創世記5−9章(1−11章パート2)  「神のやり直しの祝福」


アウトライン

 

1A 創造における祝福と呪い 1−4
2A 子孫における祝福と呪い 5−9
   1B 祝福 新しい子孫 5
   2B 呪い 6−9
      1C 原因 ― 暴虐 6
      2C 内容 ― 洪水 7
      3C 結果 ― 乾き 8
      4C 終了 ― 契約 9


本文

 今日は、創世記の5章から9章までを学びたいと思います。ここでの主題は、「神のやり直しの祝福」です。私たちは前回、神は天と地を創造したことで、人間を祝福されました。しかし、最初の人アダムが罪を犯して、土地が呪われたものとなりました。さらに、アダムとエバの間に生まれたカインは、弟のアベルを殺してしまいました。そのために、カインはその土地からのろわれたものとなりました。神は人間を祝福されるためにこの世をつくられましたが、人間の神に対する不従順によって、のろいがもたらされたのです。

 けれども、神は人間を見捨てようとはされていません。人間を再び祝福の状態に戻されたいのです。そこで、神はアダムとエバが罪を犯した後にすぐ、彼らの子孫から救いがもたらされる計画をおたてになりました。3章15節には、こう書かれています。「私は、おまえの頭を砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。(3:15)」悪魔の頭を打ち砕くものが、エバの子孫から現れます。この人物を聖書は、「メシヤ」あるいは「キリスト」と呼んでいます。そして、アダムとエバの間にカインが生まれ、エバはカインから救いがもたらされると思いました。4章1節に、「私は、主によってひとりの男子を得た。」とあります。しかし、このカインがアベルを殺してしまったので、神はふたりの間にセツをお与えになりました。そこで、アダムはこういいました。4章25節です。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子をさずけられたから。」こうして、神は、アダアムとエバの間に子孫を残し、その子孫をとおして人間に救いをもたらすように定められました。

2A 子孫における祝福と呪い 5−9
1B 祝福 新しい子孫 5
 まず、5章には、セツの子孫から、神の救いをもたらすノアという人が現れることが述べられています。

 これはアダムの歴史の記録である。神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼をつくられ、男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名をアダムと呼ばれた。アダムは、130年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの故を産んだ。彼はその故をセツと名づけた。アダムはセツを産んで後、800年生き、息子、娘たちを産んだ。アダムは全部で930年生きた。こうして彼は死んだ。

 神は、アダムをご自分のかたちに似せて創られましたが、セツはアダムのかたちに似せて生まれました。私たちは、アダムの罪によって人間が神から離れてしまったことを前回学びましたが、それが子孫にも引き継がれていることがわかります。そして、罪の報酬としてもたらされるのはしです。アダムは死にました。そして、アダムから出る子孫も死ぬことが定められました。パウロは、アダムについてこういって言っています。「ちょうど一人の人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして全人類に広がった(ローマ5:12)」ですから、敬虔に生きたセツの子孫にも、罪が入り込みました。6節から20節までの系図を読むと、「死んだ。」という言葉がくり返されています。

 ところが、21節を見てください。エノクは65年生きて、メトシェラを産んだ。エノクはメトシェラを生んで後、300年神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は365年であった。エノクは神とともに歩んだ。神は彼を取られたので、彼はいなくなった。

 なんとエノクは死を経験せずに天に引き上げられたのです。すべての子孫が死んでいる中で彼は特異です。そして人が皆死んでいるのに死に入らなかったという事実は、私たちにとっての希望でもあります。なぜなら罪によって定められた運命を、この人は打ち破っているからです。

 彼がなぜ死を経験しなかったのでしょうか。わかるでしょうか。ここに書かれているのは「神とともに歩んだ」とあります。それでは何をもって神とともに歩んだのでしょうか。それがヘブル人への手紙11章5節に書かれてあります「信仰によってエノクは死を見る事のないように移されました。」神に移されて見えなくなりました。移される前に彼は神によろこばれていたことが証しされていました。信仰がなくては神によろこばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には、報いてくださる方であるということを信じなければならないのです。

 つまり、神とともに歩むとは、信仰の歩みです。私たちは以前カインとアベルの捧げ物の違いを学びました。カインは自分勝手な方法による捧げ物でした。けれどもアベルは神から示された方法によって捧げ物をしました。そしてヘブル書の11章4節にアベルも信仰によって、よりすぐれた捧げ物を捧げたことが書かれてあります。それは、神がアベルに子羊の犠牲によって、彼が神に近づく事ができることを示されたからです。それがキリストの十字架の死によって実現されたことです。このように神が示してくださったことを、受けとめることが信仰です。エノクも同じでした。エノクの場合は、来るべき主のさばきについて、示されていました。ユダの手紙14節を開いてください。「アダムから7代目のエノクも彼らについて預言してこう言っています。見よ、主は千万の聖徒を引き連れて来られる。すべての者にさばきを行い、不敬虔な者たちの神を恐れずに犯した行為のいっさいをまた、神を恐れない罪人の主に言い逆らった無礼の一切彼らを罪にさだめるためである。」

 エノクは、カインの子孫によってできた、文明そしてその邪悪な行いを見ていました。4章で学んだ事を思い出してください。カインの子孫からは、さまざまな文明が生まれましたが、それと同時に人々の邪悪な行いも頻繁になって行きました。そこで神はエノクに神のさばきについてお示しになりました。そしてエノクのひ孫であるノアをとおして神様はさばき人々を罪にさだめましたが、これはまた同時にキリストが再び来られることの啓示でもありました。キリストが再び来られて、悪者をさばいてくださることによって実現するわけです。ですから、神さまがサタンに語りかけてかしらを砕く女の子孫はこのエノクにも同じようにされたのです。このようにして、エノクは神に示されたことを信じました。

 それゆえに、死を経験することなく天に引き上げられたのです。実はこのエノクは、キリストを信じる者たちに与えられる約束を、指し示しています。テサロニケ人への手紙第一の4章16節にこうあります。「主は号令と御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下ってこられます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に生き残っている私たちが、たちまち彼らと一緒に雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして私たちはいつまでも主とともにいることになります。」アダムが犯した罪のために、すべての人が死ななくてはなりませんが、このエノクが神を信じたようにキリストを信じる者は死を経験しなくてもよいのです。またたとえ死んだとしても、復活することがここに書かれています。

 それでは28節を見てください。ノアの父のレメクがのっています。レメクは182年生きて一人の男の子を生んだ。彼はその子をノアと名づけていった。主がこの地をのろわれたがゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが、この私たちに、この子はなぐさめを与えてくれるであろう。

 ノアというのは、休む、あるいはなぐさめるという意味です。レメクはアダムの罪によって地がのろわれたことをいいましたが、その中で自分の子が休みを与えてくれることを預言したのです。つまり神の祝福が彼をとおして再び取り戻されることがここでしまされているのです。同じように、私たちはキリストをとおして、完全な休みを得ることができます。なぜなら、罪からの救いに必要なわざをすべて十字架の上でキリストは行って下さったからです。イエスは言われました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は私のところに来なさい。わたしが、あなたがたを休ませてあげます。」

 そして32節を見てください。ノアが500歳になった時、ノアはセム、ハム、ヤペテを生んだ。

 ノア以外に3人の息子が列挙されています。つまり、このアダムの歴史と書かれていたアダムからの系図というのは、このノアの3人の息子で終わっているわけです。この3人の息子はこれから6章以降を読んでも、くり返しくり返し出てきますが、それはなぜかというと、主がこのさばきをおこなった後のこの息子から民族が出てくるからです。

2B 呪い 6−9
 そして6章から8章までここには神がこれから再び人を祝福する前に行わなければならない、ことが書かれてあります。つまり、人間の悪に対する神のさばきです。

1C 原因 ― 暴虐 6
 さて人が地上に増えはじめ彼らに娘達が生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中からすきなものを選んで、自分達の妻とした。そこで主は私の霊は永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は120年にしようと仰せられた。神の子らが人の娘達のところに入り、彼らにこどもができたころ、また地上にもネフィリムがいた。これらは昔の勇士であり、名のあるものたちであった。

 ここに出てくるのは、人の娘そして神の子ら、またその人の娘と神の子らとのこどもである、ネフィリムです。まず、人の娘ですが、アダムとエバから多くの息子と娘が生まれたことが書かれてあります。さらにカインからも多くの息子と娘が出たはずです。そしてセツからの子孫からも出ていたわけで、私たちが今読んだように一人一人の、寿命というのは非常に長かったわけです。ですからその間に、子供達を産むというのは、何回も行われたわけであって、それによって人口が急激に増加したわけです。「そこで地上で人が増えはじめ」と書かれています。この娘達に神の子らが、自分達の妻にした、とあります。聖書では、天使たちのことを、神の子と呼ぶことがよくあります。たとえばヨブ記1章6節にこう書かれてあります。「ある日、神の子らが、主の前に来て立ったとき、サタンもきてその前に来てその中にいた。」つまり、ここに出てくる神の子ら、というのは、天使たちが、人の姿をとり、娘たちと、異常な性的関係をもったことが、記されているわけです。

 私たちは、天使というと、霊であることを知っていますが、この霊が、人の姿をととって現れるということが、おこります。例えば、アブラハムに現れた、3人の御使い、これも、アブラハムが人と思ってもてなしました。ヘブル人の手紙にも、旅人達をもてなしなさい。もしかしたら、天使をもてなしているかもしれないのですから。このように、人の姿をとって、天使たちが現れ、そしてこの人の娘達と、異常な性的関係を結んだのです。その結果としてうまれたのが、ネフィリム(巨人)が生まれてしまいました。

 サタンは、まず人間に対して攻撃をしかけました。そして神様と人間との関係を攻撃し打ち壊したのです。そして神様は産めよ、増えよ、地に満ちよと言われた祝福の御計画をこのように根底から壊そうとしたのです。人類を壊してしまおうとしたのです。そこで先ほどから3章の15節にでてくる女の子孫との間にという前におまえと女との間に敵意をと書かれてあります。ここで敵意が置かれてしまっています。そこで神様は3節「私の霊は、永久には人にはとどまらないであろう。人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は120年にしよう。」と仰せられました。この120年というのは、そのときから120年後にさばきがあるということです。

 5節、主は地上に人の悪が増大しその心に図ることが、いつも悪い事だけに傾くのをごらんになった。それで主は地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛めた。そして主は仰せられた。私が創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や這うもの、空の鳥にいたるまで私はこれらを造った事を残念に思うからだ。」

 神が非常によかったと宣言された創造物、被造物は無残な姿に変わってしまいました。そこで神は自分の創造のやりなおしをされようとしています。その前に今まで生きているものを滅ぼさなければなりません。

 しかし、ノアは主の心にかなった。

 これは、「しかしノアは主の恵みにかなっていた」と訳することができます。これは聖書に出てくる、最初の「恵み」ということばです。わたしたちは前回から宗教と信仰の世界の違いを学んでいます。宗教は、自分の作り出した方法で自分を作り出そうとする試みであって、聖書に書かれている信仰は、神がつくられた救いの方法に対して、応答することです。したがって、私たちが救われるのは、神の一方的な働きかけによるのです。このことを「恵み」といいますが、恵みは、「受けるに価しないものを受ける」ことを意味します。受けるに価しない神の祝福を受けるのが神の恵みです。ノアはアダムの子孫であり他の人々と同じ罪を持つ人ですが、神の救いのみ手を握った人でした。

 これはノアの歴史である。ノアは正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。知は、神の前に堕落し、知は、暴虐で満ちていた。神は知をご覧になると、実に、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

 ノアは、主の恵みによって正しく生きたから主の心にかなったのではなく、主の『恵みにかなったから正しく生きるようになったのです。ですから、ノアは、その信仰によって正しい者とされました。そして、ノアの三人の息子達も、父親の監督のもとにいたので、暴虐に満ちた時代の中で敬虔な生活を送る事ができました。

 このノアの信仰が13節以降に大きくあらわれてきます。まず、信仰は神の声から始まります。「そこで、神はノアに仰せられた。『すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに暴虐に満ちているからだ。それで今私は、彼らを地とともに滅ぼそうとしている』」神はノアに警告を与えられています。「あなたは自分のためにゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋をつくり、うちと外とをヤニで塗りなさい。それを次のようにしてつくりなさい。箱舟の長さは300キュピト。(約132メートルです。)その幅は50キュピト。(約22メートルです。)その高さは30キュピト(約13メートルです。)

 この箱舟の形は、流体力学によると、非常に安定していて、転覆することがほとんど不可能であることがわかります。またここに、「ヤニ」が出てきますが、このヘブル語は「おおわれる」とか「贖う」という言葉と同じです。つまり、ここに初めて、「贖い」の言葉が出てきます。ノアとその家族たちは、この贖いによって水による神のさばきから救い出されるのです。

 箱舟に天窓を造り、上部から1キュピト以内にそれを仕上げなさい。光と空気が入ってくるための窓です。また、箱舟の戸口をその側面に設け、一階と二階と三階にそれを作りなさい。これは、動物が出入りすることができるためです。私は今、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない。こうして、神はノアとその家族が生き残るための箱舟の造り方を、細部に渡って示してくださいました。

 しかし、私は、あなたと契約を結ぼう。

 これば聖書に出てくる、最初の「契約」という言葉です。契約は、人に対する神の命令とその約束によって成り立っています。最初の神の命令は、14節に出てきた「箱舟を作りなさい。」というものでした。

 あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻と一緒に箱舟にはいりなさい。

 次の命令は、家族とともに箱舟にはいることです。生き残るにはしごく当たり前のことですが、家族全員が、大洪水が起こるというノアの言葉を信じなければならないのです。ですから大きな決断です。私たちがキリストを信じるのも、目に見えないお方ですから、一見簡単なようで大きな決断なのです。

 またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れてはいり、あなたといっしょに生き残るようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。また各種類の鳥、各種類の動物、各種類の地をはうすべてのうち、それぞれ二匹ずつが、生き残るために、あなたのところに来なければならない。

 神は、ノアとその家族だけでなく、各種類の動物も生き残るようにしようとされています。そして、次の節を見てください。とても大事なことばです。ノアは、すべて神が命じられたとおりのし、そのように行った。信仰は神の御声から始まりましたが、その御声を聞くことによって終わります。ただ聞くことでなく、神に信頼し、神に従う姿勢をもって聞くことが信仰の定義です。ノアは、この信仰によって正しい人と認められました。

2C 内容 ― 洪水 7
 そして7章に入りますが、実際の大洪水の場面に入ります。けれども、6章と7章の間には100年間の間隔があります。ノアが500歳のときに神からの警告を受けて、7章6節を見ると、洪水が起こったのは600歳だったからです。つまり、100年間の間、いや、主が6章3節で定められた120年の間、人間には猶予がありました。主は怒るにおそく、情け深い神です。主は、ひとりでも滅びることを望まず、悔い改めに導かれることを願っておられます。ペテロの第一の手紙によると、大洪水が起こるまでノアが説教をしていたことが記されています(3:20)。人々は、箱舟が造られるのを見て、また、ノアの説教を聞いて、悔い改める機会が十分にあったのですが、ひとりとして悔い改めませんでした。今の時代もノアの時代に実に似ています。聖書を読めば読むほど、聖書が定義している暴虐の行いを、現代社会で見る事ができます。救い主キリストを宣べ伝えるものたちが現れても、それを空想話のようにしかとらえません。しかし、ノアの洪水と同じように、キリストがふたたび来られる時さばきが行われます。イエスは言われました。「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、嫁いだりしていました。そして、洪水が来てすべてのものをさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのもそのとおりです。(マタイ24:37−39)」それに、ノアの信仰も試されたでしょう。100年間、天の空には難の兆候も御ら無いのに、巨大な箱舟を作らなければならなかったのです。けれども、彼は神の次の御声を待ちました。

 それでは1節から読みましょう。主はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族と、箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代にあって、私の前に正しいのを、私がみたからである。」

 ふたたび、ノアが正しい者と認められています。その基準は「私の前」であり、「わたしが見た」、つまり、神が下している評価です。私たちは、他人と自分を比較させながら生活してしまいます。しかし、それは誤っています。イエス・キリストと比較させながら生活しなければいけません。この方において初めて、私たちは正しい基準や正しい評価を見いだす事が出来ます。

 あなたは、すべてのきよい動物の中の中から雄と雌、7つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、1つがいずつ、また空の鳥の中からも雄と雌、7つがいずつを取りなさい。それはその種類が全地の面で生き残るためである。

 きよい動物と出てきますが、これは神にいけにえにささげることの出来る動物のことです。レビ記においてさらに詳しく書かれています。キリストがこの世に現れてからは、そのような区別はなくなりました。

 それは、あとなのかたつと、私は、知の上に40日40夜、雨を降らせ、私が」作ったすべての生き物を知の面から消し去るためである。

 雨が降る機関は40日間と定められました。つまり、神が人間をさばくのに40日を費やしたのです。聖書のほかの箇所には40という数字が出てきますが、それは神のさばきを示しています。

 ノアは、すべてに神の命じられたとおりにした。

 再び出てきました。ノアは信仰によって神にしたがっています。ここで気づいていただきたいことは、神は最初の命令にノアがしたがった後に、御声をかけられたことです。神は少しずつ、私たちに先に起る事を示されます。私たちは、最初から最後までの神の計画を全部知りたいと願うのですが、神がすでに示されていることに従わない限り、次のステップを見ることはできません。ですから、信仰によって歩む必要があるのです。

 大洪水が起こり、大水が地の上にあったとき、ノアは600歳であった。ノアは自分の息子たちや自分の妻、それに息子の妻達と一緒に、大洪水の大水を避けるために箱舟に入った。きよい動物、きよくない動物、鳥、知をはうものすべての中から、神がノアに命じられたとおり、雄と雌二匹ずつが箱舟の中のノアの所にはいってきた。

 面白いのは、ノアが動物を連れてきたのではなく、動物が箱舟にはいってきました。私は、阪神大震災が起こる直前に、多くの人のペットがいつもとは違う行動に出たことを聞いたことがありますが、動物にはそうした神から与えられた本能があるようです。

 それから7日たって大洪水の大水が知の上に起こった。ノアの生涯の600年目の第2の17日、その日に、巨大なおおいなる水の水源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。

 「その日に」とありますから、この大洪水は突然の出来事でした。そして、「巨大な大いなる水の水源」と「天の水門」が大洪水の源でした。私たちは創世記1章で、水が大空のしたと上にあるように、という神の命令を読みました。水が下にあったというのは、単に海だけではなく地下にも水がふんだんにあったのでしょう。その水源が張り裂けたようです。そして、空の上に水の層があることをこの前学びましたが、それがこの時点で開かれました。したがって、この大洪水は、単に雨が降っただけでなく、急激な地殻変動などを伴った、天変地異であった事がわかります。

 そして、大雨は40日40夜、地の上に降った。ちょうどその同じ日に、ノアは、ノアの息子たちセム、ハム、ヤペテ、またノアの妻と息子たちの3人の妻と一緒に箱舟に入った。

 「ちょうど同じ日に」とありますから、彼らが箱舟に入った直後に雨が降り始めました。彼らと一緒にあらゆる種類の獣、あらゆる種類の家畜、あらゆる種類の地をはうもの、あらゆる種類の鳥、翼のあるものすべてのものがみな、はいった。こうして、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつ箱舟の中のノアのところにはいった。はいったものは、すべて肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、主はかれのうしろの戸を閉ざされた。だれの助けをかりることもなく、戸は主によって閉じられました。

 神は、信仰を持つものの盾となってくださり、私たちをわざわいから守ってくださいます。

 それから、大洪水が、40日間、地の上にあった。水かさが増していき、箱舟を押し上げたので、それは、地から浮かび上がった。水はみなぎり、地の上に大いに増し、箱舟は水面を漂った。水は、いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた。水は、その上さらに15キュピトまし加わったので、山々はおおわれてしまった。

 まちがいなく全世界が水におおわれました。神のさばきが完全であることが示されています。現在ヒマラヤ産脈に海洋生物の化石が発見されているのですから、これは本当に起こったのです。

 こうして地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も血に群生するすべてのものも、またすべての人も死に絶えた。いのちの息を吹き込まれたもので、かわいた地にいたものはみな死んだ。こうして、主は地上のすべての生きものを、人をはじめ、動物、はうもの、空の鳥に至るまで消し去った。それらは、地から消し去られた。ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った。

 古代の文献にはさまざまな地域で大洪水の記録が残されていますが、私たちの生きている世界は一度滅ぼされているのです。私たちは、現在自分がおかれている状態がずっと続くというような錯覚に陥ります。しかし、世界は、神の直接の介入によって大異変を起こすようなもろいものなのです。ペテロはこう預言しています「終わりの日に、あざけるものどもがやってきてあざけり、自分たちの欲望に下だって生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖達が眠ってからこのかた、何事も創造の初めからのままではないではないか。』こう言い張る者達は、次のことを見落としています。すなわち、天は旧い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不経験な者どもの裁きと滅びとの火まで、保たれているのです。(2ペテロ3:3−7)」このように、ノアの洪水の記述を昔のことととらえるのではなくて、同じような形で私たちの生きている世界が今度は火でもってさばかれることを考えなければいけないのです。「水は150日間、地の上にふえ続けた。」大洪水の期間は40日でしたが、少しずつ雨の量がへっていったのでしょう。

3C 結果 ― 乾き 8
 神はノアと、箱舟の中に彼と一緒にいたすべての獣や、すべての家畜とを心にとめておられた。それで、神んが地の上に風を吹き過ぎらせると、水は引き始めた。

 神は、ノアに対して、恵みのみわざを行われはじめます。「心にとめておられた。」とありますが、ノアは長い期間箱舟の中に入っていて神から心に留め手おられないのではないか、と思ったかもしれません。私たちも、何事も起こらず神が私たちに心を留めておられないのではないか、と思うときがあります。しかし、神の恵みはいつまでも変わる事が無いのです。神は、ノアと箱舟の中にいたものたちにこころをとめられました。

 また、大いなる水の源が天と天の水門が閉ざされ、天からの大雨が、とどめられた。そして、水はしだいに地から引いていった。水は150日の終わりに減り始め、箱舟は、第七の17日に、アララテの山の上にとどまった。

 ここに、「とどまった」とありますが、これは「休んだ」とも訳せます。まさにノアの名前です。この「休んだ」という言葉は、前に髪が想像の働きを休まれたところに出てきます。そして面白い事に、第7の17日という日時は、キリストが墓からよみがえられた日です。したがって、神が創造の働きを完成させられたように、また、箱舟がその使命をこの日に完了したように、キリストは復活によって、救いの働きを完成されました。

 水は第10の月まで、ますます減りつづけ、だい10の月の1日に、山々の頂きが現れた。40日の終わりになって、ノアは、自分の作った箱舟の窓を開き、鳥をはなった。するとそれは、水が地からかわききるまで、出たり、戻ったりしていた。

 ノアは神から40日40夜雨を降らせるということばを信じていましたから、その後に地上はどうなっているかを確かめています。

 また、彼は水が地の面から引いたかどうかを見るために、はとを彼のもとから放った。はとは、その足を休める場所が見当たらなかったので、箱舟の彼のもとに帰ってきた。水が全地の面にあったからである。彼は手を差し伸べてはとを捕らえ、箱舟の自分のところに入れた。それからなお、7日間待って、再びはとを箱舟からはなった。

 先ほどから「7」という数字が頻繁に出てきます。つまり、7は完全を象徴しています。はとは夕方になって、彼のもとに帰ってきた。すると、見よ。むしりとったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。とうとう、地がかわいてきました。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。それからなお、7日間待って、彼ははとを放った。はとはもう彼のところに戻ってこなかった。はとが生きるような空間がすでにつくられました。ノアの生涯の第601年の第1の月の1日になって、水は地上から乾きはじめた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面はかわいていた。第2の月のに7日、地はかわききった。

 ノアがみた世界は、自分が箱舟に入る前のものとは、劇的に変化していました。神が最初に創られた天と地は、人間や動物に非常に快適な環境でありました。そのため、5章には、アダムとその子孫が900年ぐらいも生きつづけることができたのです。11章にふたたび系図がでてきますが、そこでは少しずつ人の寿命が短くなっているのを見ます。いろいろな意味で、住みづらい環境になったのでしょう。私たちの住む世界はさらに住みづらくなっていますが、主キリストが再び来られる日には、荒野がエデンの園のようになり、砂漠に河が流れて、でこぼこの山は平らにされます。

 そこで、神はノアに告げて仰せられた。「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子達と、息子の妻達と一緒に箱舟から出て行きなさい。」

 これは、ノアに対する3番目の主の命令です。最初は、「箱舟を作りなさい。」次に、「箱舟にはいりなさい。」そして、「箱舟から出て行きなさい。」です。「「あなたと一緒に連れ出しなさい。それが地に群がり、地の上で海、そしてふえるようにしなさい。」そこで、ノアは、息子達や彼の妻や、息子達の妻と一緒に外に出た。すべての獣、すべてのはうもの、すべての鳥、すべての地の上を動くものは、おのおのその種類にしたがって、箱舟から出てきた。」この世に現在存在する動物はみな、このノアの箱舟にいた動物から出ています。同じように、全人類は、ノアの家族から出てきたのです。

 ノアが箱舟から出てきたときにはじめに行ったことは、主への礼拝でした。ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちからいくつかを選びとって、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。

 ノアは、信仰の歩みを一歩一歩たどっていきました。まず最初に、主の御声を聞きました。そして、その命令に聞き従いました。そして、主のみわざを待ったのです。主のみわざが行われたら、最後に彼は、主を礼拝したのです。信仰によって歩む者は、主が自分によくしてくださったことのために、その応答として礼拝を捧げます。主が私たちにしてくださったさまざまなことのために、私たちは口をささげて賛美をし、持ち物をささげて献金をします。さらに、このように自分のたましいをささげてみことばを聞くのです。そして、その礼拝は、全焼のいけにえをささげることによって行われました。前回学びましたように、罪ある人間が神に近づく時、代わりになる命が捧げられなければなりません。ノアはこのことを理解していたので、神は彼を正しい者と認められました。つまり、信仰によって義と認められたのです。

 主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心に思い図ることは、はじめから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生きものをうち滅ぼすことはすまい。地の続く限り、種まきと借り入れ、寒さと厚さ、夏と冬、昼と夜は、やむことはない。」

 主はなだめのかおりをかがれることによって、さばきをくださないことを約束されました。なだめとは、怒りをなだめることです。神の人に対する怒りは、このときなだめられました。そして、キリストは神の怒りを完全になだめてくださる、なだめの供え物です。ヨハネはこう告げました。「この方こそ、私たちの罪のための、私たちだけでなく全世界のための、−なだめの供え物なのです。(1ヨハネ2:2)」そして、この約束は今でも続いています。私たちは今も、4つの季節を楽しんでいます。けれども、その約束の理由が少し変ですね。「人の心に思い図ることは、はじめから開くであるからだ。」となっています。神は、人の心はさばきによって変えられるものではないことを死っておられます。人の心を変えることが出来るのは、神の恵みや慈しみなのです。パウロは、「神の慈愛があなたを悔い改めに導く」といいました(ローマ2:4)

4C 終了 ― 契約 9
 こうして神は、ノアに約束を与えられはじめました。9章には、さらに約束が書かれています。

 それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ、増えよ。地に満ちよ。」

 このことばは以前にも出てきましたね。そうです、神が天と地を創造されたとき、この祝福を動物と人に与えられました。つまり、神は、祝福をやりなおして与えてくださっているのです。

 野の獣、空の鳥、−地の上を動くすべてのものーそれに海の魚、これらすべてのものはあなたがたを恐れておののこう。私はこれらをあなたがたにゆだねている。

 これも、神がアダムへの祝福と異なるものです。アダムの時は、植物だけを食べていましたが、ここでは動物の肉も食べるようになっています。

 しかし、肉はそのいのちである血のままで食べてはならない。

 ここでは、地が、そのいのちであると言われています.わたしたちに血がなければ、酸素や必要な栄養素を体内に運ぶことはできず、死んでしまいます。

 そして、「血のあるままで食べてはならない。」とありますが、動物の肉は食物のためですが、その血は贖いのために犠牲のいのちになるからです。レビ記17章11節には、「肉のいのちは血のなかにあるからである。わたしは、あなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」とあります。ですから、キリストが血を流されたということは非常に大きな意味を持つのです。それが、象徴するいのちがとられたことを意味するからです。「わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟であるものにも、人のいのちを要求する。」ここには、人のいのちの大切さが書かれています。カインはアベルを殺したとき、主は言われました。「聞け。あなたの弟の血が、あおの土地から私に叫んでいる。今や、あなたはその土地にのろわれている。(4:10)」神はカインによってもたらされたのろいを人々にもたらしたくないと願われて、このような掟を定められたのです。

 そして、神は人の血の価を要求する権威を人にゆだねられました。人の血を流すものは、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにおつくりになったから。あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。

 ここから、人が神の権威をいただいて、それを他のひとに執行する、人間の政治が始まりました。パウロは、「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているのです。(ロー、マ13:1)」といいましたが、ここがその始まりなのです。死刑執行制度も、このみことばをもとにしています。死刑の目的は、人のいのちを奪うためのものではなく、人のいのちを他人から守るためのものなのです。

 「神はノアと、彼と一緒にいる息子たちに告げて仰せられた。『さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、あなたがたの後の子孫と。また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱船から出てきたすべてのもの、地のすべての生きものと。わたしはあなたがたと契約を立てる。すべての肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。』」

 神は与えられた約束を繰り返されています。契約は、神の私達への命令とその約束にもとづきますが、さらに、契約にはそのしるしが与えられます。

 さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがた、およびあなたがたと一緒にいるすべての生き物との間に、わたしが世々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲をおこすとき、虹が雲の中に現れる。わたしは、わたしとあなたがたの間、およびすべて肉なる生きものとの間の、わたしの契約を思い出すからだ。大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生きもの、地上のすべての肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」こうして神はノアに仰せられた。「これが、わたしと、地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」

 ここまで何回もくり返されているのは、神はおそろしいさばきの後に与えられた、ご自分の恵みを伝えたいからです。虹は他の箇所でも出てきますが、エゼキエル所1章28節では、イスラエルに下さるさばきの直前に、虹が出ました。これはさばきが一時的なもので、後にイスラエルが恵みと栄光にあふれることを意味しています。また黙示録4章3節では、全世界に下るさばきの前に、神の御座に虹が出ています。この大艱難と呼ばれるさばきも一時的であり、その後にはすばらしい神の御国がおとずれます。そして黙示録10章では、強い御使いあらわれており、これは主イエス・キリストご自身ですが、その頭上には虹がありました。最終的な神のさばきがくだされる前に、イエスがご自分の血によって示された神の恵みが、この虹によって現されているのです。

 こうして契約は結ばれました。それでは次に、ノアの息子3人の話を中心に話されています。箱舟から出てきたノアの息子達は、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この3人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれでた。

 5章からずっと、この3人の名前がくり返し言及されていましたが、それは洪水の後に彼らから民族が分かれ出るからです。この3人が民族の発祥となっています。

 そして次に、この3人にたいする、ノアの預言がかかれています。さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。ノアはカナンの父ハムは、父の裸を見て、後ろにいる兄弟に告げた。それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、後ろ向きに歩いていって、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。ノアが酔いからさめて、末の息子が自分にしてことを知って、言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべとなれ。神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」

 ノアがハムをこのようにのろわれたことは、私たちには理解することがむずかしいです。けれども、その理由を探ってみましょう。その前に、ノアが酔っ払って裸になって寝ていたのは、アダムから受けついでいる罪が彼にもあったことを示しています。神の「女の子孫」と言われた救い主を考えても、エバも、アダムも、レメクも、自分の子に救いがもたらされると考えました。しかし、レメクが慰めを与えると預言したノアでさえ、本物の救いを提供していません。あくまでも、ノアは本物のキリストを指し示す方、つまりモデルでしかなかったのです。罪を完全に取り除き、本当の救いを与える子孫は、まさに、処女マリヤから生まれたイエスです。この方をとおして、初めて神の救いがおとずれるのです。

 そしてノアがハムをのろった理由を見てみたいですが、ハムは父の裸を見たのに対して、セムと、ヤペテは決して見ませんでした。この「見た」というヘブル語は、じっくりと見た、という意味です。これからわかることは、ハムが父親を見下げたことです。このことによって、ノアがハムをのろったのだろうと思われます。また、ハムがした行為によって、なぜカナンがのろわれているのかが疑問です。これは、ノアが単にのろったのではなく、ハムの子カナンから出る子孫が、実に恐ろしい不法や不品行を行うことを預言していたのです。10章を見るとわかりますが、カナンから出た氏族の一部はソドムとゴモラに行っています。これは、後に、その不法な行いのゆえに、神にさばかれています。さらに、カナン人はイスラエルによってその領土を征服されています。当時のカナン人は、赤ちゃんを神々にささげて火で焼くような恐ろしいことなど、不法と不品行で満ち溢れていました。そうした堕落してしまった者達に対して、神は正しくさばかれるのです。そのために、ノアはカナンをのろったと思われます。

 さらに、セムはほめたたえられています。このセムの子孫からアブラハムが生まれ、そしてイスラエル民族が誕生し、そしてキリストがイスラエルからもたらされました。さらに、ヤペテは広げられてセムの天幕に住むようにとありますが、ヤペテの子孫はインド・ヨーロッパ系の人々であり、キリストが来られた後に彼らの中に多くの信者が出てきました。

 次回は、このように神がノアをとおして回復を与えられたのに、その後すぐ人間が反逆する部分を学びます。



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