生んだ」という表現も繰り返されています。寿命が長いですから、その間に生んだ子供たちに非常に多くなりました。第一礼拝でお話ししたように、一人六人生んだとして計算すると、洪水の前までには13年万人に達していました。

 そして次に、非常に特異な人が現れます。5:21 エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。5:22 エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。5:23 エノクの一生は三百六十五年であった。5:24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

 エノクは死にませんでした。生きている時に神が彼を引き取られました。彼は、「神とともに歩んだ」とあります。神を信じて、神を生活の中にお迎えしながら生きていた、ということです。その交わりの中で、神が、彼がまだ死んでいないのに天に引き上げてくださったのです。

 ヘブル人への手紙11章に、エノクが信仰によって神を喜ばせていたと書いてあります。「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。(ヘブル11:5

 彼は生きている時に、預言活動を行なっていたようです。ユダの手紙にこう書いています。「アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。『見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。』(14,15節)」終わりの日に主が戻ってこられることを、まだ私たちにとっても先のことをその時にすでに預言していました。

 けれども、私たちキリスト者も彼と同じように、この聖書によってはるか先のことまではっきりと預言することができます。そしてエノクは、洪水の裁きが来る前に天に引き取られましたが、同じようにキリスト者が生きたままで主に引き取られる約束が、テサロニケ人への手紙第一4章に書かれています。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(16-17節)

5:25 メトシェラは百八十七年生きて、レメクを生んだ。5:26 メトシェラはレメクを生んで後、七百八十二年生き、息子、娘たちを生んだ。5:27 メトシェラの一生は九百六十九年であった。こうして彼は死んだ。

 メトシェラは、この系図の中で最も長く生きた人です。彼の名前が非常に興味深いです。「彼が死ぬ時に、それが来る」というものです。彼の年齢を計算すると、ちょうど洪水の来る直前で死んだことが分かります。711節に、「ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。」とありますが、計算すると、ノアが600歳の時に彼が死にました。

5:28 レメクは百八十二年生きて、ひとりの男の子を生んだ。5:29 彼はその子をノアと名づけて言った。「主がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが、この私たちに、この子は慰めを与えてくれるであろう。」5:30 レメクはノアを生んで後、五百九十五年生き、息子、娘たちを生んだ。5:31 レメクの一生は七百七十七年であった。こうして彼は死んだ。5:32 ノアが五百歳になったとき、ノアはセム、ハム、ヤペテを生んだ。

 ノアの父親はレメクでしたが、彼が「この子は慰めを与えてくれるだろう」と言っているのは、この子がメシヤかもしれないと期待していたからです。「この地を呪われたゆえに、私たちは働き、この手で苦労している」というのは、覚えていますか、神がアダムに対して与えられた呪いです。この呪いから解き放たち、慰めを与える方、つまりメシヤが来られたと思いました。エバがかつて、カインに期待をかけたのと同じです。もちろんノアはメシヤではありませんでした。けれども、確かにノアによって、新しい世界が始まり慰めを得ることはできました。そして「ノア」という名前の意味は、「休み」あるいは「慰め」です。

2A 箱舟の建設 6
 そしてその当時の世界の様子を、著者のモーセは次のように描いています。

1B 堕落した地 1−8
6:1 さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、6:2 神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。6:3 そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。6:4 神の子らが、人の娘たちのところにはいり、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。

 さて、この出来事は一体何なのでしょうか?「神の子らは」とありますが、聖書の中に天使が神の子と呼ばれることがあります。ヨブ記16節で、サタンが主のところに出てくる場面がありますが、こう書いてあります。「ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。」これは明らかに天使です。

 「神の子」と言うと、私たちはまず神の御子を思い出しますね。これは永遠の関係において神の御子であり、ご自身も神です。そして私たちが、キリストを信じる信仰によって、神の子供になる、神の息子という身分を与えられることもあります(ガラテヤ4:5)。神の養子になった、といえば分かりやすいですね。そして、ここに書いてあるように、天使も、神によって造られた存在として「神の子」と呼ばれます。

 そして天使がなんと人間の女を見つけて、女を我が物とし、性的関係を結んだというのが、ここの場面です。なにかSF映画にでも出てくるような異常な光景ですが、けれども、主が蛇に対して与えた言葉を思い出してください。女の子孫が蛇のかしらを打ち砕く、という約束を神が与えられました。それで悪魔は、自分たちに従う堕落した天使たちを使って、人の子孫をめちゃくちゃにすることを行なったのです。

 これらの堕落した天使に対する神の裁きが、ユダの手紙6節にあります。「また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。」そして次の7節に、ソドムとゴモラが同じように好色にふけり、不自然な肉欲を求めた、とあります。このためにこれら天使は、暗やみの中に閉じ込められたのです。最後の審判の時まで、彼らはこの監獄に閉じ込められています。

 そして天使と人間の女の間にできたのが「ネフィリム」です。「昔の勇士」とありますが、この意味は実は否定的で、「反抗に勇ましい」という意味合いがあります。このネフィリムの存在によって、神は、120年の猶予期間を置いて地上を裁くことにされたのです。

 第一礼拝でお話ししたように、神は私たちの霊に対して、ご自分の御霊をもって争われます。「こんなことをしていては、自ら滅びを招くことになる。」という引き止めを行なわれます。私たちが、それがいくら煙たいと思われても、不快だと思っても、その葛藤がなくなったとき、それが裁きの時なのです。心に葛藤のあるうちに、主に自分の罪を告白して、悔い改めましょう。

6:5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。6:6 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。6:7 そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

 神の悔いとその心の痛みをここで感じることができるでしょうか?神は、人に自由意志を与えられました。自ら神に聞き従うことのできることも、また背くこともできる選択を与えられました。それが、善悪の知識の木が園の中央にあったことで表れています。

 ところが、その選択を、悪を行うことに用い、なんら妨げられることなく悪を行なっている姿を見て心を痛めておられるのです。神がご自身のかたちに造られた人が、その「かたち」があったがゆえに、かえって悪を行なっているのを見て悔いておられるのです。それで、地の面からご自分の創造物を消し去ることを決められました。

6:8 しかし、ノアは、主の心にかなっていた。

 この「しかし」が大事ですね。聖書で「しかし」という接続詞が出てきたら注目してください。主は、全ての生きたものを滅ぼそうとは思っておられませんでした。主は裁かれる方である以上に、恵み深い方です。

 ここの「主の心にかなっていた」というのは、もっと正確に訳すと、「主の恵みに見出された」です。ノアは正しい人でありましたが、それは、その前に神の恵みにあずかっていたからです。一方的に神に愛されていることを彼は知っていたからです。神に愛されているという確信が、私たちが主の前にまっすぐに歩むことのできる原動力です。

2B 主との契約 9−22
6:9 これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。6:10 ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。

 ノアが正しい人だ、というのは、第一礼拝で話しましたように信仰によって義と認められていたからです。彼は、神の恵みを知り、そして神の語られることをことごとく信じました。その中で彼は主とともに歩みました。「全き人」というのは、完璧な人という意味ではありません。主に十分に心を尽くして信頼した、という意味です。

6:11 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。6:12 神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

 このような酷い状況の中で、世に引き込まれることなく、彼とその家族は光の子供として生きました。私たちも今、この終わりの日に、主の恵みを十分に知り、主への全き信頼の中で生きていきたいと思います。

6:13 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。6:14 あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。6:15 それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。その幅は五十キュビト。その高さは三十キュビト。6:16 箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内にそれを仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、一階と二階と三階にそれを作りなさい。

 この「箱舟」という訳はとても良いと思います。舟というよりもまさに「箱」の形をしています。長さはメートルに直しますと約132メートル、幅が22メートル、高さは13メートルです。この形はどこかの目的地に向かって航行するのは非常に不都合な形ですが、転覆しないことについては最善の形です。私が知人の牧師さんから聞いたのですが、船舶の専門家の方がこの箇所を読んで信仰を持つに至った、とのことです。彼の専門知識によれば、この寸法が最も転覆しないものだったということです。

 そして、その舟の壁を「木のやにで塗りなさい」とあります。ここの「やに」のヘブル語が「贖罪」つまり、「罪を贖う」あるいは「罪を赦す」という意味があります。神が、この箱舟に水が入らないようにされることは、ノアとその家族を神の裁きから守る意味があります。それはまさに、彼らの贖罪、罪を赦すことに他ならなかったのです。

6:17 わたしは今、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない。6:18 しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟にはいりなさい。6:19 またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れてはいり、あなたといっしょに生き残るようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。6:20 また、各種類の鳥、各種類の動物、各種類の地をはうものすべてのうち、それぞれ二匹ずつが、生き残るために、あなたのところに来なければならない。6:21 あなたは、食べられるあらゆる食糧を取って、自分のところに集め、あなたとそれらの動物の食物としなさい。」

 ここに主が与えておられる「初めの契約」があります。18節に「契約を結ぼう」とありますね。神は契約を結ばれる方です。約束を必ず守られる方であり、真実な方です。契約のためのしるし、また保証を与えられる方です。私たち日本人が接している八百万(やおよろず)の神々のように、次に何をするのか分からない、気まぐれな存在では決してないのです。

 各種類の動物を、雄と雌の二匹ずつが来るようにさせるのは、洪水の後に動物が繁殖することができるようにするためです。

6:22 ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行なった。

 この一言が、ものすごいことです。創世記26節によると、水は地下水が地から出ていただけで雨が降っていませんでした。それなのに全地を覆う大洪水を起きることを彼は信じたのです。「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。(ヘブル11:7

 そして、ただ頭だけで信じたのではないことが分かりますね。「命じられたとおりに、そのように行なった」とあります。箱舟を造るという行ないを持って、彼が本当に神の言葉を信じていることが明らかにされています。

3A 洪水の裁き 7
1B 七日前の警告 1−10
7:1 主はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。

 6章と7章には、百年間の空白期間があります。ノアが箱舟を造り始めることもすごい信仰ですが、それを百年間も行なっていることは、もっとすごい信仰です。「わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。」という言葉は、「ずっと見てきたよ」という神の経験と確認の言葉です。

 彼は、箱舟を造りながら説教も行なっていました。ペテロ第二25節に、「また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。」とあります。結局、彼が神の義を説教したことによって救うことのできた魂は、ゼロです!もちろん家族八人以外に、誰もこの警告を心に留めた人はいませんでした。でも彼は信じたのです。忍耐して最後まで信じることの大切さをここで教えられます。

7:2 あなたは、すべてのきよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつ、7:3 また空の鳥の中からも雄と雌、七つがいずつを取りなさい。それはその種類が全地の面で生き残るためである。

 「清い動物」と「清くない動物」というのは、後に神がモーセに対して律法として与えられる区別です。レビ記11章にあります。

 そして他の動物は二匹ずつなのに、なぜここでは七つがいずつなのかといいますと、その理由の一つがいけにえを捧げるためです。ノアは洪水が引いた後に箱舟から出てきた後に初めにしたことは、全焼のいけにえを捧げるためでした。一つがいよりもたくさんいなければいけません。

7:4 それは、あと七日たつと、わたしは、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面から消し去るからである。」7:5 ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。

 百年前は、「箱舟を造りなさい」という命令に聞き従いました。ここでは、「箱舟に入りなさい」という命令に聞き従っています。これも信仰が要りますね。もし雨が降ってこなかったらどうするのでしょうか?周囲の人々に対して面目つぶれです。それでも彼は従いました。

7:6 大洪水が起こり、大水が地の上にあったとき、ノアは六百歳であった。7:7 ノアは、自分の息子たちや自分の妻、それに息子たちの妻といっしょに、大洪水の大水を避けるために箱舟にはいった。7:8 きよい動物、きよくない動物、鳥、地をはうすべてのものの中から、7:9 神がノアに命じられたとおり、雄と雌二匹ずつが箱舟の中のノアのところにはいって来た。7:10 それから七日たって大洪水の大水が地の上に起こった。

 神がノアに命じられたとおりに、地上から雄雌二匹ずつの動物がやってきました。私たちは、これがおとぎ話ではないことは、普段の動物の行動を見ても明らかです。地震などの災害の来る前に、すでにそれを感知して普段と違った行動を取ります。ここでは地球の全面を覆う大洪水ですから、なおさらのこと動物たちが箱舟のところに来るのは現実味があるでしょう。

2B 全世界を覆う水 11−24
7:11 ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。7:12 そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。

 モーセは、「ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日」と、正確な期日を書き記しています。つまりこれは神話でも比喩でもなく、紛れもない歴史的事実だったことを伝えるためです。

 そして、水源は二つありました。「巨大な大いなる水の源」と「天の水門」です。前者は地下水です。そして後者は天にあった水のことです。これは単なる水蒸気ではなく、創世記17節によると、当時は水の層が天にありました。それが一気にはじけました。

 そして四十日四十夜、雨が降っています。モーセはこれを書いている時、自分自身の人生を思い出していたかもしれません。彼が40歳の時、エジプトから逃げミデヤンの地で羊飼いとなりました。そして80歳の時、エジプトに戻りイスラエルをエジプトから連れ出しました。そして120歳のとき、約束の地の東まで来て、創世記から申命記までの神の言葉を書き記しています。

 聖書には「四十」という数字が数多く出てきますが、それは「神の裁き」や「試み」を示すことが多いです。また、これまで私たちは「七」の数字も数多く見ましたね。七つがいの動物、そして先ほど出てきたエノクは、アダムから七代目の人でした。そしてもちろん、創造から七日目を主は聖とされました。これは「神の数字」と読んでも良いかもしれません。神ご自身の性質を示す時に出てくる数字です。

7:13 ちょうどその同じ日に、ノアは、ノアの息子たちセム、ハム、ヤペテ、またノアの妻と息子たちの三人の妻といっしょに箱舟にはいった。

 分かりますか、彼らが入ったのは、洪水が来る前の直前の、そのまた直前だったのです。それから洪水が起こったのです。このように神の裁きは突如として襲います。今、それらしき兆しがなかったとしても、それが安泰の徴ではないのです。イエス様がノアの時代のことをこう言われています。「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。(マタイ24:37-39

7:14 彼らといっしょにあらゆる種類の獣、あらゆる種類の家畜、あらゆる種類の地をはうもの、あらゆる種類の鳥、翼のあるすべてのものがみな、はいった。7:15 こうして、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつ箱舟の中のノアのところにはいった。7:16 はいったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。

 主が、戸を閉じられました。これはノアとその家族が洪水から救われるための神の行動であり、と同時に、不信者に対する最終的な裁きの徴であります。神は最後の最後まで、他の人たちもこの箱舟に入ってきても良いように、戸口を開いておられたのです。けれども、その最後の機会さえないがしろにするなら、もう残されているのは恐ろしい裁きしかないのです。

 雨が降り始めて来て、水かさが増してきた時に、おそらくは地上の人々は箱舟のところまで来て助けを求めたでしょう。けれども、もう遅すぎます。目で見るときにはすでに遅いのです。多くの人は、「見なければ信じない」と言いますが、死んで、そして地獄の火の中で苦しみにあってからではもう遅すぎるのです。信じるのは、まだ見ていないから信じるのです。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(ヘブル11:1

7:17 それから、大洪水が、四十日間、地の上にあった。水かさが増していき、箱舟を押し上げたので、それは、地から浮かび上がった。7:18 水はみなぎり、地の上に大いに増し、箱舟は水面を漂った。7:19 水は、いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた。7:20 水は、その上さらに十五キュビト増し加わったので、山々はおおわれてしまった。

 一キュビトは肘から人差し指までの長さで約44センチですから、十五キュビトは6.6メートルです。

 ここでは、はっきりと世界で最も高い山も水に覆われたことを述べています。聖書批評家たちの間で、ノアの時代の洪水は確かにあったが、それは地域的なものであったという意見があります。けれども、ここの記述を読めば注意深く、全世界に及んだものであることは明らかです。 

 かつて全世界的な洪水が起こったことを示す証拠は数多くあります。一つは、エベレスト山の頂上付近に魚の化石が見つかったことです。二つ目は、マンモスの化石の腹にまだ消化していない草が残っていたことです。草が消化する時間もなかったことを示しています。

 そして三つ目に、世界中の二百以上の文化に洪水の神話があることです。その88%は、救われた家族について書き記しています。70%は、舟による救いを語っています。66%が人間の罪悪が原因であったことを記しています。67%は動物も救われたことを書いています。そして57%は箱舟が山の頂上にとどまったことを書いています。そして多くの神話が、鳥が放たれたこと、虹のこと、そして八人が救われたことに言及しているのです。

 私たちの知っている「船」という漢字もその証拠です。部首の「舟」に旁が「八」に「口」ですね。中国語では家族の人数を数えるとき「口」を使います。つまり、「舟に家族八人が入っていた」という意味になっているのです。ノアとその妻、息子三人とそれぞれの妻の八人が舟に入っていたという記録を「船」という漢字が残しています。

7:21 こうして地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も地に群生するすべてのものも、またすべての人も死に絶えた。7:22 いのちの息を吹き込まれたもので、かわいた地の上にいたものはみな死んだ。7:23 こうして、主は地上のすべての生き物を、人をはじめ、動物、はうもの、空の鳥に至るまで消し去った。それらは、地から消し去られた。ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った。

 つまり、箱舟が彼らにとって神の裁きからの救いでした。このことから使徒ペテロは、箱舟はイエス・キリストを表していることを教えています。「その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。(1ペテロ3:19-21

 水のバプテスマを受けるとき、水は墓を意味しています。古い自分がキリストと共に死に、葬られたことを表しています。そして水から出てくる時、キリストと共によみがえったことを表しています。世界の人々が水によって滅んだように、古い私は水の中で死にました。けれども箱舟にいたノアとその家族の命が救われたように、イエス・キリストのうちに私がいて、救いを受けています。

7:24 水は、百五十日間、地の上にふえ続けた。

 雨は40日目でやみましたが、水そのものは150日間増え続けました。

4A 新世界 8
 ここまでが神の裁きの話でしたが、次から神が新しい世界を造られる希望の話になります。

1B 乾いた大地 1−14
8:1 神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。

 主がこのように、心に留めてくださる時が来ます。これはそれまで忘れておられた、ということではありません。ご自分が定められた時に、ご自分が約束されていたことを実行されるということです。私たちがまだ何も見ていないときも、このことを決して忘れないでください。

8:2 また、大いなる水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨が、とどめられた。8:3 そして、水は、しだいに地から引いていった。水は百五十日の終わりに減り始め、8:4 箱舟は、第七の月の十七日に、アララテの山の上にとどまった。

 「アララテの山」とありますが、山は複数形なので「山脈」と訳したほうがよいでしょう。今のアララテ山はトルコにありますが、山脈はトルコだけでなくアルメニア、そしてロシアにまで連なっています。そこのどこかでとどまったと考えられます。

 そして「とどまった」という言葉は「休んだ」とも訳すことのできるものです。主なる神が七日目に休まれたのと同じ言葉が使われています。そしてそれが「ノア」の名前の意味にもなっています。

8:5 水は第十の月まで、ますます減り続け、第十の月の一日に、山々の頂が現われた。8:6 四十日の終わりになって、ノアは、自分の造った箱舟の窓を開き、8:7 烏を放った。するとそれは、水が地からかわききるまで、出たり、戻ったりしていた。8:8 また、彼は水が地の面から引いたかどうかを見るために、鳩を彼のもとから放った。8:9 鳩は、その足を休める場所が見あたらなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が全地の面にあったからである。彼は手を差し伸べて鳩を捕え、箱舟の自分のところに入れた。8:10 それからなお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。8:11 鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。8:12 それからなお、七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。

 しだいに水が引いていったので、ノアは乾いているところがないか調べるために鳥を飛ばしました。初めは「」です。次に「鳩」ですが、烏は肉食であり、後にモーセの律法の中で汚れた動物に数えられます。烏が「出たり、戻ったりしていた」のは、すでに水面に浮かんでいた死体を食べることができたからでしょう。

 次に「」ですが、もちろん鳩は死体を食べません。9節に「足を休める場所が見あたらなかった」とありますが、ここにも「休む」という言葉が使われています。そして、さらに七日待って鳩を放つと、今度は「オリーブの若葉」をつまんでいました。オリーブは山の高地に生えており、水に浸っていても育ちえるので、これでは完全に乾いていることは確認できません。けれども水かさが減っていることはたしかです。それでさらに七日待ちました。すると鳩は戻ってきませんでした。完全に乾いた所ができた証拠です。

8:13 ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。8:14 第二の月の二十七日、地はかわききった。

 ついに目視でも地が乾ききっているのを確認することができました。

 このように7章は神の裁きが主題でしたが、8章は神の安息と慰めが主題です。私たちは、この地上において悪があるのを見聞きして心を悩ませますが、神が裁いてくださいます。そして、神は私たちを、義の宿る天に招きいれてくださり、安息と慰めを与えてくださるのです。 

2B 出てきたノアの家族 15−22
8:15 そこで、神はノアに告げて仰せられた。8:16 「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。8:17 あなたといっしょにいるすべての肉なるものの生き物、すなわち鳥や家畜や地をはうすべてのものを、あなたといっしょに連れ出しなさい。それらが地に群がり、地の上で生み、そしてふえるようにしなさい。」8:18 そこで、ノアは、息子たちや彼の妻や、息子たちの妻といっしょに外に出た。8:19 すべての獣、すべてのはうもの、すべての鳥、すべて地の上を動くものは、おのおのその種類にしたがって、箱舟から出て来た。

 これで三つ目の主の命令です。一つ目は「箱舟を造りなさい」。次に、「箱舟に入りなさい」、そして三つ目が「箱舟から出なさい」です。

 主が、またやり直しの世界を始めてくださいました。新世界です。ノアが初めに行なったことに注目してください。

8:20 ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。

 主への礼拝です。アダムとエバの息子アベルが行なったことであり、動物の犠牲によって神が私たちの罪を赦し、私たちを受け入れてくださる方法です。

 私たちが全く新しい世界に入ったとしたら、果たしてノアのように初めに感謝の礼拝を捧げるでしょうか?私だったら、何か面白い探検ができるかと、いろいろなところを歩き回ることでしょう。お腹が空いていたら食べ物を探すでしょうし、どこに住もうかなと考え始めると思います。けれどもノアは、歩き回る前に、これまで神が示してくださった恵みに感謝して、神にいけにえを捧げているのです。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1」神の恵みや憐れみを忘れることなく、覚えて神に自分自身を捧げます。 

8:21 主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。

 「なだめの香りをかぐ」というのは、主がそのいけにえを快く受け入れられたことを表します。そして、「この地をのろうことをすまい」と決められました。すばらしいですね、私たちが神の恵みと憐れみの中に生きることこそが、主からの祝福を受け取り続ける方法なのです。 

 そして主がお考えになっていたことが驚くべきことです。なぜ地をこれから呪われないのか?「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。」というものです。これはどういうことでしょうか?もし、人が悪を思い計っていることが理由で人を裁くのであれば、何度水で地を滅ぼしても足りないぐらいだからです。このように人間の性質が、完全に堕落しているという事実に基づいて、神はご自分の恵みを最大限にお示しになることによって、彼らを悔い改めに導くことに決められました。ロマ24節に、「神の慈愛があなたを悔い改めに導く」とあります。

 課題は私たち側にあります。そこまでの人間理解ができているかどうかです。初めから思い計ることが悪だという理解、人間が完全に堕落しているのだと悟っているかどうかです。もしそう悟っていなかったら、私たちは何とかして自分の行ないによって義と認められようという期待を抱いてしまいます。神は、もうそれが私たちに全くできないことをお分かりだから、ご自分の子キリストをこの世に遣わされたのです。

8:22 地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」

 いかがでしょうか、神はこのことを今も守っておられますね?四季を与えられ、一日を与えられ、これをこんなにも長い期間、その循環を守っていてくださっているのです。神の真実は変わることはありません。