創世記節 「引き止める神の御霊」

アウトライン

1A ノアの日 ルカ17章26節
   1B 人口増大 1節
   2B 悪い思い計らい 5節
   3B 暴虐 11節
   4B 異常な性行為 2節
2A 永久にとどまらない御霊
   1B 「引き止める」
   2B 御霊による引き止め
      1C 罪の自覚 イザヤ1:18
      2C ノアの説教 2ペテロ2:5
      3C 苦しみや痛み レビ26章
   3B 滅びを望まれない神
      1C 悔い改め 2ペテロ3:9
      2C 神の愛 ヨハネ3:16−17
   4B 必ず来る裁き
      1C 「120年」
      2C 火による裁き 2ペテロ3:3−7
3A 正しい人ノア
   1B 「主の恵みにかなっていた」 8節
   2B 信仰 22節、7章5節、ヘブル11:7
   3B イエス・キリスト 1ペテロ3:20−21

本文

 私たちの聖書通読の学びは、創世記5章まで来ました。第二礼拝では5章から7章まで学びたいと思いますが、今日は6章3節に注目したいと思います。「そこで、主は、『わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。』」

1A ノアの日 ルカ17章26節
 私たちは前回、カインの子孫が文明を発達させながらも、暴虐に満ちていた話を読みました。カインはアベルを殺しましたが、カインの子孫レメクが人殺しを自分の妻に自慢していました。そして、6章はその暴虐が世界に満ちている姿を描いています。そして、主なる神はご自分がお造りになった人がこのようになったことに心を痛め、洪水によって人を滅ぼすようにされました。

 そしてこの神の裁きが、イエス・キリストが再び来られる時も同じようにこの地に下ることを、イエス様がお話しになったことがあります。ルカによる福音書1726節からです。「人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。(2627節)」ノアの時代に世界が暴虐に満ちたように、今の世にも悪が満ち、イエス様がそれを裁くために戻ってこられる、というのです。

1B 人口増大 1節
 ですから、ノアの時代の話を私たちが遠い昔の話のように聞くことはできません。今の世界を見ると、実に当時の世界に似ていることが分かります。まず創世記61節をご覧ください。「さて、人が地上にふえ始め、・・・」とあります。爆発的な人口増加をここに見ることができます。

 当時、全世界が洪水になる前の世界の環境は今よりも非常に良いものでした。創世記5章を見ると、アダムからノアに至る系図がありますが、それぞれの世代の父が「息子たち、娘たちを生んだ」という表現があります。主が「生めよ、増えよ」と言われたように子沢山でした。そして、一人ひとりの寿命が非常に長いです。800歳以上また900歳以上生きています。したがって、仮に一家族に六人の子供がいたとして、アダムから洪水の時までどれだけ人口が増えるか計算すると、137百万人になります。日本国の人口とだいたい同じになっていたのです。

2B 悪い思い計らい 5節
 そして先ほど言いましたように、人々が開発する技術は発達していたのは、まさに現代社会とそっくりです。けれども、人間が科学の進歩と共に道徳的に、倫理的に発達したのかと言うと全然違います。これは私たちがよく知っている通りで、社会問題になっているニュースを見ると、目と耳を塞ぎたくなるような話しばかりです。

 65節をご覧ください、「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」とあります。ノアの時代もまったく同じでした。人の悪が増大しています。けれども、その悪が増大するのは、「心に計ることが、悪いことだけに傾く」とあります。イエス様は、「これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(マルコ7:23」と言われました。前回の学びでカインがアベルを殺したのは、アベルに対する激しいねたみと怒りであったことを読みましたよね。けれども、そうした悪を思いの中で楽しませる媒体については、放置されたままになっています。ポルノを含むあらゆる暴力描写によって、私たちの良心は麻痺し、誰もが実際に行動に移してもおかしくない時代になっています。

3B 暴虐 11節
 それで11節には、「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐に満ちていた。」とあります。暴虐は、必ずしも物理的なものだけではありません。言葉による暴力のほうが、ある意味、物理的な暴力よりも深刻かもしれません。インターネットでは、匿名であることを良いことに、こんなことを人間が言ってよいのかと思われるようなことを平気で書いています。感情に対する自制機能が低下しているように思われます。人に何かを言われるとすぐに怒り、そねむ。そしてそれをすぐに言葉に出す。したがって、私たちは人との接触を恐れ、人との付き合いが希薄になっています。

4B 異常な性行為 2節
 そして戻って2節をご覧ください。「神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。」とあります。この事件については第二礼拝で詳しくお話ししたいと思いますが、結論から話しますと堕落した天使が人間の女を陵辱するという、極めて異常な性行為のことを指しています。

 いまや同性愛は既得権を得るようになりました。きれいごとのようにマスコミは描きますが、その裏側でいかに同性愛者の人々が、性病はもちろんのこと、精神面でもいかに苦しみを負っているかは何も報道しません。そして幼児に対する性犯罪もあります。

2A 永久にとどまらない御霊
 お分かりになったでしょうか、イエス様が戻ってきて、この地を裁く時もノアの日のようだと言われたのは、今が同じようになっているからです。先に読んだルカ1725節には、「ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。」とありました。このように暴虐は満ちているのですが、それでも一般の人々は日常生活も送ることができているのです。ですから、「私たちは何でもない、平気なんだ」と思ってしまうのです。

1B 「引き止める」
 それで主はここで語られています。「わたしの霊は、永久には一のうちにとどまらないであろう。」ここの「とどまる」という言葉は、「争う」とか「奮闘する」と訳すこともできます。または、「引き止める」と言うこともできます。自分に与えられている自由を、悪を行なうことだけに使っている時に、主が私たちの良心を通して、ご自分の霊によって悩ませ、苦悩させ、罪意識を持たせ、何とかしてその悪を捨てるように促してくださるのです。

2B 御霊による引き止め
1C 罪の自覚 イザヤ1:18
 預言者イザヤは、罪を犯しているユダの民に対して、「『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』(1:18」と言われました。神は、罪について私たちに論じてこられます。「そんなことを行なっていたら、あなたは自分自身を滅ぼしてしまう。恐ろしい神の裁きがあるのだ。思いを変えなさい。悔い改めなさい。あなたが自らの罪を認めて、告白しなさい。そしてその罪を捨てなさい。わたしはあなたを豊かに赦す。雪のように、羊の毛のようにあなたを白くする。」と論じられます。

 つまり、福音の言葉をもって神の御霊は私たちと論じてくださるのです。ちょうど相撲をするかのように、「こっちでなければあっち。あっちでなければこっち。」と、私たちが罪を認めるまで奮闘されるのです。

2C ノアの説教 2ペテロ2:5
 実は、ノアは箱舟を造っている間、神の義の道について説教していました。「また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。(2ペテ2:5」洪水が来ると神が警告されて、実際に洪水が起こるまで、ノアは人々に義を宣べ伝えていました。彼の説教を通して、キリストの御霊がそこにいる人々の良心を苦しませ、悔い改めるように引き止めておられたのです。

 けれども私たちは、このように間違いを指摘されると、苦しむのが嫌だから、反発しますよね。あるいは言い訳をします。周りの人々のせいにします。または言い逃れのために、「いや、この悪い習慣は直すから。ぜったい約束するから。もう二度としないと。」と言います。「自分が神の前で罪を犯した。」ということを認めなくないのです。ましてや、自分がキリストを十字架の死に至らしめる罪を犯したなどと認めたくないのです。

 そして開き直ると、嘲ります。説教者や福音を語ってくれる人を嘲ります。これをおそらくは、ノアの時代の人々が彼とその家族に対して行っていたことでしょう。当時は洪水どころか雨も降っていませんでした。それなのに、「天から水が降ってくる」、また「だから箱舟を造っている」と言ったら、「何をほざいているんだ。こういった狂信者がいるから、私たちの生活が脅かされるんだよな。」とあしらうのです。

3C 苦しみや痛み レビ26章
 そしてある時には、福音の言葉ではなく痛みや苦しみを通して語ってくださいます。C.S.ルイスという人がこう言いました。「しかし痛みは、私たちが耳を傾けるように強く主張する。神は、私たちが快楽を楽しんでいる時、囁かれる。良心に対しては語られる。しかし、私たちの痛みに対しては叫ばれる。それは、耳の聞こえなくなった世界を呼び覚ますための、神の目がメガフォンなのだ。(But pain insists upon being attended to. God whispers to us in our pleasures, speaks in our conscience, but shouts in our pains: it is His megaphone to rouse a deaf world.)」と言いました。

 レビ記26章に、モーセがイスラエルに民に対して、偶像に心を傾けることのないよう警告した箇所があります。もし偶像に仕え、神の命令に背けば、これだけの懲らしめがあると語られました。飢饉があり、敵から追い回され、雨が降らず、最後は、敵によって町が包囲されて、連れ去られてしまう。わたしはあなたがたを約束の地から引き抜く。」と言われました。神は、初めは彼らに少しの痛みを与えますが、それで聞き従わないのであれば、さらに七倍の懲らしめを与えると言われて、少しずつ徐々に与えられました。それは彼らが目を覚まして、主が語られていることに耳を傾けるためです。

 このことも、神の御霊が、私たちが自分を滅ぼす道から引き返してくれるように、私たちを引き止めるために行なわれていることなのです。

3B 滅びを望まれない神
1C 悔い改め 2ペテロ3:9
 神がそのように私たちを引き止められるのは、私たちが滅んでほしくないと願われているからです。私たちは神の裁きの話を聞くと、いかにも神が私たちを裁くことを喜んでいるかのように錯覚します。とんでもないことです。エゼキエル書には、このように誤解しているイスラエルの民に対して神が、「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。・・神である主の御告げ。・・彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。(18:23」と言われました。そして使徒ペテロは、「主は、・・・あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(2ペテロ3:9」と言いました。

2C 神の愛 ヨハネ3:16−17
 なぜなら神は私たちを愛してくださっているからです。イエス様は言われました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:16-17」「自分はとんでもない罪を犯したから、自分が神から見捨てられた、神の怒りを受けている」等と決して思わないでください。御子によって救いたいという思いしか持っておられないのです。

4B 必ず来る裁き
1C 「120年」
 けれども同時に、神は、悔い改めない者に対して永遠に裁きを引き伸ばされるのではありません。神は恵み深い方で、私たちの悪に対して忍耐しておられますが、けれども猶予には期限があります。もう一度、6章3節を見てください。「そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。」ここに主が語られているのは、寿命の話ではありません。120歳になって自然死する話をしておられるのではなく、「洪水によって120年後には死ぬようになる」という話をしておられます。

2C 火による裁き 2ペテロ3:3−7
 私たちは、神の御霊という「煩い(うるさい)」方がおられるのは幸いなのです。煙たい人、小言を言う人がいると私たちは、「うるさい」と思います。いつも優しく、自分のしていることを認めてくれて、非を指摘しないでいてくれるほうが気分的にはうれしいのですが、でも聞かなければいけないことを言ってくれるのは、とても嬉しいことです。小言を言ってくる人がいなければ、私たちはとんでもない間違いを犯しても方向転換することができないからです。

 けれども私たちがその警告を無視して、その声を振り払って生きてしまう時に、御霊による「小言」がなくなるときがきます。その時はすでに遅いです。私たちは自由になったと思うかもしれませんが、実は神の裁きを待つしか他なくなっているのです。ヘブル書1026,27節にこう書いてあります。「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。(ヘブル10:26-27

 ペテロは、主と同じようにノアの時代に起こったことは、今も起こることを次のように警告しています。「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。(2ペテロ3:3-7

3A 正しい人ノア
 したがって、私たちは、ノアのように裁きから救われる必要があります。当時、なぜノアとその家族が救われたのかを見てみたいと思います。

1B 「主の恵みにかなっていた」 8節
 6章8節をご覧ください。「しかし、ノアは、主の心にかなっていた。」とあります。この新改訳には出てこない「恵み」が口語訳には出てきます。「しかし、ノアは主の前に恵みを得た。」また新共同訳には、「しかし、ノアは主の好意を得た。」とあります。

 ノアは、神の前で正しくなるために、救われる価値のある人となるために努力したのではありませんでした。初めに、神が彼に恵みを与えてくださいました。恵み、あるいは一方的好意の目で見てくださいました。私たちがしばしば犯す過ちは、神の基準に到達していないことで葛藤を覚え、その基準に達するべく努力するのですが、失敗して、その葛藤をさらに深めることです。

 私たちが、神にあって正しく生きるために絶対に知らなければいけない真理は、「神があなたを愛しておられる」ということです。この確信のある人だけが、神を愛することができます。神に感謝して、神が命じられることを行なうことができるようになります。まず、すべての罪のためにキリストが死んでくださったことを確認してください。神があなたを愛しておられるのです。

2B 信仰 22節、7章5節、ヘブル11:7
 次にノアは信仰を持っていました。22節をご覧ください。「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行なった。」また、75節を見てください。「ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。」ノアは従順でした。信仰によって神に従順でした。洪水どころかまだ雨さえも見ていない時に、神に「箱舟を造りなさい」と命じられたのです。これをただ、神から言われたという理由だけで実行に移したのです。周囲の人々から笑われ者になったことでしょう。 箱舟を造っている間だけでなく、洪水が来る直前の日まで雨の降る予兆がなかったのです。彼らが箱舟に入ったその日に雨が降り始めました。

 けれども、彼は信じました。神に信頼しました。ヘブル書117節にはこう書いてあります。「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。(ヘブル11:7」皆さんは、神の御言葉を信じていますか?そこに書かれていることが、たとえ目で認めることができない事柄であっても信じていますか?

3B イエス・キリスト 1ペテロ3:20−21
 そしてノアとその家族は箱舟の中に入っていきました。この箱舟自体が、彼らにとって洪水の滅びからの救いになりました。新約聖書には、この箱舟はイエス・キリストを表していることを教えています。ペテロ第一32021節です。「わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。

 水のバプテスマは、私たちが神の御霊によって救われたことを表明することです。(バプテスマの日本語訳は「洗礼」よりも「浸礼」のほうが正確です。全身水に浸かるからです。)地上の人々が地上で滅びましたが、私たちは自分の古い人がキリストと共に死に、葬られました。そして箱舟の中にいるノアの家族が救われましたが、同じようにキリストの復活によって新しい人となり、この世の汚れから救い出されました。ちょうど神の裁きがあっても箱舟の中にいて安全なように、私たちはキリストにあって、この世の裁きから救われるのです。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
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